第6話 ♪何れ菖蒲か杜若
――暦を司る神さまを
若き
「鯉のぼりの季節ねえ」
ぼんやりと青空を眺めながら、店先の軒下で
このカフェはもと自分のお店である洋菓子カフェ「モントル」だ。大伯父、大伯母から受け継いだカフェだが、今は
さらさらのロングヘアを肩当たりで縦の巻き毛にする彼女は、オープンカフェのテーブルでコーヒーを飲んでいる。頭にはサングラス、若草色のカーディガンとハーフ丈の藤色のスカートに、白いショートヒール。テーブルにはショパンの『NocturneOp.9 No.2』と書かれた譜面だ。彼女の一角だけがまるでパリのカフェのように思える。
年齢は三十六歳。夫はネイチャーライターの
彼は基本的には善人である。心優しく、真面目で、人思い。集いの中では基本的に無口を決めているが、気心の知れた関係の者とは、フランクに接する性分だ。それどころか少々ブラックジョークも出る。度を越してしまった時には、度々栄華に蔑んだ眼差しでにらまれることも玉に瑕である。
えっ、設定が少々おかしくないか、って? いつの間に二人が結婚したのか、という疑問は持たないで頂きたい。結婚までのプロセスを描いた物語はいずれ、いつの日か番外編でご披露する予定である。
今回はいつもの設定より数年後が舞台となる。では話を進めよう。
『もう、こんなに可愛い奥さんをほったらかしにして、粟斗さんったら駄目なダンナサマね』
心中、彼女が思った本音は、無意識に声に漏れていた。重ねてになるが、ケーキショップ「モントル」での一コマ。本日は定休日。栄華は元自分の店のオープンカフェのテーブルでひなたぼっこである。夫の粟斗は早朝から渓流釣りに出かけた。
「誰が可愛い奥さんなの?」
少々小さめの身長、百五十センチそこそこにしては、スタイルの良い二十代前半の女性が悪戯顔で栄華の前に現れた。白のニットの上下でセパレートスカート、黄色のストッキングに、ピンクのスカーフをネクタイ結び、足下のヒールは赤。洗練されたファッションである。
彼女は
「やだ。聴こえていたのね」
「葉織さん。こんにちは」
葉織は、
「今日は娘と間違えないのね」と笑う。
初対面のときは誰もが若い姿の彼女とその実の娘、晴海を間違うほどうり二つなのだ。
「ええ、何となく雰囲気が娘さんより女性らしいから」
悪戯っぽく笑うと、
「それはどうも。お褒めにあずかり光栄です。でもまだ見ぬ娘と比較されるとは、カレンダーガールと言うのも厄介な役目よね」と軽くこぼした。
「今日はまたどうしたの?」
栄華の言葉に、葉織はぴらぴらと一枚のチラシを摘まんで見せた。
「ご託宣……だと思う」
控えめに出す葉織の手からそのチラシを受け取る栄華。
『横浜モミジ坂リノベーション一戸建て賃貸物件・店舗事務所可能・一階部分防音壁施工済み 図書館・音楽堂前 伊勢町バス停徒歩五分 桜木町駅徒歩十分』
それは不動産屋のチラシだった。
ざっと内容を読み終えると栄華は笑った。
「これが託宣なんですか?」
眉唾物という疑いの目で栄華は首を傾げた。すると奥から声がする。
「俺も託宣だと思うぜ。栄華姉ちゃん。これは確実だ」
二人のやりとり、様子をそっと窺っていた人物の声。白いパティシエの衣装に身を包んだ二十代中頃の男性が店の中から顔を出す。
「誰?」と身構える葉織。
栄華は落ち着いた様子で、
「大丈夫。結婚した私の後任で
「
葉織は力が抜けた笑顔で「あっそう。よろしくね」と笑う。そして栄華には「結婚したから代替わりなのね。寿退職の御師ってあるんだ」と言う。
軽く頷く栄華に、「代替わりの夏見夫妻への住宅のオススメ? まさかね。なんの託宣かしら?」と謎めく葉織。
栄華からチラシを受け取る辞典。チラシを読みながら、
「葉織さんのことはかねがね夏見さんや山崎さんからおうかがいしています。スーパーお金持ちのスーパーお嬢様なんですよね?」と少ない情報を記憶の彼方から引き出す。
辞典の言葉に得意げに、
「そうよ。人は私を歩く
「噂通りだ」
その言葉の後に辞典は、
「二人とも綺麗だから、『何れ
「ありがとう」とお礼を述べる葉織。
一応二人は辞典の言葉に満足げな表情だが、それもほどほどに、「それはそうと託宣の話」と葉織は話を戻す。
「私、時間を越えてこの時代に着いた瞬間、突風が吹いて、勝手に飛ばされてきたこのチラシが、偶然のように私の手の中に飛び込んできたのよ」
葉織の言葉に、「確かにその場面は託宣って感じ。ちょっと気になる」と栄華。
二人は互いにニコッと笑うと、「この物件、行ってみる?」と声を揃えた。
「えっ? いま、日向渓谷。そうお不動さんのちょっと手前あたりにある谷川」
神奈川県の伊勢が原市郊外にある谷に渓流釣りで来ていた
「これからって時に
夏見は俊敏にゴム長からスニーカーに靴を履き替え、フィッシングベストを脱いだ。タイを結ぶとジャケットを羽織る。いつもの格好だ。ハッチバックのトランクルームに手際よく竿とたも網、釣り具ケースを放り込んで、バタンと扉を下ろす。仕上げにサイドミラーでネクタイを確かめてから運転席に座る。
往生際が悪いのか、恨めしげに一日有効の入漁券を眺めてからため息。車のスターターを押して、エンジンをかけた。行き先はこの場所からそう遠くもない横浜の桜木町、道路の具合しだいでは一時間もあれば着いてしまう場所だ。
栄華からの不動産チラシの写真画像がメール添付で送られてくる。夏見はその物件を見たとたんに、ニヤリと笑うとシフトレバーをニュートラルからドライブに移動した。
「あの家、久しぶりだな。お元気かな? 圏央道から新湘南バイパスで茶が
どうやらご指定の家は、夏見には顔見知りのお宅のようだ。
横浜モミジ坂
一足先に栄華のチンクエチェットは横浜のモミジ坂に着いていた。図書館前の駐車場に車を入れると、彼女は葉織と一緒に、例の物件を探すことにした。そこに
「お嬢さん。どこに行くのかね?」
その昔の宮中貴族を思わせる時代錯誤の出で立ちに、栄華は、この老人も託宣の一部という見当をつけていた。
『何のコスプレ祭りよ!』と心の中で突っ込みを入れる栄華。
少々疑いながらも、
「はい。不動産物件の下見です」と笑う。
口ひげの裾をなでながら、
「ほう。どこかな?」と興味ありげに笑う。
『横浜モミジ坂リノベーション一戸建て賃貸物件・店舗事務所可能・一階部分防音壁施工済み 図書館・音楽堂前 伊勢町バス停徒歩五分 桜木町駅徒歩十分』
老人は手にしたチラシを、細めた目で頷きながら黙読した。
「
老人は栄華にチラシを戻す。そして
二人が杓の指す方向を見ている間に、その老人は消えてしまう。
「ありがとう」を言いかけて、「あっ」と二人は納得した。
「やっぱりね」
二人は思わせぶりな笑いを互いにした。
「
栄華の言葉に、横の公園に立つ井伊公の銅像の顔が少し緩んだ。……ような気がした、という想像の話である。
「図書館と音楽堂が本当に近いのね。あなた方ご夫婦の職業上、とても便利な立地ね。伊勢町のバス停も近いみたいだし」
葉織は少し当たりを見回してから、そう感想を述べた。
多岐邸
上り坂にちょっとペースを落としながらも、二人は「
その
葉織は栄華の顔を見て頷くと、その呼び鈴に手をかけようとした。……とその時、玄関の引き戸が勢いよくガラガラと開いた。
出かけようとして、出てきたところで葉織と面と向かった女性が、びっくりして少しのけぞる。栄華たちも少したじろぐ。
しばしの沈黙の後で、声をかけたのは葉織だった。
「ごめん下さい。このお宅は多岐廉太のお家でお間違いないですか?」と訊ねる。
その女性は、不可思議な顔で、
「はい」とだけぽつりと答えた。そして「父に何かご用でしょうか?」と間を置いてから加えた。
栄華はこういうときに何から話して良いのか分からない。頭の整理をするのに時間がかかる性分だ。その間にするりと上手く会話に入って葉織が、「不動産の物件のことでお伺いしました。阿久葉織と角川栄華と言います」と単刀直入に申し出る。
栄華は『さすが!』といつもの人任せお気楽さで喜んでいる。
その黒のワンピースに白のボレロをまとった多岐の娘だという彼女は、
「少々お待ち下さい」と真面目な顔で二人に告げると、再度土間からあがり、家の奥へと引っ込んでいった。
栄華は表札の「多岐廉太」という名前をどこかで見たような記憶はあったが、それがどこでなのかも思い出せず、混沌とした記憶に
しばらくすると、丸眼鏡に、着流しの着物と丹前という、なんとも風流な格好の老人が、玄関先に出てきた。
「お待たせしましたな」
両袖に手を入れたまま、会釈をして多岐老公は笑顔を向けた。
「突然のご訪問、大変恐縮です」
栄華も頭を下げる。
「それで
「あの物件は文目庵という建物なんですね」
栄華の質問に多岐老公は、
「まあ、落ち着いてのお話になるので、中にお入りなさいな」と二人を家に招き入れた。
少々ためらっていると、
「気にすることはない。私とさっきの娘だけしかいない寂しい家なのです」と謙遜の笑いを浮かべた。
二人は顔を見合わせて頷くと、大きな屏風、ついたてがある玄関先の土間で靴を脱ぎ、声を揃えて、
「おじゃまします」と言った。
そして多岐老公の後を着いて、つややかな廊下を用意されたスリッパで滑るように歩き始めた。
すでに応接間としている和室の部屋には、木製の立派なちゃぶ台があり、その上にお茶と茶菓子が用意されていた。おそらく先ほど娘さんが用意したのだろう。縁側廊下を隔てたガラスサッシの向こうには緑の庭が見える。そこにも花菖蒲、文目、杜若の花々が並んでいるのが見えた。
しばらくするとさっきの娘さんが入ってきて、少し距離を置いて老公の脇に座った。それに気付いた老公は、「娘のアヤメです」と紹介する。
そして「年いってからの孫娘のような親子なんです。今年二十五歳になります」と言う老公。
「お父さん。わたし二十七歳ですよ」と手の甲を口元に当て軽く笑う。
そしてバツ悪そうに、
「おおそうだったか。これは失礼した」と大らかに笑う老公。そして栄華たちの方をむき直すと、「文目庵のことでしたな」と本題に入った。
「あなた方はSF小説のような時の旅人の存在は信じていますか?」
老公の言葉に、
「もちろんです。時間の神さまの存在だってあり得ると思います」と笑みを返す二人。もうおわかりかと思うが、これは暦人たちが互いの身分を確かめ合うときに用いる一種の合い言葉のようなものである。第三者には何を訳の分からないことを、言い合っているんだと思われるやりとりだ。しかしながら、しっかりと当の本人たちは身の上報告が互いに出来るようになっている。
「私は芝ノ大神宮で飯倉地区の時間をいつも気にしています」と栄華。
「私は山手の教会で同じように時間の大切さを感じています」と葉織。
これでほぼ自己紹介は終わったようなものである。
「飯倉殿とカレンダーガールさんですか。なるほどお貸しできる対象者になりました」
老公は目を細め優しそうに二人の顔を見た。
横にいたアヤメだけが、くわえたひとさし指をそのままに、きょとんとして、
『一体何の会話?』と頭の中をはてなマークでいっぱいにしていた。
その時、「こんにちは! 勝手に入ります」と玄関から大声がする。
その声に覚えがあるようで、あわててアヤメがすっとその場を立つ。すぐさま廊下に出ると、襖越しにその鼻先で、既に自ずとあがって来てしまった夏見粟斗と面と向かった。
「おにいちゃん、来た!」
そう言うと、アヤメはさっきまでのおすまし顔から急変して、人なつこい笑顔で、そのまま抱きつく。
『ええっ!』とは、栄華の心中の声。
栄華は冷静を装いながらも、心の中では「ピキピキ」と何かが割れる音がしている。
おとなしげな冷笑の美人が、手放しに無防備な笑顔で自分の主人に抱きついているのだから嵐のような心境だ。
「あちゃあ」
おでこを押さえる葉織。この手の出来事で、人一倍怒りっぽいことを自覚している葉織だ、その心境を察するのは容易い。いま我慢で卑屈な顔をする栄華を見逃すはずがない。
「粟斗さん」と栄華。
夏見は「よう、遅くなってごめん」と右手を挙げて何事もなかったように普通だ。
栄華は席を立つと、彼の袖を引いて、
「どういうご関係ですか? その冷笑の美人さんとは」と小声で問い正す。
夏見は悪戯っぽく笑うと、
「もしかしてヤキモチ焼いているの?」と問い返す。
「自意識過剰ですか?」と栄華。少し憤慨しているのが分かる。
人前で親しみすぎの行動を見せたアヤメは少々反省したようだ。慌てた顔で「そんな関係ではないですよ」とアヤメは二人の女性に対して取り繕う。まるで夏見には女性のファンが多いと勝手に思い込んでいるようにも見える。そこまでモテる男でも無い。
そして嬉しそうに言い分けする。目を潤ませて、アヤメは、「昨日今日の間柄ではなく、夏見さんは、過去の私の命の恩人なんです」と温かく、優しい口調で放った。
四半世紀前の横浜地下街-回想
「けっ、持ち金もう千円あれば、あと一段グレードの高い竿買えたのにな」
「それでも十分良い竿だと思います。グラスファイバーの竿使っている私よりも……。今月は新しいズームレンズを買ったので、竹製の竿には手が出ませんでした」
山崎と夏見は駅に向かう通路を歩いていた。二人の手にはさっき駅前の釣具店で買った新品の渓流竿が握られている。
「しかし三十歳過ぎて、女っ気のないオレたちってどうかな?」
「私はともかく、夏見君は彼女の一人ぐらい、いてもおかしくないんですけどね。明るいしアクティブだし」
「そう言ってくれるのは山崎、おまえだけだよ」と笑う夏見。そして辺りを見回して続ける。
「しっかし、横浜駅の改装工事はいつになったら終わるんだ。十年前から場所を変えてずっとやっているけど」
「本当ですね」
そんな会話をしていた二人に一人の和装の女の子がついてきていた。年の頃は三、四歳だ。鞠を抱えている。鮮やかな紅の着物に絣地に巻かれた帯にはアヤメの刺繍が施されている。その気配に先に気付いたのは夏見だった。
「後ろの子供、おまえの知り合いか?」
「いいえ。私は幼児に知り合いはいません」
「そっちじゃ?」と山崎は夏見を指さす。
「いや、おれもあんな季節外れの
首をひねる二人は、仕方なく様子見で駅のコンコースをあえて通り過ぎ、反対側の出口、東口の地下街へとエスカレーターを降りた。相変わらず少女は二人の後を追ってくる。よく見ると草履を履いているため、床をツルツル滑るようについてきている。
「正直に言え。今なら許すぞ。そのうちお前にパパ、って言うんじゃないか?」と夏見。
「そっちこそ、実は、って釈明がでるんじゃ」と山崎。
「おじちゃんたち」
地下街のシュウマイレストランの角でその子供は二人に声をかけた。
「きたっ!」
二人は覚悟を決めたように、思い切り優しい笑顔で「なんだい?」と振り向く。踵を返した二人に彼女が言う。
「お裁縫道具落ちた」
その汚れを知らない純真な瞳をきらきらさせて、彼女は糸巻きに巻かれた釣りの仕掛けを差し出した。それは夏見のイワナ釣りのテンカラ仕掛けだった。
「あ、ありがとう」と受け取る夏見。
夏見はポケット中をごそごそと探って、自分のおやつを探し当てた。
「はい。これお礼」
そう言って、彼は小分けされたビスケットの小袋を一つ彼女に差し出す。
「ありがとう。やっぱりいい人だった」
夏見と山崎は、ぴょこぴょこと去って行く彼女の後ろ姿を見送ると、喫茶店に入って一息つくことにした。
再会-回想
「じゃあ、オレはフタコシ百貨店の催事場に用事があるから」
夏見はそう言うと東海道線ホームに向かう山崎と改札で別れる。
彼は再び東口のダイヤモンド地下街に向かうエスカレーター方面へと足を運んだ。クッキー屋の角のところで、再び紅い和服姿の子供が夏見の方に寄ってきた。
「お裁縫道具のおじちゃん!」
べちゃっ、という音とともにその子は転ぶ。今にも泣き出しそうに顔をゆがめる。持っていた鞠がころころと夏見の方に転がってきた。
『あの子、まだいたのか……』
夏見は鞠を拾うと彼女の横にしゃがんで手を貸す。
「ほら、たてるか?」
夏見の顔を見て安心したのか、彼女は「うん」といって起き上がり、笑顔を取り戻す。
「なに? 夏見君の親戚の子か?」
往来の多い横浜駅のコンコース、知人に出くわすことも珍しくない。振り向いて、見上げるとそこには、多岐廉太と妻の
「多岐さん」
子供の彼女は礼儀正しく、「違うおじちゃん、こんにちは」とお辞儀をする。
「偉いね」と多岐。
「迷子かも知れません」
夏見がそう言いかけたところで、もう一人、その奥に人影が見える。
「いや、時間孤児だ。この場所にこの子を飛ばしたのも私だ。さっきは山崎がいたので姿を出せなかった」
「おお、時間おばさん」と夏見。そして「時神さまの訳あり人なのね。パラドクス付きの」と加えて呟く。
夏見のその言葉を真似するように、「時間おばさん? またのごきげんよう」とその少女も半分不思議顔で笑う。午前中、既に会っていることを思い出したからだ。
「おお、これはこれは、時巫女様」
多岐はそう言って、帽子を取り会釈をした。音も隣で丁寧なお辞儀する。それに真似してこの子も更にお辞儀する。
「おまえは偉いな。挨拶できるのか。今日は二度目のご挨拶だものな」
少女の頭を撫でてから、時巫女は夏見に言う。
「
「まるで『アナスタシア』の伝説だな」
夏見が感想を言う。
「皇帝ニコライ2世の末娘アナスタシア皇女のお話だな」と多岐。
「……ということは、戸籍なしの時置人ってところか。その情報は確かなのか?」
夏見は時巫女に正す。
「私を誰だと思っている。時の番人だぞ」と渋い顔の時巫女。
「魔法使いのおばさんかと思った」
そう言った夏見の上から発泡スチロールの塊が落ちてきた。
『コン!』
時巫女が後ろ手に、いつものごとく
「こんにゃろめえ、いつもいつも、どっから持ってくんだ、こんなもの! 手品師かよ。意地悪魔法使いめ」
頭を押さえながら困惑の夏見に、
「とりあえずあの子を連れて、我が家に来ませんか?」と多岐が提案した。
確かに人目に触れて、この無垢な子供の心にとげを刺してはいけないと、皆が賛成した。
多岐家-回想
客間にきちんと正座して座る幼女。育ちよく躾けられているが分かる。
「お嬢ちゃんはどこから来たの?」
多岐の妻、音の質問にその子は、
「二の丸御殿」と言う。
「お父さんは?」
彼女は首を傾げる。
「誰?」
「
「ああ、うん、とと様は
彼女の言葉に、「上様はどっちだろう? 陛下と将軍殿」と夏見が言葉に出す。
「おそらく今となっては分かるまい。どこの国のお姫様かも正確には分からない。この時代は他国の姫が城内にいることだって、そう珍しくもない。ただ言えるのは、庶民の娘がこんな上等な緋色のお召し物を着て、鞠を抱えているはずがない」
時巫女は現在考えられる状況判断を全て惜しげも無く提示した。
「お名前は?」
音の次の質問に、「アヤメだよ」と笑っている。
「どうしてあの場所にいたの?」
「母様が二の丸御殿の奥にわらわを連れて行ったの。知らないお兄ちゃんがね。お手々繋いでくれたよ。矢よけの赤い風呂敷で守ってくれたの。そして暗い穴の中で母様がアヤメを押したの。その時にこれが母様だと思いなさい、って言ってくれたの」
そう言って彼女は帯に枝ごとさしていた橙色の花房を枝ごと見せた。
「キンモクセイ」
夏見と多岐は声を揃えた。
すると時巫女は、「そのキンモクセイの香りに指示されて、タイムゲートの中をさまよっていると、若いその付き添いの暦人からこの子を譲り受けた。私は時神さまの命でこの子を時空穴の出口まで案内したまでだ。母親とは会っていない」とそこからのいきさつを付け加えた。
「でもなんで横浜駅だったんだろう」と言う時巫女に、夏見は軽く頷いてから始めた。
「簡単さ。外国に彼女を逃がすことを思いついた母親の願いさ。きっとこの子の母親の願いは
「ふむ……一理ありそうな推測だ。でも残念ながら、あの場所につれていったのは私だ」と時巫女。
「なんでまた」
「内緒だ」
「意味分からん」
実際の母親の願い。それはこの子と母御身にご縁のある伊勢神明のお社がある町と言うことである。……が、それは誰も知るよしもなかった。なので、
頷きなのか、ため息なのか、皆は無邪気に鞠で遊ぶこの姫さまの身を案じた。
どれくらいの沈黙が過ぎただろう。
「時に……」と声を出したのは、多岐の老公である。
「時巫女さん、
「うん。それでもかまわないが、多岐殿の場合は桜ヶ丘神明宮で願をかければ、
その言葉を聞いて安心したようで多岐は提案をする。
「それは願ったり叶ったりだ。できれば我が家でお預かりして育てたいのだが……」
多岐夫妻は顔を見合わせて頷く。
「アズ・ユー・ライクと言うところだな」
時巫女はそう言って微笑んだ。
「こんな無垢でかわいらしいお子をお預かりできたら、人生最後にして、最大の喜びですよ」と音も微笑む。
そしてその日から多岐の夫妻は、アヤメを手元に置くと、桜ヶ丘神明宮の願掛けとご祈祷である朔日参りを始めた。一のつく日の願掛け参りだ。子供のいなかった老公夫妻は、アヤメのことを引き取ると、とても可愛がった。実の娘として、
そうした願いが通じたのか、数ヶ月ほどして、いつものように神明宮をお参りすると帰り道の脇参道で、ひらひらと一枚の紙が舞い降りてきた。それはアヤメが実の子として書かれた戸籍謄本であった。
老公は驚いた。そして何かの悪戯ではないかと思い、すぐさま関内近くの区役所に駆け込んだ。本物の申請を出して代金を支払うと、渡された役所の書類。そこに確かに「多岐アヤメ」の文字が実子として入っていたのだ。
多岐老公は喜び勇んで夏見にも連絡した。奇跡が彼らの前に現れた。時置人ではなく、アヤメよ、この時代の人間として生きてみよ、という転生に近いご託宣にもとれる。
三歳ほどだったアヤメは健康体で、すくすくと成長し、時おり遊びに来る夏見が大好きだった。来る度に絵本やお菓子、おもちゃを買ってきてくれる彼に親戚のおじさんのような愛情があったのだ。
両親の愛情も心にあふれる。決して甘やかすわけでも無く、優しさの奥には礼儀や規範、尊敬などの人格形成もしっかりと身につけている。
「アヤメ、お母さんと一緒にヴァイオリン弾く」
そう言って習い始めたのが五歳。芸術の美しさを身につける。
「ねえ夏見のお兄ちゃん。
そう言って花を植え始めたのが中学生。自然の摂理や自然美に対する価値観を育む。
「釣りに行きたい、野生のアヤメを見てみたいから」
高校生や大学生では、山間部の釣りに同行することもしばしばだった。
これがアヤメと夏見、多岐家のとのいきさつである。
アヤメ-二十七歳
時は戻り夏見到着の多岐邸。
「おいおい、アヤメ。二十七歳の立派な大人は、こんな野暮ったいおじさんに抱きついてはいけないよ。もう今年二十八だろう」と笑う夏見。
「だって夏見さんは特別よ。私あまり記憶が無いんだけど、横浜駅で迷子になったとき、私をお父さんとお母さんの元に送ってくれたんでしょう。下手をすれば私の人生、あそこで終わっていたかも知れないもの」
夏見との出会いは、アヤメの中でそうなっている。そこを詳細に話しても誰も得をしないからだ。
「まあな」
苦笑する夏見の表情を見てアヤメは察する。
「あ、そっか。おにいちゃん、ううん……夏見さん、お嫁さんもらったのよね。だからそのお嫁さんに悪いのかな?」
「そうだよ」と笑う夏見。しかも『悪いんじゃなくて、あとが怖いんだ』とのど元まででかかったがやめた。おまけに目の前にその本人がいる。
「でもね、お家のお嫁さんも私と夏見さんの長いつきあいには大目に見てくれると思うの。きっと心優しいはずよ。夏見さんのお嫁さんだもん」
アヤメは、目の前の栄華がお嫁さんとまだ知らないらしい。先回りされて目の前の、その当の「お嫁さん」である栄華は、アヤメから思わぬ『褒め殺し』の布石をもらい、微妙な顔つきで、強制的に我慢モードに突入させられた。隣で一連のその言葉と栄華の表情に、葉織は俯きながら笑いをこらえている。
『先手必勝。手も足も出ないわね、栄華ちゃん』と心中で呟く。
「さて思い出話はこの辺で、このお嬢さんたちのご用件に入ろう。アヤメ、おまえは大人の話なので、自分の部屋にいなさい」
老公の言葉に、静かに頷くと「はい」とだけ言葉を残して彼女は応接間を立ち去った。
老公は両手で三人に「おいでおいで」をする。その指示に従い、三人はテーブルの向かいから老公側に移動して彼を囲む。
「実は、君たちにお願いがある」
老公は小声だ。
「ん?」と偏光グラスを外す夏見。
「ご存じの通り、大抵のタイムゲートは
夏見は腕組みをしながら、
「そこで時巫女に相談した。すると時神の喜びが託宣となった、ってところかな?」と先を加える。
老公は「そうだ」と頷く。
「それであのチラシなのね。やっぱり栄華ちゃんに向けた託宣だったわね」と葉織。その言葉の裏で、『だったら直接、栄華ちゃんに託宣を出せば良いのに』とも思っていた。ここまでの流れで自分は特に関係ないからだ。
「実際、ゲートの置かれた、ここは三重の神宮の信頼も厚い神社だ。そういった部分も考慮しておかねばならない時代が来た」と老公は続けた。
「それで私たちに、それを託したいんですね」と栄華。
夏見はニヤリと笑うと、
「納得。去年、船橋御厨には、御師として船橋本家の
栄華も「だから飯倉も
「ご存じの通りこの町は、神明さまのタイムゲートの他に、教会の二つのタイムゲート、時留めの神社などもあり、暦人にとっては大切な町だ。そのため御厨ではないのだが、特別に新設の御師、桜ヶ丘御師を設けることになった。時の
そう言って老公は、いったん息を止めると、
「やってくれないか?」と夏見と栄華を見つめながら口にした。
夏見は特に不満はないようだが、
「我々にやって欲しいその理由は何ですか?」と問う。
「アヤメのような歴史の狭間で不幸な境遇を背負う者が、今後も出てこないとも限らん。そんなとき直ぐに駆けつけられる暦人を、桜ヶ丘の近くに配置しておきたい。その人物は、そういった境遇の人間の気持ちが痛いほど分かる人物が良い。だから夏見君だ」
夏見は腕組みしながら、
「確かに、アヤメは時神さまの采配でオレたちの時代に飛んだ。そうでなければ、大砲や鉄砲の犠牲になっていたかも知れない。幸い彼女はその時の記憶は全くない」と漏らす。
「そうなの?」
状況を把握出来ていない栄華は首を傾げながら言う。
「どんな時代の人だって、生きる権利はあるし、命には順番も大小もない。勝手な為政者の、いや為政者の名前を
夏見は呟いてから、
「いいよ、多岐さん。オレ、こっちに移ってやるよ。ライターの仕事は特に場所を選ばないし、何とかなるだろう」と真剣な面持ちで言う。
「ありがとう。奥さんが音楽家なので、あの家屋のお譲りにも都合良い。アヤメのために使わせていた防音壁のヴァイオリンの練習室が一階にあるので、そこにピアノを入れれば、練習や日常にも不自由はないと思う」
その言葉に想い出したように、
「想い出した!
老公は優しく微笑むと、
「ようやく気付いて頂けましたね。モーメント受賞の演奏家さん」と頷く。そして「同じ暦人と音楽家を二足わらじの仲間ですよ」と加えた
「実はアヤメは名古屋在住の音楽家、
その言葉を口にしたとき、老公の瞳に虹色に光る水滴が潤む。
「音さん本当に彼女を大切にして、愛情を注ぎ込んでいましたよね」
夏見の言葉に、
「彼女の遺言である、自分の白無垢をアヤメに、というのも叶いまして、私自身も、よりアヤメの新居に近い場所である、故郷の浜名湖のほとり弁天島に帰ります。だからこの場所の管理は誰よりも夏見君にお願いしたかった」と温かい口調で言った。
これに一人納得して頷いているのは葉織だ。
「今回、私が託宣で時代を超えた理由が分かった。それで私が必要だったのね」と葉織。
つじつまの合わない、トンチンカンな葉織の結論に栄華は、疑問を覚える。
「どういうこと?」
葉織はウインクすると、
「私は時間なので、これで失礼して山手のゲートから自分の時代に帰るけど、この時代の五十代の私が不動産の売買契約書と賃貸契約書を持って、ここにもうすぐ来ると思う。金銭の問題は、そのおばさんになった私に全て任せてくれれば良いわ。栄華ちゃんも、夏見君もお金の心配はしなくて良いわよ。
「まあ、葉織さん、
そうなのだ。葉織が間に入るだけで、彼女の家が経営するいくつもの会社を使えば、全ての面倒な手続きも、慎重に信用できる会社を選ぶ作業もいらない。不要なトラブルなども回避できるという算段だ。意外に事務処理にも長けているのが時神さまといったところであろうか。
「ありがとう。相変わらず、太っ腹な家系だね、阿久家の人は」と嬉しそうに老公は感謝を示す。
その言葉が終わると若い葉織は「お邪魔しました」と言って、席を立った。
しばらくして「お父さん、お電話です」とコードレスホンを持ってアヤメが入ってきた。
勿論ここにいる皆がそれが誰からの電話なのかは直ぐに察しがついた。
「ご無沙汰しております。阿久葉織です。いま桜木町の駅におりまして、これから不動産の契約書を持って伺います」
現代にいる五十代の葉織からの連絡だった。
夏見と栄華の新居移転の当日
「まさか自分たちが結婚式を挙げた神社の横に住むとは思わなかったな」
あごに手をやり、新居を見上げる夏見。二人とも赴任の御厨、船橋と飯倉は親戚身内に任せての横浜入りだった。
「こら、ボーっとしていないで、これはどこに置くんだ」
保土ケ谷の三井みずほの声。
「おまえ、外見は綺麗な女性になってきたのに、しゃべると台無しだな」
「うるさい! 人間、そんな簡単に変わってたまるか!」
「その外見にだまされて、寄ってきた男に求婚されたら、即座にOKした方が良いぞ。あとで詐欺と言われようと結婚しちゃえば、おまえの勝ちだ。そんな男、まるで疑似餌のルアーに引っ掛かって釣り上げられるお馬鹿なニジマスのようだが……」
『ガン』
話の途中で、手にしていた鳩クッキーの角缶のふたで夏見の頭を軽くたたく。
「八幡様の鉄槌を食らえ」
みずほの言葉に軽く頭を撫でる夏見。素知らぬ顔でみずほは続ける。
「下らないこと言っていないで、さっさと運べよな。近所になったよしみで手伝いに来てやったのに、本人が動いていない。夏見の家なんだぞ」
「おう」
相変わらず、片手で頭を押さえながら、トラックに積まれている扇風機に手をやると、それを担ぎながら夏見は家に入った。
「ねえ、この食器はどうすればいい? アフタヌーンティ用のやつ」
アイランドキッチンの下で、収納庫を開けながら晴海が悩んでいる。
「お前のじゃないんだから、お前が悩まなくていいよ。ポンコツカレンダーガール」
荷物を運びながら、みずほが毒を吐きまくる。
「なに。この、ひらひらリボンの毒まんじゅう」
「なんだと。だれが毒まんじゅうだ。これでも近所じゃ、綺麗なカフェのお姉さんで通っているんだ」
「それ修飾するのは、綺麗なカフェであって、綺麗なお姉さんではないだにい。日本語お勉強なさいましや。おほほほ」といけず嫌みを盛り込んだ伊勢なまりで晴海節が炸裂した。
「ばあか。当たり前のように、美人なお姉さんと言われているんだよ。カフェを美人とは代名詞がわりに使用しないだろう。読解力ゼロの国語赤点女」
みずほも負けてはいない。
「ふん、みんな目が悪いのよ」
言葉を吐き捨てる晴海。
「なんだと!」と立ち上がるみずほ。
「何よ」と仁王立ちで腕組みの晴海。
みずほは晴海の前で足を止めてにらみ合う。相変わらずのトムとジェリーも真っ青の『仲良』である。
この様子を見ていて、一番爽快なのはシスターマリアだ。
「ふふふ。晴海のやつ、いい気味」
鼻歌気分で整理作業である。今日は私服なので、あまり目立っていない。
ネットワーク
ひと段落した夏見と栄華は、参道を登り、桜ヶ丘神明宮の拝殿でお参りである。
「多岐のじいさんの話によると、ここの脇参道のタイムゲートは時神さまが救うことが出来た命の通り道なんだそうだ。だから何年かに一回、過去や未来から助けられた人がぽつんと佇んでいることがある。出口しかないタイムゲートが、アジサイとアヤメが咲く頃にその茂みの中に出来るらしいよ」
「そう。沢山の命、沢山の幸せを時神さまは、こちらに預けてくれると良いわね」
二人はそう言って、静かに黙祷、そして柏手を打つ。深く礼をして、拝殿のステップを降りた。
「栄華ちゃんに教えておかなくてはいけない暦人御師のネットワークがある」
脇参道を歩きながらの会話だ。栄華の手を取り、ゆっくりと石段を降りる。
「なに?」
「そういった時の迷い人らしき人がきたら、その人がもし暦人やカレンダーガールではない一般の人だったら、まず連絡先は三つある」
「うん」
「ひとつは東京の神田、飯田橋近くの複製絵画制作会社『アート・クリムト』の
「はい」
「みんなとてもいい人だよ」
栄華の手を取りながら坂道を降りきった夏見は、
「本当に優しい人たちばかりなんだ。だから栄華ちゃんも何かの時は困った人の力になって欲しいんだ」という。
「はい」と静かに微笑む栄華。
「私、夏見さんと一緒になって本当に良かった」
改まった栄華に少し不思議な表情の夏見。
「こんな音楽バカでも、人のために見えないところで善意や施しをできるなんて、嬉しい」
彼女はそう言って静かに瞳を閉じる。参道と自宅に近い小路の物陰。
栄華のあごを優しく上に向けて、二人の唇と唇が触れそうになる……。
『ガラガラ』
新居の前、門扉庭先。アジサイの葉陰でのぞき見していた晴海とみずほが体勢を崩して、入り口のバケツとモップをひっくり返した。
それに気付いた夏見と栄華の二人は、赤面して、反射的にお互いそっぽを向いて知らんぷり。
気まずそうに苦笑いの晴海とみずほは、
「どうぞ、どうぞ。お気になさらず、続きをどうぞ」とバツが悪いようだ。
「お前ら、のぞき見していたろう」と夏見。
「えっ、たまたま見えちゃった」
「そうよ。偶然」
珍しく意見の一致するみずほと晴海。
「そんな都合の良い言い分け通用するとでも思っているか?」
明らかに目尻を釣り上げて夏見は怒っている。彼はバケツと一緒に倒れたモップを拾うと、「のぞきとは趣味悪いぞ」と追いかけ始める。
「見よう、っていったのはみずほだよ」と頭を押さえて逃げる晴海。
「お馬鹿な顔でキスするよ、って言ったのは晴海だ」とやはり頭をかばって逃げるみずほ。
「このやろう。こんなときだけ仲良くなりやがって。少しお説教だ」
「ごめんなさい」
逃げるみずほと晴海を追いかけ回す夏見。栄華は両手で覆って、口元を隠しながら、庭先の文目の花を見て笑っている。
遠い昔から来たお姫様が、戦乱を逃れ、自分たちと同じ現代人として家庭を作ろうとしているのだ。こんな幸福なことは無い。栄華は、暦人として、時神の使いとして、命の尊さを感じながら平和な世を満喫できることに感謝していた。
了
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