第4話 ♪料亭の庭に咲く花(コマクサと弦楽器)

――暦を司る神さまを時神ときがみとしてあがめる人たちがいる。その使者として時を旅する者たちは暦人こよみびとやカレンダーガールと呼ばれている。その時間移動には太陽と月の光、そしてそれらを祀る場所に開く「時の扉」が使われる。いにしえより続く、限られた人たちだけが、その役目のために隠密行動で時を超える。そして彼らの原動力は、いつの時代も人の世のやさしさ―― 



昭和四十一年七月三日・横浜弁天橋

 潮風が心地いい、この橋のたもとで、ベースギターのケースを足下に置いて緊張しながら誰かを待つ男性がいた。彼の名は手久野晴臣てくのはれみ、バンドの仲間からは通称でハリーと呼ばれている。


 たばこに火をつけるのも迷うほど、緊張している様子がうかがえる。くわえたままで視点が定まらない。おまけに度胸付けにと、度数の強い酒を数杯引っかけている。普段は真面目、おとなしい性格で、これから言い出すことは、素面しらふでは到底出来ないと踏んでのことだ。


 やがて橋の向こう側、桜木町の駅の方から一人の女性が彼のいる方に歩いてきた。フィドルのケースを持って、カウボーイハットに、デニムのロングスカート、白いサテンのシャツに、赤いバンダナを胸元で結んだ風貌だ。いかにもカントリー音楽をしてます、と言ったような出で立ちである。


 橋の中央を過ぎると、行く手に彼がいることを悟る彼女。

「どうしたの、ハリー」

 彼は言葉少なに、「待ってた」と告げる。見て取れる紅潮した顔つきから、彼女はハリーが少し飲んでいることに気づく。

「あたしを?」

「うん」

「飲んでるわね。あんた」


 欄干にもたれかかると彼女は、

「なんか嫌なことでもあったの。なに、相談なら聞くよ」と笑う。


 ハリーは腿のあたりで拳を握りしめて、一世一代という告白を始めた。

「お駒、僕のお嫁さんになってほしいんだ」

 彼女は耳を疑った。彼が仕事の愚痴やステージでの支払いの悪さを言い出すと思っていたからだ。


 お駒と呼ばれる女性は、見当違いの相談に少々たじろいたが、ハリーの気持ちが真剣に見えたので茶化すのはやめた。それどころか、願ってもいない幸運に思えた。以前から彼女はハリーに思いを寄せていたからだ。しかし自分の運命や境遇から、その思いはそっと胸の奥にしまい込んでいた。


「あたしに言っているの?」

「うん」

「だってあたし……」

 お駒が言いかけたところで、ハリーはその言葉を止める。


「わかっている。老舗の料亭の娘さんなんだろう。しがないゆでそば屋の息子の僕なんか比べものにならないのもわかっている」


 ハリーの卑屈な表情に、お駒は優しく微笑むと、

「そうじゃないのよ。最後まで聞いてよ」と続きを話し始めた。


「料亭を一緒に継いでくれる人じゃないとだめなのよ、夫になる人は。あたし、一人娘でさあ、プロになりたいとも思っていたけど、親の言うことに反抗できないわけよ。そんな中途半端なダメ娘を嫁にしたっていいことないし、ハリーはプロの人から誘いが来るほどのベーシストでしょう。もったいないよ。ウッドベースも、エレキベースも、ギターだって出来るのに。あたしと違って引く手あまたの演奏家なんだから」


 彼女の言葉に、

「そんなこと関係ないよ。僕はお駒と一緒に歩く人生がいいんだ。僕がベースギターよりもお駒が大切だって言う証をここに用意した。君に渡すから煮るなり焼くなり好きにしてよ。貸しておくから、預かっていてよ。いつか二人で弾くときが来たら、また一緒に……いつかね」と返す。いつになくまじめだが、結構なアルコールが入っているのも気になる。


「煮ても焼いても、ベースギターはおいしくないわよ」

 笑うお駒に、ハリーは、

「この命の次に大切なベースをお駒に預けるって言っているのさ。それと交換しても痛くないほど、君が大切なんだ。大好きなんだ。大切なものを預けるくらい真剣だっていうことだよ」というと、その場にベースギターを置き去りに千鳥足のような、小走りで背を向けて彼は去った。ハリーの後ろ姿は見る見るうちに小さくなっていく。彼女はその姿をボッと見続けていた。


 女性なら一度は言われてみたい真剣な台詞。しかも命の次に大事なものを預けるからと、君がほしいとまで言われて、お駒の心は揺れ動いた。こんな場面に、動かない女性はごく少数だろう。


 その言葉と雰囲気に酔うこと数分間。お駒が彼の気持ちに気づいていなかったわけでもないので、嬉しさは大きかった。

 だが気持ちとはまた別の感情で、こんな大きなベースギターのハードケースをこの場に置いて行かれて、それはそれで対処に困る状況である。


 その場に残されたお駒こと、駒子は、致し方なく、

「よっこらしょ」とベースギターを持ち上げて、すぐ先に見える我が家までフィドルと二つ、両手に楽器を持って歩き始めた。


「もうあたし、どれだけ力持ちなのよ。ハリーったら、腕太くなったら困るんですけど」


 駒子はそのベースギターが彼にとって大切と言うことは十分にわかっていた。有名なポピュラー音楽グループのベーシストがお忍びでやってきたお店で、偶然出くわしたときにサインをもらった貴重なベースギターということを知っていたからだ。



二十一世紀・浜松町・角川栄華かどかわえいかのマンション

「栄華ちゃん、この間はありがとう。みおちゃんが戻ってきた」

 白いレースのカーテンが風にそよぐ、十月のさわやかな明け方。

 世界的な賞を受賞したピアニストの寝室にしては少々質素だが、彼女はそういうタイプの女性でごくありふれた生活を好んでいる。


 栄華は寝返りを打ちながら、「うん、よかった」と相づちを打つ。

「でもね。また私のお友達を探してほしいの。こんどはチェコとドイツのハーフのお友達よ。弦楽器なのよ」

 声の主は、付喪神つくもがみであるフランソワだ。そう澪というピアニストが持ち主のプレイエルのアップライトピアノの化身である。気品ある薄い山吹色のドレスに赤いコサージュの出で立ちで、栄華の夢枕に立った。


 がばっと毛布をつかんだまま、起き上がる栄華。我に返った。

 辺りを見回すと朝風にそよぐレースのカーテン。雀の鳴き声が、ハーモニーのように優しく耳に届いている。


 栄華はネグリジェのままキッチンに向かう。コップいっぱいの水を一気に飲み干す。


「昨日のBBC交響楽団の弦楽器演奏の興奮が脳裏にあって、あんな夢を見たのかしら……」


 夕べの招待券をもらったオーケストラ、シンフォニー鑑賞。久しぶりに充実した余暇を楽しんだ栄華だった。


 しかし簡単に済ますわけに行かないのが、暦人の性分である。一応念のため、前回と同様に恋人で暦人御師こよみびとおんし夏見粟斗なつみあわとに連絡をしてみようとスマホに手を伸ばす。


 暦人御師は「時の扉」や「虹色の御簾みす」などと言われるタイムゲートを使って、代々時間を移動する人々。

 夏見粟斗なつみあわと角川栄華かどかわえいかもその暦人御師である。ただ彼女の場合、まだ見習いという部分も多い。現在のところ彼女の大伯母であるアスカが本当の御師である。


 いにしえより、暦人の中でも暦人御師と呼ばれる者は、代々続く伊勢神宮領の荘園だった旧御厨きゅうみくりや地域の中で、その土地を預かってきたリーダー格の存在、というのがこのお話の設定だ。その各地の御厨内の有力神社に、太陽光や月光などの自然現象を利用した「時の扉」が存在している。


 夏見は千葉の船橋御厨、栄華が東京の飯倉御厨いいくらみくりやの暦人御師である。


 二人は婚約者同士。そして不意に飯倉御厨の後継者になった栄華の指導役として、栄華の大伯父で、今はなき偉大な御師であった角川文吾かどかわぶんごの弟子だった夏見が、世話係もやっている。もちろん暦人のことは、時神に使える隠密行動なため、一般には口外することはない。暦人と一部の神職、そしてカレンダーガールという教会を使う暦人、時の翁、時巫女ときみこだけが知る役目である。



船橋・夏見粟斗のオフィス

 デスク横の応接用ソファーに横たわりにまどろむ夏見粟斗。寝言でも愚痴が出る。


「ちぇ、人使い荒いなあ。まるで突貫作業だよ。一晩でやりきるリサーチ依頼なんて聞いたことない」

 翌日締め切り前の原稿を短時間で書き上げて、依頼の会社に送信したまま、この場所になだれ込んだ。眠気と意識の境を何度となく繰り返している夏見だった。


「西ノ海に向かえば、幸福が待つぞ。後の飯倉殿に伝えよ」

 夏見の耳には白装束の三人の姿が見て取れる。三柱である。

「この託宣は住吉の神々か」

 眠りの中でも分析をしながら、夏見は冷静さを保つ。


「住吉の神々は、光源氏を明石の御方と引き合わせる託宣をした。出世と幸運の導き。文学や文章の神でもある。また神功皇后にも託宣を伝えている。夢のお告げでアマテラスさまの代理を務めたとも見える。そんな高貴な航海と安全の神がなぜオレに彼女のことを伝える」


 宙をつかむような仕草、寝ぼけ眼の夏見は、しばらくして、枕元の携帯電話がぶるぶると震えているのに気づく。眼をこすりながら、彼は電話をたぐり寄せる。


「すぐ来て」

 おなじみ栄華の突飛な注文に、

「託宣があった。これから西ノ海を見に行く」と託宣を優先させた。


「託宣?」

「夢のお告げさ」

「それなら私もなの」

「ああ、君も」

「フランソワの幻影がお友達らしい楽器を探して、って」


「それなら場所は横浜っぽいな。千葉から西にある港はほぼ神奈川県。君の託宣のメッセンジャー、フランソワは横浜のピアノの化身だ。託宣の主が一緒の可能性が高い。とにかく横浜で会おう。急いで支度をするから、昼前には関内駅かんないえきには行ける」


 彼の言葉に栄華も、

「わかった。じゃあ昼前に関内駅で」と言って電話を切った。



横浜・関内

 改札前で落ち合ったふたり。

「栄華ちゃん。まずはご飯にしようよ」

「そうね」


 栄華は、つばの広いレースハットの縁を持ち、日差しを遮りながら答える。夏用の薄手生地、白地にドットのワンピースは最後の季節を迎えようとしていた。十月第一週にしては暑い日だ。


「横浜公園って、近くにどこか食べるところあったかな?」


 粟斗の質問に、

「知らないわ。私にそんな事訊いてもだめよ」と笑う栄華。


 公園の入り口で、そんなすったもんだをしている二人の耳に、鐘の音のような甲高い音色が響いてきた。ただしとても遠い場所から聞こえているようにも感じる。公園の向こう側、高速道路と根岸線の線路を隔てた向こうである。おかしなことに周りの道行く人には、全く聞こえていないようだ


 不自然な状況だが、二人は当然のようにそのメロディの存在を受け入れた。


「なんか聴いたことあるメロディだ。ちょっと神がかっている音にも感じる」


 音の距離感よりも奏でられている曲が気になる夏見。


 夏見の言葉に栄華は、

「これは『金平糖の精の踊り』。チャイコフスキーだわ」と答える。


「さすが音楽家。ダテにピアニスト名乗ってないな。モグリじゃないことは認めよう」と笑う夏見。


「もう、もっとちゃんと褒めてください」

「ははは。……と言うことは、『くるみ割り人形』の作品だ」

「はい。とても有名な楽曲で、周知のとおりに、これと『花のワルツ』は絶えずいろんなところで使われているの」

「うん、でも誰が弾いているのかな?」

「確かに。生のチェレスタの音ですね」と栄華。

「何、知らないなあ? チェレスタって、楽器なの?」


「ええ、ぎりぎり現代楽器とも言えるかな? 用途が限られているので、なかなかお目にかかることも少ない楽器です。音大にいた頃、楽器庫の整理で、見たことがあるんだけど、現物を弾いたことはありません。CDなどで聴いた経験しかないです」


「弾いたこと、って、栄華ちゃんが弾くこと前提なら鍵盤楽器なんだね」


「ええ、見かけ上は鍵盤楽器ですが、中身は鉄琴とかグロッケンスピエルのような構造です。鉄琴をピアノのフェルトハンマーで叩くような構造になっています。音色は金属音です」


 夏見はこの楽器の音色に興味を持ったようで、

「ちょっと、この音の出所をたどってみよう」と歩き出した。

「ああ、ランチは?」


 栄華の言葉に、

「そんなの後々」と足早に音のする方に向かう夏見。大通りを渡って商店街に併走する裏路地を歩き始める。

 栄華は、『いつものことね』と、仕方なくあきらめ顔で夏見の後に続いた。



伊勢佐木町

 料亭街の端に面した、桜木町との境にある大きな日本家屋。すぐ横は運河である。メロディはその家屋の円窓の向こうから聞こえている。


『牛鍋 荒上屋』と書かれた看板に、栄華は首をかしげた。


「ん?」

 ほおを人差し指の先で押して、疑問のポーズのまま栄華は空を見つめる。

「どした?」

 夏見の言葉に、

「ここの料亭、結構有名なお店よね。老舗だわ。知っている」と返す。


「そっか」


 門から一歩入って、渡り石に導かれ奥へと進む。両脇は砂礫地のような石庭だ。ちょうど植物園のロック・ガーデンにも見える 


 中門をくぐったときだった。二人は微妙な時間の揺れを感じる。それは時間移動ではない時間の揺れだ。思わず顔を見合わせる二人。

「時間が揺れている」と夏見。

「ええ。私も感じました。でも時神さまの気配はしなかった。時越えはしていないわね」


 栄華の言葉に、

「うん。その通りだ。この家、なんかあるぞ」と返す夏見。そして「気を抜かないでね」と加える。

「わかりました」と相づちを打って、忍び足で歩く栄華。


 二人はそう言うと、門の格子戸を開けて、一歩中へと踏み込んだ。

盆栽が棚に並ぶ中、コマクサの多いことも目につく。

「コマクサ、って高山植物よね」と栄華。


 山のことに詳しい夏見にとってはお手の物といった質問である。


「ああ、山間部の砂礫地されきちに生息する。標高にもよるが関東では初夏の花だ。種子は繊細で、人や動物がちょっと触れただけで発芽しなくなる。それなのに乾燥や寒さにはそこそこ強く、周りが岩だらけの中で、美しいピンク色を見せてくれるので、山の女王と言われている。でもなんでこの季節にかな? 季節を変えたやつがいるのか……。十二月じゅうにつきの精でもいるのか」


 夏見は子供の頃に見たマルシャーク原作のマンガ映画、『森は生きている』を想い出していた。



 庭には相変わらず、チェレスタの音だけが鳴り響いている。


 縁側のある廊下を庭先からのぞき込む二人は、中に人影を見つけた。


 二人の気配を感じた中の人物は演奏をやめた。夏見は恐る恐る、ゆっくりと 部屋の中を見た。


 それと同時に静寂があたりを包みこむ。再び時の動く気配。二人は見つめ合い頷く。時が止まったのだ。いや、止められたと言うべきだ。

 今二人の前には、モノクロームの止まった時間の光景が広がっている。


 のぞき込んだ室内。二人の前には一台のチェレスタが置いてある。小型のオルガン程度の大きさ。幅にして一メートル前後。木製ボディの鍵盤楽器だ。

 だがそこには誰もいない。人の気配すらしない。

「はあ」とため息の栄華。緩んだはずの気持ちが、背後に凍るような気配を感じて、再び緊張の糸が張り詰める。


 その背中に感じた視線。間髪入れず気配とともに、咄嗟とっさに振り向く夏見。


 そこには和装をした時巫女が微笑んでいる。

長慶子ちょうげいしの時巫女』と心中思う夏見。


「こんにちは」


 しゃなりと礼をする時巫女は、浴衣の和装だ。色は紺、柄は井桁模様。帯は緋色の地色が映えていた。


 あまりの顔の近さにのけぞる夏見。


「揺れた時間の気配の原因はあなたですか。担当エリアの違う美人の時巫女さんが何のご用ですか? 私にはもう婚約者がいますけど……」


 夏見のいらないジョークに乗っかって、時巫女は薄笑みを浮かべると、

「あら、誘惑して差し上げてもよくてよ」と言う。


 横でファイティングポーズを構える栄華。見ようによっては面白い戦いである。


 時巫女は、手の甲を軽く逆手に構え、口元に添える。

「冗談ですわよ。タイプじゃありませんので」といたずらな表情で栄華を見る。


「あなた、横笛だけでなく、鍵盤も弾けるのですか?」


 夏見の質問に「ええ、少しだけ」と答える。そして、「もちろん賞を取った方には敵いませんけどね」と意味ありげに、栄華を横目で見ながら加える。

 栄華は内心、『この人、どこまで本心で、どこまで私をおちょくっているのかしら』と思っていた。


 すると、

「あら、私は本当に鍵盤で敵わないと思っていますよ」と再び薄笑いをする。


  時巫女の読心術を知らない栄華に、夏見は軽く助言する。

「時巫女の前で、心中に意識を持って、なにかを思っちゃだめだ。無になることだ」


 夏見のアドバイスに、時巫女は、

「もう、わかっているのね。だから夏見さんはいつも真っ白な世界しか見せてくれないのね。……いけず」とそっぽを向く。


 確かに心中、彼が思うときは、時巫女をおちょくるときだけである。もちろん、多霧たぎりの時巫女という別の時巫女をからかう際の話で、長慶子の時巫女ではない。


「それはそうと、いったい何の用事ですか」と夏見。


「時神さまの伝言をお届けに来ました」


 時巫女の言葉に二人は顔を見合わせた。

「はい、やはり次のメッセージがあるのですね」

「ええ」

「こんな手の込んだ登場の仕方をしないで、素直に、普通に出てくればいいじゃないですか」

「それじゃ、ファンタジーっぽくないでしょう。雰囲気は大切よ」


 時巫女の謎めく笑顔に、内心、夏見と栄華は、

『本物のお馬鹿か、こっちを馬鹿にしているかどちらかだ』と眉間にしわを寄せる。


 すると平静を装って、「どちらでもありません」とおすまし顔で答える時巫女。

「いけね」と夏見。時巫女の前で、無にならず、心中ものを思ってしまったことを後悔した。


「とにかく、幸せな夫婦の幸せのしるしを見つけてあげてください」

「幸せのしるし?」

「依頼の御仁は、それをなくされてしまって、大変困っているようですよ。長年、時神さまのために尽くされたご夫婦です」

「はあ」


「この先、運河沿いの櫻川橋のたもとに『ゆでめん』という定食屋さんがあります。そこには、かつて暦人の手久野晴臣てくのはれみさんという若者がいました。今から半世紀前に、彼とその奥さんになる、この料亭の一人娘、荒上駒子あらがみこまこさんというお嬢さんがはぐくんだ小さな幸せの物語があるんです。彼は大切なものを失う代わりに、彼女を手にできたと思っています。でもそうではなくて、どちらも彼の手中にあったんだと言うことを幸せと一緒に伝えてあげてください。どちらのお宅も代々桜ヶ丘神明宮のゲートを使う暦人のお家でした。そして奥様はお若い頃はカレンダーガールとしてもご活躍です。時神さまや多くの方々のために無償で働いた徳のあるお二人なんで、失礼のないようにお願いします。では」


 言うことを言い切ったという感じで、長慶子の時巫女は再び薄笑み浮かべると、からだが半透明になって、やがて消えてしまった。そして再び時間の揺れを感じた。

「やれやれ、季節が戻ったのかな?」


 夏見は傾げた首をすくめながら、

「ちょうどいいから、お昼はおうどんかお蕎麦にしましょう」と栄華に提案した。

「はい。『ゆでめん』さんに行くんですね。ご一緒します」


 すでに粟斗の考えていることは察しが付く栄華だ。

 栄華は夏見に寄り添うと、運河沿いを歩き始めた。


『ゆでめん』と書かれた屋根の上の大きな看板が、どこかのポピュラーミュージック・グループのレコードジャケットのようにも見える。何の変哲もない三角屋根の一軒家の屋根の上にある看板が、何を売っているお店かをしっかりと自己主張しているようにも見えた。


「いらっしゃい」


 店に入ると若者がお客と間違えて、挨拶をしてきた。

「いや、お客じゃないんだ。ここに手久野晴臣さんって人がいるって言われてね」

 店員は持っていたそば用にゆでざるを鍋に戻すと、

「祖父の知り合いですか」といすに座った。

「自分は孫の手久野克人てくのかつとって言います。基本祖父は『荒上屋』の方にいるんです。孫のいとこ同士の二人でこっちの店を切り盛りしているもんで」

「克人くんね」

「オレはしがない文筆業やっている夏見粟斗って言います。こっちはピアニストの角川栄華さん。どちらも虹の国の住民です」


 その言葉に克人は、はっとして、小声で、

「暦人さん?」と尋ねた。


 夏見と栄華は無言で頷く。

「自分もたまに託宣をいただいて動くことがあります。まだ駆け出しですが、みずほの姐貴にいろいろなことを相談して、教わっている身です」

「みずほちゃんは保土ケ谷の御師ですね」と栄華。

「はい」


 するとそのとき奥のふすまが開いて、一人の老人がにこやかに顔を出した。

「今は、相談に乗ってほしいのは、私なんだがな」

「なんだじいちゃん、こっちにいたのか。てっきり運河の方かと……」と克人。


 甚平姿の翁は、見覚えのある風に夏見を見ている。

 夏見は数テンポ時を遅れてから、脳裏をかすめる記憶と再会した。彼の記憶の中では忘れかけていた人物だった。


「ああ、思い出した。手久野晴臣てくのはれみさん!」


 夏見の記憶と翁の顔が合致したようだ。

 彼の指さしのご挨拶に、「ほっほっほ」と白い顎髭をなでながら笑う翁。


「思い出してくれたようだね」

 大きなドングリのような目に、優しいシワが年輪のように寄り添う。


「お知り合いなの?」と栄華。


 栄華の言葉に、

「文吾さんの飲み会でいつも乾杯の音頭をとっていた人だ。実際話すのは初めてかもしれない」と説明する。

「おじさまの?」

「そう、あなたの大伯父さまのお友達」

「文吾おじさまはお顔が広いのね」

 そのやりとりを聴いていた晴臣は、

「文ちゃんの身内の方なんだね。ということは飯倉のピアニスト御師の方だ」と笑う。


 栄華は、

「私も違う意味で有名ね……」と小声でぼそりと呟く。


 和んだ空気の中で思い出したように、晴臣が始める。

「実は今回は、私の人生のラストピースがほしくてね。腕のいい暦人の力がほしかった。そこで夏見くんを呼んだんだ。時巫女さんにご相談したのも私だ。まさか文さんのお身内の方までいらっしゃるとは、嬉しい誤算だったよ。山崎君と八雲君でもよいのだが、三人の中では一番の行動力の持ち主と言うことで、今回は夏見君に白羽の矢を立てたって訳だ」


 そう言うと翁は一枚の写真を懐から取り出した。

 無言で夏見は受け取る。すると白黒写真の中に男性が四人と、その中央にスタンドにたっているギターらしきものも写っていた。


「ずいぶん古い写真ですね」

「昭和四十一年七月一日の夜のものだ。中央にいるのは有名なポピュラー音楽のグループの一員だったベースギターのマッカートニー。両脇には当時の私と、青山の三角詠一みすみえいいちくんで、通称イーチくん、っていうんだ。そしてこっちが上野龍一くん。みんなバンド仲間だ」


 目を白黒させて、「マッカートニー?」と夏見。

「あのリバプールのですか?」と栄華も続く。


「うん。たまたま、青山のすき焼き屋の友人宅にいたときに遭遇した。お忍びでやってきたところを記念写真だ。世には出ていない一枚だ」

 近くのいすに腰を下ろしながら晴臣は続ける。


「そのとき、またも、偶然自分のベースギターを持っていたので、そこにサインをしてもらったのさ。だからベースギターも一緒に写っている」

「なるほど」


 夏見の頷きに、栄華は少々不満げである。その顔つきを見逃さなかった彼は問いかける。

「どうした?」

「どう見ても、この楽器は大きなヴァイオリンだと思いました。フェフナー社は十九世紀創業、チェコ地域のバイオリンメーカーです」


 楽器には少々うるさいクラッシック畑の彼女は、その写真にあるフェフナーのロゴ文字が気になるようである。


「ははは。そうだね。栄華ちゃんの世界ではフェフナーはヴァイオリンやビオラ、チェロだろうね。もともとそっち方面からのスタートだしね。第二次大戦後の1950年代にチェコから生産拠点をドイツ国内に移してギターも作り始めたんだ。六十年代に入ると、そのマッカートニーが使い始めたことでポピュラー音楽でも人気メーカーになったんだよ。ほらよく見て、カブトムシの形に似ているだろう。だからビートルベースなんて言われている」


 夏見の言葉に、

「ふーん。私の知らない世界もまだまだあるのね。音楽や楽器って裾野が広いわ」と栄華は感慨深く写真を見入った。


 栄華の納得が一段落したところで、

「晴臣さん。その続きをどうぞ」と手のひらでジェスチャーをする夏見。

「実はこのベースギター、行方不明なんだ。妻との結婚を境にどこかに消えてしまったようでね。せっかくのマッカートニーのサインをもらったのに、残念でならない。ただ意中の大好きな奥さんを娶ることが出来たので、その代償になったと思えば安いもんでね。でも私もそろそろ老人でね。出来ればどのような経緯でこのベースギターが消えたのかを知りたくて、そこを調査してもらえないかなと思ったんだ。時空郵便でもよかったのだが、たまたま時巫女さんが君とお知り合いだっていうので、そのお言葉に甘えて、伝言を彼女に頼んでみたというわけだ」


『ははん。それでチェレスタ使った「えせ託宣」ってわけか。あのおねえさん時巫女にもこまったもんだ』


 夏見がそんなことを考えている間に、晴臣は別の同じ形のベースギターを取り出した。


「これは64年型のものなんだけど、これとは別の61年型というのがあってね。通称キャバーンベースっていうタイプだ。それにサインがしてあるんだよ。どうだろう、取り戻してとは言わないので、どんな経緯で私の元を離れたのかを確かめてきてくれないかな。わたしももうそろそろ、身辺整理と妻の消えた悲しみともお別れしたいのでね。自分で行くには少々歳を取り過ぎた」


 晴臣が言い終えると栄華は、夏見の方を向いて、「どうなの?」と訊く。そして「なんか探偵さんみたいね」と加えた。


「時空探偵夏見、って、悪くないな」と気取ってみる夏見。


「推理小説の主人公になれるかな?」と加えた。

「そのネーミングだめよ。うさんくさい、浮気調査専門って感じ」


 悪戯っぽくなじる栄華。

「ほっときなさい」と笑う夏見。


 笑いながら二人の会話を聞いていた晴臣は、

「もちろん報酬は払うよ。出来高制だけど」とますますの推理小説風に話を進める。


「いえ、それはだめ。報酬はいりません。人の幸せを願う心に野暮な金品代償は無用です」

 おちゃらけていても、しめるべきところはしっかりとしめて、ルールを守るのが夏見流だ。


「やっぱり時巫女さんの言うとおりの人だ。ありがとう」


 晴臣は笑顔で会釈をした。

 夏見はあごに手をやり、『時巫女め、いったいどういう紹介の仕方をしているんだ?』と不思議な顔をした。

 そして晴臣は床の間においてある白い封筒と螺鈿の箱を持ってきて夏見に渡す。


「準備はしてある。夕顔と御神酒は入れておいた。目的の日付は一九六六年七月二日以降だ。一日まではベースギターを使っていたし、サインをもらったし、この写真も撮っている。なので七月一日に飛んで、友人の三角詠一みすみえいいち君の実家であるすき焼き屋に行ってみてくれ。封筒の中には当時の紙幣で五万円が入っている。必要経費だ。よろしく頼むよ」


「栄華ちゃん。もう使い方は大丈夫だよね」


 かつての失敗は身についたようだ。時の玉手箱を目の前にして栄華は落ち着いた様子で頷いた。


「もちろん」


 再度晴臣の方を向くと、夏見は、

「もし悪意的な経緯で紛失や破損が認められたとしても、落胆しませんか?」と確認をしておく。当然、平穏になくなるだけではなく、事件性や事故の類いでなくなることも大いに考えられるからだ。


 夏見の言葉を聞くと彼は軽く笑い、

「大丈夫。もう半世紀上の時を超えてしまっているから、それほど物という部分での執着はないよ。経緯のみに興味があるだけだ」と返す。

「それを聞いて、安心しました。それならお引き受けしましょう」


 晴臣は夏見の承諾に安堵と喜悦の笑みを浮かべた。

「ここ一週間ばかり、桜ヶ丘神明宮にお参りした甲斐があった」

 彼のぽつりと発したその言葉に、二人は長慶子の時巫女が動いた理由を知った。

『奥さんとの愛情と願いを慈悲のこころで表した、「時神の粋な計らい」か……』

 夏見は心中ぽつりと呟いた。



昭和四十一年七月一日・表参道

「時の玉手箱」を抱えた二人は街路樹の陰にそっと現れた。まだ早朝ということもあり、誰にもその登場を見つからずに済んだようだ。このアイテムは便利で、箱の中の煙がタイムゲートの役割をしてくれる。わざわざタイムゲートの開く条件を整えなくても、希望の時代に飛べるという優れものだ。


「栄華ちゃん、悪いんだがまずは晴臣さんのお友達の三角詠一みすみえいいちさんのお家を確認しておきたい。写真の場面と共時したい。食事はそれからね」


 栄華は神妙な面持ちで、

「もちろんです」と相づちを打つ。


可憐亭かれんていって、すき焼き屋と言っていたな、晴臣さん」

 夏見は呟きながら、表参道を路地裏に向かう。欅並木の交差点を渡ると青山に入る。


 今でこそ都内はどこに行っても高層ビルだらけだが、この当時はそれほど高層ビルはない。

「ねえ、黄色い路面電車が向こうの通りを走っているわ」

 栄華の言葉に、

「歌の『風をあつめて』の世界が見える。著名な作詞家さんの名作だね」と詩人ぶってみる夏見。


 腑に落ちないしかめっ面の栄華は、

「答えになっていない」と腕組みで渋い表情だ。


「都電だよ。青学のはす向かい、今の国連大学のある場所は都電の車庫だった。あの通りは青山通りだ」

「ええっ?」

「まだ青山周辺が生粋の学生街だった頃だ。この時代は」

「そうなの?」

 あまりにも変わってしまった街並みは、後の世代の栄華たちには想像もつかないというのが本音だろう。


「この後で、有名なデザイナ-のショップやブティックが出店して、表参道から青山周辺はファッション街を形成する時代が来る。その途中の過程だ」


「粟斗さんは何でも知っているのね。船橋のくせに、都内のこと私より詳しいって、ちょっと、悔しい気もする」

 栄華のこの台詞に、夏見は少々田舎者扱いを受けたか、と頼りない笑みをこぼした。


 二人はそんな会話をしながら、板塀に囲まれた大きな料亭にたどり着く。

「よし無駄話はここまでだ」

 夏見の言葉の後で、二人は二階を見上げる。そこで『可憐亭かれんてい』と書かれた毛筆体のブリキの看板が目に入る。

「ここだ」

 夏見は頷いて、そう言った。

 栄華は夏見の顔を見てから、

「入るの?」と尋ねた。

 その言葉にかぶりを振ると夏見は、

「今は場所確認だけだ。宿を探して、晩か明日に備えよう。とりあえず、マイクさんのお店にでも行ってみようか?」

「この近くだったわね。暦人の講元宿、喫茶ヒナギク」

「ああ、この時代ならもう営業しているはずだ」

 夏見の言葉に少しためらう栄華。

「角川の人間はあんまり歓迎されない、って聞いたことあるけど」


 夏見は笑うと、

「そんな噂あったな。文吾さんとマイクさんの領域のいざこざが原因でそう言われている」と言う。そして「でもそれはこの時代よりもずっと後の話だし、なにより私情を挟んだりしても良くないし、わざわざ素性を明かすこともないと思うよ。暦人同士、その辺はわかっているはずだ」と加えた。


 すでに二人は表参道の広い通りを渡り始めていた。横断歩道の向こうには同潤会アパートの建物がツタを絡めて、燻し銀の風景を作り上げていた。

 真新しい外装の喫茶ヒナギクを見た二人は、少しだけ驚いた。中から音が聞こえているのだ。それも生の楽器の音だ。弦楽器のそれは、聴きようによっては、エレキギターの音にも聞こえるがよく聴くとちょっと違う。


「ドブロの音だ。中でカントリー・ミュージックの演奏をしている」と言う夏見。

「ドブロ?」


 聞き慣れない言葉に栄華は戸惑う。

「リゾネーターギターの一種だ。現在のエレキギターの原型とも言われている。アルミの共鳴板を持つもので、ドブロと呼ばれるタイプはそれが円盤形をしている。スロバキア人のドブロ兄弟によって開発されたギターだ。アコースティックなのに、金属音がするギターだ」

「へえ、金属音の鍵盤楽器、チェレスタの次は金属音の弦楽器か。おまけに、さっきはチェコだし、今度はスロバキアか。中欧地域の楽器の会社も結構伝統あるのね」


「まあね。でもドブロは渡米後に設立された会社なので、アメリカ企業だけどね。ドブロという言葉自体はスロバキア語らしいよ」


 夏見はそう言い終えると、

「まあ蘊蓄うんちくはともかく入ってみよう」と言って、通い慣れているはずの扉を開ける。


 店内はそれほど変わっていないが、ステージ上で見知らぬ女性がフィドルを流ちょうに演奏している。


「アリソン・クラウスのようだ」と夏見が言った後、

「いや、それもそのはず。これってブルーグラスの楽器構成じゃないか」と驚いた。


 夏見の驚きは栄華には伝わっておらず、

「ブルーグラスって何ですか?」と問う。

「詳しくはないんだけど、カントリーの分派でね、楽器構成と曲調でわける音楽ジャンルだ。オレたちの時代ならアリソン・クラウスやシエラ・ハルなんて言うのが有名どころだ。特にフィドル、ウッドベースを基本。バンジョー、ドブロ、マーチンのアコギなどの構成が揃う。ほかにマンドリンなんかも加えるグループもある」


「へえ、確かにその通りに並んでいそうですね」

「フィドルとウッドベースが基本なのは、その原型がアイルランドにあるからなんだ。とくにアイリッシュの民謡を奏でるブルーグラスは絶品だ。ジャズやカントリーとの融合で戦後に発展したアコースティックのジャンルだ」


 話している二人に席を促すカウンター越しの男。カーボーイハットに、モデルガンのホルダーを腰に下げた青年が水を持って、親指で二人を招く。


「ここでいいかね」

 彼はカウンターのすぐ手前の小さなテーブル席を指した。

「ああ、いいよ。コーヒーと軽食を二人分。急ぎで」

 夏見の言葉に、ニヤリと笑うと、

「急ぎでな」と復唱した。


 勧められた席に落ち着くと二人は店内を見回す。調度品も装飾品もすべてが新品で、店内は若い木の香りが充満している。

「カントリーミュージックのライブホールだ。すごく居心地がいい。ここならカレンダーガールも集まりやすいんだろうな」


 夏見のその言葉に反応した青年は、「ホールドアップ!」とおもちゃの拳銃を夏見に向ける。

 思わず両手を挙げる夏見。挙げた手の前にサラダボールとトースト、牛肉の燻製、ソーセージが置かれていく。


 そして小声で夏見の方を向くと、

「暦人の御仁だな。カレンダーガールなんて、ぶっそうな言葉を昼間から出すなよ。営業中だ」と釘を刺した。


「ああ、すまない」

 夏見は挙げた手を下ろしながら、素直に謝る。

 男は皿をテーブルにおき終わると、銃口で帽子のつばをクイッとあげて、二人にウインクした。

「どうぞ、お召し上がりください」と言い残して、再びキッチンの中に戻っていった


「マイクさんよね?」と小声の栄華。

「だな」と夏見。

「あんなに格好良かったのね。若いとき」

「たしかに意気だ。きっといれるコーヒーはまずいんだろうな」

「また」

 夏見のおきまりのジョークに、二人は目を合わせて軽く微笑んだ。


 音楽が止むと、おもむろにフィドルの女性が夏見に投げキッスをした。濃紺のワンピースに、首にはシースルーの赤いスカーフを巻いている。そして紐付きの婦人サンダル。髪の長さは肩に少々足りないくらい。長めのボブ、おかっぱ頭と言ったところだ。


 夏見は自分にとは思わなかったため、自分の背後を振り返って確かめる。彼の後ろには誰もいない。首をかしげながら、夏見は自分を指さした。

 彼女は微笑むと軽く頷く。そしてステージを降りてくると、彼の横に座った。そしておもむろに栄華に声をかける。

「彼氏?」

 その言葉に、「ええ」と曖昧に微笑んだ。


「そう。いいわね、私も煮え切らない恋の相手がいるのよ。あのステージ上のウッドベースのドングリ目の男よ」

 二人はその人物を見て驚いた。

晴臣はれみさん!』

 声には出さなかったが、二人の心の声はほぼ同時だった。

「彼、告白は?」

 栄華の言葉に、

「鈍感男にそんな器用なまね、出来るわけないでしょう」と鼻で笑う。


 そして、「いいフィドルでしょう。へフナーなのよ」と、持っていたフィドルを弓でひとこすりして見せた。

 彼女はキュッというフィドルの音と一緒にステージに戻る。

「次は『最後のバラ』。皆も知っているでしょう? 一緒に歌ってね。アイリッシュだけどアメリカンなアレンジよ」


 そう言って、再び演奏が始まった。

 二人は彼女のフィドルもまたへフナー製であることが気になった。


 会計時にマイクはレシートと一緒に意味深に、厚紙で出来た招待券を渡す。

「未来からだな」

 彼の確認に、「まあ」というと、

「ツインの部屋だ。料金は済んでいる。託宣を一番に動いてくれよ」と微笑んだ。


 その招待状は、いわば無料宿泊券。東原宿ホテルのものだった。この時代の身分証を持たない二人にとって、ありがたいプレゼントである。暦人御師の役割の一つである、異なる時代から飛んできた暦人の衣食住のケアをする重要な仕事である。マイクはそれを着実に遂行したというわけだ。自分の時代では、夏見も同様の手伝いを行うことが多い。


 夏見は受け取った招待券を確認すると、一礼をして<ヒナギク>を出た。


 通りに出たところで、栄華は夏見に、

「何を受け取ったの?」と訊く。


宿券チケットだ。泊まりとわかっていたようで、御師に宿を提供してくれた。オレたちの託宣も理解しているようだった」

「でも今回は、依頼だもの託宣があって飛んだんじゃないでしょう?」という栄華に、

「うん、微妙なラインだけどね。オレも最初はそう思った。でもその依頼そのものが、託宣に動かされている気もしている。何となく感じない?」と逆に尋ねる。


「時巫女の言葉や、あのフィドルの女の子の存在もかしら?」

「そう、気になる」

「なんで?」

「もし、あの子がオレたちの時代にすでに亡くなっている人物で、晴臣さんの奥さんだったら?」

「フェフナーベースのありかを教えたい、ってこと?」

「彼女がオレの隣に来たとき、かすかに桂花の御神酒の香りがした。彼女もまた別の時代に行って、帰ってきたばかりだった」


 夏見の言葉に、思い当たることがあるためすぐに反応した栄華。

「確かに、かすかにその香り感じた。……ってことは、私たちとクロスして時代を飛び越えたってこと? それだったら、私たちの時代から何か情報を得て、故意に私たちに近づいてきたって考えられるわね」

「あたり」

 夏見は意味ありげに笑うと、そっと栄華の肩を抱いて、

「老夫婦の思い出と幸せを見つけてあげよう」と呟いた。

 栄華は無言で頷いた。


二十一世紀の横浜

 月の綺麗な夜だった。

 アングリカンの教会の建物を背に駒子の隠密行動がスタートする。フィドルの女性は、やはり夏見の推測通りカレンダーガールだった。聖水を水晶の中に封じ込めたカレンダーガールのアイテムを、背負っていたナップザックに納めるとため息をつく。

 カレーダーガールは、時のアイテムを使って自由に自分の行きたい時代に飛ぶことが出来る。イースターエッグ型のものから水晶まで形状も様々だ。とりわけ、満月の夜に成功することが多い。しかも今回は桂花の香りのする聖水なので、目的地を間違うことのない、信頼できるアイテムである。


「二十一世紀か……」

 そう呟く彼女の前に人影が見える。その人影の人物は、月明かりに照らされているおかげで、かすかだが微笑んでいるのが分かる。


「シスター摩理朱」

 駒子の知っている摩理朱はまだ「時の伝道師」に成り立ての十代後半である。それから半世紀近くが過ぎている。時巫女から待ち合わせのことは聞いていたため、彼女がシスター摩理朱であることはすぐにわかった。駒子がタイムゲートから出てくる時間に待っていてくれたのだ。


 銀製の十字架を首に提げ、黒の衣装に身を包み、普段着でも彼女が聖職者であることは、容易に気づく装いだった。


「駒子さん。時巫女からお話は聞いています。旦那様にメッセージを残したくて、この時代に飛んだのね」

「はい」

「自宅にあるフィドルとご主人のヴァイオリンベースを並べてメッセージを作りたい、ってことよね。合っていますか?」


「はい」

「一応状況を聴きながら、元町方面に向かいましょう。仲間とはそこで落ち合う算段になっています」


 話しながらゆっくりと二人は歩き始める。代官坂を下りて元町通りへと向かう二人は、元町神社を目指していた。


「ここが元町通りですか?」と駒子。

「アメニティ舗装された、コミュニティロードに変わっているので、あなたの暮らしていた時代の面影はないでしょうね」

「ええ。ずいぶんと街も変わるのですね」

「はい」

「実は私の家には秘密の屋根裏部屋があります。私の父が、母からの追求を逃れるために、趣味だった希有な古書を集めていた収集部屋です。その隅に私のフィドルがおいてあります。有名なブルーグラスのフィドル奏者、ケニー・ベイカー、彼がお忍びで来日した際にサインをしてもらったフェフナー社製のフィドルです」


 彼女がそう言うと摩理朱は、

「それをご主人のヴァイオリンベースがおいてある小淵沢の別荘の二階に並べておきたいと言うことなのね」と合点のいったように加える。

「はい、そう聞いています」

「その未来のあなたの小さな願いを、時神と我らが主は、叶えてあげるという答えを出したようですね。六十歳を越えた後、あなたは、入院してから、それを行うことが出来ないまま、他界しています。暦人として、カレンダーガールとして、時間の旅で、多くの人々に無償の愛を届けてくれた、あなたへの恩義を神々は忘れていないと言うことです。時神と主はそんなあなたを哀れんで、若き日のあなたに、生前やり残したその役目を与えたというのが、この時間旅行というわけですね」

「はい」


「いつも、もじもじしている彼と私が、その後夫婦になり、おおよそ五十年もの月日をともに過ごすことになるのも驚きですが、ありがとうが言えないまま終わるのが切ない思いなのです。私がどういう最期を遂げて、なぜ彼にありがとうが言えないのかは、未来のことなので知るすべもありませんが、あらかじめ、誰も入らない場所にメッセージを残しておければ、きっと彼は気づいてくれるものと信じています。未来の私の最後の願いを、若き日の私に伝えてくれた時巫女と桜ヶ丘の神さまにも感謝ですね。きっと恵まれた、愛された一生を送ったと思ってます」


 まだうら若き乙女である駒子がそんなことをいうのも不思議な感じだが、長く連れ添った老夫婦の愛の形は、「惚れた腫れた」だけではない重層な年月のしるしがあるといずれ実感することになる。これはこれで、その先取りを行う自分へのご褒美というわけだ。


 元町神社の前には。緋色のキュロットに、白いカットソーを着た四十代の女性がたっていた。彼女から「時の気配」を感じ取った駒子は、

「時巫女さんですね」と発した。

 シスターは無言で頷く。

「遅いぞ、シスター。待ちくたびれたわ」と笑い声の時巫女。


 シスター摩理朱は、駒子に、

「多霧の時巫女です。主に東山道の西側と東海道、北陸道を受け持つ時巫女さん」と紹介する。

 駒子は笑顔で会釈すると、

「駒子です。カレンダーガールを五年ほどやっています。このたびはご協力ありがとうございます」と言う。


「桜ヶ丘の神さまを大切にしてくれたからこそのおまえだ。当然の権利と思え」

 そう言うと時巫女は、大幣おおぬさを駒子に向かって一振りした。すると目に映るすべての世界がモノクロームにトーンを落とし、すべての時間が止まった。


 その中で動いている時巫女は、

「今回は時神さまからのお許しで、止まった時間を使ってよいということだ。おまえの用事が終わって再び時を動かす必要が出たなら、この場所に戻って、この神社のお参りをするとよい。シスターでもお前自身でもどちらでも良い。そうすれば止まった時間は再び動き出す」

 そう言い残すと時巫女はさっとその場で消えてしまった。


 シスターと駒子は顔を見合わせると、無言で頷いて、伊勢佐木町方面に歩き始めた。


「止まった時間は、プライベート空間のようで、気兼ねがなく使えていいんだけど、乗り物を使えないというのが大変なのよね。しかも時間と一緒に止まっている人たちに、ぶつかるわけにもいかないから、なるべく人通りの少ない道を選ばなくてはいけないし……」


 なれた口調でシスターは駒子に話す。

「はい」

 駒子もシスターと一緒に人影まばらな横浜中心部の歩道を、『荒上屋』に向かって並んで歩いた。


昭和四十一年七月一日・東原宿ホテル

 ドアを閉めると部屋のシングルベッドに夏見は倒れ込んだ。

「あー、くつろげるよ」

 ドレッサーのいすに腰掛けた栄華は、

「テレビつけていいかしら?」と言う。

 見れば四つ足の木目調の小さなテレビが部屋の隅に置いてある。頭の上にはリボンのように卓上アンテナが載っている。

 彼女の言葉に、

「もちろん」と夏見。

 ところがテレビの前で首をかしげる栄華。

「スイッチはどこ? これチャンネルどうするの?」とおかしなことを言う。

「ひょっとして、回転式のチャンネルを知らない世代なのか?」

「回転?」

「おばさんとみずほに言われている割には若いな」


 暦人仲間の二十代の世代からはおばさん扱いされることの多い栄華。中身はどうであれ、「若い」という言葉に反応して少しご機嫌になる。


 夏見はスイッチレバーを引き上げると、パチンと言う音とともにテレビが映る。ちょうど昼に行われたビッグ・ポピュラー音楽グループのコンサートを放映していた。未だこの視聴率はこの分野においては破られていないという驚異的な数字だ。六割近いテレビがこのコンサートを受信していたと言われている。

「お、<ひとりぼっちのあいつ>か。名曲だね」

 再び自分のベッドに戻ると、ごろりと横になる。


 名曲をバックに栄華は、

「何時にあのお店に戻るの?」と尋ねる。

「そうだな。あと三十分もしたら言ってみよう。十時前には行きたいね。閉店する前に店に入らないといけないから」


 栄華は軽く頷いて納得すると、

「どこかでピアノ借りられないかしら?」と呟く。

「練習したいんだね。うでが鈍るもんね」

「なるべく毎日、動かしたいんです。指の動きをなじませておきたい」

 夏見はやれやれという顔で、起き上がると、ドア口に向かう。栄華を手招きすると、二人は並んでエレベーターホールに向かった。


 二階で降りた二人は、緑の絨毯が敷かれた事務室に入る。コンコンとノックをして、中の者に、声をかけた。


「済まない、カレンダー関係の者だけど、支配人はいるかな?」

 事務対応の者が、

「はい、奥が支配人室です。カレンダー関係の方は直接行っていただいて良いと仰せつかっております」と答える。


 彼の指し示す方に二人は歩き、部屋の奥にある「支配人室」と書かれたプレートのドアをノックする。

「はい」

奥で聞き覚えのある声がする。

「カレンダー関係のものですが、失礼します」

 夏見の声に、

「どうぞ」と返事。

 夏見がドアを開けると、純和風の畳敷きの部屋が広がっていて、中央には多霧の時巫女が着座していた。


「おう、夏見。来たな」

 やっぱりという顔の夏見。彼は、

「栄華ちゃんがピアノの練習をしたいので、フロント横のピアノ、二、三十分貸してよ」と言う。


「そうか、では使え」と後ろ向きのまま許可をする。彼女が大幣を一振りすると、鍵盤蓋の鍵が栄華の手に舞い降りてきた。

 その様を見て、

「まるで魔法使いのおばさんだ」と苦笑する夏見。

 栄華は驚いたが、それがピアノの鍵であることを認識すると、

「ありがとうございます。二、三十分でお返しします」と一礼した。


「おばさん。この時代はここをねぐらにしてたのね」

 夏見の冗談交じりの揶揄に、

「ふん。どこの時代で何をやっていようが、おまえには関係ないだろう。早いところ託宣を消化して、手久野家の幸せを実感させろよ」と優しい言葉をかけた。


「任しとけって」

 夏見は軽くウインクで答えた。

 その横で栄華はにやにやしながら嬉しそうだ。

「どうしたの?」と夏見


「だってあのロビーにあったピアノって、ヤマハFC、フルコンよ。275cm。六十年代のトップピアノだわ。昔懐かしの象牙白鍵と黒檀黒鍵の鍵盤で、フットはツーペタル。昭和29年にはヴィルヘルム・バックハウスが皇居で天覧演奏をしたピアノだわ。きっと若かりし頃の中村紘子だって、一度くらいは弾いていたはず。できたての頃のFCを弾けるなんて、暦人冥利に尽きるわ」


 栄華のその台詞に、夏見がいつもの「ピアノ馬鹿」と返したのは言うまでもない。


二十一世紀の横浜・時間の止まった荒上屋

 運河沿いを歩き、板塀のある料亭にたどり着く駒子とシスター。

「ついたわね」

「はい」

「私は止まった時間の中とはいえ、人様のお家なのでここで待ちます。必要なものを持って来てください」


 駒子は無言で頷くと、結構な年季の入った我が家のガラス戸を開けて、勝手口から自分の部屋へと向かった。部屋は自分の生前のままでなにも変わっていないと聞いている。若い頃からいつもそうしていたように、本棚の横にある小さな扉を開けて、以前は茶室だった離れに入る。なので、若い頃の駒子にも手に取るようにわかる内部の状況だった。


 正面には床の間があり、その脇にフィドルのケースが三つ並んでいた。駒子は慣れた手つきでそのうちの一つを手にすると、そっとケースの金具を持ち上げて、中身を確認する。そこには確かにケニー・ベーカーにしてもらったサインが残っていた。


「これだわ」


 彼女は独りごちると、そのケースを持ってそっと立ち上がる。静かに扉を閉めて、来たときと同じ状態にして、慎重にその場を立ち去った。

 門扉の前で待つシスターは、駒子が無事に手にフィドルケースを持って帰ってきて安堵した。


「間違いないわね」

 シスターの言葉に、「はい」とだけ答える駒子。

「じゃあ、行きましょうか。愛する人へのメッセージを作りに」



昭和四十一年七月一日・可憐亭

 午後十時十分前。夏見と栄華は暖簾をくぐり、すき焼き屋の玄関にいた。この店は個室の店ではなく、テーブル席と小上がりの座敷があるだけの店だ。ガス管が各机に通してあり、コンロが設置されていた。


「いらっしゃい」

 女将さんらしき人の声に二人は軽くお辞儀をする。奥の座席には、昼間見たカントリーバンドの面々が陣取って反省会らしきものを行っていた。その中には、確かに若き日の晴臣の姿もあった。


「フィドルの子はいないのね」

 栄華の言葉に夏見も、「そうだね、女性だし門限があるのかも。この時代、女の子の親は異常に口うるさかったし」と頷いた。


 なにやらその反省会は騒がしい。……というよりも、熱気だ。興奮冷めやらぬといった感じである。


 店の奥のバンドメンバーの横まで行ってみると、ハードケースに入ったベースギターが床に置いてあった。間違いなく、晴臣が探してほしいと言っていたフェフナー社製のヴァイオリンベースである。蓋があげられた状態なので、夏見たちも確認できた。


「ヴァイオリンベースだね」と目の細い優しげな青年に夏見は話しかける。

「おじさんわかるんだね」という。


 長髪で、涼しい瞳の彼は、

「さっき、実はマッカートニーとレノンがお忍びで顔を出したんだ。もうびっくりだ。お土産にして、うちのすき焼き肉をどっさり買っていってくれたんだ。その時に仲間の一人がたまたま彼のベースギターと同じ形のものを持っていたので、ボディの後ろにサインしていってくれたんだよ。命の次に大切だ、なんて本人は大喜びなんですよ」と自慢げに説明してくれた。


「へえ」と興味ありげに夏見は笑うと、

「それはラッキーだったね」と返事した。そして小上がりに腰掛けると、靴を脱ぎ始めた。


 栄華も後を追って、サンダルのひもを外すと、小上がり席の座椅子に着座した。

「まだベースギターはあるのね」と栄華。

 夏見は首を何度も縦に動かしながら。

「うんうん」と真剣な面持ちだ。

「問題はどの時点でベースギターが消えたのかということよ」


 栄華の言葉に頷くと、夏見はグラスに瓶ビールをついで、すぐさまそれを飲み干した。


 二人前の注文を店員に告げると、バンド仲間の彼らには聞こえないよう小声で二人は話していた。


 すると「乾杯!」と彼らの方から盛大な打ち上げ会のスタートを告げる合図が聞こえてきた。

午後十一時を過ぎたあたりだった。


「なに、ハリーがお駒を好き?」


 仲間のひとり、ドラマーの妻友つまともが、ハリーの恋の行方を聞き出した。「物好きだな。ありゃ正真正銘、難攻不落のお嬢さんだぞ。老舗料亭の一人娘。親の反対があって、音大行きを断念したんだ。それを穴埋めするために、当て付けでブルーグラスやカントリーフォークをやっているって聞いたことある。住む世界が違うぞ」


 妻友はどうやら単なる酒の肴で茶化すのではなく、真剣にハリーの話にのっているようだ。


「わかっているよ。でも彼女以外は目に映らないほど好きなんだ」

 ハリーの言葉に妻友とリーチは顔を見合わせて肩をすくめた。当のハリーはそろそろ限界のようで、テーブルにうなだれるようにうとうとしている。

「今日はうちに泊まっていきなよ」

 優しい大人の声がした。


 お開きの催促にも聞こえる。厨房の両親のようだ。雰囲気を察して、夏見と栄華も帰り支度を始めた。


「お会計をお願いします」

 夏見が厨房の方に声をかける。


 伝票を受け取りに来た女将さんは、


「いかがでしたか?」と尋ねる。

「割下が独特の甘みで結構なお味でした。老舗の味ですね」

物価が分からない二人にも味の感想は可能だ。

「ありがとうございます。実はあそこにいるのがうちの息子とその音楽仲間でね。その仲間の一人、今日はたまたまいないんですけど、女の子がいるんです。ヴァイオリンの子でね。その子の実家が横浜の老舗牛鍋屋でね。そこで教えていただいた割下なんです。うちの主人が若い頃に修行に出ていたのが、その子のお家って言うわけで」


 世間話がてらの味の歴史が出てきたが、夏見にとっては耳寄りな情報で、出会うべくして出会った二人という線が強くなったように感じた。お互い時神の息のかかった暦人とカレンダーガール、偶然とは思えない恋のフィーリングと思った。


 栄華も女将のその話で、やはり夏見と同じことを考えたらしく、

「会うべくして会った二人みたいね」と軽く笑みを浮かべた。

 領収証を受け取ると二人は深々とお辞儀をして表に出た。かき分けた暖簾の先には、夜の東京が広がっていた。



小淵沢・ 大身曾岐おおみそぎ神社

 シスター摩理朱の案内のもと、駒子は元町神社で時を再び動かした。

 二人はその足で都内を経由して八王子まで出ると、中央本線に乗り換えて、一路小淵沢を目指す。山梨県北杜市の中心街が小淵沢である。この八ヶ岳の麓、標高千メートル近くの高原に駒子の家の別荘がある。植物園や長生き温泉といった保養にもうってつけの地なのだが、伊勢系の神明鳥居がかかる神社が今回の行く先である。

 二人は、二時間ほど列車に乗り換えたあとで、小淵沢へと到着していた。そのままタクシーで町外れに向かう。目的地はそこに鎮座するこざっぱりした美しい神社だった。


 古神道の祈りの場として名高い大身曾岐神社おおみそぎじんじゃ


「大身曾岐神社は知っていますけど、なぜ行かねばならないのですか?」

 緩やかな坂道をのんびりと歩きながら、駒子はシスターに問う。


 シスターは歯がゆい顔をしながら、

「実は私の案内は、ここまでなのよ。ここから先の行程はあなたがカレンダーガールを親戚の女の子に譲ってから、ハリーさんと夫婦になった後によく訪れた場所と言うことで、山梨では案内役が変わるわ。三十歳以降、未来のあなたは暦人として時の旅人をしているの。先のことなので、詳しくは言えない。時間が揺れると大変だから、それ以上は勘弁ね。……そういうわけなので、あの神社でまたさっきとは別の時巫女と交代ね。時神の託宣を直に聞くことが出来る『時の遣い』にバトンタッチするわ」と手短に話した。


「そうか。若い時分のカレンダーガールから、暦人へと役目を変えて移行する晩年のことだから、そっから先は神社さんの案内なのね」

 駒子の言葉に優しく頷くシスター。


 二人は鳥居をくぐり、石の敷き詰められた拝殿の前にさしかかった。すると向かいには和装をした美しい女性が和笛わてき横笛よこぶえを持って立っていた。

「シスター摩理朱、ご無沙汰しています」

 礼儀正しく落ち着きのある笑みが出迎えている。長い髪に銀色の和服、朱色の帯が見目麗しい絶世の美女だ。しかしその若い姿とは反して、彼女は悠久の時を過ごしている仙人のような存在でもある。


「ご無沙汰しています。無事に時止めでヴァイオリンを持ち出してきましたので、私の役目はここで終わりですね」


 軽い会釈の後で両手を胸の前で合わせて握り、お祈りのポーズをとる。

「ありがとうございます。私たちも船橋殿と飯倉殿を昭和四十一年にお連れして、いま託宣解釈とヒント作りをお願いしています」


「あの二人なら安心ですね」


 再び微笑むとシスターは、お辞儀をして、

「では私はこれで」ときびすを返した。


 二人は無言でシスターの後ろ姿を見送った。


 駒子は、

『船橋殿? 飯倉殿? ……御厨関係かしら?』と、シスターと時巫女が話す内容の拾い聞きの単語を脳裏にしっかりと納めた。

「とおかみ えみため かむながら たまちはしたまえ」

 慣れた作法で、駒子は神社に手を合わる。


「礼儀作法は心得ておいでのようね」

 その言葉の後、ひとしきりすると、時巫女は優しく微笑んで、

「では私がこれまでの状況と、これからなすべき事をお話していきますね。あなたはご自身の別荘、この場所で、これから自分の時代に戻ったときに受け取るであろう、ハリーさんのベースギターを見ることになります。橋の欄干でプロポーズされて受け取ります。あなたの見慣れている、いつも使っていたエレキベースです」と加えた。


『指輪じゃないんだ』と駒子は少々困惑した。プロポーズにベースギター受け取る人間なんて、そうそういない。


「そこに寄り添うようにあなたのフィドルを並べてください。まるで二人の代わりに仲良く並んでいるように。それが四十年後のあなたが、若きあなたにお願いしたことです。そしてこの手紙をそこに添えておいてほしいと頼まれました。でもこの手紙をあなたは読んではいけません。暦人ならおわかりですね」


 駒子は無言で頷く。必要以上に落ち着いた了解の仕草で応える。そして差し出された手紙をフィドルケースの中に納めた。


 まるで滑るように歩く時巫女と並んで歩き始める駒子。


「あなたの家の別荘は、その向かいでしたね」

「はい」


「未来のあなたから鍵を預かっています。それもお渡しします。使い終わったら私が返しておきます。セッティングのあと、お帰りの際は、桂花の御神酒を私が用意しましたので、それで自分の時代にお帰りください。おそらく原宿は表参道のライブ喫茶ヒナギクの地下にある楽屋に戻ります。そこで四十代のサングラスにカジュアルタイの男性と、赤いヘアバンドにワンピースを着た三十代の女性のカップルと出会うことになるので、この場所をあくまでおぼろげに示唆して、託宣めいて教えてあげてください。あなたの使命は今回はそれで完了です。あとはハリーさんから受け取ったベースギターを、これからこの別荘で見たとおりに置いていただければ、『時の後始末』も完了となります」



 時巫女の話をしっかりと聞いた駒子は、

「託宣の準備って、意外にハンドメイドなんですね」と笑う。


 時巫女もクスリと笑うと、

「今回は特にそうですね」と返す。


 そして一間ひとまおいてから、

「だって未来とは言え、依頼人であるあなた自身がそれを望んでいるんですから」と加えた。

「そっか、私自身の望みなんですもんね」


 駒子が祖父の代から受け継ぐ別荘に、一人で足を踏み入れるのは初めてだった。

 外観はログハウス。玄関には熊の毛皮で作ったマット。ダイニングの天井には、ろうそく型をしたシャンデリアが吊られている。開放的な窓は八ヶ岳が手中に収められるほど鮮明に見えている。

 森の木々も木漏れ日に輝く。少しずつ始まった紅葉の色づきは、ツタの絡まる木々がコントラストのように赤と緑で自然の演出をなしていた。


「ここだわ」


 階段を上り、二階へと行った奥の間に、これから自分が置くことになるベースギターのケースが、壁に立てかけてあった。劣化してずいぶんと古びた外観になっているが、確かにハリーのベースギターだ。

 彼女はそのベースギターが愛おしくなって、思わずふたを開ける。そして手入れの行き届いた弦やボディに触れて、指先でなぞる。やはり愛おしいと感じる彼女は、そのベースギターを抱きしめた。


「さあ、未来の私の人生の仕上げをしてあげなくちゃ」とひとりごちる彼女。


 駒子はベースギターをギタースタンドに立てかけた。そして自分のフィドルもケースから取り出すとフィドル立てに同じように立てる。仕上げは漢字の「人」という文字のように、二つの楽器を寄り添うように配置した。その中央に自分からハリーへのメッセージが入った手紙を載せる。弦の間に通すようにして挟んだ。


「よし」と遠目から何度も確認する駒子。ある種デザインであり、メッセージでもあるこの楽器たちの確認は重要だ。


しばらくして、玄関から駒子が出てくる。やり終えた感じがある顔だ。


「出来たようですね」

 長慶子の時巫女は静かに微笑む。その色白な頬が少しだけ優しさを表すのが分かる表情だ。


 頷く駒子に、時巫女は、

「ここに桂花の御神酒という時越えのアイテムがあります。あなたは結婚後はハリーさんの妻となるので、暦人として、時越えを続けてほしいというのが、時神さまの希望です。なのでこのアイテムをまずお教えしておきます」

 無言で駒子は時巫女の言葉に耳を傾ける。


「暦人として、長年、時神に協力したものは、キンモクセイ・タブーと言われる時越えを許されます。行きたい時代、会いたい誰かをそっと陰から見ることが出来ます。ただ今回は、駒子さん自身がキンモクセイ・タブーの資格を得たのが遅すぎました。ご自分の年齢、病の淵、病床で移動が出来なくなっていたのです。それで例外として若き日の自分を使うことを許されました。特例だと思います。わたしは初めての経験です。またあまりに貢献度が大きいため、時巫女二人とタイムゲート管理のシスターの手助けも許されました。若き日のあなたが、この先多大な貢献をハリーさんとしてくれるのを知る、未来の裏付けでもあるのです。その貢献内容はご自分で、長い人生を楽しみながら確認してください。私とはここでお別れです。この御神酒を一気に飲み干せば、あなたも自分のもといた時間にお戻りになれましょう」


 その言葉の途中から、すでに時巫女の姿は半透明になり始めている。背景が透けて見え始めていた。

「ありがとう」という駒子のお礼の言葉は伝わったようだ。彼女は薄くなりながらも、ちゃんとその言葉に頷いていた。

 時巫女が完全にこの場所を去ると、玄関先に戻る。靴を履き、彼女は小瓶に入った桂花の御神酒をぐいっ、と飲み干した。


表参道-喫茶ヒナギクの地下室の扉

 チューニングの音がする。ライブ前の雰囲気が駒子につも伝わる。

「チューニング、リーチの音じゃなんかぎこちないな。聞き慣れていないからかな?」

「ああ、駒子のフィドルでチューニングというのがもっとも聞き慣れている」


 そんな皆の会話の中で、ハリーは、

「大切なフィドルをおいて駒子のやつ、どこに行ったんだ。夜の部の演奏は、あと十分だぞ」とぼやく。

 ハリーのそのぼやいている言葉が、駒子には何より嬉しくて愛しくなった。彼女は地下室の鉄の扉をおもむろに開けると、元気に振る舞って、

「お待たせ。さあ準備しようかな」とフィドルケースを開けて、楽器を取り出した。

 その頃、ステージのことなど知らない夏見と栄華は、可憐亭を確認してから、この喫茶店に向かっていた。



七月四日 桜木町駅前


「二日も張り込んで収穫なし」

 栄華の言葉に、

「探偵っていうのは、そんなもんだよ」と夏見。

「いつから探偵になったの?」と呆れ顔の栄華。

「三日ぐらい前かな?」とおちゃらける夏見。

「あ、そうですか」とだけ、あくび顔で返事する。彼の話に興味はなさそうだ。


 すると遠くの木戸が開く。勝手口に当たる方だ。

 長細い筒状の荷物を持って女性が出てきたのがわかる。

「あ」という栄華に、そっと頷く夏見。

「ここでお待ちしましょう。二日も待ったんだ。あと一分や二分どってことない」

 朝靄が立ちこめる、運河に架かる橋の袂、穏やかな顔で待つ二人だった。


 早朝、ラッシュアワーの始まる前、ベースギターのハードケースを抱えた駒子が現れる。弁天橋を渡りきったあたりだ。プロットでは物語の冒頭、時系列では、昨日、一世一代の大告白の後で、ベースギターを置きっぱなしで、ハリーが帰ってしまった場所である。


「おはようございます」

 彼女の目には、先日の観客二人が映る。

「あら先日の客席のカップルさん」


 駒子の言葉に、

「お役に立てるかと思ってお待ちしていました。七月三日が告白の日だったんですね。少し間があるとは思わなかったわ」と栄華。


「やっぱりあなたたち、暦人ね。どこの時代なんて野暮なことは訊かないけど、きっと時巫女さんと関係あってのことだわね。いいわ、ついていらっしゃい」


 駒子は物怖じせずに、夏見と栄華を従えて、桜木町から渋谷までの切符を買った。二人も東横線の切符で改札を抜ける駒子に続いた。

 列車に乗ると駒子は待っていましたとばかりに話を始める。

 始発に近い電車の車内に乗客はまばらだ。


「このベースギターは、旦那さまになりそうな人のものなの。昨日求婚されちゃった。それで私に預けるから、煮るなり焼くなりしろ、ですって」

 嬉しそうに話す駒子に、栄華もにこやかに頷く。

「馬鹿な男よね。演奏家になる夢よりも、私みたいな馬鹿娘の夫になって、料亭の番頭をするつもりよ」


 そのぞんざいな言葉とは裏腹に笑顔の彼女は輝いて見える。


「それでね。愛の証に、このベースギターを預かってほしいって言われたの。本当に大切なギターよ。あのマッカートニー直筆のサインが入っているものなのよ。きっと決死の覚悟がいったわね」


 わかった風な口をきく駒子。そしてベースギターを愛しそうに抱きしめる駒子に二人も嬉しい気持ちが痛いほど伝わる。

「で、返事は?」

 栄華の言葉に、

「彼が良いって言ってくれるんだもん、もちろんお受けするわ。だって……」と言葉をためる。

「だって?」と聞き直す栄華。

「……うん、私も彼のこと大好きだったんだもん」

 そこには跳ねっ返りの料亭のお嬢さんの面影はなく、しばし恋する乙女の駒子が幸せを噛みしめている。

「やっぱり好きだったのね」


 栄華は誰よりもその喜びに応える優しい笑顔で、彼女を見つめる。

 渋谷から新宿へと山手線を乗り継ぎ、彼らは中央線の中距離電車乗り場へと向かう。この当時は中央線の中距離電車は新宿まで入ってきていた。小淵沢までの普通列車も、ここから乗ることが出来たのだ。



小淵沢の別荘前

「ここが小淵沢の別荘なの」

 駒子は再び自分の別荘の前にたどり着く。今度は自分の時代なので、まだ真新しさが残る建物だ。


「なんで、こんなところまでギターを」

 夏見の言葉に、

「それがね、未来の私は、このギターと自分のフィドルをこの別荘で一緒に過ごさせてあげたかったみたいね」と教える。

「?」

 不思議そうな顔の夏見を見て、駒子は言い直す。


「遺言、ってほどのものではないんだけど、メッセージをハリーに残すために、この別荘にこのベースギターを置いていなくてはだめなのよ」


 両腕を組んだ彼は、「なるほど」と納得する。

「何がなるほどなの?」

 栄華は妙に合点のいった顔の夏見の問う。


「オレたちが、ここで立ち会うことで、この場所をハリーさんに教えることが出来る。ベースギターは無くなったのではなくて、駒子さんが保管していただけと伝えることが出来る。そして同時に、この場所を教えることで、駒子さんのハリーさんへの生涯をかけた感謝、メッセージを伝えることが出来ると言うことさ。万事OK。依頼主への報告が出来る。そしてお仕事完了」


 夏見の言葉に駒子も、

「……だと思う。内容はわからないけど、未来の私は、この別荘まで来られるほど体調が万全ではなかったのです。そのためにカレンダーガールをやっていた頃の、自由に時間を往来できた頃の自分、つまり今の私に託したと言うことになります。暦人時代と違って、カレンダーガールの頃なら、好きな時代に往来できますから」


 彼女がそう言い終えると、玄関を開けて中に入る。

「我々はここで待っていますね」

 夏見の言葉に栄華も頷く。



「わたし、暦人になってよかったって、最近つくづく思うようになりました」

 栄華は待ち時間に夏見に話始めた。

「粟斗さんはそう思いますか?」


 栄華の質問に、夏見は、

「いや、ほら、世襲だから、次は自分か、ってね」と頭をかく。

「そっか、みんな、山崎さんも、みずほちゃんもわかっていたんだ。次が自分って」

「うん。だから栄華ちゃんとは少し心境が違うかもね」


 頷きながら栄華は続ける。

「心の優しさって、偽善じゃない、ってわからない人多いけど、人の顔色見てやっている人が偽善だって、区別がつくようになりました。お金や人気者、見返りなどを考えれば、自然と綺麗事を言う打算が働く人っているんですね。ずるい人や嘘つきに多いってわかりました」


「まあ、極論に近いけど、本質はそうだね。でもね、そういった人たちも絶えず葛藤していると言うことは覚えておこうよ。防波堤が緩いだけなんだよ」

「はい。それも今はわかります。ルールや法律、世間体、何が防波堤になっているかは、その人自身の過去の人生経験に依存するんですよね」



「うん。わかっていればいい。だから手放しに批判もよくないし、自分がそうならなければいいという前提条件だけクリアすることが重要なんだ、オレたちは。そしてその人を思いやる正直と善意の防波堤をちゃんと持った人々の心を、我々は一語で『優しさ』と凝縮している」


 栄華は感慨深く、何度も頷く。

「私、粟斗さんと知り合えてよかった」

 手のひらで指を組んで、外側にノビをする栄華。高原の風がさわやかに吹き降りてくる。初夏の涼風が心地いい。

 夏見は偏光グラスを外すと、

「修了かな。暦人御師の修行」と笑う。

「なんで?」


 夏見は栄華の足下を指さして、「ほら、見てご覧よ」と笑う。

 彼女の足下には、木漏れ日が太陽光を受けて、文字を作っている。まるで木の枝の影絵で出来た絵文字だ。


 見るとそこには『修了』と読める文字が影で作られている。


「これって、偶然じゃないの?」

 栄華の言葉に、

「偶然に見えるようにメッセージを出すのが時神さまじゃなかったかな?」と返す。

 彼女はぼそっと、「そうでした」とぎこちなく笑う。


 そのとき玄関が再び開いて、中から駒子が出てきた。

「お待たせしました。二階の床の間のあるお部屋は風が気持ちよかったわ。では帰ります」

 わざと置き場所らしきところをぼやかしながらも示唆するところが、駒子が暦人家業を上手にこなしている証拠になる。


 駒子の言葉に、

「ご苦労様。このことはそっと未来のハリーさんにお伝えしておきます。過去のことを口に出す分には、時間は揺れないからね」と笑う。

 深々とお辞儀する駒子は、「よろしくお願いします」と付け加えた。


「オレたちは、ここで自分の時代に戻ります。『時の玉手箱』があるんだ」と夏見。

「そうでしたか」


「ああ、ひとつだけ教えてください。なんでここに別荘があるの」

「もともと私の祖父が住んでいた場所なんです。建物だけ建て替えて別荘になっているけど」

「そして南アルプスのコマクサや駒ヶ岳で駒子さんなんですね」

「はい正解です。でも昔っぽいし、川端康成の小説じゃ芸者さんだし、幼少期は祖父を恨みましたけど、いまはこのさわやかな日本アルプスのすがしさを見るとお礼を言いたくなります」

「自然児だ」と笑う夏見に、「ええ」と笑みを返す駒子。

「すてきなお名前だわ。フィドルやギターのブリッジを和訳すると駒っていうのよ。あなたはハリーさんを優しさでこの場所に導いたブリッジだわ」

「ありがとう」

 駒子ははにかんで礼を言うと、

「じゃあ、二十一世紀のハリーをよろしくお願いします」と加えた。

 そして二人にぺこりとお辞儀をすると、手を振って駅の方へと歩き始めた。

 夏見と栄華もお辞儀を返す。そしてそっと荷物から「時の玉手箱」を取り出した。



二十一世紀の小淵沢別荘

 ハリーはタクシーを降りる。お供でついてきたのは、孫の克人だ。夏見が彼に連絡を入れて、ハリーを二階の床の間のある部屋に連れて行けと指示を出したからだ。


 玄関の戸を開けると、軋みながらも磨かれた清潔な階段が彼の前に現れる。一段一段とその階段を上るハリーと克人。


 二階への階段を上りきると、そこは廊下、手前と奥の部屋の二部屋がある。どちらも障子一つで仕切られた部屋である。奥の部屋が床の間のある部屋だ。

 ハリーはそっとふすまを開けた。床の間の前には、二つの楽器が仲良く並んでいた。紛れもなく、ひとつはハリーが気にしていたへフナーのヴァイオリンベースだ。


「ああ、サインだ」

 彼は楽器に駆け寄ると、その場に腰を下ろし、指でゆっくりとボディーにマジックインキのペンで書かれたサインをなぞる。


 すでに彼の目にはうっすらと嬉しさの涙が滲み出していた。


 そして次のお駒のフィドルを見る。

「ケニー・ベイカーのサインだ」


 しっかりと調律された彼女のフィドルには、白い封筒が挟んであった。彼はその封筒をそっと開ける。のり付けはされていない。おそらくハリー以外はここに来ないと踏んでいたのだろう。


 かさかさと音をたてて手紙広げるハリー。


『デイア ハリー


 あなたがこの手紙を読んでいると言うことは、私はもうこの世にいないということね。最初に書きたかったのは、あなたのおかげで幸せな人生が送れましたというお礼です。演奏家よりも私との人生を選んでくれたあなたが誰よりも好き。本当よ。白髪になったあなたも大好きだったわ。口には出さなかったけど、毎日見とれてました。自慢の旦那様でした。ふふふ。一緒に駆け抜けてくれた料亭の人生、楽しかったわ。


 このベースギター、酔っ払って私の前で置いて帰ったときは、持って帰るのが大変でした。あのとき凄く酔っていたから覚えていないんじゃないの。何度もあのベースギターの所在と記憶がないって言っていたものね。この日を楽しみに、とうとう教えませんでした。ちゃんと大切にして、手入れはしておきましたよ。だって私に預けてくれたものですもの。プロポーズに指輪でなく、ベースギターをくれるなんて聞いたことないけどね。


 一方の私は、あのとき置きっ放しのベースと自分のフィドル、両手に楽器持って家まで帰ったんだから。でもこの二つの楽器があったから、私たちは一緒になれたと思うの。キューピッドみたいなものね。だから当時の私たちのように、互いに寄り添う人の字を作っておきました。スコットランドやアイルランドの民族フォークも最後にはやってみたかったわね。一足先にあっち行って練習しているから、ものすごくゆっくりでいいから、いずれ来てくださいね。そしたらまた二人でアンサンブルしましょう。


 大好きな旦那様に愛されたお駒は幸せ者でした。すてきな人生をありがとう。


                   ユアーズ シンシアリー お駒』


 克人はうずくまるハリーの肩にそっと手を置く。


 ハリーの目には涙のつぶてがたまる。そしてそのつぶては、ひとつ、またひとつと頬を伝って畳の上に落ちていく。


「お駒……」


 小さく震える声で、「幸せなのは、こっちも一緒だよ。僕の愛に応えてくれてありがとう」と呟いた。


 祖父母の愛情が本物であることを克人は感じていた。確かに名声を得て、国中をわかせる著名人も素敵だが、生業を見つけて、それに勤しみ、夫婦二人三脚で時を過ごし、子や孫に囲まれる賑やかな人生。それもまた負けず劣らずの誉れ高き人生であると彼は感じていた。



 世間では、老人になると、照れからか無礼講の会話が多くなる夫婦も多いが、ハリーとお駒は、夫婦になっても恋人だった。そして愛し合っていた。心はいつも一緒だった。


 暦人になれるくらいだから、これだけ清らかでいられたのか、それとも清らかだったから暦人になれたのかはわからないが、誠実で、優しく、人を大切にする、暦人の鑑のような老夫婦の愛の物語がここにあったことは事実である。



 彼女の料亭に咲く花、コマクサ。その花言葉は「高嶺の花」と「気高きこころ」。まさしく高嶺の花だったお駒を娶ることができたハリーと、いつまでも夫婦の愛情を大切にする気高さが似合う二人をイメージできる花。この美しい一編の物語に相応しい花であった。



 かくしてお駒の人生最大のラブレターはハリーの元へ、消えたベースギターの謎も解明して、一件落着のキンモクセイ・タブーは終わりを告げた。南アルプスの山々はその頂に純白の帽子を被り始めていた。




その後の話 芝ノ大神宮

 ハリーとお駒の物語から数週間後。栄華は大伯母のアスカから朝早く呼び出され、あれやこれやと付き合わされた。貸衣装、美容室、小物雑貨店など、ほぼ成人式の娘が行きそうな場所ばかりを、三十歳中頃の栄華は一日中歩き回る。そうこうして最後に行き着いた場所は、見慣れた、通い慣れた神社であった。


 東京は浜松町、芝の大門近くに鎮座する芝ノ大神宮という神明社がある。飯倉御厨の総鎮守を任された神社であり、七色の御簾、つまりタイムゲートを有する神社でもある。このタイムゲートを代々守り続けているのが、栄華の血筋、角川家である。


「なんのコスプレ大会?」

 栄華は着慣れない和服の重ね着をさせられて、芝ノ大神宮、本殿前に緋毛氈ひもうせんを敷き詰めた地面、その上にたたんだ扇を持って立たされていた。何も聞かされていない彼女は、借りてきた猫、いやお飾りのお人形さんのようにただそこにポツンと一人で立っていた。


「ちょっと アスカおばさま。わたし衣装が重くて、疲れてきた」

 だだをこねる栄華の目に、階段を上がってきた夏見の顔が入る。

「あ、粟斗さん。これ何のお祭り。私だけなの? この格好」

 夏見は思わせぶりに笑うと、

「お似合いですよ。御師どの。お雛様みたいだ」とのたまう。


「だったら粟斗さんも時代装束着て、仮装大会の私に合わせてくださいな」という栄華に、

「冗談。そんなもの二度も着たくない。さらし者はごめんだ」とかぶり振った。


 夏見のその言葉に、

「粟斗さんもやったんですか、この時代コスプレ祭り」と困った顔で質問する。

「うん十年前に、船橋大神宮でやりました。烏帽子などかぶらされて」

 その言葉が終わったとき、さらに続々と階段から人がやってきた。山崎、八雲、みずほ、乙女に、桜、時巫女やゲンゴロウもいる。おなじみの暦人御師のメンバーだ。


「久しぶりに見るなあ。時の勘解由使かげゆし、別名、時間人事局員。楽しみだわ」

 乙女の言葉に、ゲンゴロウも頷く。

「桜の時以来だ。またあの牛車ぎっしゃも見られるな」

 辺りが暗くなって、月明かりと神社にともされた提灯の明かりが柔らかな風景を作り上げている。十月の名月が頭上に登り始める。

 やがて辺り一面は、霧のように霞がかかり、隣に誰がいるのかさえも見えなくなるほどに濃さを増した。


 するとギギギと軋みながら、何かが回る音が聞こえてくる。

「なに?」と栄華。


その大きな物体は月の光を背にして、どんどん大きくなり栄華の横にやってきた。


「牛車?」

 栄華は柄にもなく、『平安時代かよ!』と心中でツッコミを入れる。

「かどかわのえいか」

 牛車の小窓、御簾みす越しに栄華を呼ぶ声がする。

「かどかわのえいか」

 まるで和歌や百人一首を読むような抑揚、音階で問いかけてくる。


「はい」と小さく返事をすると、栄華の持っていた扇が一枚の紙にすり替わる。


『えっ? 何が起こった? マジックショー?』


 イリュージョンの一幕のような演出に、栄華の頭は真っ白になる。

 そんなことはお構いなしに、御簾の向こうの声は、

「これに時の解由状げゆじょうをつかわす。たいぎであった」と平静を保って必要事項を述べる。


 言い終わると牛車は再び渋い音を出しながら動き出す。ゆっくりに見えるのだが、意外に速くもある。そうしているうちに、牛車は天へと消えていった。

すると視界を遮る雲ははけ、再び皎々こうこうとした月明かりであたりは満たされる。


「終わった」と感じる者、「スタート」と感じた者。取り方は様々だ。見習い期間の終焉。御師としての正式な始まりを意味する解由状が栄華の手に渡ったためだ。


解由文げゆぶみが降りたので、私は引退だわ。ゲンゴロウさん、リタイヤ組のお仲間になりました」


 アスカが安堵の声でゲンゴロウに呟く。


「世代交代はいつも人の世の常ですよ」

 笑いながら応えるゲンゴロウ。


 夏見と山崎、八雲は栄華のところに寄り添う。

「もう一人前ですよ」と山崎。

「これからは飯倉御厨を背負って立つことになりますね」と八雲。

「さて、モントルの時空機能をアスカのおばさんから引き継がないといけないね」


 最後に夏見は現実の実務問題を投げる。


「モントルの何?」

 平安装束のまま栄華は首をかしげている。

「お姫様は、これからが大仕事だと言うことです」

 夏見は大きくノビをすると、柔らかなまなざしと笑顔を栄華に向けた。


 当然栄華には、すべてが突然のことで何のことだか、さっぱりわかっていない。ただようやくぼんやりと実感できたのは、自分が暦人御師になったと言うことだった。


 平安時代の国司の赴任状ふにんじょうのように、御厨とタイムゲームの赴任状を手にした彼女には暦人御師としての責任と活躍が期待されることになった。


                                了




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