老猿と少年

 禄御坂をてくてく登りきると、小町通りと呼ばれる飲み屋街がある。昼間は軒並みシャッターが下ろされ、閑古鳥が鳴く様相であるが、ここを真っ直ぐ進み、寺の前で右に曲がれば、大通りへと出る。その向こうに見える大きな看板に〈小町通り動物園〉と書いている。

 飲み屋街は夜になると明るく活発になり、人通りも多くなるものであるが、通りの名を冠したこの小さな動物園は、年がら年中人の気配無く、ひっそりとしていた。

 日本全国各地にある動物園と比べて、特段もの珍しいものがあるわけでもない。ただただ、のんべんだらりと細く長く、営業を続けられてきた老舗の動物園というだけ。ここを訪れるのは、物好きな動物好きや、人気が少ないところを求めて辿り着く者ぐらいである。が、本日、小町通り動物園には、珍しく若いカップルがいる。

 7月の中旬。百年に一度の酷暑が到来した夏。雲一つない快晴の空の下。

 ゴツゴツとした岩が重ねられ、それを猿たちが登ったり下ったりしているのを、柵越しに眺めることができる。その前で立ち止まる高校生が二人。小村誠志朗おむらせいしろうとそのカノジョである新田葉月にったはづき。ふたりとも受験を控えた高校3年生である。

 となりに並んでいた葉月は、猿山を前にして立ち止まった誠志朗に尋ねた。

「ねぇ、どうしたの?」

「ん? あぁ……まぁね……」

 誠志朗は物静かなタイプの男子である。こちらから話しかけないと、基本的に口を開かない。しかし、それは嫌ではない。なぜなら彼が、背の高い、笑顔が爽やかな好青年であるからだ。

 誠志朗は陸上部に所属している短距離選手であり、女子からの人気も高かった。はじめ葉月に彼は眼中になかったのだが、異性に慣れていないその様子が愛らしく映り、気づけば好きになり、気づけば付き合うことになっていた。

 ところが、はじめてのデートにまさかこの寂れた動物園とは……。誠志朗はいったいどんなセンスをしているのか。いくら女の子に慣れていないからって、さすがにこんな獣臭いところに連れて行くはいかがなものか。

 だが、誠志朗の横顔を見つめていると、何か訳があるのではと思えてくる。そして今、猿山を眺める彼の瞳に、寂しげな光が見えた気がした。

「思い出の場所なんだ。ここ」

 ぽつりと誠志朗が呟いた。葉月に言ったようで、そうではない。ことばはそんな風に響いた。

「思い出の場所?」

「そう。この街でいちばん好きだったところ……」

「いちばん好きだったって……今は好きじゃないの?」

「いや、そうじゃないんだ。好きの種類が違った……。そうだな……昔は会いたくて来ていたけれど、今は……あのときの自分を思い出すために来ている感じ……」

「……なんか、難しいこと言ってる?」

 首を傾げる葉月に、誠志朗は優しく笑う。

「ごめんね。上手く説明できないんだけど……」

 不意に、誠志朗が葉月を見つめた。何かを覚悟したかのような強張った瞳。思わず胸が高鳴る。

「ねぇ、思い出話、していい?」

「う、うん……いいけど……」

「きっと、信じて貰えないかもしれないけれど……でも、葉月ちゃんには話しておきたいんだ」

 信じて貰えないかも知れない。そう言われると、葉月に対抗心が芽生える。誠志朗から言われたことばに対する抗いである。

「信じるよ、わたし」

 まっすぐ目を見て言う。ほっとしたような表情の誠志朗。じゃあ、と語り出したのは、およそ5年前のこと。彼がまだ、中学1年生だった時分の話である。



 柳川中学校に転校生としてやってきた、当時13歳の誠志朗。「ちょうどいい、と暮らしませんか?」という文句を謳うこの本井市にやってきた彼には、父親がいない。いるのは男二人に捨てられた母と、血の繋がっていない年の離れた弟。

 小村家は以前、大林家であった。しかし弟が生まれておよそ一年も経たないうちに父親が失踪。その後、小村家となり、前の賃貸を引き払い、本井市正武町の正武団地へとやってきたのだった。

 母はその父親をたいそう愛していた。そのために、裏切られたショックは大きく、瞬く間に心をやつしてしまった。あれほどテキパキとこなしていた家事全般を怠るようになり、やがて誠志朗に任せっきりとなる。母のその変わりように、彼も見てられないというように目をそらす。

 しかし、小学校へ上がったばかりの弟は、まだ母に構ってもらいたい年頃である。ところが、また不幸なことに、この弟、日本のどこかに逃げおおせた前夫に似ていた。

「ちょっと! 静かにしてくれない? ねぇ、誠志朗。そいつどっかやって。わたしの視界に入れないで!」

 鋭い母の怒声に、狭いリビングは凍りつく。兄と遊んでいた弟は、すがるような目で母を見つめるが、恐怖で声が出せない。彼の瞳は、兄である誠志朗の心を十二分に追い詰めた。

 母親は、毎日のように弟に辛くあたった。声を張り上げるだけでなく、暴力を振るうことも少なくなかった。誠志朗はそれを止める力もなく、傷ついた弟を慰めることしかできない。

 新しい町。新しい学校。馴染むために精一杯の誠志朗である。友人をつくる余裕もなく、相談相手など見つかるはずがない。ゆえに、学校が終わると、彼は一人で家路へと付く。

 家に帰りたくない……。空が橙に染まるころ、そんな気持ちになる。

 しかし、帰らないと誰が弟を守るのだ。誠志朗は自分がいないと母が何か取り返しのつかないことをしでかすのではと思っていた。遅くに工場から帰ってきた母は、身も心も疲れ果て、それを癒すが為に、幼い弟を怒鳴り、叩く。その剣幕に足がすくみ、母の前に立ちはだかることができない。

 誠志朗の小さな肩には、とうてい背負いきれるはずのないほどの責任が覆い被さっていた。

 母が帰ってくるまで、まだ時間がある。今すぐ家に帰らなくてもいい。そう考えて、誠志朗が足を踏み入れたのは小町通り動物園。

 気怠そうな職員に入園料の300円を払う。門をくぐれば、独特な獣の匂いが鼻を突く。辺りを見回しながら、歩を進めていく誠志朗。彼が前にいた街では、この動物園よりもっと大きな動物園があり、幼い時分には父親とよく連れ立ったものだ。

 誠志朗は動物園が好きだった。普段の生活では決して目にすることのない生き物たちに出会え、彼らが過ごしてきた故郷を思い浮かべると、自らの知らない世界への浪漫を感じていた。

 しかし、今、誠志朗の動物園に対する心象は少し違う。あの「こんな生き物がいるんだ」「こんな場所があるんだ」といった興奮を得るより、彼を取り巻く現実とはまったく違う場所として、動物園を認識していた。

 つまり、誠志朗は動物園に逃げてきたのだ。

 とぼとぼ歩く誠志朗とすれ違ったのは、ほんの数人。来園客より動物のほうが断然多く、かえってそれが、彼を安心させた。人間より、動物の方を見たかったからだ。しかし、そんなひとときも長くは続かず、小さな動物園は小一時間もかからずに、見終えてしまった。もう、家に帰らなければならない。

「はぁ……」

 ため息をつき、足を止める。そっと握った柵の向こうでは、高く積まれた岩山を猿が登ったり、下ったり。機敏に動きまわる猿もいれば、隅のほうでぼぅっとしている猿もいる。餌を取り合う猿もいれば、けたたましい叫びを訳もなく上げる猿もいる。

 こうしてみると、猿と人間が近しい生き物であるというのは、甚だ信じられない。やはり、所詮は獣。あのように何も考えず、ただただ本能的に過ごせたらどれほど楽だろうか、といったようなことを考えている誠志朗の目。途端に一匹の猿に釘付けになる。

 岩陰に背中をあずけ、ぽつねんと座りながら石を積んでいる。1枚、2枚、3枚と、大きいものから小さいものの順に積んでいた。静かで繊細な動作である。

 その猿の毛並みは荒れ、その体躯は他の猿よりも少しばかり大きい。垂れた瞼の奥に光る瞳の眼差しは険しく、誠志朗はこの猿が老いていること、そして猿山の頭領であることを感じ取った。

 ガチャン。

 積まれた石が崩れる。と、同時に老猿の目が誠志朗に向けられた。ハッと、思わず目をそらす。鋭利な眼光に気圧されたのだ。

 いや、しかし、猿に睨まれたからといって目を逸らすのは、あまりに軟弱ではないか。自分はこれから弟を守る兄なのだ。猿ごときなんだ、という気持ちで誠志朗は顔を上げた。

 老猿はまだこちらを見ていた。誠志朗は見つめ返す。キッと睨む。そして、

「なに見てんだよ」

 と、凄んだ。すると、

「お前が、見てきたからだろ」

 わああっ! と情けない声を上げて尻餅をつく誠志朗。老猿が返答したのだ。猿が人のことばを喋ったのだ。

 空耳か? と辺りを見回す。人の気配はない。徐に立ち上がり、もう一度老猿の方を見る。

「ふん」

 鼻で笑った。老猿は誠志朗の反応に対して、冷笑したのだ。猿に笑われた人など知らない。彼は侮辱された怒りで、声を荒げた。

「わ、笑ったな! 猿のくせに!」

「ああ、笑ったさ。人間のくせに猿に笑われた気分はどうだ」

「うっ……」

 やはり、確かに、喋っている。誠志朗は面食らった。

 この老猿、ただの老いた猿ではない。いや、もはや猿ではない。その厳めしい口ぶりや表情は、あまりある暇を潰すことに飽きた老人のそれだ。日本語の発話は滑らかで、違和感がない。それがなおのこと奇妙だった。

「な、なんで猿が……」

「不思議か? 少年、いくつになる」

「え?」

「何歳か聞いてるんだ」

「あっ……13歳です……」

「小さいな。——いいか、少年。世の中にはお前の知らないことがたくさんある。いや、知らないことしかないと思ったほうがいい。今、目の前で起こっていることがそのひとつだ。良い勉強になったな」

「いっ……いやいやいや、でも! でも……猿が喋るなんて……」

「信じられないと言いたいのだろう? 思いも寄らぬ、予想もしないことが起こったときこそ、男の見せ所だ。猿如きに腰を抜かしていては、まだまだだな」

 老猿はそう言うと静かに笑った。誠志朗はその皺だらけの笑顔に、不思議と嫌悪感を抱かなかった。嘲笑されているわけではない。どこかに優しさを感じ取った。

 誠志朗には祖父がいない。彼の父と母は駆け落ちをしたために、それぞれの両親と絶縁していた。弟の父にも両親はいたのだろうが、けっきょく知らぬままだ。

 誠志朗は、無自覚であるが、老猿の中に出会えたはずの祖父を見ていた。

「ぼくは……まだまだかな…………」

 ぽつりと、声が漏れる。立ち尽くし、俯いた誠志朗。老猿は顔を上げると、小さく肩を震わせる少年を見据えた。

「家に帰りたくないんだ……」

 そのまま黙り込む誠志朗。老猿から何か返事があるかと待っていたが、何もない。彼は仕方なく続ける。

「お母さんが、弟を怒鳴るんだ……。怒鳴るだけじゃない、思いっきりぶつんだ。何度も、何度も、何度も……」

「それが怖いのか」

 老猿が言う。静かだが、ずしんと耳の奥に響くような声だった。

「うん……怖い」

「怖いから、帰りたくないのか……」

「……たぶん……そう……」

「何が怖いのか、まだはっきりしていないようだな。弟が怒鳴られ、弟がぶたれている中で、なぜお前が恐怖する?」

 言われて気づいた。誠志朗は母親の何に恐ろしく感じているのだろうか、わからなかった。母が怒鳴ることか? 暴力を振るうことか? しかし、それらは自分に向けられたものではない。

 考えて、考えて、誠志朗は老猿を見据えて言う。

「弟が……弟のことを守れないことが怖い……」

 しかし、導き出した答えに自信を持てないでいた。老猿は誠志朗のそんな心を見透かしたかのように、

「違う」

 と、言い放った。

「少年……。お前は弟を守ることによって、母からの暴力が自分の方へ向くこと。これを恐れているのではないのか?」

 老猿のことばを受け、頭に血が上るのを感じた。それだけは否定せねばならないと、体が動き、柵を握る手に力が込められた。

「違う! ぼくは……弟を守りたいんだ!」

「ならば、なぜ守れない」

「それは……怖いから……」

「何が怖いんだ? 住む家に帰れないほど、何を恐れる必要がある。母からお前はどのように扱われているんだ? 弟と何が違う?」

 母は誠志朗を「誠志朗」と呼ぶ。しかし、弟の名前を呼ぶことはほとんどない。溺愛されているわけではないが、彼は母からの愛を感じ取っていた。しかし、弟はまるで躾のなっていない犬のような扱いを受けている。

「なぜお前の母が弟を虐げるのか、儂は知らん。しかし、母が憎む弟を守ることで、弟に向けられていた憎悪が自分に向くのではないかと、考えているんじゃないか? 弟を守ることで、その弟に降りかかっていた暴力が、自分にも降りかかるのではと。弟を守ることで、自分に向けられていたはずの母からの愛が、失われるのではと」

 誠志朗は俯いて、投げられる老猿からのことばをただ聞いていた。

「よいか少年、よく聞け。お前は兄だろう?」

「……うん…………」

「なら、弟を守れ。それで母がお前を見捨てようと関係ない。お前のもとを去ろうと問題ではない。恐怖に打ち勝て。兄ならば、弟を守れ」

 老猿は一端ことばを切ると、付け加えた。

「兄弟というものは、そういうものだ」


 夕日の赤がいっそう濃くなっている。やがて来る夜を控えた空の下、誠志朗は走った。必死で走った。頬をつたう涙をぬぐい、だらだら垂れる鼻水を啜る。

 階段を駆け上り、部屋を開ける。玄関に靴がひとつ。弟のものだ。

「あっ、お帰り! お兄ちゃん」

 兄の帰りを待ち焦がれていたかのように、駆け寄ってくる。目の上の痣は薄くなったが、まだ消えていない。服の下には、たくさんの傷が隠されている。

 誠志朗は弟を抱きしめた。弟は突然の兄の行為に戸惑っていたが、彼は構わない。ただ、どうしても言いたいことばがあった。

「ごめんな」

 誠志朗は目を閉じる。いままで心の奥底に沈んでいたことば。言い出す勇気の無かった己を恥じながら、彼は囁いた。

「ぜったいに、兄ちゃんが守ってやるからな」

 それからというものの、誠志朗はあの老猿に会うために、しばしば小町通り動物園を訪れた。相変わらず人気は少なく、受付の係は無愛想で気だるい様子。老猿の鋭い目つきと、低い声、厳めしい表情と、皺の数も変わらない。

 ただ、土日祝日となると、普段より人気も多くなり、そんなときは老猿に話しかけるのは躊躇われた。人のことばを話す猿なんてものが知れ渡れば、きっと大変なことになるだろうと、誠志朗は考えていたからだ。それに、このことは自分だけが知っていることにしたい、というような思いもあった。

「おい、そろそろ家に帰る時間じゃないのか?」

 あるとき、老猿が思い出したように尋ねる。

「そうだね。でも、お母さんには、動物園によってくるって言ってるし」

「弟がいるだろう。母と二人だとまずいのではないのか?」

「大丈夫だよ」

 誠志朗は老猿に微笑んだ。

「もう、大丈夫なんだ」

 老猿は誠志朗のことばに、

「そうか」

 と、だけ返した。老猿は厳然な表情のままであるが、老猿の喜びは、誠志朗にちゃんと伝わっている。誠志朗は学校で親友を見つけるよりも先に、動物園にて老猿という唯一無二の師友を見つけたのだ。

 ところが、彼は老猿の名を知らない。ふと、そのことを思い出し、彼は尋ねた。

「ねぇ、名前教えてよ」

「なに?」

「な、ま、え!」

「そういえば、お前の名前も聞いていなかったな」

「ぼくは誠志朗っていうんだ。小村誠志朗」

「そうか」

「そうかじゃないよ! ねぇ、教えてよ名前!」

「猿でいい」

「やだよ、そんな。友だちに言う名前じゃない」

「友だち?」

「そう、友だち」

 まっすぐとした目で言う誠志朗。老猿は彼をしばし眺めると、ふっと笑った。珍しく、感情が顔に出ている。

「友だちか……」

 老猿は感慨深げに呟いたが、けっきょく誠志朗に自らの名前を教えることはなかった。ゆえに、彼は老猿を呼ぶときは「ねぇ」とか「あのさ」とか「君は」とか呼ぶしかなかった。


 相談事があると、誠志朗は必ず老猿に会いに行く。そこで洗いざらい話すことで、心の奥にしまわれていた煩悩のそれぞれを消し去ることができた。嫌なことや、辛いことがあれば、皆口に出してしまえば楽になるということを、彼は老猿との交流を通して学んだ。

 別のクラスの女の子がイジメられていること。文化祭で実行委委員に選ばれてしまったこと。テストの点数が思ったより伸びないこと。好きな子ができたこと……。自分を取り巻く事象が変わりゆくなか、自分はいったいどうすればいいのか。誠志朗はそのヒントを老猿に求めて、小町通り動物園へ向かうのであった。


「いいか、少年。イジメなど猿たちの間でも起こることだ。お前たち人間に起こっても何らおかしくはない。そこのところを知った上で、やはり一人の力を信じすぎるな。——猿も人も、孤立無援の中では何も成せない。だが、だからといって何もしないのは、臆病者の選択だ。……重要なのは、行動したかどうかだ。動け、少年。お前の良心を信じた先、その結果など、問題ではない」


「人を成長させるのは、その時々に置かれた立場だ。確かに、お前にとっては気乗りしない仕事だろう。だが、それを避け続ければ、男としての成長は見込めない。——運が良かったと思え。これは好機だと思うんだ。人生の中で誰かに期待されることは、それほど多くない。期待に応えようと励む、その経験は、必ずお前の糧になる」


「ひとりの女生徒を救い、文化祭とやらを成功させたお前が、そんなことで悩むとは珍しい……。良いときもあれば、悪いこともあるのが世の常だろう? 学校とやらでは、点数が全てなのか? 数字の大小で個人を評価する者など、儂なら見限ってしまうだろうな」


「誠志朗、お前はどうしたい? その女子に気持ちを伝える勇気はあるのか? なければ、その恋が成就することはないだろう。あれば、伝えろ。——いいか、決して向こうから伝えさせるような姑息なマネはするな。男なら、まっすぐ相手の目を見据え、はっきり話すんだ。はっきり言うんだ。それだけが大事だぞ」


 何気ない会話も、老猿と繰りかえした。時々、クラスメイトたちと交流しているところを見せない彼を、老猿は心配する。その様はまるで祖父の様で、微笑ましい。

 誠志朗には、親しい友人が何人かいた。土日祝日以外は、その友人たちとどこか出かけたり、家でゲームをしたりと楽しんでいた。もう彼が転校生であったことなど、クラスメイトたちにとっては遠い昔の記憶であり、忘れているものさえいる。

 それほど、誠志朗は柳川中学校に馴染み、そしてこの町の住人として生きていた。それもこれも、老猿がいたからだ。老猿の存在がなければ、彼は今もなお、鬱屈とした毎日を送っていたかもしれない。

 ——いつか、ちゃんとお礼しないとな……。

 とは思うものの、いつに言おうか、何と言おうかと考えているうちに月日は過ぎていく。

 誠志朗、中学3年生の夏。うだるような暑さが治まりだしたころのこと。連休明けの火曜日、いつものように動物園に向かい、入場料の300円を受付の職員に渡すと、

「ねぇ、君。小村誠志朗くんだね?」

 と、職員が言う。受け取った300円はトレイの上に置かれたまま。職員の男は、痩せて落ちくぼんだ目で、誠志朗を見上げていた。

 こんな顔していたっけ? と男を見ながら、立ち止まる誠志朗。男は黙って返事を待っている様であり、彼は仕方なく応じた。

「そうですけど……」

「君、あの猿に会いに来たんだろう?」

 えっ、とことばが詰まる。猿というのは間違いなくあの老猿のことだろう。思わず否定しようとしたが、老猿が人のことばを話すことが知られているかどうかはわからない。「ただ、会いに来ただけだ」と話せば、詰問される心配はないだろうと踏んだ誠志朗は、

「はい」

 と、小さく返事。男は誠志朗から目をそらして言った。ことばひとつひとつを丁寧に拾い上げるような口ぶりだった。

「猿とはもうすぐ、会えなくなる」

「えっ?」

「他の猿なら変わらず猿山で過ごすことになっているがね。しかし、君と一緒に話していたあの老いた猿は、この動物園から去って行く予定だ」

 誠志朗は当惑した。男の顔を見ることができない。男の言っていることが理解できない。男は老猿が人のことばを話すことを知っていた。知っていただけでなく、老猿がこの動物園を去ってしまうことを告げている。

 混乱する脳は、踵を返し、この場を離れる選択を取ろうとする。しかし、そのとき、脳裏には老猿の顔が思い浮かぶ。もし老猿ならどうするだろう、と誠志朗は考えた。

 ——逃げたら、きっと怒られるだろうな。

 誠志朗は男を真っ直ぐ見据えて言った。

「どういうことですか? 詳しく、教えて下さい」

「私は、猿から頼まれただけだ」

「頼まれたって……」

「君がやってきたら、自分のもとに連れてきてくれと……」

 ぶつぶつと呟くように言いながら男は立ち上がると、徐に受付席から出てきた。誠志朗はそこではじめて、男が自分の頭ふたつ分ほど背が高いことに気づいた。加えて、いつもの気だるい様子とは少し違って見える。瞳は暗く、表情もどこか思い詰めている様だ。

 男は誠志朗に近づくと、彼の手に先ほど手渡されていた300円を握らせた。

「お金はいらない。ついてきなさい」

 誠志朗は渡された小銭をポケットにしまうと、そそくさと先を歩く男を追った。歩くスピードはかなり速い。相手の歩調などは頭にないのか、それとも急いでいるのか。図りかねるが、とにかく文句を言わずついていく。

 男は猿山を通り過ぎると、鳥獣広場がある方へ進み、右に曲がる。ゴツゴツとした岩のモニュメントが見え、そのすぐ下に鉄格子の扉あった。鍵をあけ、薄暗い階段を降りていく。誠志朗は、入ってはいけないどこかに入ってしまったような気がして、緊張していた。

 しばらく道なりにまっすぐ進むと、赤茶けた扉が見える。それを押し開くと、幅3メートルほどの通路が続いていた。通路は、連なったガラス張りの一室に挟まれている

「ここは……」

 呟いた誠志朗のことばに、男は応えない。ただ、歩を進めていく。左右の部屋は空であり、ただ、壁には爪で引っ掻いたような傷や、ガラスには何かが強く当たったようなヒビが入っている。かつて、部屋が使われていた確かな痕跡があった。

 いったい、何がいたのか。動物なのだろうが、それを聞くのは何となく躊躇われる。男と誠志朗の足跡だけが響く空間は、なんだか居心地が悪く、堪らなくなってくる。

 すると、突然男が立ち止まった。危うくその背中に顔をぶつけそうになる誠志朗。

「ここだ」

 男は体を左に向けて言う。誠志朗もつられるようにして、その方向を見やると、

「あっ!」

 通路に、驚いた誠志朗の声が響き渡った。彼の眼に映ったのは老猿の姿。しかし、それはいつもの老猿ではない。天井から伸びた鎖に両手を縛られ、膝を曲げた両足は床に固定されている。目は閉ざされ、まるで処刑の時を待つ罪人のような有様だった。

「やぁ……誠志朗……」

 力なく言う老猿は、そのことばと共に目を開く。誠志朗は堪らず駆け寄るが、分厚いガラスの壁が彼を阻んだ。

「どうしたの? ねぇ、大丈夫?」

「大丈夫だ、心配しなくていい……」

「大丈夫って……そうは見えないよ?」

「ははっ、だろうな……。だが、見た目よりも儂は弱っていない。それより誠志朗……少し話をしないか……?」

 老猿は言う。部屋の中にいるのは老いた猿に変わらないのだが、誠志朗にはその変わりようが分かる。いたく体は傷つき、纏う空気に勢いはなく、本当の意味で老いてしまったかのように見えた。

「お前に、話しておかないといけない……」

「なに? いいよ、話してよ。その代わり、ぼくにも聞きたいことがあるんだ」

「ああ、おそらくお前が聞きたいことについても、ゆくゆく話すだろう……」

 老猿は深いため息をつくと、

「京平。少し外してくれないか」

 そのことばに、誠志朗をここまで案内してきた男は、来た道を帰っていった。

「きょうへいって言うんだ……」

「ああ。誠志朗、あいつから何か聞いたか?」

「えっ、あっ、うん……。その……もうすぐ動物園からいなくなるって……。ねぇ、それって本当?」

「ああ、本当だ。誠志朗、いつもお前は儂に会いに来てくれたが、今回は儂がお前を呼びつけた。なぜだかわかるか?」

「えっと……一緒に話したいから?」

「そうだ。そしてこうして儂とお前が話すことも、最後になるからだ」

 誠志朗は思わず声を上げようと口を開いた。しかし、

「待て」

 と、制する老猿。声に宿る覇気は健在だった。

「誠志朗、儂はお前に隠していたことがあった。そのひとつは名前だ。儂の名前は5487。これを付けたのは、儂のかつての主だ。

 ——儂はな、若い頃はあの猿山にいる猿となんら変わらなかった。しかしある日のこと。食い物のことだけを考え、気ままに過ごしているところ、儂は『NARVナーヴ』という研究機関に攫われてしまったんだ……。連れて行かれた建物は人目につかない山の中にあり、そこで被検体として体中のいたるところを調べられた。調べられただけじゃない。儂の脳は、その組織の連中に改造されたのだ。

 よって、こうして、お前と話すことができている。なぜ、儂が人のことばを話せているのかの、理由だ。

 ——組織は儂のような猿を多く捕まえ、儂と同じく、人間レベルの知能を植えつけていた。その後、儂たち猿は厳しい体力トレーニングや戦闘技術をたたき込まれ、やがて銃を携えて、あらゆる地に赴いた。

 誠志朗……。今こうしている間も戦争が起きている。各地で様々な理由で、様々な国籍や民族の人間たちが、殺し合っているんだ。そこへ儂たちは傭兵として派遣された。……しかし、多くの仲間が目の前で死んでいき、いつか自分も命を失うという恐怖と隣り合わせの生活から、やがて儂は逃げた。逃げて、逃げて、逃げ続け……そして、今だ。小町通り動物園で、儂は猿山にいる猿の一匹として生きている……。これが、人のことばを喋る猿が、この動物園にいる理由だ」

「ねぇ」

 誠志朗はすがるように言った。

「ぼくはそんな話聞きたくないよ。君の過去なんて知らない。ぼくが知りたいのは、君が……」

「誠志朗、話を聞いてくれるんじゃなかったか?」 

 諭すように言う老猿のことばは、いつもよりいっそう、優しかった。その優しさが、誠志朗の胸を締め付ける。

「聞くよ? 聞くけど、そんな……そんな風な話……。本当にお別れみたいじゃないか……」

「誠志朗。出会いがあれば、別れがあるのは当然だ」

「いやだよ、ぼく! ぼく、君と」

「誠志朗!」

 老猿は怒鳴った。ことばを遮られ誠志朗は口を噤む。

「聞いてくれ……。もう、儂には時間がない……」

 懇願するような老猿の声に、誠志朗は両の手をぎゅっと握りしめた。俯き、顔を上げることができない。老猿を見ると、泣いてしまいそうだった。

 老猿は一呼吸すると、静かに話し始める。

「半年前だ。組織の者がここを見つけた。どうやら組織は動物を兵士として改造していた事実を、もみ消そうと躍起になっているらしく、逃げ出した儂を探していたそうだ……。京平をはじめ、皆儂を庇ったが、けっきょく一昨日に来た組織からの通達に従うしかなった。儂は組織に引き取られ、その先で処分されるだろう」

「そんな……処分って……。それじゃあ、また逃げればいいじゃないか! 他の動物園に行くのもいいし、猿として森に帰ったっていい!」

「落ち着け誠志朗。組織から逃げるのは、実際たやすい。しかし、もう限界なんだ」

「限界って……」

「儂は……確実に猿へと戻ろうとしている」

 老猿はそう言って押し黙る。まるで誠志朗の反応を覗うような素振りであるが、彼は何と言っていいかわからない。老猿のことばそのものも、理解しきれていない。ゆえに、

「どういうこと?」

 と、尋ねる。

「ことば通りの意味だ。儂は人間の知能を持っているが、元々はただの猿だ。人間の脳から、猿の脳へと戻ってきている。ここ最近はその進行具合が速い」

「それがいったい……」

「いずれ、儂はお前と話せなくなる。ただの猿と会話などできないだろう? それに、自制が効かなくなり、本能だけで動くようになる。……このままでは、儂を守ってくれた者たちまで傷つけてしまう。それに……」

 老猿はことばを詰まらせた。誠志朗から逸らした目を瞬かせ、やがて深く息を吐く。老猿はそっと口を開いた。

「誠志朗……お前に猿になった儂の姿を見せたくない……」

 老猿は吐き出すように言った。

 そっとガラスの壁に手を触れる。誠志朗は額をそこへ強く押しあてると、

「逃げてるよ……!」

 と、呟く。

「君は、逃げてるよ! 猿になっても君は君じゃないか! 猿になることが君にはとって恥ずかしいことかもしれないけど、それでも……。君は逃げずに受け入れるべきなんだ! 猿になることから逃げずに……。そのほうが……。そのほうが死ぬよりいい……」

 言い終えるよりも前に、ぽろぽろと涙が頬を伝う。しゃくり上げる誠志朗。老猿は俯いて泣き続ける友人に向かって言う。

「泣くな、誠志朗。いいか、聞いてくれ。……どうして、儂がお前と話していたかわかるか? 本来、儂はあのまま猿山の猿として過ごす予定だった。お前のことばを、他の猿のような素振りで、無視しておけばよかったのに、なぜだと思う?」

「ぼくの所為だ……。ぼくが話しかけたから……」

「それは違うぞ、誠志朗。よく聞け。こっちを見ろ。いつまで泣いているんだ」

 誠志朗は顔を上げる。涙でぼやけた視界の中、老猿が微笑んでいるのが見えた。

「お前が儂に話しかけることがなかったら、儂とお前は出会うことがなかったんだぞ。儂がお前に返事をしたのは、ひとえに寂しかったからだ。……いつか、猿も人も一人ではどうすることもできないといったことを話しただろう……。儂は、猿山の中、たった一人、人間の脳をもった猿として生きることが辛く、耐えられなかったんだ。——誠志朗……あの日、お前が儂の命を救った……」

 言うと、柔らかく微笑んでみせた。

「ありがとう。お前と出会えたこと、儂は本当に嬉しく思っている」

 晴れ晴れとした様子だった。この世に何の悔いも無い。生きとし生けるものとしての最期を全うしようする老猿を前に、誠志朗は呟く。

「ずるいよ……」

 涙が止まらない。膝から崩れ落ち、ガラスに両手で叩き泣きわめく。

「先に言うなんて……! ぼくが……ぼくの方こそ……君に伝えたかったのに……」

 誠志朗は泣いた。声を上げ、力の限り、泣いた。悲しいから。悔しいから。それだけではない。目の前の友人であり、祖父であった老猿に向けて、彼は泣き続けた。

 今生の別れ。

 老猿と少年の日々は幕を閉じた。 



 全てを話し終えた誠志朗の横顔。こちらが嫉妬してしまうほど美しく見えるその表情からは、おとぎ話を話し終えたような気配は感じない。

 しかし、葉月は尋ねた。

「ねぇ、それって……本当の話?」

「そうだよ。嘘偽りのない、本当の話」

 こちらを見る誠志朗の瞳。葉月には、彼の瞳に寂しげな光が宿っているように見えた。

「そんな映画みたいな話……」

「信じてくれなくていいよ」

「えっ?」

「誰かが信じてくれることは、重要じゃないんだ。ただ、ぼくが君に伝えたかっただけさ」

 そんな風に言われると、

「信じる! 信じるよわたし」

「え? いやいいよ、無理に信じなくたって」

「ううん。誠志朗の話、わたし信じてみたい」

 葉月の様子に、思わず吹き出す誠志朗。見た目は可愛らしい女の子だが、意地っ張りで見栄っ張りで、それでいて頑固で利かん気なところが好きになったことを、彼は思い出した。

「ぼくさ、高校卒業したらこの町を出ようと思うんだ」

「それって……大学に行くってこと?」

「そう。ここから遠いところにある大学に……。ねぇ、一緒に来ない?」

「え?」

「一緒に同じ大学に入ってさ、それで一息ついたら……」

 今まで顔だけを葉月の方に向けていた誠志朗。体ごとぐるっと向けて、彼女の瞳を見つめる。

「結婚しよう」

 葉月はことばを失う。気が早すぎないかと思ったが、結婚のことを考えるほど自分を愛していたのだと知って嬉しく、しかし、成績優秀な誠志朗と同じ大学へ行ける気がせず、今さら志望校を変えて勉強してもいいのだろうか。それに、もし同じ大学に行けなかったら……。と、様々な思考が一瞬のうちに、頭の中を駆け巡った。

「葉月」

「……はっ、はいっ!」

「いっぺんに言い過ぎたかな」

「ああ、いや……その……ううん、大丈夫……」

「伝えたかったから……」

 誠志朗は言った。

「伝えたいことばを……伝えたい人に、伝えきれなかったこと……。もう、経験したくなかったんだ」

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