第2話

 月曜日がやってきた。

 重い足を引きずりながら職場に行くと、真っ先に後輩で部下の柏木に声をかけられた。


「主任おはようございます。なんか顔色悪いですけど何かありました?」


 彼は心配そうにこちらを見ている。


 そんなに、顔色悪く見えるのだろうか?自分ではわからないけれど。寝不足のせいかもしれない。

 あれから、不安で全く眠れなかったのだ。


「本当に顔色が悪いですよ?大丈夫ですか?」


 柏木はそう言って私に顔を近づけた。


ち、近い……!


 目をじっと見つめられると、腹の中を探られているような気分になる。

 柏木はよく気が付く上に毒舌だ。水津との事を知られたらバッサリと斬り捨てられるかもしれない。いや、説教どころじゃないかもしれない。


『そんな事があったんですか?酔った世話を部下にさせるなんて、上司として恥ずかしくないんですか?」


 極上のスマイルで放たれる心を抉る言葉が、幻聴として聞こえてくる気がした。

 考えるだけで冷や汗が出てくる。この件は、絶対に知られてはならない。


「いや、なんでもないの。ちょっと体調悪くて、もう若くないから」


 私が適当に年の事を出してはぐらかすと、何か言いたげだったが柏木は「辛かったら休んでくださいね」と、こぼして自分のデスクにむかった。


「な、なんとか誤魔化せた」


 年齢のことを持ち出せば、彼は余計なことを言わない事を踏んであえて持ち出したのだ。これは、自虐ではない。

 ちなみに柏木は28になるが二十歳そこそこに見える。

本人はそれを気にしているけど、私からしたら羨ましい。


「水津くん、おはようございます」


 私は柏木が居ない事を確認して水津のデスクに向かうと、彼は一瞬だけ眉を寄せた。そして、何もなかったかのようにいつもの笑顔を貼り付けた。

 彼はよほど私の事が嫌いなのだろう。

 こうもあからさまなのは、本当に……堪える。理由がわかるならまだしも、わからないのはどうしようもない。


 それにしても、今、睨んだわよね。

 私、何をしたんだろう……?


「あ、おはようございます。小久保さん」


 水津は当たり障りのない挨拶をする。あの日に会ったことなどなかったように。



「あ、あの。金曜日の事なんだけど、本当にごめんなさい。申し訳ないんだけど、何しでかしたのかも覚えてなくて。本当に申し訳ないです」


 何したか覚えてなくても、お酒を断りきれなかった自分が悪い。


「っ……」


 水津は驚いた表情をしながら苦笑いする。私が謝るなんて思いもしなかったような顔だ、

 一応言っておくけど私は謝れない人種ではない。

悪いと思ったらすぐに謝る。


「いえ、飲めないのに勧めたこちらも悪かったですから。少し話がしたいので昼休みいいですか?」


 水津はみんながうっとりとするような笑顔でそう言い出す。

 私はこの笑顔がどうしても苦手だ。悪意という刃を隠すような笑みにしか見えない。今のところ、実害はないが空恐ろしいものを感じるのだ。

 私には嫌な予感がした。

 不安な気持ちを持て余しながら仕事をしていると、あっという間に昼休みになった。


「もう、お昼……」


 私はくたびれた黒色の革のバッグから弁当を取り出した。

 うちの会社は弁当を持ってこない人が多い。節約の為に奥さんが作ってくれる人も居るが。食堂で食べたり、外食したりして社員はデスクには誰も居ない部署だってある。

 ちなみに、私は節約のために弁当を持ってきているのでランチには行かない。

 誰かと食事に行くのは付き合い以外では行きたくない。

誰かと一緒に食事をするのは随分久しぶりな気がした。まだ、相手が柏木なら気が楽だった。

 しかし、相手は水津だ。


「へぇ、小久保さんってお弁当なんですか、家庭的な感じなんですね」


 水津は私の弁当箱を見てそう言った。どこか馬鹿にしているように聞こえた。


「まあ、節約のために、ね」


 歯切れの悪い返事をすると、水津は興味なさそうに「先に屋上にいてもらえますか?」と言って私の返事も聞かずに去っていった。

 取り残された私は、言われた通りに屋上へと向かった。

 人に聞かれたくない話をするなら屋上なら最適だ。間違ってもコピー室を使ってはいけない。


「お待たせしました」


 水津はコンビニで弁当を買ってきて、私に声をかけた。もしかしたら、ランチに行くつもりだったのかもしれない。

もしそうなら、私のせいで昼の時間を潰させて申し訳なかった。


「レシート頂戴。私が支払うから」


「そんな、いいですよ」


 水津が困ったように断るが年上としてここは譲れなかった。


「私のせいでランチに行けなくなったから支払わせて」


「本当にいいですから」


 水津は嫌悪感を滲ませた表情になったので、食い下がっても怒りそうなので渋々引き下がった。


「金曜日の事なんだけど、お店で飲んでから殆ど覚えてなくて。私が奢らせたりとかしてないよね?」

「会計の時に『自分が払う。』って大騒ぎしてましたから」


 水津はその時の事を思い出したのか「『自分で払う』言うような女性とは初めて出会いましたよ」と苦笑いしながら言った。


「そう」


 自分で支払いをきっちりやって良かったのか悪かったのか。

 騒いだのなら、もう、あのお店には行けない。


「本当に覚えてないんですか?」


 水津は疑わしげに私を見る。


「う、うん。ごめんなさい」

「全裸で俺に乗ってきたんですけどね。本当に覚えてないの?」


「は……?え……?」



 私があんぐりと口を開けていると水津は呆れたようにこちらを見た。


「まぁ、俺も溜まってたし。別にいいけど」


 そうか、異様に腰が痛かったのってそういう事だったのか。

 私は変に納得をしてしまった。

 いや、そんな現実逃避いいよ。やめよう。セクハラじゃない。ババアが部下に全裸で股がるって……!

 最低最悪。酷い。想像もしたくない。吐き気すらする。

 ダラダラと汗が出てきた。クビどころか訴訟案件だ。

 静かに私はその場に跪いた。


「本当に申し訳ない事をしました……」


 頭を地面に擦り付けながら私は土下座のポーズで謝る。


「ちょっ、やめてよ。飲ませた俺が悪いし、気にしてないから」


 そう言いながらも水津はとても冷たい目で私を見下ろしているのだろう。見なくてもわかる。


「あの、犬に噛まれたと思って忘れてください」


 何て言ったら良いのかとにかくそう言うしかなかった。


「……提案してもいい?」

「何か?」

「割りきった身体の関係とかどう?こっちで恋人を作るつもりないので」


 びっくりする事が2連続で来ると、思考が停止してしまうようだ。

 つまり、一回寝たけど。『顔を隠せばイケるからセフレになれ』と、そういうことなのだろう。

 私は電光石火の速さで水津の言いたい事を理解した。

 年増の女と寝て水津の汚点になることはあっても、いい思い出になることはまずない気がする。

 しかし、あの一夜の事を持ち出されると私は間違いなく訴えられて職を失う。

 記憶がないなんて政治家のような言い訳は私にはできない。

 今この場で乗っておけば、今すぐにはクビにならないはずだ。

 関係を解消する時に私はクビを切られるかもしれないけれど。絶対に仕事は辞めたくない。

 3年前に全て失った私だが最後に残ったのは仕事だけだった。これを、なくしたらどうしたらいいのか自分でもわからない。

 私は結婚するつもりもないし、彼と関係を持っても何も損することはない。

 それに、どのくらいの頻度で来るかもわからない。

 関係を持ったら少しは対応がマシになるだろうか?そんな打算が生まれた。

 毎日のように嫌味や嫌がらせをされると、精神的に辛いものがある。

 精神の安定のために身体を差し出すなら全然いい。耐えられる。

 水津は私よりも育ちはいいだろうし、病気なんてないはずだ。

 向うは性欲満たすために私に身体を差し出す。私は少しだけ関係がよくなればいい。明らかにおかしいが利害は一致している。割りきればいいだけだ。

 波風たてない人生の為に。

いつか、切り捨てられるんだ。だったら、彼との関係を続けている間に転職先を探そう。


「私でよければ。いいよ」


 私は彼と同じように嘘くさい笑顔をうっすらと貼り付けた。


「……っ」


 水津は少しだけ眉を寄せたような気がした。

 その後、お葬式のような雰囲気の中で一緒に弁当を食べた。何を口に入れても味がしなかった。

 仕事を終えて家に帰ると、私は水津との今後の関係について考えることにした。

 淋しい枯れた女でもいいという綺麗な男が居るんだ。

 セフレの関係で何回か寝ただけで私が変に勘違いして、面倒な事になったら洒落にならない。

 心なんて動かないと思うが、これ以上痛い女になんてなりたくなかった。

 絶対に必要以上のことは話さないでおこう。もし水津を好きになりそうだったら、好きな人が出来たとかなんとか言って関係を解消してもらえればいい。

 私の事は嫌いだろうから一々聞かないだろう。踏み込まない。踏み入れない。

 また、愛する人を失くす苦しみは味わいたくない。

 これは自分を守るためにすることなのだ。と、自分に言い聞かせる。

 私は生活を守る為に水津と関係を持つ。ただそれだけだ。そこに、愛情は必要のないものだ。

 あの日から私は芋虫のように地べたを這う醜い生き物になったのだから、たまには綺麗な蝶と戯れたっていいじゃないか。

 今はこの刹那的な関係を楽しめばいい。

 この関係は水津のお気に入りのセフレを見つけるまでの繋ぎみたいなものだ。そう言い聞かせる。


「人ってその気になれば落ちぶれられるものだね。本当に笑える」


 苦笑い混じりにそんな皮肉が唇から溢れた。

 3年前、澤田と結婚するつもりで、幸せそのものだった自分の姿とはかけ離れている。


「まあ、口先だけで怖気付いて本当は来ないかもしれないし」


 無理に自分を元気付けたが、そう世の中うまくいかないものだ。

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