サンダル

高村 芳

サンダル

 夕暮れどき、夕陽の色に染まりかける空から何かが降ってきた。それは私の頭の上でいちどバウンドし、足元を転がっていった。歩道の街路樹の花壇に転がったその「何か」をのぞきこむ。それはすすにまみれた、汚いサンダルの片方だった。


「うわっ!」


 私はあわてて頭をはらい、スーツの肩まわりが汚れていないか確認した。汚れてはいなさそうだが、なんとなく手でパンパンとはたいておく。営業の帰り、道を歩いていただけなのに、なんで空からサンダルが? 軽いウレタン製のサンダルだからよかったものの、下手したら大怪我だ。私は歩道のそばに建つ古びたアパートを見上げた。三階の左から二つめのベランダに、黒い影が見える。髪が風でなびいており、小柄だったため、それが小学校低学年くらいの子どもの頭だと気づいた。


 あの子が私に向かってサンダルを投げつけたのだろうか? だとしたらひどいイタズラだ。こちとら、部下のミスを謝罪しに行った営業先からの帰りだというのに、散々ではないか。大きなため息をついてから、ベランダから頭だけを出してこちらを見ている子どもをにらみつけてやった。子どもの表情は影になってよく見えなかったが、にらんでいるのに顔を背けず、部屋に隠れもしない。見知らぬ子どもだが、叱ったほうがいいのだろうか。正直、疲れていて三階まで聞こえる声で怒鳴りつける気力もない。そんなことより、会社に帰って急ぎ提案書を作りなおさなければいけない。訪問先の部長に、部下に代わって明日の同じ時間に新しい提案書を持ってこいと言われてしまったからだ。子どもは何も言わずに私をじっと見続けているが、無視することにしよう。心の中で「もうやるんじゃないぞ」と叱りつけながらもう一度にらみつけて、足早に会社への帰路についた。空は暗くなりかけていた。


 昨日と同じ夕暮れどき、なんとか訪問先の部長から判子をもらった帰り道。またしても空から何かが降ってきた。今度は私の目の前の歩道に一直線に落ちた。それは煤にまみれた、汚いサンダルのもう片方だった。


 私がアパートを見上げると、昨日と同じようにぽつんと黒い影がひとつ、ベランダからこちらを見ている。今日は私に当たってないものの、二日連続で偶然サンダルが落ちるわけがない。わざと私にサンダルを投げつけているのだ。にらみつけても、まったく影が動く気配はない。今日はなんとか商談がまとめられて気力も体力も残っている。今日は許さないぞ。サンダルを持って部屋に行って、親にも注意してやろう。鼻息あらく、足元にひっくり返っていたサンダルを拾い上げた。


 ふと、サンダルの底を見た。その瞬間、鼓動が大きく、早まった。私はもう一度ベランダに目を向ける。今日は、子どもの顔がかすかに見えた。顔を背けず、小さな瞳で私をまっすぐに見つめ返していた。もうすぐ夜が夕方を飲み込もうとしている。私は意を決して、スーツの胸ポケットに入れているスマートフォンを取り出した。私の手は震えていた。


 それから数日経ったある日、仕事中に見慣れない番号から電話がかかってきた。急いで休憩所に移動してから電話に出る。児童相談所からだった。電話口の年配であろう女性は甲高い早口で名乗ってから話し始めた。


 先日、サンダルを投げてきたあの子どもは、親から虐待を受けてベランダに数日間放り出されていたこと。いまは児童相談所に保護されて安全を確保しているとのこと。それらを話している間に、あなたのご連絡のおかげです、本当にありがとうございました、と女性は何度も感謝の言葉を述べた。最後に彼女は付け加えるように、あなたの情報は向こうの親御さんには伝わっておりませんのでご安心ください、と締めくくった。きっと、個人情報がバレてないか不安になる人も多いのだろう。正直、私も胸を撫でおろした。


 今でも鮮明に思い出す。拾い上げたサンダルの底に、指で汚れを拭うようにして書かれた「たすけて」の文字。すがるような、小さな瞳。震える手で虐待相談ダイヤルに電話をかけてよかった、と思った。


「あ、あの」


 女性が話し終えたタイミングを見計らって、私は言葉を挟んだ。女性は「はい?」とやっと一呼吸おいた。


「私があの子と話すことはできますか?」


 状況が状況とはいえ、一度無視をしてしまったことを私は後悔していた。さぞ苦しかっただろう。影になって見えなかったが、あの子はどんな表情で、どんな思いで私にサンダルを投げていたのだろう。謝りたかった。


 電話口の女性は「ああ、」と残念そうな声を漏らす。聞けば、私と話すことや手紙を送ることは規則で禁止されているらしかった。


「でも、伝言なら預かって私どもからお伝えさせていただきますよ」

「あ、じゃあお伝えいただけますか……」


 休憩室の窓の外を見れば、空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。私はあの子に伝えたい言葉を一つひとつ口にしながら、あの小さな瞳とざらついたサンダルの触感を思い出していた。

 


 了

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サンダル 高村 芳 @yo4_taka6ra

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