星を離れて

 転職し、都会から離れ、本井市柳川町にやってきた一組のカップル。やがて、結婚し、家を持ち、妻は子を孕む。

 経済状況、科学技術、物事の価値観や、思想その他さまざまが変わりゆくなかで、彼らは自身の両親と同じく、夫婦として生きていくことを選んだ。

 太田夫妻は、良い意味で平凡な夫妻である。時代が変わっても、愛しあう男女の変わらない尊さを備えているように見える。

 特別なもののない二人。だが、そんな彼らが特別な夫妻になったのは、真冬の雪降る夜のこと。

 陣痛に呻く妻の体から、すろんと生まれた赤子がひとり。その子は女の子で、和美と名付けられた。

 千年に一度の天才。この乳飲み子がそう世間から騒がれるのは、そう遠くない未来のことであった。


 太田和美おおたかずみが明瞭なことばを話すようになったのが一歳半のこと。幼稚園にあがるころには、高校数理の難問をすらすらと解きはじめる。柳川小学校に通いだすころには、何十年ものあいだ専門家が解けなかった数式を、さらりと解決。これが、和美を有名にするきっかけとなった。

 語学を学ばせてみると、英語は3日、フランス語5日、スペイン語と中国語はそれぞれ4日と6日と、一週間も経たずに習得。

 これだけでは終わらない。小学3年生になると、東京大学のある権威の厚意より、無料で物理学講義に参加。平行して薬学も専攻。当時、辺境で流行していたウィルスに抗するワクチン開発に携わることになる。

 ぬいぐるみや人形なんかが好きな同世代の女の子たち。ファッションや化粧に詳しければ大人っぽく、憧れられる中で、和美は違う。彼女の興味は、世の中にあふれる技術の数々、または、地球環境全体の仕組みに注がれていた。

 小学5年生ごろになると、スポンサーがつくようになった。通信技術会社国内最大手の社長。学費や生活費、その他雑費は彼によって賄われた。

 そうして、小学校を卒業。飛び級で東京大学に正式入学が決定し、13歳を迎える。

 すでに和美は、知らぬ人はいないほどの有名人。本井市、いや、日本中の知識人たちが彼女の一挙手一投足に、興味を示していた。

「さながら、私なんて、犬にとってのボールのようね」

 と、和美。表情に乏しく、物静かな彼女から時折飛び出す冷淡な一言が、よりいっそうそのタレント性を強めていった。

 

 そんなとき、スポンサーからある計画が持ち込まれる。

 新緑が陽光に照らされる、真夏の午後。四方をあらゆる国々の研究書籍で囲まれた書斎。その中央に座る和美は、きょとんとした表情で話を聞いていた。

「……宇宙?」

 和美はくびをかしげてみせた。彼女の前には男が3人。みな、しわ一つない黒のスーツを着ている。

 その中の男の一人が膝をまげ、和美と目線を合わせた。

「そう。いま僕らはね、ある惑星への探索を計画しているんだ。すでに発射可能なロケットもあって……」

「そのロケットに乗ってほしいってことですか?」

「さすが、話が早いね。でも、君はまだ若すぎるし、経験も浅いし……いやっ! 君の能力を疑うわけじゃないんだよ? ただ、搭乗にはテストを受けてもらわなくちゃいけない。安全は保証されているけど危険な任務なんだ。変な言い方だけどね」

 と、微笑んでみせる。

「なんせ、僕たちと同じ生命体がいるかもしれない惑星に行くわけだ。ね? 面白そうでしょ?」

「……そうですね」

 和美は呟く。正直、そのときちょうど彼女の関心事はもっぱら宇宙にあった。いま、机の上には天文学の専門書が開かれている。

 しかし、なぜこうもタイミング良く話をもってくるのだろう。宇宙に興味があるなどと話したのは母ぐらいしかいないのに。

 ——ああ、そうか……。

 和美は思った。いや、思い出した。自分は半監視状態にあることを。秘密にできることはただ一つしかない。心の奥底にあるもの、言葉にも文字にも出していないもの。ただそれだけ。

「全部、君が決めていい。僕たちには強制できないからね」

 男のことばに和美は顔を上げる。その目を見つめる。優しげに細められた目。その隙間から覗く光。彼女には、緊張で強ばり、鋭く尖っているように感じた。

「全部、君が決めていい……」

 和美は呟く。これまで幾度となく言われてきたことばである。

 そのことばが、本来の意味で使われたことなどあっただろうか。

 全部、和美が決められたことなど、何もありはしない。しかし、彼女はそれを不満としてことばに出さない。なぜなら、自分がもつ能力の重大さを理解しているからだ。

 この立場、環境、両親への負担の少なさは、彼らが自分の能力をあてにしているが為の賜物であると、和美は知っている。

「わかりました。そのテスト、受けさせて下さい」

 さて。

 知力、運動能力、その他人間が極限状態で必要とされる様々な能力がテストされ、惑星探索チームへの参加者が決定した。

 厳しい審査のもと、選ばれたのはなんと一人。

 太田和美その人だった。

 このことに、出来レースじゃないかと声を上げるものは少なくなく、和美もその一人だった。

 しかし、テスト内容の適切さは、受けた本人たちがいちばんよく知っている。添削したのは最先端の人工知能。人間の私利や私欲が介入できる余地はないように思える。

 けっきょく、和美はただ一人として異星へと向かう運びとなってしまった。

 それは、和美が14歳に成長した夏の夜のこと。

 降って落ちてきそうなほどの星が近い夜。その真下に建てられた豪邸からは、祝宴が沸く人々の声が響いている。

「おめでとう、和美ちゃん!」

「おめでとう!」

「気をつけてね? 無事で帰ってきてね?」

「いやぁ、やっぱり和美ちゃんは凄いですな! ベテランの宇宙飛行士を差し置いて、新惑星への探索とは」

「やはり、若い人の時代ですね」

「まったくだ! よろこぶべきだろうね」

「その通り、よろこぶべきこと!」

「期待してるよ和美ちゃん! 若い人の力というのを見せてくださいよ!」

 国際研究機関や、政治経済界の重鎮たちが太田家に集う。みな、和美を見かけると激励か厭味かどちらかわからいようなことばをなげかけた。

 そんなとき、和美が選択することばはただ一つ。

「ありがとうございます」

 年頃の少女のような笑顔も忘れずに……。

 たった一人の愛娘が、どこぞの異星にたった一人で行くという状況に、両親はどう思っているのかというと、

「がんばっておいでね」

「気をつけていくんだぞ」

 優しく声をかけるのみ。父は、そっと和美の肩に手を置いた。

「ありがとう。行ってくるね」

 その手を払いのけたくなる衝動を抑え、和美は笑って見せた。

 両親の目。和美はその目を何よりも嫌う。誇り高い娘の父であり、母であるという事実に、高い優越感を得ているのがわかるからだ。それは、身勝手な虚栄心に他ならない。彼女は常々そう感じている。


 地球からは離れておよそ一週間。ただただ漆黒の宇宙空間に漂い続けるなか、和美はあの夜のことを思い出す。

 大勢が自分を見送るためにパーティーを開いてくれた夜。両親が「行ってらっしゃい」と声をかけてくれた夜。

「ホームシックかな……」

 そんなことを呟くと、和美は「ふっ」と自嘲的にふきだした。

 ――家に帰りたいなんて……馬鹿げてる……。

 ふわりふわりと宙に浮く。無重力空間にも、光速移動にも慣れた。今更、地球に未練はない。そもそも、和美が宇宙に興味を抱いたのは、地球での暮らしを嫌悪していたからだった。

 望んで手に入れた能力ではないのに、その能力を欲しがり、手にしたものに憧れ、やがて利用しようと近づいてくる人、人、人々。

 誰もがそう。大人は例外なく、それは両親でさえも。また、決まって彼らの目には、気味の悪い何かを見つめるときのそれが、宿っている。

 羨望と嫉妬は表裏一体。和美がそのことを知ったのは、わずか十歳。鬱積したものは、そのときから抱え続けてきた。

 人々から見れば、和美の状況は危険極まりなく、同時に浪漫溢れる冒険的旅路に違いない。しかし、彼女にとっては家出だ。壮大で、しかも周りに望まれ、誰の迷惑にもならない家出。

 今、和美は満たされていた。

 ビーッ! ビーッ! ビーッ!

 そのとき、アラームが響きわたった。赤く点滅する船内。けたたましい騒音。酸素濃度が薄くなり、動力機器の異常を知らせている。

「なるほど……。ニューテイト粒子の減少と、船外物理演算の失敗による、動力異常ね……。酸素も少なくなってるし、おそらく……」

 和美はコックピットに座ると、舵を握る。目の前に広がる宇宙は上下左右にゆがんでいる。

「宇宙嵐……」

 ぽつりと呟く。

 本来、常人ならパニックに陥る状況。原因を究明する余裕など、まず無いのが普通。しかし、和美は違う。やかんから噴き出た湯を止めるがごとく、落ち着いて異変に対応できる。

 そして、いま、和美の乗る宇宙船を襲う宇宙嵐。取り込まれれば、ベテランの飛行士でさえ切り抜けるのは至難の業。船体がバラバラになり、宇宙ゴミの一部となるのがほとんどだ。

「はじめて見た……。宇宙嵐ってこんな感じなんだ」

 焦り、不安、恐怖。そのすべては和美の胸中で「興味」へと変換されている。

 激しく揺れる船内。薄くなる酸素。あちこちで鳴る警報。しかし、和美の目線は、ただ前を向いている。

 絶体絶命の危機も、なんのその。やがて、嵐が去り、たった一人の力をもって、和美は旧知を切り抜けた。

「ふぅ……」

 和美は一息吐くと、舵から手を離し、無重力に体を任せた。

 ふわり、ふわり。

 目を閉じて船内を泳ぐ。その姿はさながら人魚の様。

 くるりと回転させ、コックピットの方角へ戻る。そのとき、和美の目に飛びこんできた光景に、

「あっ」

 と、思わず声が出る。

 深く澄みわたり、荘厳で、雄大で、猛々しい。そんな緑に染まった惑星。

「ここが……ヴィレ……」

 大気圏を抜けるその間際、和美は呟く。ヴィレと名付けられた惑星が、今、彼女の目の前に迫っていた。

 惑星ヴィレ。

 第二の地球になり得るかも知れない星。

 滅び行く人類が、いつか辿り着く楽園。


 宇宙船は大気圏を難なく抜けると、広大な荒野へと着陸。いや、着陸というより墜落と言ったほうが適切かもしれない。宇宙嵐が原因で着陸機能が損傷した和美の宇宙船は、赤茶色の大地に深くめりこんでいた。

「ごほっ……こほっ……。危うく爆発するところね……」

 和美は黒煙とともに船外へと出た。宇宙船が故障しているのは、もはや誰が見てもわかるほど。地球との交信手段はとうに切れてしまっており、すべての故障箇所の修理には、かなり時間がかかりそうだ。

 だが、そんなこと考えるよりも先に、視界に飛びこんできた光景に息をのむ。

「すごい……」

 地球ではとうに失われた自然が、すべてそこで息づいているように思えた。荒涼として干上がっている大地だが、太い幹の木々たちが、逞しく根をはっている。遠くの森からは、今にも恐竜が出てきそうな気配がする。

 本でしか見たことのない景色が、和美の心を躍らせた。

 じっとりと空気が熱いが、静かに吹く風は涼しく、和美の髪をなびかせている。あたりを見回すその目は、うっとりと揺らいでいた。

 そんな和美の右手に握られているのは、酸素マスク。だが、けっきょく使うことはなかった。この星ではすでに人間が楽に呼吸ができる環境が整っていたのだ。

 ぐらり。

 そのとき、視界が揺らいだ。

 何が起こったか理解するよりも先に、暗く狭まっていく視野。風の音が遠くなり、呼吸も浅くなる。

 ——まずいっ……!

 意識を失う直前、和美は受け身をとることに集中。体がふらりと真横に倒れる寸前、片腕で頭を抱え、側頭部への衝撃を和らげる。

 重くなる瞼を支える力はすでになく、和美は気を失ってしまった。

 たった一人、広大な宇宙を飛行し続けた疲れ。それが、常に最適に稼動してきた和美の脳を、半強制的に停止させたのだった。

 ざっ、ざっ、ざっ。

 荒野に倒れた和美の身に、近づく足音ひとつと、彼女にかぶさる影ひとつ。その形は少年のようにも見える。


 ゆっくり目を開けると、少し遅れて、音が聞こえてきた。ざわ、ざわと遠くで鳴るのは雑踏。その中に聞こえた音が、人の声であることに気づくのに、さほど時間はかからなかった。

「うっ……!」

 飛び起きる和美。しかし、倒れたときに打った肩が痛み、顔をしかめた。

 あたりを見回すと、そこが外ではなく室内であることがわかる。赤と白の文様で彩られ、天頂から一本の長細い木が床まで伸びており、それがこの部屋全体を支えていた。その構造はまさにテントだ。

 生地の材質は……木綿か。室内に置かれているのは……家具になるのか。そう、推測することしか和美にはできない。ここが地球とは違う星であるため、なにひとつとして断定できるものがない

 まだ、頭がぼうっとするのを感じ、和美は状況を整理しようと目を閉じた。そのとき、部屋の一角がぴらりと開いた。

「あっ……目が覚めたのかい?」

 和美の前に現れたのは、彼女と同い年ぐらいの少年。

 健康的に日焼けした肌と、力強く輝く大きな瞳。剥き出しの上半身はびしっと引き締まっており、着ているのはシャツやズボンではなく、茶色の腰巻き一つ。背には弓がつけられ、原始人さながらといった格好。

「あ、あの……。あなたは……」

 和美には、少年のことばがわかる。なぜなら、地球を出発前に、知的生命体に特徴的な「言語」についての理解力を上げる、特殊な薬を飲んでいたからだ。

「僕はイリ。君は?」

「わたしは……和美」

「カズミ? カズミ……。いやぁ、びっくりしたよ。マウリの森の前で倒れているんだもの」

「あなたが助けてくれたの?」

「助けたってほどじゃないよ。ただ、変なのがいるなぁって……」

「変なの?」

「そう、変なの。だって、ほら、変なかっこう」

 イリが指差すのは和美。彼女は宇宙服を着たまま、白い毛皮の上に寝かされていた。確かに、これでは地球人が見ても変だろう。

「それに……あれって君の家? 煙が出てて、燃えていたけど……」

「家……とは少し違うけど、危ないから触らないで? それより、ありがとう。優しいのね」

 微笑む和美を、イリはぽかんとして見つめる。ヴィレと同じ、碧の瞳。この星の住人はみな、こんな瞳の色をしているのかと考えていると、

「きれいだね」

 イリが言う。

「えっ……?」

「カズミはきれいだ。なんだか村の女の子とは違う。いや、誰とも違う。不思議だ」

「そう……ね。まぁ、違う星から来たから……」

 言いながら顔を伏せる。和美は頬が熱くなっているのを感じていた。そんな風に人に言われたのは、生まれてはじめてだったからだ。

「違うほし?」

「ああ……知らないのね。じゃあ、宇宙ってことばも聞いたことない?」

「うちゅう……」

「宇宙っていうのは……」

 言いかけて、和美は止まる。ゆっくり、ふぅっと息をついた。

「別に……知らなくたっていいことね……宇宙のことなんて、星のことなんて……。きっとあなたたちに大切じゃないことよ」

「そうかな」

「うん、そう。ねぇ、あなたのことを教えて?」

「僕のこと?」

「そうよイリ……。わたしはあなたのことが知りたい」

 イリはにこりと笑った。

「僕も、カズミのこともっと知りたい!」

 

 イリという少年は、地球人の年齢に換算するとちょうど14歳から15歳のあいだぐらい。7人兄弟の3男であり、日中は狩りに精を出している。

 イリの住む、ウェハラという村では、農業も盛んであり、米に似た穀物が栽培されていた。男は狩りへ、女は稲作といった具合に役割が分担されている。

 まるで地球の過去をなぞるかの様。だが、雨も降らなければ水もない大地で、なぜそんなことができるのか、和美には甚だ疑問だった。

「ここから汲むんだよ」

「これって……井戸?」

「いどって?」

「……違うのね」

「カズミって、たまに知らないことばを話すね」

「あぁ、ごめんなさい……。変だよね」

「ううん。どうして謝るの? 変じゃないよ。知ってるだけで変なんて、それこそ変だよ」

「そうかしら」

「そうだよ。……でも、カズミはやっぱり変かも」

「なによ。けっきょく変なんじゃない」

「だって、マギのこと知らないんでしょ?」

「まぎ?」

「ここの底にはね、マギっていう……なんだろう、その……大地の力っていうのかな……。わからないけど、そういうものが、エモクやイムイなんかの材料を作ってくれるんだ」

 エモクとイムイは、それぞれ地球で言う稲と竹になる。

 和美は、足下にぽっかり空いた穴を見つめた。黒い水のようなものにぷかぷかと浮いている紫の球体。マギと人々が呼ぶ不思議な物質。

 いったいどんな構造なのか。イリから聞き出すことはできなかったが、とにかくたった一つで様々な物質へと変化するらしい。

 このマギに作れないものはないという。ヴィレに息づくすべての文明は、この霊妙な球体が支えているのだ。

 その正体は……誰にもわからない。それが和美は気になった。なぜ、マギの正体について誰も知らないのか、知ろうとしないのか。

 その疑問にイリは、

「うーん……知らなくていいから、かな? 考えたことなかったよ。爺様が生まれる前からあるものらしいし、マギって名前も……。でもね、いつも『ありがとう』っていう気持ちだけは忘れないよ。この気持ちが——ことばが無いと、マギは腐ってしまうんだって」

 イリのそのことばを、和美は呆然と聞いていた。その胸中では、地球での自分のことを思い浮かべている。

 ——知らなくていいことも……あるのね……。

 世紀の大天才としてマスコミに取り上げられ、常に大衆の視線にさらされてきた和美。その視線はいつも鋭く、木っ端のとげのように心に突き刺さる。

 どうして、自分だけ、こんな風に傷つけられてきたのか。和美は、わかった気がした。

 ——知らなくて良いことも、知っていたから……。中学生の女の子が知ること以上のことを、知ってしまったから……。

「どうしたの? ぼぅっとして……」

「ううん、なんでもない。それより、あれはなに? どうやって動いているの?」

「あれはカンサルっていうんだ。見たことない?」

「うん」

「そうか、カズミはよく知ってるように見えて、知らないこともいっぱいあるみたいだね」

「……そうね。知らないこと……わたしが知らないこと、たくさんあるみたい……」

 和美はじっとイリを見つめた。彼にとって自分は、何も知らない変な女の子であって、世紀の大天才でも、希有な能力を持つ特別な人間でもない。

 ——ここでは……わたしは何も知らない人……。何もできない人……。

 それが、心地よかった。無力であり、無知であるというのは、なんと安らかなことなのだろう。

「よしっ! それじゃあ、僕がいっぱい教えてあげるよ! ついてきてカズミ! これなんかも見たことないんじゃない?」

「ちょっと、イリったら、すぐ走り出しちゃうんだから……」

 イリにとって和美は、あれもこれも、何も知らない、子どものような存在だった。まるで妹のように思っていたが、ときおり姉のような話し方をする。

 和美もイリのことを、兄のように頼ることもあった。だが、純粋で活発なその姿を見ると、自分に弟がいたらこんな感じかもしれないと思う。

 妹のようでいて姉のよう。兄のようでいて弟のよう。二人は互いの存在が不思議に感じ、同時に心地よく思う。

 それが、恋であると気づくのに、あまり時間はかからなかった。


「ねぇ、カズミの星のこと、教えて?」

 狩りから帰ってきたイリは、丘に座って涼む和美のとなりに座っていた。

 ちょうど、農作業も終わったところだ。和美は、宇宙船の修理の合間に、収穫や衣類の裁縫などの手伝いをしていた。ウェハラの村人も、奇妙な服を着た少女を、快く迎えいれてくれている。

「わたしの星?」

「そう。星から来たんじゃなかったっけ」

「信じてくれるの?」

「うん」

「……じゃあ、そうね……。何から話そう……」

 和美はヴィレについてイリから教えてもらう代わりに、彼が言う「それってどういう意味?」ということに答えていた。そのため、自然に星や宇宙のことについて教えることになってしまう。

 しっかり理解できているのか定かではない。だが、イリは和美が、ここではない、どこか違う世界から来たと考えているようだ。それが彼なりに納得できる答えなのかもしれない。

「わたしが住んでた星はね……地球っていうの」

「ちきゅう……」

「そう、ここみたいに花や木、緑に囲まれていた星。今はもう、こんな自然はないけれど……。それもみんなわたしたちの所為……」

「カズミの所為?」

「うん、わたしを含めた人間の所為なの……。人間は自分たちが安心して住むことだけを考えて、自然を壊し、動物を追い払ってきた。

 しかも、その安住の地を求めて、罵り合ったり、奪い合ったり……そして殺し合ったりする。そのたびに地球はどんどん傷ついていく。

 自分が住んでいる……いや、住まわせてもらっている星や大地に返すことも、感謝することもせず、ただ胡坐をかいてのさばっているだけ。

 そんな人間が暮らしている星。醜くて、自分勝手で、愚かな生命体の星。

 わたしが住んでいた星はね、そういう星なの」

 眉をひそめ、今にも泣き出しそうな顔。イリのその表情を、和美はこれまで見たことなかった。

「なんだか……カズミって哀しいね」

「哀しい?」

「うん……。だって、カズミは自分たちの星が嫌いなんでしょ?」

「星が、というより……そこで暮らしている人間が嫌いかな」

「いっしょだよ。星は……あまり上手く言えないけど、家族みたいなものだと思うんだ。そのニンゲンだってチキュウの家族だよ。弟が言うことを聞かないからって、家族を嫌いになったりなんかしないよ」

「イリ……あなたはにはわからないわ。私たち人間が、これまで地球に何をしてきたか……」

「わからないよカズミ……。どうしてそんな哀しいことを言うの? カズミはそのチキュウが好き?」

「地球のことは……。そうね、けっきょく嫌いなのかもしれない。人間が支配するあの星が、わたしは嫌い」

「カズミ……。ねぇ、カズミ。僕はこの星が好きだ。僕はね、カズミにはチキュウのことを好きでいてほしい。ニンゲンのことも。自分が生まれた星が嫌いだなんて、哀しすぎるよ……」

 身を乗り出すイリの手に、和美は自身の手を重ねる。しかし、その後に次ぐことばを見つけられない。今の地球を好きになれる自信がなかったからだ。


 宇宙船の修理が完了した。あとは、搭乗して帰還するだけ、どれほど時が経ったのか和美にはわからない。時々、本来の自分の任務を忘れてしまいそうになっていた。

 地球と同じく、人間が住める星への探索。

 和美は思った。きっと、この星の存在を報告すれば、各国はみなこの星への上陸を目指すはずだ。

 広大な緑の大地に、巨大な戦艦の影が落とされる。和美は身震いした。やがて、大量の兵士と武器とともに、ヴィレに侵攻するに違いない。

 すると、背後から声をかけられた。

「カズミ!」

 イリだ。彼の姿を見ると、騒々しかった胸が、すぅっと静かになる心地がする。

「もう、帰っちゃうんだね……」

 本当は、黙って帰りたかった。イリの姿を見ると、地球へ帰れなくなりそうだったからだ。

 何度も考えた。この星に残ろう。この星に残ってイリと一緒に暮らしていこう。地球に帰らなくても、どうせ死亡扱いとなって忘れてくれるだろう。

 だが、和美はその選択をしなかった。差別も、格差もない。殺人も戦争もない。大地に感謝し、自然と共生している。地球が——かつて人間たちが目指した理想が、この星では成されている。

 ——そんな星に……地球人であるわたしがいていいわけなんかないじゃない……。

 そうして、和美は地球に帰ることを決めたのだ。

「また、会えるよね……?」

 かなり走ってきたのだろう、肩で息をしている。不安げな瞳を向けるイリの前で、和美は微笑むことしかできないでいる。

「そうね……運がよければ、また会えるわ」

 和美はイリに歩み寄る。一歩、一歩とゆっくりとした歩調で。

「イリ……」

 その胸板にそっと手を触れる。見上げると、自分より少し背が高くなっていることがわかる。長く、この星にいすぎたのかもしれないと思った。

 和美はイリの瞳を見つめる。じっと、お互い目をそらさない。

 ——もう、この綺麗な目も、見ることはないのね……。

 不意に涙がこみあげてくる。

 和美は目を閉じると、爪先を伸ばした。

 そっと、唇が、柔らかく、触れあう。

 口づけ。イリにはその意味がわからない。ただ呆気にとられ、自分から離れていく和美を見つめていた。

「カズミ……今のって……」

「気にしないで……。あなたに……あなたにだけ受け取ってほしかったの……」

 和美は宇宙船を起動させた。地鳴りが響き、搭乗口が開く。

「さよなら、イリ……。あなたのこと、忘れない」

 和美はそう言い残すと、宇宙船に乗りこんだ。


 目を、そっと開く。まだ、涙で上手く前が見えない。

 和美はひとり、宇宙船の中で泣き続けた。どうして、残らなかったんだろう。どうして、イリと別れなければならなかったんだろう。

 どうして「好き」と伝えられなかったのだろう。

 ——いっそ、また、宇宙嵐が来てくれたたら……。

 和美は、自らの意思で、本来の自分でいられる場所を捨てたことを後悔していた。

 悔やんでも、悔やんでも、それは涙として流れるだけで何にもならない。

 もう、会えない星。もう会えない人。

 ——イリ……ごめんなさい……。

 そのとき、涙で濡れた和美の頬を、光が照らした。

 前を向く。

 目の前に飛びこんできた光景に、涙が止まる。

「きれい……」

 呟く和美の視界いっぱいに、地球の姿が広がっていた。

 深く広大な青。雄大な緑。たなびく白。漆黒の闇にただ一つ、その惑星は美しく彩られていた。

 ——そうだ……。

 和美は思い出した。

 イリが言っていたこと。

 地球を好きになってほしいと言っていたこと。

 人間を好きにはなれない。それが住まう星が、好きになれない。でも、しかし、それでも、

 ——好きになってみようかしら……。

 もう、和美は泣いていなかった。

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