石化海月 - Petrifaction Medusa

丸山弌

石化海月(Petrifaction Medusa)

 これは、とある世界の物語です。

 その世界には、とても広大な海がありました。広大な海は広大な青空を映し出していて、それはまるで世界は海と空が一つになっているかのようでした。温かい太陽の光を受けてキラキラと鱗が煌く海面では、静かで平和な波が控えめに潮騒を奏で、唯一無二の美しさを醸し出しています。

 海の中も、それと負けないくらい煌びやかな世界でした。水面の外から届く光がレースのカーテンのように海中に差し込み、海底の海藻や色とりどりの珊瑚礁を照らし出していました。様々な海中生物が泳ぎ去り、小さな魚たちは群れを成して優雅に泳いでいました。そして、朽ちた沈没船を避けるようにして小魚の群れは分裂し、また素早く合流します。青く輝く海中を漂う海月くらげたちは、その美しさに魅了されながら、ゆっくりと漂い続けていました。

 緩やかな海流に乗り、一匹の海月が沈没船の中に迷い込みました。頑丈な木造の船体は藻や貝殻に覆われ、海水の中で荒れた日々の痕跡を残しています。海月は長い時間をかけて、狭い通路から壊れたドアの隙間を漂いました。奥の部屋には、かつて乗組員が暮らしていたことがうかがえる家具が散らばっていました。年季の入った傷だらけのテーブルと椅子、丸いクロスの上に置かれた水差し、ティーカップ。壁には剥がれかけた壁紙が残っていて、その端が、海月と同じようにゆらゆらと揺れています。その部屋には、船員たちがもう帰らないことを悟ったかのような、深い静寂がありました。

 海月は、その静かな空間に不思議な感覚を覚えました。海月は海底に沈んだ船の中で、今、自分がとても孤独な存在であることに気付いたのです。この部屋の中は時間が止まり、なにもかもが固定されているかのようでした。その光景は静謐でありながらも、どこか不気味なものに感じられました。

 船体に穿たれた穴から、外の世界が見えました。そこでの時間は目眩く勢いで、たくさんの海中生物たちが群れを成し、縦横無尽に海の中を泳ぎ回っています。海月は、そんな彼らが羨ましいと思いました。自分にも友達や仲間がいて、自由に動き回れたら、どんなに楽しいことでしょう。

 海月は、部屋の隅に船員たちが持ち込んだと思われる宝箱を見つけました。その中には、金貨や宝石などが詰まっていました。もしかしたら、この船は海賊船だったのかもしれません。海賊たちが財宝を探し求めて大海原を航海する光景を、海月は想像してみました。多くの困難や危険が待ち受けていることを知りながらも、きっと彼らは夢を追って旅を続け、そして、現実の波に攫われて沈んだのです。

 自由に動き回ることができない海月は、このままここから出られずに死んでしまうのではないかと思いました。自分は、他の海中生物や海賊たちとは違います。ただただ波に揺られ、海流に流されて、時々、透き通る自分の傘であてどなく海を漂うことしかできません。それはどうしようもないことでした。

 いったい僕は、なんのために生まれてきたのだろう。

 海月は、このまま永遠に眠ってしまいたいと思いました。しかしやがて、海月は運よく船体の穴から外の世界に抜け出すことができました。

 そして海月は驚きました。

 その世界は、これまで海月が知っていた世界とはまるで別もののように見えたからです。海は透き通る青や緑の世界で、無数の気泡が虹色の光を放って立ち昇り、その中を泳ぐ魚たちの群れはまるで壮大な絵画のように美しく、海月を魅了しました。それはいつもと同じ景色であるはずでした。そんな世界が、海月には根底から変わってしまったかのように思えたのです。

 海月は、これからこの世界で何を求めて生きていけばいいのか、自分がどこに向かっているのか、あまりに広い世界を目の前にして、困惑してしまいました。遥か頭上の水面から、眩しいばかりの太陽の光が降り注ぎます。沈没船の暗闇とは打って変わって、光に溢れた世界がありました。

 仲間たちに置き去りにされた海月は、その景色にただただ圧倒されながら漂い続けました。いっそあの沈没船から出られず死んでしまった方がよかったとすら思いました。

 そして海月は、改めて自分に問いかけます。

 いったい僕は、なんのために生まれてきたのだろう。

 海月はとても憂鬱な気持ちでした。他の生物や景色には感動できても、自分自身には何も感じられなかったのです。自分はただの透明な海月であり、なんの魅力もないと思っていました。

 そんな時、気まぐれな海流は海月を水面近くにまで運びました。水面は、いつもであれば光の網を描いて忙しなく揺れ動いていすが、この日は風も波もとても優しい日で、海の水面はまるで鏡のように海中を反射させています。水面の鏡の中では、やはり魚たちが泳ぎ、色とりどりの珊瑚や海藻が揺れ動く、海月がよく知っている美しい世界でした。彼らの生き生きとした姿は海中に壮大な生命の息吹を与えていて、そこにいるだけで、海の持つ神秘的な力を感じることができました。そしてその鏡の中に、一匹の海月の姿がありました。その海月は、輝くガラス細工のような美しい姿をしています。透明な体の内部はほんのりと紫色に発光し、無数の触手の先には淡いピンク色の点が浮かんでいました。美しい世界の中を漂う、その美しい海月の姿に、海月はうっとりと水面を見つめました。そして突然、海月は水面の鏡に映る海月が自分なのだと気付きました。それまで気にしたことのなかった自分の姿に驚きを覚えました。

 海月は鏡の中の自分の姿を見て、初めて自分が美しい存在であることを知ったのです。

 それまで、自分はただただ海流に身を任せ漂い続ける無意味な存在でしかないと感じていました。しかし、本当はそうではなかったのです。自分の身体はこんなにも透き通っていて宝石のようで、周囲の光に照らされて輝いています。

 水面に映る自分の姿は、自分自身が存在することを再認識させてくれました。気付けば様々な海中生物たちが海月の周りを取り囲み、踊るように周囲を旋回しています。海月から見ればそれもまたいつもと同じ美しい光景でしたが、実は、彼らもまた海月の美しさに魅了されてその周りを泳いでいることが水面の鏡を通してみるとわかりました。海月は、この海と同じほどに美しい存在だったのです。そして海月は、もっと自分自身が輝くことで、周囲に希望の光を与えられるのではないかと思いました。

 こんな僕にも、できることがあっただなんて!

 それなら僕は、もっともっと輝きたい。そしてその光であらゆる命を照らし、希望を与え続けたいと海月は思いました。すると、不思議なことが起こりました。海月の透き通る身体――その内部で発光していた紫色の光が、より強く輝きだしたのです。その光は周囲の生物たちを包み込み、澄んだ海の中を明るく照らしていきます。海月が放つ光は、海底の暗闇に散らばっていた生き物たちをも引き寄せました。

 海月は嬉しく思いました。海月は、自分が周囲の生き物たちを幸せにすることができることを知りました。自分が持つ魅力を磨き、周囲を照らすことで、それを希望の光として灯すことができるとわかったのです。

 しかし、代償もありました。

 輝く海月の身体が、触手の先端から、徐々にその透明度を失い、硬く重くなっていきました。透き通る身体は光を増すごとにくすみはじめ、海月は、自分の身体が石化していることに気付きました。このまま輝き続けていたなら、自分は完全に石になってしまうでしょう。海月はそう悟りました。ところが、なおも海月は光り続けることをやめませんでした。海月の意識が徐々に遠くなりはじめます。重くなった身体はしだいに海底へと向かい、落ちはじめました。それでも海月は、自分が眠りにつく最後の最後まで、光り続けることをやめませんでした。海月は、それほどまでに嬉しかったのです。ただただ海を漂うことしかできない自分だって、こんなにも頑張ることができる。光を届けることができる。最後に流した海月の涙は、悲しい時に流れるそれとは違うものでした。


 海月が眠りについたあと、海の中には光り輝く丸い石が残りました。様々な海中生物たちが群がり、かつて海月だった石を取り囲んでいました。

 かつて海月だった石は、ゆっくりと海底へ落ちていきます。海底はとても深く、とても暗い世界でした。そのため、石の光は、その世界を照らす希望となったのです。

 この世界の海底は、別の世界の星空へと繋がっていました。光り輝く石はその世界で『月』と呼ばれ、その美しい輝きは、その世界に生きる人々の心を照らし続けるのでした。

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