うしろの席

香久山 ゆみ

うしろの席

 あたし、くじ運が良いんだか悪いんだか、よく後ろの席に当たったわ。

 教室の一番後ろの席って、大好きだった。一番後ろのあたしの席から、教室全体がぜんぶ見渡せるの。面白いのよ。

 特に、中学三年生の時はね。受験生でしょ。同じ授業を受けていても、皆てんでばらばらのことをしているの。真面目に先生の話を聞いて黒板の文字を一生懸命ノートに写す子。授業を聞いているふりをして、こっそり塾の宿題をしている子。隣の席の子とこそこそおしゃべりしている子。小さく畳んだ手紙を回す子。漫画を読んでいる子。教科書で隠してお弁当を食べている子もいたわ。

 あたし? ご推察の通り、あたしは昔から勉強ができなかったから、真剣に授業を聞いたりノートを取ったりすることはなかったなあ。でも、一番後ろの席で大人しく静かにしていたんだから、自分ではなかなか良い生徒だったと思うのよ。だってほら、一番後ろの席がお調子者の男子生徒だったりすると、すぐに教室全体が騒がしくなっちゃうでしょ。その点、あたしは優等生だったのよ。まあ、成績は悪かったけど。

 あら、いやだ。居眠りなんかしなかったわよ。まあ、ほかに寝ている子はたくさんいたけれど。先生の授業はどれも退屈だものね。まるでお念仏みたい。特に午後の授業は壮観だったわよ。満たされた空腹と、窓から射す暖かい日差しに、教室の半分ほどの生徒がばたばたと眠りの世界に落ちていくんだから。でもそこにもね、個性があるの。堂々と机に突っ伏して眠る子。頬杖を突いて頭を支えて眠る子。必死に睡魔に抗ってうつらうつら船を漕ぐ子。その揺れがだんだん大きくなって時々がくんと頭が落ちて、それで目を覚まして、よだれが出ていることに気づいて、こっそり制服の袖で拭いて、周りにばれていないか怯えるようにきょろきょろして。ああ、懐かしいわね。そんな風にね、後ろの席からは色んなものが見えるのよ。

 セーラー服のスカートのファスナーが開きっぱなしになっている子。くしゃみした拍子に鼻提灯が飛び出した子。授業中にちらちらと男子生徒の方に視線を送る女の子がいたら、彼女、あの男子のことが好きなんだなあとか。後ろの席から眺めていると、なんだかみんなの秘密を垣間見るようで楽しかった。

 ああ、特に印象に残っているのは、真壁くんかしら。あたしのひとつ前の席の男の子で、中学三年なのにまだずいぶん小柄で、幼さの残る子だった。ふふ、まあ、今振り返れば、あの頃のあたしたちは、みんな幼かったんだけど。

 真壁くんは大人しくて真面目な子だった。優等生、ともいうかしら。勉強もよくできて、授業中の小テストや中間テストでは学年の上位を取ったりするの。でも、実力テストとなると、途端にクラスでも真ん中くらいになって。とても真面目で、不器用な子だったのね。あたし、真壁くんのそんなところがとても人間くさくて好きだった。あ、好きっていっても、恋愛感情じゃないわよ。人間として、愛おしい人間だなって。あの頃は、こんな弟がいたらかわいいだろうなって思ってたわ。同級生なんだけどね。中学三年生になってもぶかぶかのままの学生服に、ふわふわの猫毛の黒髪。顔を横に向けた時にちらっと見える林檎のほっぺとか、かわいいなって。

 真壁くんはいつでも一生懸命に授業を受けているんだけれど、小テストで問題を早く解き終えた時とか、たまに時間が空くと、かりかりと右手を走らせて机に何か書いているの。なんだろうって気になって、少し首を伸ばして覗き込もうとするんだけど、後ろの席からは真壁くんの小さい体が壁になって、どうしても見えないの。それならと、休み時間にお手洗いにいくふりをして、真壁くんの机の横を通って、こっそり机の上に視線を走らせるんだけれど、授業が終わる前にすっかり消してしまっていて、もう机には落書きの跡形もないの。しょせん中学生のつまらない落書きだと思いながらも、どうしても見えないとなると、どうしても見たくなるのよね。あたし、首を伸ばしたり、落とした消しゴムを拾うふりをしたり、頑張ったけれど、だめ。見られなかったわ。あの日まで。

 その時間も、英語の小テストの最中だった。教科書を丸暗記すれば解けるような問題で、真壁くんは早々に解き終わって、見直しも済ませて、またかりかりと机に落書きをしてたの。かりかりかり、かりかりかり。真壁くんの机の上を鉛筆が走る。かりかりかり、かりかりかり。

 ジリジリリリリリ。そのとき突然、非常ベルが鳴った。みんな驚いて顔を上げて黒板の上のスピーカーに目を遣った。今日は避難訓練の予定もないのに。だけど、こんなことってよくあるじゃない。いたずらだったり、体育のバレーボールがたまたま非常ベルに当たったり。一瞬驚きはしたものの、誰も慌てたりはしなかった。みんななんだか面白そうに顔を見合わせて、ここぞとばかりにおしゃべりを始めて。先生も、こら、みんな静かに、テスト中だぞって。

 みんながまたざわざわしだしたのは、数分後にスピーカーから放送が流れた時。調理実習中の家庭科室から出火したので、全校生徒、先生の指示に従い速やかに校庭に避難すること。その放送を聴いて、先生ひとり真っ青になって、急いでみんなを避難させ始めたんだけど、みんなはなんだか少し興奮して浮き足立っていたわ。ふと前の席を見ると、真壁くんが慌てているの。筆箱から消しゴムを取り出して、机の上に手を伸ばしかけたところで、先生から、早く避難しろと怒鳴られた。仕方なく真壁くんは消しゴムを手放し、机の上にノートを広げて、落書きを隠した。先生に急かされるまま教室を出た後、全員が廊下に出たのを確認した先生があたしたちに背中を向けて先導して廊下を進んで行った隙に、教室に忘れ物しちゃったと近くの子に伝えて、あたしはこっそり一人で教室に戻った。もちろん目的は一つ。真壁くんの落書きを見てやろうと思った。こんなチャンスないもの。誰もいない教室に戻った私は、真っ直ぐに真壁くんの席に行き、机の上のノートをのけた。

 その時、教室の入口で、ガタンと音がした。振り返ると、青い顔をした真壁くんがこちらを見ている。真壁くんは青い顔のままつかつかと机の方までやってきて、黙って消しゴムで机の上をごしごしと消し始めた。下を向いた真壁くんの頬は紅潮していた。落書きを消し終えた真壁くんは、あたしの方に顔を向けかけたけれど、やめて、目も合わせずにそのまま教室から出て行った。彼の背中に「ごめんね」と声を掛けたけれど、真壁くんに届いたかどうかは分からない。

 結局、火事は家庭科室の天井を黒く焦がしただけの小火で済んだわ。そのあとすぐの席替えで、あたしは前の方の席になって、そのまま卒業まで後ろの席になることはなかった。だけど少しほっとした。とても後悔したから。他人の秘密を垣間見るのは面白いけれど、自ら暴き立てるような真似はするもんじゃないって反省したわ。

 だけど、三つ子の魂百まで。あの頃覚えた、万華鏡から他人の秘密の欠片を覗き込む快感を忘れられずに、あたしはこうして今、スナックで働いているのかもしれないわね。あらいやだ、ごめんなさい。あたしばかり喋りすぎちゃったわね。一杯いかが。

 落書き? ええ、見たわ。何の変哲もない落書きよ。町を壊す怪獣と、それを倒すヒーローの絵。男の子なら誰でも書くんじゃないかしら。あたし、もっとすごい落書きを期待していたから、少しがっかりしちゃったのよ。だから、彼があんなに慌てるなんて、あたしも驚いたわ。ヒーローの顔は鉛筆で黒く塗られていたの。消す時間がないから、塗り潰そうとしたのかしらね。

 その人にとって、何が秘密かなんて、分からないものね。

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