今宵、君と晩餐を
ピギョの人
今宵、君と晩
僕が残業を終え、なんとか乗れた終電で帰った時だった。
「おかえりなさいアナタ! ごはんにする? お風呂にする? それとも……わ・た・し?」
家のドアを開けた瞬間、エプロン姿の女子高生が腰をくねらせて出迎える。
一体どこで学んで来たのか、おたまを片手にいにしえの決まり文句を言う彼女は、妙に艶かしい。
……いやいや、学生相手に艶かしいとか何考えてんだ僕は。疲れてるんだな、ははっ。
「ありがとう、ご飯を食べてからお風呂をいただくよ」
「ふーん、わたしは?」
「えっ? あ、そのー今日も良い匂いだ。うん、いつも助かるよ」
誤魔化すように目を逸らしながら、感謝の気持ちを込めてぽんと肩を叩く。
本当は頭を撫でたかったが、許可なくそんなことをしたらセクハラだと訴えられる世の中だから諦めた。
「お兄さんのヘタレ。いけず」
席に着き、目の前のホカホカと湯気をあげる肉じゃがのじゃがいもを箸で掴む。よく煮込まれたそれは軽い力で崩れ、中まで色が染みていた。
「いや〜今日も美味しいな〜はははー!」
口に入れた瞬間、ダシと牛肉の旨みが詰まった煮汁とじゃがいも本来の甘みが見事に合わさって、心まで温まる一品に仕上がっている。
うん、本当に美味しい。
「当然よ! これでも日中暇だから研究してるんだよ? もう最初のわたしじゃないんだから」
上機嫌にニコニコ自慢する彼女の言葉を聞きながら、僕のために用意された食事を口へと運ぶ。
そういえば初めて出された料理は黒焦げだったっけ。
「さすがだね、上達している」
「ふふん、ご褒美とかくれても良いんだよ? 例えば……」
「あ、あーー早く食べないと冷めちゃうなー!」
彼女が作った料理を僕が食べる。
毎日のように繰り返されるこのルーチン。側から見たら、僕たちはどのような関係に見えるのだろう?
いとこ、兄妹、恋人……
正解はどれでもなく、僕はこの子がどこの誰なのかすら知らない。
一月ほど前、デスマーチを乗り越えた僕が帰路の途中で倒れかけた時、助けてくれたのが彼女だった。
まさかそこから勝手に家へ押し掛けられ、食事の世話までされるとは。
「本当に美味しくて、凄くありがたいんだけどさ、その……君もそろそろ帰った方が……」
「お兄さん」
「ごめん……」
笑顔で凄まれてしまい、何も言えなくなった。
早く家に帰さなきゃ。もちろん僕はそう思っている。
でも何故か、今宵も君と晩餐をとっていた。
*
「こ、こ、こ、これ、どどどこで!?」
「あははっ、こんなに驚いて貰えたなら頑張って探した甲斐あったな」
今夜の食卓に並べられたのは、鯖の味噌煮となめこの味噌汁。そして『団地妻乱れ咲き』なんてタイトルと女体が書かれた本。
「どう? 今晩のオカズは」
「ち、違う! これは僕の趣味じゃなくて友達が置いてったやつで!」
「でも読んだんでしょ?」
「あ、や、それは」
「こういうのが好みなんだ」
「ち、ちがう……違うんだ……」
居た堪れなさすぎて顔を覆う。
今宵君が用意した晩餐は、あまりにも刺激が強かった。
*
またある日。今日も今日とて終電で帰宅する。
ただいまとドアを開けたところ、いつもなら聞こえてくる「おかえり」の声がなかった。
「あれ? おーい」
呼びかけてみても返事がない。
まさか出て行ったのか? とリビングへ上がって行くと、漂ってくるのは親子丼の香り。
——今日は先に寝かせてもらうよ。
どんぶりの隣に添えられたメッセージ。
そういえば、いつも遅くまで付き合わせてしまってるな……なんて、今更すぎる罪悪感を覚えた。
——いつもありがとう。
同じくメッセージを残して、用意された物をいただく。
「うん、美味しい」
柔らかい鶏肉の感触も、ダシが効いた汁も完璧だった。完璧なはずだけど物足りなさを感じていて——
「あっ、そうか……」
今宵は君と晩餐をとれないなんて、と落胆している自分に驚いた。
「うん、もう早く寝よう」
さっと全部かき込んで、流しにどんぶりを置く。そして一通り寝支度を済ませたのち、寝室の扉を開け——
「おかえり」
「へ…………」
目の前に飛び込んできた光景の情報量に、思わずフリーズした。
ピンクのシーツにピンクの布団。ピンクの枕には大きくハートと英語三文字の刺繍。
「ほら。YESだよ、お兄さん」
「ごご、ごめん! 僕はソファで寝るから!!」
*
「ごめん! 仕事が長引いて、帰れなくなったんだ……」
「ふ〜ん。分かったけど、今が何時か知ってるのかなあ? お兄さん」
電話の向こうから一段と低い彼女の声が聞こえてくる。
今の時刻は深夜零時過ぎ。ちょうど終電が走り去った頃。
普段ならその電車に乗っているはずで、僕の帰りに合わせて夕飯を用意している彼女の事だから、今頃すでに作り始めているのだろう。
「ごめん、本当にごめん! 作ってくれたものは明日絶対食べるから! だから——」
「別に怒っていないよ。こうして連絡くれるだけでも成長した訳だし?」
トゲを含む物言いに、彼女が家に居座り始めた当初を思い出した。
あの時の僕はまだ彼女がいることに慣れていなくて、と言うよりすぐに出て行くと思っていたから、次の日にはまた普通に会社に泊まり込みで三日ほど残業したんだっけ。暖かい晩餐が家で待っている事も知らずに。
「うぐ、あの時は大変申し訳なく……」
「だ・か・らぁ、お詫びとして帰ってきたら熱〜いキッスを——」
「ああっ、そ、そろそろ仕事がー!」
僕がそう言うと、電話の向こうからクスクスと笑い声が伝わってくる。
「帰らないのは良いけどちゃんと食べるんだよ。コンビニのお弁当を買ってさ、しっかりチンしてもらって。サラダも忘れずにね」
「……ゼリー飲料で済ませようと思ってたよ」
「だぁめ」
「うん」
手元に用意していたそれを、引き出しの中にしまった。
「電話越しだけど、今からご飯が美味しくなる魔法をかけてあげる。だから絶対絶対買ってきて」
「うん」
——美味しくなあれ♡ 美味しくなあれ♡
「はは、ありがとう」
「じゃあ、わたしは寝るから。おやすみ」
「うん」
おやすみと返して電話を切る。
たった数分の短い会話、だけどなんでだろう。僕の心はじんわりと温まってしまった。
暗いオフィスの窓から、明るい満月を見上げる。言われた通りお弁当を買いに出かけよう。
今宵の晩餐も、君と食べたかったな。
*
毎日毎日終電間際に帰る僕と、料理をして待ってくれる彼女。
日数を重ねるうちに、ようやく僕の心にも余裕がでてきて、お茶くらい淹れて出せるようになった。下手くそと笑われていた腕前も、やっと合格を貰えた今日、僕はついにきいてしまった。
「君はどうして毎日僕にご飯を作ってくれるのかな」
当たり前になってしまったこんな日々が、今更怖くなってしまった。
彼女はただの家出少女で、時折スマホで誰かと連絡しているのを知っている。
いつかは終わってしまうのだ。こんな幸せな時間が。
「これはね、わたしが小学一年生の頃の話なんだけど」
そんな前置きと共に彼女は語りだす。
公園でいつも一人で泣いていた事。
声をかけてくれた『お兄さん』の事。
それからしばらく一緒に遊んでくれた事。
そんな思い出が幼い彼女の救いになった事。
「どう? 納得して貰えたかな、お兄さん」
まとめれば一言で終わってしまうような話だが、彼女は過去の思い出を詳細に、その時の心情と共に話してくれた。
その語りは思わず感情移入してしまうほど上手で、彼女の動機も理解できた。でも、
「一つだけ確認しても良いかな……?」
「何かな?」
「その公園って、この近くにあるあの……?」
彼女は笑みを深め、ただ黙って頷いた。
「僕がこの街に来たのは、三年前からなんだけど」
彼女は表情を変える事なく「バレちゃった」と答えた。
「はあぁぁぁぁぁぁ……」
結局答えるつもりなんてなかったようだ。
一切悪びれる様子のない彼女は、僕の反応を見て可笑しそうに笑っている。
「きいた僕が悪かったよ」
不思議と騙された怒りが湧くことはなかった。彼女が楽しければそれで良いかと、僕は用意された夕飯に手を伸ばす。
「わたしね、今夜ここを出て行くよ」
口へ運ぼうとしたジャガイモが、箸からポロリと落ちた。
「あ、お兄さんが理由をきいてきたからじゃないよ? 初めからそのつもりだったの」
彼女が出て行く?
ここから?
あまりにも唐突な話に、僕の頭の中は真っ白になってしまう。
「今宵はお兄さんと最後の晩餐だからさ」
そう言って彼女は冷蔵庫から、手作りのショートケーキを取り出した。
ウェディングケーキのような装飾が施された純白のケーキ。だけど僕には、そこにツッコむ余裕なんてなかった。
*
慌ててかけ乗った終電に揺られて帰宅する。
だけどドアを開けても真っ暗な部屋。
暖かな匂いも、君の声ももうしない。
冷たく暗い空間は、僕には棺のように見えた。
「はは、これは……」
今宵から君と晩餐をを共にできないなんて、とても耐えられそうになかった。
*
それから僕は社会の歯車として、黙々と仕事をこなす日々を送った。
終電は逃し、会社に泊まる。
ああ、そうだ。どうせ社内に残るなら、ギリギリまで仕事しよう。なんて、君が聞いたら怒りそうだ。
節電の為と消された電気。
他に誰もいないフロア内で、唯一の光源がパソコンの画面。
世界に取り残されたような錯覚さえ、君がいなくなった部屋よりマシだった。
仮眠なんて十分で充分。
手元にはレッドブル。翼を授かり、電子の海へ。
いつの間にか朝日は上り、出社した同僚と交わす挨拶。
朝礼で聞き流す上司の戯言、雑な褒め言葉で動く心なんてとっくに失くしてしまっていた。
生きるために仕事をするのか、仕事のために生きているのか。それさえももう分からない。
世界はまるで白黒で、あの子と晩餐を共にした日々が遠い昔のようだった。
「先輩、いったい何日会社に泊まってるんすか? 目の下のクマ、大変なことになってますよ」
「ああ、うん。このプロジェクトの企画がもう少しで終わるから、大丈夫だよ」
「なーにが大丈夫ですか! 先輩みんなになんて言われてるか知ってます? 会社の地縛霊ですよ! 地縛霊!」
「ああ、うん……」
「ダメだこりゃ。せっかく一時期ちゃんと帰るなと思ったのに、なんでまた——」
心配性な後輩の言葉は、右から左へと通り抜けた。
だって、仕方ない。仕方ないんだ。
仕事が目の前にあって、終わらないんだから。
終わったとしても次の仕事が来てて、仕事があるならやらなきゃいけない。
僕は仕事しか能がなくて、仕事が仕事を仕事は仕事に仕事仕事仕事……
「おい兄ちゃん!!」
「へぁ?」
耳元で響いたがなり声と掴まれた肩ではっと我にかえる。
何処だここはと辺りを見回せば、会社へと向かう一本道のど真ん中。傾き始めた日をバックに、黒ずくめで強面の男三人に囲まれていた。
僕の手にはコンビニの袋があり、レッドブルとサンドイッチが揺れている。
どうやらいつものルーチンで、無意識に遅めの昼食を買いに出てたところのようだ。
「兄ちゃんよぉ、無視するたぁ良い度胸だなぁオイ」
「ぇ、そ、そんなわけでは……」
「あ゛?」
「ごごごごめんなさいっ!」
今にも殴りかかってきそうな男たちに、僕は心底ビビり散らす。
ぼーっとしてる間にもしかしてぶつかってしまった? それでクリーニング代とか治療費とか言って法外な値段をふっかけられて払えなくなった僕は連行されて臓器売買をさせられ……
「ちょっと、そんなに脅さないであげて。お兄さんは小胆なヘタレなの」
最悪のシナリオを思い描く僕の思考を、聞き馴染みのある声が中断させた。
僕を囲った男たちは道を開けるように左右へ避け、そこを見慣れないブレザーで身を包む女子高生が歩いてくる。
「き、君は……!」
小悪魔のように微笑む見慣れた笑顔。
「さ、お兄さん。ご飯食べに行くよ?」
そんなたった一言に僕の心は踊ってしまった。
戸惑いよりも先に、喜びが滲み出る。
それくらい僕は二人で食事をしたあの時間が、恋しかったようだ。
一人に戻ってから約三ヶ月、今宵こそ君と晩餐を!
*
「どうしたのお兄さん。そんなにカチカチになっちゃってさ」
向かいに座した彼女が、不思議そうに首を傾げる。
だけど、僕は心の中で叫んだ。
こんなのカチカチにならない方がおかしいって!!
帰社する途中で声をかけられた僕は、気がついたら高級和食料亭の一室に連れ込まれていた。
ここまでなら少し緊張するくらいで済んだ。
だけど、今この部屋で僕と彼女をその他大勢の黒ずくめの男たちが取り囲んでいる。
どう見ても只事じゃない。
そして、そんな彼らを従える彼女は、只者じゃない。
思えば最初に僕に声を掛けてきたのも黒ずくめの男だったのだから、気づくべきだった。なのに、寝不足で判断力が鈍っていたせいで……
僕が五徹だからついて来たけど、三徹だったらついて来なかった!
「このわたしが迎えに来たっていうのに、お兄さんは嬉しくないの?」
少し悲しみを含んだ口調で彼女がそう言った途端、周りの男たちが一斉に僕を睨んできた。
「う、嬉しいデス! トッテモ、僕、ウレシイ!」
「そう? それは良かった」
彼女が笑えば、周囲の威圧も少し減る。
だけど、怖い……怖すぎる!!
僕がいったい何をしたと言うんだ。ただ暫くの間お宅のお嬢様を預かって毎晩ご飯を……あ、ごめんなさいわざとじゃないです許してくださいコロサナイデ……
「わたしね、家出してたでしょ? あの時は親が勝手に決めた婚約者が気に入らなくてさ。それで怒って家から飛び出しちゃったんだよね!」
婚約者かぁ、やっぱり僕とは全然住む世界が違うと言うかなんと言うか、底辺がお嬢様と関わってゴメンナサイ許して……
「で、たまたま見つけたのがお兄さんだったの。今にも死にそうな顔でフラフラしちゃってさ。この人なら簡単に流されて暫く泊めてくれるだろうなって」
そうですね、そのままお嬢様を帰さずにお預かりした罪で僕は裁かれるんですよね……え、これもしかして誘拐犯として吊るされるやつ? 執行猶予はありますか……ありませんか……そうですか……
「目論見は大成功だったよ! お兄さんってば、見てて可哀想になるくらい社畜で家に帰る事も知らなかったじゃない? 顔色悪すぎてまともにご飯も食べてないだろうしさ。だから家出して暇だし、調教してやろうかなって!」
「ん、ん!?」
「あはは、やっとこっちを向いた。わたしが目の前にいるのに、一人で考え事?」
「ごめん……」
「あのね、わたし料理なんて初めてだから、最初は大変だったんだよ? 何度も何度も失敗しちゃって、なんとか作れてもお兄さんは帰ってこないし」
「ご、ごめんなさい……」
「ううん、それは良いの。何度も何度も教えて、終電でも帰ってくるようになった時は本当に嬉しかったもん!」
「あ、はは、は……」
「特に終電逃して帰れなくなった時、電話してくれた日があったじゃない? あの時はお兄さんの成長を感じて感動しちゃった!」
「う……うん……」
「あ〜こうして思い返すと、わたしってばお兄さんの『夜のお世話』いっぱいしてるね?」
「……は」
その瞬間、室内の気温が冗談抜きで数度下がった。視界の端ではスーツの内ポケットに手を差し入れる男たちの姿が映る。
「ちょっ!! 言い方! 言い方っ!!」
「ごめ……あはは! ごめんごめん……ふふ、ふふっ」
僕は冷や汗で背中がびっしょりだと言うのに、彼女は爆笑しながら「お兄さんサイコー!」なんて、喜んでいた。
もうダメだ、僕はコンクリート流されて海に沈められるんだ……
この世の終わりみたいな顔をする僕を見てどう思ったのか、彼女は真面目な顔になって僕を見つめた。
「お兄さんって推しに弱くて、仕事の容量も悪くて、淹れたお茶も不味くて、良いところほとんどないけれど、わたしはそんなお兄さんを結構気に入ってるんだよ」
あれ、これ僕ディスられて……
「お兄さんがわたしを追いださなかったおかげで、わたしは両親とゆっくり話し合いができたし、お兄さんのお世話を通して自分で色々できる事を証明できた。婚約だって破棄してもらえたし、お家の家業にだって少しずつだけど関わる許可をもらえた。お兄さんと過ごしたあの期間のおかげで、わたしの人生は変わったの」
そう言った彼女の表情は、ビックリするくらい輝いていた。何かを成し遂げた後のような、晴れ晴れしさ。そして、大人の階段を一つ登ったような成長が見てとれる。
「だからわたしもお礼にお兄さんの人生を変えてあげようと思って」
「え」
このまま「良い話だなー」で終われると思った僕が間違いだった。
プレゼントと称して、目の前に差し出されたのは『辞表』のコピー。それも書いた覚えがない僕の。
「おめでとう。この辞表はもう受理されたよ」
「は、え?」
「そして明日からお兄さんの雇用主はこのわたし」
辞表の下からもう一枚。やはり書いた覚えのない契約書が出てくる。
「どうせ会社の下僕だったんだし、このままわたしの下僕になっても構わないよね?」
「えぇええぇ!?」
「またちゃあんとお世話してあげるからさ」
ただもう一度一緒にご飯を食べられたら良いのにと、そう思ってついてきた。
それなのにこの展開はあまりにも急すぎて、感情だって迷子だ。
僕は確かにブラックと言っても差し支えないような働き方をしていたけど、それを不満というか嫌だと思った事はなくて、会社だって辞めたいとかそういうのもなくて。だから彼女の申し出は、嬉しいというより戸惑いの方が大きい。
いや、別に彼女の事が嫌いとかそう言うのは全然ないんだけど、でも——
今宵、君と晩餐を……なんて願った僕が馬鹿だった!
今宵、君と晩餐を ピギョの人 @LuinaRajina
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