空飛ぶユートピア。

 机の電子時計が、11時時20分43秒を知らせている。そろそろな時間だ。

 赤と緑のコードを自動装置へと切り替え、強弱を繰りかえす電機子システムへと移行させたら、部屋の電気を消し、僕は16時間ぶりに椅子から立ち上がった。

 はあぁ……と、思わずため息がこぼれる。

 腕を頭の上で組み、左へ右へと体を傾けると、腰や背中あたりがボキボキと気持ちよく音を鳴らした。こうしないと体が固まってしまう気がするし、なによりも仕事が終わった気がしない。

 部屋を出て、扉を閉めようと振り返ったとき、目に入った水槽。部屋の中央にどっと置かれた水槽の中、青い光に照らされた脳髄が見えている。水槽内の灯りを消すのを忘れていた。

 扉をくぐってすぐ右の壁際。そこにあるスイッチを押すと、パチンっと灯りが消えた。

 一度仕事から解放された心持ちで、水槽に浮かぶ脳髄を見てしまうと、かなり滅入る。まだ18歳だというのに、どうしてこんなことをしなくてはならないのか、何てどうしようもないこと考えてしまう。

 そうなると、やはり、眠れなくなる。父さんが「睡眠もこの仕事の内に入るからな」と言っていたことを思い出した。しかし、思い出したからこそ、寝よう寝ようと考えてしまって、余計に眠れない。

 あの脳が羨ましい。

 何も考えず、ただ操作されるだけの脳になれたら。こんなこともせずに済んだのに……。

 

 仕事を始めたのは14歳のころから。中学生として登校していたはずの僕は、部屋に引きこもっていた。

 成績も悪くなかったし、仲のいい友だちも数人いた。特にこれといって面白いことづくしだったわけでもないが、悪くない学生生活だったと思う。

 だが、ひょんなことで僕の毎日はがらりと変わってしまった。

 冬休みが終わり、学期が変わる。もうすぐ中学2年も終わる。当時、クラスには好きな女の子がいて、僕は焦っていた。次にクラスが一緒になることはないかもしれない。クラス替えの前に、告白してしまいたかった。

 友だちの一人は、わざわざ公園かどこかに呼び出して、そこで告白したらしいが、そんなマネできるわけがなく、僕は手紙を書くことにした。

 手紙なんて、古くさく、一方的で、あまり格好いいものじゃない気がする。でも、そのとき、僕の頭の中にはその選択肢しか残されていなかった。

 放課後、近くに誰もいないことを確認して、靴箱に手紙を入れる。

 その後、待つこと2週間。そろそろ返事があってもいいはずだと思いながら、いつものように教室に入る。すると、皆がこっちをくるりと振り返った。

 一瞬の沈黙。すぐ教室は各々の話し声で満たされたが、岡島というやつが僕へ近づいてきてひとこと、

「お前、水瀬のこと好きなんだって?」

 岡島は新種の生き物かなにかを見つけたかのように興奮していた。目も口も、ゾッとする風に歪んで見える。それが笑顔だったことに気づいたのは、ずいぶん後だった。

 教室は普段通りざわついているが、雑音でしかなかった話し声が、やけに鮮明に聞こえてきた。皆、僕を話題にしていた。

 ニヤニヤ、ニヤニヤ。こっちを見て、僕を笑っている。

「なぁ、どうなんだよ。水瀬のこと、好きなんだろう?」

 岡島はしつこく聞いてくる。僕は無視して水瀬さんを探した。

 名前も知らない女子たちが、水瀬さんの席に集まって、水瀬さんと一緒にこっちを見ていた。

 凍りつくほど冷たい目。家を出ていった母さんが、父さんにいつも向けていた目だった。

「なんで……」

 頭が痛い。寒気がする。視界が揺らぎ、足がふらつく。そんな僕が呟いたひとことを、岡島は無視して、

「おい言えよ。なぁ、好きなんだろう? 水瀬のことっ!」

 と、同じ質問。いつのまにか皆、黙って僕の答えを待っている。

 俯いたまま、僕は教室から飛び出した。全速力で廊下を走った。はじめて走った廊下は滑りやすく、当然滑ってなんどか転んだ。

 後ろでどっと笑い声が起こる。振り向けない。辛くて、情けなくて、怖くて。もう誰の顔も見られなくて……。

 その日、僕は学校を休んだ。

 それからずっと、休んだままだ。

 学校へ行こうとしたときもあった。理由もなく欠席することは、悪いことだと、僕は知っている。先生に怒られるのもごめんだ。でも、制服を手に取ると、吐き気が喉元にこみ上げてきて、足がすくんで立てなくなってしまう。

 頭のてっぺんから爪先まで、学校へ行くことを拒否しているのがわかる。それでも僕は「不登校」になりなくなかった。普通の中学生として、学校へ行きたかった。

 でも……それでも、無理なものは無理だった。

 父さんはそんな僕に何も言わなかった。何かは言ったのだろうけど、覚えていない。「大丈夫か?」とか「今日も休みか?」とか、そんなことだ。最初の一日、二日ぐらいは声をかけてきたと思う。その後は何もない。

 父さんはそういう人だ。

 怒鳴られたことも、叩かれたこともない。基本的に話しかけてこないし、テストで良い点数をとっても「いいじゃないか」とひとこと言って、自分の部屋に戻っていく。母さんから話しかけられても、「うん」とか「そう」とか相槌を適当に打つだけ。

 そんな自分以外の人や物に興味がない父さんだから、中学校に行っているはずの息子が、部屋に引きこもっていても、体して問題にしていない。

 僕は部屋の中でずっと考えた。どうして、水瀬さんのことが好きだって皆にバレたんだろう。

 確実に水瀬さんの靴箱に手紙を入れた。ちゃんと確認したから、人に見られたわけがないし、間違って他の人のところへ入れたはずもない。だとしたら、誰かが水瀬さんの靴箱を盗み見たのか。それで手紙が見つかってしまったのか。

 だとしても……水瀬さんのあの目は、なんだったんだろう。なんであんな母さんみたいな目をしていたんだろう。

 考えるのが嫌になって、生きているのが嫌になって、僕は死のうとした。でも、死ぬのは怖かった。思った以上に怖かった。

 なりなくなかった不登校になって半年ぐらいが経ったとき、父さんが僕の部屋を開けた。ノックもしなかった。

「直之、ちょっと来なさい」

 部屋には月明かりだけがぼんやりと入っているぐらいで、振り返ったすぐ後ろに父さんはいるのに、表情は暗くてわからない。

「なに?」

「話があるんだ。大事な話だ」

 正直、面倒だった。でも、父さんから話しかけてくるなんて滅多にないことであり、それに「大事な話」というのが気になった。父さんの口から改まってそんなことばを言われると、興味が出てくる。これで「学校へ行け」というつまらないことを言うのなら、僕は父さんと縁を切ってやると考えていた。

「大事な話って?」

「……来なさい」

 それだけ言って、父さんは部屋を出ていってしまった。

 取り残された僕。立ち上がって部屋を出ると、階段の側で父さんは待ってくれていた。じっと、こちらを見ているその表情からは何の感情も読み取れない。

 1階へと降りる。まるで段数でも数えているかのようなゆっくりとしたペースだった。父さんは、僕に背中を見せたまま、

「直之。父さんが何の仕事をしているか知っているか?」

「え?……急にどうしたの」

「知っているか?」

「いや、知らないけど」

「なら、今からそれを教える。お前には、知っておいてほしいことなんだ」

 最後の階段を降りきる。あたりは暗く、キッチンにだけ、灯りが点いていた。ちらと時計を見ると、夜の10時を過ぎている。いつも夜の8時には部屋に入って出てこない父さんが、出てきているなんてかなり珍しいことだ。というか、そもそもこうして二人話しながら歩いていることすら、何年もなかった気がする。

 父さんは自分の部屋へと進んでいく。部屋の前までくると、真鍮のドアノブを回して、扉を開けた。黙ってついてきた僕は、父さんの背中越しに部屋の中を見ることができた。生まれてはじめて見た。

 七畳ほどの薄暗い部屋。まず目に入ってきたのは、中央に置かれた水槽。青く光る水槽の中にあったものに、僕は思わず、うわっと声を漏らした。

「な、なに? あれ……」

 狼狽える僕に構わず、父さんは部屋へと入っていく。床一面には様々な色のコードが張り巡らされており、その隙間を縫うようにして歩を進めていた。

 やがて、水槽の隣に立つと、くるりと振り向いて、

「見てのとおりだ。脳だよ」

「脳……?」

 父さんのことばを繰りかえすことしかできない。水槽に浸かっているのは、大きさや形からして人間の脳だ。教科書でしか見たことないそれが、こうして間近で見るとあまりにもグロテスクで気持ちが悪い。

 しかも、ただ脳が浸かっている訳ではない。脳と脳の下に伸びる延髄から様々な色のコードが、何本も伸びている。いくつかは床に這わされ、壁際の黒い冷蔵庫のような四角い箱へ、いくつかは左側の壁際にあるモニターへと繋がっているように見えた。

 モニターは電源が入っていないのか真っ暗だ。その下にあるスチール製の机にはキーボードのようなものが置かれていた。パソコンのものとは少し違う。キーが大きく、赤、青、黒、に色分けされているものが、不規則に並んでいるように見える。

 目に入るものすべて、僕の知らない物ばかりだった。この状況も、よくわからない。いったい父さんはどうして僕を部屋に呼んだんだろう。

 頭が溢れる疑問でパンクしそうだ。父さんはそんな僕を見つめて、

「直之。今、お前の目の前で起こっていること、どこまで理解できる?」

「え? えっと……その……どこまでって……もう、何がどうなってるんだか……。まず、そうだな……。それ。その水槽なんなの?」

 僕は指差した。指先が震える僕とは対照的に、父さんは落ち着いて返答した。

「水槽は脳にとっての頭蓋骨だ。そして水は脳漿にあたる。これはな、直之、人間そのものなんだ」

 言っている意味が理解できない。脳が入っている水槽が、人間そのもの? 父さんは続ける。

「お前が今、見ているものすべは、お前の脳が見せているんだ。お前が聞いていることも、感じていることも、みんな脳が体中、全細胞へ電気信号を出しているからこそ、できているんだ。わかるか?」

「あぁ……まぁ、なんとなく……?」

 気圧されて、そう答えるしかない。父さんの口調はいつもより少し、早口になっているようだった。

「人間と他の動物を分かつものは、脳だ。喜怒哀楽、その他認識できるものすべて、脳が決めている。

 直之、右手の指は何本ある?」

「あぁ、っと、5本だけど……」

「5本に見えているんだな? 本当は4本や3本でも、脳が『5本だ』と言えば、5本なんだ」

「ねぇ、父さん。いったい何が言いたいの? 話が見えてこないんだけど……」

「考えたことはないか、直之。この世界が、今見えているこの現実がすべて嘘じゃないかと。自分という存在は無く、すべては水槽の中にある脳が見せている光景なんじゃないかと」

 父さんは言いながら、水槽の真後ろに立つと、その縁をガシッと掴んだ。

「父さんの仕事はそれだよ。この脳に電気信号を送り、この脳の本来の持ち主である人が歩む人生を、操作している」

 僕は呆然と立ち尽くした。いったい何と言えばいいかわからなかった。父さんの仕事が、脳を操作すること? どこかの会社なんかでサラリーマンをやっていると思っていたのに、ずっと家でこの水槽の中にある脳を弄くっていたってこと? それに……本来の持ち主って? いったいその水槽の中にある脳は、誰の脳なんだ?

 あふれ出る疑問は、一つたりとも喉から先へ出ることはなかった。父さんはゆっくり息を吐くと、

「この脳は20代の青年の脳だ……。14歳のとき、交通事故にあって全身不随になった。意識は戻らず、ベッドの上。彼の人生は14歳の夏で止まったままだ。

 だが、私に彼の人生を進めて欲しいと、依頼があった。彼は今、脳だけになり、私が電気信号を送り続けることで生き続け、今年で27歳になる」

「それって……」

 僕はなんとか父さんの言っていることを理解しようと努力した。父さんがやっていることを僕自身に分かりやすく要約すると、

「ゲームみたいな感じで……主人公を操作しているってこと?」

「……そうだな。そう言われてしまえば、そういうことになるかもしれない」

 父さんは頷くけれど、どこか納得いっていない様子だった。きっと父さんにとってはそんな単純なことではないのだろう。でも、今は、そういう風に理解するしか僕にはできなかった。

 そういえば、脳の持ち主は、今年で27歳になるって父さんは言っていた。ということは、父さんはもうこの脳と13年も付き合っているということになる……。

 僕は寒気がした。父さんが続けてきたことに、恐怖すら感じた。

「父さんは僕が生まれる前から、こういったことを続けていたの?」

「そうだ」

「どうして?」

「お前のおじいさんも、同じことをしていたからだ。私はその後を継いだ」

 僕は母さんの方のおじいさんやおばあさんも、父さんの方のおじいさんやおばあさんも、見たことがなかった。

「どうして後を継いだの? こんな……わけのわからないこと……」

「お前には、やはりわからないか」

「わからないよ! 何してるんだよ、父さん! 正直、全部脳が決めるっていうのも、見えてる世界が嘘だったらっていうのも、わからない……。この状況がいったい何なのかも……。ねぇ、もっと分かりやすく教えてよ!」

 声を上げる僕をまっすぐに父さんは見つめていた。やっぱりその表情から何も読み取れない。

「父さんの仕事はな、人の一生を作りあげることなんだ。本当は普通に生き続けてこれた。でも、運悪くそれができなくなってしまった。そんな人たちを救うことができるのが、この仕事だ。

 止まってしまった時間を、もう一度動かす。直之、お前にもそれをやってほしいんだ」

 僕は、父さんのことばに耳を塞ぎたかった。父さんは僕に、自分と同じことをさせようとしている。水槽の中の脳を操作しろと、言っている。

「いやだ!」

 僕は言った。でも、

「それなら、この脳は死ぬ。このまま眠りから目覚めることなく、水槽の中で腐り果ててしまう」

「そんな……でも、僕は……」

「担い手が少ない仕事だ。いずれお前にも後を継いでもらいたい…………。いいか、直之。現実的な話だ。この家の収入源はこの仕事だけだ。私は他に5人の脳を動かしている。綾子がいなくなった分を補うためだ」

 僕は父さんが言いたかったことがわかった。けれども、聞きたくない。そんな気持ちなんか、父さんにわかるはずなく、

「直之。学校に行かないのなら、働いてくれ」

 僕は、崖から突き落とされたような気持ちだった。

 そうして、僕はこの薄暗い一室で、水槽の中にある脳を操作する仕事に就いた。


 水槽の脳は、後藤史彰ごとうふみあきという男だ。中学2年生の夏、自宅から歩いて登校していた後藤は、車にはねられてしまった。

 ひき逃げだったが、目撃者は多く、すぐに運転手は捕まった。運転手は朝から焼酎を一本空けたアル中だった。運転手も救いようがない奴ではあるが、一番救われないのは後藤だ。

 後藤を担当した医者は、彼の意識が戻るのは絶望的だと宣告。後藤の家族はそれを信じなかったが、包帯でぐるぐるにされた後藤はずっと目を覚ますことはなかった。

 ただただ、意識が回復することを信じるしかなかった家族だったが、およそ5年の月日が流れたあるとき、父さんに連絡したのだそうだ。

 てっきり父さんは、13年もこの後藤につきっきりになっていたのかと思っていたけれど、実際には8年弱の付き合いらしい。それでも、まぁ、ずいぶんと長い。

 父さんは、水槽の脳に関する様々なことを教えてくれた。脳科学、電気工学の基礎知識から専門知識。脳に繋がるコードの種類と、その入出力方法。また、脳を管理する巨大なコンピューターの操作方法などなど。

 実は、不登校であることに負い目を感じていた僕は、父さんの仕事を手伝うことによって、自分を正当化しようしていた。そのために、必死で勉強した。複雑で、難しくて、しかもまったく僕には興味がないことばかりで、毎日が苦痛でしかたがなかった。

 それでも、父さんは僕を怒鳴りつけたり、殴ったりして覚えさせようとはしない。ただ、静かに、丁寧に、僕みたいなバカでもわかるように説明してくれる。のその様子から「あぁ、本気で僕に継がせようとしているんだな」と思った。僕は覚悟を決めた。

 父さんを先生とした授業は毎日のように続き、気づけば僕は15歳になり、秋が終わるころには、教えられたことの全てを理解していた。

「直之は、覚えるのが速いな」

 父さんは言った。いつもよりずっと優しい口調だったので、褒められた僕は照れてしまって、

「そうかな……」

 と、しか返せなかった。そんな僕に、父さんはこう言った。

「これなら、任せてもいいな……。直之、明日から後藤史彰の脳は、お前が動かすんだ」

「えっ? それって……もしかして一人で?」

「そうだ」

 父さんの答えに、僕は腰を抜かしそうになった。いつか来ると思っていたそのときが、今、目の前に来てしまった。まっすぐこっちを見ている父さんの表情から、本気なんだと確信した。心の準備なんか、待ってくれそうにない。

「出来るな? 直之」

 そっと肩に乗せられた手。ずしっと重い。父さんの手だけじゃなく、何か別のものまで僕の肩に乗っけられた気がした。

「わかった」

 僕は力なく言った。その様子から「まだ早いか」と思いなおして欲しかったが、父さんは満足そうに頷いただけだった。

 翌日の朝。いつもよりかなり早い時間に起きた僕は、部屋へと向かう。コンピューターの電源を入れると同時に、コードの入出力を調整。寝ている後藤史彰を目覚めさせる作業に入った。

 脳へ入力する電気の強さを徐々に上げていく。すると、真っ暗だったモニターがぼんやりと白くなる。もうすぐ目を覚まそうとしているのだ。これの調節を怠り、すぐに覚醒状態へ持っていく電力にすると、神経細胞のいくつかが焼けてしまう。父さんはこれを「脳が怪我する」と言っていた。

 目を覚ました後藤。目を擦りながらベッドから降りる。階段を下って、洗面台へ。顔を洗い、歯を磨くと、親が用意していた朝食を食らう。毎日のルーティーンだ。すべて、僕が操作している。

 テレビを点けると、東北地方で記録的な大雨を報じるニュースがやっていた。

「こんなに外は晴れているのに……」

 後藤はぽつりと呟いて、白米を口に運ぶ。ある区域に集中的に降るんじゃなくて、全国にまんべんなく、ほどよく雨が降ってくれないものかと思う。そうした思考も、こちらで指示を出している。

 常に何かを考え、何かをしないといけない。一息つく暇もない。人間の脳はここまで忙しいのかと、僕は思い知らされた。ひとつひとつの動作を進めるのにも、かなり緊張してしまう。

 後藤にはさっさと寝てほしかったが、起きたばかりすぐ寝てしまうと「1日を無駄にした」であったり、「なんだか気分が悪い」であったりと感じさせるプログラムを入力しないといけなくなる。

 これらは父さんが決めたルールだ。後藤がどんな生い立ちを送ってきた人間であり、どんな性格、そしてそこからどんな反応をするかは、彼の脳を動かしていく上でとても重要なことであり、僕のような立場にいる人間は、絶対に忘れてはいけないことだった。

 後藤は面倒な男だった。脳として生きる上で、脳機能はある程度修復されてはいるのだが、前頭葉だけが上手く機能してくれず、理解力も瞬発力も悪く、鈍くさい特徴があった。これに合わせて、彼を取り巻く社会の状況も調節しないといけず、父さんは後藤を「仕事が出来ず、長続きしない。自分に自信が無く、カノジョもおらず、実家暮らしで短期のアルバイトで食いつないでいる」という状態に立たせている。

 そんな経緯で、後藤は身の回りのことをいろいろと諦めたのか、小学校からの夢だった小説家になろうとしている。27歳を迎えようとした冬頃から、新人賞に応募するための小説を書いていた。

 父さんは昔、小説家になりなかったらしい。それが後藤の脳に影響しているみたいだ。だけど、途中で後藤を任された僕にとっては迷惑でしかない。

 なんせ、僕には小説なんて書けやしない。漫画はよく読んでいたけれど、小説なんてほとんど読んでこなかった。一体、なんて指示をだせばいいんだ……。

 後藤は「後藤文章」というペンネームで小説を書いていた。長い話を書くのが苦手なのか、短い話をいくつか拵えている。SF的な小説が好きで、星新一や眉村卓という作家の影響を受けていることになっている。まぁ、すべて、父さんの趣味だ。

 新人賞に提出するため、後藤12編の小説を書く予定だった。それぞれのあらすじを用意してくれているから、それを見て文章を書いていけばいいのだが、これが予想以上に難しい。

 けっきょく、その日、僕は小説に関して何も指示を出せなかった。後藤に「今日は書けなかった」という記憶とそれに対するマイナスな感情をプログラムした。

 夜になり、後藤が眠るように調節が終わったら、僕も寝る時間だ。

 こんな時間が、これから毎日続くなんて……。僕には耐えられそうになかったが、そうするより仕方ないことは、分かりきっていた。

 僕は不登校なのだから、働かないといけないんだ。


 後藤に小説を書かせるために、僕も小説を読むことにした。とにかく文章の書き方というものを習得しようとした。けれども、そんな簡単なことじゃなかった。どの小説も似たような書き方に見えたし、でも、まったく同じとは言えない気もしていた。

 もう、よくわからない。とりあえず書いてしまおうと、後藤に指示を出す。後藤の集中力はあまり長い方ではないように設定されている。2時間、3時間、ぶっ通しで書き続けるようにできるのだが、脳にかなりの負荷がかかってしまう。このあたりは、脳に深く刻まれたプログラムのようで、僕にはどうすることもできなかった。脳のすべてを、完全にコントロールできるわけではないわけだ。

 12編のうち、8編はすでに父さんの指示のもとで書かれていた。残りは4編。

 地球を捨てようとした女の子の話。

 真夜中の教室に迷い込んだ子どもたちの話。

 老いた猿と交流する男の子の話。

 はじめて後藤の脳を操作してから、およそ半年。なんとか、それぞれの話を終わらせることができた。そしてあとひとつ『空飛ぶユートピア。』という話を書けば、一段落つける。

 しかし、これにはあらすじがなかった。どうやらタイトルだけが、思いついたらしい。

 なんて馬鹿なやつなんだろう。いったい誰が書くと思っているんだ。僕はモニターに怒鳴りつけて「書けなかった」ことにした。もう、明日にまわそう。

 夜。僕は考えた。どうして、父さんは後藤にあんな生活をさせているんだろう。どうしてあんなくだらない人生を過ごさせているんだろう。

 ろくに働きもせずに、小説家になるだなんて言って、親に甘えている大人だ。夢を追いかけているなんて聞こえがいいだけで、実際は現実から逃げているだけなんだ。格好悪いったらない。

 でも、全部嘘なんだ。全部作られているんだ。後藤のいる場所や、後藤が見ている景色。後藤自身さえ、僕や父さんが作っているんだ。

 だからこそ、不思議だった。父さんは脳として生きる後藤のために、どうして理想的な状況を作ってやらなかったんだろう。

 小説家としてデビューさせて、ベストセラー作家にさせてもいいのに、実際には実家暮らしの小汚い男になっている。いや、それより、とにかくお金持ちにさせたらよかったんじゃないか。女の子からすごくモテるようにさせたらよかったんじゃないか……。せっかく脳として生きるのに、なんで辛い思いをしないといけないんだろう。

 それこそ、父さんにしてみれば、脳はその持ち主にとってのユートピアにできるはずだった。何か後藤に恨みでもあるんじゃないかとさえ思う。

 そこで、僕はひらめいた。このことを、小説に使ってしまえばいいんじゃないか?

 つまり、自分の見ている世界はすべて嘘で、実際は水槽の中の脳が見せている世界だと、主人公が気づいてしまうストーリーにするということだ。

 父さんが好きなSFっぽくていいじゃないか。我ながら深みのある話が書けそうな気がした。

 でも、もし、ほんとうに後藤が気づいてしまったら、どうなるんだろう。

 後藤は自分が脳だけの存在だなんてこと知るはずがない。中学の事故などは起こっておらず、何事もなく27歳まで生きてきていると思っているに違いない。そんな、後藤が真実を知ってしまえば……。

 もしかしたら、何か良くないことが起こるかもしれない。いや、何も起こらないかもしれない。でも、何かが起こるような気がして、それが何か知りたい。

 翌日の早朝、僕は『空飛ぶユートピア。』の執筆に取りかかった。

 

 主人公は僕と同じ不登校の中学生にした。これなら、僕にも書きやすいと考えたからだ。それだけじゃない。水槽の中の脳を扱う仕事をしていることにする。脳の持ち主は、後藤と同じ、小説家志望の男だ。

 主人公は脳を操作させて小説を書かせる。脳の持ち主を操って小説を進めていくが、これまでにない集中力を持続するように指示。負荷をかけられた脳の細胞がひとつ、またひとつと死んでいく。

 苦しみだす男。しかし、書き続けなければならない。それは主人公が指示を出しているからだ。主人公は男がどこで自分は脳だけの存在だ、ということに気づくのか試していた。

 男は机にしがみつき、小説を書き続ける。同居している両親が心配して止めさせようとするが、振り払って机に向かう。

 母親が救急車を呼ぶ。父親が羽交い締めにする。それでも男は書くのを止めない。しかし、

「助けてくれ!」

 と、男が叫んだ。これは、主人公が入力したプログラムにはないことだった。

 男は錯乱する。

「書かなくちゃ……。誰だ! ここは? 書きたくない! もういやだ……。助けてくれ。どうして? お前! なんだっけ……」

 わけのわからないことを言いながら暴れ回る男。その間に男がいた部屋がどんどん崩れていく。母親も父親も消え、壁という壁が取りはらわれたとき、男が何もない空間に力なく浮かぶ。

 一方、主人公も混乱していた。脳が勝手な反応を示すので、それを止めようと必死だった。そのとき、水槽に張られていた水が激しく泡立ち、脳に接続されたコードが弾きだされるように、1本ずつ引き抜かれていく。

 それだけじゃない。主人公がいる部屋全体が激しく揺れ出す。水槽の水が溢れ、床に這わせたコードの所々が破け、火花を散らす。

 パニックになる主人公。そのとき、水槽が大爆発。

 ガラスが割れ、壁に叩きつけられて、意識を失う。

 やがて、目を覚ます主人公。よろよろと立ち上がり、モニターを見る。そこにはこう書かれていた。


〈脳は、まさに理想郷である。水槽の中のそれは、まるで空に浮かぶユートピアのよう〉


 僕は必死に父さんを呼び続けた。しかし、家にいるはずの父さんの足音はいくら呼んでも聞こえてこない。部屋を出ようにも、どうしてか開けられない。

 鍵がかかっているわけじゃない。

 ドアノブがないわけじゃない。

 どうやって開けるのかわからない。

 いったい、どうしたんだ? 何が起こっているんだ?

 僕はモニターを見つめた。後藤がゆったりと椅子に座って背伸びをしている。ため息をつき、目を擦りながら、

「やっと終わったよ……」

 と、疲れた声を出している。でも、これは、僕が指示したわけじゃない。勝手に喋っているんだ。

 そんなことありえない。僕がプログラムを入力しないと、コンピューターを操作しないと、後藤は何もできないはずなのに。

 父さんも来ない。部屋からも出られない。

 混乱した僕は、カーテンを開けた。窓から外へ出ようとした。

 そこで見た光景に、僕は気づかされた。

 柳川町を見下ろす青い空。そこに、積乱雲のように浮かぶのは、巨大な脳髄。

 ああ、そうか。

 全部、思い出した。


 僕は、あの日、死のうとしたんじゃないか。

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空飛ぶユートピア。 後藤文章 @tatekawajugemu

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