jb_15

「覚えている? あの野良猫のこと」


 私は高校の卒業式を迎えたあの日、陽薫に問いかけた。いつもの校舎。いつもの図書室。いつもの校庭。それを享受する権利は、校門までの歩みと共に失われる。

 彼女はいつものふにゃりとした言葉遣いではなく、抑揚のない冷めた声色で答えた。


「忘れるわけない」


「そう、良かった。これからもどうか心のうちに留めておいて」


「どうして?」


 私は風に揺らぐカーテンの裾をなぞりながら、うっすらと笑みを浮かべた。どんな顔で貴方を見ればよいのか、結局この日まで分からないままだった。


「それは私の想う総てだから。貴方が忘れない限り、私は諦めずにいられるから」


 言葉の一つひとつを咀嚼するように、陽薫の喉がきゅっと締め付けられるのが見えた。


「……夜鶴ちゃんのこと、もっとちゃんと理解できるくらい賢くなりたかったな」


 そう言いながら、彼女は窓枠にもたれかかった。差し込む光に照らされる彼女の頬は、僅かに白んでいた。


「貴方は十分賢いじゃない。私なんかよりずっと」


「そうじゃないの。例えば私は英語とかフランス語とか、色々な言語を覚えたよ。沢山の単語とか慣用句とかジョークとかを覚えても、私は何も創れないの。星新一くらいの長さの物語だって、私には生み出せない」


「生み出せないことが、どうして哀しいの」


 わざと遠回しな言い方をして、それに何故と問いかける。このやり取りはいつもなら私が仕掛ける側だけれど、初めて立場が逆転した。そして聞き手に回って分かったのだけれど、こういう文脈はいたずらに不安を煽ってしまう。どうして、と問いかける事は、想像以上の心理的負荷を伴う。


「私は夜鶴ちゃんと同じ世界を見られないから。視力とか色の見え方とかじゃなくて、例えば街を歩きながら頭の中でどんな景色が弾けているか、とか……伝わるかな」


「何に興味を持って、何に着想を得て、何を記憶して、何を創造するか。そういう事?」


 彼女はこくりと頷き、カーテンを身体に巻き付けはじめた。蓑虫のようにくるまった彼女の背中だかお腹だかがもぞもぞと動く。


「だめ、恥ずかしい」


「どうして?」


「だってこんな真面目な話、私っぽくないじゃん」


「別に良いじゃない」


「うわあー、卒業式っていうプレミアム感に釣られちゃったのかなあ。めっちゃネガティブな事言ってたよね、ごめんね」


「謝るのならそこから出てきなさい。カーテンが皺になる」


 やだあ。白い蓑虫は左右にもじもじと揺れ、すっかりいつもの陽薫に戻っていた。

 私もまた、そのプレミアム感とやらに感化されていたのかもしれない。カーテン越しに、彼女の背中を優しく撫でた。


「貴方はそのままで良い。言葉が全てでは無いのだから」


 ソクラテス曰く、「汝、自らを知れ」。

 ニーチェ曰く、「孤独な者よ、君は創造者の道を行く」。

 私達は幾千年に刻まれた言葉の連なりを繰り返し摂取し、血と肉が涸れ果てるまで欲し続ける。

 命の果てた未来にあっても、言葉は生き続ける。物語は生まれ続ける。


 しかしソクラテスもニーチェも、今は言葉に過ぎない。

 彼らは言葉という枠組みからもう出られない。それは永遠というべき幸福なのか、あるいは喪失というべき牢獄なのか。どちらにせよ、私達はもう言葉以上のものを彼らから受け継ぐ事が出来ない。


 言葉だけがこの世界に残り続けるのなら、言葉こそが最上の価値を持っているのだろうか。この肉体もひと時の感情も、言葉に変換されなければ価値を得られないのだろうか。

 そんなことは無い。私は断言する。この瞬間、陽薫と私が過ごすこの時間は無価値じゃない。言葉にならない感情も表情も、景色も温もりも、すべてかけがえのない祝福だ。

 だから陽薫は、私の隣まで階段を降りる必要などない。二段飛ばしでずいずいと登り続けてほしい。私の手の届かない、悦びに満ちた頂を目指してほしい。

 だから、


「私達は少しずつ別々の方角へ歩いていくのだから、振り返らずに行きたい道を目指してね」


 それは、人生で初めてのラブレター。

 あるいは惜別のカーテンコール。

 ほんの一瞬だけでも、貴方に届けばそれで良かった。



 ――ピンポーン。

 やはり彼女は律儀にインターフォンを鳴らす。私はソファから腰を上げ、玄関口まで歩いてゆく。たらふくは私の顔をちらりと見て、まだ餌の時間ではない事を理解して再び目を閉じた。

 クロックサンダルに足を通し、扉を開く。

 ぱっと笑顔に染まる彼女の顔が見えて、そしてすぐにその色は失われた。私の姿を上から下まで凝視し、大きく口を開いた。


「夜鶴ちゃん、どうしたの」


 ずぶ濡れの幽霊(レイニー・ゴースト)。複合現実ミックスドリアリティに映し出される私の身体を、別のテクスチャで上書きしている。

 今、陽薫の目に私はに見えているだろう。

 私という存在分だけ、四角い白で切り取られている。それがレイニー・ゴーストのとても単純で理想的な仕掛け。冗談のようなこの姿こそが、巡り巡って救済をもたらす灯火になる。


 けれど陽薫は、私を指差してこう呟いた。


「で、でっかいお豆腐……なの?」


 ああ、良かった。

 貴方は貴方のまま、ここまで来てくれた。

 だから私も、誠心誠意手を振るよ。

 貴方にさよならを告げる事で、私の祝祭は完成する。


 ――世界中が祝祭の産声に酔いしれる中で、私だけが空白を抱きしめている。

 かつて悩み続けた一文は、最終的にこう記した。

 ――祝祭に満ちた悠久の境界で、私だけの空白を抱きしめる。


 私もソクラテスやニーチェのように、これからは言葉の中で生きてゆくだろう。私だけの空白を抱きしめて、遠くに聴こえる貴方の声を揺り籠にして。


「ずっと友達でいてくれて、ありがとう」


 私の表情はもう、貴方へ届かない。

 それで良い。それで良いのだから。

 どうか、そんな寂しそうな顔をしないで。

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私の天国は今日も雨 宮葉 @mf_3tent

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