第60話 貴方だけのピアニスト

 来週には2学期の始業式がある。夏が終わろうとしている。


 いつもより早い時間に1人で夕食を取り。多少念入りにお風呂に入って。そして日課となっている諸々のケアをやってから、浴衣をクローゼットの奥から取り出す。


 去年と今年の『七夕』に着たサファイア・ブルーのアジサイの浴衣。今年だけで見れば2度目の登場だ。正直、8月末にアジサイはどうなんだ? と思う内心もあるけれど、他ならぬ最愛の相手からのご指名なので否と唱えるつもりは毛頭なかった。


 袖を通す前に、まずはベースメイクから。浴衣を着てから大掛かりなメイクをすると浴衣を汚してしまう危険があるので。とは言ってもナチュラルメイク以上のことをするつもりは無いけれども、それでも学校用のよりかは明らかに気合が入っている。


 また同じ浴衣を汚したくない理由でヘアセットも、その次にする。ひなのさん好みの髪型って、いつも通りの特に結んだり縛ったりしないやつだけど、ちょっと浴衣との相性が良くないので悩む。

 色々考えて取り出したのは、去年の文化祭のときに購入した330円のメタリックなポニーフック。これとヘアゴムで、久しぶりに髪はローポニーでまとめてみる。

 このくらいだったら浴衣を着た後でやっても良かったかもなあ。結局、ひなのさんは髪についてはあんまり手を加えない方が喜ぶのだよね。


 と、ここまでやってから浴衣に袖を通す。浴衣の下には着崩れ防止に使う和装用の肌着以外にも色々発汗対策グッズを仕込んでいるが、これだけは本気でひなのさんに見られたくない部分である。

 ひなのさんも女子だから『仕込み』について理解はあるけれども……ねえ?


 最後に、浴衣を着てみての全体のバランスを考慮して、メイクの微修正と仕上げを行う。プロだと浴衣を着てからベースメイクとかヘアセットも出来るけれども、初詣のときに訪ねた着物レンタルのお店とか美容室レベルのスキルは必要で、流石にそこまで自分のメイクセンスに自惚れてはいない。

 ここでやることと言えば、アイシャドウを軽く入れたり。そのほかには、リップを。先にグロスから入れて口紅は後にして、ちょっとマイルドに控えめにしておく。



 ……ここまでの準備に大体1時間弱。本当に今更な感想だけれども、この作業が、ただ1人に会うためだけにやっていると思うと、ちょっとくらくらしてくるね。

 出かける準備で同じくらいの時間をかける経験は正直いくらでもあるけどさ。『外に出るから』とか『友達に会うため』みたいな理由とは全然別物だ。愛する人たった1人のための準備、というのは中学までの私にはどこか遠い世界の話でしかなかった。


 そして、きっと。

 ひなのさんもまた、私のためだけにもっと綺麗になろうと努力をし続けているし、準備には時間をかける子だ。主に私のことをからかったり、あざといムーブをするための仕込みなんだけども、それでも私のことを想ってやっている行為なわけで。



 スマートフォンの時計を見ると予定していた時刻が近付く。日が傾き太陽が地平線に落ちつつあるのを自身の部屋の窓からちらりと一瞥した後、私はひなのさんから事前に言われた今日必要なものの準備だけを手に持って、彼女の部屋へと向かった。


 屋内移動だから下駄は履けないので、素足にスリッパ、という出で立ちで。

 夕ご飯の時間をずらしたこともあり、寮の生徒たちの多くは食堂へ行っている時間。だから、ひなのさんの部屋にたどり着くまでに、誰とも会わなかったことは偶然などではなく、必然であった。



 部屋のドアは軽く3回、こんこんこん、とノックする。

 中から『とててっ』と狭い歩幅で小走りするような音がした直後に、ドアはか細く開かれた。



 ひなのさんは、そこからひょこっと顔だけ出していたが、それだけでも大分おめかししていること、そしてもう既に夕焼けに負けないくらい真っ赤に染まっていることが分かった。


「……明菜、まあ、うん……あの、えっと……とにかく、入って――」


「え、あっ……! ……うん」


 湖水浴の一件から、最近はへたれなひなのさんの耐性が出来ていたと思ったが、しかし今日のひなのさんは、いつにも増してしどろもどろだ……ってことに思いを馳せた瞬間、私は気付いてしまった。


 ――この子。お互いの関係に慣れてきた今になっても、尚。

 緊張するようなことを今日、計画しているんだ。



 その感覚は私にも伝搬して、ちょっとぎこちない感じで、ひなのさんの部屋に入室したのであった。

 ……ここから完全消灯時刻までは決して出ることは無いんだろうな、と思いつつ。




 *


「……やっと2人きりの場所で、明菜の浴衣姿が見れた。

 最初のときから、ずっと思ってたけどさ。ホントにこういう落ち着いた色合いって明菜にすっごく似合うよねっ! ……ってか、あれか。合うようにいつもと違う感じにセットしてきてるもんね? 髪もお化粧も」


 ひなのさんは、持ってきた荷物を座卓に置いた私の両手を取ってぴょんぴょん跳ねるように私の良いところを褒めてくれる。いくら周囲に私への好意を隠さなくても良いひなのさんであっても、それでも公衆の面前でこの熱量で褒めることが今まで出来なかったのは多少なりとも鬱屈とさせていたのかもしれない。

 だから、私も下手に誤魔化したりはせず。真正面からその称賛の言葉を受け止める。


「……ありがと、ひなのさん」


 そうしたら、ひなのさんは目元を細めて笑ってから一度手を解き、そのまま私のローポニーを優しい手つきで正面で向き合いながら手に取った。


「……嬉しいな。このポニーフックってさ。去年の文化祭のときに一緒に買いに行ったやつでしょ? ちゃんと、こういう場面で思い出の品をしっかり使ってくるところは……やっぱり明菜って、ずるい」


 ひなのさんは高々330円のポニーフックを宝物のように撫でる。

 しかし、このひなのさんの物言い・・・には、私も反論があった。


「ずるさで言ったら今日のひなのさんがトップクラスだと思うけど?

 ……なんで、私に何も言わずにひなのさんも『浴衣』を着てるの!?」


 そう。彼女が着ていたのは『七夕』のときと同じ薄桃色で花柄の浴衣であった。私に浴衣を指定してきた時点で、全く考えなかったわけではなかったものの、とはいえひなのさんのその浴衣は自前のものではなくレンタル品であったことから、着てこないだろうと高をくくっていたのだが、予想が外れた。彼女はわざわざ着物レンタルをしてまで今日という日に臨んでいた。



 髪型もウェーブがかったふんわりとしたパーマで、七夕のときよりもちゃんとセットしてあるところを見るに、もしかしたら自前ではなくレンタルのお店でヘアセットまでやってきた可能性がある。


「……まー、意趣返しってのはあるかなっ! 去年の七夕で急に浴衣を着てきてびっくりしたお返しと。

 あとは、明菜に振り回されてばっかりだから、今度は私が明菜のことを驚かせてやろうって、ね!」


「その理由は、私がクリスマスのときに話したやつだね」


「そ! だから意趣返し!」


 つまりは、私が去年の七夕でやったことをそのままやり返したって魂胆なのだろう。言われてみれば、あの時もひなのさんは『浴衣を2人で着る』ことにこだわっていた言葉もあった。

 そういうところからも、私1人だけが浴衣を着る場をひなのさんが用意しないと見るべきだったのだろう。



 ……で、あれば。

 それなら私が『意趣返し』するのだって、別に反則じゃないよね?


 私は、ひなのさんの銀色ウェーブの髪先を優しく撫でつつ、話す。


「……私だってさ。七夕のときに、ひなのさんのことを褒めきれなくて消化不良だったんだよ?」


「……へ?」


「いつものショートボブも良いけど、ふわふわもこもこが好きなひなのさんには、このふんわりした髪も似合うよね?」


「……えへへ、そうかな?」


 私はそのまま髪を触っていた右手を口元へ。


「……いつものデート用のグロス。今日は下唇に重点的に付けているんだね」


「んんっ……だから、口のちかくをゆびで触っちゃ、あ……」


 そのまま首元をかすめるようにして、最後にひなのさんの胸元辺り……浴衣の生地を触る。


「……やっぱり、薄桃色のチョイスは『私とひなのさん』って感じがするよね?

 お互い1人だったら絶対選ばない色。……だけど、相手のためにだったら、お互い選んじゃうこともあるんだよね。

 うん。……ひなのさん、浴衣も貴方も……とっても可愛いよ?」


「あ、明菜っ……」



 日が落ちて。カーテンの閉ざされたひなのさんの部屋、クーラーがかかっていて涼しいその部屋で。

 私は両手をゆっくりと広げて、彼女に目で合図を送ると――おずおずと、といった様子ではあったが、ひなのさんは正面から身体を預けてきた。

 それから5分くらいは、そのまま抱き合っていた気がする。




 *


「……アイスコーヒーで良い? 1リットルの紙パックで買ったやつが美味しいけど、ちょっと量が多くて……。明菜にも飲むのを手伝って欲しいんだよね?」


「別に良いけど……どうしてそんな大容量のものを買ったの……」


 抱擁からひなのさんを解放した私はひとまず、彼女のベッドを背に座卓の座布団に腰掛ける。……もはや、当たり前かのように座布団は座卓を挟んだ対面ではなくゼロ距離の真隣に置いてある。これが今の私たちの定位置。


「夏だからこれくらい飲めるかなー、って思ったら見通しが甘かった!

 明菜、砂糖とガムシロップどっちにする? 無糖なんだけど」


「どっちもいらないかも。……もう充分甘いでしょ、私たち?」


「……まー、そうだね。じゃあ、私も今日はいいや」


 そのままひなのさんはお盆を持ってキッチンから部屋に戻ってくる。なお、このお盆は『大文字』のときに口を付けたお盆である。

 ひなのさんはコーヒーに砂糖などの甘味を入れるのは割とこだわりが無いようで、気分次第で入れたり入れなかったりする。もしかしたら法則性があったりするのかもしれないが、少なくとも私には分からない。



 そして座卓に置いたひなのさんのお盆には2つの細長いコップと、アイスコーヒーの紙パック、そしてステンレスの小さなバケツのような容器が置かれていて。バケツの中には氷がたくさん入っていて、アイストングも刺さっていた……が。


 それらと比べると目立ちはしないがお盆の中にひっそりと鎮座するものを見て気付く。

 そこにはストローもあった。冷たい飲み物だし、ストローくらい出すというのはそうなのかもしれないが、けれどもこれは――。



 ……多分。口紅やグロスを付けたままでも、飲めるようにって配慮だ。

 いつもは温かいコーヒーやら紅茶やらを、ひなのさんの部屋で飲んでいたのに、今日だけわざわざアイスコーヒーなのも。

 紙パックで買って、量が多すぎるという話も。

 あるいは夏だから冷たい飲み物だっていうのも。


 全部が全部、事実ではあるけれども、それすらも隠れ蓑で、本当は。

 いつもと違うメイクをしている私たちだから。それが落ちたりしないようにって計算の上での行動なんだ、きっと。


「……ひなのさん、やっぱり優しいね?」


「……。

 またまたー、飲み物出しただけだよー?」


 わずかな間があったことから、ひなのさんは私の発言の真意に気付いて意図的に呆けたことは分かった。



 そういうリアクションを取るなら、私もそのまま話を流すことにして。ストローに口を付けてコーヒーを飲む。酸味と強めの苦味が口の中に広がる。思えば紙パックのコーヒーは初めて飲んだかもしれないが、想像以上にしっかりとコーヒーしているというか、はっきりと強い味わいでありながらも、奥深さもある。


 ……考えてみれば、普段からコーヒーを好んで飲んでいたひなのさんが選んだ商品ではあるから、間違いはないのかも。どちらかと言えば紅茶派な私だが、コーヒーが嫌いというわけではないので、そのまま口を付けて喉を潤す。


 ふと、隣に座るひなのさんの方を見れば。彼女もまた同じように、その質感のある唇をそっとストローに付けて、ちびちびとコーヒーを飲みながら私のことを盗み見するかのように見ていた。


「……ひなのさん?」


「へ、え、なに?」


「いや、何か見られている気がしたから……」


「え、別に? ……そんなに見てた?」


「見てた見てた」


 慌てるひなのさんが、思わずといった感じで離したストローには……ほんの少しだけ口紅の色が移っているように見えた。




 *


「で、ひなのさんが『準備して』って言った物はちゃんと持ってきたけど。

 これで、何をするつもりなの? 正直、浴衣とも花火とも関係があるとは思えないんだけど」


 私は座卓の隅に置いた自分の『荷物』を流し目で見ながら尋ねる。



 ……それは、私物のタブレット端末で。気が向いたときにお絵かきするためにも使っているが、普通にネットにも繋げるタイプのやつだ。

 そんなアイテムを持参させたということは、一緒に絵でも描くのだろうか、と思ったが、しかしそれなら浴衣という格好は珍妙極まりない。



 ひなのさんはゆっくりと回答を告げた。


「花火大会も、手持ち花火も、線香花火ですらグレーゾーン。でも明菜は寮の規則も市の条例も絶対に破ろうとはしないから、強行するって判断はしないだろうと思ってさ……だから、タブレット。

 ――つまりさ。オンライン上のアプリでやろうよ、線香花火。なるべく雰囲気を近づけて……ね?」


「……そういうことか。

 『部屋キャンプ』みたいに、『部屋花火』ってワケね」


「そーいうことっ」


 それから、ひなのさんが説明するには。

 どうやらネット通信で線香花火だけをやるアプリってのが存在するらしい。それもゲームって感じの絵柄じゃなくて、結構リアルテイストな線香花火を。世の中って広い。


 これをお互いのタブレットにダウンロードして。それぞれが別プレイヤーとして1つずつ線香花火を持ちながら、疑似的に『部屋花火』を楽しむって算段のようだ。


 しかも、それだけなら別にいつでも出来たことだから、ひなのさんはわざわざ『浴衣』を着てくるようにして、特別な思い出感のあるようにちゃんとムード作りを徹底してきている。


 それは、アプリのダウンロードが終わって、初期設定を終えた後のひなのさんのセリフにも集約されていた。


「……じゃあ。クーラーも切って、窓開けちゃおっか。

 それで、部屋の電気も消してさ……『部屋キャンプ』のときに使ったランタンの灯りにしよ?」


「良いよ。そうしよっか」


 今日のひなのさんはぐいぐいと攻めてくれるから、私もちょっと嬉しくなって即答してしまう。夜とはいえ、まだまだ残暑が厳しく蒸し暑い。にも関わらずクーラーを切ってしまえば、いくら窓が開いていても汗ばむのは間違いないだろう。しかし、ひなのさんが言ってきたことなのだから、彼女もそれはもう織り込み済みで覚悟しているっぽい。



 そして。

 部屋の気温が徐々に上がっていく中……、座卓に置かれたLEDランタンの淡い光と、すぐ近くで隣り合っている2つのタブレット画面のブルーライト――その3つの光源だけが照らす、ひなのさんの部屋で――私たちだけの『部屋花火』が始まった。


 とりあえず『大阪』サーバーってのが一番ここから近そうだったので入ってみる。別に所在地に近い場所を選ばなくても良いみたいだが。現時点では、他のユーザーが利用していないようだったので、2人で京都に居ながら『大阪』へ入る。


「おー、思ったよりも雰囲気あるねえ」


「……言い出したのはひなのさんでは?」


「そうだけどさ。友達とわいわい遊ぶのと、色々準備して明菜と2人でやるのは全然感覚違うもん」


 タブレット端末の画面に映る2本の線香花火は、少しずつ火花が上がっていき短くなっていく。しかし、その時間はとてもゆっくり過ぎていて。


「……あーきなっ」


「なあに、ひなのさん?」


 ひなのさんは私の肩に頭を乗せながら聞いてくる。


「……今年の夏は、楽しかった?」


 ――思えば、色々なことをしたと思う。

 夏季セミナーではひなのさんが倒れたけれども何も出来なかった。だから、少しでも安心できるように、と制服を交換した。

 琵琶湖に泳ぎにも行った。そこでは一緒に日焼け止めを塗ったり、シャワーを浴びたり。

 古本まつりと下鴨神社。そこでは縁結びのお願いを本格的にやって。

 突発だったけれども、2つの美術館への訪問で。ひなのさんとの心の距離は更に近付いたような気がした。

 そして京都の大文字も、これはほぼ友だちとしてだったけど、それでも一緒に見ることができた。

 そのほかにも、色々ご飯屋さんにも行っていて……まあ、それを一言で表現するのならば――。


「――最高の夏休み、だったよ。ひなのさん?」


「……それなら、なによりっ!」


 タブレットの光に照らされているひなのさんの所作は、どこか照れるようなはにかむような感じでもあったが、でも本当に嬉しそうで。


 ――ああ、私はひなのさんと一緒に居れて。今、こうして隣に居るだけでも……。うん、月並みな言葉だけれども、すごく幸せなのだと噛み締めるように思った。



 ひなのさんの線香花火の火の玉がぽとりと落ちて、新しい花火が出てきたので、私の花火の火を分ける。

 それとともに、ひなのさんは自身の左手の指を、私の右手に絡めてきた。



「……思えば、付き合い始めた頃はひなのさんは手もまともに繋げなかったのにね? 今じゃ、貴方から恋人繋ぎもしてくれる――」


「そりゃあれから結構経っているんだから出来るって! ……ってか付き合いたて、というより付き合う直前もそうだったけどさ、明菜が堂々としすぎなんだってば……」


「……だって、ひなのさんから愛されたいですし?」


「……っ。そういうとこだよ。ホントに、さ」


 ひなのさんは私の指をもっと確かめるように、絡めた指を動かす。

 もう片方の手は画面上でずっと隣り合った場所にある線香花火をタップできる場所において。


「ひなのさん。顔……赤くなってるねっ、ふふっ」


「……明菜のせいだもん」


 ひなのさんは動揺で線香花火の火の玉をまた落としてしまって、もう一度私の火を分けてあげることに。

 その画面上の操作にちょっとだけひなのさんが意識を向けた隙に、私はもう少し推し進めることにした。


「――じゃあ。私が責任を取って。冷やしてあげなくちゃ……ね?」


 私は座卓の上に置かれた小ぶりのバケツにあるアイストングで、氷を1つだけ取って……自身の口に入れる。


 そして、その状態でそのまま――ひなのさんの左耳に息を吹きかけた。


「――ぁっ……ひゃうっ!

 その、つめたいの……」


「イヤだった?」


「……知ってるくせに」


「うん。……ひなのさん、これだーいすきだもんね? 湖水浴のときに、氷を含んでするって約束だったのに、今までやってなかったから。

 どうだった?」


「……おしえない」



 その反応の時点で、大体答えみたいなものだけれども。

 ――私たちの線香花火は、どちらも既に消えていた。




 *


 一旦、今の『大阪』のサーバーから退出すると、別の部屋に人が居るようだったので、そちらに参加してみる。仕切り直しということで、ひなのさんも私もアイスコーヒーをストローで飲みながら、画面が切り替わるのを待った。


 そして結構な人数が集まっていたようで、先ほどまでの2人きりで静寂であった雰囲気とは打って変わっていた。


「なんかわちゃわちゃしてるね、明菜」


「まあ、友達同士で花火やるときって実際こんな感じだよね」


「あっ、分かる! 点いている花火から火を貰いまくってガンガンやっていって、気付いたらすぐに花火セットの中身が全部なくなっちゃうやつ!」


 そして案外、私たちはお互いともにそういう喧騒が割と好きなタイプである。

 もし私たちが共通の友人から花火に誘われることがあったら、多分恋人のことをある程度放っておいても盛り上がれるし、それに対してお互い不満は無かったりするタイプだ。


 私たちは、恋人であることを棚上げにして『友だち』として向き合うのも、それはそれで好きで心地の良い時間だと思っているのだから。


 正直、ここまで様々なことが上手く行くとは思っていなかった。本当にそれは良いことで、ひなのさんと一緒の日々は本当にかけがえのないもので楽しい。



 でも、だからこそ――


「幸せすぎて、不安になってる……でしょ明菜?

 そういう顔してた」


 ――私の懸念は、最愛の彼女には看破される。

 私が何も言わずにひなのさんの手を握る力を強くすると、ひなのさんは続ける。


「思えば、告白のときから明菜は、私たちの恋愛を楽観視はしてなかったもんね。

 ……いや、そうじゃないか。その辺りの気持ちは私がそう仕向けたと言われても決して否定でき――」


「……せめて『育んだ』って言ってくれないかな? そうやって、責任を自分だけで背負い込もうとするのは……私に対してだけは違うと思うよ?」


 確かに、ひなのさんが私から告白するようにしたのは作為的な行動ではあったけど。それによって、自分の気持ちと向き合う機会が出来たのも事実だけど。

 結果生じた今の不安を、ひなのさんのせいにされるのは……困る。


 それは、私が背負うための感情だ。


「そうだね。……今のは私が悪かった」


「ここで物分かりが良いひなのさん相手だから、私たちってあんまり衝突しないんだろうね。

 今のだって、珍しいくらいだし」


「それは私視点だと、明菜が相手で優しいから……と反論するよ。

 明菜は明菜で、私のことをもっと頼りにしたって……良いんだから」


「……ひなのさんのことは、信頼していると思うんだけどな」



 喧嘩も衝突も思えば全然してこなかった。思い出の中には終始仲良くしていた私たちしか居ない。これも不安に思う部分ではあるのかな。

 と、やっぱり思考に陰りが出るとひなのさんは即座に反応する。


「雨降って地固まる、とか。喧嘩するほど仲が良い、って言うけどさ。

 私からすれば、喧嘩なんてしないに越したことはないよ?」


「それが可能な人間だもんねえ、ひなのさんは」


 タブレットの画面上は線香花火の火花まみれで、大騒ぎの様相を見せていた。



「……ずっと、言おうか迷ってたけどさ。本当に今更だけど……明菜って、自己評価がびっくりするくらい低いよね?」


「……そうかな?」


「私としては、せめてもうちょっと高く見積もってほしいよ。

 だって……私が大好きな人のことなんだよ?」


「……結構、ありふれた感じのセリフで激励するんだね。ひなのさんは」


「もー、明菜のハードルはいつも高いんだからっ!」


 そう言って、ひなのさんは私の頬に頬をくっつける。そして、その状態で膨らませた。彼女の頬に入った空気は、私の頬にもしっかり伝わってくる。


 ……そういえば。これは、私が六孫王神社でやった不満の意思表示だったっけ。


 付き合い初めの頃に私がやったことを今では、へたれなひなのさんでも出来るようになっている、と思うと、ちょっと笑みが零れて。

 それに対して、ひなのさんも最初は怒っているポーズをしていたが、次第に彼女も笑ってしまって。



 ひとしきり笑い合ったあとに、コーヒーを一口飲んで落ち着いてから。

 ひなのさんは一転して真剣な表情に切り替わって、そのワインレッドの瞳を私に真っすぐとぶつけてくる。

 私のその眼差しにしっかりと応える。


「……実はね。明菜が不安になるのは、分かるんだ。

 私もさ。やっぱり、今の私たちの関係が自分たちの都合に良すぎる・・・・って思うことは、あるんだよ」


「……ひなのさんもなんだ」


「現状が最も幸福だと思っていると、それを変えるのって怖い。

 現状を維持するために努力しなきゃって気持ちは焦るけどさ……でも、維持することに努力って、難しいよね? 分かりやすく何かを変えたりできないんだもん」


 その気持ちは痛いほどに分かる。変えなくて良いことは分かっているんだけど、変えないままでいるというのは、私たちの関係を壊さないよう努力をしたいと強く願っているときには、中々に焦燥感がある。


「ひなのさんなら、そういうのも卒なくこなせるって思ってた」


「あのねえ……。本気で人を愛した経験は、私には無いんだからさ。

 明菜に対しては、何もかもが初めて……なんだよ?」


「……」


 多分……いや確実に。今、私の頬が赤く染まったのをひなのさんは認識した。

 だって、ひなのさんも赤くなったし。その上で、私の頬を右手で撫でてくるし。



 ひなのさんは、その状態のままで言葉を続ける。


「……私たち、付き合って8ヶ月になるんだね。

 10年を捧げ合った私たちならまだ短いかもだけどさ……これって、普通の高校生の恋愛としてなら大分長いんじゃない?」


「……まあ、そうだろうね。高校に入って1年半弱の折り返し。

 その半分くらいは……もう、ひなのさんと恋人同士だったことになる」


 一生とか10年とかの数字から見れば端数みたいにも思える8ヶ月。

 しかし、そんな『将来』の数字ではなく。高校生としての3年間――36ヶ月とか、入学から今までの17ヶ月とか、そういう『現在』の数字と比較すると、かなり大きい比重になっていた。


「……だから、さ。

 明菜は、もしかしたら他のことで私に不安や不満は1つも無いかもしれないけど。


 ――たった1つ。確実に明菜が求めていることを満たしていないってことは、私も分かっているんだ」



 私の頬を撫でる彼女の右手が僅かに震える。

 それすらも、私にとっては愛しくて。その手に、私は自身の両手を重ねると、ひなのさんは言葉を続けた。


「……最初から分かっていたことなんだよ。

 それは、初詣のとき。『手を繋ぎたい』ことを言葉にしたのは、明菜からだったよね?

 結局、手のひらで繋ぐのも明菜からだった――」



 私を見据えるそのワインレッドの瞳も、僅かに揺れる。

 それもやっぱり、私には大事で。その瞳に、私は自身の瞳を向け手を解いて広げると……ひなのさんは私の胸に飛び込んできて。


 彼女の温度も湿度も、汗も吐息も全部感じられるようになって……ひなのさんの言葉は私の左の耳元で囁くように続く。


「――それは、部屋キャンプのとき。『ハグしたい』というのを私はやっぱり直接は言えなくて。

 結局、その後押しをしたのも明菜で――」



 そして、今……震えているのは。

 声、であり。その原因は――唇が震えているから、であった。


「……ひなのさん。私はそこまで貴方を追い詰めようと思っていたわけじゃ――ひゃんっ」


 その言葉を遮るように。ひなのさんは、私の唇に指を置いた。


「……この唇に指を置くのだって、やっぱり明菜からで。

 私は、今初めてやったくらい――」



 ……ここまで、聞けば。私も分かってしまう。ひなのさんが『私が不満』だと思っていることが。


 それは『直接的なアプローチ』。確かに、ひなのさんは間接的には私をよくからかってきたけれど。

 しかし、自分がしたいことだったり、私がして欲しいことを最初から能動的に動いてきたわけじゃない。そう考えると、私たちの恋愛における『最初』は、いつも私側からアクションを起こしていたようにも思える。


 私はそれを半ば『そういうものか』と考えていたが……ひなのさんは、どうやらそう思っていなかったみたいだ。



 タブレット端末はいつの間にか、画面がオフになっていて――それはつまり、線香花火は終わりを告げている。


 その場に残る灯りは、ランタンの淡い光……と、それが映し出すひなのさんの『色』に染まった瞳と。


 ……それと、グロスで光沢を帯びている彼女の唇だけ。



 囚われた・・・・私が動く前に、ひなのさんの唇が動く。


「……ねぇ、明菜?

 今まで、ホントに……ごめんね」


「えっ……と? それは何に対する謝罪な――」


 私の言葉は、背中に回されたひなのさんの手が私のローポニーでまとめた髪を、そのまま頭を撫でるように動いたことで遮られる。

 そして私の口が止まったことで、ひなのさんは悠々と次の言葉を紡ぎ、私の全部言えなかった疑問に答える。


「――明菜は、私に支配されたい欲があるのに。

 今まで、それを満たせなかったことへの謝罪だよ」


「ひな――」


 今度は、ひなのさんが私の額に軽く口付けしたことで私の言葉はすぐに封じられた。



 ……口ではない場所への口付けも、私から先に――告白のときにひなのさんの髪に対して、やっていた。


 となれば、残っているのは――。



「……私はなるべく、明菜の欲望にも応えてあげたい。……まあ、私も明菜に可愛がってもらうのイヤじゃないから、明菜側は今まで通りで良いんだけどさ。


 だから、これは――私の決意。

 ねえ、聴いて? ううん、聴け……私だけのピアニストさん?」



「…………はい」


「――これからは、明菜が不安に思わないくらい。

 私の愛で溺れさせてあげるから。今よりも、もっと。


 だから、キスは……私からするから――」



 ……そのひなのさんの言葉へ、私が返事することは無かった。


 私の言葉は、不安は、焦燥は。私の唇から出ることなく――ひなのさんの唇へと直接伝わって、お互いの口紅の色が交錯している内に消えていった。



 そのファーストキスの味は、ほのかな苦味と酸味に包まれた――コーヒーの味だった。

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