彼こそがエース

 カンカン照りの太陽と、青い空。夏と言えばという景色に思い出す、風物詩の数々。そのひとつに「甲子園」を挙げる人も少なくないだろう。

 甲子園。兵庫県の西宮市に位置しており、〈全国高等学校野球選手権大会〉の会場であると同時に、野球少年たちの夢を叶えるかもしれないチャンスの場である。頭を丸め、ユニフォームを着て、コーチの怒号の下で仲間たちと切磋琢磨している彼らは、皆、ここを目指しているわけだ。

 しかし、ここへ辿り着く野球部がある高校は、そうそう多くない。街一番と名高いピッチャーやバッターが一人二人居たところでは話にならないのが現実だ。

 そんな現実を打ち破る高校もあるのも事実であり、それらは常連校と呼ばれる。本井市にある私立高校、百川学園高等学校も、そのひとつであった。

 しかし、いま、その出場が危ぶまれている。

 モモガクと呼ばれ、気鋭の強豪校として知られるようになって久しい。そこの野球部を牽引してきたエースがいなのだ。エースの名は、宮田彰寬みやたあきひろという。

 天才ということばは、きっと彰寬のためにあるのだろうと、選手たちは口をそろえる。それほど、彼は野球の神に愛されていた存在だった。抜群の反射速度と、体幹の強さ。バットを振らせれば、カキンッ! と澄んだ音が青空を抜け、ボールを投げされば、バスンッ! と強かな音が空気をしびれさせる。その類い希なる才能に、もはや嫉妬する者もいないほど。

 エースピッチャーでありながら4番バッター。一年生のころからチームの勝敗を決していた彰寬であったが、いま、彼は白いベッドの上に臥している。

 難病に倒れたのは、彰寬が2年生のころ。

 惜しくも優勝を逃したモモガク野球部であったが、皆、来年は必ず! と意気込み、秋の大会に向けてのトレーニングに励んでいた。ところが、その最中、彰寬の足に異変が起こる。自分の体のことには敏感な彼である。すぐさま、医者にかかったが、そこで不治の病であることを告げられたのだ。

 緊急入院するはこびとなり、彰寬はひと晩で、強豪野球部のエースから、重病人と成り果ててしまう。それでも彼はくじけず、病と闘い続けた。

 しかし、彰寬の鍛え抜かれた体と精神をもってさえ、病は無機的な表情で彼の命を奪い去っていく。

 彰寬は泣いた。どんなに辛いトレーニングにも耐え、試合に負けて悔し涙を流すチームメイトたちを、笑顔で励ましていた彼がである。死が怖くて泣いていたのではない。生きることを諦めてしまったことが悔しくて、涙を流したのだ。

 そんなとき、彰寬はドナー登録制度の存在を知った。ベッドの上でひとり、その説明が書かれた紙を眺める。

 ——おれの体が、誰かの役に立つなら……おれが死ぬことに、まだ意味があるのかもしれない……。

 そう考えた彰寬は、その用紙にサインをした。ドナーとして提供できる箇所にペンでチェックを入れる。その箇所は、なんと「全身」。使えるところがあれば全て使ってくれという意志を示した。

 ——なんだか……身軽になった気がする……。

 自分が死んでも、自分の体の一部が誰かの一部となって生きていく。肉体への未練が無くなったことで、彰寬はすがすがしい心地になっていた。

 その3日後、彰寬は家族に見守られながら息を引き取る。しんしんと雪が振る、2月の夜のことだった。


 彰寬の夭折は、秋の大会に出場していたモモガク野球部員たちの耳にも届いた。

 その衝撃は計り知れない。彰寬を元気づけようと試合に臨んでいた彼らである。鍛え抜かれた体躯、それを突き動かしていた闘志は、ついに燃え尽きてしまった。

 それまでの勢いはどこへやら。試合は惨憺たる結果に終わる。帰りのバス、その車窓から見える青空に、彰寬が思い出される。彼を想い、すすり泣く声で、車内は満たされていた。

 時を同じくして、陸上部を退部したひとりの少年がいた。名を、綾部雄一あやべゆういちという。百川学院高校の2年生だ。

「あーあ、めんどくせぇバカ共ともこれでおさらばか。清々するぜ」

 わずかに残った桜がぱらぱらと舞い落ちる五月川沿いの並木通り。高い背丈、長い手足。黒い頭髪をワックスで後ろに撫でつけ、鋭い視線を四方に放ちながらグチグチとぼやいているこの少年が、雄一である。

 ほんとうは陸上部を辞めたくなかった。ただ、気性の荒い雄一は、生真面目で伝統にこだわり、彼の一挙手一投足に口を出す先輩と馬が合わない。彼が言う「めんどくせぇバカ共」とは、件の先輩たちのことである。

 怒鳴り合いの、つかみ合い。その末に「辞めてやる!」と血相変えての捨て台詞。帰路につく雄一の胸の奥底では、そのときの怒りが熾のように燃えたままだ。

 禄御坂を下り、正武団地の方角へ信号を曲がる。細い路地に入ると、まぁ、間の悪いことで、暗がりにタバコをふかした4、5人の不良たちがたむろしている。

 何かを話し、ゲラゲラと笑う。その笑い声が鼻につき、ぱっと感情が雄一の顔に広がる。広がったままの表情で、ちらりと見やる。

 目が、ばちりと合う。同じ気性の持ち主、目をそらした方が負けだという心持ち。合った視線は徐々に鋭くなり、やがて不良の方が口を開く。

「……何見てんだよ」

 背格好は雄一と変わらない。おそらく近くの柳川高校の生徒だろう。柳川高校の不良にとっては、百川学園など「甘ったれた坊ちゃん嬢ちゃん行くところ」という認識で一致している。

 まったくの偏見であるが、つまり、彼らは雄一のことを軽んじていた。そのことに、気が立った彼が気づかないはずはない。

「見てちゃ悪いかよ、おい。さっきからゲラゲラうるせぇんだよ!」

 一般的に、雄一は名門高校に通える秀才に位置づけられる。が、短気なところと荒っぽいところが玉に瑕であり、こうして儲けのない喧嘩を売ってしまう。

「なんだとてめぇ、誰に口きいてんだ!」

「知らねぇよ、お前なんて! さっさと家に帰れバカが!」 

 一人、二人と立ち上がる。やがて5人全員が一人を取り囲むと、

「やんのかよ」

 凄む雄一。不良たちは動かない。その様子を見て、彼は嘲笑する。

「ふんっ。なんだよ、ヘタレが」

 路地の奥へと去ろうとする雄一の腹に、突如痛みが走る。不良たちの一人が無言のままで、彼の鳩尾付近に膝を放ったのだ。

 息が止まる。体勢が崩れ、膝を折りそうになったが、なんとか立て直し、

「このっ……!」

 と、拳を振る。顎を横殴り、相手はそのまま尻餅をつく。が、敵は一人ではない、他四人いる。多勢に無勢。雄一が放ったその一撃は、たったの一撃のままに終わった。

 二人ほどが腰に絡みつき、そのまま押し倒される。顔面を足蹴にされ、口の中が真っ赤に染まった。足や手をばたつかせ、怒鳴り散らして抵抗するが、効果は薄く、ばっかぼっこと全身を殴られ続ける。

 不幸なことに雄一が相手をしたこの不良たち、喧嘩慣れしていなかった。孤立した敵を集団で嬲るその快楽による興奮の赴くまま、殴る蹴るを続ける。

 5人の中の誰かの爪先が、起き上がろうとする雄一の顎を打ち、後頭部がコンクリートの地面に激突。

「うっ……」

 ガツンッという鈍い音との中に、雄一の低いうめき声が混じる。手足を左右に伸ばし、仰向けに動かなくなった。見下ろす5人。内の一人が、彼の頭の後ろから止めどなく流れる血に気づいた。

「にっ、逃げろ!」

 うつろな目で空を見上げたままの雄一。その体を跨いで不良たちは走り去っていく。彼ら足音がその耳に届かなくなるころ、視界は闇に閉ざされた。


「雄一! 雄一、聞こえる?」

 意識の遙か彼方で、ぼんやりと声がする。母の声だと認識してすぐ、雄一は目を覚ました。

 まるでさっきまでのことは夢だったのではと疑うほどの目覚めである。開かれた雄一の目には、白い天井と、涙を流す母と、慌ただしく病室を動く父の姿があった。

「き……聞こえるよ……」

 母の様子は雄一には大げさに見えて、辟易してしまう。が、無理もない。現場近くにいたホームレスが、通りがかった警察に倒れていた彼のことを知らせなければ、目を覚ますことはなかったのだから。

 全身の6カ所を折られ、いくつかの筋肉は断裂。両手足はもはや使い物にならなくなり、特に脳に酷い損傷を受けていた。手の施しようがないほど、打ちのめされていた雄一であったが、それでも命をとりとめた。

 件のことから経過した日数は、たったの2週間。このことを雄一は、ベッドの側にあったカレンダーから知った。ちらと両親を見やると、

「ありがとうございます! ありがとうございます! 本当に久遠先生のおかげで……」

 と、白衣を着たひげ面の男に、ぺこぺこと頭を下げている。その様を眺めていると、自分がどんな目に遭って、なぜここに居るのか、はっきり思い出せることができた。

 礼の挨拶のひとつでもしておかないと、と思っていたが、体を動かそうとすれば母が飛んでくる。目をハの字にして心配する母に応じるうちに、医者とみられる白衣の男は病室から出ていってしまった。

「だめよ雄一。そんなにすぐ動いちゃ」

「でも、おれもお礼を言っておかないとまずいだろ? せっかく助けてくれたんだし……」

「それはそうだけど……あなた死にかけたのよ?」

「うん、らしいね。まぁ、体も少し痛むけど、意識ははっきりしているし……たぶん、明後日ぐらいから学校に行けそうな気がする」

「明後日からって……」

「あぁ、あと……その、ごめんね?」

「え?」

「いや、心配かけちゃったみたいで……」

 どこか照れくさそうに言う雄一を、母はぽかんとした表情で見つめていた。あまりに呆けた顔に噴きだしそうになったが、訊ねてみる。

「どうしたの?」

「ああぁ、いや……その……。雄一、あんた頭でも打った?」

「いやまぁ、そりゃあ打ったけど」

「そうよね……。それで死にかけていたものね……」

「……どうしたんだよ、急に考え込んで」

 俯いて顎に手をあてて、いかにも「考えています」というような表情をしている母。その母がふっと顔を上げて、

「あんた……ほんとうに雄一?」

 と、訊ねてくる。

 何を馬鹿らしいことを、と言おうとした口を噤む雄一。思い当たるふしがあるからだ。

 以前の雄一の口から「学校に行けそうな気がする」なんて、登校に前向きなことばが出るはずがない。勉強が嫌いな彼にとって、学校へ行くなど苦役に等しかったからだ。

 それに、ずいぶん心持ちが落ち着いている気がする。不良たちに殴られ、命の危機に瀕したわけであり、本来の雄一なら復讐に拾ったその命を燃やすほどの怒りに震えているはずだ。だが、彼は思う。

 ——きっと死んだと思っただろうな……殺してしまったと……。喧嘩を売ったのはおれだし、なんだか悪いことをしちゃったな……。

 なんてことを、心で呟く始末。

「口調」

「え?」

「ことば遣いが、変わってる……」

「そ、そうかな……。いや、言われてみればそんな気がしてきた……」

「しかも、そんな素直な子じゃない! だいいち、こんなに会話が出来ているなんておかしいじゃない! あんたはバリバリの反抗期だったのよ? うるせぇ、うるせぇって怒鳴り散らしていたじゃない!」

「いや、まぁ、確かに……。でもさ、母さん」

「母さんっ!」

「な、なに……」

「母さんなんて、久しぶりに聞いたわよ! あんだけババァ、ババァ言ってたのに……」

 と、最後は涙声になる。わっと顔を覆って泣き出していしまった。あたふたして戸惑う雄一の前に、父がやってくる。静かに母の隣にあった椅子に腰かけた。

「雄一……ほんとうに無事でよかった」

「うん……ありがとう」

「ところで雄一、おれのこと、何て呼んでたか覚えているか?」

「いや……」

「シラミ糞オヤジだよ」

「ひ、ひどいな……」

 絶句する雄一を見て、父は笑い出した。その目尻には涙が溜まり、ひとしきり笑い終えると、腹の中にため込んでいたものを吐き出すようにして言った。

「ほんとうによかった……」

 父は母の背中を優しくさする。雄一もその肩にそっと手を置いた。


 本人の意思に反して、雄一の病室生活はおよそ9日間に及んだ。外を見れば、春の中頃をしとしと雨が濡らしており、なんだか少し気分が落ちこむような気がする。以前は天気など気にすることなどなかったのだが。

 意識ははっきりしており、体も問題なく動く。故に若い雄一は、ただただ暇を持て余すばかり。ラウンジにある椅子に腰掛けると、同じく入院中の老人たちとテレビを観るしかやることがない。

 老人のひとりがチャンネルをぽちっと変える。ちょうど野球の試合が中継されており、よくよく見ると、選手たちは高校生だ。しかも、雄一のよく知る高校の生徒たち。

「おお、百川学園か。相手はどこだ?」

「やっぱり、春も出られるのか。いやぁ、さすがだなぁ、まったく」

「でも、負けちゃってるよ。あぁっ……塁に出られた」

「夏には出られるかねぇ」

「どうだろうなぁ……この調子じゃあちょっと厳しいんじゃねぇか?」

 甲子園は夏だけではない。春もある。

 春は〈選抜高等学校野球大会〉という名称がつけられており、その名の通り「選ばれた」高校が出場できる。そこに百川学園野球部は出場している。しかし、老人たちの話ぶりからは、どうやら試合の流れは相手高校の方へ向いているらしい。

 ところが雄一には、老人たちの会話などほとんど聞こえていなかった。彼の目はモモガク選手たちの動きを追い続け、その耳は解説や歓声に向けられている。試合の行方に全てを駆けたかのように、テレビ画面に意識を集中させていた。

 野球になど興味はなかったはずだ。しかし、今、雄一は自らの心が、熱く、滾っているのがわかる。モモガクの投手が、相手バッターを3振に打ちとると、

「よしっ!」

 と、声を張り上げ、同時に立ち上がっている。

「おおっ、なんだ突然」

「もしかして、あれかい? 君、モモガクの子かい?」

 驚いた老人たちに訊ねられて、我に返る雄一。

「ああ……まぁ、その……はい……」

 と、曖昧な返事。それもそのはず、雄一は自らの高揚に動揺していた。

 ——おれって……野球こんなに好きだったっけ?

 そう思いながらも、中継映像に目が離せない。試合が進むにつれて、大人しく座って観ていられなくなってくる。打たれたら「ああっ!」と頭を抱え、打ち返したら「よしっ!」と拳を握る。膝を叩き「いけぇっ!」とホームに帰ろうと走る選手に声援を送る。しまいには「自分ならこう……」などと考える始末。

 けっきょく、百川学園はあと一歩のところで逆転することができず、3回戦敗退。横一列に並び、悔しさで震える選手たちが映しだされるその前で、雄一は床に手をついて泣いていた。

「ほんとうに……野球が好きなんだねぇ……」

「うぐっ……うっ……そう……らしいです……」

 嗚咽混じりに紡いだことばは妙なものであるが、雄一にはそう言うしかなかった。

 その夜のこと。雄一は心に決めた。冴えきった目で、暗くなった白天井を見つめながら、心の内で宣言した。

 ——退院したら、野球部に入ろう。そんで、絶対に夏の甲子園で優勝してやる!


 さて。

 夏に向けての猛練習に、モモガク野球部は喘いでいた。練習メニューは変わらずハードで、変わったことと言えば、彰寬がグランドにいないことと、彼の同級生たちが最上級生へとなっていたことだ。

 1、2年生に檄を飛ばす3年生。その光景を、監督はベンチに座って見つめていた。黒いサングラスに選手たちの姿が薄く映るのだが、やはりどことなく彼らからは覇気が感じられない。監督は「うぅむ……」と唸る。

 ——やる気はあるのだろうが、今ひとつといったところか……。やはり、宮田の存在が大きすぎた……。思えばおれも、あいつに頼りっぱなしだったな……。

 不意に目頭が熱くなる。これまで何度もモモガク野球部を甲子園へ出場させてきた名監督であり、かつては優勝校の監督もしていた。そんな彼にとっても、彰寬は特別な選手であり、思い出す度にその夭折が悔やまれてならない。

 ——宮田の死は、日本の野球界にとって、多大な損失だったろう……。

 監督は本気でそう思っていた。そこへ、

「監督!」

 と、背後から声。驚いて振り返ってみると、フェンスの向こうに坊主頭の男子生徒が立っている。

「な、なんだ? えっと……君は……」

「2年3組の、綾部雄一です。練習中に失礼します」

「ああ、まぁいいが……。何のよう……」

 次がれるはずのことばを遮り、

「自分っ! 百川学園野球部に入部したく参りました!」

 姿勢をピンッと正して、まっすぐ監督を見つめて言い放つ雄一。一言一句が拍子木を打ち鳴らしたかのように響いた。

「ああ、入部希望か……。フェンス越しに話すのもあれだ。そこを回って、ここまで来なさい」

 面食らった表情の監督にそう言われ、雄一はグランドに入り、ベンチへと向かう。その間に、監督はキャプテンに一声かける。

「おぅい、ちょっといいか?」

「はい、なんでしょうか監督」

「入部希望者がきた」

「入部? 今更ですか?」

「ああ、そうだ。ちょっと相手してくるから、すこし外すぞ」

「わかりました……。ところで、妙とはどういうことです?」

「やる気に満ちあふれている」

「いいことじゃないですか」

「まぁ、そうなんだが……」

 そんなことを話していると、すでに雄一がベンチに到着。じっと監督を見つめている。

 中肉中背で、がっしりとした体つき。痩せすぎず、太りすぎてもいない。もともと何かしらの運動部にでも入っていたのだろうと思われる容姿であるが、まぁ、このぐらいの生徒ならどこにでもいそうだ。しかし、ある一点だけは違う。

 目が違う。監督が出会った選手の中でも、指折りの覚悟と気迫を備えた光がある。思わず、かける声も慎重に響いてしまう。

「入部したいと言ったな……。2年生か。野球の経験はどれぐらいあるんだ?」

「いえ、やったことありません」

 その一言につんのめる監督。思わず、

「やったこないぃ?」

 と、素っ頓狂な声を出してしまう。

「それで……なぜ、野球部に?」

「野球がしたいからです」

「やけにシンプルだな……。まぁ、いい。当然だがうちにも君と同じ2年がいる。1年のころから練習を積んできたやつらだ。勝敗を決める有力な選手も何人かいる。——いいか? やる気は認めよう。この時期に入部希望を面と向かって出してくる気概もいい。だが、君が試合に出られるかは保証できない。……いや、出られないとはっきり言った方がいいな……。綾部雄一。それでも君は、モモガク野球部に入りたいのか?」

 その質問に雄一は即答。

「はい」

 そして、付け加える。

「自分、甲子園で優勝したいんで」

 

 時は過ぎて、地区大会。そこには他校を圧倒するモモガク野球部の姿があった。それだけではない。ピッチャーとしてマウンドに立つのは、他でもない雄一である。

 入部して間もなく、一年生から野球のルールを教えられ、キャッチボールからはじめた雄一。しかし、それからすぐのこと。

 バットを握らせたら、投げられたボールをカキンッと打ち上げる。ボールを投げさせたら、キャッチャーが思わず尻餅をつく豪速球。走り込みや、守備練習なんかも弱音一つ吐かず、選手たちについていく。

 いや、ついていくだけでない。日々を経るたびに、雄一は上級生さえ凌駕するほどの選手となりつつあった。強力なチームをまとめるため、いつも気を張り、時に監督にまで強い口調で進言するキャプテンでさえ、

「すげぇ……」

 と、唖然。気づけば雄一は、モモガク野球部になくてはならない存在になっていた。

 ほどなくして迎えた地区大会では、雄一の目を見張る活躍により優勝。夏の甲子園出場が確実となり、監督は帰りのバスの中で思い返す。

 ——綾部雄一。あの日突然現れた、新しいエース……。いや、違う。綾部は新しいエースなんかではない。ずっとこのチームを引っぱってきたエースなんだ……。

 そこまで考えて、監督は首を振った。何を馬鹿げたことをと自らを戒めた。しかし、他の選手たちも同じように感じている。特に、今の三年生と二年生は……。

 バットを振り、ボールを投げ、走り、跳び、悔しくて叫び、笑顔で励ますその姿。雄一のその様に、モモガク野球部は宮田彰寬を見ていた。

 ところがある日のこと。いつものように厳しい練習に勤しむモモガク野球部の姿を、フェンス越しにじいぃっと見つめる人影があった。

 視線が背中に刺さるのを感じて、雄一は振り返る。そこに背の小さな少女がひとり。左右で結んだ長い黒髪が、初夏の風に揺れている。顔だけ見ればまだ中学生ぐらいの幼さを感じるが、その小さな両の手はフェンスを強く握り、細められた瞳は異様な鋭さを放っていた。

 ——なんか、睨まれてるな……。

 野球部のエースとなってからはクラスの女子生徒と話す機会も不思議と増えた雄一だが、彼の記憶の中に、この少女の姿はない。

 雄一は、話したことも会ったこともない女子にここまで睨みつけられる経験はしたことがなかった。故に、気になる。練習が一段落して、休憩に入ったおりに、彼は少女に歩みよった。

 一歩、一歩近づいてくる雄一の姿を認め、ハッと目を見開く少女。しかし、すぐに眼差しは、ギンッと鋭利な光を放つ。

「あの……」

 おそるおそる訊ねる。

「なにか……用かな?」

 なんとか笑顔を取り繕った雄一であるが、少女は彼に言い放つ。

「あっ、あんたなんか……あんたなんか彰寬じゃないっ!」

 泣き出しそうな声。それだけを叫ぶと、少女はくるりと踵を返して去っていく。残された雄一は、ただただ呆気にとられるばかり。

 チームメイトたちのところに戻ると、なぜか皆、バツの悪い表情をしている。漂う空気もどこか重い。どうやら、少女の声が聞かれていたらしい。

「なんか……知ってます? あの子のこと……」

 そばにいたキャプテンに訊ねてみると、雄一の目を見ずに彼は答えた。

「あの子は……宮田のカノジョだ」

「はぁ……」

「宮田はな……この野球部のエースだった」

「エースだった……ということはもう辞めちゃったんですか?」

「いや…………死んだんだ……」

 えっ、と声を失う雄一。キャプテンは続けた。

「今年の2月にな。あいつは……宮田彰寬は、俺たちにとって無くてはならない存在だった。きっとあの子にも……」

「な、なるほど……」

 とは言うものの、納得できない。亡くなった元エースの恋人になぜ怒鳴られなければならないのか。

「お前はな、綾部。……似てるんだよ」

 訝しげな雄一に、キャプテンは言う。

「似てるって……その、宮田って人にですか?」

「ああ、そうだ。まったく瓜二つで……まるで、生まれ変わりみたいだ……」

 遠い昔に思いを馳せるような優しい笑みで、キャプテンは話す。が、その瞳はどことなく哀しそうに見える。

 自宅に帰り、このことを母に話してみる。近頃は主婦であった母も、正武団地近くの老人ホームへ働き出ている。あくせく働く両親の様子から、どうやら今、家計が苦しい状態にあるらしいと、雄一は感じていた。

「知ってるわよ。あの、宮田彰寬くんよね」

「どの宮田彰寬かわからないけど……知ってるの?」

「もちろんよ。あなたの命の恩人だもの……」

 命の恩人。雄一はこの日、自らが絶望的な状態で命をとりとめた訳を、はじめて知った。

 あの日、瀕死の重傷で病院に担ぎ込まれた雄一は、およそ3日に及ぶ大手術の末に、一命をとりとめた。その手術の内容というのが、なんともまぁ、奇怪なもので。

 雄一の損傷した脳、手足の筋肉すべての箇所を、別人のものを充てて補修するというもの。その「別人」こそ、宮田彰寬だった。故に現在、彼が失ったパーツは、モモガク野球部のエースのものと交換されている。

 当惑する雄一。しかし、これまで異様だったことの説明が成された気もしていた。

 なぜ、口調が変わったのか。

 なぜ、野球が好きになっていたのか。

 そして、なぜ、野球がこれほどにまで上手いのか。

「そうか……俺は綾部雄一でありながら、宮田彰寬でもあるのか……」

 唖然として立ち尽くす雄一に、呆れ顔で母が言う。

「何言ってんの? あんたはあんたでしょう?」


 少女の名は、宮城那奈みやぎななという。

 彰寬とは、中学のころに出会った。成績優秀で運動神経抜群。ハンサムで気の優しい彼に、那奈は一目惚れ。しかし、クラスでは「地味な方」に分類される彼女。友達も片手で数えるぐらいしかいない。人と話すのは、どちらかというと苦手なタイプだ。だが、振り絞れるだけの勇気を振り絞りきって、告白した。

 笑顔で「ありがとう」と言ってくれた彰寬。まるで昨日のように思い出す。彼は、那奈にとって理想の恋人であり、その、まだ短い生涯の、全てであった。

 彰寬がこの世を去り、那奈はすぐに後を追おうとした。だが死にきれず、生き延び、その後は学校へ行けない日々が続く。

 あるとき、鏡を見た。浴室の鏡に映る己の姿は、まぎれもなく彰寬が愛した自分ではなかった。那奈は次の日から登校を再開する。

 しかし、どこを見わたしても彰寬はいない。彼のいない世界に意味など見いだせず、失った過去の面影を追い求めるかのように、ふらり、ふらりと足がグランドへ向かう。

 そのとき、那奈は思わずフェンスにしがみついた。信じられない光景がそこにあったのだ。ピッチングする選手の中、彰寬がいた。

 が、違った。

 一挙手一投足、すべて彰寬のそれであったが、キャップの影が落とされた横顔は、愛したその人ではない。似て非なる者。しかし、あまりにも似すぎたその男に、どうしても彰寬の面影を消さない。

 ——あの人は彰寬じゃない……!

 だがそう思うが、目を逸らすことができない。まったくの別人だと頭の一方は気づいているのに、もう一方は希った再会が叶えられたかのように感じている。

 汗だくになりながら練習を続ける、名も知らぬ野球部員。彼が、彰寬ではないという決定的な何かを見つけるため、那奈は凝視した。すると、

「なにか……用かな」

 と、声をかけてくる。困ったように笑う表情、相手を思いやるような優しい声色。それはすべて彰寬のもの。それなのに、目の前の青年は、彰寬ではない。

 ——どうして……彰寬じゃないの……。

 その思いは、憎悪へと変わる。やがて、口をついて出てきたことばは、

「あんたなんか……彰寬じゃない!」

 だった。


 校庭の中央から少し外れたあたりに、楡の木が植えられている。その下に設置されたベンチで、ひとり、那奈が座っているのを雄一は見つけた。

「宮城さんっ!」

 突然声をかけられ、那奈は思わず昼食に用意した弁当を落としそうになる。声のした方を向くと、そこにはあのときの野球部員。

 咄嗟に立ち上がる。くるりと背を向けて逃げようする那奈に、

「あっ、待って!」

 と、雄一の声が飛ぶ。構わず早足でその場を去ろうとすると、

「宮田くんのこと、教えてほしいんだ」

「…………」

 那奈は立ち止まり、徐に振り返った。目に映るその青年は、やはり彰寬には似ていない。

「おれは……宮田くんに助けられた……。命を救われたんだ……」

 雄一のことばに、那奈は口を開く。

「どういうこと……?」

 雄一は語った。かつての自分がどんな男だったか。そして、どういった経緯で命拾いしたのか。しかし、

「信じられない……」

 うつむき、那奈はぽつりと言う。しかし、

「信じられないけど……信じようと思う……。どうしてあなたが、彰寬に似ているの、わからないから……」

 彰寬は言う。

「おれは……自分を助けてくれた宮田って人のこと知りたい。……いや、知らなくちゃならない気がしているんだ。今のおれがあるのはその人のおかげだ。その人のことを知って、その人への恩返しがしたいんだ」

 まっすぐ見つめるその瞳。大きさも何もかもが彰寬とは違うが、那奈は、その輝きだけは同じに思えた。

「あの、名前は……」

「あっ、えっと、綾部雄一っていいます……」

「綾部くん……。ごめんね……あのとき、あんなこと言っちゃって……」

「ああっ! いや、いいんだ……。きっと、宮城さんも辛かったんだろうし……」

「ううん……。じゃあ……綾部くん、ここ座って?」

「え?」

「彰寬のこと、話すね?」

 ベンチに腰掛け、隣に座る雄一に、那奈は話した。まるで昔話を語って聞かせるかのように、彰寬との思い出を綴っていく。

 誰かの力になることばかりを考えて、肝心の自分のことには疎かになることが多い。いつもニコニコ笑っていて、それでもふと見せる憂いもあった。

 ピンチに強く、絶対に諦めない強い心を持ちながら、ホラー映画はてんでダメ。野球以外は不器用なことが多く、料理なんかはまったく出来ない。

 いつか、そんな彰寬が言っていた。めずらしく自分の夢を語った。「甲子園で優勝したところを、那奈に見せてやる」と。あのまっすぐとした瞳で、彼女を見つめながら……。

 那奈が話す彰寬のこと。会ったこともないのに、昔からしる親友のように感じてくる。

「そうか……。宮田くんは、甲子園で優勝したかったんだな……」

 雄一は呟くと、那奈の方を振り向いた。

「おれ、見せるよ」

「え?」

「優勝したとこ。宮城さんに。おれ、絶対に甲子園で優勝するから!」

 雄一の放ったことばは、あまりにも無邪気で、優しく、それはどうしようもないほどに、彰寬のことを思い出させた。

 那奈はじっと雄一を見つめたまま硬直。頬が染まり、耳まで真っ赤になっていく様子に、彼は慌てた。

「あぁっ、ちょっ……なんか、変なこと言ったかな……」

「ふふっ……ううん、大丈夫。ありがとう。わたし、嬉しい」

 那奈は微笑んだ。

「約束。今度は守ってね?」

 小指を差し出す那奈。どこかあどけないその様に、思わず雄一の顔も熱くなった。

 そっと、指切りを交わす。夏の甲子園は、もう明後日に迫っていた。


 夏の暑さは毎年違うが、甲子園の暑さは変わらない。ひとりひとりの熱狂が渦巻き、夏を夏たらしめる光景を生みだしている。

 特に、決勝戦。すべてを決める大一番。テレビリポーターや解説にも熱が入る。カメラマンも、選手たちの青春の輝きを切りとらんと必死だ。

 カメラが向かう先、そこにいた。

 雄一がいた。バッター席にいた。

 点差は1点、9回裏。サードにモモガク選手が一人。同点を狙うなら、ヒットを1本。逆転を狙うならホームランを1本。しかし、すでにストライクが2本、ボールが2本入ってしまっている。

 雄一の一振りに、すべてが掛かっていた。

 並の選手ならそのプレッシャーには耐えられないだろう。しかし、ここにいるのは前回の優勝校を抑えて決勝へと進んだチームのキャプテン。

 ——宮田くん……いや、彰寬……。

 雄一は想った。彰寬が、いったいどれほどここの場に立つことを夢に見てきたかを。

 ——叶えさせてくれ……。おれに君の夢を、叶えさせてくれ!

 投げられたボール。舞い上がる砂を斬り、風を纏って、キャッチャーミットへ。すぐ手前、かくんと落ちる球道。そこに待ち受けるは、雄一が振ったバット。

 甲子園に響いたのは、快音。

 飛行機雲が描かれた、胸の透くような青空に、響いた。

 ——彰寬……。

 湧き上がる歓声を遠くに聞き、那奈は想う。溢れる涙でぼやけた視界に、雄一の勇姿を映しながら、彼女は心の内で呟いた。

 ——ありがとう……わたしと出会ってくれて……。わたしの全てでいてくれて……ありがとう……。

 顔を覆う那奈。

 空を見上げる雄一。

 その手からバットが離れる。

 歓喜の喧噪は、いっそう激しくなるばかり。

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