番外話 ♪夏見さんちの晩ご飯-フランソワの憂鬱-
「えっと、胡椒とお塩ね」
トントントン、と小気味良い音がキッチンから聞こえてくる。
グレーのフリースの丸首に、ラメが軽く効いた淡い桜色のセミロング・スカート。いつもと違うのは、後ろ髪を束ねて、エプロンを掛けた栄華がキッチンにいる。
横には、不安そうな顔つきの金髪女性。明るいブラウンのワンピースに、赤い薔薇のコサージュを胸元につけた装い。そしてその女性、フランソワと言う。彼女は栄華の料理を作る姿を見て、怯えている。彼女はプレイエル社のピアノの付喪神だ。所有者は栄華の演奏家仲間の澪なのだが、なぜか栄華にも心を開いていて、よく遊びに来る。
「折角、フランソワが遊びに来てくれたんだもの。腕をふるっておもてなしをしないとね」
鼻歌交じりの栄華。ぐつぐつと音を立てる鍋。フランソワにはその音が地獄の池の音に聞こえている。サラウンドのような効果音にも聞こえ、よりいっそうの恐怖が彼女を襲う。
「あの……お気持ちだけで」
すまなそうに、いや怯えながら、フランソワはやっとの事で口を開く。
「ん。なに?」
小皿に、お玉でそのスープを少しだけ注ぐ。味見のためだ。
「別に、私おなか減っていないので……」
「ふふふ。大丈夫、心配しなくても時間が経てば、おなかは勝手に減るものよ」
フランソワの軽いお断りのための婉曲表現は、栄華には通じない。無敵モードで、鍋に向かう栄華。
彼女は味見のための小皿を一口すする。
『ビクン!』
栄華の五感に激震が走る。眉間にシワだ。
「おかしい。私の予想した味と違う」
その言葉にフランソワは小声で、
「味って、予想するものなの?」と生まれたての子鹿のようにぶるぶる震えている。
「待てよ、塩の入れすぎの対処は砂糖を入れれば、良いのかしら?」
既に料理のセオリーが根本から間違っていると分かる台詞。出来上がったものを想像するだけで
そう呟いているところへ、玄関のドアが開く。夫の夏見粟斗が、釣り道具のクーラーボックスを肩に引っかけて家に帰ってきた。
「あ、夏見さんだ!」
藁をも掴む思い、何かに
いつものように偏光グラスにジャケット姿の夏見。フランソワの姿を見て会釈をする。
「いやあ、フランソワ。来ていたんだね。いらっしゃい」
フランソワは無言で、夏見の袖を軽く引っ張ると、彼をキッチンに誘導する。
「どうしたの?」
夏見は彼女に引かれるままに、歩幅の定まらない不規則な足音を立てながらキッチンへと向かう。すでにその途中で、異変に気づいた。
「栄華ちゃんが料理しているのか!」
夏見の言葉に、フランソワは、うんうん、と大きく頷いて、首を上下に振る。現れた賛同者に安堵感が生まれるフランソワ。そこで夏見は、ようやくフランソワの
キッチンの扉を開き、その不気味な音が聞こえる場所まで来た夏見は、持っていたクーラーボックスを床に落とす。
「何だこれ!」
夏見の言葉に「ファット・イズ・ディス?」と英訳する栄華。そして、
「あら、粟斗さんお帰りなさい。いま晩ご飯の用意をしているのよ」と涼しい顔で料理を続けている。
鍋の中には、得体の知れないものがグツグツと煮だっている。今まで、嗅いだことの無い不思議な臭いを放ちながら。
「栄華ちゃん、なんで夕食の準備なんてしようと思ったの? 今日は釣りに行っているんだから、晩ご飯はオレが作るって言ったじゃないか」
夏見の言葉に、
「ええ。そのつもりだったんだけど、折角、フランソワが来てくれたから何かおもてなしを、って思ったのよ」と気にかけた様子もなく返す。
怯えた
夏見は軽くウインクをフランソワに投げると、
「どれどれ、うん、よくここまで作ったねえ」と鍋をのぞき込む。
「そうでしょう」
腰に手をやり、威張ってみせる栄華。
「じゃあ、ここでバトンタッチ。二人の合作でおもてなしだ。あとはオレがやるから、栄華ちゃんはフランソワに何か聴かせてあげて」
「でもそれじゃ、粟斗さんにわるいわ」と畏まる栄華。
「そんなこと無い。あとは何が出来るかお楽しみ」
夏見は、なるべく栄華のプライドを傷つけず、機嫌を損ねないように上手く取りなす。
「そーお? じゃあ、お願いしちゃおうかしら」とエプロンを外してキッチンの椅子の上に置く栄華。
「じゃあ、音楽でも聴きましょう。オーディオ部屋に行きましょう、フランソワ」
「はい」
その返事の時のフランソワは満面の笑みを浮かべていたのは言うまでもない。
「じゃあ、粟斗さん。出来たら呼んで下さいね」
「OK」
栄華はそのまま奥のオーディオのある部屋にすたすたと歩いて行った。
フランソワは振り向きざまに、夏見に両手を合わせて、拝み倒すと一礼をして栄華の後に続いた。
食卓にはヤマメのホイル包み焼きが四角い平皿の上に三セット用意されている。それに洋風のスープ。……と言っても、栄華の作っていた地獄鍋とは違う、コンソメを磨いた透き通るスープだ。市販の洋風出汁でここまで出来れば素人としては上出来だ。そして市販のピザも皿で切り分けられていた。
「さあ食べよう!」
夏見の声に、栄華とフランソワはダイニングキッチンのテーブルに戻る。
「まあ、私のスープって、粟斗さんの手にかかると、こんなに透き通っているのね」とご満悦の栄華。
「そうだね。君の下ごしらえがよかったからね」と方便の夏見。
「感謝して下さいよ。ダンナサマ!」
「はい。ありがとうございます」
渋い顔の夏見に、クスクスとフランソワは微笑む。
「さあ、フランソワ、召し上がって! 二人の愛の合作よ」と得意げに勧める栄華。
『やれやれ』
肩をポンポンと叩く夏見に、フランソワはそっと「いただきます」と小声で伝える。
夏見さんちの晩ご飯、今宵も通常運転である。
了
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