出られない!
本井市立柳川小学校。東と西にそれぞれ一つずつ4階建ての校舎があり、その間には本館と呼ばれる、ちょうど同じ階数のものがある。
この本館。その昔、政府が秘密裏に運営していた研究施設であり、そこでは多くの人間たちが実験台にされ、沢山の化学兵器が生まれていたそうな。夜中になると、そこで犠牲になった人々の恐怖や恨みが亡者の姿となって、さまよい歩くのが見えるという。
まぁ、有名な噂である。本井市にながらく住む者なら誰でも知っているほど。なぜなら、柳川小学校は本井市唯一の小学校であり、地元に根を生やした住民たちは皆、卒業生であるからだ。
小学2年生になったばかりの子どもたちにとって、こうしたオカルト的な噂の数々は、彼らの興味をひきつけて止まない。
夜中の小学校に繰り出そうとする男子連中。しかし、同じ男子であるが駿は違う。母親譲りの茶色がかった髪を短く切りそろえた彼は、8歳という若さで「泣き虫」と「怖がり」が板についてしまった少年である。噂を聞くだけで身震いし、その晩はざわつく心を鎮めようと急いて眠れなくなってしまう。
だが、そんな駿であるが、現在午後8時、どういうわけか、すっかり暗くなった校舎の中を、ライト片手に歩いている。
しかし、ひとりではない。前を歩くのは、同じくライトを持った純凪。切れ長の瞳はまっすぐ前を見据え、後ろで結んだ長い黒髪をなびかせて、ずんずんと歩みを進めている。
きょろきょろと忙しなくあたりを見回し、今にも泣き出しそうな駿。及び腰の幼なじみに辟易しながらも、彼の前を歩く純凪。性別も気性も口調も違い、ただひとつ背丈だけが同じのこの二人が、なぜ、いわくつきの校舎を歩いているのか。
それは、今から1時間前。暗く濁った夕雲が空を埋めるころのこと。
「どどどっ、ど、どうしよう!」
開口一番、電話口で言うのは駿。慌てふためいたその様子に、純凪は「はぁ……」とため息をつくと、
「なぁに? どうしたの? 落ち着きなさいよ」
「がっ、学校に……忘れものしちゃった……」
「忘れもの? なによ」
「日誌……」
「日誌って……あぁ、あんたって今日、日直だったわね」
「そうなんだ……。明日の朝に木村先生に渡さなくちゃなんないんだけど……」
木村先生というのは、駿と純凪のクラス担任である。頭頂部がわずかに薄くなった壮年の男性。分厚いメガネから覗く視線の鋭さたるや、猛禽類のそれと同じ。
決して生徒を怒鳴ることもなく、手を上げることもないが、幼い時分の生徒たちでも、木村が醸し出す怒気は、敏感に察知することができる。いわば「空気で黙らす」タイプの教師だ。
「じゃあ、渡したらいいんじゃない。明日」
「だめだよ! だって……『きょうのできごと』書いてないもん……」
「はぁ? なんで書いてないのよ」
「だって……その……田中くんたちと遊んでて……」
「忘れた、ってわけね」
「どうしよう純ちゃん……ぼく木村先生に怒られちゃうよ……。なんで書いてないんだって……みんな書いて出しているのに、なんでお前だけ書いていないのか、きちんと話してみろって……」
泣きそうな声を出す駿。純凪はため息をつくと、
「はいはいはい……わかったから泣かないでよ、みっともない」
「ごめん……」
「謝るのもやめて」
「ごめ——あっ……」
「取りに行くしかないでしょ、今日中に」
「取りに行くって……もう夜だよ?」
「わかってるわよ!」
「ごっ、ごめん……」
「何も書かれてない日誌を渡して、怒られたくないなら仕度しなさい? 家まで迎えにいってあげるから、早くね!」
ガチャンと電話を切る純凪。対して駿は受話器を手にしたまま呆然としている。だが、彼としてもこのままぼうっとしている状況ではないことはわかっていた。準備を怠れば、必ず純凪に怒られる。怒られることは、とても、とても、嫌いである。
「おばあちゃん!」
駿は、居間でテレビを眺めている祖母に声をかける。
「なんだい駿ちゃん。そんなに大声で」
「あの……ライトある?」
「らいと?」
「その……ピカーって光るやつ!」
「ああ、それなら玄関にあるよ」
「ありがとう!」
「ちょっと駿ちゃん、どこに行くんだい?」
「ええっ! っと……学校に行ってきます……」
「学校?」
「うん……」
「へぇー……勉強熱心だねぇ」
駿に父はいない。彼が生まれる前に、腹の大きな母を捨てて行方を眩ました。今は、祖母の家で三人暮らし。しかし、一家の収入を支える母の帰りは遅く、平日は祖母と二人で母の帰りを待っていた。
年の所為か耄碌した祖母であるが、駿にとってはかけがえのない大好きな祖母である。そんな祖母から褒められて、焦りと不安が吹き飛んだ彼は、リュックサックにスマートフォンと充電器、ライトとお菓子を詰めて玄関に出た。
と、そこに純凪が仁王立ち。
「わっ! 純ちゃん……」
「なに驚いてんのよ? 言ったでしょ? 迎えにきてあげるって」
そうして二人連れだって学校まで歩く。歩き慣れた登下校の道だとしても、夜道となればまた違った趣。心を高揚させる駿であるが、校門の前に来て思い出す。
あの噂。夜の校舎を、死んだ人間がさまよい歩く、不気味な話。
「ねぇ……」
純凪の袖を引っぱる。
「なぁに?」
振り返ると、駿は涙目で震えている。
「な、あ、に?」
もう一度聞くと、駿は件の噂を口にする。やっぱり止めようなどと言い出す始末。あきれかえった純凪は、
「なによ、そんなの噂でしょ? 噂って言うのはね、だいたい嘘なのよ」
「ほんと?」
「そうよ。わかったなら、さっさといくわよ」
校門を乗り越え、まっすぐ横切る。駿と純凪のクラスがある本館の入り口は両開きの重いガラス扉。鍵はかかっておらず、楽々入ることができた。
そうして、今。純凪に率いられて、駿は廊下を歩いている。快晴の夜空には、満月が煌々と光っており、ライトがなくとも歩けるような明るさだ。
それでも二人、ライトをつけているのは、やはり不安だからである。いつ、どこで、突然何か得体の知れないものが出てきそうな雰囲気が、夜の校舎にはあった。
「着いた……」
ほっと息をつく駿。いつもの道のりではあるが、異様に長く感じた。
ガラリと扉を開く。射しこむ月明かりが少ない教室は、廊下よりかなり暗い。入るのをためらう駿を置き去り、純凪が彼の席へと進む。
「どこ? 机の中はないけど」
「そこ……机の横にかかってる……」
「ああ、手提げの中ね。あった、あった……。ねぇ、なんで入ってこないのよ」
「だって……」
「だってじゃないでしょう? さっさと書きなさいよ、その……『きょうのできごと』ってやつ」
駿は渋々といった表情で教室へ入ると、まごまごしながら席へ着いた。
「あっ……」
「なに?」
「筆箱忘れちゃった……」
「なにしてんのよ、まったく……。はい、かしてあげる」
「ありがとう……」
今日一日のクラスの様子を、日誌に書き記す駿。と、ぴたり鉛筆の動きが止まる。
「どうしたの?」
「あ、いや……なんでもないよ……」
「なによ、言いなさいよ」
「いや、あの……本当に今更なんだけどね? その……これって、先生が来る前に書いておけば、よかったのかなぁって……」
「え?」
「いやっ、その……夜に来るんじゃなくて……朝早くに来てね? こう、書いて出したらよかったんじゃないかなぁ……って……」
思わず閉口した純凪。そのまま体の側に下ろした両拳をグッと握りしめ、項垂れ、わなわなと震える。彼女の様子に、あわてて駿は立ち上がった。
「ごめっ、ごめん! ほんと今更だよね! ごめんね!」
キッと駿を睨みつけると、怒声を張り上げる。
「今更すぎるでしょ、バカ!」
「ひっ……ごめんなさい……」
「なんで早く言ってくれないのよ!」
「だって……今、気づいたんだもん……」
とんだ無駄足である。
純凪は駿を怒鳴りつけていたが、もともと学校まで取りに行こうと言ったのは自分である。そのことに彼女も気づいている。気づいた上で怒鳴っている。怒りは駿のマヌケさよりも、自らのマヌケさにも向けられていた。
日誌を書き終え、机の中にしまう。無言出て行く純凪を追いかけ、駿も教室を出た。
もう、すっかり機嫌を損ねた純凪のご機嫌を取ろうと、駿は彼女の後ろをついて歩く。さぁ、なんと声をかけようか。考えあぐねて、ようやく口を開くと、
「ねぇ……」
「…………」
純凪はそっぽを向いたまま。
「ねぇ、純ちゃん……。あのね……」
「…………」
「今日はありがとう……。その……ぼくのためについてきてくれて……」
ちらりと後ろを一瞥する純凪は、
「あんたのためじゃないわよ」
と、つっけんどんな返事。
「……あんたのためなんかじゃないわよ」
もう一度、同じことばを発した。だが、駿は不思議に思う。二度目のことばは、どこか寂しそうな気配がしたからだ。どうしてそんな風に思ったのか。聞こうとしたそのとき、出入り口に到着した。しかし、
「えっ……あれ?」
開こうと腕を引いた純凪だが、扉はビクともしない。押してみるも、結果は同じ。しばらく、引いたり押したりを繰りかえしてみたが、何の変化はなく、
「開かない……」
ぽそりと呟いた。
信じられないことばが、純凪の口から飛び出たために、駿は今にも血相を変えて、
「えっ! なに? えっ! 開かない? 開かないの?」
「うるさいわね! ちょっとまってなさい……」
慌て騒ぐ駿を怒鳴りつけて、純凪はその細腕で扉の片方を握ると、腰を落として、ぐっと引っぱる。
だが、やはりビクともしない。顔を真っ赤にして、頭を仰け反らせるほど力を込めても扉は開かない。いてもたってもいられず駿も加勢するが、やはり開かない。
開かないのだ。
鍵はかかってなかったはず。何者かが、鍵をかけたのかもしれない、と思い至った純凪は、あたりをきょろきょろ。
「他の出口を探すわよ!」
と、走りだす。
「待ってよ、純ちゃん!」
待ってはいられない。自分たち以外の誰かがこの校舎にいるかもしれないのだ。一刻も早くここから出ないといけない! と急いた純凪の心を打ち砕くことが起こる。
東校舎、西校舎、その他非常出口のすべての扉が開かない。
「どうして……」
立ち尽くす純凪。その後ろで駿は鼻を啜っている。ヒック、ヒックとべそをかいている。
「何、泣いてんのよ!」
「だって……だって……出られないんだもん……。もう、ぼくたちこのまま学校から出られないんだぁ……」
「そんなわけないでしょ! どうせ朝になったら出られるわよ……」
——その間、見つからないようにどこかに隠れないと……。いったい誰がこんなこと……。
あたりを見回す純凪のとなりで、駿が「あっ!」と何か閃いたかのように声を上げる。
「なによ」
「スマホ持ってきたんだった……」
駿はスマホを使って、母親に連絡を取ろうとした。しかし、
「あれ? まだ帰ってきてないのかな……」
何度も、何度も、かけ直しても母は出ない。自宅にかけても繋がらない。引っ込んでいた涙が、また駿の目に溢れてくる。
「ラインか何か送っといたらいいじゃない」
そう言いながら画面を覗き込んだ純凪は、信じられないことに気づいた。
「ちょっと、なによこれ!」
誰にも繋がらないはずである。声を上げた純凪が目にしたのは「圏外」という文字だった。
もはやここは単なる小学校ではなく、絶海の孤島の様相。この状況に、駿の涙腺もいよいよ決壊。わんわん、わんわん、泣き出す始末。
「ちょっと、泣かないでって言ってんでしょ!」
だらしなく泣き続ける駿を前にして、誰にも頼ることができない孤独を感じる純凪。次第に彼女もまた、ツンと鼻奥に何かを感じてくる。
と、そのとき、駿は涙で潤んだ目を見開いた。純凪の左腕をガシッと掴めば、そのまま西校舎へ向かって廊下を走る。
「ちょっと! なに、なに? どうしたのっ!」
怒鳴る純凪を引っ張り、スンスン鼻を鳴らしながら走る駿の形相は必死そのもの。いったい何事か見当がつかず、ただただ引っぱられ続ける。
西校舎へと続く通路を右に曲がり、階段をかけ上がる。さっきまでいた教室へと戻ってくると、扉を閉め、廊下に面した窓の下に身を屈めた。
「純ちゃん、はやくっ!」
と、手招きする駿。純凪は、赤く目を腫らした彼の隣に屈むと、
「どうしたのよ、いきなり走り出して」
「ひ、人が……人が見えたんだ……」
ぞっと悪寒が走る。青い顔をする純凪であるが、
「やっぱり噂は本当だったんだよ! オバケが……ここで死んじゃったユーレイが出たんだ!」
なんてことを言い出す駿を前にして、緊張の糸がゆるりと弛緩してしまう。
「バカ言わないでよ……いるわけないでしょそんなの……」
きっと何か見間違えたのだろうと、純凪が思ったそのとき、
「おーい……。おーい……どこだぁ……」
声がする。
間延びした男の声がはっきりと聞こえる。
「ほら、やっぱり!」
と、声を上げる駿の口を、純凪は慌てて塞ぐ。
男の声は足音ともに近づいてくる。二人は息を殺した。
スタッ……スタッ……スタッ……スタッ……。
壁一枚を挟んで、男の足音が聞こえる。目をぎゅっと閉じて涙を流す駿と、恐怖による震えを止めようと必死の純凪。
やがて、足音が遠ざかっていく。完全にそれが聞こえなくなると二人は、はあぁっ、と息をついた。
男は去っていった。これで安心である。その安心がどっと疲れを呼び入れ、うなだれる二人。しばしの間沈黙が流れるが、ぽそりと駿が呟く。
「なんか……元気そうだったね……」
幽霊にしてもお化けにしても、あんな風に普通に声を発するとは思っていなかったのだろう。そのことに、どことなくほっとしている駿である。対して呆れ顔の純凪、
「何が元気そうよ……。幽霊やお化けの方がよっぽどマシだわ」
「ええっ! なんで?」
「なんでって、幽霊もお化けもこの世にはいないの! この世にいて、それでいちばん怖いのは人間なのよ?」
「へぇ~……」
「あんたって……。まぁ、とにかく、さっきのやつに見つかったら何されるかわからないわ。すぐにここを出るわよ!」
そう言って扉の方を振り返ったそのとき、
「見つけた」
廊下から教室へ、にゅっと出でてきた男の首。
にこりと笑っているそれに、ぎゃぁああっ! と、仰け反り、腰を抜かしたまま教室の奥へと慌てて逃げた。
「いやぁ、上手くいったね。こういう風にさ、足踏みして、どんどん、どんどん、足音を小さくしていくんだ。そしたらさ、遠くにいったみたいに聞こえるだろう?」
ぼさっと伸びた黒髪は肩にかかるほど。薄汚れた白い襟のシャツの黒のズボン。浮浪者のような様相でありながら、年は若く、10代後半ぐらい。
「ちょっと、ちょっと。そんな怖がらないでよ」
おどけた調子で手のひらを降る男。邪気のない笑顔であるが、夜中の校舎に現れた背の高い男性など、二人にとっては妖怪も同然。
怯え、震え、今にも気絶しそうな駿を守るようして、純凪は前に立つ。恐怖に震える足を何とか立たせ、こぼれ落ちそうな涙をいっぱいに溜めた目で、男を睨みつける。
「だっ……誰ですか……!」
大声を出そうにも、ことばが喉元につかえてしまう。思うように声が出せない。そんな様子を見て男は、
「大丈夫、大丈夫。怖がらないで? 俺はね、
そっと声を抑え、優しく諭すようにことばを紡ぐ義男であるが、彼に向かい純凪は、
「警察を呼びますよ……!」
と、今度ははっきとした口調で脅しをかける。
「無理だよ! ここは圏外だし……」
義男が放った「圏外」ということばに、ハッと目を見開く純凪。なぜお前が、ここが圏外だということを知っているのかというような表情だ。
慌てて義男、
「待って待って! 違うんだ! 違うんだよ……。俺は怪しいものじゃない。君たちと同じ小学生だったんだ」
純凪は駿の腕を掴むと、義男の脇をすり抜け、教室から逃げ出す。
「ああっ! 待って! 5年ぶりなんだ、人間を見るのは!」
義男は駆けていく二人に手を伸ばす。すると、ぴたりと駿が立ち止まり、振り返った。義男の切ない声色に、どことなく憐れに思ったのだ。
「出られないんだろう……? 君たちも……」
ため息をつくようにして言う義男。そのことばに、純凪も振り返った。
今し方、時刻は夜の10時を迎えようとしている。灯りのついた教室は、日中よりいっそう明るく感じる。席に着いた駿はそんな風に思いながら、教壇に立つ義男を眺めていた。
五年前。この義男という男がまだ12歳だったころのこと。夜中に学校に忍び込んだところ、突如として外へ出られなくなったという。
扉という扉は全て閉じられ、窓ガラスを割ろうにも、間違いなくガラスの強度以上に頑丈になっており、ヒビのひとつも入らない。外との連絡手段は絶たれ、朝を待つしか無いかと思われた。
が、しかし、朝がやってきても誰一人として登校してくるものはいない。外はやけに静か。まるで義男を残して住人全てがいなくなってしまったかの様である。
だが、給食室の食料は増減し、時々、教室や廊下には忘れ物や、落とし物らしきものが出現する。
義男は給食で飢えをしのぎ、次第に体に合わなくなっていく服は、用務員室や職員室に誰かが置き忘れたものを拝借していた。
以上のことを、黒板に殴り書きして説明し終えた義男。肩で息をしながら、
「どう? 理解できた……?」
と、ひとこと。駿は「うーん」と首を傾げている。
「じゃあ、朝が来ても、ぼくたちは外に出られないの?」
「そういうことになるね」
駿の血の気が引いていく。いつものように純凪に助けを求めようと隣の席を向くと、あっ、と声を漏らした。
ぽろぽろと、純凪の頬を涙が伝っている。俯き、流れ落ちる涙を拭おうともせず、両の手は膝の上で硬く握られたまま。
「純ちゃん……」
声をかけるが、純凪は駿の方を向かない。が、唇が震え、ことばが紡がれる。
「ごめんね……。ごめんなさい……」
大粒の涙が、純凪の大きな瞳から溢れていく。打ちひしがれ、弱々しいその様子に、駿は戸惑うばかりである。こんな彼女をこれまで見たことがない。
「どうして謝るの?」
駿が聞く。純凪は、
「わたしが……わたしが学校に行こうって言ったから……」
「でも、それは……」
「あんたが忘れ物をしたから……。けれど、違うの……。わたしが、学校に行きたかったから……。家に……家にいたくなかったから……」
目を閉じると、鼻を啜り、ことば次ぐ。
「わたし……駿を利用したの……」
そう言って、両手で顔を覆うと、わっとむせび泣く。純凪は責任を感じていた。この異常な状況に駿を巻き込んでしまった。自分の所為で、駿に怖い思いをさせてしまった。ただ、忘れ物を取りに行きたい駿を口実に、家から抜け出した自分の心が醜くて仕方がない。
暗闇の中、純凪は己を責め続けた。と、ふわりと頭の上に何かが乗るのを感じる。それは優しく彼女の髪の上を行ったり来たり。
徐に顔から両手をのけて目を開ける。真っ赤になったその瞳で駿を見ると、ようやく自分の頭が彼に撫でられているのに気づいた。
「純ちゃんは凄いね」
駿は言う。
「ぼくはずっと泣いてばかりだけど、純ちゃんは違う。ぼくは怖くて泣いてるけれど、純ちゃんはぼくの為に泣いてくれてる……。ぼくには出来そうにないや……」
駿の笑顔に、あれほど流れていた涙が止まる。
「ねぇ、駿……」
「なに?」
「これ……なにしてるの?」
「ああ、これはその……よく、ぼくが泣いているときにおばあちゃんがやってくれてたから……」
照れくさそうに純凪の頭から手をのける駿に、思わずふっと笑ってしまう。
「バカね……あんたって……」
笑うとまた涙が出てくる。しかし、その涙はさっきよりもどこか暖かい。
「あっ、笑った!」
駿は嬉しい。どんな理由があるにせよ、純凪には笑ってほしかったからだ。
「あのー……ちょっといいかな?」
声の主は義男。二人の会話に癒やされてずっと眺めていたが、少し気になることがあった。
「高梨さんって……あれかな? 親と喧嘩した感じ?」
「いや……その今、両親の仲が悪くて……。もしかしたら……離婚しちゃうかも……っていう……」
「ああっ! いや、ごめんね、話しづらいよね……。あの、まぁ、ちょっとね……思うところがあってさ……」
駿は義男の方を向いた。
「思うところ?」
「ああ、まぁ……俺、父親と喧嘩してさ……それで学校に来たんだよ……」
「お父さんと?」
「そう……父さんは教師をしててさ、めちゃめちゃ厳しいの。もう、ほんと。それでキレちゃってこう……反抗? してみたらさ『出て行け!』って怒鳴られて……。まぁ……出て行っちゃうよね……」
自分で話し出して置きながら、バツの悪そうな顔をする義男。駿は「そっかぁ」と呟くと、
「ぼくにはお父さんがいないし、お母さんは忙しくてあまり一緒にいられないし、おばあちゃんは優しいから、喧嘩なんてしたことないなぁ……」
「泉くん……今だけだよ、今だけ。これから喧嘩もいっぱいするよ」
「ほんとう? やだなぁ……ぼく、怒られるのやだよ」
「怒られると喧嘩するは違うんだよ、泉くん。喧嘩するっていうのはね……」
と、ここで純凪が手を上げて話を遮った。
「あの、なんで出られないんですか?」
義男は固まる。純凪は続ける。
「何かしらの原因があって、出られなくなったんですよね? それって何ですか? それがわかれば、出られるようになるんじゃないですか?」
「ちょっと、ちょっと、そんないっぺんに質問されても……」
「質問は一つだけです。学校から出られなくなった原因はなんですか?」
まさか、五年も誰もいない学校にいて、原因究明が出来ていないわけはないですよね? と、言わんばかりの表情である。
——これはとんでもない女の子に育つぞ……。
すっかり気圧されてしまった義男は、深いため息をつくと、
「水素爆弾って知ってる?」
と、言った。
「すいそ……?」
「きっとこれから理科で習うと思うんだけど、言ってしまえば水の元になる物質なんだ」
義男は黒板に「H」と文字を書く。
「これに火を近づけると、ドカンと爆発するんだけど……」
その発言に思わず、純凪は立ち上がる。
「木村さんっ!」
「えっ、あっ、なに?」
「も、もしかして、爆弾かなにか作ったんですか……?」
「うん」
「うんじゃなくてっ! なんでそんなこと!」
「いや、ごめん」
「ごめんじゃないっ! なんでって聞いてるんです!」
「あの……夏休みだったんだ……」
義男は言うには、こうだ。
夏休みの宿題で「自由研究」というものがあり、そこで目立ちたがり屋の義男は爆弾を作ってやろうと考えた。夜な夜な学校に忍び込み、理科室で準備をしていた彼は、父と喧嘩をした夜にそれを実行に移す。
思った以上の爆発。慌てて学校から逃げようとするが、出られなくなったというのが事の真相である。
「バカ……」
力なく席について純凪は、ぽつりと呟いた。義男には返すことばもなく、苦笑いをしている。
調子を取り戻した純凪を見つめて安心していた駿が、
「ねぇ。それじゃあ、もう一度爆発させたら出られるようになるの?」
と、質問。
「まぁ……おそらく……」
「じゃあ、そうしようよ!」
「いや、でも……危ないよ。だってお手製とは言え、水素爆弾だよ? 知ってる? いや、知らないか。でもね、泉くん。本当に危ないんだよ」
「ちょっと待って」
ぐさりと刺すように言ったのは純凪。
「木村さん……。もしかして、帰りたくないんじゃないですか?」
そのことばに、義男は後ずさる。あぁ、言われてしまったというような表情で頭を掻くと、
「もう、5年もここにいるんだ……。急にいなくなってさ、父さんや母さんにたくさん迷惑をかけたはずだ。そう、考えるとね。帰っちゃだめなんじゃないかって思うんだよ……。——それに……ほんとうに帰れるかどうかもわからない。もし、これで帰れずに、別の世界なんかに行っちゃったらって思うとさ……怖くて……」
教壇の上で組んだ腕に、顔をうずめる。義男はずっと、これを繰りかえしてきた。はじめは、父親への反発心から帰るのを拒否していた彼。ひとりでも何とかやっていけることを発見し、誰もいない学校で暮らし続けた。
しかし、両親への罪悪感が胸に募る。だが、帰ろうとしても本当に帰れるのかわからない恐怖が生まれる。それに、今、帰ってどんな顔をして両親に会えばいいのかわからなかった。
帰るか、残るか。決められないまま、5年が過ぎてしまったのだ。過ぎ去った時はあまりにも永すぎて、もう、帰ることはないのだと、心のどこかで義男は思っていた。
「だめだよ!」
声を上げたのは駿だ。
「やってみないと分からないことは、やってみるべきだっ! やらないうちから、諦めちゃだめなんだよ!」
胸を張って高らかに言ってのける。自信満々なその様子に他の二人はぽかんとしている。なんだか駿にしては出来過ぎたような台詞であり、純凪は、どこかから借りてきたようなことばに感じた。
「ねぇ、それ。誰のことば?」
聞くと、駿は照れくさそうに、
「へへへ……先生に言われたんだ」
「先生って、木村先生」
「そう」
と、そこで義男が教壇からつんのめる。
「それって……! もしかして、木村要樹?」
義男のことばに頷く二人。その反応に、あぁっ……と声を漏らして大きく仰け反る。両手で目を隠すと、ため息交じりに言う。
「そうか……やっぱりまだここで働いていたんだ……」
声は、か細く、震えていた。
しんとした深い夜の校舎には、駿、純凪、義男の気配だけがゆらめいている。3人は教室から理科室へと移動すると、準備をはじめた。
帰る準備である。
駿のことばに背中を押され、義男は決心した。もう一度、あの実験を再現して、もとの世界へと帰ると。自分の心の内にある「帰りたい」という思いにようやく向き合うことが出来たのだ。
しかし、そのためには用意しないといけないものがたくさんある。最初の実験でほとんどが壊れてしまった。
「ちょっと、待ってて! 水と塩がいる。君たちはブルーシートと、なんか大きい透明な箱を持ってきて」
「4組に水槽があるわ」
「それでいい。あと、コップ。透明で、できるだけ長細いやつがいい」
理科室を出て、四方へと指定の物を探すために奔走する3人。これから爆弾を作ろうというのが、駿や純凪にどこまで理解できているのか……。
とにもかくにも、理科室に集められたいくつかの道具たち。水槽と水、塩の他には2本ばかりの長細い釘と、黒いビニールが巻かれた線が数本。何やら長方形の小さな箱もあり、3つほどの突起がついている。これは安定化電源というものであるが、もちろん駿と純凪にはわからない。
「何だかいっぱいあるね」
駿が純凪に言う。
「そうね。でも、爆弾をつくるのに火薬がないなんて……」
「案外、火薬がない爆弾の方が威力が高いものなんだよ」
言いながら、義男は準備を進めていく。水槽に水を張り、中に給食室から持ってきた食塩をぶちまけ、よくよくかき混ぜた。
その後はコップを水槽に入れたり、中に釘を挟んだビニール線を入れたり。いったい何をしているのか、訊ねてみても義男は作業に集中して答えてくれない。
やがて、
「できた……」
額の汗を拭い、床に座りこむ。もう、へとへとな様子。対して駿と純凪は待ちくたびれて、あくびをしている。ほんとうなら、もうすっかり寝てしまっている時間帯だ。
「じゃあ、いい? 忘れものない?」
「なんだかワクワクするね!」
「本当に爆発なんかするの?」
頭から被ったブルーシートの中で、3人は顔を付き合わせている。部屋の隅にあるコンセントの側。そこにプラグを差し込めばドカンとなるらしいが、純凪は半信半疑。駿はとにかく楽しそうで、はじめのころの恐怖はどこかへ言ってしまったようだ。
「いくよ? ごぉーお、よぉーん、さぁーん、にぃーい……」
義男は五から順に数を下りながら、コンセントにプラグをゆっくり、ゆっくりと近づけていく。心臓が高鳴り、駿と純凪は耳を塞ぐ。
「いぃーち……!」
そして、プラグが差し込まれようとしたそのとき、
「あっ、そうだ」
ふと顔を上げる義男。手が止まり、二人の方へと振り向いた。
「な……なんですか……?」
じっと見つめる義男に、純凪が言う。
「いや、わからなかったことが、わかったんだ。なんで、君たちが俺のいる世界に来たか」
義男は微笑んだ。
「俺を、もとの世界に返すためにやってきたんだね……。ありがとう。感謝してもしきれない……」
そう言うと、二人から目線を外し、プラグの方を見やる。ふぅっと息をつき、ぽつりと呟くことば。
「さぁ、帰ろう……」
誰に向けたわけでもない。5年を経た自分に向けての「はなむけ」としてのことばだった。
真っ暗な闇の先。徐々に光が見えてくるのを駿は感じる。それが、太陽の光であることに気づくまでそれほど時間はかからなかった。
——朝だ……。
ぼんやりとした意識の遠くの方で、声が聞こえる。
「駿っ! 駿っ!」
純凪に肩を揺すられ、かくんかくんと頭が左右する。駿は、まだ意識がはっきりしない。プラグを差し込んだとこまでは覚えている。それからどうなったか……。
明確になってきた視界に映るのは、涙目の純凪の顔と、その背後で呆然と立ち尽くしている義男の姿。
「純ちゃん……。ここは……?」
「何、バカ言ってるの? 理科室よ……学校の……。いつもの学校の理科室よ……」
震えた声で告げる純凪の頬に涙が伝う。流れているのはあの哀しい涙ではない。うれし泣きというのを駿は見たことがなかったが、彼女の顔を見て、それがいわゆる「うれし泣き」なのだろうと思った。
「よかった……」
ほっと胸を撫で下ろすように呟く。すっかり安心しきってしまった駿はもう泣くどころではなく、今はとにかく眠い。
「あっ、待って!」
純凪が叫んだ方向には義男。ふらり、ふらりと出入り口の扉に手をかけている。
外からは子どもたちの無邪気な笑い声と、走り回る騒々しい足音たち。義男にとってはすべて懐かしい。なんせ5年ぶりである。雑踏も喧噪も、ファンファーレのように彼の心を昂ぶらせた。
ガラリ。扉を開ける。
踏み出した足は、廊下の上。そばを三人の子どもが通り過ぎ、不思議そうに義男を一瞥。
「帰ってきたんだ……」
呟き、背後を振り返る。そのとき、チャイムがなった。
キーン、コーン、カーン、コーン。
授業を告げるその鐘の音の中で、義男は立ち尽くした。
その目線の先にいる教師。分厚いメガネをかけた、頭髪の薄い男。
「義男……か……?」
五年という年月は永すぎた。警察を責め、妻を責め、それ以上に自分を責めたその時間は、確実に要樹を変えた。情熱をもって生徒と接してきた一人の教師は、冷ややかで淡泊、無表情を決めこんだ教師へと変貌した。
が、今、時は戻り、木村要樹は、もう一度父として生きることとなる。
「ごめん……」
うつむいた義男が涙とともに呟く。今にも崩れそうに体を震わせ、嗚咽を漏らす息子に父は歩みよると、そっと、抱きしめた。
「ごめんじゃないだろう……? 帰ってきたら、何て言うんだ、義男……」
幻ではない。腕に感じる柔らかさと、ぬくもりは確かに息子だ。タバコの煙が染みた匂いは、確かに父だ。
「ただいま……」
義男は父の体に腕を回すと、強く、強く抱きしめた。
6月の朝のことである。珍しく遅刻してきた木村先生、その赤く腫れた目と、いつもより明るい様子に、生徒たちは困惑。
また、駿と純凪は双方の両親からこっぴどく叱られることになった。一方は泣きそうな顔で俯いていたが、もう一方は少し、嬉しそうだった。
父が、母が、自分を心配してくれていたのがわかったからだった。
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