空っぽ白色コンプレックス

吉城カイト

空っぽ白色コンプレックス

 高校生活は薔薇色で輝いて、ずっとずっと楽しいものばかりで満ちている。中学校の図書室で読んだ小説は、私にそんな事を教えてくれた。出てくる子たちも皆楽しそうで、キラキラして見えた。同じ部活。熱中出来るもの。好奇心が揺れるもの。

 だから私も高校生になれば、きっとそんな生活が待っている。そう思っていた。


「――いとやむごとなき際にはあらぬが。それほど高貴な身分ではないという意味で」


 黒板にチョークが走る音と重なるように、重低音の声が教室に響く。時計の針も正午に差し掛かり、窓の外からは太陽の日差しが増していく。

 体育の後では疲れもあって、睡魔に負けているクラスメートは多かった。ほとんどが突っ伏している黒い頭で、それでも一番顔が上がっているのは、やっぱりタツガイくんだった。窓側の後方に位置取る私たちの席からは、廊下側の先頭の席にいる彼がはっきり見える。板書と先生に視線を行ったり来たり。手元のノートは見やすい字でまとめられている。

 私のノートは、意味不明な線がくねくねと動きまわっていて、まともな文章に見えない。

 私も知らぬうちに寝ていたらしい。慌てて旅の道程を消しゴムで消した。生まれた消しカスを練って、ひとつの塊にする。変な物体だ。ぐにょぐにょした変な感覚が指先に残る。丸まっていて、形ばかりきれいで、なんの意味もない物体。私はそれを爪で払い落とした。


「これ可愛くない?」

「なにそれチョー可愛い。いつ買ったんそれ」

「彼ピからの誕プレでーす。マジオススメ」

「チョーうらやま。うちも欲しいっす」


 川井さんは隠れて何かを見せ合う。千夏ちゃんはそれにうまく同意してみせる。

 部活をして、素敵な恋をして、勉強でも良い点を取って。毎日が充実している。それを叶えたはずの彼女たちの会話が耳に入る。ぼおっとした頭では惹かれなかった。


「――御局は桐壺なり。と、ここまでが一つの流れになります」


 緩やかな声は耳から耳へと抜けていく。

「兎月さんのみたいな彼氏、うちにもいたらなぁ」千夏ちゃんがつぶやく。

 何を見ても色がない。全てモノクロに見える。どうして私は何もないのか。そんな事ばかり頭の片隅にある。何も考えていない時ほどチラついて、取れない汚れになる。


「ほら、蜜音も見なよ」

「え、あ、うん」

 

 よく落ちる洗剤が欲しいな。

 流れで見せられたスマホには、オシャレな私服をした川井さんと彼氏が映っていた。その一瞬の後でズームされ、いかにもブランドものだとわかるネックレスが映る。銀色チェーンの先端にハート形の囲い、その中に二匹の猫が尻尾を繋いでいる。カップル御用達。私には買えない。無縁だとは思いたくないけど。


「いいね。すっごく可愛い」


 わざとらしくない程度に笑ってみる。返って来たのは「そ」という短い言葉で、スマホは机の下にすぐ仕舞われてしまった。怒らせたかな。言葉を間違えたかな。それともうまく笑えなかったのかな。黒色のマスクを着けている千夏ちゃんは見ているだけ。無言のまま視線が重なる。すぐに逸らされてしまった。

 部活をして、素敵な恋をして、勉強でもいい点を取って。毎日が充実しているはずだった。皆何かに満ちている。私だけこの陰鬱さを隠している。

 誰にも打ち明けられず、誰も待ってくれないままで。


**


 タツガイくんは真面目だ。皆が思うよりずっと真面目だ。

 授業中に寝ている所は見た事がないし、先生に指名されても問題をすらすらと答えてみせる。きっと予習復習も完璧にこなしている。もちろん私たちのように授業中におしゃべりなんてしない。ただ完璧な人だとは思えなかった。

 腹いせのように血眼になって、タツガイくんの何か悪い所を探しているうちに、単に友達がいないのだと気づいた。タツガイくんが特定の誰かといる所を見た事がない。

 教室移動ではさっさと先に行って、一人で本を読んでいる。面白い本なのか、時折クスクスと笑っては、私たちが教室に入ってきた事に気づくと、またいつものすんとした表情に戻る。次第にクラスでは、彼は勉強にしか興味がない人という共通認識が生まれた。

 変わっている。変なひとだ、と思ってしまった。

 だけど、だんだん慣れてくると、彼だけが違うのではなく、彼にしか持ってないものだと考え始めた。タツガイくんはちゃんと色を持っている。

 それからなんとなく、彼の事を目で追う頻度が増えた。それは嫌な視線じゃなくて、無意識の内に見てしまうもので、他の男子とは、いや、クラスメートの誰も持っていない色を持っていたからだった。

 チャイムが鳴ると、クラス委員の号令で一斉に立ち上がる。昼食の時間に切り替わる。川井さんはヘアゴムで髪を纏め直し終えると、

「ね、蜜音。トイレ行こ」スマホをポケットにしまいながら、声をかけてくる。


「私まだ志望大学の紙出してなくて。職員室に行かなきゃで……」

「一週間前に貰ったやつ? あんなの適当でいいじゃん」

「そそーうちらにはそんなのまだまだ先ですよ」

「でも……」


 言葉を濁しても伝わらない。わかっていても最後まで言い切る事なんて出来なかった。川井さんの眉が下がる。私の喉がきゅっと閉じていく。


「でもなに? 言いたい事あるなら言いなよ」

「ごめん……」

「だーかーらー。ごめんじゃなくてさ」


 上手な言葉が見つからない。何が正解かもわからない。昨日妄想した通りに、きれいに笑えないでいる。


「まま、そゆ事もあるし。ほら蜜音さん、用事あるなら先に済ませてきなよ」


 見かねた千夏ちゃんがそっと助け舟を出してくれる。相変わらずマスクの下の表情は読めないけれど、その目は和らいでいる気がした。

 千夏ちゃんは川井さんの肩を優しく掴んで、反転させるようにくるりと押し出す。


「兎月さん、いったん落ち着きなって」

「あ、ちょっ。あたし、まだ話終わってないんだけど!」


 川井さんたちに謝罪すると、不満げな嘆息が聞こえた。


「そういや昨日のオリンピック見ました? ラグビーが激アツだったんだけどね」

「見た! あれはマジ凄かった。うちのパパがはしゃいでたわ」

「あ、兎月さんのパパ、ラグビーやってたんだっけ」


 騒がしい廊下に二人はすぐに溶けていった。

 机の上に視線を戻す。希望進路表と銘打った太字が眩しい。学年とクラスと名前はとっくに書いた。だけど、どうしてもその続きが埋められない。皆はなんて書いたのかな。安心する答えを知りたいのに、どの教科書にも載っていない。

 五分ほどシャーペンは空をさ迷う。逡巡した挙句、私は県内の国立大学の名前を書いた。それが皆の出した正解の中で一番多いと信じて。

 完成しない書類を持って職員室へ向かう。用事を済ませるのにさほど時間はかからないはずだ。教室に戻ってくる人とすれ違うようにして、私は集団を抜けて行く。ニュースで見たラガーマンはこんな気分なのかと考えながら、するすると足を進めた。誰にも捕まらないように抜けていく。ゴール目指して走れ私。立ち止まるな。止まれば、きっと、情けなくて泣いてしまう。今だけは彼らのような強靭な外骨格が欲しかった。

 むわっとした風が頬を撫でさらう。そっと右手で前髪を押さえた。

 教室棟の渡り廊下に差し掛かった時、向こうからタツガイくんが歩いてくるのが見えた。トイレにでも行っていたのか、黒のハンカチで丁寧に手を拭いている。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、目が合った気がした。

 それに正当な理由を見つけられなくて、私の視線は下に逃げた。中庭は木製のブロック椅子が点在していて、そこで昼食を摂る生徒が数人いた。談笑している彼女たちもやはりモノクロだった。

「香川さん」

 すっと通り過ぎようとした時、どこからか、そんな音がした。

 意識を向けなければかき消されてしまうような音。ゆっくりと夏の気配に溶け込むような静かな音。それが私の耳へ入ってきて、知らぬうちに私の足は止まっていた。

「あの、香川さん」

 もう一度聞こえた時は、それが人の声だと理解できた。

 その声がタツガイくんだとわかるのに時間がかかったし、呼ばれた名前が自分のものであると気づくのにも時間がかかった。それほどに予想外だった。彼が話しかけてくるという事に驚いていた。


「な、なに?」


 動揺を隠しながら、私は彼に問い直す。

 タツガイくんはとっくにハンカチをポケットに仕舞い終えていて、何だかよくわからない表情で私を見つめていた。何か用事があるのなら、早く済ませてほしい。苛立ちと焦りが徐々に心のうちに集まって、私の声にそれがはっきりと現れた。気づいたのは、口に出した後だった。


「何か私に用」

「用事ってわけじゃないけど」


 自分から話しかけてきたというのに、すっきりしない態度だ。私には余裕がない。すごめば、彼の口が閉じる事くらいわかるはずだったのに。

「何かあるんでしょ。言ってよ」言うのを抑えられなかった。

 案の定返って来たのは、戸惑いを含んだ疑問の声だった。


「いや、その。香川さんこそ。何かあったのかなと」

「どういう事?」

「いや、香川さんが凄く悪口を言われていたから。気になっただけ」

「誰に」「まあその」


 まあその、って。

 タツガイくんは一瞬だけ言うのを躊躇った。口が開いたかと思うと、ゆっくりと閉じていく。視線が横に揺れた後で彼はボソリと呟いた。

 私はそれを聞き逃さなかった。


「川井さんと、外森さん」


 まさか。

 さっきまで話していた二人の友達。その名前を告げられて胸が痛んだ。鋭く尖っていて、ささくれのように気になって仕方ない。

「大丈夫?」

 そんな優しげな声が耳に触れる。その優しさがとてつもなく痛い。ひりひりするくらい痛い。痛いから跳ね除けたくなる。

「気にしないで。関係ないでしょ」そんな言い方しか出来なかった。

 屈辱と恥ずかしさとモヤモヤしたもので満ちていき、熱が顔に張り付く。足早にタツガイくんの横を通り過ぎた。何も言ってくれなかった。渡り終えた後で、私はこっそり振り返る。ちょうどタツガイくんが教室に入って行く所だった。

 大丈夫かって。そんなに私は危なっかしく見えたのか。変なひと、というかいやなひと。ちょっとだけ腹立たしく思えてしまった。


**


 ホームルームが終われば、教室は喧噪を取り戻す。


「掃除当番の人はよろしくー」


 そう言い残して、先生は一足先に教室を出ていった。部活に急ぐクラスメートがほとんどの中、川井さんと千夏ちゃんは既に帰宅の準備を終えていた。


「あれ、今週って私たちが当番じゃなかったっけ」


 二人は一瞬、なんの事?というような顔で私を見つめ返してきて、その後に二人の間で視線を交わした。何かを共有した間があった。


「えっと、違った、かな」私はすぐに付け加えた。

「いーのいーの。蜜音さんもサボっちゃおうよ。どうせ先生いないし、わかりませんよ」

「そそ。だから、あたしらこの後お店行くけど、蜜音はどうすんの」

「お店って?」

「いやいや、話してたじゃんお昼に」


 川井さんは「なんで聞いてないの」と言いたげだった。思わず謝りそうになる。けれど、私の記憶のどこを探り出しても、やっぱりわからなかった。


「あーほら、あれだ。蜜音さん、職員室行っていたからだ」


 千夏ちゃんが思いついたように、ほわほわした口調で言った。駅までの途中にケーキの専門店があるという。「昨日のニュースでやってたんだけど」そう言いながら千夏ちゃんはスマホで画面を見せてくれた。

 ほへー、と間抜けな声が口から洩れる。今は、私の事を庇ってくれた一言が、なんだかとても嬉しかった。川井さんは私が本当に知らなかった事に納得したのか、「ふーん」と呟く。だけど目線はスマホから動かなかった。「それでさ」とつまらなそうな声が続いた。


「掃除なんて他に人いるっしょ。誰だっけあの人」

「あー勉強オタクの人だ。家が貧しいから勉強してるっていうねー」 

「そうそう思い出した。根暗っぽいメガネの人だ」

「え、うそ。かけてたっけ」

「かけてたかけてた!」

「マジかさすが兎月さん。うち、あんま顔覚えるのは得意じゃないからなぁ」


 千夏ちゃんが手放しで褒めたその言葉に、川井さんは嬉しそうな表情を浮かべた。

 彼女たちが示した人物はすぐにわかった。たぶん、タツガイくんの事だ。わかったのだけど、私は二人の前で彼の名前を出せなかった。すっと言えば良いはずなのに、なぜか言うのを躊躇ってしまった。

 二人が知らない事を、私が知っている。私だけ、気づいている。

 そんな優越感が私の中に芽生えて、それに浸っている自分に気づいて、また嫌な気持ちが膨れ上がっていく。何やってんだろ私。

 川井さんは癖のある毛先を弄りながら、ちらと私の目を見た。


「ほら蜜音も行くなら帰る準備しなよ。行かないなら別にいいんだけどさ」

「私も行く!」


 タツガイくんの事は、別にいいやと思ってしまった。川井さんの透明な笑顔で私の心は満たされる。私の身体はいとも簡単に動いた。


「サボりは一人じゃないから怖くないって」

「う、うん」


 川井さんが言うんだから、問題ない。


「先に玄関行っているから、蜜音さんは後でゆっくり来なよ」

「ありがとう千夏ちゃん!」


 二人は談笑しながら教室を出ていく。私は手を振って後ろ姿を見送る。そんな余裕は無いはずなのに、なぜかゆっくりと手を振っていた。

 私は慌てて荷物をまとめた。教科書がかさばって、ペンケースからボールペンがはみ出たまま、急いで鞄に放り込んでいく。家に帰ってからどうにでもなる。プリント類はそのまま引き出しの中に突っ込んだ。

 掃除当番の事はとっくに私の頭から消えていた。サボった所でバレやしない。もし怒られるなら二人も一緒。大丈夫、一人じゃない。『一人じゃない』という言葉はとても強かった。急ぎ過ぎて体勢が崩れる。それと同時だった。


「ほんっとごめん! 俺たち顧問の先生に呼び出されててさ」


 掃除道具が入っているロッカーの前で、男子二人組が騒いでいる。見るからに部活で汗を流していそうな顔立ち。その空気感に一人、馴染まないタツガイくんが見えた。彼らは一言交わしたかと思うと、喜びを顕わにして飛び出していく。残されたタツガイくんは普段通りだった。少しだけ肩をすくめるのが、私にはわかった。

 鞄を背負い直して、視線を落とす。タツガイくんが何か言うんじゃないか。ドキドキしながら横を通り過ぎる。だけどタツガイくんは何も言わなかった。

 高鳴った鼓動が廊下の熱に流されていく。ゆっくりと、少しずつ。放たれた時間。皆の騒ぐ声が気持ちいい。私も今はその一部だから。階段を駆け下りていくと、私の身体はずっと軽かった。小走りで二人に近づいていく。連なるロッカーが陰になって姿が見えないとはいえ私は。


「ごめん。お待たせっ」


 声を張って、二人に話しかけた。――そのつもりだった。

 いたのは、川井さんでもなく千夏ちゃんでもなく知らない人。顔はわかるけど、名前は知らない。座った姿勢のまま、あんぐりと口が開いたまま。明らかに戸惑った調子で私を見ている。シューズの紐を結びかけた手は完全に停止していた。見ている。見られている。その状態が五秒程続き、はっとした私は、


「あ、いや。ごめんなさい。……間違えました」

 

 裏返った声で謝った。

 私に興味を無くした彼は慣れた手つきで紐を結んで立ち上がった。私はその一部始終をじっと眺めていた。グラウンドへと走り去っていく。残された私は、ふらふらとその場に座り込んだ。


「馬鹿だな私」


 自分でもわかるほどに、声は弱弱しかった。

 部活もしてないし、素敵な恋も出来ないし、勉強でもいい点を取れない。毎日が充実するという言葉は呪いとなって私の身体を蝕んでいる。どれも叶わない願いばかり。ぎゅっと肩を抱くと制服に皺が寄った。


「先に行っちゃったのかな」


 改めて言葉にしてみるとゾッとした。ガラスのハートのように砕け散る感覚。私ってこんなにもろかったんだ。手元にスマホはある。わかっているのに、私の指は器用に動かない。自分以外誰もいない大きな下駄箱の列の中で深呼吸をした。

 こんなにたくさんある同じ形の扉の中から私のものを私のものだと確信して引き抜く時、選んだのではなく選ばれたのだと思えるだろうか。形にならない感情が胸の中をくすぐり、泥のように混ざり合っていく。今は、どうしようもなく、一人になってしまった。その無力さが全身に降りかかっている。

 お昼ご飯も一人だった。

 皆片づけている所で、急いで食べる事ばかり頭に浮かんで全然味がしなかった。ハンバーグもミニトマトも、甘ったるい卵焼きさえも。どんな味だったか思い出せない。川井さんも千夏ちゃんも横にいてくれたけど、二人は別の話題に夢中で、私はそれを聞くのに必死だったんだ。そう思うと、どっと疲れが押し寄せて来た。


「弁当、もう少し味わえばよかったな」


 口にしてみると、その後悔は想像以上に大きかった。

 座ったままの姿勢でもう一度深呼吸をする。ため息に近かった。でもその違いはたぶんなくて、ぐちゃぐちゃな感情を吐き出せるなら、どんな方法でも良かった。

 重い腰をあげて立ち上がる。降りてきた階段を踏みしめるように、一段ずつ上っていく。校内は静寂に包まれていた。しんとした空気が教室から漏れ出ている。

 私は無言で自分の教室に向かっていた。

 長い廊下を歩いていると、ダンとかカツンとかギギといった複雑な音が定期的に響いている。その音はだんだんと近づいてきた。というか、私がその音に近づいていた。

 教室には誰もいなかった――いや、違う。タツガイくんだけがいる。

 ビシッと閉められた窓の向こうから伸びている光を浴びながら、タツガイくんはただ黙って椅子を降ろしている。ダン、カツン、ギギ。その繰り返し。

 一列目から順に隙間を掃いていって、後ろに箒とちり取りをいちいち置いて戻っては、また一個ずつ椅子を降ろしていく。そうやって終われば、また次列の机の清掃に取り掛かる。なんという時間の無駄。

 私が入り口で立ち尽くしているのに気付いたのか、途中で手を止めて私に顔を向けた。無表情に思えるその顔にメガネなんてない。タツガイくんは眼鏡なんてかけていない。


「どうしたのそんな所で」


 淡々とした口調で尋ねてくる。

 黙ったままの私を訝しんだのか、付け加えるように言った。


「なんで泣いてるのかなって思っただけなんだけど」

「別に、これは」


 指摘されて初めて、私は目から涙が零れている事に気が付いた。大泣きしているとか、ほんのささやかな化粧が崩れるほどボロボロ泣いているとかでもない。ちょっとだけ、目の端から一滴垂れて筋を作っているだけ。バレているのに隠したくて、私は思い切り深呼吸をした。胸が膨らむのがわかるほど大きく息を吸い込んだ。教室の匂いが一気に鼻孔をくすぐる。


「なんでもない」自分に言い聞かせるつもりで言った。


 タツガイくんはそれきり黙った。何も理由は聞いてくれない。私に何があったのか、何も聞いてこない。上っ面な「大丈夫?」という心配の声もない。その代わりに作業を止めてじっとしている。私から切り出すのを待っている。


「ほかの人は」


 ならば、タツガイくんの策に乗ってやろう。私からゆっくりと近づいていくと、タツガイくんは驚きを含んだ声で「え?」と問い返してきた。


「だから、ほかの掃除当番の人はいないのかって。掃除、ひとりでやっていたの?」

「男子二人は部活で用があるからって。女子はまあ、その」

「そっか」


 相変わらず煮え切らない返答だ。ごまかした内容を知っている私にさえ、タツガイくんは言おうとしない。私はロッカー内からもう一本赤シダの箒を取り出す。


「え、えっと香川さん。なにを」

「なにって掃除。ささっとやらなくちゃ帰れないでしょ」


 椅子の音の代わりに、時計の長針が動く音が響いた。


「押し付けちゃってごめん。私もちゃんとやるから」


 その言葉は、思ったよりもすっと出てくれた。噛む事もつっかえる事もなく流れていく。目は見られない。申し訳なさと気恥ずかしさとで、紅潮した顔を見せたくない。頬が熱い。自覚している以上に、たぶんずっと真っ赤になっているだろう。

 それでも気持ちが伝わっているのかは確認したくて、こっそりと横目でタツガイくんを覗き見る。一瞬だったけど、ちゃんとタツガイくんは私の方を見てくれていた。


「ありがとう香川さん」

「ありがとうって。私だってタツガイくんと同じ掃除当番だよ」


 ちょっとだけ意地悪な気持ちが、タツガイくんに何かを言おうとさせる。


「さっきの方法じゃ一生終わんないよ」

「そうかな」「そうだよ」


 二人とも作業に集中する。必要な会話以外は敢えて口にしなかった。黙ってごみを集め、椅子を下ろしては整列させる。十分も掛からない。私たちはごみを捨て終えると、道具をロッカーに閉まった。


「これで終わりかな」


 まっすぐに伸びた黒髪を指先で掻きながら、タツガイくんはそう言った。


「早く終わって良かった。もっと時間がかかるかなって思っていたから」

「じゃあ部活、行かなくていいの」

「僕は帰宅部だから」


 聞けば図書室で読書か勉強をしているという。テスト期間でもないのに勉強をしようとは私には思えない。テストの点を必死にあげる努力も出来ない。


「一年の頃から勉強して良い大学に行きたいんだ」


 どうしてと問う私に、タツガイくんは少し照れくさそうに続けた。


「勉強ばかりしていると、馬鹿にされるんだけどね」

「そんな事ない!」

「え?」

「あ、いや……。勉強して馬鹿にされるなんて変だから。私はカッコいいと思う、から」


 自分でも驚くほどの声が出て、なんだか急に恥ずかしくなって、何を言っているのかもわからないくらい小さな声になる。

 気まずい沈黙。口の中が渇いて何度も喉が鳴る。うるさいくらいに響く心臓がタツガイくんにバレないか必死だった。自分の鼓動を数え始め、五十を超えたあたりで、んんっと、タツガイくんが咳払いをする。わざとらしい使い方だ。


「僕らはたくさんの言葉を知っているくせに、上手な使い方を知らない。だからよく間違える。使わない引き出しは埃をかぶって見えなくなる。どこにしまったかも、どうやって開けるのかも忘れてしまう」


 よくわからなかった。


「さっき、どうして勉強するのかって聞いたよね」


 私はこくりと首を振る。静かに、とても強く口調で、

「僕は医者になりたいんだ」夕日の光に霞まないほど、まっすぐに伸びた瞳だった。


「頑張って勉強して奨学金を貰って、弟たちの学費を助けてあげたい。死んだ父さんの分も一人で頑張っている母さんの事を助けてあげたい」


 何一つ嘘のない言葉だと思った。タツガイくんが話し終わって数秒待ってから、私はいくつも心の中で考えていた言葉のどれでもない台詞を口にしていた。


「頑張れるものが一つでもあるのは、私はカッコいいと思う」


 何か繕った言葉じゃない、私の中にある言葉を。伝えたい。


「ちゃんと香川さんみたいに、ちゃんと引き出しを開けると忘れなくなる。言葉にしてくれると相手も嬉しくなる。良い事だらけだ」

「つまり?」

「……えっと。ありがとう、です」


 ずいぶんな回り道に苦笑する。やっぱりタツガイくんは変だ。彼は唇を横に開いて白い歯を覗かせ、右手の指先で軽く頬を搔いていた。

 部活をして、素敵な恋をして、勉強でもいい点を取って。毎日が充実しているはずだった。その三か条は私には程遠い。それでも、今は別にいいと思った。

 なんだか変な感覚が全身を包んでいる。だけど、それすらも心地よい。

 変だけど好きだと思った。

 私はタツガイくんと並んで教室を出た。微妙に違う歩幅のせいで、ちょっとだけ私が早足になる。それを見越してか、タツガイくんは階段を降りる時は妙にゆっくりだった。私はふと、彼に聞いてみたくなった。


「ねえ、タツガイくんの苗字ってどう書くの」

「干支の辰に、貝殻の貝。まあ普通の字だね」

「いいじゃん。名前は?」

「智白。明智のちに白色でともあき」

「珍しいね」

「よく言われるよ」カラカラとした笑い声だった。

「笑った所、初めて見たかも」


 本当は何度も見た事があった。けれど、正面から見ると全然違った。

 ちゃんとタツガイくんの笑顔にも色があった。どんな色と混じってもキレイになる。透明でもなく、いつでも同じ色を持っている。消しゴムに似た、そんな白色を。


「ねえ、名前」


 私は一拍置いてから呼吸を吐き出した。


「智白くんって、呼んでもいい?」


 掠れたかもしれない。辰貝くんは、すっと空気を口に溜めて言った。


「お好きにどうぞ」

「お好きにって。なにそれ、変なの」


 窓から吹き込んだ風がスカートを揺らす。ひだが太ももを擦った。ちょっと涼しいし、ちょっとこそばゆい。この会話を後になっても、何度も思い出せる気がする。

 やっぱり、私にとって智白くんは変なひとだ。

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