雪が止むまで

外清内ダク

雪が止むまで



 あの夜ふってた雪だって、私には200センチの豪雪だった。実態がほんの数ミリメートル、アスファルトが薄く雪化粧する程度だったにしても。あの花に初めて気づいた仕事帰りの暗い道……道と同じだけ暗い心を抱えた私の肩にも雪は積もり、このまま凍えて死ぬのもいいかなって気持ちがよぎって足が止まった。積極的に死にたいというより何もかもがどうでもいい。人が私にくれる「生きて」とか「取り返しがつかないよ」とか「きっと悲しむ人がいる」みたいな常識的なお題目が全部どうでも、どぉぉーぉでも良くなって、なるようになればいいわあ、って投げやりに自分の命を氷点下の寒気に投げ出した。実際まあどうでもいいよね。クズが一人凍死しました。はい。よくあること。人類が今まで延べ1000億人分繰り返してきたありきたりな死がまたひとつ。

 ……悪いけど、ここから何か面白い話が展開するかも? って期待してるなら期待はずれよ。なんにも面白いことなんかない。靴がうまく脱げなくて「どうにもならん」てなもんよ。

 そんな中に花がひとつ、あったわけです。

 道端の空き地に、なぜかぽつんと一本立ってた木。高さは私の背丈よりかろうじて高い程度。丸っこく広がった枝には黒ずんだ硬い葉っぱがびっしりと。そこに一輪、なんの花かな、知らないけれど、細長くって白い花弁を星型に伸ばしたかわいい花が、雪に反射する街灯を浴び、闇の中から浮かび上がってた。

「かわいい……」

 自分がぽろっと漏らしたことに、私自身も気づいてなかった。ところが花はちゃんとそれを聞いていて、優美な長い雄蕊おしべを揺らして微笑んでくれた。

『ありがとう。あなたも』

 私はバカなのでバカみたいにぽかんと口を開けていた。

「私?」

『ええ。かわいいわ』

 語尾に「わ」と来たか。いまどきそんな喋り方するひと居る?

「私が?」

『そう』

「私がぁ」

『かわいい』

 牡丹ぼたん雪が、ひそひそと、声を立てながら積もっていくのを聞きながら、私はじっと花を見つめた。人間は頭がとっちらかってるとき、というかまあ脳みそが病気のとき、言葉はうまく出てこない。言いたいことがいっぱいあるんだけど、それを言い表す語彙がなくなる。語彙があっても組み合わせる力がなくなる。「ピッタリな言い回し」ってのが出てこないのね、特にとっさの時は。だから私はしばらくぼんやりしていた。

 でもひょっとしたら、頭がおかしくなくたって、誰もがいつもそうなんじゃないか?

 「普通に喋れる、書けますよ」なんて認識自体、不遜な思い上がりなんじゃない?

「ありがとう」

 気がついたら私に積もった雪が、私の涙で溶けて、コートに染みを作り始めていた。

「ありがとう、かわいいお花さん」



   *



 魂の質量は2.8グラムであるらしい。人が死ぬと、生きてたときより体重が2.8グラム軽くなる。それが抜け出た魂の量なんだって。そんな僅かな重さの中に、なんて深いよどみを抱えていることか。2.8グラムの深海に、私は溺死しかけてる。

 あれ以来、私は花を意識するようになった。仕事からの、食事からの、返済からの帰り道、いつも通るその道に、いつも咲いてる知らぬ花。はじめはぽつぽつ挨拶を。やがてちょっとしたおしゃべりを。私はいつしか彼女(?)に会うために、少しだけオシャレして出かけるようになった。花は私を褒めてくれる。私も花を必ず褒める。それは別に、仲良くなったからって付き合いで言ってるわけじゃない。私にとって「カワイイ」てのは特別な言葉で、これだけは、ほんとに心からカワイイと思ったときにしか絶対言わないと決めている。だから私がカワイイって言うときはまごうことなき本心で、逆に、なんやかんや言葉を重ねて慎重に「カワイイ」を避けてるときは、ホントは「イマイチかわいくねーな……」って思ってるときです。いや性格悪いでしょ、このこだわり。まじクソ人間だな私。

 そういう人間だけに、褒められると弱い。

 カワイイって言われると、ほんとにそうかもって思い上がっちゃう。もっともっと言われたくて、私は必死に自分を磨く。目下、目標はまさに目の前のお花さんその人で、あのたまらない愛らしさを自分のものにしたくて私は数多くのことを試した。衣服のシルエット、色の調和、中にある私の身体、それが息づく街の中での私、というありよう……みんなお花さんから学んだことだ。私の顔は潰れたカエルの死骸みたいに不細工だけど、それでも磨けば多少は良くなるという期待を込めて、私なりのカワイさを追求した。その試みを、込めた意思を、お花さんはいつも的確に見抜いてくれる。どこを工夫して、何を狙ったか、説明しなくたって分かってくれる。そしていつもこう言ってくれる。

『めちゃくちゃかわいいね』

 その言葉の嬉しさに、私は完全に溺れている。

 私はまた一方で、白いお花のかわいさを他人に広める努力もした。友人はひとりもいないので、知人に、特にかわいさに興味があるタイプの知り合いに、片っ端からお花さんを見せて勧めてみた。あんまり成果は出なかった。みんなが全然分かってくれないので、私は憤る。お前ら見る目ゼロかよ。こんなにかわいい花なのに、なんでそんな塩対応かよ。

『ね。こういうのは、どうかしら』

 しょげてる私に、ある春の日、お花が枝を広げて見せた。

 彼女の枝は力強く空へ伸び上がり、私の頭上をみるみる覆って街全体を飲み込み、かと思いきや不意に上へ昇り始めた。上へ、上へ、ひたすら上へ、どこまでもどこまでも枝を走らせ、雲を貫き天をき、宇宙を渡って遥か彼方の火星の砂に、枝の先端を突き立てる。まるでそれは天国と煉獄を繋ぐ《天翅てんし》の梯子はしご。目の前でこともなげに展開された幻想的なシルエットの美しさに、私は圧倒され、尻もちを付き、やがてだらしなく頬を緩める。

「すごい……かわいい」



   *



 陽射しが日増しにギラギラ強まり、お花さんの濃緑の葉が眩しいほどに輝き出した夏。いつもの道に足を運んだ私は、お花さんのそばに誰かが立っているのに気づいた。白い涼しげなワンピースの、滑らかな肩に日傘を担い、脚とお腹で完璧な曲線を描いて反り立つその人は、別世界の生き物のように優雅で美しい女の人。私はうっかり警戒もせず彼女の視界に入ってしまう。

「こんにちは」

 言われて私は盛大にどもる。そうよ、私は他人とお話できない虫けら。私に構わずその人は、お花と軽やかにおしゃべりしてる。私はぼんやりそれを見て、ようやく現在進行中の事態に気づいた。そうだ。気づいてくれたんだ! 私の他にもわかる人がいた。あのお花さんのすばらしさ、味わい、かわいらしさを見抜いてくれる人がいたんだ! 私は嬉しくなり、自分のコミュニケーション能力欠乏を忘れてアホほど無神経に距離を詰めた。

「こっ、にんち! わ!!」

「あっ? はい?」

「いいスよね? この……お花……」

 今さら気後れするバカな私に女性はそよ風のように微笑む。

「ええ。かわいいですよね」

 私は爆発した。

 比喩表現だが真実だ。私の生きてるこの世界では、私の感性が他の全てを凌駕する。私はうちから燃えて爆ぜて四散して、ダボダボのクソダサカーゴパンツの百億個ほどあるポケットの一つからスマホをお手玉しながら取り出して、勢いこんで女性に写真を次々見せた。お花さんと撮ったたくさんの写真。夜の姿。朝の色。夕暮れ時にだけ見える匂い。興奮気味の私をお花さんは苦笑して眺め見る。「いいよね!」「いいですね」「これも!」「それも」まだまだあるよ。いくらでもある。私のポケットは見せたこともない宝物でみんなパンパンに膨らんでいて、一晩だって、十年だって、永遠にだって新しいものを取り出せる。比喩表現だよ? でも真実だ。初めてみつけた同志なんだ。共有したいものは無限にあるんだ!

 明くる日からだ。お花さんを見に、何人もの人が訪れ始めたのは。私は毎日あの道に通い、来る人来る人に挨拶し、お花さんのカワイイポイントについて数々の有益な意見交換を行った。お花さんが皆に認められていく。私はもう、それが我が事のように嬉しくて……



   *



 なのにその秋。私はどうしてこうなんだろう。なんでこんな気持ちになってしまうんだろう。いつものようにお花のところにやってきて、声をかけようかとしたその時、お花が誰かと話しているのが耳に入った。

『すっごくかわいい……』

 とろけるようなお花の声。

 言われた相手はいつかの楚々とした淑女。今日は土埃色したシャープなジャケットに黒いスキニーパンツという出で立ちで、高めのヒールが身震いするほど似合ってた。私には逆立ちしたって及ばない麗しさ。恐るべき才覚を持つ者だけが出せる自然な魅力。

『かわいいですね、ほんと……』

「ありがとう」

 どん!!!

 と、来た。

 なんだ。

 なんだこれ。

 私は唐突で異様な音の正体にやっと気づく。心臓だ。私の心臓がすごい勢いで弾けているのだ。私は急に息苦しくなり、足音を殺して逃げ去った。彼女らの目につかない細い路地に身を隠し、そのままがむしゃらに走り続け、自分がどこにいるのかも分からなくなってコンクリート壁にもたれかかる。

 なんだ。この気持ち。

 どうして、嫌なの?

 お花さんが、他の誰かと話してる。他の誰かに『カワイイ』を言ってる。それは世界が広がったからだ。みんながお花のカワイさに気づき、人が集まり始めた、その事実からくる当然の帰結だ。私はそれを望んでいた。そのために働きかけもした。

 なのに何故!?

 どうして私は、嫉妬している!?

「ぉあッ……」

 私は吐いた。昼食べたもの、朝食べたもの、今まで私をちからづけてくれた思い出と経験と思いの全てを吐き落とした。私の血と肉になったはずの食べ物と過去が、今、私の中で毒となって蠢いている。嫌だ。お花さんが他の人に目を向ける。そして私を忘れてしまう。私はお花にとってのその他大勢のひとりに埋没する。そんなのは嫌だ!! 嫌だと感じている嫌な自分が何より嫌だ!!

 私は狂った。それが分かる。私は帰宅し、押し入れを漁り、雑多な物を詰め込んだ段ボール箱の中から青鋼のなたを引きずり出した。何考えてんだ。ばっかじゃねえの。なのに私は止まれない。ザックを担ぎ、なたをブラ下げ、私はお花のもとへ走る。

 お花が、誰かに、『カワイイ』を言った。それはほんの些細な事だけど、私にとっては世界の全て。自分を形作る価値と意味の全て。いつのまにかそんなとこまで思い詰めてた気持ち悪い自分に吐き気を覚えて、私は道すがらまた吐いた。ごめんなさい、このへんに住んでる知らない人たち。

 でも私、こういう風にしか生きられない。

 いつもの道にたどり着く。あの綺麗な女性はもういない。街灯の不安定な光の下で、白いかわいいお花さんだけがじっと夜を耐えている。私は暗闇の中から歩み寄る。お花さんが嬉しそうに笑う。

『こんばんわ』

 私は何も言わない。

 なたを後ろ手に持ち、背中で隠して、近づいていく。あと3歩。間合いに踏み込み、振るえばいい。あと2歩。枝を切り落とし、持ち帰る。あと1歩。あの花は、私のものになる。

 他の誰のものでもない、私だけのものにする!!

 なのに、

『今日はいちだんとかわいいね……ほんとに』

 私は、一言で止まってしまう。



 なんだよ。

 馬鹿か。

 私だけを見てほしい。

 なのに、そんなの、私は、嫌だ。



 私は後退あとずさる。

「ありがとう」

 他に言葉が出てこなくって、私はまた、そこから逃げた。



   *



 今夜ふってる雪だって、私には200センチの豪雪なんだ。実態はやっと十ミリメートル、それでも都市の交通は丸ごと麻痺する。私は帰宅難民であふれかえる暑苦しい駅を後にして、自宅までの3時間を徒歩で帰る決断をした。案の定、滑って転んで肘を痛めて、小石のめり込んだ手のひらから血をにじませながら私は歩く。私はずいぶん前からただの人形に成り果てて、辛いとか、苦しいとか、物の味とか、もうなんにも分からなくなっている。カワイイの追求ももうやめた。くだらないことだ。私みたいな無能な不細工ブサイクづらは、どんなにいじったって化け物以上になりはしない。

 そんな調子だったから、私は全く気づいてなかった。いつもの道に、いつのまにか足を踏み入れていたことに。

『まあ。どうしたの? そんなに雪まみれで』

 不意に横から声をかけられ、私はびっくりして飛び上がる。道の脇には、そう、あの花が……枝の上に重い雪をどっさり抱えて、たったひとりで立ち尽くしていた。

「あ……あ……?」

『最近来てくれなかったわね。少し、寂しかった』

 言葉が出ない。

 私バカだから。頭悪いから。いざって時に、言葉が出ない。ぴったりな言い回しが浮かばない。伝えたいこと、山ほどあるの。抱えた想い、無限にあるの。なのに何をどう言ったって、それはただの表現で、表現は表に現れたものでしかなく、私の想いそれ自体じゃなくて、私はこんなに、こんなにあなたを、大事に、大切に、特別に思ってるのに! なのに私は! 醜い嫉妬と暴力的な悪意の塊で!!

 なのにあなたはまた微笑む! 優しく、美しく、舞い落ちる牡丹ぼたん雪のどの一片ひとひらよりもかわいらしく!!

『でも……雪にまみれてるあなただって、いつにも増して……かわいいね』

 違……!

 いや……

 違わない……たぶん、それは……違わない。

 私は、お花に歩み寄る。

 根本の雪に、ひざまずく。

 やっと出てきたことは、飾りも化粧もないけれど。

「少し、泣いてもいいですか。

 あなたの枝の下で――雪が止むまで」



THE END.

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