バーチャル彼氏

 とても大切な親友に関する吉報が入ってきたとすれば、まず喜ぶのが当然であろう。しかしながら、耳に入ったその報せは、今の持田藍子もちだあいこにとっては諸手を上げて喜ぶものでもなかったりする。

「はぁ……そっか……。美佳にも、カレシが出来たんだね……」

 頬杖を付きながら、藍子は物憂げに呟く。

 一方、もうすぐ高校生にもなるのに、姉と同室、一人部屋が無いのはどういうことかと常々ぼやいている藍子の弟、隆太りゅうた。背後で聞こえよがしにため息をつく姉に、少々うんざりしながら、振り向いた。

「なに? どうしたの?」

「え? あぁ……ちょっとね。いろいろあんのよ……」

 ちらと隆太を一瞥すると、すぐに遠い目をして向きなおる。ここで「あっそ」などと言って放っておくと、気分を害し、あとあと面倒なことになるのを、彼は経験的に知っているので、

「……いろいろって?」

 と、訊ねてみる。

「美佳がね……カレシ作ったって……」

「へぇ……美佳って姉ちゃんの友達?」

「うん……親友ってやつ」

「じゃあ、よかったじゃん。喜んであげなよ」

「喜んでるわよ。すっごく嬉しい」

「そうは見えないけど……」

「まぁ、なんだかね……。ずっとカレシのいない同士で仲良くやってきたから、なんだか抜け駆けされたみたいでさ……」

 こう、ことばにしてしまったら藍子も認めざるを得なくなってくる。とどのつまり、親友がカップルの片割れとなってしまったことが嬉しくないのだ。「かっこいいカレシが欲しいね」などと話したことも何度かはあったが、まさか本当に男を射止めてしまうとは……。

 藍子が「先を越された」というわけではなく「抜け駆けされた」と感じるのにも、理由がある。件の親友は、己の身の上についての一切を彼女に話していなかった。つまり、秘密裏にカレシを探し、秘密裏に交際に到ったわけだ。

 先にカレシを見つけられたことによる敗北感や、自分だけが取り残されてしまったような孤独感。誰かのカノジョになることは、それだけ大きな地位となるゆえに、親友への嫉妬心も生まれてしまう。

 以上の煩悩を生みだしたのは、やはり「カレシのことを隠されていた」という事実であろう。それは親友への報復を考え出すきっかけにもなった。

 ——ぜったいに、かっこいいカレシ見つけて、見返してやる!

 そう意気込む藍子であるが、重い腰はなかなか上がらないもので……。

 垢抜けず、中学生のまま17歳となったような藍子。彼女は恋愛に積極的な性質の女子ではない。言わば「奥手」なのである。さぁ、カレシを作ろうと本格的に腹を括ったような気がするだけで、本当のところは、まだ覚悟が決まっていない。

 途方に暮れるがまま呆けている姉を見かねて、隆太が声をかける。

「姉ちゃんさぁ……抜け駆けされたって、それアレ? カレシが欲しいって言いたいわけ?」

「……違うわよ。ただ、わたしは言って欲しかったの。好きな人がいることぐらい、親友であるわたしに隠さなくていいじゃないの……」

「じゃあ、カレシは別に欲しくないと」

「…………」

「欲しいじゃん」

「欲しいわよ! そりゃあ、欲しいに決まってるじゃない。まだあんたは子どもで、しかも男だからわかんないでしょうけどね、誰かに愛されてますって証明できるってことは、もう、それはそれは、とんでもない力があるわけよ? クラスではカレシのいない女の子と、カレシのいる女の子で住み分けされているって言っても過言じゃないわ」

「さすがに過言じゃあ……」

「とにかくね、カレシが必要なの。基本的に」

 そう言ってそっぽを向く藍子。

 隆太は思う。これは相当まいっているな、と。

「ちょっと、気分転換してみたら?」

「え?」

「ゲームでもしてさ。ほら、この前買ってもらったやつ貸してあげるから」

「えっ! 本当? あの、なんだっけほら、えっと……VTR」

「VRね。VRゴーグル。あれけっこう面白いよ? やってみたらちょっとは気が晴れるんじゃない?」

 まわりが少し困惑するほどゲームが好きな隆太である。そんな彼が所有するゲーム機器を貸す、しかも自ら進言するなど、あまりにも珍しい。

「いいの? 本当にいいの?」

「いいよ。でも、一週間だけね。それ過ぎても返さなかったら二度と貸さないから」

 冷たく言い放つが、それが姉にどれほど効果があるか知らない。藍子はにこにこ笑顔で、首を大きく縦に振って承諾した。


 さて、ここでVRゴーグルというものの簡単な説明をしておこう。

 VRとはバーチャルリアリティの略称であり、仮想現実感という日本語が充てられている。この仮想現実へアクセスするための装置として「VRゴーグル」というものがあり、これを装着すれば、現実ではありえない奇想天外な世界へと没入することができるわけだ。

 顔上半分をすっぽり覆う、まるでヘルメットかのような見た目。持ってみるとずっしり重く、藍子にはどこか仰々しく思えた。

 頭からすぽっとかぶると、視覚、聴覚が遮断される。耳元にあるスイッチを押した瞬間、藍子は硬直。思わず息を呑んだ。

 薄暗い木造の小屋の中。ところどころ腐っており、歩く度にギシギシ音がなる。それだけではない遠くの方で叫び声に似たものが聞こえる。振り返ると、破砕した小屋の壁の向こうに、月光に照らされた森が見えた。

 さっきまで自宅の一室にいたのが嘘のよう。今、藍子は中世ドイツの残酷な伝説が残る森の中に身を置いていた。彼女が進めているのはホラーゲームである。

「ええっ! ちょっ、やめっ……うわぁあっ! ねぇ、ヤバい! ヤバい! 誰か助けてっ!」

 藍子、迫真の絶叫。狼狽錯乱する姉の様子など、これまでに見たことがなかったためか、隆太は物珍しそうに眺めている。

「ねぇ! 何これ! どうやって進むのっ?」

「姉ちゃん、体の向き変だよ。こっちこっち」

「やっ、バカ! 触んないで! ぶっ飛ばすよ!」

 恐怖から普段より凶暴になっている様子。そんな姉に殴られ、蹴られしながらも隆太は彼女をサポートしていく。けっきょく、はじめてのVRゲームは深夜0時まで及び、一階にいる母親からの怒声が響いたところで、終了した。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 全身が脱力、床にぺたんと座って肩で息をしている。ゴーグルを外す気力すら残っていない。一方で隆太は姉に構わず、寝る準備をしている。藍子は一人思う。

 ――やば……。

 今の今まで、これほど動き、喚いたことはあっただろうか。部活に所属しているわけでもなく、授業が終われば即帰宅する藍子は、感じたこともない疲労感に包まれていた。そしてその疲労感は、彼女にとって悪い気分にさせるものではなく、つまるところ、気が晴れたのだ。

 気が晴れただけじゃない。藍子は自覚していた。自分がこのバーチャルリアリティというものに、頭の先までどっぷり浸かってしまっていることに。

「ねぇ、隆太」

「何?」

「先、寝といて」

「え、起きとくの? 目が冴えちゃったかんじ?」

「それもあるけど……。調べたいことがあってね……」

 その夜、ノートパソコンを開いて藍子は検索をかけた。無論、VRゲームおよびゴーグルに関することである。

 VR機器が日本で販売されてから数年。低価格帯のものも多くなり、技術が進み続けたことで、より深い没入感を得られるものまで登場している。その中に、藍子の目をひいたものがあった。「RENS」という名のそれ。

 なんと、コンタクトレンズ型のVR機器だ。

 装着の方法は、並のコンタクトレンズと変わらない。手軽な上に、コンパクト。視神経から聴覚、触覚へと微弱な電波が流れることにより、構築されたVRの世界に「触れる」ことができるという。

 それだけの機能を有しておきながら、期間限定の特別価格が適用されているために、藍子が貯金していた小遣いで購入できるぐらいの値段になっていた。加えて、RENS対応のゲームも付属されている。

 ——これは……。ちょっと怪しいけど、めちゃめちゃ気になるな……。

 そう心で呟く藍子。しかし、このとき既に、購入の意思は固まっているも同然であった。何よりも付属するゲームが魅力的だ。

「バーチャル彼氏……」

 口にしてみて妙な語感だと思う。恋愛RPGといったジャンル付けになるのだろうこのゲーム。快活な幼なじみ、クラスの王子様、病弱で大人しい後輩。三人の青年たちの誰かを選び、攻略、やがて自分がカノジョへとなっていくといった内容だ。

 きっと隆太なら「何それ?」と冷ややかに言い放つだろう。だが、藍子にとってはカレシを作る第一のステップになり得るかも知れないゲームだと考えていた。

 VRゲームも楽しめて、カレシを作る一助になる。これほど一石二鳥なものもないなと考えた藍子が、その後に取る行為はひとつ。

 真夜中の一室。隆太の寝息に紛れて、カチッとクリック音が響いた。


 RENSの触れ込みに、何一つ嘘はなかった。それどころが、あまりにも控えめに書かれていたのではと思える具合だ。

「すごい……」

 部屋の中央にて立ち尽くす藍子。両手は行き場を無くしたかのように宙に浮いている。傍目から見たら何事かと狼狽する光景だ。誰も、彼女がVR機器の性能に感動しているなどとは思わないだろう。

 藍子の目の前に広がる世界は、もはや現実のそれだ。こぢんまりとした勉強机。壁にかかっているコルクボード。そこに飾られた幾枚かの写真たち。穏やかに揺れるオレンジのカーテン。それを揺らす優しい風や、木目のフローリングの冷たささえ、感じられる。

 これが、すべてコンピューターで描かれている? そんなわけない! と今の藍子なら胸を張って言えるだろう。いや、彼女だけじゃない。RENSを装着した者なら誰だってそう思うはずだ。

「い、いいのかな……本当に……」

 あまりのクオリティに、申し訳なさが鎌首をもたげてくる。あとあと何かしらの請求が来るのではと、不安になってくる。

 だが、誰に相談することもできない。隆太にこのことを話せば「しっかりハマってんじゃん」と笑われ、両親に話せば「せっかく貯めてきたお金を、ゲームなんかに使うなんて……」と叱られる。彼女の両親は弟に甘いのだ。

 そんな両親は今、働きに出ている。弟は友人とどこかへ遊びに行っているため、家の中にいるのは藍子ひとり。心置きなくゲームを進めることができる環境だ。


 一度目を閉じ、ぱっと開く。ここは『バーチャル彼氏』の世界。

 壁にかけられた時計を見ると、7時半。部屋の出入り口近くに立てかけられていた姿見に映ったのは、前髪をピンクのヘアピンでとめた短い黒髪の少女。瞳が大きく、口は小さく形がいい。女の子らしい、女の子といった容姿をしている。彼女が、藍子の操作するキャラクターだ。

 どうやら登校時間にそれほど猶予はないらしい。藍子は家を出ると、すぐに走った。

「藍子!」

 背後から声がする。振り返ると、そこには金に染めた短髪の少年。手を振りながら距離を詰めてくると、

「なんだ、遅刻か? 珍しいこともあるな」

 などと言いながら、ニヤニヤ。幼なじみの秋庭洋介あきばようすけである。

「じゃあな! もう時間ねぇからな、急げよ」

 そう言い残して、颯爽と駆けていく洋介。どこか小馬鹿にしたような口ぶりだが、古い付き合いだからであろう、特に嫌悪するものではない。むしろ、どこか懐かしさすら藍子は感じた。男子の幼なじみなどいないのに。

 学校にはギリギリの到着。県立逢ヶ先おうがさき高校は、藍子が通う禄御坂高校とそれほど規模は変わらない。内部の構造も、似たり寄ったりだ。

 藍子は教室に入り、席へとつく。すぐに教師がやってきて、数学の授業がはじまった。内容は、ちょうど彼女が勉強している範囲のもの。ゲームの中でもこうして授業を受けなければならないのは、少々苦痛であったのだが、ちらと左を見ると、思わず「まぁ、悪くないかな」と呟いてしまう。

「ん? 何か言った?」

 振り向くその仕草から、香り立つような美しささえ感じる。灰色の髪を首元まで伸ばした、線の細い可憐な男子。この齊藤真澄さいとうますみという青年は、物静かで人と群れようとしなせず、図書室に通っては本を黙々と読んでいるようなタイプだが、藍子とは親しげに話すことができる。

「いや、なにも……」

 笑顔を繕うと、真澄は怪訝な表情をする。他者の感情の機微に敏感な少年だ。不安げな表情で、彼は言う。

「そっか……。何かあれば遠慮無く言ってね? 僕じゃ力不足かもしれないけど……」

「だっ、大丈夫、大丈夫……。別に何か相談するようなことじゃないし、心配しないで?」

「そう? ならよかった……」

 ほっとして、ふわりと笑う真澄に、女子としての何かが負けたような気さえする。

「それと、力不足なんかじゃないよ。心配してくれて、嬉しい」

 しかし、思わず口をついて優しげなことばが出てきてしまう。真澄には傷つけていけない、優しくしないとダメだと思わせるオーラが出ていた。

 と、そこで教師から注意が飛ぶ。私語は慎むようにとのことばに、二人は恥ずかしさで顔を赤らめた。

 授業が終わり、迎えた休み時間。次の授業は国語。あらかじめ教科書を出しておこうと、カバンの中を探る。すると、廊下の方で女子たちの甲高い声が上がる。黄色いその声に纏われて、教室に入ってきたのは、ハッと息をのむほどの美男子である。

 外側にはねつけた茶色の髪。切れ長の目には意思の強さが感じられ、すらっと通った鼻筋は良い意味で日本人らしくない。背も高く、足も長い。ほどよい筋肉が付いたその容姿は、ドラマや映画なんかで主役を張れるほどだ。

 桐生颯太きりゅうそうた。逢ヶ先高校でその名を知らない者はいないほどの好青年だ。そんな彼が堂々とした足取りでやってきたのは、藍子の眼前。思わず、

「え?」

 と、顔を上げると、

「これ、君のでしょ?」

 大人びた低い声。渡されたのは、えんじ色のパスケースに入った学生証。受け取り、広げてみると、それは間違いなく藍子のものだった。彼女は、数日前にこれを無くしてしまっている。

「B棟の渡り廊下の近くに落ちてたんだ。よかったね、見つかって」

 向けられた笑顔は、垢抜けて愛らしく、思わず心臓が高鳴った。

「あ、ありがとう……ございます……」

 おずおずと学生証を受け取る藍子。その様子を皆、黙って見つめている。しんとした空気に、いっそう体が強張ってしまう。

「じゃあね、持田さん」

 軽く手を振って、教室から出ていく。颯爽としたその後ろ姿に見とれていた藍子は、ハッと我に返った。

 ——どうしてわたしのこと、知ってるんだろう……。

 颯太に認知されている。その事実は、この学校では大きな意味を持ち、クラスでの藍子の地位を著しく向上させる要因となった。と、同時に、女子たちからの嫉妬を一身に受けることにもなるわけで……。

 放課後。帰り支度をしている藍子に、

「ちょっと、持田さん」

 と、呼び止める声。その語気は鋭く、藍子の動きをピタリと止めた。ちらと見ると、夕闇に昏くなっている廊下から、女子生徒三人、ゆったりとした歩調で教室へと入ってくる。

 彼女たちの目は、じっと藍子に注がれていた。縄張りを荒らされた獣のような目つき。睫毛の動きさえ見逃すまいと、注意深く光っている。

「な、なに?」

 そう応える藍子だが、声が震える。動揺しているのが隠せない。その様子は、教室に入ってきた彼女たちには心地よく、

「話があるんだけど、いい?」

 と、余裕な口ぶり。相手から「はい」ということばだけを選択させる圧力が、そのことばにはかかっていた。藍子は為す術無く、

「いいけど……」

 と、ぽつり。これほど分かりやすい敵意を向けられたのは生まれてこのかた初めての経験である。どうしていいのかさっぱりわからない。わかることと言えば、藍子を囲む彼女たちは、颯太の近くではしゃいでいた大勢の中の三人であることぐらいだ。

 となると、向けられた敵意の理由も自ずと推測できる。学生証を届けてくれた颯太。校内で大規模なファンクラブを有する彼が、凡庸でどこにでもいる女生徒である藍子に、貴重でかけがえのない優しさを向けたこと。そのことが、目の前にいる熱狂的なファン三人の怒りを買ったのだ。

「ねぇ、一応聞いとくけどさ。なんか調子に乗ってない」

「そうそう、ニヤニヤしちゃってさ。気持ち悪いんだけど」

「あんた颯太くんと話しがしたくて、わざと学生証落としたんじゃないの?」

 刺々しく飾られ、投げつけられたことばたち。どれをとっても言いがかりも甚だしいものだが、それらに胸を張って抵抗するほど、藍子は強くはなかった。

「そんなことないよ……」

 と、おどおどしながら呟くのが精一杯だ。

「は? なに? 声小さくてまったく聞こえないんだけど」

「文句があるならはっきり言ってみなよ」

「あのさぁ……颯太くんに謝ってきてよ。話しかけてごめんなさいって」

 好き勝手言われながらも、頭が混乱してまともに返事ができない。そんな自分が情けなく、藍子は俯いた。鼻がツンとするのを感じる。

 ——あ、なんか…………泣きそうなんだけど……。

 肩を震わせる藍子。そのとき、

「ねぇっ!」

 と、声が飛ぶ。女子たちではない、声は廊下から。教室にいた全員が声の下方を振り返ると、

「なにしてんの……」

 そこに立っていたのは、真澄だった。すでに下校したはずだが、なぜかそこにいる。

 憎しみがこめられた声は低く響き、大きな目は藍子の前に立つ三人を、ギッと睨んでいる。背にした夕日による逆光が、彼の放つ静かな怒りを、よりいっそう際立たせていた。

「だ、誰よ……!」

 突然の来訪者に動揺する3人。真澄は構わず言う。

「そういうの、かっこ悪いよ。良くないと思う」

「なによ! あんたに関係ないじゃない!」

「関係あるよ」

 冷たく言い放つと、ツカツカ教室へと入る。まっすぐ藍子の方へ向かうと、その手をとった。

「行こ?」

 藍子にだけ聞こえるように言う。その声は、強張った彼女の体を、やさしく解きほぐした。

 真澄はそばにあった藍子の荷物をひょうと持つと、彼女の手をひいて教室の外へ。残された3人は呆気にとられている。

 廊下へ出ると、真澄は足を止めた。藍子を三人から隠すように立ち、彼女たちを見据えてひとこと。

「次、おんなじ様なことしたら、ぼく、君たちのこと絶対に許さないから。覚悟しておいて」

 微笑を湛え、真澄は言う。不気味なほどに穏やかな声色。すぅっと三人の血の気が引いていくのを見終えると、彼は藍子の手を引いて廊下を進んだ。

 階段を降り、靴箱まで辿り着く。そっと藍子から手を離して、振り返った真澄。

「怖かったね」

 と、微笑んで言うそのことばに、藍子は堪えきれなかった。頬を、温かい涙が、そっと伝う。

 真澄はずっと不安だった。あのとき、颯太と話しているのを隣で見ていた彼は、まわりの女子たちが醸し出す不穏な空気を感じ取っていた。

 ひとり歩く帰り道。歩みを進めるごとに不安は大きくなり、気づけば引き返していた。教室へ向かうと、案の定。藍子は女子たちから因縁を付けられていたのだった。

「ありがとう……」

 涙を拭い、藍子は言った。まっすぐ真澄の目を見つめて、笑顔で。

 それから、およそ2ヶ月が経ち、あの三人からの嫌がらせは放課後の教室での一件だけにとどまった。いつものように洋介と軽口をたたき合い、颯太は女子たちから持て囃されている。が、そんな日常に少しの変化が加わった。

「藍子、行こ?」

 教室の出入り口で、真澄が待っている。藍子は慌てて彼に駆け寄った。

「ごめん、ごめん! ちょっと荷物が多くて……」

「持とうか?」

「いや、大丈夫。重いから」

「重いから持つんだよ? ひょっとして、そんなに貧弱に見られてる?」

「うそうそ、ごめんね? じゃあ、真澄? はいっ!」

「うっ! わっ……へぇ、なるほど……」

「重いんでしょ」

「重くないよ。大丈夫」

 藍子、真澄と呼びあい、肩を並べて下校する。その後ろ姿を見て、誰もが口を揃えて「付き合ってる」と予想するだろう。

 そのとおり。藍子はあの一件以来、真澄というカレシを得たのであった。


 一方で、弟の隆太。いよいよ姉の奇行を無視できない状況へとなってきていた。見えない何かに微笑みかけ、語りかけ、笑い合っているかのような素振り。それがおよそ三ヶ月ばかり続いている。

 藍子が両親に隠れてVRゲームを楽しんでいるのは知っている。それが『バーチャル彼氏』というタイトルであることも。だが、あまりに没頭しすぎているように思えた。

 学校から帰宅すると、すぐに件のコンタクトを装着。VRの世界にどっぷりと浸かり、その後はこちら側の世界など我関せずという具合である。

 いや、もはや、現実の存在を忘れている節がある。はじめは「えらく熱中してるな」などと見物していたが、ときおりゲーム内の恋人と喧嘩しているのか、大声を上げたりしているのを見ると、さすがに寒気がしてくる。

 さて、どうしたものかと思い悩む隆太。それでもこんなこと友人なんかに相談できない。自分の姉が「仮想のカレシと真剣交際しているらしい……」なんて恥ずかしくて言えるわけがない。

 受験勉強にも集中できないまま塾を終える。帰り道、隆太は友人と肩を並べて帰りながら、深いため息をついた。

「あのさぁ、死後婚って知ってる?」

 突然、そんなことを友人が訊ねてくる。鈍感な彼は、浮かない顔をしている隆太のことなど気づいていない。

「いや……知らないけど」

「昨日テレビで観たんだけど、すっげぇ怖えの」

「お前、そういうのほんと好きだよな……」

 仄暗くなってきた十月の空。少し肌寒い。

「まだ若いのに亡くなった人のためにさ、親が結婚させるの」

「誰を?」

「その亡くなった人をだよ」

「誰と?」

「そこだよ……。普通はさ、同じように亡くなった人同士を結婚させるわけ。でも、中には生きている人と結婚させたりするところもあるんだって……」

 声をひそめて言う友人。隆太はこうしたオカルト的な話には疎く、気のない相槌を打ちながら聞き流している。が、しかし、友人の話すことに少々引っかかることがでてきた。

「その亡くなった人をさ、ゲームのキャラクターにしちゃうのよ。そんでそのゲームを手に取った人と恋愛させて……もちろんゲーム内でだよ? でもさ、生きている人が、そのキャラクターを本当に愛しはじめたところでさ……」

 にやりと笑う。友人が見せるいつもの悪戯っぽい表情であるが、暗がりに浮かぶそれはやけに不気味に映った。

「引きずり込んじゃうんだって。向こう側の世界に」


 藍子はそっと真澄に肩を寄せる。彼の家に来るのはこれで三回目だ。壁際に座る二人は、しんと静かな夜の時間を楽しんでいる。

「ねぇ……藍子?」

 ぽそりと言うと、小さな頭を藍子の肩に乗せてきた。ときおりこうして甘えてこられると、母性が刺激されるのか、彼女は真澄のことがいっそう愛おしくなる。

「なぁに?」

 思わず甘い声で返事をする。

「こんな時間がさ……ずっと続けばいいのにね」

「そうね……わたしもそう思うよ」

「でも、ダメなんでしょう?」

「え?」

「こんなこと言うとさ、何だかかっこ悪いけど……。僕、寂しいんだ。寂しくて、寂しくて……。藍子がいない時間が来るのが……怖いんだよ」

 泣き出しそうなほど切なく響いた声。藍子は真澄の方を見やる。鼻と鼻がくっつくほど近くに、彼の顔がある。綺麗な顔だと心から思う。

「かっこ悪くないよ? わたしも寂しい……」

「じゃあ、ずっと一緒にいてくれる?」

「ふふふっ……。真澄ってたまに可愛い」

「ちょっと、からかわないでよっ……。僕は真剣なんだ」

「わかってる。ごめんね?」

 藍子はそう言って、体を向ける。やさしく真澄の頬にそっと触れた。

「ねぇ、真澄? ずっと一緒にいたいって言ったら、ずっと一緒にいてくれるの?」

 真澄は微笑んだ。

「うん、ずっと一緒にいるよ」

 静かに見つめ合う。やがて、お互いを求め合うように体を寄せ、唇と唇が、柔く重なり合った。


 帰宅した隆太。玄関には姉の靴だけが置かれている。どうやら両親はまだ仕事のようだ。

 階段をかけあがり、自室へと向かう。

「姉ちゃん?」

 言うと同時に扉を開ける。しかし、そこには姉の姿はない。トイレにでもいるのか、リビングにいるのか。しかし、一階からは物音ひとつ聞こえてこない。

 隆太は姉の机に置かれていたパソコンを開く。電源を入れ、ネットに繋ぐと検索履歴を探った。藍子がいったいどこからあのVR機器を入手したのか知りたかった。

 しかし、無い。どこにも無い。

 VR機器の存在どころか、購入した記録すら残っていなかった。他の履歴は残っているのにも関わらず。

「姉ちゃん?」

 隆太は姉を呼ぶ。誰もいない部屋、やけに大きく響く。

「姉ちゃん? あのさぁ、いつも使ってるVR。あれ、どこで買ったの? ねぇ! ちょっと、どこにいんの?」

 部屋を出ていき、階段を下りながら声を上げる。しかし、どこからも応答はない。それどころか人の気配すら感じない。

 家中を探した。しかし、いない。どこにもいない。

 ただ、空のコンタクトケースだけが、部屋に転がっていた。

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