第3話 ♪ハマヒルガオの咲く浜辺

――暦を司る神さまを時神ときがみとしてあがめる人たちがいる。その使者として時を旅する者たちは暦人こよみびとやカレンダーガールと呼ばれている。その時間移動には太陽と月の光、そしてそれらを祀る場所に開く「時の扉」が使われる。いにしえより続く、限られた人たちだけが、その役目のために隠密行動で時を超える。そして彼らの原動力は、いつの時代も人の世のやさしさ――


 長慶子ちょうげいし時巫女ときみこ

 ここは長慶子の時巫女の館。渡良瀬川わたらせがわの一望できる畑のど真ん中である。小さな数寄屋造りの建物だ。

 ここに長慶子の時巫女はもちろんのこと、梁田御厨やなだのみくりやの暦人御師である八雲半太郎やくもはんたろうと同じく同御厨の御師、東雲桜しののめさくらが同席している。二人とも礼装、八雲は紋付きの袴、桜は黒のスーツ姿だ。

 相変わらずの藍色の和装姿、二十代後半の姿で長慶子の時巫女は大幣おおぬさを構えて、寡黙に座る。

 三人の中央、テーブルの上には螺鈿らでん蒔絵まきえをふんだんにあしらった漆製の木箱が置かれている。花菱に時計のマークが刻まれているのもおしゃれだ。光沢も優れ、その星空のような美しい文様にはうっとりさせられる。


 そこに八雲は猪口一杯の桂花の御神酒と夕顔の花びらを浮かべる。ご存じ夕顔の実はかんぴょうである。この地域では農家の作物として栽培されているため、容易たやすく手に入る植物だ。

 二品が箱に入ると半太郎は箱のふたを閉じて、軽く綴じ紐を結ぶ。その上から時巫女が大幣おおぬさで一振りして、霊威を込める。

「出来た」

 無言の空間に久々に声がする。しかも三人同時に発した声だ。


「以前に山崎から、希望の時代に飛べる道具を大庭おおば御厨にも持てないものかという相談を受けてね。試しに作っていたってわけ。毎回、桂花けいかの御神酒と夕顔の花が必要になることを考えると実用化にはほど遠いけど、試してみる価値があると踏んで、今回は長慶子さんにも協力をお願いしたのさ」

 八雲の言葉に、

「霊威は一度込めれば、もう十分。毎回はいらないので、この器自体が霊威を持つものになっているはず。毎回の御神酒と花びらさえあれば問題はないです」

 品のよい長慶子の時巫女の説明はいつも的確である。


 彼女の言葉に頷くと八雲は、

「それじゃ、この時の玉手箱を山崎のところに送ってやるかな。せっかくだから時空郵政じくうゆうせいさんを使って、送ってやろう」と玉手箱を風呂敷で結び、桐の箱にそっと落とし込んだ。


「現代に送るのに時空郵政を使う意味あるの?」と桜。

「霊威を落とさないためさ」という八雲の言葉に、時巫女も静かに頷いた。



 湘南・横恋慕よこれんぼ

「でたらめ女」

「でたらめでも何でもいいから、夏夫から手をひけ!」

「なんであんたに、そんなこと言われなきゃいけないのよ」


 少々ややこしい場面である。しかも話の主役である夏夫はここにいない。

 状況を報告すると、神奈川県の相南あいなみにあるフォトギャラリー「さきわひ」のテーブルを挟んで、阿久晴海あぐはるみと三井みずほが口論している。話の中身は、晴海の恋人である不二ふじ夏夫の取り合いである。いわば状況は横恋慕に近い。

 気の強い晴海が本気の涙目で対抗している。ピンクのワンピースでおめかしの晴海は、その姿とは対照的でいたいたしい。


 不二夏夫は馬鹿がつくほどまじめな性格なので、二股をかけるようなことはしない。いわばみずほの独り相撲というわけだ。みずほは、というと、レモン色、見ようによっては芥子色にも見えるミニスカートにボブカット。アクティブな装いである。

 晴海の方からしてみれば、難癖付けられたようなもので、飛んできた火の粉を払うという話に過ぎないのだが、熱くなる性格が仇となり、話がこじれている。


 この眉間にしわを寄せた乙女二人を見守るように、キッチン、厨房には山崎の妻、美瑠みるが頬杖ついてあきれ顔で見つめている。着慣れた夏用セーターとジーンズ姿だ。仕事用の黒いデニム製エプロンをしている。


 その向かいのカウンターからは、有名ピアニストにして、暦人御師(見習い?)の角川栄華かどかわえいかも心配そうに凜とした姿勢で見守っている。赤いヘアバンドに紺地の水玉のワンピースで、これからデートという出で立ちだ。


 このギャラリーの主である山崎は、本日は中央アルプスへと日帰りで写真撮影に出かけている。留守である。


 そして婚約者、夏見粟斗なつみあわとを待っているのが栄華である。待ち合わせで訪れた美瑠の店で、この騒動に巻き込まれた。


 蛇と蛙のにらみ合い。微動だにしない二人。緊張感が空間を包み込む。


「カラン」と音がして、店の扉が開く。

 待ち合わせのために夏見粟斗が入ろうと足を踏み入れる。いつものようにカジュアルタイに、黒いズボン、偏光グラスをかけてやってきた。

 彼の目に真っ先に飛び込んできたのは、テーブルを夾んでにらみ合う二人の姿である。

 瞬時にして勘のよい粟斗は、状況を察した。面倒ごとが起きていると悟ったのだ。


「すみません。間違えました」と静かに扉を閉めて、愛想笑いで帰ろうとした。


 本能が働いたことでの賜物である。そう、出した結論は「退散」である。

 もちろん、それを止めるべく栄華は立ち上がり、粟斗を追いかける。待ち合わせの相手は自分であるから。


「ちょっと粟斗さん!」

 表に出ると、店の駐車場の前で、粟斗を呼び止める栄華。

「何かご用でしょうか?」

 よそよそしく振る舞う夏見だ。こういうときの粟斗は、白々しいくらい惚けるのが上手い。あたかも何も見なかったような素振りである。まあ、彼の側からすれば、『あの状況に巻き込まれるのは、ごめんである』と言うことなのだろう。


「あの二人を止めてくださいよ」

 栄華は手のひらで日差しを遮りながら、急き立てる。

「馬鹿いうなよ。怒髪憤怒どはつふんぬの形相でにらみ合う二人の間に入れるのは、山崎くらいなもんだ。オレは遠慮するよ」

 そう言って車のロックを解除した。

「もう」という栄華に、

「そんなことより、お嬢さん、オレと楽しいことしようぜ」とジョークで逃げる夏見。

「ええ、ええ。いくらでも楽しいことにお付き合いしますから、まずはあっちの件を片付けてください。お楽しみはその後で」と言って、車に乗りかけた夏見の襟首をつまんで、車から引き離す。


 調子のよい夏見も栄華にかかっては赤子の手をひねるように、簡単に現場に連れ戻された。


 栄華に連行されて戻ってきた、ふくれっ面の夏見を見て、美瑠はこらえ笑いで、口を押さえながら「くくく」と身を捩らせている。


「どうした。こどものカレンダーガール」

 

 嫌々そうに晴海に話しかける夏見。彼は晴海のことを親しみを込めてそう呼ぶ。その横には栄華の目が光る。

「あっ、夏見さん」と言ってから、

「この彼女づらした阿呆に、釘を刺していたら、逆ギレされてもう大変」とすがる目で夏見に訴える。

 その言葉に反応して、

「冗談じゃない。あの梁田の一件以来、夏夫はあたいと夫婦になるって決めたんだ」と引かないみずほ。

「はあっ」とため息の粟斗は、少々恨めしそうに栄華をちらりと見てから話す。


「あのな、みずほ。夏夫とこの晴海は、当人だけでなく、両家の父母もお墨付きの恋人なんだ。おまえが割っては入れるような間柄じゃない。前も足利で言ったろうに」


 やれやれという顔で、やっかいごとに覚悟して足を踏み入れた粟斗である。

 そこに「郵便です」と入って来たのが、高島安記たかしまやすきである。年の頃、初老で局長のいすを待つ配達人だ。

「あら、時空郵政さん。こんにちは」と言って、美瑠が厨房から出てくる。

「こんにちは」と顔なじみのようで、彼も美瑠に挨拶を返す。

「どこから?」との問いに、

「それが『時の玉手箱』、っぽいんですよ」と受取書を差し出しながら言う。

「そういう訳のわからないものはきっと梁田からね、中を確認しなきゃ」と受取書にサインをしながら美瑠が言う。


 夏見は、「やっかいなときに厄介なものが送られてきたな」と小声で呟く。

 栄華は気を利かせ、確認の手伝いで、桐箱から中身を取り出した。

 物珍しげに栄華は、テーブルに置かれた蒔絵と螺鈿に飾られた漆塗りの箱を凝視している。彼女は、皆がちょっと目を離した隙に、麻紐で閉じられたその結び目をほどこうとした。それをいち早く気づいたみずほは、「だめだ!」と声を発した。素早く席を立ち、栄華を止めに入るが一足遅かった。


 箱から出た煙幕に栄華とみずほは包まれて、煙が消える。それを見た夏見は、「まずい!」と発して、まるでプールに飛び込むように、二人の後を追い、その煙の中に身を投じた。

 煙の消えた後、そこに三人の姿はなかった。蓋の開けられたままの『時の玉手箱』だけが、ぽつんとテーブルの上に置かれていた。


「厄介なときに、厄介なことが、さらに厄介になった」

 時間の揺れを感じながら、白煙の中を落ちていく夏見。あごに手をやり、困った表情だ。見ると隣で同じように落ちている栄華とみずほがいた。

 パラシュートもないのに、ふわふわとゆっくり落ちている三人。

「雲の中を飛ぶメアリーポピンズみたいね。傘がないのが残念だわ」と笑う栄華。

 そのおとぼけで脳天気な彼女に、残り二人は目をつり上げて、「ふざけるな!」と声をそろえる。かなりのご立腹である。

「だいたい人様のもの、訊いてから開けるだろう。子供かっ!」

 目くじらを立てる夏見に、

「えへっ」と笑いながらはにかむ栄華。

「ぶっとばす!」

 その態度を見ていたみずほはオカンムリである。

 

 一方の残された美瑠たち。ギャラリーに入ってきたのは、送り主の八雲である。

「こんにちは」と声をかけたとたんに、状況のまずさをすぐに感じ取った。テーブルの上に、蓋の開いている玉手箱を見つけたからだ。

「ひょっとして、開けてしまったのですか?」


 仕方ない顔の美瑠は、

「ええ、栄華さんが。それを止めようとしてみずほちゃんが巻き込まれ、察した夏見さんは白煙の中にダイブしました」と簡単に説明を入れた。


 顔を上に向けて、おでこに手を当てる八雲。

「やっちゃった! 一足遅かった」

「ねえ、『時の玉手箱』、ってなに?」と美瑠。

 晴海も寄り添うように「何?」と復唱した。


 八雲曰く、「時間移動装置のようなものです」と説く。そしてズレた眼鏡を直してから続けた。

「カレンダーガールはイースターエッグのようなタイムカプセルで、時間移動することあるでしょう。自分の指定した時代に、自由に」

「うん」と晴海。

「そこまで頻繁に、自由に移動はできない暦人。だけど、それに近いことはできるんです。つまりあれは、同じように指定された時代に移動できるグッズ。念じた時代へと移動できるタイムマシンのようなもの。通常は、箱を開ける前に、どこの時代に移動するかを決めて、念じてから移動するんだけど、今回のはルール違反ですね。部外者が興味本位で開けてしまったんだから。玉手箱を置きっ放しで、どこに飛んだかわからない。しかも彼女たちがここに戻ってくるまで、この『時の玉手箱』は使えない。煙も再生されないと思う。まあ、せめてもの救いは、みずほと夏見が一緒に飛んでくれたことですね。あのピアノ馬鹿のお嬢さんだけでは迷い人になるところですよ」と説明した。


 あまりに納得のいく説明すぎて、美瑠と晴海は、

「なるほど」と深く頷いた。そしてこの時二人が思ったのは、つぎつぎに厄介な物を作る人だな、という八雲という人の人物像である。


 ことの成り行きを知った八雲は、急いで「さきわひ」を出ると、おもむろに電話を取り出す。そして誰かにかけ始めた。

「あ、もしもし。うん。三人。夏見くんと栄華ちゃんとみずほちゃんだ。行き先はわからない。……え、調べられるの?」

 歩きながら、用水路にアゲハチョウがひらひらと飛んでいる横を歩く八雲。意外に相南にものどかな風景が残っている。


 おそらく電話の相手は、今現在の夏夫の母、不二初歩ふじはつほである。この人は旧姓を小宅初歩こだくはつほといい、もと阿射賀御厨あざかのみくりやの暦人御師でもある。そして、今回の物語の鍵となる人物である。


   桜ヶ丘神明宮

 栄華たち三人は、ゆっくりと着地した。静かにランドオンした感触だ。


 そこは見覚えのある神社の境内。いつも使うタイムゲートのある神社。桜ヶ丘神明宮さくらがおかしんめいぐうだ。横浜は桜木町の高台にある。


 なにやら二人の若い女性が彼らの視界に入る。彼女たちからは、飛ばされた三人の姿は見えていない場所だ。

 ひとりは少女。よくある紺のジャンパースカートの制服を着た中学か、高校の生徒。もう一人は白いブラウスに芥子色の膝丈のスカートを履いた二十歳を過ぎたであろう女性だ。

「無理よ」と芥子色の女性が言う。

 不意に声をかけられた制服の子は驚く。突然、背後からの声だ。

「誰?」

 その声に反応するように、返事が返ってきた。優しい声だ。

「私は暦人。女子大生よ。この近くの女子大に通っているの」

 そう言って、日暮れ前、背後から月明かりを浴びて前に出る。

「あなた、自力で自分の時代に戻ろうとしているでしょう?」の問いかけに、無言で頷く少女。どうやら暦人の知識、少しは持ち合わせているようだ。


「見た所、託宣で飛ばされたみたいだけど、使命を果たしたのかしら?」

 女子大生の言葉に少女は首を横に振る。自信のない内気な弱々しい表情だ。見ず知らずの土地に置き去りにされた子供が見せる表情である。

「神社のタイムゲートは、暦人と一緒じゃないと基本的には使えないはず。あなたのようなカレンダーガールが一人では使えないのよ。そもそもゲートの開く時間も違っているわ。あきらめるのね」

 落胆の少女。暦人と称する女性は、ただ突っぱねたい、というわけでもなさそうだ。そこそこのアドバイスもしている。


「カレンダーガールはね、教会のゲートで本来、時代を行き来するの。ましてやこんな月明かりのきれいになりそうな日には、もってこいのゲートが山手の丘にはあるはずよ。あなたのいるべき場所はここではないわ」


 その言葉に少女は、すがるような思いで打ち明ける。

「初めてなんです。時間を飛ばされて、何が何だか……」

「見ていればわかるわ。さっき元町であなたを見かけたときから、ずっと気になっていた。素性は訊かない。でも迷い人なんじゃないか、って思った」

 無言で頷く少女は、今にも泣きそうな表情である。


「どこで覚えたのか知らないけど、あなたのゲートはここではないわ。カレンダーガールなら教会のゲートを使いなさい」


 その言葉に頷くと、

「教会のゲートは山手っていう場所のどこにありますか?」と尋ねる。

「山手の丘のアングリカンか、カトリックのどちらかにお行きなさい。月の角度によってどちらかのゲートを潜ることができるはず。月の光を反射して、ステンドグラスが地面を照らした場所がカレンダーガールのタイムゲートよ」

 その言葉に少女は、「ありがとうございます」とお辞儀をする。


 女子大生は封筒に入ったこの時代のお金を渡す。千円札が三枚。伊藤博文の肖像のものである。少女は臆しながら受け取ると、「いいんですか?」と低い声を出す。


「あなたもいつかこういう役目をするわ。その時は助けてあげるのよ。それが私たち暦人の持つ『えにし』ってものだから。袖振り合うも多生の縁、だもの」


 無言で頷く少女。


 女子大生は優しくほほえむと、

「ゲートで帰れなかった時、それでもだめな時は、東京原宿の表参道の裏路地にある喫茶『ひなぎく』にお行きなさい。そこはカレンダーガールの道案内をしてくれるお店よ」と少女に背を向けながら言った。


 月明かりの中、その女性は、神明宮の石段を降り始める。


「あ、あのどなたですか?」

 少女の問いかけに、彼女は振り向くことなく、「小宅初歩こだくはつほ」とだけ言い残して去って行った。少女はその名前に聞き覚えがあった。母の友人の一人である。

『親切な人だな。タイムゲートを探していることわかって、付いてきてくれたんだ』

 この出会い、少女時代の晴海が今日こんにち持つ、初歩への憧憬しょうけいの始まりとなる。ただし現代の初歩本人は、忘れているのか、惚けているのか、この話題にはノータッチである。


 とにかく、昭和五十年代の空気は晴海に不思議な出会いを授けた。


 一方の初歩は、石段の陰に潜むみずほたち三人に近づくと、

「のぞき見はいけないわ」と親しげに声をかけてきた。

 不意を突かれたみずほと栄華。

「ふん……」と頷くと、初歩は、

榛谷はんがや飯倉いいくらさんってところかしらね。あら船橋殿もいるのね」と皆の素性を見事に当てる。


 初歩は上から下まで確認すると、

「ところで皆さん。あなた方にお願いがあるの。あの子、我が家にとって、とても大切な子なのよ。彼女が無事に山手のタイムゲートをくぐるまで、陰でサポートしてほしいの。託宣はおそらく最初のタイムスリップなので、ゲートを探すことと暦人の知り合いを作ることの二つなの。私が声をかけて、名乗っているので、すでにひとつの目的は果たしている。あとはゲートを探すだけ。私はこれから外せない用事があるから、お願いね」と一方的に依頼をしてきた。


「ちょっと待ってよ」とみずほが言いかけると、

「あっ、春彦くーん!」と初歩は石段下に待つ男性に手を振った。


「えっ?」

 栄華はその言葉で、「夏夫君のお父さんだ」と声を出した。


 初歩は鳥居をくぐり、道路に出たところで、

「ふにっ!」と言って、ベチャッと躓いて転んだ。いや転んだと言うよりも地球に飛び込んだ感じである


「はるひこくーん」

 愚図る初歩の頭を春彦はなでている。


 その横で怒り心頭のみずほ。

「外せない用事は男とデートだろ。あの女! しかもカマトトぶって」


 持ち前の怒りんぼな性格が炸裂中である。

 その横で夏見だけは腕組みをしながら、

「なるほど……」と初歩の実態に納得した素振りだ。普段から実態を見せない初歩の演技力は夏見の想像を遙かに上回るものだった。


 栄華は夏見の横に並ぶと、

「どうしたの?」と夏見の横顔を見つめる。

「栄華ちゃん。君にあんな真似出来るか?」

「真似って、初歩さんの?」

「ああ」


 頷く夏見に栄華は、初歩の、どの部分を真似るのかが分からなかった。

「どうして?」

「東の飯倉、西の阿射賀あざかだからさ」

 意味深な顔で夏見は栄華に微笑む。

 しばらく無言の二人。次の言葉が見つからなかった。あるいは同じ思いを共有していたからこそ、沈黙だったのかもしれない。

 その静寂を打ち砕いたのは、数分後のみずほの声だった。

「おい、夏見。あいつが動き出したぞ。脇参道を図書館方面に向かった」

 我に返る夏見と栄華。互いに頷くと、手を回して呼んでいるみずほの後に続いた。



 山手線?

 晴海は石段を降りるとアスファルトの歩道を横切って、図書館の通用口がある敷地内の道路を歩き始めた。三人も気づかれないように後を追う。


「あいつ、まだ顔立ちに幼さが残っているから十五とか十六歳ぐらいじゃないかな」

 みずほは晴海の状況を推測始めた。

「その頃って、晴海ちゃんまだ、三重のご両親の元にいたはずよ」

 意見を出し合うように栄華も応える。


「いったい何でこの時代のこの場所に飛ばされたんだ。その選ばれた理由がわからない」

 みずほの苛立ちは尋常でない。よほど馬が合わないのだろう。


 二人が状況判断や分析を意見交換する中、夏見だけはじっと晴海の行動を凝視していた。

「これは『時神の粋な計らい』かもな……」

 夏見は思慮深く言葉を吐き出した。


 晴海は視界にベンチに座る初老の男性を見つける。彼はのんびりとたばこを吹かしている。この時代は公共施設の中や敷地でも喫煙が許される場所が多かった。


「あの、おじいちゃん。私、山手線の教会に行きたいんだけど……」

 晴海は男性の座るベンチの前に来ると道を尋ねる。


「はて、山手線……」


 ポワッと輪っかの煙を吐きだす老人。彼は少し考えてから、

国電こくでんだな。この坂を下りて桜木町駅から国鉄こくてつの改札に入りなさい。東横線とうよこせんではなく、国鉄だぞ。改札が別々なので、奥の方の改札だ。そこから水色の電車、京浜東北線で品川まで行きなさい。そこで山手線には乗れるはずだ」と教えてくれた。


 晴海は喜び勇んで老人に礼を言う。

「おじいちゃん、ありがとう」

 晴海はお辞儀をすると、言われたとおりモミジ坂を下り始めた。


「あのバカ。山手の教会と山手線を勘違いしている。人の話、何を聞いているんだ」

 みずほは街路樹の脇に生えている雑草をブチッと引き抜いた。ヤキモキする性格のようだ。

「焦れているのね」

 栄華はお手上げというポーズで夏見の方を見る。

「危なっかしい子だな。子供のカレンダーガール」

 夏見も一言ぽつりと告げる。


「ところで夏見、国電って何だ?」

 みずほの言葉に、

「山手線や京浜東北線、中央線快速電車みたいな都市型の電車のこと。色分けされていた都市型電車の総称だよ」と教える。

「なるほど、そんな便利な言葉が昔はあったんだな」

 みずほは納得しながら、晴海の後を追った。


 桜木町の駅近くになって、みずほは夏見がいないことに気づく。

「あれ、夏見は?」

「えっ、いないんですか?」


 訊かれた栄華もわからずじまいである。

 見れば晴海の前から、お得意の偏光グラスをかけた夏見が、国鉄駅と東横線改札のコンコースをこちらに向かって歩いてくる。


 晴海とのすれ違いざまに、ドサッと持っていたパンフレットらしきものを落とす。

「あっ、すみません」

 晴海は急にしゃがみ込むと、素早く散らばったチラシ類を拾い始める。


 今さっき観光案内所のチラシスタンドでもらってきた山手のパンフレットである。


「ああ、すみません。山手の教会に行ってきてね。あまりにきれいだったんでパンフレット持ってきたんですよ」と故意にしゃがれ声を作って会話をする。

 その言葉に晴海は『山手の教会』と小声で復唱する。

 そして拾い上げたチラシの地図をちらりと確かめた。

「石川町駅」

 夏見は彼女のその言葉を聞き逃さなかった。そしてほくそ笑んだ。


『そうだ。おまえさんが行くのは品川じゃない。石川町だ』と心中で思う。


 彼女はおもむろに笑顔になると、「すみませんでした」と言って、ぺこりとお辞儀をした。おそらくこの夏見の小芝居を晴海は時神のメッセージと勘違いしたのだ。


 夏見に駆け寄る栄華とみずほ。

「やるじゃないか、夏見。だてに年取ってないね」

 みずほの言葉に、

「ほかにもっといい褒め方ないのか。人をじいさんみたいに」とぼやく。

「あたいからしたら、夏見はじいさん、栄華はおばさんだ」と笑う。



 根岸線ねぎしせんを降りる晴海に続いて、一行はひとつ置いた扉からホームに出る。

「あの馬鹿、中華街出口に向かっているよ。元町は反対方向だ」

 乗ってきた水色の電車は扉を閉めて、風とともに山手トンネルへと去って行った。尾灯をトンネルの闇の中で光らせながら、小さくなって離れていく。


『山手散歩マップ』というチラシを改札口で見つけた栄華は、

「困ったわね」というと、夏見の偏光グラスを胸ポケットから奪って、自分にかける。


 きょろきょろと周囲を見回す晴海は、おぼつかない足取りで中華街の門の方に行こうとしていた。


 そこでさきまわりの栄華は、やはり夏見同様に、ドンと彼女にぶつかった。

「すみません」と晴海。


 栄華はわざとらしく地図を地面に落とすと、急いでいるそぶりで、晴海の「あの」という引き留める声を振り切って、その場を離れた。

 晴海は落ちている地図を目にすると、

「あ、山手」と笑顔である。


 栄華は物陰に潜む二人の元に戻り、偏光グラスを夏見のポケットに返す。

「あのトンチキ、結構世話が焼けるな」


 いつの間にか、恋のライバルである筈のみずほも、危なっかしい過去の晴海に世話を焼き始めている。その顔を見て、栄華は優しくほほえんでいる。


 地図を確かめた晴海は、自分が真逆の方向に向かっていることを自覚した。方向転換をして、中村川へと足を運び、運河沿いを歩いて、元町商店街に足を踏み入れる。


「わあ、きれいな雑貨屋さん」

 みるみる間に元町のショーケースに映るドレスや雑貨に目を奪われる晴海。三重県の田舎で育った彼女にはファッションセンスのよいこの町の風景が、おとぎ話の世界に見えているようだ。


 代官坂を登り始めた晴海は、交差点にたって複数の教会の建物が地図には載っていることがわかる。緑のとんがり屋根の教会が目の前に現れた。

「シンデレラ城みたい」


 目を輝かせて独り言をつぶやく晴海。


 その言葉を聞いて、みずほは、

「なーにが、『シンデレラ城みたい!』っだ」とあきれ顔で真似をした。しかもオーバーリアクションのアドリブで、両手を胸の前で握りしめて、乙女チックな演出まで加えている。


「そこまで可愛い子ぶっていなかったろう」と夏見は、彼女の演出が作りすぎていることを指摘する。


 月が東の空高くに、黄色の光を放つ。かなりの光量があり、ステンドグラスの反射には十分な量である。見れば、地面に落ちたその七色の光は、影絵の渦巻きのようにぐるぐると回り始めている。


「あの場所がタイムゲートだ。上手く誘導しないといけないね」

 夏見の、その言葉が出たときには、すでにみずほの姿はそこにはなかった。夜の闇がみずほの顔を隠してくれている。背格好とたまたま身につけている衣服、スカートの色が芥子色で遠目には、神社で会った初歩に見える。


 みずほは晴海の手を無言で引っ張ると、一目散に教会の庭先、アスファルトに落ちる七色のゲートへと走る。


 いきなり手を取られた晴海は驚くが、握っている相手が初歩であると思い、安堵する。


「初歩さん」

 晴海のその声が早いか、みずほが晴海の体をゲート上に押し出すのが早いかわからない、間髪を入れない一瞬の出来事だった。晴海の体はホールの中に沈んでいった。

「初歩さん、ありがとう」と言う言葉を残して。


「ふう」と言う声に、額の汗を拭うみずほ。


 横ではいたずらな目で、何か言いたそうな栄華。

「なんだよ」とみずほ。

「嫌いな割には、優しいのね」と上機嫌だ。


 みずほは少しだけ赤くなって、そっぽを向くと、

「暦人御師としての任務を遂行したまでだ。迷い人になりそうな人間を元の時代に戻す。当然のことだろう」と正論で逃げた。


「まあね」

 後ろで手を結びスキップの栄華。相変わらずのご機嫌である。

「栄華。あたいを馬鹿にしているだろう」


 みずほの言葉に、

「いいえ。見直しているの。結構すてきだなって」と臆することもなく褒める。


「ふん。ものは言い様だな」


「おへそが、横っちょについている人と意思疎通するのは大変だわ」

 栄華は笑っている。


「あたいがへそ曲がりってことか?」

 謎めきながら、「さあ?」とだけ答える栄華。

「ふん」


 答えそうもない栄華にあきらめたみずほは、教会の建物を背に夏見に問いかける。


「とりあえず、あのトンチキはタイムゲートに放り込んだ。後はどうすればいい」

 夏見はあごに手をやりながら、

「だよな。自分たちの帰路を考えないとな」と肩を落とす。


 すると三人の前に人影が近づいてくるのがわかる。山手本通りを山手資料館方面からゆっくりと歩いてくる。芥子色のスカートに白のブラウスである。遠目にもそれがわかる。


「小宅初歩」と人影を指すみずほ。

「皆さん、ご協力ありがとう」

 相変わらずふわふわした雰囲気で話しかける初歩に、

「おまえは情緒不安定か?」と言葉で噛みつくみずほ。

 すると首をかしげながら、頬に人差し指をつけたポーズで、「……かな?」と頷く初歩。

 がくっと、拍子抜けのジェスチャーを見せるみずほは、

「つかみ所のない女だな」と対戦意欲を失ってしまう。あまり彼女の周りにはいない人種だ。


 夏見は軽くお辞儀をすると、

「阿射賀殿ですよね」と尋ねる。

「はい。臨時で預かっていますが、そのうち正式な御師は誰かが選ばれると思います」

「今回の晴海ちゃんの件。なぜあなたが知っていて、なおかつ自分で助けずに我々にやらせましたか?」と訊ねる夏見。みずほとは違い大人の対応だ。


 夏見のまじめな顔を見て、

「にゃん!」と笑う初歩。


 眉をひそめて渋い顔で小首をかしげると、「にゃん……?」と復唱する夏見。


 おふざけが通用しないと悟った初歩は仕方なく、拳を口に当て、「コホン」と咳払いを一つしてから説明を始めた。


「彼女は私の親友の娘。あの子を、どうしても一流のカレンダーガールにしたいので、時空を超えて監視しています。飯倉さんは、ご存じかもしれませんが、私たち阿射賀御厨のものは、飯倉さんと同様に、行きたい時代飛ぶこともできます。そのほかに、制限はありますが、未来の自分と時空郵政で、手紙のやりとりだけは許されています。未来の自分が過去の自分に送ることができる一方通行の手紙です。ただし中身を口にすることはできません。なので結果のわかっている出来事や案件でも、自分で手出しは御法度。従って本日はあなた方にお力添えをお願いした次第です。でないと時間が揺れてしまうのです」


 正直驚いている御師の三人組たちである。未来の自分から手紙を受け取る権利を持っている阿射賀御厨御師の特別扱いは、その地位の高さからだと実感している。そして栄華もそれに準ずる特権をいずれ行使できるということにも驚きを隠せなかった。


「……ということは、この時代に私たちを呼んだのはあなたと言うことになりますが?」


 夏見の言葉に、笑顔で頷く。

「時の玉手箱を開けるだろうなって思っていました。扇沢でお魚逃がした時みたいに」


『知っているんだ』と心中で思う夏見。


 雰囲気を察知した初歩は、

串灘くしなだの時巫女が教えてくれました」と先回りをして説明する。

 串灘の時巫女は西日本を管轄する時巫女で、伊勢、下鴨、太宰府などの各神社をねぐらに飛び回っている。絣の着物に草鞋わらじ、藁笠を頭にかぶり、旅姿のお公家さんという出で立ちや、あるいはお伊勢参りの白装束などで皆の前には出てくる。見た目は三十代半ばの姿だが、実年齢は何百年も生きていそうだ。


 初歩の言葉に、ターゲットはまたしても自分かと、栄華は己の馬鹿さに苦笑した。


「栄華が馬鹿なお魚さんになって、釣り上げられた訳ね」とみずほ。呆れ顔だ。

「それに後追いで飛びついて、我々も一緒に釣り上げられたという訳か」と続く夏見。


 夏見は今回の一件をしこんだ張本人の初歩に質問をぶつける。

「時の玉手箱、どうすれば我々は自分の時代に戻れるかな?」


 初歩は少しだけ笑うと、

「あなた方から夕顔の香りがしています。おそらく桂花の御神酒と夕顔の花弁を箱に詰めたと思います」と言う。

 みずほは自分の袖を口元に持っていき、香りをかぐが特にそんな感じはしない。


ところが栄華だけは、

「かんぴょう巻きの香りがします。ちょっと乾いた感じの果実のような」と自分の腕のにおいを述べる。


「さすがね。文吾さんと同じ血を引くだけのことはあるわ。その感を忘れないことね。暦人御師としての第六感。でもいつも見せちゃだめよ。ここぞと言うときだけ」


 初歩はそう言うと、一枚の紙切れが結ばれた柄杓ひしゃくを栄華に渡す。栄華は無意識に手を出してそれを受け取った。それは大叔父、『文吾』の名前が普通に彼女の口から出てきて、そちらに意識がいって、気もそぞろになったためだ。


 初歩の言葉は、まとめ役、御師頭おんしがしらのアドバイスにも聞こえた。


 いつの間にか、教会の敷地の外には、さっきの春彦ともう一人の男性が待っていた。

「初歩ちゃん、春彦がもう行こうよ、って行っているけど」

 心配そうな顔つきで男性が言う。


「ごめん。今行くわ。十河そごう君、もうちょっと春彦君のご機嫌取っておいて」

 初歩の拝み倒しのポーズに、親指を立てて了解のサインを送る十河という男性。どうやら春彦の友人のようである。


「ごめん、もう行かなくちゃ。時間が揺れると困るから、これで会話は終わり。お土産にその柄杓に結んだ紙にある歌、どうぞ。音符遊びって感じ?」


 そう言った後、初歩は栄華に渡した柄杓と紙を見つめた。そして一通の封筒をおもむろに差し出す。

「一万円入っているわ。これで夜露はしのげるはず。自分の時代に帰れるといいね」


 初歩は、軽く右手を挙げて、「さよなら、未来人さんたち」と笑う。そしてみずほの手を持って、彼女の腕時計を確かめる。

「いい時計ね。参考になったわ」と笑う初歩。


 そのまま曖昧に微笑むと、待ち人たちの方に走っていった。芥子色のスカートを翻して。


 栄華は我に返ると、渡された柄杓に結ばれた紙を広げる。夏見とみずほも囲むようにその紙を見た。

『<wholenote halfnote quarternote-rhythmとlimeは『二銭銅貨』よりイージーよ>


かわいいえはがきの海辺

あたたかい日差し

まわるせかい

はまべの妖精

いま夢の世界

あのこはソーダ水を飲み干した

またみつけた麦わら帽

まひるのおくに焼き付いた

もうみる人もいない黒髪

がまんを忘れない

なお、おかしな台詞で

君も粋さそれでもひと夏

がぜん、夢で逢えるから

今せなかあわせの定め



おりかえす風は

きみに夢を映してる

ためいきひとつもれる夏

まじめなこころ

カゼも吹かないむねの傷あと

なおすよ、ひとりで


追伸 手水ちょうず用の柄杓は戻った時代の町山田の日月社に戻してください』


 そのメモを読み終えたみずほは、

「ふざけているのか? それともあの女、脳みそいかれてるのか? とんだ、いかれポンチだ」と怪訝な顔をする。


 メモをじっと見つめる夏見。


「音符遊び、って言ってたわ」

 栄華の言葉に、

「どこに音符があるんだ。この歌詞の」とやんわり訂正を入れる夏見。


「あたいも思った。あの女、言葉知らないのか? って思った」

「音符って、なんか隠し文字でもあるのかな?」と夏見。

「見る限り普通の紙だ」


 みずほも腕を組み首をかしげる。


「音符と通貨に繋がりはあるのか?」と夏見。

「まだイージーとはどういう意味だ?」


 みずほの言葉に、

「稼ぐのが楽?」と栄華。

「そんな安易な文章のわけあるか……」

 みずほは理解できない苛立たしさの中にいた。


 夏見は、

「二銭銅貨という文字を二重カギ括弧で括っているところに引っかかる」とやはり不思議顔である。

 そして「だいたいにして、ここは昭和五十年代の中頃であり、銅貨と言えば、自分たちの時代と同じ十円と五円玉だ。彼女はなぜそんな昔の通貨を持ち出したのか」と加えた。


「ググっちゃえば?」と栄華。

「どこにそんな機械売ってんのさ?」

 みずほが「ゲームウォッチがいいとこだ。ファミコンすらまだないよ」とお手上げのポーズをとる。

「そうなんだ」


 納得していないような顔の栄華に、

「栄華は、明治維新と一緒にIT革命がやってきたと思っているか?」とみずほ。


「まあ、そんな感じもする」

 まさかの肯定で、怒る気もしない二人は項垂れた。まじめにこんな返事をされたときには怒る気もしない。


「二重カギ括弧は通常は、心の中の台詞や書名などのタイトルに使うのが一般的だ」


 まともなことを言った夏見に、みずほは、

「たまにはまともなライターのようなことを言うじゃないか」と茶化す。


「ま、一応、それでご飯食べてます」と偏光グラスの目線をそらして、照れを隠す。

 そんな無駄話の途中で、みずほが、急に目を見開く。

「思い出した!」


 仰け反る夏見の両肩を持って、揺さぶるみずほ。

「山崎から昔聞いたことある。『二銭銅貨』だ」

「どした。何、思い出した」

 揺さぶられて、少々めまいがしているおじさんは瞬きを連続しながら応える。


「江戸川乱歩の推理小説だ」とみずほ。

「おう。そんなんあったな」


 肩を押さえて、左腕をぐりぐり回す夏見。本調子ではないようだ。突発的な肉体への負荷には強くない年齢である。

「解読の法則ルールがあるぞ、って、注意や喚起かもしれないね」


 そして説明を始めようとしているみずほに、

「とりあえず丘の下に降りないか。山手の教会の前で俺たち、長時間にわたり雑談している奇妙な集団に思われてしまう」と提案をする。

 辺りを見回せば、日もとっぷりと暮れ、夕闇が住宅街を包んでいた。



   伊勢佐木町

 駅で言えば、関内と桜木町の中間、どちらかと言えば、関内よりというのが、今彼らのいる場所だ。


「ここにオレの行きつけのジャズ喫茶がある」

 夏見の言葉に、

「大丈夫なのか。時代が違うぞ」とみずほ。

「ああ、店主はもと暦人だ。カレンダーガールとも言う」

 その言葉に栄華もみずほも安堵した。


「オレぐらいの暦人御師になると、いくつかの時代に待避場所を持っているのさ」


 別に自慢したわけでもないのだが、結果的にそう聞こえてしまったため、みずほは、

「おうおう。ぽんこつおじさんの年ぐらいになると、ってことだな」と私的な解釈を入れた。


 へらへらと笑いながら、

「まあ、それでいいや」と夏見は独りごちた。


 駅からの道筋は、大通りを背にして、伊勢佐木ショッピングモールが続く。百貨店や飲食店が建ち並ぶ、元町と双璧をなす巨大な商店街である。

 小道を横に抜けると、運河沿いに出る。その片隅に、鉄のアームにぶら下がる木の看板、そこに彫られた『Monk』という店名が目に入った。


「セロニアス・モンクからかしら?」

 栄華の言葉に、

「お、知っているんだね」と夏見は笑顔になる。


「まあ、有名なピアニストなら名前ぐらいは」とおどける。

「さすがピアノ馬鹿」

 夏見流のこの褒め言葉に、栄華がふくれっ面をしたのは言うまでもない。


 木戸を押し開けると、夏見は、

「ケイトさん」と親しみを込めて呼ぶ。

「あら、アワト、ゴーバックヒアね」

 女店主はカウンター越しに親指を立てた。


 店内の壁には、彼女の身長よりも高いスピーカーが、対をなして置いてある。そこからは心地よいジャズが流れていた。客がいないのと、夜になって近所の手前もあり、ヴォリュームは控えめになっているようだ。


「実はさ、今晩この時代に一泊になっちゃって、連れも含めて三人なんだ」

 カウンターに向かうと、夏見は身を乗り出して拝み倒す。

「イイヨ、別に。バックルームには簡易ベッド三台アルヨ」


 みずほは、「どうなってんだ?」と栄華に尋ねる。

「私に訊かれてもさっぱり」

 そう言った矢先に、栄華の目には古びた漆黒のピアノが目に映る。アップライトだが、手入れが行き届いているのが、外観からでもわかる。

「ヤマハのU1シリーズね。一九六〇年代のトップランナー的なアップライトだわ」

 ボディを掌で、すっ、となでると、「桜材の質感と外塗装剤の光沢がなじむのよね」と幸せそうな顔をした。


「アワト、彼女は誰?」

 ピアノに詳しい栄華を見て、ケイトが訊ねる。


「ああ、彼女は婚約者。ピアニスト、御厨の御師でもある」と伝えると、

「うーん」と含み笑いをして、

「何か弾いていいよ」と厨房から栄華に言う。


 栄華は首を横に倒して、曖昧に頷くと、

「じゃあ」と言って、鍵盤蓋を上げる。中の布製の黒い鍵盤カバーを慣れた手つきで畳むと笑って、「一曲」と言って、椅子に座った。


 彼女の独特の演奏前のフォームである、胸の高さから落とす第一音がドビュッシーの「月の光」を緩やかに奏で始めた。


「サードムーヴメントね。ドビュッシー。クラッシックか」


 ケイトはそうつぶやくと、カウンターに頬杖をついて、心地よさそうに目を閉じる。

「上手いね」


 ケイトの言葉に夏見は、

「2010年代の国際モーメント金賞ピアニストだ」と言う。


 ケイトはその言葉に、閉じていた目を見開いて、

「モーメント! ブラボーだね」と驚く。そして「なんでこんなところで暦人やっている? なんでアワトと婚約した?」と疑問を次々ぶつけてきた。


 演奏が終わると、ケイトはありったけの拍手を贈った。

「ユー、すごいね」

「ありがとうございます。夜なんで音を気にしてました。この時代のピアノは弱音ペダルがないことが多いから、指先そのままの音でハンマー頼みでしたけど、結構いい弾き心地でした」


「ところで」と切り出したのは、みずほだ。

「あたい……」

 みずほの言葉を遮って、「おお、こっちの若い子は誰?」とケイトは粟斗に尋ねる。

「榛谷御厨の御師、三井みずほだ」と紹介する。

 その言葉に会釈するみずほ。


 ケイトはみずほに「よろしく」と言うと、

「訊いてばかりじゃ悪いから、ワタシの身の上も言うね。生まれはニュー・ヨーク。アメリカ人ネ。主人は日本人で、このお店のオーナーだった。今は喫茶だけど、昔はジャズライブもやっていた。そしてワタシ、娘に譲るまではカレンダーガールとして、結構な回数、各時代を飛び回っていた。だからこの店、暦人やカレンダーガールの仲間がよく遊びに来るネ。準講元宿って言われるよ。もしミズホも困ったら来るといいよ。勿論エイカもネ」と自己紹介をした。


「そんなわけで、演奏者のために、この店の奥には楽屋がある。そこに簡易ベッドがあるネ。二部屋あるので、女性二人は同じ部屋で、アワトは一人で使うといいネ」

 三人は揃って「ありがとうございます」と礼を述べる。


「ところでレイのあれは終わっているの?」


 レイの、とは託宣の解読のことだ。飛ばされた暦人は真っ先にそれに取りかかるため確認する。

 ケイトの言葉に、「いや、託宣と言うより、今回は自分の時代に帰る方法を探しているんだ」と言う粟斗。

 驚きのポーズで両手を口元に「迷い人になった? でも神社のゲートで帰れるだろ?」と熟知した答えを返すケイト。


「話せば長くなるんだけど、今回は、飛ばされたときと同じ方法で帰らないといけないんだ」

 夏見の言葉に、「うーん。どんな方法?」とケイト。


「時の玉手箱、って言ってね、開けたとたんにこの時代に飛ばされた。それで帰る方法を教えてくれたヒントの紙があるんだ。でも未来人に直接教えられないと、謎解きにされちゃったんだ。カレンダーガールなら、問題ないから、ケイトさんのところに相談に来たのもある」

「なるほど。たしかに時神さまは、カレンダーガールが禁句を話しても、地震を起こしはしないね。ちょっとした異変はたまにあるけどね。まあ、暦人同士よりは安全だ」


「でしょう」と相づちの粟斗。

 そこで夏見は栄華に合図を送る。

 栄華はすぐに察すると、手元のメモ書きをケイトに見えるようにカウンターテーブルに広げた。


『<wholenote halfnote quarternote-rhythmとlimeは『二銭銅貨』よりイージーよ>



かわいいえはがきの海辺

あたたかい日差し

まわるせかい

はまべの妖精

いま夢の世界

あのこはソーダ水を飲み干した

またみつけた麦わら帽

まひるのおくに焼き付いた

もうみる人もいない黒髪

がまんを忘れない

なお、おかしな台詞で

君も粋さそれでもひと夏

がぜん、夢で逢えるから

今せなかあわせの定め



おりかえす風は

きみに夢を映してる

ためいきひとつもれる夏

まじめなこころ

カゼも吹かないむねの傷あと

なおすよ、ひとりで




追伸 手水ちょうず用の柄杓は戻った時代の町山田の日月社に戻してください』


「おお、歌詞かな?」

 その言葉に夏見も、

「そう見えるけど、なんかの暗号文みたいなんだ」と加える。

「うん。音遊びのルールだね」とケイト。

「どういうこと」

「リズムとライムって書いてあるから、日本語の、うーん、押韻おういんに相当する?」

「欧米人は音節で韻律を組み立てるけど、日本人は文字の順番で韻を踏むね、そのルールを拾えってことよ。簡単に言えば、toyとjoyのoとyの音が同じなので引っかけているね」


「ルールがあるから、それを使って読めってことが、これのメッセージな訳ね」と栄華も納得する。

「ってことは、wholenote halfnote quarternoteがタイトルではなくヒントってことか?」


 夏見の言葉にみずほが頷く。

「ハーフノートって、半分の帳面だね」

「全部の帳面、って、言葉は変だ」


 栄華は「うふふ」と笑う。


「どうした、気がふれたか?」とみずほ。

「私、読めちゃいました」と栄華はみずほのぞんざいな扱いを相手にせず、嬉しそうである。


「一行目は一番目。二行目は二番目。三行目は四番目、四行目はまた一番目って、文字を拾っていくと文章になったわ」


 栄華の言うとおり、皆で文字を拾う。

「か、た、せ、は、ま、は、ま、ひ、る、が、お、さ、が、せ」

 夏見の言葉を換言するみずほ。

「片瀬浜、浜昼顔探せ、か」

「あいつ確か、夕顔はどうのこうの、って、あたいたちに言っていたね」

 二人は相づちを打つと、そのまま解読を続けた。


「そして、お、み、き、ま、ぜ、よ」

「御神酒混ぜよ、だって」

「確かに文章になっている」とみずほ。


 彼女は不思議な顔で、

「どこにルールなんか書いてあったんだ」と栄華に訊く。


 栄華は、

「答えは音符です」と言う。

「さっきも言ったけど、音符なんかどこにも書いてないだろう」

 あきれ顔のみずほ。


「あるわ。wholenote halfnote quarternote、って書いてあるじゃない。これらの意味は全音符、二分音符、四分音符って意味で、数字なら1/1と、1/2と、1/4ってことになるわ。章節を文章の行に置き換えれば、各行段の一文字目、二文字目、四文字目ってことになるわ」

「留学先で学んできた栄華じゃないと、英語の音符名称の解釈きつかったな」とみずほ。


「たまには私もお役に立つものですね」


 謙遜する彼女に、

「いやいや、助かったよ。着実に自分の持ち前の分野と経験が重なってきてる。暦人としても回り始めた感じだ」と夏見は嬉しそうだ。その言葉に、栄華も控えめながら、嬉しそうに笑顔を見せる。


 かたやみずほは、

「それにしても、こんな謎解きさせて、いったい、小宅初歩は何者だ?」

 みずほの言葉に「夏夫君のお母さん」と夏見。


「そうじゃないって、あたいが知りたいことは」


 夏見は真顔になって、みずほの言葉を遮ると、

「阿射賀のことは我々にはわからないよ。小宅家の人しかわからない。ただ言えることは浜昼顔を海岸の砂浜で探せば我々は戻れると言うことだ」と言う夏見。


「そうだな」とみずほ。初歩のことは、自分たちには遠すぎて理解できないという夏見の意見を感じ取って同調した。


「つまり行きは夕顔で、帰りは昼顔を使えってことね」と栄華。

「正確には夕顔はウリ科の植物で、浜昼顔はヒルガオ科の植物だが、いいのか?」


 夏見の素朴な疑問に、

「御師の時空ルールが作られたときに、現在の学問上の分類ルールなんてなかったんだから関係ないだろう」とみずほが言う。


「こういうときのみずほの屁理屈は役に立つ」


 夏見の言葉に、

「褒めてないな。うん」と渋い顔のみずほ。


 ことの推移を静観していたケイトは、謎解きが完了したことを受けて、

「明日のことは、大丈夫そうネ。そしたら私は帰るから、火の元だけ気をつけてお休みになってよ」と頷く。彼らが謎解きをしている間に、オーディオ・アンプの電源や厨房の元栓、電気系統のスイッチをすっかり消していた。


「ありがとうケイトさん」

 夏見に続いて二人も深々とお辞儀をする。

「明日朝早くに来て、朝食作ってあげるから」とドアを閉めた。


   片瀬浜

 仮眠をとった三人は、朝の味噌汁の香りに目を覚ます。

 ブローした髪で姿を見せたのは栄華である。

「洗面所借りました。髪を洗いたかったので」と言う。

 ケイトは、

「オーケーね。あるもの使っていいよ」と忙しそうである。

「何を作っているのかな?」

 栄華が近づくと、

「おむすびネ」と笑うケイト。

「おいしそう」と栄華。

「うん。アメリカ人の作るおむすび、結構いけるヨ。日本では昔から『産霊むすび』というのは重要な神さまの言葉。万物の生まれや息吹の象徴ネ。生まれたてや生まれるを意味する、命は『むすび』の心と合致するもの。だから、おむすび、朝から食べて今日はみんな験担げんかつぎをするヨ」


 意外に古風な日本のしきたりを知っているケイトに微笑むと、

「ご馳走になります」と栄華は軽く手を合わせた。

 少し遅めの起床で、のこのこと残りの二人もケイトの元にやってきた。

「おー、おむすびだ。ケイトさんの朝食は、いつも純和風だ。痛み入る次第です。ふぁー」と夏見はあくびをしながら、お辞儀をする。




 寝坊した三人、ケイトの朝食を食べ、電車で絵ノ島付近にやってきた。

「竹で編んだ防砂柵の根元あたりに結構浜昼顔は見られるよ。内陸性の昼顔と違って、葉は小さくて丸い、地下茎が蔓のように発達して、柔らかい砂地でも、海風に負けないようにしっかりと根を張っているはずだ。もともと種が海流によって流れ着くように、種族保存の手法をとっているから、このあたりなら相南あいなみから茶が崎の海岸一体に見られる植物だ。砂浜のある場所なら北海道から九州まで自生している。もちろん海外の似たような海岸でも見受けられる。漢方薬の原料でもある」


「あったわ」と栄華。

 薄いピンク色に白い縁取りがなされた、見た目上品な花である。ひらひらと風になびく姿もまた風流で愛しい。


「しぼんでいるものでいいよ」と夏見。そして「せっかく誇らしげに咲いているものを崩す必要ない。終わったもの花びらの一欠片だけをいただこう」と加える。

「はい」

 栄華がそう言うと、彼らの背後から男性の声がした。


「おい、粟斗だな」

 みずほは声の主を見て『木彫りの熊?』と心中思った。


 一方、夏見にとって聞き覚えのある懐かしい声だ。


 彼は振り向くと、そこには角川文吾の姿があった。火消しのお頭みたいな装束で、大男。気っぷのよい、笑顔が、久しぶりに、夏見に何とも言えない爽快な気持ちを呼び起こした。


「文吾さん!」

「おまえさん、年食っているから、未来から来たな」

『やっぱりわかるよな』と内心、感心する夏見。


「なんでここに?」という夏見の疑問。

「そりゃ、こっちの台詞だ。小宅んところの初歩が、おっちゃん、明日片瀬浜に行ってみて、っていうから、来てみたらこれだ」

 ケラケラと笑う文吾は、ご機嫌だ。


 二人の会話を静観しているみずほは、

『小宅初歩め、伏線を仕込んでおきやがった。あたいたちに何をさせたいんだ』と心中頷く。


「文吾さん、その手に持っているのは?」


 夏見の言葉に、

「おう、これな。初歩のやつが、片瀬浜で一番最初に出会った知り合いに渡して、なんて言いやがる。いっちょ前に暦人気取りだ」と笑った。


 その台詞が夏見に聞こえているかどうかは微妙なのだが、彼は硬直したまま、手に持った箱を指さしたままで固まっている。

「どうした? 夏見」

 文吾の問いかけに、ようやく我に戻った夏見は、

「それ、時の玉手箱!」と声に出す。


 夏見の言葉に、栄華とみずほもようやくことの重大さに気づく。

「おう、そうよ……」と言いかけた文吾。かっ、と目を見開いて、

「おまえたち、まさか玉手箱開けたのか?」

 一同は無言で頷く。

「それでここに来たのか? 昼顔の花びらを見つけに」と文吾。


「夏見。おまえがいながらなんてざまだ」と軽くなじる文吾。だが嫌みな言い方ではない。


 文吾の言葉に、

「いや、オレは止めに入って巻き込まれただけだから」と渋い顔で返す。


 文吾は夏見を指さすと、カラカラと笑って、

「ざまねいえや」と嬉しそうだ。そして「おかげでこうして、おまえさんと会えたんだ。こんなに嬉しいことはない」と続けた。結構ポジティブな性格の持ち主だ。


「ほれ、これに入れて帰れ」

 文吾は夏見に玉手箱を差し出した。そしてポケットからウイスキーの小瓶を出して、それも渡す。


「この中に桂花の御神酒が入っている。一緒に注げば、時の玉手箱の完成だ」と伝える。

「ありがとう、文吾さん」


 夏見の言葉に、

「水くせえこと言うな。オレとおまえの仲じゃねえか」と再び笑う。

「詳しいことは聞いてねえが、きっと初歩のやつ、おそらく葉織に頼んで、未来から回収してきたんだな。カレンダーガールは目的の時代に飛べるからな」

 皆、文吾のその仮説の裏付け行為を思い出す。


 みずほは、初歩が自分の腕時計を確認した行為に思い当たる節がある。彼女の腕時計の時計盤の中央に、もといた未来の日付のままのカレンダーが表示されている。


「あの女、すごいな。ふざけているフリして、ほとんど抜かりがない」


 腕時計をしげしげと見つめて、みずほが吐いた台詞に、栄華も事の真相がわかったようで、

「あの別れ間際の時計を褒めてたことでしょう」と言う。


「ああ、夏夫の母ちゃんには完敗だ。絶対あの女には、暦人の力で、あたいは勝てない」

 みずほは自信という高い鼻を、ポキンと折られてしまったような気分だった。


 会話する二人に、文吾は、

「こちらのご婦人二人は?」と尋ねる。


「一人は榛谷の跡取り」と夏見の紹介に、

三井三右衛門みついみつえもんの末裔か……」という。

「じいさまだ」と頷くみずほ。


「もう一人は、未来の飯倉いいくら殿」

 夏見の言葉に「何? オレの跡継ぎなのか? このきれいなお嬢さんは」と笑う。


 栄華の身の上を文吾に教えた夏見に、彼女は少し驚いた。

 夏見は、「大丈夫、暦人同士だし、二人の接点は、物心つくあたりまでしかないから、話してもいいよ」と優しい笑顔で栄華に許可する。


 その瞬間に栄華の心に中に押し寄せる感動と嬉しさの渦。ほろりとうれし涙が頬を伝う。

 そして次の瞬間突然、「わーん」と手放しで泣きじゃくる栄華。

「おじさま。会いたかった!」

 言葉が早いか、身が早いかはわからないが、栄華は文吾の胸に飛び込んだ。

 鼻水と涙を押しつけられた文吾は困った表情で栄華を抱きかかえる。


「なずがしい。小さび頃、膝にのぜでぐれたどきの、おじはまのにぼいだ」


 ぐちゃぐちゃの栄華の言葉に、

「泣くかしゃべるか、どっちかにしろ」とみずほ。


 優しく栄華の頭を、トントンとなでながら、困った表情で文吾は、

「どういうこったい。説明しろ、夏見」と横を向く。


「文吾さんの後、あすかさんが暦人御師をしているんですけど、時神さまの託宣で、分家の栄華さんに白羽の矢が立ったのです。オレはその教育係兼婚約者ってことです」


 夏見の説明を神妙な面持ちで聞いていた文吾。

「栄華ちゃん? するってえと、オレが、昨日善子ちゃんちで、ガラガラで遊んでやったベビーベッドで笑っていたのが、このお嬢さんなのかい? 『産霊むすび』だねえ。万物の息吹に御厨も助けられる」


 夏見は笑うと「おそらく」と頷く。


「かー。あの赤ちゃんは、飯倉御厨の救世主になるのか」

 驚きを隠せない文吾。


 栄華の両肩に手をのせて、顔を見つめる文吾。

「栄華ちゃん。うちの御厨、よろしく頼んだぞ」

 かみしめるような言葉に、

「ふぁい」と返事する栄華。涙をぬぐいながら、一生懸命の返事だ。


「おーい、ブンさん」

 遠くから、手を振る三十代の男性が数人。

「あれ、ひとりは山崎のじいちゃんじゃないか? 山崎のじいちゃんは見覚えあるぞ」

 みずほの言葉に、文吾は、

「よくわかったな。山崎靡助くんだ。大庭御厨の。もうひとりは、町山田の不二秋助くん。そして足利の……」。と言ったとき、夏見の顔が曇る。

「文吾さん。オレたちが、ゲンゴロウさんに今会うとまずいことになる」と夏見。みずほも頷く。


 文吾は、

「パラドクスだな。わかった、おまえさんたちは、玉手箱を持って、早くここを立ち去れ。オレが安全な方に彼らを誘導するから」と言う。

「ありがとう。文吾さん、会えて嬉しかった」と夏見。

「オレもだ。今度、次回は玉手箱は手に持ったまま開けろよ。じゃないと自分たちだけが移動して迷い人になるぞ」と文吾。

「了解。肝に銘じておくよ」と夏見は頷く。


 そして「栄華ちゃん、後のことをよろしくな」と残して、文吾は笑顔でその場を立ち去った。

 三人は文吾に一礼して手を振ると、湘南海岸公園の園内の砂浜を、水族館とは逆の方に歩き出した。


再び湘南・横恋慕の続き

「あ、戻ってきた」と美瑠。一行は元いた場所にそのまま戻ってきた。

「よかった。現代だ」と栄華。


「今し方、数分前に時空郵政さんがいらして、玉手箱を回収していったのよ。高島さんだったと思うけど。もう手元に届いちゃうんだ」


 玉手箱を持ったままの帰還をした夏見を見た美瑠は、不思議な顔である。


 夏見は、

「おそらく、ここの外で過去の時代の葉織さんが待機していて、その玉手箱を時空郵政のタイムゲートを使って、我々の飛んだ時代に時空郵政さんと一緒に届けてくれたんだよ」という。


「おかあさんが?」と晴海。

「いったいどんな複雑な状況に巻き込まれたのよ」

 その言葉に夏見は、

「また改めて。整理ができたら教えるよ。もう頭ん中ぐちゃぐちゃ。こんなわけわかんないタイムスリップ初めてだ」と疲れ笑いをした。


そして「でも玉手箱回収のプロセスはあくまで推測だけどね」と付け足した。


 美瑠は「やれやれ、ご苦労様」とねぎらった。

 その横で、睨み付けるよな鋭いまなざしでみずほに目をむける晴海。

「待っていたわよ」と臨戦態勢の晴海。


 ところが当のみずほは、

「夏夫はあげるわ。あたいには荷が重い」といきなり戦いを放棄した。

「ん」と顔を見合わせる美瑠と晴海。


「荷が重いって?」と尋ねる美瑠。


 ため息交じりに、

「あたいは小宅初歩は苦手ってことよ。つかみ所のない女は苦手なのよ。白黒はっきりしないのは、性分に合わない」とはき出す。そして「おまけに、あんな危なっかしい、べそっかきカレンダーガールを相手に戦うのもフェアじゃないね」と小声で笑いながら言う。もちろん十五、六の頃の晴海のことを指しているが、当の本人には理解されていない。


「誰の話?」と晴海。


「夏夫君の母親に難しさを感じているの?」と美瑠。

「ああ」

「行った先で何かあったの?」


「別に。あたいは自由が好きなだけさ。管理される時間の中で計画を立てるような役目は御免被りたい」


 わかったような、わからないようなみずほの言い分である。

「じゃあ、この喧嘩も終わりってことね」と再び美瑠。

「喧嘩も何も、アタイは夏夫とは一緒になれないね」とお手上げのポーズを決める。


「なんかよくわかないけど、私が勝った?」と晴海。

 美瑠は「勝ち負けの問題ではないけど、とりあえず騒動は収まったてことかしらね」と微笑む。


 少し悔しそうにうつむくみずほの横顔を、栄華と夏見は見逃さなかった。

「立派だわ」

 栄華の賛辞に、「けっ」とそっぽを向くみずほ。夏見も無言で頷いている。


「やけ酒でも飲みに行くか、夏見」

「おう、いいよ。安いとこにしてくれ。今月ピンチなんで」

「相変わらず貧乏なおじさんだな、夏見は」


 小声で「でも、今日はオレのおごりな。存分に悲しんでいいぞ。オレと栄華ちゃんの前でだけな」とみずほの耳元で優しくささやく。


「ありがとう、夏見」


 みずほのうっすら潤んだ瞳と優しい笑顔は、夏見の心にも届いていた。自ら選ぶ失恋。強引な性格のみずほには初めてのことだった。


 ちょうどそこに八雲半太郎が戻ってきた。手には携帯電話を握りしめたままだ。

「ただいま」と声を出すやいなや、夏見は食ってかかった。


「おまえだな、ハム太郎。ここに余計なものを送りつけてきたのは!」


 不意を突かれた八雲は、驚いた顔を一瞬見せてから、

「夏見くん、何をそんなに興奮しているんだ」と返す。


 夏見は、握り拳のまま、

「今すぐこの変な重箱みたいなタイムマシンを持って梁田に帰れ。そしてもうしばらくこっちには来るな。この時空馬鹿!」と文句を浴びせた。


 八雲は、

「まさか、開けちゃうと思わないから」と予想外の出来事と感じていた。


 わなわなと震えながら夏見は、

「開けちゃうと、じゃあるか! 栄華ちゃんという、ピアノ以外はお馬鹿で成り立っているど素人がいるんだぞ、こっちには。おかげで迷い人寸前だ、どアホ」と怒り心頭である。

 えらい言われようの栄華は、無言で苦笑するしかない。


「すみましえん」


「だってこれ、山崎君に頼まれたから送ったのに。何で夏見くんたちが開けるのさ」と奇妙な顔で答えた。

「オレは開けてない。巻き込まれただけだ」

 渋い顔の夏見に、「君はいつも難儀だな」と笑う八雲。

「話があっちこっちで錯綜して、皆の話が全くまとまらないわね」と美瑠は困った顔だ。厨房に入って、ボールでビーターを回している。小麦粉をなめらかにするためだ。


「どうやって戻ってきたのかもわからないし、なぜ時の玉手箱を送ったのかもわからないし、なぜ回収した玉手箱が移動した先に届いたのかもわからないし、何もかもが曖昧なままで、皆が戻ってきて、なぜか一件落着。しかもいつの間にか、みずほちゃんは夏夫君をあきらめることになっているし。わけわかんない」


 ぼやきが漏れる美瑠。もやもやだらけの今回の一件に、気分転換とばかり、美瑠は厨房に立ってケーキを作り始めた。パウンドケーキだ。もう甘い香りが店中に漂っている。


 その美瑠の独り言、無意識に発しているもやもやした心の声。八雲は心中で答えていた。だがその答えを声にはしなかった。従って、誰一人それを聞くことはできない。


『三人が飛んだ後、現在の初歩さんに僕が電話した。初歩さんが過去の記憶で日付を思い出して、過去の自分に時空郵便で手紙を書いた。受け取った過去の初歩さんは、過去の葉織さんに、時の玉手箱の回収を依頼。過去の葉織さんは、現代、この時代まで飛び、郵便局に立ち寄ると、この店に時空郵政さんと一緒にやってきた。局留め郵便で、過去に玉手箱を運び、過去の初歩さんがそれを受け取る。その玉手箱と、自分で作った桂花の御神酒を飯倉の文吾さんに渡した。文吾さんは片瀬浜で三人に、その箱と御神酒を渡す。すばらしい松阪コンビの連携プレイだ。箱の流れは、そういう流れです』


 この状況で説明しても、おそらく歓迎される話ではない、と自分でもわかっているため、八雲は自分だけ心の中だけでおさらいをしていた。


 そこに店の扉が開いて、山から店主、山崎凪彦が帰ってきた。

「ただいま。おいしそうなにおいですね。ちょうどいいタイミングですかね」

 その言葉に夏見は、

「うん。今回はちょうどいいタイミングだ。おまえさんがいなかったのは、おまえさんにとって、とてもラッキーな一日だった。タイミングも、時間も、時空も、無縁のおまえさんが今日はうらやましい」とちょっとだけ負け惜しみを言った。


「はて?」


 蚊帳の外の山崎は、あやふやな表情で夏見に頷いていた。

 だが、夏見と栄華は、その一方で、悪いことばかりではなく、伝説の暦人御師、角川文吾、健在の姿を目にして、会話まで出来た。今回の移動で学んだ『えにし』、『産霊むすび』、『きずな』をありがたく実感していた。

 このことは、暦人の経験上、大きな収穫だったと感じていた。時を超えた『きずな』、そう、「絆」は浜昼顔の花言葉である。


                                   了

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