地球帰還(2)

 人生経験を積んだ刑事が小娘のスマイルに心を惑わされるはずもなく、三人は生まれて初めてトラ箱を体験した。保護室がこのような形で使用されたのはおそらく最初で最後であるはずだ。

 刑事たちの必死の捜査で、雅司の彼女小春こはるが証言者として浮かんできた。彼女はかつて大学で島見たちに述べたのと同じようなことを証言した。担がれた気持ちで調べると、大学生の男子が中庭で忽然と消えたという証言が次々と挙がってきた。

 聞き込みによって、雅司が消えたちょうど五日後、アクアマリンランドで神隠しを見たという目撃情報がまた続々挙がってきた。夏の水族館で忽然と消えた二人の男女に現場は蜂の巣をつついたような大騒ぎだったと証言は一致。それからおよそ十日後に二人が気を失った状態で姿を現したと刑事から聞いて、皆が皆、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたという。

 監視カメラのおかげで裏付けも取れて、三人は翌朝自由の身となった。いちばん喜んだのは安藤真奈美で、黒いベンツで警察署まで雅司を迎えに来た彼女は吹っ切れたような顔でこう言った。

「息子の秘密ですから母親として尊重したいと思います。私はこれまで十九年間、息子に精いっぱいの愛情を注いできたつもりでしたが、夫を失った穴が心にぽっかり空いてから、息子に手料理も作ってあげられなくなってしまっていました。あの子は私のために無理をして、自分がしっかりしなければと思い詰めて、笑顔を見せなくなっていたのです。それが爆発して、私の前から姿を消したのではないかと思ったのです。でも――」

 親子は昨日、膝を突き合わせて語り合ったのだろう。真奈美は小声で、

「夫はもう、戻ってくることはないでしょうね」

 とつぶやいた。雅司はそれだけ、遠回しに母親に伝えたのだ。

「あの子はあなた方お二人と行動をともにしたのでしょう。いえ、何があったか、教えていただかなくて構いません。あなた方はあの子に、私には一生かかっても叶わない人生経験をさせてくれたと思います――私は帰らぬ夫ではなく、今ここにいる息子ときちんと向き合おうと思います」

 真奈美はバッグから紙の束のようなものを取り出し、見るからに上質なボールペンでさらさらと何かを記した。

「いくら感謝しても足りません。そして最後にもう一度、……あの子を見つけてくださって、ありがとうございます」

 真奈美は紙を綺麗に切り取って、島見に両手で渡した。二百万円の小切手だった。

 四人はあらためてお辞儀を交わした。雅司はベンツの助手席で、塀の影に見えなくなるまで手を振っていた。島見は押し潰されそうなほど複雑な気持ちだった。

 あの笑顔の下に、十九歳の少年には耐えがたい葛藤があることを島見は知っているし梓も気づいているだろう。真奈美も母親だから、何か感じるところがあるだろう。けれども雅司には真奈美や小春がいるし、アーサーにはじいやがいる。近い将来きっと心の底から笑い合える日が来るに違いない――と、思いたい。

 残された二人はしばし警察署の前で、小切手のゼロの数を数えていた。きちんと六つあることを実感すると、顔を見交わせてニンマリした。

 島見探偵事務所の任務、無事完遂である。

 二人は署からの帰り、回転寿司チェーンに寄り道した。金が入ると美味い寿司を食いに行きたがる単純明快な小市民たる二人だが、ここは身に染みついた貧乏性が災いして回らない寿司屋の暖簾はくぐれなかったのだ。質より量の二人は回転寿司で大満足。お店の人も唖然とする皿の数を積み上げて、幸せな気持ちで帰路についた。

 もはや懐かしい島見探偵事務所。ホットコーヒーで一息つきながら、梓はさっきから気になっていたことを尋ねた。不服な顔である。

「島見さん。どうして車掌さんに日記のことを教えてあげなかったんです? シルトクレーテ家がひっくり返るかもしれないのに」

「教えようにもすぐには証拠が出せないじゃないか。星に置いてきたしな」

 プネマの日記はじいやにのみ明かして、のちのことは合切お任せすることにした。じいやはプネマの書に後編が存在するなど夢にも思わなかったのでたまげていたし、日記の中身を読んで柄にもなくうろたえた。しかしさすがは王子に仕える執事、すぐに平静を取り戻して、この日記は当面隠し通すと言った。

 島見たちは今の今まで知る由もなかったがシルトクレーテ星の住民はレーン星のシルトクレーテ家のことは当然知っている。じいやは島見にこのことを打ち明けなかったが、この日記の信憑性の高さをあの老人は密かに感じていたのだ。それを証拠にじいやは神妙な顔で島見にこう言った。

「この日記は歴史学の宝となるでしょう。私はこれを当分どこにも提出せず、ひた隠しにして、近い未来、お立ち直りになった坊っちゃまに真っ先にお見せしたいと思っております」

 島見もそれには賛成だった。そもそも地球人たちがプネマの書を探しに行ったのは、あれが歴史学をひっくり返す重大発見であるとアーサーから訴えかけられたためである。たしかにこの日記は大発見なわけで、これの研究をアーサーの生きる糧にしてもらいたいというのだ。ケイトの最期の願いは、きっと叶うはずである。

 梓は納得したようなしかねるような微妙な表情でコーヒーを口につける。

「でも、なんか惜しいですよね」

「何がだ?」

「せっかくアトランティスやムーの実在を証明できるのにもったいない。そんなの発表したら私たち、大金持ちですよ? 王家の報酬も取り返せますよ」

「証拠は異星の日記だぞ? 誰が信じるもんか。俺たちがいくら熱弁しても荒唐無稽だって一笑に付されるだけだよ。俺たちだって、どう噛み砕いていいかわからないんだから」

「そうですけど……ねえ?」

 梓がしかめっ面なのはコーヒーが苦かったせいではない。ああは言ったものの口惜しいのは島見も同感だったのであろう。島見はコンビニのチョコクッキーを袋からひとつ取り出して、梓の手のひらに乗せた。

「納得いかないです」

「非科学的なことに対する世の中の冷ややかな視線にか?」

「それはもういいです。仕方ないので。私が怒ってるのはなんでプネマ様に体を乗っ取られたのが島見さんじゃなくて私なのかってことです。私が島見さんの立場だったらプネマ様に根掘り葉掘り質問しまくったし、おもしろい小説に仕立て上げたのに!」

 要するに、空前絶後の美味しいネタをみすみす逃したことに腹を立てているのだ。島見は苦笑して、

「しょうがないじゃないか。それはプネマ様が男だから、若い女のほうが乗っ取りがいがあるってことじゃないか? それに俺、話して聞かせてやっただろ」

「あんたの貧弱な語彙で聞かされるより現場で見聞きしたかった! 百聞は一見にしかずですよ」

「まあまあ、いいじゃないか。俺の話をこねくり回しておもしろい小説に仕立て上げてくれたまえ」

 島見はまったく、いい加減だが、梓からすればたまったものではないのである。しかしこの出来事は、ハードボイルド小説のように客観的な事実をありのままに淡々と述べてもなかなかに興味深い一編が出来上がるのではないか……と、梓はプラス思考である。もちろんノンフィクションではなく、フィクションとして仕上げるのである。こんな作品がノンフィクション賞に送られてきたら審査員は卒倒するだろう。

 野望に燃える梓は心を落ち着かせるようにコーヒーを飲み干した。島見はクッキーを指でもてあそんでいる。そんな彼に、梓は一言言っておかなければならないことがある。まあ、かしこまって言うほどでもないのだけれど、けれど言わなければそれはそれで気が咎める気もするし、こんなこと引きずるのも馬鹿馬鹿しいので、梓は小さくつぶやいた。

「島見さん」

「なんだよ」

「……ありがとうございます」

 島見は飲んでいたコーヒーを噴き出すほどに咳き込んで、梓の顔を見て間抜けな顔をした。きょとんとしているふうなのが腹立たしかった。

「なんてった?」

「ありがとうございます」

「えっ?」

「だから!」

 この距離である。馬鹿にされているとしか思えなくなった梓は、もう破れかぶれになって思いっきり叫んでやった。

「助けてくれてありがとうございますって言ったんです!」

「…………」

「私、墓から逃げたあと、何かずんと体が重くなった記憶はあるんです。たぶんあのときプネマ様が私に入り込んだんです。あのとき私、自分の意識とプネマ様の意識とどっちつかずな感じで、記憶がうっすらとしかないんですけど、そのとき気絶しそうな私を支えてくれたでしょ。その記憶だけはなぜだかはっきりあるんです」

「……いや、まあそりゃあ、雅司もいたしなあ、放っとくわけにはいかないからなあ」

 島見はこそばゆそうにクッキーのカスがついた指で頬をボリボリ掻く。梓は探偵事務所のせまい部屋で身の置きどころがなく、紛らわすようにコーヒーカップを口につけたが中身は空っぽだった。

 梓は前に、ケイトの家の天井の木目を数えながら、この男がたとえ危機に陥ったとしても、自分は財布に鍵をかけてやると思った覚えがあるが、撤回する。まあ、合鍵ぐらいは渡してやろうと思う。

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目覚めた大地に幸運を かめだかめ @yossi0102

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