第5話 ♪時間を越えた「糸」物語-お蚕とイトハコベの結ぶ恋-

――暦を司る神さまを時神ときがみとしてあがめる人たちがいる。その使者として時を旅する者たちは暦人こよみびとやカレンダーガールと呼ばれている。その時間移動には太陽と月の光、そしてそれらを祀る場所に開く「時の扉」が使われる。いにしえより続く、限られた人たちだけが、その役目のために隠密行動で時を超える。そして彼らの原動力は、いつの時代も人の世のやさしさ――


   1920年ごろの芝乃大神宮

「普通は柑子きへんにあまいこと書いて『こうじ』と読むわ。でも私は『かんこ』ちゃんです。見てください。この葛桶かずらおけの中には、知人から頂いたおかいこさんが入っています。今日学校に納めてこようと思います。なんでも生糸蚕業きいとさんぎょうの原料を、家政学の教材で、学校に自前でも欲しいのだそうです。その協力です」


 帝都東京、花の高等女学校、最終学年に、芝之大神宮しばのだいじんぐうの狛犬と会話している奇妙な女性。絣の着物に、袴姿。浅い黄色の草履と頭には大きなリボンの髪留めを飾り、大正の自由な空気を謳歌する時代の乙女だが。奇妙な行動をとっていた。右手にはどんぶりよりやや小さな葛桶を持ち、その中には、本当に小さな、可愛い蚕の幼虫が二十頭にじっとうは入っている。結構な数だ。それが白い風呂敷に包まれている。左手にはいつもの学校授業で使う教科書が紫色の風呂敷に入っている。両手がふさがり、そこそこ大荷物である。


柑子かんこちゃん、狛犬さんとお話しできるの?」

 困った顔で馴染みの神主さんが、竹箒を片手に訊ねる。勿論、首を傾げながらだ。

「ええ、今日はご機嫌がいいそうよ」

「そっか。お盆も近い、って言うのにこれから学校かい? まあ、遅刻しないように、いってらっしゃい」

 神主さんは、作り笑顔で軽く手を振った。

「うん。当番なのよ。いってきます!」

 彼女は笑いながら、見上げた石段の上に位置するご本殿にも一礼すると、新橋方面へと歩いて行った。


 その会話を聞いていて、あんぐりと口を開けたままの新米巫女。彼女に言い訳するかのように、神主さんは語りかけた。

「この神社の持ち回りの総代をやってくれている家のひとつ、角川さんちの娘さんでね、お兄さんは帝大生の優秀な人なんだ。彼女も有名な高等女学校に通っていて、優秀は優秀なんだが、どうにも一風変わった子でね、近所の人の話では、万物や魑魅魍魎ちみもうりょうとしたものと会話してる、っていうのさ」

 柄杓と、柑子の葛桶より一回り大きな手桶を持って、水まきをしている巫女さんに神主さんは温かな顔で、彼女の印象を述べる。

「きっと、この神社には大切な人物かも知れませんね。神のご意向をくむことの出来る人物かも知れません」

 巫女は石畳に水をまきながらも、嫌な顔一つせずに、やはり温かな笑顔でそう応えた。

「託宣を受けられる人になったりしてね」

 神主も、小さくなる彼女の後ろ姿を見ながら頷いていた。


 江戸期からの木造建築も次第に廃れ始め、柑子の時代、大正期には石やコンクリートで作られた西洋風のモダンな商店建築も増えた。町には電気が引かれ、電信柱の姿も通りの風景に馴染み始める。ガス灯が電灯へと変化した町並み、その都市景観は、歩いていると西洋の町に少しずつ追いついているようにも思えた。だが相変わらず道路の舗装率は低く、ぬかるみが多いのが玉に瑕である。


 柑子は大きな水たまりを飛び越えて、赤い色の敷石の上に着地する。……筈だった。

 ところが、その着地したはずの敷石は、まるで水面のように彼女の体をそのまま飲み込んで、地下の世界へと誘った。

 タイムホールを落ちている柑子。その視界には、白い和装で、髪の長い女性が一緒に並んで落ちていく。彼女は柑子を待っていたように、無言で微笑むと彼女の持っていた風呂敷に、何か封書のようなものを差し込むと、すっと離れていった。


 

  帰省した矢先のタイムスリップ

「顔がすすけて真っ黒だ」

「でも久しぶりの帝都だ」

「まるまる一日汽車に乗りっぱなしで、親に会うのにも、この煤けた顔じゃあ、いい男が台無しだよ」

「ぬかせ。しょってるんじゃないぞ、大した顔でもないくせに!」

 じゃれ合うように男性二人は着崩した学生服に、尖らせた学帽、いわゆる『蛮カラ』スタイルで、新橋から芝方面に抜ける住宅地を歩いていた。


 彼の鞄からは、三重の学校近くで採ってきた桑の実が枝についたまま飛び出して、刺さっていた。

「お前、鞄に何刺しているんだ?」

「おう、桑の実だよ」

 赤黒くなった果実は食べ頃を迎えている。杏を更に酸っぱくした味に思える果実だ。

「桑って、あのお蚕さんの食事の桑か?」

「そうだ。あの桑だ」

「桑の実って、食べられるんだ」

 その実をしげしげと見つめる学帽の男性。


「本来は梅雨の終わり頃の食べもんだ。もう、時期的には終わりだが、日陰にあった一本は、遅れて実がついたみたいで今が旬のようだった」

 そう言って彼は赤黒いラズベリーのような実を一つ枝からもいで、友人に、「ほら」と渡す。

「すっぱいなあ。でも美味いや」と手渡された実を素早く口に運んだ彼は、納得した。

 酸っぱさのしかめっ面を直すと、

「お盆休み前に学校の宿舎を離れるのもいいもんだ。帰省とは妙案だったな。帰りも、一緒の汽車で三重に戻ろうぜ」と話を変える。

 桑の実の彼も、大げさに頷いてから、

「おう、そうしよう。じゃあ、おれはこっちだ。二週間後にまた一緒に、三重に戻ろう」と手を振った。

「心得た。母さんの手料理いっぱい食べとけよ。寮に戻ったら、具のないにぎりめしの毎日が待っているからな」

「おう!」

 二人は笑いながら芝公園と芝大門に別れる大きな追分で、互いに手を振った。


 二人のうち芝公園側、神谷町に向かう桑の実の男子学生は、月光に照らされた水たまりを悪戯心に底圧の靴で「パシャリ」と踏んづけた。……筈だった、……が、その水たまりはなぜか底なし沼のように彼の右足を着地させなかった。

 そのまま彼の体は地中深くへと落ちていった。




   二十一世紀の浜松町付近

 女学生の柑子は水の中をするすると流れるように、下へと落ちている。特に濡れもせずに、異次元空間を落ちていく。葛桶と風呂敷をしっかりと抱きしめている。

『お兄様が、フランスのヴェルヌ、って作家の作品に、こんな水中異次元体験をする小説があるって、昔教えてくれたっけ。そんな感じよね。うん』

 初めての時空越えにしては肝は据わっている柑子だ。文学作品を自分勝手な感想で創作するだけの余裕がある。それほど長くもない降下時間。そろそろ出口という明かりが見えてきた。


『ストン!』

 降りた先は自動車の助手席。それもフィアット、チンクエチェントである。芝乃大神宮、参道脇に停車していた自動車の車内だ。場所はそのままで時代だけが飛んだようである。おなじみこの物語のヒロイン、ピアニスト、角川栄華かどかわえいかの自家用車である。トンと着地した反動で車が少し揺れる。


「わーっ!」

 驚いたのは栄華だ。細かい編み目のレモン色の夏ニットに、同色のアンサンブルのカーディガンを肩がけ、膝上五センチほどの藤色のプリーツスカートという、いつもの大人しめのファッションだ。運転席でコンパクトを覗いて、化粧直しの真っ最中。突然ドンと出現した柑子にびっくり仰天。

 助手席に現れたその人。片手に葛桶、もう一方に学用品の風呂敷。頭の後ろに大きなリボン型の髪飾り。着物に袴の出で立ちである。現代では、大学の卒業式でもなければ、まず見ない姿だ。日常そんな格好をしている人などいない、二十一世紀には不釣り合いな女性が、突然、栄華の横、サイドシートに現れたから驚きは尋常じゃない。


「あれ?」

 物怖じしない柑子は人差し指をあごに当て思案にふける。

 冷や汗もので、わなわなと指をくわえる栄華の前で、柑子はあごから頭の横に人差し指を移動させ、今度は傾げている。

「私、水たまり飛んだら馬車の中? それにしてはこの馬車、前に馬がいないわね」

 そのぶっ飛んだ思考回路に驚く栄華を目にもくれず、なにやら考え事である。

「そっか! これが時空越えだ。御師の家の役割に、私も加わったんだ」

 ようやく合点がいったようで、柑子は笑顔になる。端で見ていたら、この一連の動作はひとり芝居のようだ。


 窓の外でコツコツとガラスを指ではじく男性に、柑子は目をやった。

「ん?」

 男性は偏光グラスに、黒無地ジャケット姿。そう栄華の婚約者、夏見粟斗なつみあわとである。手には旧暦七夕限定ケーキ、織姫スペシャル・モンブランの入った箱。笹飾りのデザインが印刷されている。きっと栄華の依頼なのだろう。

 男性はドアを外側から開けると、

「そこの古風なお嬢さん、その場所はオレがさっきまで座っていた場所なのだが……」

 いつものようにおとぼけ顔で夏見は主張した。

「ごめんなさい」

「いいさ」

 降りようとする柑子に、ジェスチャーで「待った」をかける夏見。


「時間を越える使者、暦人だね」と続ける。

「ええ。あなたも?」

「船橋御厨の御師おんし、夏見粟斗だ」

 偏光グラスのズレを直しながらの自己紹介だ。

「あら暦人の地域まとめ役のお家柄ね。私もおんなじ。芝大門町の御師の家の娘、角川柑子かどかわかんこっていいます」

「かどかわ、って、芝エリアの飯倉御厨いいくらみくりや御師のかな?」

「あら、よくご存じね」と嬉しそうな柑子。

「で、どこの時代から。見た感じ大正中頃から昭和初期って出で立ちだけど」

「正解。大正の中頃よ」

「二十一世紀にようこそ!」と夏見。

「にじゅう……いっせいきぃ……。未来かあ」

 眉間にしわを寄せて、不可解な顔の柑子。


 夏見は意味ありげに、シートの向こう側に座る栄華に話しかける。

「聞いた? 栄華ちゃんのご先祖さまみたいだね」

「ええ」

「お盆だから帰ってきちゃったのかな?」

 いつもの下らない夏見のジョークに、「はいはい」と頷いた。そして珍しくそのジョーク乗っかるように、「ナスやキュウリの馬じゃなく、私の車に乗ってくださったのね。ありがたいことで……」と苦笑いである。


「おばさんは自己紹介してくれないんですね。一番にお会いできた方なのに」

 悪気のない、それでいて栄華にとってはトゲのある地雷言葉を、柑子は吐いた。見た目はともかく、本来の年齢は柑子の方が遙かに上だ。

 ムスッとして、見るからに機嫌の悪い栄華は、前屈みになって、ハンドルに両手とあごを乗せている。オマケに難しい顔でフロントガラスの向こうを見つめていた。

 後部シートには二人の旅行鞄が置かれている。二人で夏のバカンスに向かう直前のようだ。

 上手く後部座席に乗り込んだ夏見は、場の空気を変えるように、

「そのぉ、柑子さん。お持ちの風呂敷の結び目になにか手紙が挟まっていますが、託宣じゃないかな?」と進言する。

 柑子は、「えっ?」と言って、手元を確かめる。古めかしい薄手の紙で出来た茶封筒から、すこしだけ便せんがはみ出ている。

「本当」

 頷いてから彼女はその便せんをすっと抜き取ると、目の前で広げた。


『渡良瀬自由大学の八雲先生にそのカイコを届けなさい。 お糸』


 後部座席からのぞき込むように、彼女のその手紙を読んだ夏見は、

「お糸さん、て知り合いですか?」と訊ねる夏見。

 彼女は「いいえ」と横にかぶりを振った。

「そうなんですか? 誰でしょうね」

 その時柑子は思い出した。

「たしか時空穴で落ちているとき、白い着物の女性が私の荷物に何かを差し込んでいったわ」

 夏見はその言葉で、

「タイムホールの中で移動できるなど、人間じゃないな」と首を傾げる。そして「その顔に心当たりはありますか?」と再度問う。

「全くありません」

「うーん」

 更に傾げる角度が増す夏見。

 柑子はどうして良いか分からず、縋るような眼差しで夏見に助けを求めた。

「託宣っていうものですよね。これ……」

「その調子じゃ、自己体験はほとんどない暦人見習いだね」


「はい。助けてくれますか?」

 そのまま言葉に出てくるお育ちの良い素直さは、角川の人間であることの証。

「暦人御師とはそう言う役目をする者ですから……」

 夏見は優しく頷く。その笑顔に、柑子は思わずにんまりして、両手を胸元で結ぶ。

「ありがとう。少しだけ心細かったの……」

 硬直した頬で柑子は俯きながら呟いた。

 夏見は少し口元を和らげると、

「栄華ちゃん、運転はオレが変わるわ」と言う。

「ええ。急ぎなのね」と頷く栄華。状況を察しての返事だ。彼女の方はさっきの見つめ合う、二人のやりとりに少々不満がある。

『もう、優しすぎよ! 婚約者は私なのに』と眉間にしわが出来そうなくらいのしかめっ面である。


 後部座席に移動した栄華は、夏見にキーを渡す。

 夏見はスターターを押してエンジンをかけた。

「ええ、これって自動車だったんだ」

 柑子が驚いている横で、

「シートベルトはしてね」と栄華は、身を乗り出して彼女のシートベルトをカチッとかけた。

 今までにない韋駄天いだてん走りで栄華のチンクエチェントは、武者震いをするように唸りながら、銀座中央通りを日本橋、上野方面へと走り抜けていった。


   浅草発特急列車

「わあ、あれ観音様の雷門ね。二十一世紀にもあるのねえ」

 一行は車を浅草の知人宅に預かってもらい、駅へと急ぐ。目に入るもの全てが物珍しい柑子は、きょろきょろしながら未来の浅草を喜んで見物している。平日だというのに、観光客の多さも観光地浅草を象徴しているようだ。しかも辺りは外国人でいっぱいだ。


 彼女は大通りに面した浅草寺の大きな提灯の前で一旦立ち止まると、葛桶を地面において手を合わせた。

 辺りの外国人は、

「おお、ジャパニーズガール。オールドファッション!」と言って、カメラやスマホのシャッターを切りまくっている。アトラクションか何かと勘違いしているのだろう。

 そんな外野には気にもせず柑子は、マイペースで二人について浅草駅へと到着した。


 夏見は足利までの特急列車のチケットを購入すると、柑子に、

「自動改札なので、オレたちと同じように真似してね」と切符を渡しながら伝える。

 柑子は、

「検札係がいなくて、機械がやるんだ! 帝都もすごいことになっているわ」と楽しそうである。物怖じしない彼女は二十一世紀の世界を楽しんでいるかのように見える。

 やがて赤白の車体の流線型電車がゆっくりとホームに入ってくる。その横で夏見は携帯電話を取りだした。

「ああ、そう。託宣のようだ。うん……お蚕さんだよ」

 なにやら打ち合わせのような相談である。

 

 通路を隔てて進行方向左に夏見、右には栄華と柑子が座る。動き出した列車の車窓には隅田川のシーバスが、ガラス張りの船体に陽光を反射させながら進んでいる。

「あの凌雲閣りょううんかくみたいなのは何?」と柑子。

 栄華は彼女の指先の延長線上にあるタワーに目をやる。昨今話題の日本一の電波塔である。

「ああ、東京スカイツリーね。展望台や電波塔の役目をしているわ」と応える。

「何階建てなの?」

「階数は分からないけど六三四メートル。ムサシの語呂合わせになっているはず」

「へえ、すごいわね」

 窓に釘付けの柑子だ。二十一世紀の科学技術を目の当たりにして、目を大きく見開いている。

 栄華は通路を隔てた夏見に小声で、柑子の言った単語を訊ねる。

「凌雲閣って何?」と訊ねる。

 夏見は思い出したように、

「大正の大震災前、浅草にあった高層タワーだったと思う。地上十二階建てで、当時は日本でもトップクラスの高層建築だったと思う」と小声で返した。そして、柑子に向かっては「柑子ちゃん。おのぼりさんみたいだね」とおどける夏見だった。

「失礼ね。私、これでも帝都生まれの帝都育ち。江戸っ子、ってものよ」

 彼女は軽く腕を組み、少しふくれて見せた。

 夏見は、『血は争えないな。あの仕草、栄華ちゃんそっくり』と意味ありげに微笑んだ。

「失礼ね。私の方がもっと上品だわ」とあきれ顔で返す。

 

   自己紹介の御師令嬢

 列車が千住を抜けて、荒川を渡る。

「あら、ひょっとして西新井って、お大師さんのある街よね。こんなに沢山のビルジングが建っているのね。対岸の千住は宿場町の名残で栄えていたのよ。私の時代では、西新井は田んぼと畑が多い町外れって感じだわ」


 物珍しいことばかりで窓に釘付けだった彼女も、ようやく一旦落ち着いた。

「ところでお二人も暦人なのよね。こっちのおじさまは船橋の御厨御師って言ってたけど、おばさまは?」と柑子は栄華に訊ねる。

 自分より遙かに『おばあさま』の筈の柑子に『おばさま』と言われて、少々しかめっ面の栄華。

「角川栄華っていいます。浜松町の生まれで、今は飯倉御厨の御師をやってるわ」

 その言葉に、「ええっ! 末裔! 私たちから何代後だろう」と驚く柑子。

 さすがにそのことを知っていた栄華は落ち着いて、

「おそらく二世代か、三世代後、私の大伯父の文吾ぶんごさんと祖父の新助しんじょ、その父が啡作つばさくって聞いているわ」と家系を辿る。

「まあ、啡作は私の兄。今は帝大生よ。お利口なの」と少し自慢げに話す柑子。

「そうすると曾祖父の時代の人か」と栄華。

「正真正銘の親戚ね。でも絶対に生きている間、出会うことのない間柄だからこうしてお話ししていても反性時系世界はんせいじけいせかい相対的葛藤そうたいてきかっとうは起きない、って事ね」

 栄華はその言葉がきっと「パラドクス」を表していることは何となく分かったが、彼女が単なるおきゃんな女性なのか、才女なのか少々疑問視していた。ただ言えるのは御師の家に生まれたため、既に「時間移動の概念」についての知識は備わっていることを理解した。

「で、二人の関係は?」

 興味ありげに笑顔の柑子。


「婚約中。来年にも挙式するわ」

「挙式って。祝言しゅうげんってこと?」

「ええ」

「まあ素敵!」

 両手を胸元で握るとうっとりする柑子。昭和の少女マンガなら、背景にパッと花が広がる場面だ。

「私のことも良いお相手が見初みそめてくれないかしら」

「だって女学校に通っているんでしょう。卒業しないと」という栄華の言葉を遮るように、

「卒業まで、結婚できないのはまずいわ!」とぴしゃりと言葉を放つ。必死さが伝わる。

『何このテンション?』

 想定外の反応に栄華は眉をひそめた。

「素敵な女性は、女学校を中退して良家にお嫁に行くものよ。なのに私を学校から連れ去ってくれる殿方はとうとう現れなかったわ。私もついに最終学年になってしまったのよ。売れ残り。行かず後家よ」

 大正時代の乙女のルールはなかなかシビアなようだ。学業優先とはいかない。彼女の話で栄華も当時の世相が何となく分かってきた。ところ……、いや、時代変われば習慣も変わるといった感じだ。


 話をはぐらかすように夏見は、

「まあまあ、このケーキでも食べて機嫌直そうよ」と彼女の気をそらす。

 渡されたモンブランケーキをまじまじと凝視する。お蚕さんの繭を模した糸目デザインのカップに入っていて、小さなスプーンで食べるモンブランケーキだ。お決まりの黄金色の麺のようなマロンクリームが渦巻きのようにひかれ、中央の頭には黄金色の栗の実が載っている。

「ケーキはケイクのこと? 洋菓子なの?」

「ええ、この小さな透明のスプーンで食べるの」

 栄華がビニルに包まれたスプーンを彼女に渡す。

 黄色の糸で包まれたようなモンブランケーキである。


 柑子は二人の真似をして、渦状に分かれたクリームのやわらかいすじをそっとすくって口に運ぶ。

 彼女は口からスプーンを離すと、口に中のケーキを入れたまま大きく目を見開いた。そしてそっと飲み込んでから頬に手を当てると、「うーん。デリシャス!」と身震いをするように小刻みにかぶりを振った。


 夏見は、「君のご先祖さん、お気に召したみたいだね」と笑う。

「ご先祖さまにお供え物をあげている気分よ」と軽く笑う栄華。

 夏見は「栄華ちゃんが毒づいているの、初めて聞いた」と笑いながら言うと、栄華は夏見の方を向き直って、「ええ、師匠譲りなもんで」と二発目を打ち込んできた。舌をペロッと出しながら。

「やぶへびだ」と師匠たる夏見は渋い顔でそっぽを向いた。


 その瞬間、間髪入れず、軽妙なリズムを刻むように、夏見の隣の空席に、ストンと人が降ってきた。

「お二人目、到着か。この好天の日に、雨でも雪でなく人が降ってきた。しかも電車の車内に」

 やれやれという仕草をしながら、頭を抱えた夏見の台詞である。

 見れば隣に破帽学ラン姿の男性が座っている。たすき掛けの布鞄からは桑の枝がはみ出ている。胸ポケットには列車のチケットも刺さっているのが見える。移動時に自然と授けられた時神の計らいだろう。

「いらっしゃい! 二十一世紀にようこそ。今度のあなたはどちらの時代から?」

 夏見の質問に、

「大正時代中頃です。今回で三回目の時越えです」と男性。

「その身なりから、(旧制)中学かな?」

「似たような年齢です。高等農林です」

「おお、エリートお百姓さんの養成学校ですね」

「はは。神保三省といいます」

 自己紹介と挨拶をする隣席の若者だった。

「オレは夏見。船橋御厨御師です」



 夏見は、同時代である大正時代から現れた二人には、時神の何らかの思惑が生きているのだろうと感じた。

「その鞄の先、桑の枝ですね。実もなっている」

「はい」

「出来れば、うちの腹を空かした、やや子のために、その葉っぱだけ分けてもらえませんか?」と夏見。

「食べるのであれば、葉っぱと言わず、こっちの実の方をどうぞ」

 気前よく熟した実を差し出す男性。

 すると夏見は、優しく断ると、

「いや、葉っぱでいい。大体、実の方のそいつを食べるのかな? やや子とは、お蚕さんの幼虫です」と笑う。

「ここにいるのですか? 見せてください」

 彼は興味ありげに言う。

「彼女の葛桶の中に」と反対側の窓際に座る柑子を指さす。

 二人の会話を聞いていた柑子は、栄華に蚕の葛桶を渡す。

「これ、あちらに回してください」

「はい」

 栄華は葛桶を受け取ると、通路を隔てた夏見に渡す。


 夏見は膝の上で、葛桶の蓋を開ける。それを見た男性は嬉しそうに顔をほころばせた。

「いやあ。腕白そうな小石丸こいしまる種ですね」と言う。

「小石丸?」と夏見。同時に栄華と柑子も耳を傾ける。

「日本古来の種です。長く日本の衣類を作ってきてくれた。日本人とは、長いつきあいのお蚕さんです。繊細な織目を作る、細くて輝きのある繭糸を吐きます……」


 そう言ってから、「ん?」とその幼虫の頭部の模様を確認して少し驚く。

「これって、伝説の……いや、まさか」

「どうした? 青年」と合いの手を入れる夏見。

「実際にいるとは思えないので、僕の勘違いだと思いますが、月読つきよみ小石丸っぽい?」

「何だそれ?」

「ごく身近な、オレの周りの学生の間でだけ流行っているおとぎ話や伝説の類いの蚕です。実際にはいないと思います。我々が便宜上そう呼んでいるだけ。織上がり、仕上がりを見るとシルクの持つ銀月色。でも角度を変えると三日月の黄金色に変わるシルク素材の生糸をはき出す品種。噂なので、本当にいるはずがない」

「出た。伝説の託宣。瑠璃イワナの時と一緒ね。そっとどこかで生きている可能性もあるわ」

 あり得なくもないという顔の栄華。


 そんな彼女を横目に男性は慣れた手つきで、蚕に桑の葉を与えていた。幼虫たちは、夏見の膝の上で、ムシャムシャと美味しそうに、その桑の葉を食べ始めた。



 東武足利市駅

「ここは?」

 柑子の言葉に「栃木県と群馬県の境目辺り」と返す夏見。高架ホームからエレベーターで改札階へと降りる構造だ。

「やあ、両毛地区か。桐生織、足利織に、結城紬、佐野木綿と、繊維と織物が有名な地域だ。二十一世紀はこんな風になっているんですね」

 三省は高架の上の列車から窓越しに眺めた景色に喜ぶ。

 皆は列車と出るとホームへと出る。やはり高架駅のホームなので高台だ。

「この便利な動く箱はどこの駅にもあるのね。エレベーターって言うのね。聞いたことあるわ」

 エレベーターに乗った柑子。まるで遊園地の乗り物を楽しむように彼女は笑っている。


 改札階へ降りると駅前広場がある。そこには栄華もよく知る顔が、車の屋根に寄りかかりながら待っていた。酷暑で少しへたっているようにも見える。

「八雲さん!」

 軽く頼りなさげに右手を挙げる八雲。半袖シャツに、七分丈ズボンのカジュアルスタイルで項垂れている。

「すまない。ご苦労だったね、ハム太郎」

 礼を述べる夏見に、お決まりの一言が八雲から告げられる。


「僕の名前は半太郎! いつも言っているが、僕の名前はそんなネズミのマンガのような名前ではない。いい加減覚えろ」

 いつもより覇気のない『お約束』を終えると、その横に葛桶を持った袴姿の女性を見つけて、

「初めまして、梁田やなだ御厨の御師で八雲半太郎といいます。よろしく」と笑顔で頭を下げる。

 彼女も襟元を正してから、

「暦人の角川柑子です。半人前です」とお辞儀をした。

 そしてもう一人客がいることに気付き、八雲は夏見に問う。

「客人はひとりじゃなかったの?」

「うん。電車の中で追加されました」

 夏見の言葉に力ない笑顔で、八雲は「あれまあ」と告げた。


 そして夏見の顔を見て、

「……ということは、完全に足利での託宣遂行に間違いないということだね」と返す。

「うん。多分そうだと思う」

 七割、八割ほどの自信で夏見が言う。


「珍しいな。自信家の夏見が、推量や推測の単語を交えるのは」

 夏見は微笑むと、

「暑さのせいさ」と惚けてみた。

 少し笑うと八雲は、次の行程を準備しているようで、皆を車内にすすめた。

「さあ、急ぎましょう。お蚕さんがへたってしまう」

 ワゴン車に皆を詰め込見終わると、八雲はロータリーをぐるりと一周してから、中橋を渡り、渡良瀬川の向こう岸へと車を走らせた。

 夏真っ盛りの緑の町は、いつもどおりの涼風を少しだけ皆に提供してくれた。


   名草

「あの、ここって……」

 見覚えのある風景に栄華は懐かしさを感じる。緑に覆われた集落である。その一番の高台にある台地、そんな場所にこの駐車場は位置する。小さな沢を挟んで、木製の小橋を渡ると竿師ゲンゴロウの工房である。

「ゲンゴロウさんち」と八雲。

「ですよね」と頷く栄華。前回はこの季節より少し手前のツツジの頃だった。それでも見覚えのある株の何本かは花を残していた。

 栄華は前回に続き、今回も余所行き用のそこそこの高さのヒール靴でここに来てしまった。田舎を歩くにはそぐわない。地盤の不安定な砂利の敷き詰められた駐車場から、その先のヒールが刺さりそうな柔らかな土の地面。よくよく運のない自分と項垂れる。まるでペンギンの綱渡りのような格好で皆に続く。


「ここは……さ、ご近所が養蚕ようさん農家なんだ」

「お隣さんの家ですか? ここ集落なしの一軒家じゃなかったんですね」

「うん。ゲンゴロウさん家の奥に、もう二軒ほどあって、桑畑と蚕蔵かいこぐらがある。なんせ渡良瀬川の両岸の町、桐生と足利一帯は桐生織きりゅうおり、足利織の生産地なんでね。その材料の生糸を古くから出荷してきた」


 四人が家の玄関の見える位置まで来ると、和服の美女が打ち水をしているのが分かった。藍染めの浴衣にやや細めの絹帯と、その上に巻いた三尺帯さんじゃくおびに白い前掛けをあてがっている。

「おや、思川乙女おもいがわおとめさんだ」と夏見。

「ここから少し東に行った町、栃木市の寒河さんかわ御厨御師なんだ。この家のあるじ、ゲンゴロウさんのお孫さん」と柑子たちに夏見は紹介する。

「私、今日だけで四人目の御師と知り合っているわ。すごい人脈ね」と頷く柑子。


 一行に気付いた乙女は水桶を玄関脇の水道蛇口下の所定の位置に納めると、帯から下がる前掛けで手をぬぐい、皆の前にしなしなと歩いてきた。

「あら、皆さんお揃いで…って言いたいけど、お二人存じ上げないお顔の方がいらっしゃるわね。その格好、競技カルタの大会にでも来たのかしら? それとも貫一さんとお宮さん?」

 相変わらず品の良いジョークと言葉遣いである。身なりだけでなく、所作も言葉も大和撫子だ。三十路をこえているが、相変わらす若々しく、美しい婦人である。


 慣れた口調で、八雲は、

「大正時代からのお客さんなんだ。ゲンゴロウさんはいるかな?」と訊ねる。旧知の間柄である二人の会話は軽やかだ。

 乙女は微笑むと婦人下駄の縁を使い、軽やかにきびすを返す。そのまま玄関の引き戸を開けて作業場の奥にいる祖父のゲンゴロウを呼びに行った。カンカンカンと小気味良い下駄のリズムが建物の奥に消えていった。

「おじいちゃん」

 遠くで乙女の声が響く。


 しばらくすると甚平と、頭は手ぬぐいのほっかぶり姿で、愛想の良い老人が開けっ放しにされた玄関からゆっくりと顔を出す。

「なんだんべ?」

 片手には渓流竿の穂先を握りしめたままだ。仕事中に呼ばれたという雰囲気だ。

 ゲンゴロウは勢揃いの暦人に気付くと、

「なんだ、今日は時神さまのご神事か?」と首を傾げる。

 夏見は代表して、

「いや、そうじゃないんだけど、結果的に集まってしまっただけで、今回の託宣はお蚕なんだ」と、柑子の持つ葛桶を指さして告げた。

「ん」

 ゲンゴロウは眼鏡のズレを直すと、柑子の持つ葛桶をそっと覗いた。

「ほう、お蚕さんか。まだ小さいな。秋ッ子だなあ」

 二、三度、ツンツンと撫でてみる。

「一丁前に怒ってんなあ、この坊は。そう言えば、お梅さんが、今年はお蚕さんがへたってしまって、数が少なくなって困る、っていっていたな。この辺りの神社は、神事にもお蚕さんを使うところがあるかんな」

 お馴染みの惚け顔で偶然なのか、知っていたのか、どちらとも取れるような判断つけづらいヒントらしき言葉を発した。夏見と八雲は、そのゲンゴロウの言葉と表情を見逃さなかった。他の皆は、その小さな所作を見落として、通り過ぎてしまう。夏見と八雲は、互いに目を合わせると頷いた。

「まあいい。暑いんベや。とりあえず、うちの工房へみんな入らせな。いま、お茶でもいれんべ」

 平然と臆することもなくゲンゴロウは、いつもと同じように皆を工房に入るように誘った。




   ゲンゴロウの竿工房

 一行は工房に入ると、各々上がり端や椅子を持ち出して腰掛けた。ゲンゴロウと乙女は古風な出で立ちの柑子の存在に気付き、紹介を乞う。

「お宅さんたちは、どなたさんで?」

 ゲンゴロウの問いかけに、

「角川柑子と申します。ミカンのカンにこどもの子の字でカンコです。東京は芝大門で大正時代から飛ばされました」と名のる。

 ちらりと栄華の方を見るが、特に話の腰を折らず、頷くだけだった。

「飯倉御厨の角川家のご息女ということか」

「はい」

「ほんで、お前さんは?」と男性の方を見るゲンゴロウ。

「オレ、高等農林で養蚕ようさんを学んでいる神保三省じんぼさんせい、って言います。三重の松阪から帰省して、東京駅から芝の実家に戻る途中、月光に照らされた水たまりを靴で踏んづけたら、その水たまりが底なし沼のようで吸い込まれました。暦人の託宣は三回目なので、慌ててはいません。桑の実を枝ごと持っていたために、彼女の蚕の餌のために柑子ちゃんと合流させられたのかな? と、自分では推測しています」

 実直な物言いに好青年という感じの三省だ。

 その言葉を聞いて、夏見と八雲は、「完全に託宣だ」と声を揃えた。そして既にその内容を理解しているであろうゲンゴロウに視線を向ける。

 当のゲンゴロウ本人は、その視線をわざとずらすように、知らぬ振りである。


「おい、竿師のじいさん。すっ惚けはなしだろう」

 意味深な目線を送る夏見。そのわざとらしさに乙女はクスクスと笑っている。

 少し赤い顔で、盆の上に出ていた麦茶を含んでから、

「おらあ、暦人引退したから、なーんも知らねんよ。勝手にお前らでやったらいんじゃあねん。この家の裏にお梅さんの蚕蔵があっから、とりあえず、お梅さんに訊いてみんだな。織姫大神宮の暦人だった人だ。お梅さんも今はオレと一緒、元暦人。引退した身だけど」と空を見上げた。あくまで他人事のようなスタンスで、この件に関わる気などさらさらないようだ。

「しょーがねえな。狸じいさんは抜きにして始めるか」と夏見。

「こら、誰が狸じいさんだ」と軽くにらむゲンゴロウ。


 夏見は意味ありげに「アメノミホコノミコトとアメノヤチチヒメノミコトが神保君を必要として、ツキヨミノミコトが柑子ちゃんを必要としたわけだ」と言う。

「うん。一理あるね」と言う八雲は、続けて、

「ただ蚕を届けるだけがご託宣とも思えないんだけどね」と加える。

 話し始めた夏見たちに、ゲンゴロウは、

「さて教えることは教えたし、今日んところは引き上げてくんねえけ。昼寝の時間だ。こんなに若い人たちがいっぱいだと騒々しくて眠れねえかんな。田舎の『狸じいさん』は」と意味ありげに笑う。


 ゲンゴロウの工房を出て、裏手の木道を歩くと若葉の終わったツツジの香りの中、隣の家が見えてきた。なだらかな裏山は桑畑である。ゲンゴロウの家よりも、一回り大きな藁で葺いた屋根。その横には漆喰白壁の土蔵も見える。


「おお、まるで江戸時代だな」と夏見。

「いいえ。大正時代にだってあります。二十一世紀にもこんな日本家屋が残っているって、嬉しいわ」と柑子。

 三省も「本当だね。汽車から見た金属的な角張った建物や、ガラスだらけの温室みたいなビルヂングの景色とは大違いだ」と感動している。

 母屋の玄関先に行くと、直ぐ横の縁側廊下にひとりの老婆がネコを抱いてうたた寝をしている。かつての日本の田舎でよく見られた風景のようだ。

 庭先の大きな栗の木の日陰が丁度縁側にかかって、庭先を流れる沢からの風と一緒に、涼を作り出している。


「すみません。ごめん下さい」

 柑子の声に、静かに顔を上げる老婆。

「あれ、若い人たちが大勢でどしたん?」

 ネコは、『邪魔なのが来たな』という顔で、老婆の膝の上を離れると、縁側の石の上で一度だけ、大きな伸びをして淡々と歩いて、縁の下に潜ってしまった。

「私たち、ゲンゴロウさんの知人で、今回託宣を受けて、何故かお蚕さんを届けに来ました。角川柑子って言います」と返す柑子。

「まあ。それはそれは。ほしたら土間の方が涼しいから、玄関の方に回らせな。いま麦茶でも入れんべな」


 皆はすすめられるまま、玄関から入り、土間の上がり端へと移動した。

 しばらくして盆に麦茶の入ったコップを載せてお梅さんが、戻ってくる。

「すみません。お構いなく」と口々に言葉をかけ、皆がお辞儀をする。

 柑子は、葛桶をそのまま蓋を開けて、お梅さんに見せる。

「あーれ、ずいぶんと可愛いお蚕さんじゃねえけ。結構な数いらっしゃる」

 良い年の取り方、人生の年輪が見える、その笑顔が柑子に向けられて、

「先日、車使わねーで、容易じゃねえおんもいして、階段登って、織姫さんにお参りした甲斐があったわ」と言う。

「お参りしたんですか?」

「そだよ。今年はなんか、体の弱いお蚕さんが多くって、自分ちでまかなうだけしかなくって、お蚕さんをご神事用に神社さんに差し上げる分が少ねえんよ。織姫大神宮のお社で元気の良いお蚕さん欲しいんです、ってなあ、言われたけんども。ねかったら、どうすんべかな、って、思ってた。でもこんな可愛い配達人が、可愛いお蚕さんを届けてくれたんだな」


『可愛い』という言葉に気をよくする柑子。


「あんた、柑子さん。時空郵政のバッジはつけてねえから、普通の暦人け?」

 駆け出しで、時空郵政を知らないであろう柑子を手助けするように、八雲は、

「ああ、飯倉御師の角川さんなんだ」と乗り出して教える。

「ああ、先生。いたんけ? すっとぼけて、皆にまじってっからわかんねかったわ」と笑う。

 どうやらお梅さんと八雲は顔見知りのようだ。同じ街の暦人なので、当たり前といえば当たり前である。

「ついでなんで僕が伝えるけど、この二人は託宣で大正時代から飛んできた新人の暦人たちなんだ。それで僕宛に手紙が付いていて、僕の判断でゲンゴロウさんとお梅さんのところに、このお蚕さんを持ってきたってわけ。おそらく正解じゃないかな?」


 八雲は上がり端の座敷の上にある神棚を見上げて指さす。

「神棚にクワコがいるよ」

 そこには蚕に似た茶色の大型の蛾が止まっている。

「あれ、本当だ。これは託宣完了の合図かもなあ。懐かしいんな。しばらく託宣なんて忘れてたわ」

 栄華は訳も分からず、「クワコ?」と首を傾げた。

 横にいた三省が栄華に小声で教える。

「クワコっていうのは、カイコ蛾の野生種のことです。茶色なのが特徴。一般的な白いカイコは、ミツバチと同様に完全に人間が飼い慣らした昆虫なんです。家畜なのです。だから蚕は「匹」ではなく「頭」で数えるんですよ。もう飛ぶことも、出来ないし、幼虫は自分で餌を捕獲することも出来ない。だから人間が桑の葉を与えて成虫にしないといけない。途中で自然にかえして、桑の木に放しても、落ちてそのままになるんです。成虫になっても退化しているので飛べませんから、落ちたらそのまま、雨に打たれて終わってしまいます。幸か不幸か、人の手がないと生きられない性質になってしまった昆虫なんです。だから昆虫の家畜、って言われてます」

「ええっ! そうなんだ。知らなかった」 

 それを聞いていた夏見も、反対側から説明を入れる。

「ついでだから教えてあげるけど、、繭を作って茹でちゃうと、中にさなぎの死骸が出来るんだけど、それを細かく砕いたのが、よくオレが釣り餌に使う、さなぎ粉っていうやつだ」

「あの釣具屋さんで売っているヤツね」

「そう」

「昔の人は偉いわね。余すところなくちゃんと使うんだ。それが自然との共生なのね」


 皆の注目が確認できたのを悟ったように、役目を終えたクワコは、日の差し込む光に誘われて、パタパタと表に向かって飛ぶ。

 家の入り口に置いてある高さ四、五十センチほどの糸寄せ車に止まって、一度羽を大きく開くと、跳躍をするように戸外へと飛んでいった。

 糸寄せ車は、通称糸車と言い、出来た生糸をいくつか寄り合わせて強度をつけるための昔からの道具だ。

「じゃあ、おばあさん。私が持ってきたこのお蚕さん。神事にお使いください」

 柑子の言葉に、「ありがとう」とお辞儀をするお梅であった。

「これで私の今回の役目は終わりなのかしら?」

 柑子の言葉に、

「届けるだけなら、託宣主の代理が時空郵政を使って、お梅さんに送ればいいだけなので、なにか複合的な要素や意図を感じるけど」と夏見。

「その意図は?」

 栄華の言葉に、夏見は『お手上げ』という顔で、

「今はまだなんとも。ただ言えるのはお糸という人からの手紙だったのに、まだその人物は出てこない。そのうち時巫女がその意図を伝えに来るだろうね。とりあえず、目下オレたちには、この先のことはさっぱり……」と肩をすくめた。


「いや。お呼びの張本人がそこにいるね。お糸さんかな?」

 八雲の言葉に、

「またですか。八雲さんの霊媒師の真似」と栄華は茶化す。

「いいえ、いるわ」と乙女も八雲の言葉に同調した。

「出ておいでよ。僕らは暦人だ。問題ないよ」

 八雲のその言葉に、糸寄せ車の横に人型のもやが現れている。

「おいおい、また付喪神か?」と夏見。

「だと思うね」


 八雲の言葉と同時に白い着物の女性が現れた。

 柑子は、

「ああ! 時空穴の中の人だ」と指さす。

 三省も見覚えがあるような風で、少々驚きを顔に出している。

「夢のお告げ……」


 白い着物の女性は、「ふっ」と静かに微笑むと皆に一礼をした。

「糸車の付喪神で、お糸といいます」

 その姿にお梅も、「五十年前に見たお嬢さん!」と驚いていた。

「お梅さん、お久しぶりです」


 八雲はいつものように、

「君が柑子ちゃんたちをここに呼んだの?」と訊ねる。


 彼女はこくりと頷くと、

「質の良い大正時代の小石丸を時神さまの命で届けて欲しかったんです」と返した。澄んだとても綺麗な声である。

「奉納するお蚕さんが欲しかったのもありますが、自治体のこの時代の農業試験場で、時神さまが良い糸を人間たちに与えたいとおっしゃっていて、原種となるもともとの良質で健康な小石丸が必要なのだそうです。既に自然な流れで運ばれる手はずは整っています。それらの小石丸を、神社に、お梅さんが奉納してくれれば、その小石丸は農業試験場に寄付されます。時神さまの元に運ばれるようになっています。あとは時神さまが、秘密裏に人間たちに新種開発を成功させてあげる力添え、神徳を加えさせるようです」


「わわわ」


 柑子は初めての大きな仕事だったため、自分の仕事に今頃自覚して、驚いている。


「柑子ちゃん。今日は長旅、本当にありがとう。私からのお礼は、あなた好みであなたを大切にしてくれそうな男性を、引き合わせたのよ。そこにいる三省さんは、蚕に詳しく、血統書付きの暦人のお家の血筋の人だから、大切にしてもらいなさい。きっとあなたを女学校から連れ出してくれるわよ」

 そう言うと、お糸はすっと消えてしまった。


 八雲は柑子と三省に、

「百年経って、道具に宿り、神さまの遣いとなる付喪神です」と説明した。

「びっくりした」と二人。

「こういうことはこれからたまにあります。託宣を読み解くときの方法の一つと覚えておいてください」

 八雲の言葉に頷く二人。

「これでとても良いおつとめが出来たというものね」

 栄華の言葉に、「はい」と柑子は目をぱちぱちさせながら返事する。


「それはそうと、この先どうするの。栄華ちゃんとこの客人さんたち」と乙女。

「未だ帰り道の案内は啓示されない。まだ何か託宣が残っているのかな? お泊まりだろうね。この時代に」

 夏見の言葉に、

「時間はたっぷりあるわ。ゆっくりやれば良いのよ」と栄華が加える。

「私はおおよそ帰り道の見当は付いているわ。明日にでも教えてあげる」となにか覚悟を決めたような、それでいて更に毅然とした顔で言葉を発する乙女。

「なんで明日なの?」と夏見。

「明日なのよ」と乙女。

 それ以上応える気はなさそうなので、「あ、そう」と諦める夏見。

「じゃあ、ハム太郎。どっか宿探して。あとご飯も」と気を取り直す夏見。

 そして用意周到な八雲は直ぐに答える。

「宿ならさっき駅前のビジネスホテルを予約しておいた。暦人の客人はいつもそこにお願いしている。秘密裏に対応してくれるはずだ」

「いいね。ハム太郎」

『ハム太郎』という言葉にキッと反応して、軽く夏見を睨み付ける八雲。

「足利にはそんなお宿があるのね」

 とっさに気を利かした栄華は、八雲の注意をそらすように言葉に返す。

「うん。松阪や横浜ほどではないけど、そこそこ、こういった暦人関係の需要はある町だから」

「で、食事の方は?」

 続けての質問にたじろぐこともなく、八雲は準備の良さを含んで返事する。

「そうだな。こうなるかな、と思って、一応、晩ご飯の手配はしておいたんだ。町中の僕の馴染みの店だ。だから今後の詳しいことはあっちで食事を取りながら確認しようよ」と八雲。


 八雲の言葉に、眉を曇らせて、コップの麦茶を盆に戻す乙女。

「ひょっとして『ともえ』に行くの?」

「うん。勿論、乙女ちゃんの分もあるよ」と八雲。

 その言葉を遮るように、

「ごめんなさい。私、今日は駄目なの。明日から新酒の品評会の用意があって」と手を合わせる。取って付けたような反応である。栄華と夏見は、どこかぎこちなさを乙女に感じていた。

「そっか、残念だね」と愛想笑いの八雲。いつもの事というような反応だ。

 伏し目がちにも見える乙女の方は、夏見の目には少々陰りがあるようにも思えた。



   足利駅前

 小料理屋『ともえ』は市街地にある。両毛線の駅からも徒歩で十分とかからない。街角の横丁によく見る、ごくありふれた小料理店だ。

「ここでは暦人の話をしても大丈夫だよ。今日は貸し切りにしてくれた。そしてここの女将さんは僕のエリアの暦人さんだ」と八雲が言う。

 女将は軽く頷いてから会釈をした。二十代後半から三十代前半に見える女将がのれんを挙げて出迎えてくれる。暖簾の『ともえ』という崩し字が染め抜きの白地で目に入る。その横には和笛わてきを描いた民芸調のイラストが添えられている。


 栄華も続いて中に入るが、その女将の立ち姿と顔の輪郭に何故か見覚えがある。

『どこかで見たような?』

 栄華がそう思ったときに、女将の眉が少し曇った。まるで彼女の考えていることを読心術で読み取るかのような表情だった。だが栄華はそれに気付かなかった。

 乙女が早々に自宅へと帰ったため、残った栄華、夏見、八雲、そして柑子と神保の五人がテーブルを囲む。

「ビールで良いかしら?」と女将。

「うん。お願いするね。客人にはジュースを」

 その言葉とほぼ同時に、コップとビール瓶二本、オレンジジュースが二本置かれた。各自がコップに互いにつぎ合いながら、自然と本題に入る。

「なぜ僕の託宣は足利だったのか?」と神保。

 首をひねる各人。


 二十坪ほどで、簡単な仕切り壁のある居酒屋割烹兼小料理屋といった感じだ。近所は閑静な裏路地。車の通りの多い国道二九三号線から少し駅寄りの路地に位置する。その国道沿いには、教科書でも有名な史跡の足利学校が存在する。


「神保君は既に暦人として動いているんだよね。今回はどんないきさつでここへ?」

 八雲の言葉に神保が答える。

「ええ、直接的には芝神明近くの水たまりに落ちたのがタイムホールだったのですが、それ前に予知夢のようなメッセージもあったんです。通学している松阪の高等農林で学んでいたら、正確には授業の間の休み時間にうたた寝していたら……。そうしたら、さっきの付喪神、お糸さんが夢でしゃべってきてね。神服織機殿神社かんはとりはたどのじんじゃに行け、って言われまして……」


「それで夢のお告げか。松阪の斎宮に近い海側にある紡ぎの神社。織姫大神宮さんと同じご祭神だな。御霊分みたまわけ受けている神社だ」


 夏見のその言葉に、神保はハッとして、

「それで足利に飛ばされたって事ですか?」と悟る。

「まあ、順当に考えれば、察するに一番妥当な線だ。この足利は伊勢神宮とは何かとご縁の深い街だ」と八雲。


 ひとしきりすると柑子も、思い当たることを口にした。

「あの……神保さんの、はまった水たまりって、芝の大神宮の参道を脇に入った横丁の路地じゃないですか?」


 彼は思い当たる節があるようで、

「知ってるの?」と訊ねる。

「私も同じ水たまりから落ちたようです。あはは」と頭を掻く柑子。

「さばさばしてるのねえ。晴海ちゃんみたい」と笑う栄華。

「でも、ちょっと柑子ちゃんのほうが品が良い」

 夏見の言葉に、栄華は「まあね」と愛想笑いの体でコップを置いた。

「誰ですか?」

「松阪の超お嬢さまの暦人」

 柑子の言葉に夏見が返す。

「へえ。私はお嬢さまではないからな。平民だし敵わないや」

「それはそうと、何故東京の神保君は三重の高等農林へ?」

「母の実家が松阪なんです」

「ほう、興味深い話しだね」と夏見。

「母は松阪の宿屋をやっている小宅こだくという家の出なんです。農業を学びたいと言ったら、下宿させてくれるということで、祖父母の家に間借りの予定で入学しました。でもいまは寮に空き部屋がでたので、そこで暮らしています」

 夏見と栄華、そして八雲全員が目を合わせる。


 声に出したのは栄華だった。

「その家がどういう家か分かる? あるいは何か聞いている?」

 全てをお見通しという栄華の様相に神保は不思議な顔で答えた。

「いえ」

 神保はかぶりを振る。

「全ての暦人御師の総本山、総本家のような家よ」

 栄華の言葉に目を白黒させる神保。

「ええっ?」

 驚いて見せたが、心落ち着けた彼は、

「何の変哲もない、田舎の垢抜けない宿屋ですよ。そんな素振りもない」と半信半疑だ。

「そう言うものなんです!」

 夏見と八雲、栄華はさも当たり前のように声を揃えて答えた。


 夏見は微笑むと、

「まあ、おいおいそのうち分かってくるかもね」と言って、ビールを飲み干した。

 準備が整い、奥の厨房から出てきた女将が、カウンターに並んだ五つの松花堂弁当のお箱を持ちながら、

「さあ、一息入れましょうよ」と言って、各人の前に並べ始めた。


 アユの塩焼き、山菜の天ぷら、ウナギの白焼き、厚焼き卵のジャガイモ添え、つくねとジャガイモを一緒に刺した串もの、煮物も添えられている。どれも両毛地区の名物が小分けされて納まっている。皆の前にお箱が置き終わると、デザートには梨のソーダ水漬けと一口サイズのあんころ餅も運ばれた。

「召し上がれ!」


 心なしか八雲のそばで、必要以上に、にこにこ顔を見せる女将。

「よいしょ」と言って、しなやかに、しかもさり気なく八雲の席に近い上がり端に腰を下ろす。そして前髪を分けるように整えると、そっとコップを差し出す。

「私もいただいていいですか?」

 左手でコップを持ち、柔らかく右手も添える。

「もちろん」

 差し出す片手のコップにビールが注ぎ込まれる。その傍らで彼女は、アピールするように八雲の履いてきた下駄を揃える。お世話が楽しいようだ。

 夏見は思うところがあり、八雲を肘で突く。

「何だよ」

「乙女ちゃんが、ここに来ない理由が分かった」

 八雲も分かっている素振りだ。

「そうなんだよ。なんか女将とは表面上は出さないんだけど、そりが合わないようで……会いもしないんだ。ここの料理、美味しいのに」と悄気る。見当違いの分析に夏見はおでこを押さえる。

 思わせぶりな表情で、「バーカ」と夏見は笑うと、

「本当にお前は唐変木だな。無粋者。一生、古文書読んでろ」と笑った。

「何だよ。相変わらず口悪いなあ。言われなくても、一生、古文書を読んでいくつもりだよ」と珍しく夏見の無礼講を許した八雲はビールを一気に飲み干した。


 その時だった、栄華は女将の面影からあることに気付いた。そしてもう一つ、乙女の分が用意されていないのだ。さっきの八雲の話では乙女の食事の分も用意されていた筈。彼がキャンセルの連絡をした形跡はない。店に来てからも伝えてもいない。

『なんか不条理な気分よね』と心中で思う栄華。

 先程と同じく読心術のごとく、栄華の気配を、いち早く察知した女将。いや、これはもう読心術である。


 すっと立ち上がると、小上がりの奥の席にいた栄華を招いて、いや半ば強引にも思えた所作で、彼女の手を引く。

 栄華は備え付けのサンダルを引っかけると店の奥へと導かれた。そして皆の視界に入らない柱影に入ると、女将が優しく首を横に振った。


「気付いても、言わないでおいてね。淡い恋心なの。ささやかな楽しみなのよ」


 その姿はいつの間にか長慶子ちょうげいし時巫女ときみこに変わっていた。当然、時巫女なら読心術を使えるはずである。彼女は白地に薄い青海波模様がかすかに入る訪問用の浴衣姿。本来の姿に戻った。そして透き通るような白い肌。左手にはいつもの横笛を持っている。


「あ、やっぱり。所作が似ていたから……」

 そう言いながら、途中で言葉を止めて、口に手を当てる。知ってしまったことに後悔する栄華。

「しーっ! 他の人はみんな気付いていないから、黙っていて」

 人差し指を口元で立てる時巫女に、

「八雲さん、好きなの?」

「うふふ」と含み笑いをすると、

「さすが飯倉の御師ね。血筋は争えないわ。おみごと」とウインクして見せる時巫女。冷淡な無表情ではない彼女。そんな長慶子の時巫女を見るのは初めてだ。お酒の所為せいだろうか、いつもより少し愛想が良い。


「とにかく内緒ね」


 その言葉を残して、彼女はもとの女将の姿に戻り、八雲の座る席の隣、上がり端に戻っていった。


 栄華は困った表情で呆然とその場に立ち尽くした。

『ええっ! 八雲さん、マイクさんみたいになっちゃうの?』

 これが栄華の心の叫びである。

 栄華は、東海地方を仕切る多霧たぎりの時巫女、その旦那さんである表参道の喫茶『ひなぎく』のマスター、マイク花草の事を思い出していた。


 しばらくの歓談の後、女将は、柑子に声をかける。

「柑子ちゃん。ちょっと良いかしら」

 女将は右手の和服の袖を、左手で押さえる。そして柑子に手を差し出すと、その手を取り、小上がりを離れた。

 残りの面子は「何事?」と言う顔をしたが、立ち入ることはしなかった。

 柑子は突っかけ履きを引っかけて、女将の後を付いて、フロアの奥に向かう。大きな冷蔵庫の横を通り抜けると、階段がある。

「階段、急だから、足下あしもと気をつけて」

 彼女の手を取りながら、女将は階段を上り始めた。

 階段の先には、二階の四畳半ほどの小部屋がある。突き当たりは窓になっていて、月明かりが入る。古風な三面鏡と小さな本棚、それに書生机が置いてあるだけの簡素な調度品のみの部屋だ。


 机上には、小さな螺鈿らでんの箱が置かれている。この物語ではお馴染みの『時の玉手箱』だ。

「これからあなたは、二十一世紀のこの町と、自分の住む大正時代を頻繁に往復することになるわ。待機場所として、ここを使ってもらっていいから」と言って、鍵を手渡した。

「えっ?」と柑子。

『女将は何者?』というのが柑子の脳裏をよぎる。


 そんな疑問にもお構いなしに女将は続ける。

「時巫女からの伝言があるの。実はこの足利や広域自治体の県では、カイコの品種にこだわりがあってね。かつての良質な糸を持つ品種を復活させる計画があるのよ。その第一弾が『改良小石丸』ってカイコなの。これはもう完成している。今日あなたが持参した特別な小石丸も、きっとお梅さんを経由して神社さんに奉納された後で、その研究農家へと運ばれているはずよ。月をイメージした白銀と黄金の色あいを持つ糸。それを基調にしながら新たな製品や品種を考案していくの。そのためにあなたは三省君と一緒に大正時代の松阪と令和時代の足利を行き来してもらう事になるわ。よろしくね。そしてその拠点にこの部屋を使って頂戴、ってことなのよ」


 指をくわえて話を聞いていた柑子。脳に届くまで時間がかかったようで、ワンテンポずれてから、「ええー!」と仰天した。

「行き来する際は、あの机上ある螺鈿の箱に夕顔の花と桂花の御神酒を一緒に入れてみて。煙とともにあなたが願ったその時代に飛べるわ。ただし桂花の御神酒はゲンゴロウさんか、思川乙女さんの作るものを使ってね。八雲さんの御神酒だと、一時間で元の時代に強制的に返されちゃうから」

 淡々と説明する女将。多大な情報量に頭が混乱する柑子。

「もう、いろいろ一度に大変! これがメインの託宣だったのね」

「大丈夫。時神さまはあなたを大切に思っているわ」

 女将は月明かりの中で、優しく微笑んだ。


   月夜の二人散歩ランデブー

 夕食を終えて宿舎に入った柑子。色々なことが一度にありすぎて、全てを処理できていない。

 ビジネスホテルの個室で寝付けない柑子。フロント係に、

「ちょっと散歩してきます」と鍵を預けた。あらかじめホテルの利用方法は栄華から聞いている。またお小遣あしも少々もらっている。


 月明かりの美しい夜で、周りの山の影が空と陸の境を教えている。

 駅前の電気機関車が静態保存されている広場の片隅で、縁石に腰掛ける三省を見つけた。


 柑子は手ぐしで少し髪を整えると、胸元と襟元を正してから声をかける。

「神保さん」

 三省も柑子に気付いたようで、

「やあ、カンコちゃん」と返す。

「眠れないの?」と訊くと、

「うん。ちょっといろいろありすぎて、整理しきれなくて。そしてそのいくつかは腑に落ちなくて」と返してきた。


 柑子は自然に彼の横に並ぶように腰を下ろす。『男女七歳にして席を同じうせず』の時代の二人だが、ここは大正浪漫の「はいからさん」、お互いに照れながらも、真面目に会話を続けた。


「なんだか、オレの託宣は、柑子ちゃんを助ける役割のような気がしている」


 腿の上に肘を載せ、頬杖をつく柑子は、

「私、それなら心強いわ。だってさっき女将さんからこの時代の待機場所を提供されちゃった。どうやらお蚕さんのために動く暦人になったみたい」と頷く。

「ああ、その件。オレもさっき女将さんから、ホテルのロビーで聞かされた。柑子ちゃんひとりではいけないからと、『時の玉手箱』の使い方やこの町の『虹色タイム御簾ゲート』の場所を教えてくれたよ」

「そんな専門的な暦人がある事なんて聞いていなかったわ。私、自分の家族の話を聞いていると、もっと広い役割で動いている感じだったし……」

 柑子の言葉に説得力があったので、彼は気になり訊ねる。

「やっぱり御師の家の人なんだね」

「え、あ、うん」

 反応して頷く柑子。

「初めての時間越えの割には、物怖じもしないで淡々とつとめあげているもんな」

「ええ? そう見えるのかな……。これでもドキドキはしているのよ、自分なりに」

 空々しく、他所に目をやる柑子。褒められるのになれていないのだ。なにせいつも一人で、神社の狛犬相手に話してる位なのだから。今風に言えば、『ボッチ生活』である。

「初めての時か……。オレ、最初に時間飛ばされたとき、驚いたなんてものじゃなくてさ。怖くて何が起きているのか分からなかったよ。異国に来たような気分だった。今は結構いろいろな場所の『虹色タイム御簾ゲート』を覚えて、くぐり抜けるようになったから少しは慣れたけど、最初は意味も分からなかった」

 柑子は人差し指であごを押さえながら、

「そっか。私は生まれたときから御師の家だから、そういう世界があることを既知感覚で持ってた。だから、あんまり気にならないんだ」と納得してる。


 まるで外国で出会ったように、二人は同郷を懐かしむような会話を楽しんでいる。

「そう言えばカンコちゃんは、芝のどの辺りなの?」

「私は大門よ」

「なんだ都会だね。省線しょうせんの駅から直ぐだ」

「そう言う三省さんは?」

「神谷に近い芝の丘向こう」

「じゃあ、増上寺さんを挟んで、丁度反対側ね」

「そうなるね」

「自分の時代に戻ったら、私、遊びに行っちゃおうかな?」

「歓迎するよ。丁度、繊維問屋の花菱屋っていう屋号で商いやっているから直ぐに分かるよ。お盆の期間中はずっと実家にいるから」

「本当? 約束ですよ」と悪戯っぽく笑う柑子。

「なんで?」

 割と一本気で真面目な三省は柑子の表情を見抜けない。

「遊びに行って、『こんなやつ知らない』って追い返されたら私、悲しいじゃないですか」

「オレ、そんな薄情な奴に見える?」

 柑子は半分笑いながら、冷やかして「見える!」と返した。

「こいつ!」と笑う三省。

「あはは、元気になりましたね」


 柑子は着物の袖で顔の下半分を隠しながら、安堵の表情を見せていた。

「そんなに可愛いと、君の女学校まで君をさらいに行っちゃうぞ」

 その言葉に嬉しそうに頬を染める柑子。まんざらでもない様子だ。

 月明かりの下、二人の若者の大正浪漫は、なぜか二十一世紀の街角で確実に良い方向へと育まれていた。


 

  ピアニスト

 翌朝、ホテルのレストランで朝食が用意されていた。『角川様』とテーブルに大きめの名札カードが置かれている。

 寝ぼけ眼の夏見が、栄華に襟首をもたれたままレストランに入ってきた。柑子は袴と着物をクリーニングに出してもらい、栄華のワンピースを一日借りることになった。

 お決まりの焼き魚に卵焼き、納豆とナメコの味噌汁に味付けのりである。綺麗に並んでいる食器類もビジネスホテルの割には一流ホテルのような高級感がある。

 そこに三省も着席して、宿泊組は全員集合である。

 中央にあるグランドピアノの天板を開ける女性がいる。演奏者の案内板には『長野慶子』とある。色白で透き通った肌。しかも軽くウェーブした長い黒髪。美人である。


 演目は『月の光』、ドビュッシーだ。静寂と静謐、響きと余韻が織りなす楽曲。朝になぜこのチューン、演目かと気になった人もいた。

 朝食を取りながら、皆は話している。その喧噪の中で、栄華は再びそのピアニストに何か引っ掛かっている。別にピアニストなど星の数ほどいるだろう。しかしそういった仕事の面ではなく、今鍵盤を操る彼女に、誰かと同じ雰囲気を感じているのだ。


『この鍵盤裁きと雰囲気。どこかで?』

「あ、そうだ。横浜のチェレスタ」

 栄華の感覚では、ハリーさんの家で聞こえてきたチェレスタの弾き手の指裁きと似ていると感じた。あの時の奏者は長慶子の時巫女である。鍵盤を弾くときの癖というのは、どこかで出るものだ。栄華もプロのピアニスト、その鍵盤裁きの癖を見抜いていた。


『ううん。雰囲気なんかじゃない。彼女そのもの』と栄華が思ったその時に、ピアニストは小さくこちらを向いて、栄華に薄笑みを浮かべた。確かに自分の方に視線を向けていた。相変わらず演奏は続いている中でだ。


『心、読まれた!』と栄華。夕べと同じ読心術である。

『でもなんで? 女将と同一人物なの?』

 それとは別に平行して栄華は、テーブルの名札カードの異変に気付いた。

「ねえ、これ」と粟斗に差し出す栄華。

 夏見はその名札カードを受け取る。表の面には薔薇の絵柄をあしらったデザインに、角川様と印刷が施されている。ひっくり返した裏面には、イトハコベの花と近隣の自然公園である冨田湿原が写っていた。

 夏見は自然環境ジャーナリスト。イトハコベは絶滅危惧種、レッドリストに載っている野草であることぐらい知っている。この植物は可愛い白い花を咲かせるナデシコの仲間である。

「これが託宣とでも言いたいようだな」と返す夏見。続けて、

「オレには何の変哲もない、ホテルの良くある観光地紹介に見えるが……。近所に群生地があるからな」とそれを否定した。

「うふふ」と勝ち誇ったどや顔の栄華。


「昨日ね、乙女さんに教えてもらったの。自然公園のものは触っちゃ駄目だけど、ごく希に、あの近くの渡良瀬川の河原近くで見つけることも出来るんです、って。その花は恋の機織女はとりめでね、その朝露が赤い糸を結ぶそうよ。今回はその花かもね、鍵は、って言っていたわ」


 夏見は出し抜かれた感じで、「へえ、そうなんだ。彼女、何か知っているな。今回の託宣の本質を」と言ってから、

「でも栄華ちゃんも、まるで足利市民だな」と笑った。

「だがこの花の本来の開花季節は初夏なので、そろそろ終わりだな。見つけるの難しいかもよ」

 栄華は「でも頑張る!」とガッツポーズだ。そして続ける。


「私も乙女さんが言うように、託宣か、あるいはそれを表象するものはそれだと思う。だからイトハコベは見つかると思うし、乙女さんはわざわざ、それを私たちに教えたくて、なにかの変化へんげを示唆している……」と言いかけた栄華の言葉をかき消すように、声をかぶせる夏見。


「時巫女がピアノ弾いているって訳か」と不敵な笑いを浮かべた。


 栄華は、「えっ、分かっていたんだ」と感心する。

「ああ、あのピアニストが来たときからね。難しいことは分からないけど、いつか聴いたチェレスタと同じ雰囲気を感じる」と返した後で、夏見は「いいよ、行ってみよう。渡良瀬川の河原へ」と加えた。


 その横で何も知らない大正浪漫の暦人たちは、二十一世紀の朝食を堪能していた。そこへフロントからの言付けを持った給仕の女性がやってくる。白のヘアバンドとエプロンに、黒のワンピースとストッキング、いかにもウエイトレスといった格好である。

「お預かりしたお着物一式は、こちらの住所の『ともえ』というお店にお届けしておけばよろしいと言うことですね」

 味噌汁の椀を左手に、柑子は、

「はい。お願いします」と返事する。

 その言葉に一礼をして給仕の女性は去って行った。

「こっちに置いていくの?」

 三省の言葉に、

「なんか、この時代の洗濯店って、和服の仕上げにとても時間がかかるんですって」と柑子。

「確かに洋装の人ばかりだもんな。縁日のポスターで和装の女性が写った写真見たけど、普通に着ている人は希だ」

「未来なのね」

「うん」



   撫子の七変化(乙女さん流の決着)

「探すのはイトハコベよね」

 栄華は宿からもらってきたカードに写る写真を頼りに河原を散策する。

 後から合流した八雲は、

「イトハコベなら、直ぐそこの冨田の湿地公園に行けば、簡単に見られるのに」と地元ならではの意見である。

「自然公園のものはむやみに触れてはいけないだろう。勿論野生のものだって、過剰に触れてはいけないけど、まだ許される。実はイトハコベの朝露が欲しいらしいよ」


 夏見は栄華に言われた目的をそのまま伝える。

「何でまた?」

「オレも詳しいことは分からないんだけど、なんでも乙女ちゃんが栄華ちゃん教えたらしい。お前も知らないのか?」

「知らない」

「暦人なら知っていなくてはいけないらしいよ」

「ん?」

 あごに手をやり、首を傾げる八雲。

「南関東の暦人のオレたちはともかく、地元のお前さんが知らないって、どういうことだよ」

「それ、伊勢系の暦人じゃないからか? 大神おおみわ系の縁結びなのかな……」

 夏見は、知性派暦人の八雲も知らないことがあるというのに驚きだった。

 まだ暑くなる手前の早朝。しかも河原である。川上からの風が心地よい。


「『時の結び糸』の事だと思うわ」

 予期せぬ方向から聞き覚えのある声がする。

『ともえ』の女将がコバルトブルーのスカートと白いブラウス姿でそこに立っていた。

「女将?」と栄華。


「その技って、乙女さんから教えてもらったのね」


 無言で頷く栄華。

「よく分かったね」

 八雲は頷く。何か含みのある言い方だ。まるで理由は女将自身にあるという風にも取れる。

「お察しの通り、縁結びの大神おおみわ系の技だもの」

「現地にある、かの『赤い糸の小道』かな?」と夏見。

 女将はふっと小さく笑い、

「ええ。最近は観光で活玉依媛命いくたまよりびめのみことのゆかりの地から大神神社、すなわち大物主の場所までをそう呼んでいるみたいね」と肯定する。


 夏見と栄華は、女将と八雲の面持ちが真剣なことに気付く。

 特に八雲は、肝が据わった顔つきだ。長年の付き合いから夏見にはそれが分かった。


「女将。僕は女将じゃなくて、乙女ちゃんに今すぐ会いたいな。聞きたいことがあるんだ」と言う。八雲は何かを知っている顔だ。

「電話したら良いのに。そんなの女将に言ってどうなることでも……」と言いかける栄華。


 その間に、彼女はその場でくるりと回ると、なんと女将の姿は、白いワンピースドレスの乙女の姿へと変わる。まるで七変化だ。

「ええっ! 電話しなくても、どうにか、なっちゃった」

 さあ栄華は大変。頭の中が大混乱。両手で頭を押さえて、前後左右にかぶりを振る。

『昨日は女将が、時巫女になって、今日は女将が乙女さんになって……』

 目をつぶったまま、髪を振り乱して大きくかぶりを振り続ける栄華。


 その反応がとても楽しいらしく、乙女は、栄華のその様子に気付くと、

「ごめんね。少しだけ種明かしするわ」と言って、再びくるりと回ると、また別人が現われた。今朝ホテルで見たピアニストの長野慶子がそこにいた。

 栄華は涙目になって、半分左手を口に突っ込みながら、「今度は朝のピアニストになっだ~ぁ」とヘロヘロな声を出す。時巫女はお遊びでやっているか、真面目にやっているのかすら、栄華にはすでに判断不可能になっていた。

「ぼう、しょうだいぼ、びだざんにぎってびびの? (もう、正体を、みなさんに言って良いの?)」と栄華。

 長野慶子は「ええ、ここで告白しちゃいます!」と笑う。

「長慶子の時巫女と思川乙女、『ともえ』の女将、そして長野慶子は全部、私」といって、再び姿を変えて、時巫女の姿になった。いつもの和装だ。


 その変化へんげに、さすがに夏見も飲んでいた乳酸飲料を吹き出しそうになった。

「なぬーっ! 『ひみつのアッコちゃん』か『キューティーハニー』、いや怪人二十面相?」


 横で軽く栄華は、半泣きしながらもツッコむ。


「どれもこれも、例え古すぎ」と軽く両手をすくいあげ、肩をすくめる。おどろおどろしながらも『残念』のポーズを見せた。

 栄華と夏見の驚きの様子とは対照的に、八雲は頷いて笑っていた。端からお見通しという素振りだ。


「やっと本当のこと言ってくれた。待っていたんだ」

「知っていたの?」と時巫女。

「勿論」

「意地悪ね。いつから?」

「うーん……。覚えていないけど、結構昔から。遠縁だし、幼なじみだし……」

 少し考え込んだ後で八雲は続ける。

「そうそう。もともと同一人物って分かっていたからなあ。いままで女将と乙女ちゃんと時巫女は、同時に姿を出さなかったでしょ? 時神節では遅れてきたり、料理屋には誘っても来なかったりね。出てくる料理も結構、栃木市の『うづま酒造』の軽食喫茶コーナーと足利の小料理屋『ともえ』で食べた煮物は味付けがほぼ一緒だったしね」


 時巫女は『しまった!』という顔を一瞬見せた。

「でも同一人物というのは、如何かしらね?」と謎めいて見せる時巫女。まだカラクリがありそうだ。


 八雲は彼女の言い終わるのを待ってから、いきなりその場にかがみ込んで、イトハコベの水滴を自分も採る。指先にぷるぷると小刻みに動く水の玉を載せている。そして優しく微笑む。そのまま「はい」と、その小指を差し出した。

「君が気になっている大物主のご神徳を賜りましょうよ」

「時巫女を手玉にとっていたなんて、大したタマね」

 八雲の言葉に笑顔で応えながらも、頬を染めた時巫女は無言で自分の指を近づけた。

 二人の姿は光輪に包まれ、シルエットが浮かび上がる。そしてそのまま光がおさまると、赤い糸が残像のように残ってから、すぐに消えた。


 光輪の儀式が終わると、八雲は、

「どう考えたって、同一人物ということを、気付いていないわけがないでしょう。感じませんでしたか?」と問う。

「だって心は読めないし、発言は必要以外の文言を発しない人だし……」

 半分ふてくされている。時巫女には希有な表情だ。普段ならおくびにも出さない場面なのに。

「読心術に頼るのではなく、自然体で感じれば良い。言葉でも、心でもない、態度や雰囲気というにじみ出る性質です。あなたにもそれはついて回る。例えば、ゲンゴロウさんはどこか違う態度で、孫のあなたとは接するんですよ。他人行儀というか、大根役者っぽい感じで。同じ孫である桜ちゃんとは、親しみを持っている雰囲気があって、まさにの感じに関係性が見える」

 そしてしばらく考え込んでから、再び始める。

「なによりも、あなたは僕の記憶や意識に入り込むことは出来なかったという理屈は正しくない。僕の中を読心術で見ようとしても、古文書の景色しか見えなかったんでしょう。絶えずそれしか考えていませんから」と笑顔で続けた。

「でも好きでいてくれたの?」と時巫女。

「今、あなたは誰の立場で訊いていますか?」

「乙女です」

「ハイ。乙女さんをずっと好きでした」

 その言葉を聞いて、白い彼女の頬がピンク色に変わり、高揚するのが分かる。


 時巫女は長い髪を肩から後ろに払うと、

「じゃあ女将と乙女。どちらがあなたにはお気に召しましたか?」と柔らかな口調で微笑む。

「僕は昔から乙女ちゃんと一緒にいるつもりだったから、女将は止めとこうかな」

 時巫女は柔らかく微笑むと、再びくるりと回って再び乙女の姿になった。

「お気に召しましたか?」と傾げながら微笑む乙女。

「もちろん」と笑う八雲。

「もうあなたの前に、女将は出てこないでしょうね」と乙女が告げる。

「それでいいですョ」と八雲。

 そして続けて、

「でも僕に正体ばれちゃったけど、女将のお店は続けるの?」と訊く。

「いいえ。乙女の造り酒屋が本業だもの。足利にはゲンゴロウさんのお手伝いと、ご神事の時以外は来なくなるわ」と乙女が言う。

「そっか。僕は行きつけの店は一件減るね」

 その言葉に乙女は軽くかぶりを振って、

「あのお店、レシピごとそっくり、桜ちゃんに引き継ぐつもりなの。だから今後も行けるわよ。それにデートでも来ると思うしね」と嬉しげに答えた。後の手際の良さ、用意周到な乙女に納得する八雲。

「桜、本人にも伝えてあるの?」

「もちろん、友人と一緒にやってくれるそうよ。二階の部屋は今回の託宣使者だった柑子ちゃんたちに使ってもらうわ。足利の発展のために」

「いいね。なんか足利も、松阪や横浜、湘南のように、暦人の交流が活発になりそうだ」と八雲も嬉しそうだ。


 乙女は少し陰りを見せると、

「ただひとつだけ、個人的な部分で懸念材料もあるの」と持ちかける。

「なに?」

「私、時巫女をやめて人間一本でやっていく覚悟がまだないのよ。これは意味深な、そしてデリケートな問題を沢山含んでいるの……」

 彼女の言葉を途中で止めると、八雲は「ふっ」と吹き飛ばすように、笑う。

「そんなことか」

「大事なことだわ」

「僕がそういうのを気にするとでも?」

「でも」

「いつでも良いさ。乙女ちゃんがそうしたくなったらすれば良い。限りある命、人間の僕が生きている間が有効期限だけど。まあ昔話で言う【異類婚姻譚いるいこんいんたん】が現実のものとなってしまったね」と笑う八雲。

「ええ」


 乙女はなにか他の含みもありそうだが、八雲の言葉を遮ることは無かった。まだ時期尚早で打ち明けられないといった風にも見える。そんな乙女の表情を気にすることも無く、八雲は続ける。

「僕と正式に結婚しちゃうと、君も限りある命になっちゃうよ。美女神のコノハナサクヤヒメと天孫降臨の立役者であるニニギノミコトのように、君に寿命というものが付与される」

 彼の言葉に乙女は気にした風でもなく、

「その事に悔いはないわ。あなたを私が独り占めできるのですから。それに……」と満足げな顔と一緒に、少しの含みも持たせている。


 語尾にあった含みのセリフは聞き取れず、前半の言葉を受ける八雲。

「そんなものなんですか?」

 異次元の物体を見るような眼差しの八雲。まるで自分にはそこまでの価値はない、とでも言いたそうな謙遜の雰囲気だ。


「女心は古文書には書いてありませんか?」

「今のところ、見つけられていません」

「じゃあ、私が教えてあげます」


 そう言って、乙女は、ボードウォークの脇の縁石にのると、顔の高さを合わせてから、八雲に唇を重ねた。思わず目を見開く八雲。驚きを隠せない。


 乙女の頬には涙のつぶてが絶え間なく流れている。本当に愛していた人と成就できた幸せからくる涙なのだろう。『所詮無理』と諦めていた夢が叶ったこの時。人間となって、愛する人と添い遂げることは、永遠の命を手放すことより重みがあると感じている。その叶わぬ夢が叶う嬉しさは、きっと彼女以外には分からないだろう。

「『雪女』や『鶴の恩返し』の物語を現実で見ているみたい……」

 感動を言葉に出す栄華。


 冷静にそれを見つめる夏見は、照れ隠しなのか、

「朝っぱらから河川敷で何やっているのかね。あのバカップルは」と視線をずらし目をつむる。でも心中で祝福をしているのが栄華には伝わっていた。

 栄華は夏見の腕に自分の腕を絡めて、俯いていた。

「私たちにとっては、予定変更のとんだバカンスになっちゃったけど、これはこれで楽しかったわ。なによりも乙女さん、とっても嬉しそう」

 ぽつりと呟いた栄華だった。

「うん」

 夏見の、この頷いた二文字の言葉は、あらゆる意味や感情が込められた二文字だった。万感の思いというのが適切な表現である。



   時神の祝福(柑子の決着)

 時計の針を少しだけ戻そう。こちらのカップルにも「糸」は結ばれているようだ。

 栄華たちが渡良瀬川の河原に向かう直前、大正浪漫のカップルは『ともえ』に来ていた。

 女将はそっと柑子に近づいて、小さな巾着袋を渡す。


「はい、忘れ物。スペアの『時の扉』を開ける秘薬。中には「桂花の御神酒」と「夕顔の花」が入れてあるわ。今度この時代に来るときは、これを玉手箱に入れてから、三省君と二人でこの箱を開けてね。そしてこっちの時代に来たときには、再度御神酒と夕顔を補給していってね。そのうちに御神酒は作り方を覚えるといいわ」と申し送りをする。彼女の持ってきた葛桶を包んでいた風呂敷を取り出すと、螺鈿の箱をそれに包み、ぎゅっと結び目をつけて手渡した。

「今回は私が送り出してあげるから、秘薬は使わなくて良いわ」


『ともえ』の二階で、女将は二人の若者に、

「二人でこの部屋と夫婦の家を往復ね」と笑う。

 柑子は、

「栄華さんに、この服は次回来た時にお戻しします、ってお伝えください」とお願いする。

「はい」

 女将はそう返事をすると、二人分の桂花の御神酒を書生机に置いた。

「この御神酒を飲み干したら、二人は元の時代に戻れるわ。通常の人間は『キンモクセイ・タブー』の時しか使えないありがたい方法なのよ。今回は小石丸のお礼らしいわ」

「そう時神さまがおっしゃったのですか?」

「ええ」

 柑子の問いに、軽く微笑むと女将は、二階の小部屋を後にした。


 しばらくして二階に戻り、机上に置かれた空のコップを目にする。誰もいない部屋を確認した女将は、肩の荷が下りたように微笑む。そのまま織姫大神宮の方を向いて、遙拝するように、

「なんとか道筋をつけました」と会釈した。




   大正浪漫のエピローグ(三省の決着)

「三省さん、ありがとう!」

 学校へ持っていくはずのお蚕さんを、二十一世紀に持っていってしまったので、生糸問屋の三省が、父に手配してもらい、新しいお蚕さんを入手してくれた。それを芝乃大神宮の階段下で受け取ったのだ。


「見て! 三省さんが手配してくれたのよ。今度こそ学校に持っていくわ。私は木偏に甘い子でカンコちゃんですってば」

 葛桶をぱかっと開けて、狛犬に見せる柑子。

「カンコちゃん?」

 額に冷や汗印の三省は、

「もしかして狛犬に話しかけているの?」と少々ひいている。


「もちろん!」

 元気いっぱいに肯定する柑子。


「やあ、カンコちゃん! 今日は狛犬はご機嫌いかがかな?」

 端で見ていた顔なじみの神主さんが、いつものように話しかける。

「狛犬さん、すこぶる機嫌が良いそうよ」

 柑子の言葉に、

「それは良かった。……で、そちらは?」と不思議な顔で三省を見ながら返す。

 柑子は少しもじもじしながら、

「私の夫になる人です」とはにかんだ。くすぐったい気分が抜けないのだ。三省は笑顔で会釈する。


 神主さんは、

「それは良いことです。おめでとう」と祝福する。

 そこに柑子のクラス担任が通りかかる。


「角川さん!」


「あっ、書泉しょずみ先生!」

 そこには女学校の家政学、被服の教師、書泉が通りかかる。日傘に和装の訪問着だ。

「これから学校にお蚕さんを届けに行きます」

「まあ、手に入ったのね。お休み中なのに感心だわ」と嬉しそうな書泉。そして直ぐに親しそうにいる三省を見て、「こちらはどんな男性?」と眉をひそめる。

「私のダンナサマになるお方です」

 柑子の言葉に、

「まあ、いい人がいらっしゃるのね。お嫁に行ける先が見つかって何よりだわ」と笑う。

「お初にお目にかかります。神保三省と言います。三重の高等農林を今春卒業予定です」と礼儀正しく挨拶する。

 書泉は『神保』という名に心当たりがあるようで、

「もしかして花菱屋さんのご子息ですか?」

「はい。神谷で商売させて頂いています」

「まあ、素敵なダンナサマね」

 そう言って書泉は、丁寧なお辞儀をすると、

「じゃあ、お蚕さん無事に届けてね」と笑いながら、去って行った。二人には、日傘の後ろ姿を見せて颯爽さっそうと歩き始めた。書泉に対して、竹箒を持った神主さんが何故か無言ながら仰々しく挨拶をしていた。


 そして三省は彼女の後ろ姿の帯にかけるお太鼓に、と三本杉の意匠印章が刺繍されていたことに気付く。また彼女の日傘には「三輪山」が描かれていた。

『あのデザイン? 大神おおみわさまの伝達人……。奈良桜井のオオモノヌシ、オオナムチさまの遣いだ』

 声にならない音で呟く三省。


「なに?」

 柑子の問いに、

「いや、何でもない」と煙に巻き、笑うと、

「女学校まで送るよ」と三省は、柑子の荷物を持ってやると、先にすたすたと歩き始める。

 柑子はいつもの神主さんに軽く会釈すると、三省の後を小走りに追い始めた。


                     了 

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