【短編】月夜に眺める夢の姿

しん

【短編】月夜に眺める夢の姿

-月夜-


「わあ、綺麗な満月」

 窓から月を眺めていた妻が、振り返り微笑む。

 僕も窓辺に寄り、空を見上げる。月は大きく温かく、町を照らしている。

「ねえ、コーヒー淹れるからバルコニーで飲もうよ、待ってて」

 そう言ってキッチンへと向かう妻の後ろ姿を見ながら、僕はふと、あの頃を思い出

していた。



-いつもの朝-


 路線バス、一番後ろの窓側、そこが僕の定位置。

 歩道がよく見えるその席から彼女を探すのが、朝の楽しみになっていた。

 彼女と同じバスに乗れた朝、僕の心は騒がしかった。

 混雑した車内で、いつも前方に立っている彼女の横顔、綺麗な黒髪、つり革をつかんだ真っ白な手を眺めていると、顔は火照るし、手には汗。声をかける事もなく、こっそり眺めているだけなのに、心が和んでいく。

 彼女は、僕と言う同級生の存在を、多分知らない。

 ただ静かに彼女を感じ、バスを降りる頃には、決まっていつも少し切ない気持ちになっている。

 そんな朝を、高校一年生の間、ずっと続けていた。



-ある日の授業-


 においを伴う思い出は強烈で、今でもあの教室を思うと、感傷的になる。

 二年生の二学期から始まった選択授業、僕は書道を選んだ。

 初授業の日、教室に充満している墨のにおいの中、彼女を見つけた時の無性にそわそわした感じを、どう表現すれば良いだろう。

 彼女と話してみたい、お近付きになれるかもしれないと言う淡い期待の中に、なぜか少し混ざる焦りと不安。そんな感覚を今でも覚えている。

 それにしても、青春時代の僕はなんと子供だったのだろう。今ならあの感覚の正体が何なのか、すぐ分かるのに。

 いつだったか書道の時間に「お前、なんでいつも窓の外ばかり見てるんだよ」と友人に言われ、はっとした事がある。

 自分でも気付かないうちに、外を眺めるふりをしながら、彼女を目で追うのが習慣となっていたようで、この時やっと、自分の中に芽生えている恋心を明確に意識した。

 でもその後、書道が終わって、彼女に話かける事はなかった。

 親しくもない男子が声を掛けたら変に思われないだろうか、周りから笑われるかもしれない……、余計な事ばかりを考え、一歩踏み出せなかった。

 書道を終えた彼女はいつも友達に囲まれていて、その中には僕の知り合いもいたのに、話す機会を作る事が出来ずにいた。結局僕は、彼女を眺めているだけで、自分から動こうとしていなかった。

 勇気がなかったのだ。



-あの日の夕方-


 三年生、進路指導の季節を迎えていた。

 担任との個人面談を終えた頃には、すっかり暗くなり、教室には僕の鞄だけが残されていた。

 窓の外は小雨、急いで帰り支度を終えて傘も差さずに校舎を飛び出すと、運よく発車間際のバスに乗り込む事ができた。

 するとそこに、彼女がいた。

 僕と目が合って、会釈を交わした。

 彼女が僕を認識してくれている。しかもバスの中には、僕ら二人きり。

 急な展開と緊張で、高鳴る胸の鼓動が彼女に聞こえてしまいそうになる。

 少し離れた朝の定位置に座りながら、突然訪れた絶好の機会に話題を探すも、何も思い浮かばない。こんな日の為にシミュレーションをしておかなかった自分を恨めしく思い、スマートに声を掛けられない現実が、はがゆかった。

 そんな気持ちと戦いながらも、綺麗な後ろ姿に見とれていると、あっと言う間に彼女が下りるバス停が近付いていた。

(結局、話しかける事はできないのだろうな……)

 ふがいない気持ちに、思わず溜め息が漏れる。

 間もなく停車を知らせるブザー音が鳴り、彼女は僕の方を振り返る事もなく、すたすたと降車口に向かって行った。

 ふと外を見ると、雨足が強まっていた。

 バスが数人の客を乗せている間、車内から彼女を覗いていると、近くの軒先に立っていて動かない。空を見上げている彼女の手元を見ると、傘を持っていないようだ。

「すみません、降ります!」

 発車間際で突然叫んだ僕の声に反応し、運転士が降車口を開けてくれた。急いで降りて、さっきの軒先を見たが、彼女がいない。

 発車したバスの向こう側に目を向けると、既に雨の中を走り出している彼女が見えた。

「ねえ! 傘もっていきなよ!」

 とっさに呼び止めるも、彼女は気付かない。

 雨音に消された僕の声が、彼女に届く事は、ついになかった。


 その夜、夢を見た。

 賑やかな教室。帰り支度をしながら、僕と彼女が楽しく喋っている。

 下校チャイムが鳴り「そろそろ帰ろうか」と、彼女が僕の手を引きながら言って、二人仲良く廊下へと駆け出す。

 校舎の外は雨。僕が傘を開くと彼女も入ってきて、一緒に校門へと向かう。

 そんな幸せな出来事に違和感を感じ(ああ、これは夢なんだ)と気付いた時にはもう、僕の傘から抜け出していて、こちらを気にする事もなく、別の子の傘の中で楽しそうにしながら、どんどん遠ざかって行く。

 夢の中で味わう、なんとも空しい気持ちに耐え切れずに目が覚めた僕は、しばらくそのままの姿勢で、暗い天井を見上げていた。



-今宵-


 頬に触れた温かい感触で我に返り、後ろを振り向くと、妻がコーヒー片手に立っていた。

「熱かった?そんなに驚いた顔して」と、妻が笑う。

「ねえ、お月見しながら何考えてたの?」

「んー、昔の事とかかな」少し口ごもりながら答える。

「なになに、昔の彼女とか?」

 いたずらっぽく笑うその顔を見ながら、僕はそっと妻の肩を抱き寄せた。

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