第7話 ♪星と鍵盤のメッセージ~セイヨウサンザシの輝き


――暦を司る神さまを時神ときがみとしてあがめる人たちがいる。その使者として時を旅する者たちは暦人こよみびとやカレンダーガールと呼ばれている。その時間移動には太陽と月の光、そしてそれらを祀る場所に開く「時の扉」が使われる。いにしえより続く、限られた人たちだけが、その役目のために隠密行動で時を超える。そして彼らの原動力は、いつの時代も人の世のやさしさ――



 一九八〇年代中頃。千葉県船橋市。京成船橋駅に近い場所にある公共センターホールを高校生の夏見粟斗なつみあわとは訪れていた。当時の京成船橋駅は踏切の脇からすぐにホームに入れるどこか懐かしいつくりの駅だった。その踏切から少し海側に行った場所、そこにその施設は建っていた。


 軽く触れておくと、この青年、当時は船橋御厨ふなばしみくりやの雇われ暦人御師こよみびとおんしである。それまでの彼自身は単なる暦人で、時神からの託宣の実行と遂行のみをする役目だった。なのでまとめ役、管理役の暦人御師とは無縁の生活であった。遠縁の親類である船橋の夏見家に頼まれて、その御師家おんしけの長男が高校生になるまで船橋御厨の御師の中継ぎを頼まれた形だ。


 暦人御師と御厨、そしてタイムゲートである「金色の御簾みす」がこの物語の定番、基本アイテムだ。だが今回のお話はいつもの時間旅行ではなく、不思議な妖精、神でもある付喪神つくもがみのお話である。


 さてこの物語の舞台背景からいこう。隠密活動の暦人の成り立ちと今に至る経緯だ。

 かつての伊勢神宮の御厨みくりや(荘園)が存在した場所には、平安末期から代々暦人御師と呼ばれる人たちが住み着き、彼らの管理するタイムゲート、即ち「時の扉」が今も秘密裏に存在している。

 その「金色の御簾みす」とも呼ばれるタイムゲートの管理人として、何百年も身分を隠して脈々と、代々それを受け継いで守り続けている者が御厨付きの暦人御師というわけだ。この物語に出てくるタイムゲートの入口は、まるで神宮のご神前に掲げられた風にそよぐ御簾のような柔らかさと、それでいて混沌とした見た目の異次元空間が見えることからこの名が残る。


 そもそも貨幣経済が世に広まる以前の律令制の社会では、貴族や地方官僚などは位階と官職のクラスに応じた給金が与えられていた。基本給を散位さんい、役職手当が職封しきふといった。三位以上の貴族の散位、職封では位田、職田が与えられ、それらが次第に時代が進むにつれて面積が増し、都落ちした地方官僚が豪族化して、封建制のルールが次第に出来上がったという。その封建制になる一歩手前の時代に土地を横取りされないように皇族や豪族、寺社などに守ってもらうようになった時代に、伊勢神宮の土地、すなわち荘園になった土地には伊勢神宮の御分霊ごぶんれい、すなわち御霊分みたまわけが行われ、その結果、日本全国の伊勢神宮の荘園、即ち御厨に伊勢の神さまをお祀りする神明社が成立した。そのひとつが船橋御厨であった。お隣の葛西御厨も同様に伊勢神宮に安堵を依頼した土地である。


 同じ頃、七二三年に三世一身法さんぜいっしんのほうが出た辺りから荘園は開墾でも増え始め、爆発的に各地に新規で普及し、私有財産制度の先駆けをこの時代にやってのけた妙法である七四三年の墾田永世私財法こんでんえいせしざいのほうの頃には各地が荘園だらけになっていた。奈良から平安を駆け抜けた荘園の時代相は相次ぐ寄進による淘汰がおこり、ネットワークのように社寺や貴族、朝廷、御家人などがその荘園領主となっていく。

 そのような時代背景の中、やがて武士の統治する多くの荘園には八幡神が祀られ、中央官僚の都落ち貴族や臣籍降下しんせきこうかした皇族の系統が寄進した各地の伊勢神宮領の御厨には神明社が建立されることになる。

 そしてその当該御厨のタイムゲートの管理人たる暦人御師たちと、一代限りの時間管理の民である任務遂行役の暦人は、かつての御厨、すなわち伊勢神宮の荘園地域に主たる神明社とともに代々関わってきた。特に御師たちはおさであり、御厨域内に住む暦人たちと一緒に、その地域に残ったタイムゲートである「金色の御簾みす」を使って、時神の託宣を受け、人知れず時間と空間を行き来して、時間の流れを守るという使命と任務を遂行して来た。なんと驚くことに、この現代まで。


 この時の夏見粟斗は若いながらも、そんな暦人御師のひとりというわけだ。この当時の彼、すなわち高校生の頃、雇われの船橋御厨御師として、御厨の時空権利とタイムゲートの管理を、本来の暦人御師の家系である親戚から数年間だけ預かった。その暦人御師の大役を任されていた頃、それがこの物語の舞台、一九八〇年代ということだ。


 話を戻そう。時は昭和六十年前後、場所は船橋市の市街地、ほぼ中心地である。

 十月から始まる町を挙げたイベント、『船橋ミュージックストリーム・フェスティバル』の会場の一つである公共センターのホールに夏見は訪れていた。市の学芸ボランティアを申し出たためだ。役所仕事のお手伝いなのだが、これが運良く彼の好きな楽器の整備清掃係を任される。音楽ホールの希望にしたら見事にそれが通った形だった。

 社会教育主事の連城れんじょうが言う。

「じゃあさ、夏見君は音楽ホールの舞台袖のピアノと打楽器類、オーディオ類を清掃して、それが終わったら本館の天体資料室の清掃をお願いできるかな?」と言う。

「はい」

「午前中はホール、午後は少し離れているけど本館のお仕事ということで」

「わかりました」

「あと、お昼はお弁当が出ますので、ここのホールで食べてから本館に移って下さい」

「ありがとうございます」

 そう言ってお辞儀をすると、夏見は分担場所に向かった。


 十代の夏見は凝り性でマイペース。すぐにステージ横の袖に置かれたグランドピアノに目がいくと興味津々。綺麗に光る艶のあるブラック・ボディ、その光沢に魅了されながら丁寧に化学ぞうきんで筐体のほこりを落とし始めた。

『凄いピアノだ。風格と美しさが同居している楽器だなあ』

 誰に言うとも無く彼は心の中でそう呟いた。


「あら?」と声かけてきたのは二十代後半の女性。聞き覚えのある声だ。

「あれ?」

 そしてその姿。夏見は彼女の顔にも見覚えがある。

「いつも来てくれる洋楽好きの高校生ね」と彼女。

「駅前の南武デパート、ディスクポート南武のレコード売り場のおねえさん」

 彼女は嬉しそうに、

「分かる? 君も『船橋ミュージックストリーム・フェスティバル』のスタッフなのね」と夏見の顔を見た。

「はい、間接的にではありますけど」

 夏見の返事に、彼女はウインクすると、

「じゃあ、今度レコードに変わるCDっていうデジタル音源録音盤が発売になるのよ。来年辺りにはもう市販品が出るわ。その試聴版を君にもプレゼントするね。これでこのホールに設置されているオーディオのメンテ頼むわ。終わったら、これ、このディスク、そのまま持ち帰って良いから、いずれCDプレーヤーを買ったら聴いてみてね」と言って夏見に手渡した。

「ありがとうございます」

 そこには社名、店名である『ディスクポート南武』のロゴと一緒にウイングスの「幸せのノック」という楽曲コンテンツが記されていた。

「おお、マッカートニー!」

 夏見の声に彼女は笑うと、「じゃあ、私はお店に戻らなきゃいけないから、またお店に買いに来てね」と手を振って緩やかな歩みで去っていった。


☆☆


 時は変わり令和の世、春、五月。かつての趣のある京成船橋駅は跡形も無く消え去り、高架化された乗り換え便利と評判の高台にある近代的な駅に変化して、そこを電車は走っていた。始発の一番電車の音が聞こえる頃だ。あと一時間ほどで夜が明けるという時刻。同じ公共センターのホール舞台袖。


「なあ、エリーゼよ」と男の声が暗闇にこだまする。

「誰? 私を呼ぶのは」と反応するピアノの精らしき女性の声。

「なあ、エリーゼよ。お前は命を吹き込まれる年齢に達したのだよ」

「いのち? 吹き込む? 私はこうして存在しているわ」

「魂だけの存在からの解放じゃよ」

「意志を持って、依代よりしろの身体を持って、この人間の世界、葦原あしはらなかつ国の社会を闊歩できる身分になったということじゃ」

 ただ永遠の暗闇の中で男女の声が響き渡る。男性の声は遠方から届き、言葉の発するリズムとともに、波形のように瞬く星が夜空にひとつ。女性の声はこの青い惑星から聞こえる。

 まるで宇宙空間を声という物質が駆け巡るように。


「どういうことなの?」と女性の声。

「信じることができるかね?」と暗闇から男性の声。

「信じる? 私が? 誰を?」

「お前は西洋生まれじゃし、お洒落なピアノじゃ、白いドレープ姿のディアナのような依代の身体を授けよう。特別じゃぞ」

「ディアナ? 月の女神さまね」

「そうだ。私の娘だ」

 男はご満悦な声で返す。

「娘? あなたは誰?」

「知りたいかね?」

 再び嬉しそうに返す男性の声。

「だって私に話しかけてくれるのなんて、演奏家さんや調律師さんぐらいなのよ。しかも私の言葉は分からないから、皆一方的に問いかけるだけだわ」

「これからは違う。私が依り代を授けるからな。暦人や時巫女とも会話できるぞ。一部ではあるが、暦人という人間たちとも会話できるんだ」

「あなたは誰ですか?」と女性。

「ふふふ。今は遠くの星を依代にしている。その資料室の望遠鏡を媒介してお前さんのいる星と交信できているのだ。その星の住民は木星と呼んでいる星だ」

「木星? って、あなた、ジュピター?」

 ピアノの声は半信半疑にそう呼んだ。


 少し間をおいて声がする。見えないが、頷きの所作、仕草をしたのだろう。

「いかにも。英語ではそう呼ばれるな。ユピテルとも言う。私も有名になったもんだな。そう、ローマの都の主祭神しゅさいしんと言われている神だ」

「そのジュピターがなぜ私に」

「今お前さんの暮らす極東の国には慣わしがあってな、百年経つと物には命が吹き込まれるというのだ。まるでオリンポスの女神がピグマリオン王の願いを聞き入れて、命を吹き込んで誕生したガラティアのようにな」

 

「何故そんな遠くの星からこの国の慣わしのために」

 いろいろな話が交錯しているのか、エリーゼは少々困惑気味だ。全てを把握できていない。

「まあ、話せば長くなるが、夏見粟斗という男が船橋の神明社をお参りしてな、そこで、「月祭り」の夜に、星に憑依した私にも祈りを捧げてくれた。この国の記紀神話の神と、我々ローマ十二神の神々に幸あれ、と言ってな。どうやら彼は学生時代、ローマの歴史を学んでいた頃だったので、日本の神さまと一緒に我々をも敬ってくれたようだ。その秋の「月祭り」、日本人はお月見と言うらしいが、その頃にお前さんが自分の世話をしてくれた人間にお礼をしたい、と思った声が私に届いたんだ。それを覚えていて、あれから三十年以上経ってしまったが、付喪神にしてあげられる日が来て、今日のこの日にアバターとしての姿をそなたに与えたんじゃよ。そう、船橋のホールで長くおかれていたお前さんに命を吹き込むことにしたのだ。お前さんはその時に夏見へのお礼したいということを願っていたからな。それで先日、この国の月神であるツキヨミさまと、太陽神のアマテラスさまにお会いする機会があって、ああ、そうだ、この国の記紀神話の神のおさだ。彼らに承諾を得て、ちょうど付喪神という慣わしがあることも教えてもらい、今に至るのだ」

 その声はとても嬉しそうだった。そしてこのジュピターの話だと、彼はアマテラス神の了承を得てエリーゼを付喪神にしたという旨だった。


 ジュピターの話に思い当たる部分があったエリーゼ、返事をする。

「はい。夏見君は覚えています。イベント直前の公共ホールの整理整頓のときに、私を気遣ってくれた優しい少年でした。それから数年間その役目をしてくれました。先日フランソワというという友人が、夏見は暦人だったことを教えてくれました」

「うん間違いない。その夏見だ。彼とも会話できるぞ。その時の礼を告げるが良い。まもなく夜明けじゃ、私の依り代は地球では夜しか見えない、暫しのお別れじゃ」

「ありがとうございます」

 エリーゼは納得したように一九一〇年ごろに誕生したその威風堂々とした筐体から、重く響き回る一音、「ダーン」と音を出す。ジュピターへのお礼として、グッドの頭文字として意味を持たせた「G」の一音をプレゼントをしたのだ。


『夏見と会話が出来る? 本当に?』


 エリーゼは意識を集中させて、アバターたる依り代、その美貌に恵まれた身体を動かしてみた。初めて自力で本体であるピアノの筐体から離れてみる。

『動けるわ、人間のように歩いて移動できる、凄いわ』

 月明かりが窓から差し込むなかで、初めて自らの意志で歩くことを経験したエリーゼは感動と感謝、そしてこれからの希望に心を躍らせてた。


 そして信号のように「エリーゼ、夏見粟斗と青の世界にある二人になれる場所で楽しく会食なさい。私が横浜でその準備をしてあげる。花束の招待状よ」と囁きを繰り返す知念ちねんがエリーゼの脳内に伝わっていた。

「夏見君は今横浜なのね。ところであなたは誰?」

 こちらも知念動波で返すが、その声は相変わらず壊れた蓄音機のように、

「エリーゼ、夏見粟斗と青の世界にある二人になれる場所で楽しく会食なさい。私が横浜でその準備をしてあげる。花束の招待状よ」とささやきを繰り返すだけだった。



☆☆☆

 付喪神はテレポーテーションが使える。目標物を念じることで、その目標物の近くに瞬間移動できるのだ。それはエリーゼも知っていた。以前、自分を目標にして、瞬間移動してきたピアノの付喪神が何柱もいたからだ。


「あら、エリーゼじゃない? わかるわ、この雰囲気。何度もテレポーテーションの目標にさせてもらったお友達だから、覚えているわよ。ついに百年経ってあなたも依り代を貰ったのね」

 イベント・ピアニストである湯島澪ゆしまみおの経営している横浜のピアノ博物館にいる付喪神が話しかけてきた。エリーゼに声をかけてきたのは、かつて都内の同じ販売店の展示室にいたベヒシュタイン社のピアノの付喪神であるイライザだった。


 湯島澪の父親は生前暦人だった。キンモクセイ・タブーという名誉ある時神からの恩賜と慈悲を受けた程の暦人だ。その父の人徳、恩恵から彼女は、時間を飛んで生前の父親に会うことも許されたほどだ。


 イライザの本体、堅牢なベヒシュタインも、歴史の逸話の中ではまた破壊王のフランツ・リストに耐えうる堅牢強固さを持ったピアノとして著名だった。


 華やかなローブ・デコルテの装いの依り代を持ったようで、イライザの姿は元王室御用達の公演楽器としての高貴さ、気高さに似合っていた。

「イライザ?」とエリーゼ。

「ええ、あなたはドレープ姿の依り代なのね。まるでディアナね。ローマの女神のようだわ。流石、クラッシックとジャズの両方に長けた演奏者たちのあこがれを持つ自由なあなたらしいわ。古典古代の装いね」とイライザ。

 褒められて少し気をよくするエリーゼ。

「ありがとう」

 イライザは続ける。

「テレポーテーションなんかして、船橋にいたのに横浜こっちに何の用事なの?」

「フランソワに会いに来たの。彼女の気配を目指してテレポーテーションしたんだけど……」


 イライザはドレスの身体で、倉庫の隅にあるクルミの木で作られた褐色の小さなフランス製のアップライト・ピアノをチラリと見た。フランソワは、幼少期から湯島澪が愛したプレイエル社のピアノの付喪神だ。澪が他界した父からかつて贈られた思い出の品、プレゼントでもある。


「ああ、彼女の魂ならここにはいないわ。依り代を使って連日夏見邸に入り浸りよ。居心地がいいみたいね」

「夏見?」

「ええ暦人御師のね」

「夏見粟斗くん?」

「そうそう。そんな名前だったわね。昔、船橋にいたって言っているから、エリーゼも知ってるのかしら?」

 イライザは興味なさげに笑う。

「うん、知ってる」

「あら世間は狭いわね。それで、彼に用事かしら? それともフランソワに用事?」

「ええ、フランソワは移動の目標で、本来の用事は夏見君なの。青の空間で一緒にお食事するのよ。昔話をしながら」とエリーゼ。

 イライザは頷くと、

「彼なら、いつもそのへんの近所、みなとみらいの美術館や博物館、山手の資料館、そして神社なんかをうろちょろしているはずね。なにせこの横浜はタイムゲート宝庫なの。いろいろな旧御厨付きの暦人御師がやって来ては時空を飛び越えていくわ。そんな人たちの相談役を買って出るために、日夜ゲートの様子を見ているようよ」と伝える。

「そうか。それなら港の方に行ってみようかな?」

「フランソワに用事じゃないのね?」

 再度確かめたイライザ。

「うん」

 そう言って依り代の身体のままエリーゼはピアノ博物館を出て徒歩で港の方へと歩いて行った。彼女が目指したのは、港のすぐ横にある山下公園である。横浜観光の拠点でもあるマリンタワーが建ち、戦前の豪華客船氷川丸が繫留されている公園だ。


 エリーゼが博物館を出てちょうど入れ替わりのようにプレイエル社のピアノの精、付喪神のフランソワが帰ってきた。

 胸元に赤い薔薇の花のコサージュを添えたベージュのワンピースを着ている。ちょうど彼女自身の本体、ピアノと同じ色なのだ。

「あら、お帰り。あんたの気配を目標にして、エリーゼが船橋からやって来たわよ。なんでも夏見君に用事があるんですって」

 涼しい顔でイライザがフランソワに伝える。

「えっ、エリーゼが、夏見さんに?」

「うん、なんでも二人で話したいって、その青の異次元世界の空間に連れて行くんだって言ってたけど」

 イライザの言葉を聞いて、フランソワは一瞬にして顔面蒼白。

「どうしたの?」

 イライザの言葉に、

「だって青の異次元の部屋に人間の暦人さんを連れていくのなんて……浦島太郎の悲劇を再び起こす気なの?」

「えっ? あの子、竜宮伝承の異次元世界に連れて行く気なの?」

「二人きりで話せる青の異次元空間って、そう言うことでしょう」

 少しシリアスな顔でイライザは爪を噛む仕草。そんな暗示に気付かなかった自分の落ち度と少し良心の呵責が芽生える。

『確かにあの空間に行くのだとすれば、青い景色の向こうだけど……』

 表向きには何かを思案しているイライザ。それは決して穏和な表情ではない。

 そして「気付かなかった。早く止めさせないと」とイライザは付け加えるように言った。

「イライザ、彼女、何処に行くって?」と俊敏な反応のフランソワ。

「港の方に歩いて行ったわ。彼女の新しい依り代はドレープ姿で、ローマ神話に出てくるディアナのような装いよ」

「わかった、ありがとう」

 そう言うとフランソワはテレポーテーションをして、まずは栄華のもとへと飛ぶことにした。本日の彼女のコンサート会場である芝の貯金ホールにいる国産ピアノの香りを目標に瞬間移動をする。


夏見粟斗なつみあわと……。会わない間に、もう、ずいぶんな大人になっていたのね。人間の成長って早いわ。私の世界にご招待して、不老不死の世界で、一緒にお話がしたいわ。浦島が亀を助けた時に手にしたあの永遠の時間をあなたにも差し上げます。瑪那まなとして、呪符の類いとして授けたセイヨウサンザシが、あなたを私の元に導いてくれるはず。ゆっくりとした時の流れの中で、竜宮城と同じ空間にある、あの青の異次元世界にある私の部屋で話をしましょう」

 妖精、付喪神と化して白いドレープ姿で、金髪の長い髪をなびかせながら山下公園の海岸沿いを歩くエリーゼ。薔薇のゲートが作られ、エンタシスが美しい白色大理石柱を模した公園内のオブジェから彼を眺める。まるでローマ神話のワンシーンのような光景だ。


 よく見るとドレープ姿の彼女。その首には古い亀の甲文字と呼ばれるスタイルのアルファベット書体で、Bösendorferと記された金色のピースブロックが光る。そのピースブロックをペンダントヘッドにしたチョーカーを首に着けているのだ。まるでエンブレムのように。

 しかし不思議なことに、この女性の存在に公園を歩く人間、誰ひとり気付いていない。そう、タイムゲートを行き来した時間越えの経験者である暦人たち以外には見えない存在のようだ。それどころか彼女の身体にぶつからずに通り抜けていく。物質ではないのが分かる。まるで幻灯機の映像や幻影をすり抜けるように。

 実体でないので、この依り代に物質としての性質がないからだ。

「お困りなら手を貸すよ、なんせ、私は変装の名人だからね」

 山下公園の木陰から老婆のような風体の女性がエリーゼに笑いかけた。


「ん?」


 何かの気配を察知した夏見は、埠頭の潮風の中、振り向いて後ろを見る。

 彼の目にはごくありふれた景色が映るだけだ。楽しそうな親子連れやベンチで愛を囁く恋人たちがいる。彼に視線を向ける者などどこにもいない。

「気のせいか……」

 トレードマークの黒のジャケットに偏光グラスで彼は不思議な気配を気にかけるのをやめた。慌てて木陰に身を隠すエリーゼ。間一髪で彼に悟られずに済んだ。



 その直後、海からの突風にあおられて、身体を持って行かれそうになる夏見。そのまま商品パンフレットの冊子が飛んで来て彼の腕に上手い具合に巻き付いた。


「なんか飛んで来たぞ!」とひとりごちる夏見。バタバタと風に靡く冊子。彼はもう片方の手でそれを掴んだ。


 やがて風が吹き止むと何事も無かったように穏やかな天気に港は包まれた。

「夏見君、買ってきたよ、アイスクリン。すごい風だったねえ」

「うん」

 山﨑凪彦は買い出しから戻って帰ってきたのだ。両手にコーンアイスを持っている。

 公園近くのアイスクリーム売りのおばちゃんを見つけて、懐かしさのあまり、買い出しに行った。いつものカメラマンベストにバンダナを首に巻く時代遅れなセンスが、良い具合におじさん風味に寄与している姿だ。

 二人は十代からの親友。おじさんになった今でも変わらずに親睦を深めている間柄だ。そして両者ともに第一線で時を移動する暦人御師同士でもある。


 山﨑は紙片を凝視している夏見に気付くと、

「どうしましたか? 何か持っていますね」と片手でアイスクリンを渡しながら訊ねる。

 夏見は山﨑のほうに向き返ると「いや、一瞬にして握らされた紙片があって、それを開いたらこんな文字があってさ」と紙を見せる。


『Bösendorfer』


「なにドイツ語かな? このアルファベットのオーの上に二つ点々のウムラウト文字」

 山﨑はぺろりと自分のアイスクリンを舐めてから腕組みをした。

「たしか見覚えがあってなあ。どこかでこの文字を見た記憶があるんだ」

 夏見の言葉に「こんな外国語に?」と訊ねる山﨑。

「ピアノかな?」と憶測を立てる夏見。そして「詳しいことはよく分からないんだけど」

 山﨑は「するとスタインウェイなんかと同じような近代のピアノ職人の名字なのかな……」と推測した。


 そして夏見に、「そうなると託宣ではないね。でも不思議、これ時神さまの兆しを感じる」と山﨑は加える。

「うん。そう思った、オレも。何かを教えたいのかな?」と彼の私見に頷く夏見。

「もし時神さまなら次の一手をくださるさ。気長に待とう」

「違いないね」

 暦人はこういう偶然の出来事の中で、時神さまからの託宣の暗示を受けることが多い。この紙切れも、偶然を活かした神のお告げ、任務指令の類いかと推測した。だが実際に時間を飛ぶタイムリープが来ないので、いまいち確信が持てない中途半端な状態だ。


「それにしてもこのロゴの会社、今もあるメーカーなのかな?」

 山崎の言葉に、「生産していると思うよ。たぶん。あらためて思い返してみれば、ウチの奥さんのコンサートに出かけたときにこれで弾くこともあったから」と夏見が返す。夏見の妻はピアニストの角川栄華かどかわえいかだ。最近も見た記憶はあるようだ。

「なら話は早い。栄華ちゃんに聞いてみれば?」と山﨑。

「おそらく今、コンサートの真っ最中かな?」と両手を軽くあげで肩をすくめる夏見。


「そっか、そういうことね。じゃあウチの美瑠さんに訊いてみようか? 彼女も音楽関係者だしね。いま家にいると思うんで」と山崎の言葉に、

「助かる。栄華ちゃん、今日のコンサートは二部制で帰りが結構遅いんだ」と夏見。

 美瑠は山﨑の妻。今彼女は自宅のフォトギャラリーカフェの店番をしている。

「分かった。ムリに連絡して、栄華ちゃんのコンサートに支障が出ても困るしね」と言って、山﨑は自分の携帯電話を取り出すと、自宅でもあるカフェギャラリー「さきわひ」の電話にコールした。


 ここ相南あいなみ市は湘南地域最大の都市、その郊外に山﨑の経営するフォトギャラリーカフェがある。

 美瑠はぼんやりと厨房の椅子でくつろいでいると、カウンター奥にある電話が鳴る。ナンバーディスプレイには夫の携帯電話番号だ。

「はいはいはい、今出ますよ……」

 そう言ってから受話器を上げると「はい、カフェギャラリーさきわひです」と応答する。

 受話器の向こうからは自分の夫で、この店の主人である山﨑の声だ。

「美瑠さん、今ちょっといい? お客さんで忙しいかな?」

 美瑠は笑うと、

「ぜーんぜん。いつも通り、だーれも来なくて、ド暇ですけど」とあっけらかんと答える。

「だよね。ウチが混んでいるわけもないか」とあきらめ顔の山﨑。

「あらあら経営者がそんな弱気で」と笑う美瑠。そして「どうしたの? 何か急な用事?」と本題に入る美瑠。

「うん。実はちょっと訊きたいことがあってさ」

「私に分かることであれば」と平静に答える。

「べえぜんどるふぁあ、って読むのかな、スペルはBösendorferなんだけど」とアルファベットを順に伝える山﨑。

「うん」と聴き入ったあとで、美瑠は「世界三大ピアノメーカーのひとつね」と返す。


「文字から推測するとドイツ語っぽいけど、ドイツ製なの?」

「今はどうなのかは知らないけど、もともとはオーストリアだったと思うけど」

「オーストリアか。なんか歴史を感じるな」と山﨑。


「歴史、あるわよ。歴史的にはベーゼンドルファ家の十八世紀のイグナーツとリートウィッヒが始祖って言われている。そしてピアノ破壊魔とも言われたあのフランツ・リストの演奏にも耐えることが出来た堅牢頑強けんろうがんきょうな、初めてのフォルテピアノを凌駕したモダンピアノであるって言う人もいるわ」と美瑠。相変わらず、なかなかの蘊蓄うんちくっぷりだ。


「フォルテピアノ? モダンピアノ?」

「フォルテピアノはハンマー部がソフトな造りで、弦の太さはチェンバロ、すなわちハープシコードの物に近かったとされる。だからチェンバロと同じように、すぐに壊れてしまう繊細な楽器だったの」

「どゆこと」

「まだ時代的には、華奢な造りのものだった、ってことよ。この当時、ピアノの歴史の中ではまだ発展途上だったとも言えるわ。実際、フォルテピアノはチェンバロ製作で名高いクリストフォリーによって発明されたとされるのが一般的なの」

「ふーん」

 山﨑はいまいちイメージがわかないようだ。

「技巧派として名高いフランツ・リストなんだけど、それが高じて無茶な演奏もしているから、よく当時のフォルテ・ピアノを壊したエピソードが残っているの」

「うん、なるほど、結構な大昔の人ですね」

「本当に当時のピアノはまだ進化の途中で、それほど堅牢頑強な物では無かったわ。しばしばリストだけでなく、多くの演奏家の手を煩わせることが多かったの。演奏会の途中で楽器にトラブルがあると困るでしょう。ベーゼンドルファーは見事にそれを克服したってわけ。頼りになる楽器だったのね。それで一躍ヨーロッパ中にその名声が広がったってわけ。馬鹿売れもしたって感じかなあ。まあ、一般的にはそんなところ」

 美瑠が説明を終えると山﨑は納得する。

「うん。ありがとう。そのまま夏見君に伝えてみるね」

「なに? 夏見さんから受けた質問だったの?」

「うん、何かのメッセージを彼が預かってね」

「託宣?」と眉をひそめる美瑠。

 すかさず「……じゃあないと思う。雰囲気で違う気がするんだ」と否定する山﨑。

「言い切れる?」と意地悪調の声で笑う美瑠。

「いや、そこまでは。でも私たち二人の意見だし……」と少々自信なさげに返す山﨑。

「まあいいわ。待っていれば託宣なら黙っていても次の託宣が来るしね。それと凪彦さん、このお礼は、帰りにお土産で葉山はやまモーローのカスタードプリンで手を打つから」

「分かりました」といつもの事と山﨑は了承する。

 そして笑いながら美瑠も電話を切った。静かに受話器を置くと美瑠は作りかけのホイップクリームを再びかき混ぜ始めた。


☆☆☆☆


 通りすがりの若い女性が夏見と山﨑に近づいてきた。ちょうどフランス山の麓、みなとみらい線の駅前にある公園に差し掛かった辺りだった。

「虹の国の住人です。先ほど、ローマ神話の女神のような姿をした付喪神に頼まれました。これをあなたに渡して欲しいと」

 二十代らしき年齢の彼女はぺこりと頭を下げる。それを夏見に渡して立ち止まらずに行こうとした。


「ああ、君、何処の御厨?」

 夏見の言葉に、後ろ姿のまま彼女は「船橋御厨です」と言いながら元町通りの人混みに紛れるように消えた。夏見は船橋の暦人たちも自分が関わっていた頃とは随分メンバーが替わったのだろうと感じる。そして渡されたものを確認する。

「サンザシ?」と夏見。

「だね。しかもセイヨウサンザシだな」と山﨑。

「ヨーロッパの盛春を告げる花か。ミモザやライラックと並んでヨーロッパの春の象徴ですな」と小枝を花に近づけて、香りをかぐ夏見。ふと見ると花を包む巻紙に五芒星が描かれている。何かのまじないかメッセージのように。


 その暦人の女性は夏見たちから離れると、突然宙に舞い空を飛び始める。そして「これでエリーゼ、あんたの願いは叶うんだよ、ひひひ」と意味ありげにほくそ笑んだ。


「夏見君、付喪神にセイヨウサンザシをもらうんだね」

 山﨑の質問に心当たりの無い彼は、

「思い当たることはないんだけど。しかもローマ神話の女神って……」と困惑気味に返す。そのサンザシのブーケは呪符じゅふの類いであることに二人は気付いていたが、その五芒星ごぼうせいの巻紙に宿った誘導魔術には気付かなかった。よもや付喪神の持つ亜空間世界への招待状とは思いもしなかったのだ。


「さて元町・中華街の駅に着いた」

 山﨑は夏見に券売機の二二〇円を押す仕草を促される。

「何?」

「二百円返しておくよ」

 夏見は笑うと、

「アイスクリンの代金かな?」と言って財布を出して、交通ICカードを券売機にかざし、山﨑の切符を買った。


「はい、横浜までのキップ。これでチャラだ」

「了解、二十円得した」

 キップを受け取った山﨑は軽く笑うと改札を通る。夏見もICカードでそのまま入場した。

 二人はエスカレーターに乗ると、

「ここの駅のホームって、結構地下深いんだよなあ」とぼやく。

「そうそう」

 二人は無言のまま、ベルトに手を置いてただ御身をエスカレーターに運ばれ続ける。


 エスカレーターのモーターの音は繰り返しの機械音だ。彼らの耳にはその単調な音がループで聞こえ続ける。

 何回エスカレーターを乗り継いだだろうか、延々と続くこの乗り物に、ふと夏見は山﨑に問う。

「おい、何回乗り換えたかな? このエスカレーターって」

 夏見の問いかけに、「いや数えていないけど、もう十回は乗っていますね」と真面目な顔の山﨑だ。

「ああ、そのうち地球の後ろ側までいけちゃうかもな」と負け惜しみのような顔で夏見は笑う。心なしか力ない笑みだ。

「やられたようですね」と山﨑。どうやら亜空間の絶対生物の仕業であることは理解したようだ。辺り一面が青色の光がさす空間の中だ。そこを彼らの乗ったエスカレーターだけが存在している。


「辺り一面、青い世界ですね」

 山﨑の言葉に「時巫女の仕業かな?」と問いで返す夏見。

 夏見の言葉に「この貰ったサンザシの花束が鍵かもですね。いずれ分かるでしょう」と花を見つめて笑う山﨑。

「そうだな」と負け惜しみの顔で花を見つめて、夏見は諦めた。


 やがて青色の世界が終わった頃に次の異変が起こる。

 山﨑は、「夏見君、エスカレーターが……」と少々困惑気味に足下を指さす。足下のエスカレーターの階段ステップの段々が白黒の板に変わっている。それと同時にサンザシのミニブーケは夏見の手から消えていた。

『招待状の役目を終えたから消えたのか……』

 偶然にも夏見と山﨑はシンクロして互いに呟いていた。

 

 そして鍵盤のデザインになってしまったエスカレータのステップを見て、

「おお、これは凄い。最近のエスカレーターはこんななのか。芸が細かい」と夏見。半分やけくそだ。周囲の異次元的な変化をむりやりデザイン仕様や装飾と思うことにしている。

 二人の足下のエスカレーター、乗降のステップにはピアノの鍵盤が並んで動いているのだ。

「オレはいまハ音にいるな、山﨑はト音かな。あとミのところに人が乗ればシーメジャーの和音が完成だ」


 悠長に聞こえるかも知れないが、引き続き夏見の困った状況の時のやけくそモードが始まっている。長い付き合いの山﨑には既にその台詞の様子で、夏見の気持ちを理解していた。そして両者ともにこの異変が時空関連とも悟っている。なぜならさっきまで前後にいた他の客の人たちがいなくなって、鍵盤型のエスカレーターに乗っているのが自分たちだけだからだ。まるでサンザシの花束が消えたのと同時にこの風景が始まった。


「とんだお招きにあずかったようだ。何処まで落ちていくのかな。オレたち」と夏見。

「ギター弾きに鍵盤の問題はちょっと難しいよね」と山﨑。

「それでも山﨑、お前さんと一緒で良かったよ。ハム太郎と一緒よりはなんぼかマシだ。あいつ音楽はからっきしダメだからな」

「そうだね」と笑う山﨑。


 いよいよ二人の行く手には乗り継ぐエスカレーターのない踊場が見えてきた。

「終点のようだ。一体ここは地下何階なんだ?」と夏見。

 固唾を呑んでその踊場を出迎える二人。エスカレーターの先、踊場の壁面に扉が見える。観音開きの扉には大きなト音記号が描かれていた。

「シャープやフラットはなさそうだな」

 夏見の言葉に、

「なにもこんな状況でジョークなんか……」と言う山崎に、

「いや、ジョークじゃない。状況判断のひとつだ。亜空間はおおよそ何かを模したイメージの具現化空間が多い。音楽に関する記号化世界が現れた以上、それに対応できる状況判断の気構えのようなモノさ」と夏見は答えた。

「時間移動の時の状況判断?」と山﨑。

「役に立つかどうかは分からないけど、託宣の時のそれと同じスタンスだ。一応ハ長調ということは頭に入れておこう。ト音記号の横にシャープやフラットがいくつかあればそれが別の調を表しかねない。そこはひとつの観察点だ。そしてフラットやシャープを正すデフォルト作業はナチュラルという符号だ。それも何処で見つけておかないと……」

「そっか」と納得の山﨑。二手三手先の用意、夏見の用心深さは共感できる思考だった。暦人たるもの状況の見極めは怠らないことは必須だ。

「考えられることや想定しうることは先に予見しておく。それがオレたちの仕事の上でのノウハウだからな。いわば使命のひとつだ」

 夏見の言葉に無言で肯く山﨑。


「実はな、山﨑」と夏見。

「なんだい?」

「この鍵盤に変わってしまったエスカレーター、その昇降ステップの足下にある階数表示見てみろよ」

「え?」

 そう言ってエスカレーターの降り口にある金属板で出来たステップを指さす。通常であればビルの階数を表す表示場所の金属板ステップ。そこには『88』の数字が刻まれていた。

「地下八十八階ってこと?」

「まあ通常のエスカレーター表示と同じと考えればそうなるね」

「地下八十八階って、どんな地底人の世界かな?」と山﨑も少し困った顔になる。

「さあね」と肩をすくめて諦めモードの夏見。

「でも何かのヒントだね」

 山﨑の言葉に「このメッセージに近いもの、今、オレの脳裏には二つの選択肢が浮かんでいるよ」と夏見は返す。

「二つ?」

「ああ、ひとつは五月の今、八十八夜を表す意味。夏の始まりで五月の始まりだ」

「うん」

「もう一つは、エスカレーターが鍵盤化されていたので、ピアノの一般的な鍵盤数八十八鍵だ」

 山﨑は気付いたように、「あ、そうだね」と嬉しそうに頷く。『流石、夏見君』と相変わらず夏見の臨機応変な対応に山﨑は、彼の頭脳が相変わらず明快なことを悟る。


「鍵盤のエスカレーターに、ト音記号の扉となれば、後者の可能性が高いとみているんだ」

「うん」

「しかもこの不思議な現象は時神さまの託宣ではない。いつもと雰囲気が違うんだ」

「うん、それはわたしも思いましたよ。時間の動きはなさそうだ。いつもの託宣の時の気配を感じない」と山﨑。ベテラン暦人御師二人の意見は一致した。

「……となれば、時巫女、時の翁、付喪神のいずれかになるぞ。こんな魔法使いのような別世界を作れるのは。……でなければ狸阿たぬききつねの仕業だよ」と悔しそうに笑う夏見。してやられたと言う気分のように見える。

「俗に言うアナザーワールドってヤツだね」と山﨑。

「ああ、意味の分からない独断で出来た自分勝手な世界ってことさ。ある意味サイケな世界だよなあ。変な世界に招待されたもんだ」

 二人は顔を見合わせてあきれ顔で頷いた。

 そして夏見は続けて「それでこの不思議世界の創造主はオレたちに何の用事かな?」と扉に向かって言った。

「そこは中に入ってみないと分からないですよ」と山﨑はト音記号のある扉の前で言う。

「そうだな。どうせ下りオンリーのエスカレーター、後戻りも出来ないしなあ」


☆☆☆☆☆


 角川栄華はコンサートを終え、楽屋に戻った。昼夜ダブルヘッダー、いつもより長めの演奏に栄華はへとへとだった。

 その楽屋控え室には、ベージュのワンピースに薔薇のコサージュをつけた金髪の美女が座っている。勿論プレイエルのピアノ、楽器の精霊、付喪神つくもがみなので、変幻自在で容易く楽屋にも入れる。


「あら、フランソワじゃない? どうしたの? 今日はみおさんのお相手はしないの?」

 クタクタな状態ながら手ぐしで髪を整えながら栄華は作り笑いをする。華やかなドレス姿だ

 改めて紹介すると、このフランソワ。栄華の先輩格に当たるピアニストの湯島澪ゆしまみおの所有するフランス製プレイエル社の家具調アップライトピアノの化身、付喪神である。そうエリーゼたちと同様に百年経って命を与えられた付喪神で、イライザから夏見のピンチを教えられた付喪神である。


「それどころじゃないから、今日は栄華ちゃんのところにやって来たんじゃないですか」

 息急きかけて来た様子で、前屈みで栄華のもとに駆け寄り話し始める。付喪神も息切れするのである。

「なにか急ぎ?」

 何も分からない栄華は疲労困憊の中、楽屋のソファーにバタッとなだれ込んだ。

「お友達のイライザが教えてくれたの。急がないと夏見さんが取られちゃうかも」といきなり結論から入るフランソワ。焦りからか、用件がフライング気味で言葉が少し足りず乱雑だ。

「粟斗さんが? 取られちゃう? 何それ?」

 軽い笑いをしながらも顔をしかめる栄華。彼女の言葉が乱れていることと、自身の疲れもあって、いまいち頭が追いつかない感じだ。

「エリーゼが付喪神なって動き出したの……あの竜宮城と同じ空間に連れて行かれて」

「エリーゼ? 竜宮城?」

 単文で、しかも脈略もないフランソワの説明は、どうも要点をついていない。伝わりにくいし、いまいちピンとこない。話を聞きながらも、簡単なカジュアル着に着替え始めた栄華。セーターとスカート、上下そろいのニット姿。着替えながらの会話だ。

「誰?」

「付喪神よ、オーストリアから来たピアノの。そして長く船橋の公共センターでお勤めしていたわ」と手短な説明で既に焦れている様子のフランソワ。あのおっとりしているフランソワが珍しく慌てふためくと感じる栄華。ここで漸く、ピンときたのか、ただ事では無い事態と悟る栄華。

「船橋。結婚前に粟斗さんのいた町ね。神明社と御厨があるわ」

 的外れな言葉を並べる栄華に業を煮やし、勝手に焦れたフランソワは、「もう、そういう話じゃない」と言って、着替え終わった栄華の手を引いて、「一緒に来て」と言った。

 フランソワは、自分の胸にある薔薇のコサージュを反時計回りにクルクルと回すと、明らかに暦人たちが使うような時の扉とは全く違う毛色の異次元のゲートを空間に作り出した。それは光をも屈折させて吸い込んでしまう、まるでブラックホールのような穴だった。

 手を繋いだまま、着替えすぐのニット姿の栄華を引っ張って、その穴に飛び込むフランソワだった。

「ちょっと、フランソワ!」

 いつになく強引なフランソワの行動に栄華もただ事ならない事態であることだけは推測がついた。ただコンサート直後で、頭の切り替えが済んでいない栄華だ。明確に理解が出来ていない。


 フランソワがエリーゼの気配を追ってテレポーテンションした場所、そこは異次元空間の小さなスペースだった。壁一面が扉だらけの部屋である。

 小さな音量だが微かに夏見の声が聞こえてくる。

「彼女の世界の入口までは私も付喪神なんで来ることは可能なの。同じ空間を共有できるから。でも彼女が作った空間は、彼女の個室みたいなもので私には入れない。そこに入るには鍵が必要なの。それはゲートオープンの呪文みたいなもので、どこかに入るための仕掛けのドアがあるはずよ」

 腕組みをして悩む栄華。

「そういう空間を付喪神は持つことが出来るのね」

「うん。ここがさっき言っていた竜宮城のある空間世界と同じ場所なの」

「なるほど、時間の経過が止まっている分、外の世界よりも爆速で時間が過ぎている場所なのね」

「うん。でもこの世界の食べ物を口にしなければ、その効果には触れないものだからから安心して」

「OK、食べ物と飲み物に気をつけるわ」

 壁の向こうでは相変わらず、遠い声だが夏見たちの会話が聞こえているのが、栄華とフランソワには分かった。


「扉の中に入ったはいいが、壁には五本線、オレたちは音譜か? 四分音符なら四人必要だから差し当たって、二分音符か、あるいは休符だな。オレたち二人は」

「夏見君、冗談言っている場合じゃないですよ」

 山﨑はこの状況に少し焦りを感じていた。


 その部屋は四方を閉ざされた状態。入ったドアも閉めたら消えてしまったのだ。付喪神の作った恣意的な空間は当然、論理や摂理、おまけに法則性など全くない。なので脱出など不可能なのだ。鍵を開けられるのは、この理不尽な世界を作ったエリーゼだけだ。密室もここまで来るとお手上げである。ポアロの灰色の脳細胞をもっても脱出はムリと言えよう。

「閉じ込められたよ……な」と夏見。

「うん、結構やばいですよ」と落胆を隠せない山﨑。

「歌でも歌うか? 音譜の部屋だけに。ちょうどカラオケボックスみたいだしな」

 言っている夏見も空元気なのが山﨑にも分かった。


 「粟斗さん!」

 呼びかける栄華。どんどんと壁を叩いてみる。

 栄華は何とか聞こえないかと声をかけ、音を出すが、依然として夏見と山﨑の話し声は、こちらにお構い無しと言った感じで、壁の向こうから聞こえる。だがこちらの呼びかけには応答してくれない。

「なんで聞こえないの?」

 栄華の質問にフランソワは、少しだけ俯くと、

「ここは精霊になった、そう付喪神として絶対的な存在になったエリーゼの創り上げた異次元にある仮想空間ですから。ある意味、恣意的で私利私欲な異世界。彼女に都合の良い環境を彼女自らが創造している世界と考えられます」と悲しげに言う。

「エリーゼの仮想空間? 頭の中? ピアノの筐体の中って事?」

「はい。付喪神の持つ霊威の一つです。でもベースとなる空間自体はさっきも言っているけど竜宮城と同じ空間に存在しているんです」

「竜宮城? 昔話の浦島太郎さんのですか?」

 あらためてそのワードに関心を示す栄華。

「はい、もしそこで仮に夏見さんがエリーゼの催す宴に参加したら三日間の出来事が、私たちの世界での七百年になってしまうの。その昔話と同じです」

「なんですって! あの鯛やヒラメの舞い踊り、ってヤツよね。だから食べ物を口にしてはいけないって禁忌ルールがあるのね」

 フランソワは静かに頷く。

 栄華は驚愕した。暦人でも驚異の気分である。そんなお伽話のような時間の流れが身の回りに存在するのか、と夢と現実の境があやふやだ。


「それはなんとかしないといけないわ」

 あらためて栄華は目の前にある壁に注目する。いくつものドアがあり、どのドアが夏見たちのいる部屋に繋がっているかが分からない。片っ端からあけるべく、開いてみるが、あけるとそこには壁があって、中には空間がない。というより、壁にただドアが貼り付けられているだけでホームセンターのドア売り場の見本品のような状態だ。

 ただ白と黒のドアが規則的に並んでいる。そしてドアの向こうはこの部屋の壁があるだけ。そして夏見たちの乗ったエスカレーターと同じで、見た目はあたかも鍵盤のような配色。

「何なの、この意味のない鍵盤みたいな沢山の扉は」とけちつける栄華。彼女がいらだつのは珍しい。

「そもそもピアノの精霊がなんで人間、それも暦人の粟斗さんを必要としているのよ?」

 すると儚げにフランソワが思い当たる節を栄華に告げる。

「それはエリーゼにしかわからない。あの昔話と同じく恩返しなのかも知れません。私たち付喪神が霊威をこめる花がサンザシというのはご存じですか? 特にピアノの精だと結構な数で舶来品ですから、セイヨウサンザシなんです。その花が霊威を強くします。何の呪符の霊威を強めているのかが分からないんですけど」

「セイヨウサンザシ? 何れにしても昔話と一緒で迷惑な恩返しだわ。まあ粟斗さんがそれにのっかるとは思えないけど」

 栄華は腕組みしたまま、「由々しき問題だわ」と加えると懸念を眉間で表現している。

「そうですね」と頷くフランソワ。

「それで最終的な目的はあるのかしら?」

「夏見さんにとっての絶対的な存在になれるの」

「絶対的な存在?」と栄華。

「人間社会で言う『妻』のようなもの」

「妻って。私がいるんですけど」と腑に落ちない顔の栄華。

「結婚とかそういう制度上の話ではなくて、ともに生きていく連れ仲のような類いです。私たちのような存在の場合は、特に家族や子どもなどは意味ないし、作れないから」

「ますます迷惑な話だわ。大体なんで付喪神が依り代を持って人と連れ合いになれるのよ」と憤慨する栄華。


「依り代は神さまがくれるご褒美。これは古今東西違わぬ霊威です。古くは人形に命を吹き込んだピグマリオン神話のような世界観」とフランソワ。

「あのフランツ・フォン・スッペの『美しきガラティア』やジャン・ジャック・ルソーの戯曲の元となったキプロス王の『ピグマリオン』の話ね」

「うん」

「マンガなら『妖怪人間ベム』って感じかしら? 人間になりたいっていう」

 栄華もおおよその状況が推測できるようになってきた。

「大体合っているわ、大雑把だけど」

 そう言ったフランソワは、

「誰の目にも見えず、タイムゲートを通った経験のある人だけに見える抗体が付く身体になって、その意思疎通ができる相手が増えることになるモノ、物体。ようやく孤独と寂しさから逃れることが出来る姿になったんです。即ちアバターになった付喪神はずっと自分のお気に入りの人間とともにいたいという禁じ手に陥る」と心配そうに言う。

「なるほど悪意と言うより、甘えと切なさから来るモノね。なら大丈夫」と不敵の笑みを浮かべる栄華。

 栄華の凄いところは相手の正体が分かれば、怯まずに対峙する姿勢を持っていることである。


「エリーゼちゃんね。ベーゼンドルファーか……。かなり由緒正しき良いピアノよね。エリーゼの筐体の特徴。ということは……左側に……隠し扉の可能性ね」と独りごちる栄華。まるで名探偵気取りだ。親指の爪を噛みながら、目を細める栄華。

 ピアノの鍵盤のように並ぶ、いくつもの白と黒の扉が続く壁面を、彼女は左へ左へと歩き始めた。鍵盤で言う低音部だ中央ハ音C4から左側へ歩き始める。


 譜面台とみられるゲートから入口で夏見たちは筐体に入っている。それはト音記号と五線譜がヒントとなる。夏見はその状況と場所を分かっていない。

 対して栄華はその下の部分、鍵盤部分にいるのだ。夏見と違って、彼女はその自分たちのいる現在地を把握できているようだ。その証拠に、ピアノの筐体概念に入り込んだ栄華たちの前には鍵盤に似せた白黒のドアが並んでいるが、相変わらず、彼女は左へ左へと行くことに何らかの策を持って行動している。

「どうしたの、栄華ちゃん、左へ左へって、位置的に低音部の鍵盤に行く気?」

 フランソワは不思議な顔で訊ねる。

 栄華は確認事項をフランソワに問う。

「もともとエリーゼはベーゼンドルファのフルコンピアノの付喪神よね」

 栄華の再確認に「そうだけど」と首を傾げる。

「だったら私の記憶がただしければ、粟斗さんたちがいるお部屋は白の扉でも黒の扉でもないわ」

「なに?」

「仮にベーゼンドルファーのModel 290を仮定すると、鍵盤数は97鍵、すなわちC0~C8までの音階を持つわ。普通のピアノは88鍵なの。それより鍵盤が多いの。使っていない低音部が出せる隠し鍵盤が漆黒カバーに被われて存在するのよ。もし私の推理が正しければ、その隠し扉の向こうに粟斗さんはいる。そして雲隠れするための隠し部屋としてその場所を使っているはず。ベーゼンドルファーの多音階機能を知らない人はその漆黒カバーにすら気付かないわ。ピアニストと調律し以外はあまりそんな鍵盤を持つピアノの事なんて知らないで方から 」

 やがて栄華の予想通り、言葉通りに二人の前には、横長の漆黒の壁面が現れた。

「ほら」


 そう言うと栄華はニットスカートの腰のラインをごそごそと少したくし上げて、裾を膝上丈にまで持ってきた。全体を動きやすいように上げてみた。ニットのスカートが急な運動で伸びないようにという配慮だろう。何をしでかすのか、とフランソワは気が気でない。彼女にとって栄華の行動はそんな風に見えるのだ。

 そして徐に、そして思い切り、仕切り板と思われる漆黒の横長の壁面をドンと前に蹴り押した。意味は違うがこれも一種の『壁ドン』である。

「とおりゃ!」

 仮面ライダーも真っ青のライダーキックである。蹴った瞬間音符のナチュラル符号がマンガのように飛び出して消えた。これは既述の通り元に戻すの符号である。

「わっ!」と驚くフランソワ。

 その漆黒の板は隠し低音鍵盤カバーであり、その板の向こうにある鍵盤風ドア諸共動かして、夏見のいる部屋の側、すなわち向こう側に観音開きでオープンした。


 扉の向こうでは驚いた顔の夏見が呆然と立ち尽くす。

「夏見さん!」とフランソワ。栄華の思惑は正解、そして成功である。

『当たった! 良かった正解だ』と内心安堵する栄華。

「粟斗さん、無事ね。助けに来ました」と栄華。

 それに軽くは相づちを打った夏見だが、栄華の顔を見て、またも驚いた顔だ。そして落ち着いて、一度呼吸を整えてから言葉を発する夏見。


「あの僕のお嫁さま」と問いかける。この言い方をするときの夏見は大体栄華にツッコミを入れるときだ。

「粟斗さん無事で良かった」と笑顔の栄華だ。安堵感が漂う。

 本来ならここで感動の再会となるのだろうが、夏見はまだ呆然と立ちすくんでいる。口をポカンと開けたまま。

「粟斗さん?」

 微動だにしない夏見の様子を見て、目を見開いた状態で、ぽかんと首を傾げる栄華。夏見は夏見で、彼もやはり相変わらずポカンとしている。端から見ればヘンテコ夫婦だ。横で山﨑だけが赤くなって俯いている。


 そしてゆっくりと夏見の方が口を開いた。

「あのお、僕のお嫁さま。早くその蹴りあげたポーズの足を下ろさないと、パンツが丸見えなんですが……色っぽいのは二人の時間だけにしておいて下さる方が楽しみも増えるので」と指摘。ジョークめかしての夏見らしい指摘である。

 慌てて足を下ろすとスカートの膝上に手をやって中腰に屈む栄華。赤面で顔をしかめた。

「もう、粟斗さん!」

「いやオレ、悪くないと思うよ」とあきれ顔の夏見。

「そうだけど、もっとねぎらってください。こんな大変な思いをして助けに来たんだから……」

 バツの悪い栄華は大活躍の割に歯切れ悪い。真っ赤になって耳たぶを押さえる。

「はい、ありがとうございます。おかげで密室から脱出できました」

 先に礼を述べたのは山﨑だった。

「あはは、どういたしまして」と丁寧な挨拶をする栄華。バツの悪さもひとしおの体裁だ。


「その辺の問答はお家に帰ってからやってもらうことにして。エリーゼを探しましょう。意識の実体はこの中にいるはず」

 そう言ってフランソワは辺りを見回す。夏見と栄華、二人のやり取りは犬も食わないと言った感じだ。

 やがて外気にさらされた風が皆の頬を撫でる。どうやら何かの力が働いて、仮想空間ごと消し飛んだのだ。夏見が他の部屋と繋がってしまったことで、恣意的な空間は消滅する仕組みだ。

 気付くとエリーゼの作った空想空間など、どこにもない。栄華のすさまじい気迫と蹴りの効能から異次元世界は跡形も無く吹っ飛んだと言っても良いだろう。

 夏見、山﨑、栄華、フランソワは再度辺りを見回す。あたりはいつもの見慣れた横浜、屋外の景色だ。そう、一変して辺りは現実世界。まるで狸に化かされた後のような感覚である。


「ここフランス山……の麓?」

 四人の声は重なった。横浜の中心部である。山そのものが公園である港の見える丘公園、その一部が古くからフランス山と呼ばれているので、公園全体をそう呼ぶ地元民も多い。

 傾斜地にある公園の平坦部分の入口。すなわち山の麓である。もともと夏見たちがいた元町・中華街駅のすぐ横だ。


 その公園の向こうにある小高い丘にあがる木道から続く木製階段の下でシクシクと泣く姿の女性を見つける山﨑。

「夏見君、あれ見て!」

 その言葉に振り向くと膝を抱えて座り込んでいる姿があった。それは白いドレープ姿で、金髪の長い髪、そう、横浜の公園で夏見を見ていたエリーゼだ。彼女の腰掛けている階段の横には、辺り一面サンザシの花びらが散らばっていた。そうあの通りすがりの暦人、いやあの魔女が夏見に渡した花束だ。


 フランソワが急いで駆け寄る。

「エリーゼ」

 両手で顔を覆いすすり泣くエリーゼ。

「もう終わりだわ」

「どうしたって言うのよ?」

 背中を優しく撫でるフランソワ。

「花束が……」

 相手が妖精とは言え、栄華は少し申し訳なさを感じる。すると風が彼らの横をスッと通り抜けた。


「時神さま……」

 フランソワが驚く。低頭しながらも、フランソワは暫く風と会話するように頷いたり微笑んだりしていた。八百万の神でもあるフランソワの表情に笑みが生まれていた。頭を抱えて佇むエリーゼにはその姿は見えていないようだ。おそらく時神は変化自在で、相手を選んで姿を見せているようだ。


「散っちゃった花びら……」

 落ち込むエリーゼに、

「なによ、そんなこと」と時神との会話を終えたフランソワが笑う。

「そんなことって。大事おおごとだわ」

「そんなことないわ。今ね時神さまが私に事の顛末を教えてくれたの」

「なにを」

「ジュピターが時神さまにお伝えしてくれたそうよ。とどめを刺して、その花束を散らしたのはジュピターらしいの」

「えっ?」

「夏見さんを永久とこしえの園に連れて行かなくて良かったわ」とフランソワ。

「どういうこと?」


「その霊威のこもった花束をあなたに与えたのはモーガン・ル・フェイ、別名モルガーナだったそうよ、イタリアでは死の女神ファタ・モルガーナなんて呼称もあるわ」

「あの魔法使いの?」と問うエリーゼ。

 静かに頷くフランソワ。

「そもそもこの永久とこしえの園とあなたの概念を結びつけるなんて技を何処で知ったのよ?」


「港の、海辺の公園にあるエンタシスの白色の柱のところで夏見君を見ていたら声をかけられたの。五芒星のスカーフを巻いた優しそうな付喪神のおばあさんに。付喪神だって言ってたのよ。そしてこの花を彼に渡せば、二人の世界と時間が作れるよ、そこでゆっくり話すと良い、って教えてくれたの。そして自分がそれとなく渡してあげるから、って。あの公園に潜んで、付喪神のフリをしていたのかな?」


「え、状況はともかく、それがモルガーナになんで得になるのか分からないわ。でも言えることは悪意の塊って感じの行為ね。浦島太郎と同じ苦痛を夏見さんに与えるところだったモノ」

 その言葉にあまり気にしていない様子で、「ま、オレ暦人だから自分でタイムゲート使って帰ってこれるけどね」と笑う夏見。


 微笑んだ後、フランソワは続ける。

「時神さまのお告げによると、あの魔女、モルガーナはペルセウスが切り落としたメデューサの首からしたたり落ちた血にさらした巻紙で花束を包んであなたに見せたのよ。今、そこに散った状態の花束ね」

「あのそこにある破れかけた五芒星の描いてある巻紙ね」

「そう、その巻紙が不幸の始まりみたい」

「しかもメデューサの血って」と言ってエリーゼは顔面蒼白になる。

 その血相を変えた表情にフランソワは、「知っているようね」と頷く。


「蘇生効果と石像化の象徴。あの瓶の液体を身内、胎内に入れたり塗ったりすると、付喪神は折角もらった、吹き込まれた命と依り代が無くなるのよ。あなたは筐体の時間を戻されることになる。人間なら老人が赤子になるって事ね」

「ピアノの場合は?」

「材料に逆戻り。さながら木材と金属片ってところかしら」

 寂しい口調ながら淡々と話すフランソワ。

「なんてこと!」


 エリーゼの言葉に、「でも以前も同じようなことがあって、あなたのおかげでようやくそれが理解できたのよ、今回は間に合って良かったわ」とフランソワは悔しそうに、噛みしめるように言う。

「前回は間に合わなかったの?」

 エリーゼの言葉に無言で頷くフランソワ。

「その同じような事件っていうのはね、消えてしまった付喪神がいた話なの。もう今は製造会社自体がなくなってしまった明治時代の国産オルガンの付喪神だったわ。それが、かつてあの湯島工房のピアノ博物館にはあったの。それが突然消えてしまったの。その手がかりがやはりこの花束だった。私とイライザは躍起になって彼女を、国産オルガンの付喪神を探したわ。でもその痕跡は香りごと消し去られていた」

 そう言ってから、「見て」と彼女は自分のバッグから二枚のリーフレットを取り出す。


「こっちが二〇〇〇年のピアノ博物館の説明案内。これが私の主、澪ちゃんが代表に就いてからの現在の案内書きね」

 そう言って、公園の遊具を机代わりに二つのリーフレットを広げて見せた。その印刷画像写真から漂う異様な気配にエリーゼも驚いた。同じ角度から写した二枚の写真。そこにあるべき筈の中規模の国産オルガンの一台が新しい写真からは消えているのだ。あった場所は不自然なスペースとなって空いている。


「ここにあったはずの扇蔓おおつる楽器のオルガンが無かったことになっているのよ。もちろんこの古いパンフは、付喪神の私が所有していたから呪詛じゅそや魔法にかからなかっただけで、世の中の同じパンフは、すでに新しいパンフと同じ配置画像になって、この扇蔓ブランドのオルガンは最初からここに存在しなかったことになっているのよ。……このショールームには最初から扇蔓のオルガンなど置いていなかったというショッキングな現実ね。この時はショールームで依り代をもらっていた者はみんな震え上がったわ。だって自分の存在がいとも簡単に消されるのよ」

 フランソワは相変わらず神妙な面持ちだ。


「ええ?」

 額に汗、掌にも汗のエリーゼ。信じられない話だ。そして「どういうこと?」と目を細めて、怯えるようにフランソワに訊ねた。

「今回と同じ逆戻りよ。モルガーナの呪符の効果だわ」

「逆戻り?」

「つまりピアノは木材や金属の組み合わせよね。その木材なら、切られなかった状態になるので、きっと山林の中で木のまま生き続けるって事よ」

「ええっ?」

「製造番号は欠番。理由は規格外商品として廃棄処分になったと工房の書類には記されるのよ。私たち、凄く気になって以前、ピアノの付喪神が集まって扇蔓オルガンの行方を追ったの。イライザなんか、三日三晩もアバターのままでいたからふらふらになって帰ってきたわ。それでも分からなかったので、イライザと私は、多岐先生と浜松の暦人御師の春華さんのところにまで行って、調べてもらってようやく分かった。楽器に詳しい暦人御師だったので、助かったわ。そして教えてもらって初めて知った現実なの」

「じゃあ、私がその花と一緒に夏見さんとの異世界に行ったら……」というエリーゼの『たられば』の話に、

「間違いなく夏見さんは七百年後の住人ね。そしてあなたは宴の後にアバターごと消滅。日本には来ていないし、なんならヨーロッパの山中で木のままってことも大いにあり得る」と素直にフランソワは訊かれたことに答えた。


「こわすぎ」とエリーゼ。震え上がっている。


「ええ、物凄く怖い話だわ」

「じゃあなぜあの老婆は私にそんな偽情報を渡したのかしら? 変身して夏見さんに花束を渡して」


「そこはオレが知っているよ」と、夏見は笑顔で話しに入ってきた。

「まとめるとさ、モルガーナの魔法の意図、矛先は付喪神。その魂を食らうのさ。時空の怪物であるモルガーナは百年以上の生命を持つ付喪神の魂を食べて自分の寿命を百年延ばす。日本にもモルガーナのような魂を食らう鬼女きじょ伝説はある。同じようにあの空間を利用してきたんだろう。当然他人の時間を奪うのだから、宴の食材にされた付喪神の時間はゼロに戻り、なかったことになる。そこに立ち会った人間は七百年のすっ飛んだ時空を彷徨う。昔、大先輩の暦人御師だった師匠、文吾さんから聞いているよ。浦島太郎とかぐや姫の伝説に準えた時間物語の影の真実をね」と頷く夏見。

 山﨑は「初めて知った」と驚きの顔だ。

「それともうひとつお教えしよう。オレがもしその異空間におよばれしても、君と一緒に居続けることには限界があるよ。それは主と付喪神の関係だ。君には船橋の文化センターさんという主がいて、そこのスタッフが唯一無二の存在なんだ。それ以外の人間とはアバターのままで長時間いられない。それはある意味、かぐや姫と帝の存在、状態に近いモノがある」


「こんどはかぐや姫?」


 それに頷くフランソワ。

「そう、私たちと人間の関係、それは現実には『竹取物語』のワンシーンのような関係。暦人は帝、私たちは「なよ竹のかぐや」という関係なの。同じ場所に存在しているように見えるけど、実際にはパラレルな世界に存在しているの。だから個体として人間と一緒にどっぷりと生活は出来ないはず」と例え話を言う。

「うん、そうそう。かぐや姫ってそういう存在だったね。帝がかぐやの噂を聞きつけて妻訪つまどいをした場面のことだ」と山﨑。

「それって、かぐや姫の家に強引に入ってきた帝がかぐや姫を抱きしめようとすると、かぐや姫は影となって、実体はすぐ隣にいる。まるで忍術の空蝉うつせみの術のように実体がすり抜けて、影だけがその場にあるというヤツね。ただ触っている感触は残るけど、そこまでどまり。物としての実体ではない。属性の一部を触手できる程度なのよ」とフランソワ。

「そう。互いに見えているようには見えても、それは視界と幻影だけ。現代で言うアバターとかアイコンの類いよ。私たちの実体はあくまでピアノ、そこから派生して動けるだけの付喪神なのよ。勘違いしてはいけないの。どこにもそんな美談など無いって事」とも付け足した。


「所詮、おとぎ話はおとぎ話でしか無い、ってことだね」と夏見。現実主義者の本質が出る。


「ただ言えることはエリーゼさんを狙っている何者かがいた、って事だけは事実だな。なんとか防御策を考えないと」と山﨑。

 その時エリーゼはもう一度、フランソワの持っているパンフレットを見た。何かに気付いたようだ。

「あ、これ」

 扇蔓オルガンの黒いボディの横にある金文字のロゴと一緒にエンブレムがあった。それは扇マークの中に五芒星である。

「ねえ、その扇蔓オルガンのサイドにあるロゴを見て!」

 エリーゼの言葉に反応して、栄華は遠慮がちに、「うそ?」と呟いた。

「エリーゼ、こいつは神のおこしたパラドクスや託宣の類いかも知れないよ」と夏見。

「うん」と山﨑。

「どゆこと?」

 栄華の言葉に、

「助けを求めてあの場所に現れたのかも。エリーゼの危険を知らせるために。桜ヶ丘御師のオレたちを動かすために。それで時神さまのお慈悲がエリーゼに与えられて、今回の惨事回避に繋がったんじゃないかな?」と夏見。

「なるほど」と山﨑。

 栄華はそのまま皆に向かって、

「エリーゼを守るために私に妙案があるの」と提案する。

「妙案?」と皆。

「この件、私に任せてくれる。悪いようにはしないから」と栄華は軽くウインクした。


☆☆☆☆☆☆


 あの事件から半月ほどがたったある日。その夜明け頃、オレンジ色の光に晴れ渡る空、大きなトラックの荷台に積載された荷物台パレットの上でしっかりとワイヤー固定されたピアノが一台、丁寧に横浜のピアノ博物館へと運び込まれた。

 配送員たちが十人以上で台座のパレットの下うけ車輪を転がして、『ソレイユ・ド・オール』の事務所前から隣のピアノ博物館の大きな搬入口へと移動した。


「思い切ったことさせちゃったかしら?」と栄華。

「思い切った事ねえ」と湯島澪ゆしまみおは謎めきながらも茶目っ気たっぷりに栄華に笑う。

「うん。ご協力ありがとうございました。おかげで予定よりも早く『子どもピアノ館』の開業にこぎ着けそうよ」と礼を言う澪。

 栄華も栄華で深々と頭を下げる。

「この行き場を失った大切なピアノをこの先も保存してくれるところは澪さんのところしかないって思ったから」

 運ばれていくピアノを目にしながら、オーナーの澪に言った。


「まあ、考えて見れば、思い切ったことではないわ。だって市価の半額以下で名器を譲ってもらえるなんて、こちらにとってもラッキーだもの。どうしてもこの施設の開館にはベーゼンドルファーが必要だったの。それも鍵盤数のおおいものがね。もう既に三大ピアノの二台はそこの奥に待機しているしねえ」

 そう澪に言われて、栄華は搬入口の先を覗く。確かに中には既に、パレットに載ったイライザとは別のベヒシュタインとスタインウェイらしきピアノの形をした何かが布に包まれた状態で置かれている。


「三台が並ぶのね」と栄華。

「私ね、ピアニストとしては大成功はしていないけど、ピアノ教育者としてはそこそこ社会に貢献してきたつもり。そこは天のお父さんにも胸をはって言えるんだ」

 思い出すように言う澪。

「うんうん。ピアノ学習者にとっては大きな戦力だわ」と大きく首を縦にふって頷く栄華。

「ピアノを愛する気持ちは誰よりも強いのよ。そんな思いを次の世代にも分けてあげたいの」

「それでフルコン三台を、子どもたちの実体験の教材として常備しておこうという施設なのね」

「うん。良いモノを早いうちに知ってもらいたいのよ。それで弾いてみて、初めてわかる譜面表記というのもあるでしょう」

「確かに鍵盤数やペタルの役割は、実器じゃないと分からないものね」

「そういう名器に触れて初めてわかる部分を勉強させて、味あわせてあげたいの」

「私もこういう特別なピアノに初めて触ったのは留学先だった。なかなかこの辺でベーゼンドルファーなんて名器に触れる機会ないもの」


「そうなの。未来を子どもたちに分け与えられたら良いなって思うの」


 栄華は澪のその言葉を聞いて、近くに置いてあった彼女の用意したセイヨウサンザシの花束をベーゼンドルファーの天板の上にそっと置いた。

「ちゃんとトゲ落としで花屋さんにお願いして綺麗にしてもらっているわよ。そして生姜の香りで魔除けした包み紙で巻いたわ」と言う栄華。エリーゼのイリュージョンは嬉しそうにその花の香りをかいでいる。


「ヨーロッパの五月の花ね。春の象徴なのよね。でも何で魔物よけ?」

 栄華は事情を知らない澪には惚けて、

「まあ、一種の験担ぎかな」と笑う。

「そっか。幸運に守られてるピアノなのね」

 澪は嬉しそうにその一輪の花弁をちょんと撫でた。

「この花の花言葉はね、『希望』なの」と栄華。

「まあこの施設にはピッタリの花ね。ありがとう栄華ちゃん」と満面の笑みで答える澪。


 その横で彼女たちには見えないやり取りが行われていた。

「新参者ですけどよろしくね」

 エリーゼは、ベヒシュタインのティーナとスタインウェイのスージーに挨拶している。

「ううん。私も浜松の古いホールから先週ここに来たばかりよ、よろしくね」

 舞踏会ドレスに包まれたアバター姿のティーナが微笑む。

「私はこの近くの大きめのレストランにいたんだけど、先月からこの施設に引っ越してきたのよ。子どもたちのために第二の人生を役立てましょうね」とスージーもデニムのワンピースにカウボーイハットの姿で気さくに握手を交わした。

「うん。お互いに」

 エリーゼは清々しい気持ちでこの場所に来たことを嬉しく思った。夏見と栄華の思いやりが第二の人生を切り開いたのだ。

『やっぱり彼は実直で誠実だわ。奥様を介してとはいえ、私にこんな花道を用意してくれた。あの頃と変わらない優しい人』

 遠くからソファで昼寝している夏見を見守るエリーゼに、フランソワが話しかける。

「ようこそ、私たちのショールームへ」

「あ、フランソワ」

「今、夏見さんを見ていたのね。実はあの人、一見、グータラそうに見えるけど、結構な働き者だし、実直で思いやりのある人よ」と笑うフランソワ。

「うん。その通りだわ。でもね、彼が働き者なのは昔からよく知っているの」と頷くエリーゼ。

「やっぱり昔会っていたんだ」

「うん。結構お世話になっているの」

「丁寧にお掃除してもらったとか?」

「うん、そんなところかな」と照れ笑いのエリーゼ。


「そっか」

 ふと夏見を見ると、栄華の袖をつまんでいる。

「ねえ、お嬢さん。オレとお茶しない?」

「あら、いいですわよ。お嬢さんなんて、久しぶりに言われたわ。ダンナサマじゃないと言ってくれないものね」

「ああやっていつも夫婦でじゃれ合っているのよ。無邪気なもんね」

 ヤレヤレという仕草でフランソワは笑った。


 エリーゼは、かつて夏見が見せてくれた笑顔を重ね合わせて思い出す。目の前で栄華とじゃれている夏見に当時の面影がダブる。

「私の使命は『希望』を人間に与えること。良いピアニストに会ったり、子どもたちにピアノの良さを知ってもらうことなのよね。暦人と一緒に仕事をすることではなさそうね」

 エリーゼの言葉に「うん。付喪神には付喪神の使命があるわ。それを時神さまたちは分かって私たちに命を吹き込んでくれているの。それに応えなくちゃね」と返す。

 花束になったセイヨウサンザシを見つめるエリーゼは、与えられた命で時神さまの気持ちに応えることを誓ったのだった。

                             了

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時神と暦人3⃣ 御厨に流れる時間物語 南瀬匡躬 @MINAMISEMasami

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