02
夕方の雨に降られ、ずぶ濡れで仕事から帰宅した夫をバスタオルを携えて出迎えると、エマは腕を牽かれるままキツく抱きしめられた。
何かあったのかと腕の中から見上げると、いつも溌剌と明るいトーラスが神妙な表情をしている。よからぬ事だと直感で察しながら、エマは夫が口を開くまでいつまでも静かに待った。
静かな雨音と暖炉に焚べた薪の爆ぜる音が、無言の間を繋いでいく。
風邪をひかせてしまう事を危惧して暖炉傍の長椅子へ座らせ髪を拭いていると、やがてトーラスが重々しい口調で今日の出来事をゆっくり語り始めた。
「仕事柄…各都市をめぐり歩くんだけどさ、行く先々でやけにトルガイ王国兵を見掛けるから…俺、気になって訊ねてみたんだ。そしたら、みんな口を揃えていずれ戦が始まるって云うんだよ…」
「戦…?!」
「どうにもトルガイ王国がキナ臭い。ずいぶん前から爺ちゃんとも相談していてさ、実害が出る前に引越しを考えてる」
トーラスはこの世界に分布する多くの魔族と、外界から来た「外来種」である
レネディール大陸の東側に位置するサナムは山国で、領土の大半がガリニール山脈に沿うようにして広がっている。
ガリニール山脈は幾重にも複雑に折り重なり、北の大国グウォーグとトルガイ王国を広範囲に分断して聳えている。
険しい山脈は急峻さを併せ持ち、何人の踏破も拒むような重厚で威厳ある存在感を放っていた。
日いづる国…そして国主の燃え立つような赤毛の色を以てして、そう呼ばれている。
「エマ。俺たちと一緒に、来てくれるかい?」
暖炉の火灯りが映りこんだ不安げな眼差しが、正面に座るエマをひたと見据えた。
心底の不安を訴える夫を、エマは濃い魔力と意志を宿した双眸で見つめ返す。
「もちろん、一緒に行く。だってもう、私は貴方の妻なんだもの…貴方が行くのなら、どこへだって行くわ」
「ありがとうエマ。君を妻にできて、俺は本当に幸せ者だよ…」
とうに結婚式を挙げ、蜜月も既に3ヶ月めに突入したが…甘い雰囲気は依然として収まる気配はない。
慣れ親しんだ寝床に運ばれながら、エマはうっそりと常緑色の双眸を細めた。
▫️
初代サナム王はガリニール山脈の山頂を平らにならして石造りの堅牢な城門と山城を建て、代々世襲で一族と領民を統治してきた。
厳しい急峻に囲まれ、歴戦の屈強な
現在の王は10代目で、名をヴィンセントという。
炎帝の異名を持ち、燃え立つような赤毛に巌のように屈強な体躯を誇る男だ。
父帝ガルムに請われ、病で夭逝した姉に代わって玉座についた彼は現在、甥のトーラスの指南役を務めている。
隣国に不穏な動きが見られると部下たちから火急の報せを受け、その日の内に分郷にいる父帝と甥のもとへ駆けたヴィンセントは、ガルムから思いも寄らない慶事を伝えられやや暫くその場に立ちぼうけた。
あのトーラスが。いつまでも鼻垂れの
「父上、どういう事です?!妻といっても、彼女は二足…人型ではありませんか。
「ヴィンセント…相変わらず、お前は頭が固いのう」
「貴方が軽すぎるのですよっ。ああ、もし彼らが子供を授かれなかったら…私たち人馬はお終いです…っ」
「お前は考え過ぎなんじゃい。このインテリ軟弱アタマが」
「ひどい!!」
うじうじと心配性で頑固頭な彼は、その性格が災いして現在離婚調停中。実の娘にも愛想を尽かされて孤立無援なのだった。
「とにかく、ここは儂に任せておれ。お前は隣国の動向に気を向けつつ、城と領民を守ることに専念せよ」
「しかし父上…」
「同じことを2度言う気はない。早う行け!」
遥か遠くで大砲を撃ったであろう振動が、短い間隔で大きく地を揺らす。
隣国が戦を起こすというのは、もはや火を見るよりも明らかだろう。
いつになく険しい父の態度に危機感を再認したヴィンセントは、弾かれたように夜道に駆け出した。
へクセ───レネディール最後の魔女 冬青ゆき @yuki_soyogo
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