神様の話

紅林みお

第1話


 それはとても温かな日差しがふりそそぐ冬の月曜日の朝だった。

「大丈夫ですか」

 山手線のホームで勢いよく転んだ老人にミカはおそるおそる話しかけた。

 朝の通勤ラッシュの時間帯で、山手線のホームには人がごった返し、転んだ老人を学生やサラリーマンは見て見ぬふりをして通りすぎていった。老人はおよそ70代で、白髪、上質な毛織のグレーのジャケットに茶色のスラックスをはいていたが、転んでジャケットには汚れがつき、スラックスは膝の部分が破れ、血が滲んでいた。手から落ちてしまったT字の杖は、行き交う様々な人に踏まれた。


 ミカは転んで呆然としている老人に駆け寄り、「痛いところはありますか」「歩けますか」と親切に話しかけた。


「大丈夫ですよ、お嬢さん、私はこう見えて足腰が強いんでね」


 そう強がった老人は、自力で立とうとしたものの、膝関節からガクッと崩れ落ちた。そこをすかさずミカは老人の肩に手を回し、体制を保った。ホームには次の電車が到着して、また人が押し寄せた。そして哀れな老人と一人の若い女を皆が同情の目つきで見ては通りすぎていった。


「一緒に病院へ行きましょう」


「そんな、そんな、お嬢さんが会社に遅れてしまうでしょう」


 老人は驚き、申し訳なさそうな顔でミカを見つめた。


「会社はいいんです。遅刻すると伝えておきますんで。それよりもお爺さんの身体が心配なんで」


 ミカはスマホを手に取り、会社に遅れることを連絡すると、近所の病院までタクシーで老人を連れていった。駅員に老人を任せることもできたが、ミカはなんだか老人が心配で可哀相に思った。


「君は本当に優しい子だなぁ」


 老人は病院の待合室でミカに微笑んだ。白髪の老人に窓から朝日があたった時、ミカは何か不思議な感覚が沸き上がるのを感じた。

 なんだろう。この感覚は、とても温かくて優しい、ふわふわした感じがする。もっとずっとここにいたいような、そんな気がする。


 老人と別れるとミカは電車に乗り、会社へ向かった。走っていったので、ヒールを履いた足が痛かった。

 執務室へ行くと、いつもミカを罵倒するお局が鬼のような剣幕でミカを待ち構えていた。


「会議がある日に遅刻するって、笹木さんはどういう神経してるの!さっさと仕事にとりかかってちょうだい!」


 ミカは、老人を助けたことは会社の誰にも伝えていなかった。伝えたところで遅刻の言い訳をしているように思われるのが嫌だったのだ。お局に何回も「申し訳ありません」と謝り、トイレ近くの寒い自席に座った。ミカあての電話メモやクレームの数々、押し付けられた仕事の書類が山となって机の上に広がっている。ミカは、少し悲しい気持ちになるとパソコンの電源をいれて仕事にとりかかった。


 この会社に就職して3年。ミカは周りの出来る頭のいい同僚に圧倒され、完全に窓際部署に回されていた。仕事はコピーや用品庫の整理、書類をシュレッダーにかけることやクレームの電話に対応することだった。


 ミカは一生懸命にその仕事をこなしていたが、ミカが仕事ができない噂は3年のうちにあっという間に社内に広まり、同期にはランチに誘われなくなり、先輩にはいつもバカにされ、上司には執拗に怒られる毎日が続いていた。後輩からもため口で話され、鼻で笑われていた。

 しかし、田舎から親の反対を押しきって上京し、立派な社会人になると意気込んでいたミカには会社を簡単に辞めるという選択肢は無かった。

 将来のことを考えるとミカは、胃がしめつけられた。今日もまた苦しい1日が始まる。嫌だなぁ。今日は誰にも怒られませんように、今日は定時に帰れてスーパーの特売のお総菜が買えますように、好きなドラマが見られてゆっくりお風呂に浸かれますように。恋人のサトシと早く会えますように…この苦しみから早く解放されますように。ミカはいつも見えない誰かにそう祈っていた。


「笹木くん」


 夢中でシュレッダーに書類をかけていると、ふいに肩にごわついた手がポンと置かれた。振り向くと課長がいた。課長がミカのことを能無しの給料泥棒と影で言っているのをミカは知っていた。


「部長から大切な話があるそうだ。至急部長室に来るように」


 ミカは急に不安に駆られた。どうして部長室に呼ばれたんだろう? 今日遅刻したから? 私が仕事ができないから? もしかして私、クビなのかな?


 様々な思いを胸にミカはおそるおそる部長室へ向かった。部長室に入ると他の社員の2倍以上はある立派な机に、部長が手を組んで座っていた。その手は震え、顔面からは汗が吹き出ていた。


「笹木くん、君に大切なことを伝えなくてはならない。今から私が言うことを心して聞いてほしい」


 ミカはただ事ではない部長の様子に身構え、「はい」となるべく大きく返事をした。「笹木さんは滑舌が悪くて声が小さいから何言ってるかわからない」と散々言われてきたため、部長に聞こえるように頑張って返事をした。


「君は神様に召されることになった」


(つづく)

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