jb_14
私は思い出す。二十歳になり、ようやく自分だけの家を建てられた日のこと。
まず最初に、実家から持ってきた全ての荷物を選別した。いくつもの段ボールが積み上げられたけれど、大半は本だった。紙媒体の本というものはとにかく嵩張るし、驚くほど重い。こんなに小さな媒体なのに、十冊も集まればどんなスマートデバイスよりもずんぐりとした鉛に変わる。
不必要なもの、端的に言えば私の物理的記録に相当するものをまとめ上げ、庭へ運んだ。
レトロなフォトアルバム。忌まわしくも、写真を現像して保管する、という文化はしつこく残り続けている。いずれレンズ型のデバイスを付け、瞬きする間に撮影出来るような時代が来ると言うのに。人々は埋葬された過去を掘り起こさずにはいられないらしい。
私はアルバムを全て燃やした。小学校の写真。中学校の写真。その他、賞状やら手紙やら。アナログなこの世界に存在する、間違いなく存在してしまっているアナログな記録たちを、私は燃やした。
それは生前葬のようにも思えたけれど、若干異なる儀式であると考え直した。私。写真や書類に刻まれた、かつて私に与えられた名前は、この火葬をもって完全に消失する。誰かがネット上に私の名前を残していたとしても、それがどこの誰かを追跡する事はもう出来ない。かつての名前は、いつ変えるかも分からないアナログな記憶だけに残された。しかしそれも時間の問題だろう。人間はどうでもいい事なんてすぐ忘れる生き物だ。
その日は笑ってしまうほどの晴天だった。
そのまま何処かへ駆け出したくなるような、心地良い気温だった。
私は燃え尽きた灰を土の中に埋めた。ここまで埋葬の所作をなぞってしまっては、いよいよ墓標も必要になるかもしれない。取り急ぎ、埋めた土の上に手頃な石ころを置いた。次の日には風で飛んでいるかもしれないけれど、その程度の
家の中に入り、まだ傷一つ無いフローリングを歩いた。どの部屋にも誰もいない。ここには私しかいない。それが何よりも喜ばしくて、スキップでもするように、鼻歌でも奏でるかのように、私は天井から縄を吊るしてみた。輪っかを作り、首に通してみた。椅子を蹴飛ばせば、自らの体重が頚椎にフィードバックされる。酸欠でも血管の圧迫でもなく、頚椎の損傷により人は死ぬ。どうやらそうらしい。
あるいはリストカットの場合、血液の不足により死より先に意識を失う……らしい。地上十メートルから飛び降りた場合、地面に着くより先に本能的な機能により、やはり意識を失う……らしい。
みんなして一度は経験したかのように語り出す。イルカは片目だけ閉じ、脳の半分だけ睡眠状態にしてもう半分は覚醒した状態で泳ぐ。それを左右交互に繰り返す事で、半分の意識を保ったまま睡眠効果を得られる。そういう知識と同列であるかのように、皆嬉々として教え合う。
それは死に関する知識への羨望に見えるけれど、恐らく違う。
皆で聞きかじった知識を集約させて、最適解を知ろうとしているのだと、私は考えた。
どんな死に方が一番苦しまずに済むだろうか。その答えを、誰しもが欲しているのでは無いかと考えた。
けれど私はその反対の答えを見つけ出してしまった。死に対する最適解は未だ不明にして無銘だけれど、生に対する最適解ならば証明出来るかもしれない。
それは物語を通じて伝播する。隊列のように、祝祭のように、整然と並ぶ私の同志たちはパレードの後ろへ続くだろう。
「いつか私を見つけるだろう、シャンパンみたいに光る星のもとで……」
シャンペン・スーパーノヴァを口ずさみながら、私は縄を外した。この行動に意味はない。ただどんな気持ちになるのかを知りたかった。そしてわかった事は、死というものは
私にはきっと、未来永劫選択できない結末だ。
私は空想の世界と同じくらい、このどうしよない現実を切り捨てられないのだから。
――それから五年。あの時ぶら下げた縄は、多分物置のどこかにまだ眠っているだろう。使い道はないけれど、いつか本当に必要となる可能性もゼロじゃない。あとは単純に、どうやって捨てたらいいのか分からなかった。だって縄なんていう存在感抜群な物体を、燃えるゴミで出す勇気なんてなかった。
もしも陽薫に渡したらどうするだろうか。これぞ文字通りの縄跳びだよね、なんて笑いながら二重跳びでも始めそうだ。
くすっ。勝手に想像して笑ってしまった。私の頭の中にはいつだって
ありがとう、陽薫。
貴方がいたから、私も歩き出せるようになったよ。
「皆様、いよいよ明日に新刊が発売されます。そして一つ、特別なプレゼントをご用意しました」
SNSへメッセージを打ち込む。アプリケーションのURLを添付し、続きの言葉を書いていく。
「デコレーションアプリ、スティッキーズにて限定のテンプレートを配布します。書籍の最終ページにあるプロダクトコードを入力し、ご利用ください。使い方は――」
使い方は、物語の結末が教えてくれる事でしょう。
送信ボタンを押すと、次々にブックマークやいいねが追加されていく。演説のように、集会のように、それは波打つ言葉の群れとなって周囲へ広がってゆく。
スティッキーズ。以前に陽薫が教えてくれたアプリだ。複合現実上でデコレーションを楽しめるのが特徴だが、デコレーション用のテンプレートを自作し、配布する事も可能だ。これがまさしく私の計画に都合が良かった。
自作したテンプレートファイルを確認する。ファイル名は、「ずぶ濡れの幽霊(レイニー・ゴースト)」。
雨に打たれながら、雨の慟哭に押し潰されながら、私達は生きていた。その悲しみを、明日ようやく終わらせられるかもしれない。
明日の天気予報は晴れだった。
ならばきっと、素敵な一日になるだろうな。
次々とフォローされていくスティッキーズのアカウントを眺めながら、私は胸の高鳴りを抑えられずにいた。
願いが叶う、その瞬間を一秒ずつ数えたい気分だった。
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