愉怪なベビーシッター

 長い人生において、いつでも裕福でいられる者はかなり限られるわけで。たいていは、どこそこかのタイミングで金がない、金がないと喘ぐそんな貧乏を味わう経験をするものだ。

 と、言うのは、桃山亮太ももやまりょうたの父がよく彼に言っていた持論のひとつである。

 亮太は思う。きっと、今がそのタイミングなのだと。

 禄御坂高等学校一年生の亮太は、現在、市内の大学に通う姉——桃山涼子りょうこと暮らしている。小さなアパートの一室。6畳1DKの家賃は彼女が払っている。しかし、

「来月から、あんたも払ってよね」

「え、はぁ? なんでだよ」

「なんでだよじゃないわよ。一緒に住んでるんだから家賃ぐらい払うのは当然じゃない」

「いやいやいや、話が違う! 姉ちゃんが来てもいいって言うから、ここに……」

「タダで住ませてあげるなんて、言った覚えはないけど? それに……サークルもあるし、出費がかさんじゃってんのよね」

「なんだよ、そのサークルって! やめればいいじゃん、どうせテニスなんかしないんだろ?」

「うるさいわね! 同居人としてちょっとは家計に貢献しなさいって言ってんの! だいいち、恥ずかしくないの? 実の姉と二人暮らし、ただ飯食らいの彼女ナシの高校生なんて」

「彼女ナシは関係ないだろ!」

 喧嘩の絶えない二人ではあるが、暮らし初めて半年が経った。

 二人の実家は古い造酒店。物心ついたときから、ずっと店を手伝わされていた。特に男手である亮太は、4代目として期待されている。だが、年頃の少年には、そんなものは重荷でしかない。

 とにかく実家を離れたい! という亮太の懇願と、女の子が一人暮らしなんて危ない! という母の涼子に対する前々からの心配が重なり、折衷案として弟が姉の家に転がりこむという状況ができたのであった。

 亮太にとっては、両親からこき使われることが無くなって安心していたのだが、それも束の間。

 大学から帰ってくる涼子のために料理をこしらえなければならない役回りとなってしまった。まぁ、料理は趣味であり、唯一の得意ではあるのだが……。

 涼子にとっては、弟が自分の部屋であぐらをかき続けるなど断固反対。ただただ、邪魔なだけだと散々な言いぶりであったが、正直なところ亮太がいるおかげで安心しているところもある。

 なぜなら、彼が来るまでは誰かに付けられている気配がしていたからだ。このことは、両親はもちろん、亮太にも話していない。

 なんだかんだで上手い具合に日々を乗り切っている二人であるが、亮太にとっては危機だ。ただでさえ小遣いも何もないような状況で、家賃を払えなどと言われては、最悪、実家に帰るハメになるかもしれない。

 しかも、新しいスニーカーが来月末には発売される。将来は靴屋を開きたいと夢想するほどスニーカーが好きな亮太にとっては、絶対に手にしておきたい商品だった。

 しかし、金がない。

 何は何とも金がないのだ。

 だが、金が必要。金が欲しい。と、なればやることは一つしかない。

「アルバイトかぁ……」

 土曜日の深夜。肌寒い秋風が、小さく窓を揺らしているのを聞きながら、亮太はノートパソコンを開いていた。画面には求人サイトのページが広がっている。

 短期的にささっと稼げる仕事はないものかと「高校生可」「経験不問」「高収入」という言葉で検索をかけてみる。

 すると、

「んー? なになに、えーっと……ベビーシッターかぁ……」

 期間は半年。面接はなく、履歴書だけの審査。トラブルに対処できるコールサポートが24時間設置されている。そして、何よりも月末に支払われる報酬が、十二分によかった。

 ——いや、まて! 怪しすぎるだろ……。

 経験不問で、しかも高収入で、高校生でもできる仕事がベビーシッターなわけがない。クラスで二番目に頭の悪いと自負する亮太でも、このぐらいのことは見当がつく。

 しかし、それでも……。

 亮太はスニーカーが欲しかった。家賃のことは……まぁ、いっそのこと無視しておけばいいとさえ思っていた。

 カチッ。

 「応募する」という欄にカーソルを合わせ、クリック。その2秒ほど後、亮太のスマートフォンに通知が来た。

 メールの通知。応募先の企業からだった。


 それからちょうど一週間後。涼子は亮太のアルバイトのことを知った。

「あんたって、本当に馬鹿! ベビーシッターなんて出来るわけないでしょっ! 犬や猫を飼うのとは違うんだから!」

「そんなのわかってるよ」

「わかってるんだったら、さっさと他探しなさいよ」

「いやいや、もう応募しちゃったよ」

「ネットで、でしょ?」

「うん、ネットもだけど履歴書も送った」

 唖然とする涼子。

「馬鹿じゃないの……」

「そんな……絶望するほどじゃないだろ?」

「絶望だってしたくなるわよ! ベビーシッターなんて出来るわけないでしょっ!」

「それさっきも聞いたよ……。いや、あのさぁ、大丈夫だって! ベビーシッターなんか、赤ちゃん見るだけだろ? 俺、子ども嫌いじゃないし。それに高校生でもできて、資格も経験もいらないし、それに月に——」

「うるさいっ! 怪しすぎるでしょうがそんな求人! 『VNTベビーサービス』なんて会社、聞いたことないわよ!」

「そんなこと言ったって仕方がないだろう! だいいち、姉ちゃんが家賃払えだなんだって言い出したんだから」

「それはそうだけど……」

 涼子は亮太に呆れると同時に、自らの行いを悔いた。

 家賃負担が楽になるのではという思惑が8割、残りの2割はいずれ実家を継ぐだろう弟に、少しでも社会経験を積ませてやろうという姉心だった。が、その所為でこの状況である。

 このまま、亮太が悪質な詐欺に巻き込まれてしまったらどうしよう……。しかし、そんな不安など、弟の前で出せるわけがない。

 姉の胸中など知ろうともせず、珍しく怯む涼子を前にして亮太は胸を張る。

「こうなったら姉ちゃんにも協力してもらおう」

「いや、なんでよ」

「だって、俺がバイトをしなきゃ家賃だって払えないんだろう? それとも何? あのヘンテコなサークル辞めて、姉ちゃんがアルバイト増やすつもり?」

「この…………調子にのりやがって……」

「おおっ! ちょっ……暴力か! 暴力はよくない!」

 ピーン、ポーン。

 今にも飛びかかろうとする涼子と、緊急事態に身を屈める亮太の間を、インターホンの音が通り抜ける。


 玄関を開けると、黒い山高帽を被った黒のタキシード姿の男が二人、立っていた。作り物のように整えられたカイゼル髭に、丸い縁なしメガネ。時代錯誤な紳士を気どった二人の初老は、まるで鏡に映ったかのように似通っている。

「お忙しいところ、失礼いたします。VNTベビーサービスです」

 にこりと笑みを崩さず、そう言ってのけた二人を前にして、涼子は呆然としていた。

 ——え……だれ?

 たじろぎ、言葉が紡げずにいる涼子の後ろから、亮太が顔を出す。

「あ、どうも」

「おや、あなたが桃山亮太さんですね?」

「あ、はい」

「はじめまして、VNTベビーサービスです。このたびはご応募いただき、誠にありがとうございます」

「ああ、いえ、そんな……」

「本日、弊社において採用のご通達に伺いました」

「さいようのごつうたつ?」

「はい」

 ぼんやりしている亮太に、

「採用されたってこと! あなたはベビーシッターになったの!」

「あの、失礼かと存じますが、あなたは桃山様の……」

「姉です」

「ああ! お姉様でございますか!」

「そうです。姉として、お願いしたいことがあります」

「はぁ……。と、言いますと」

「採用の取り消しです」

 そこで、亮太が間に入る。

「いやいやいやいや、何を言っちゃってんの姉ちゃん」

「さっきも言ったでしょうが、あんたにベビーシッターなんか無理だって。大丈夫、わたしが何とかしてあげるから、下がってなさい」

「いや、いいって! せっかく働けるんだ! 断るなんてイカれている!」

「イカれているのはあんたよ!」

「いいや、今回は譲れないね。ここにきてまたはじめからなんて、そんな面倒なことはごめんだ!」

 涼子を押しのけ、VNTベビーサービスの職員の前へとずいっと立ち、

「やります! 働きます! 大丈夫です、まかせてください! やります!」

「それでは、早速なのですが……」

 遠慮がちに職員の男は言うと、隣に立っているもう一方の職員に目配せをする。すると、その職員がどこからともなく、手提げカゴを二つ取り出した。中身が見えないよう、それぞれに花柄の布巾がかけられている。

「2人……預かっていただきたいのです」

 布巾を除ける。亮太はかごの中にいるものを見て、ようやく状況の深刻さを理解した。

 ——これはヤバいぞ……。

 振り返ると、頼みの姉は「もう、どうなっても知らないわよ」と言いたげにそっぽを向いている。

 亮太はもう一度、かごを見下ろした。

 赤ん坊が二人。すやすやと寝息をたてている。

 触れるとそのまま散ってしまいそうな命が、そこにある。その命を、これから半年、なんとしても死守せねばならない。 それは、職務契約としてだけではなく、ひとりの人間として——そう、亮太はその人間としての責任が試されているのである。

 ごくり。

 溢れた唾を飲みこむ。脂汗が額を光らせる。実際に目にするのと、イメージしておくのでは、受け入れる現実の大きさが違う。

 すっかり余裕を失った亮太。どれほどの余裕がなかったのかと言うと、赤ん坊の頭頂部にニョキッと芽が——あきらかに植物の芽が生えていることに気づかなかったほど。

「短い間ではありますが、よろしくお願いします」

 にこりと隣り合った二人の職員は微笑む。


 職員たちは亮太に例のカゴを手渡すと、階下に控えていたのだろう空色の作業着姿の男たちがぞろぞろと現れた。彼らは、二人の部屋に上がりこむと、その壁という壁に透明のシートを張っていった。

「ちょっと!」

「大丈夫ですよ、お姉様。これは防音シートになります。これを張っておかないと、ご近所トラブルは必至です。それと、桃山さん。こちらが説明書になります」

 唖然とする亮太に手渡されたのは、「はじめてのベビー手引き」というタイトルのハンドブック。およそ100ページほどだろうか、その中には渡された赤ん坊を育てるノウハウなどが記されていた。

 ミルクの作り方や、飲ませ方。赤ん坊の抱き上げ方や、下ろし方。おむつの交換方法や、夜泣きの対処方などさまざま。最後には、見開き3ページに渡って契約事項が記されていたが、亮太には読む気にならなかった。

「おっと、あとこちらも。大事なものを忘れるとこでした」

 と、職員が二人に手渡したのは、ピーナッツより少し小さいぐらいの突起物。

「なんですかこれ?」

 亮太が訊ねる。

「耳栓です。赤ん坊がいる間、絶対にこれを付けておいて下さいね。絶対ですよ。もし、外してどうにかなっても、弊社は保証いたしかねますからね」

 これまで以上に強い物言い。少し気圧されながら、二人は言われたとおり耳栓をした。

 生まれてはじめてする耳栓。思ったより自然に耳に馴染み、付けているという感覚は薄い。

「それでは、また何かあればお電話ください」

 それを最後に、職員たちは去っていった。

 残された二人。亮太の方は二つのかごを持ったまま。

「で? どうするつもり?」

 涼子の問いの答えを、亮太は見つけられなかった。

 とにかく、赤ん坊をこのままカゴの中に入れておくのは、よくないだろう。なぜ、よくないのかはわからないが、そんな気がした二人は、寝室へ向かった。

「ん?」

「……なに」

「いや、あんたのベッドでいいんだと思って……」

「うーん、まぁ……俺がやります! って言ったわけだし……」

 亮太は自分のベッドの上にかごを下ろすと、赤ん坊をそっと取り出した。

「おおっ……よっと……よいしょっと……」

「ちょっと、もう! 危なっかしい……かしなさい」

「いや、できるって自分で……」

 腕に広がる暖かさと、柔らかさ。緊張して体がこわばり、膝が震えてしまう。だが、なんとか起こすことなくベッドの上に下ろすことができた。

「ちょっと、あれ見た方がいいじゃない?」

「あれって?」

「ほら、あの……なんか説明書みたいなやつ」

「あぁ」

 亮太は渡されていたハンドブックの中の「ベビーの抱き上げ方」という章を開くと、閉じないように折り目をつけ、ベッドの上に置いた。

「ええっと……まず背中のところを……」

「ちょっとまって」

 鋭い声。涼子が手のひらを亮太の眼前に突き出す。

「なんだよ」

「この子の頭、見て。これって……」

 二人はここでようやく気がついた。赤ん坊の頭に生えているもの。小さな紫の芽。

「なにこれ?」

 亮太の素っ頓狂な声に反応したのか、かごの中の赤ん坊が目を覚ます。

 あっ。

 目が合う。亮太と涼子は目覚めた赤ん坊を前にして硬直。赤ん坊の方は、自分を見下ろす男女の顔に、動揺。

 驚き、戸惑い、そしてそれらの感情は、他の幼児の例に漏れず、涙となって溢れた。

「ほぎゃぁぁぁぁああぁぁあぁぁあぁぁぁああぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁあぁあぁあぁぁあっっっっっ!!!!!」

 部屋に響き渡る、赤ん坊の泣き声。

 いや、響き渡るだけでない。その音圧は、強大な力となって2人を吹き飛ばそうとした。

 とても立っていられない。まるで台風の中にいるかの有様だ。寝室の置物は軒並み倒れ、部屋だけではなく、胃や腸が激しく揺さぶられているような気がする。

「ちょっと! ちょっ……なによこれ!」

 涼子が金切り声を上げた。亮太はもはや声すら出すことができない。床にへばりつき、部屋から弾きだされまいと耐えるしかなく、その中で彼は思った。

 ——耳栓……しててよかった…………。

 この明らかに特殊な耳栓が無ければ、あっという間に鼓膜をずたずたに引き裂かれていただろう。

 二人はこの破壊的な泣き声の中に晒されて知った。

 この赤ん坊はただの赤ん坊ではない。

 いや、赤ん坊ではない。

 これは……。


 生まれて初めての子育て。まさかこの歳で……と二人は思っていたが、ああだこうだと言っても現実は目の前に、ずんと居座り続けるわけで。

 これは責任だと、亮太。弟を助けるためだと、涼子。二人の視線の先には、すやすやと寝息をたてている二体の赤ん坊。 

 しわくちゃの顔と、薄い土褐色の肌。見れば見るほど、異様である。

 そもそも、半年も連続で赤ん坊を預かるものなのか?

 この子たちの親はいったいどうしてるんだ?

 この状況は、育児放棄ではないのか?

 二人はVNTベビーサービスに問い合わせるも「個人情報に関わることでして……」などと答えてはもらえない。しかも、原則として契約の途中解約は出来ないときた。やはり、二人は半年間、奇妙は赤ん坊と共同生活を続けなければいけないのだ。

 だが、学生二人には無理がある。当然だが彼らは通学しないといけない。

 大学の講義は、高校の授業より幾分か勝手がきく。そのため、日中のほとんどを涼子が赤ん坊を見るはめになってしまった。

「いやいや、土日は俺がみるから」

「あたりまえよ! なんでわたしがこの歳で育児ノイローゼなんかにならなくちゃならないのよ!」

 荒廃していく部屋。赤ん坊が泣き声をあげるたびに、家財が壊れていく。机はひっくり返り、皿は割れ、窓にはヒビが入り、ついには暖房機が動かなくなった。

 もうすぐ冬がやってくるというのに暖房がないとまずい。そのため、亮太は欲しかったスニーカーを諦めざるを得なくなってしまった。家財修理費は、すべて彼の月収で賄わられることになっていたためだ。そうでもしないと、涼子は本当に育児ノイローゼになってしまう。

 このとき、彼はATMの前で、ため息とともに天井を見上げた。そして、呟いた。

「…………育児やべぇ……」

 この言葉が、二人と赤ん坊たちの生活すべてを物語っている。やがて、亮太も高校を早退、もしくは遅れて登校することで涼子の負担軽減にかり出されることになった。


 深夜1時。外では雨が降る音だけが聞こえる。春を目前にした、晩冬の静かな雨である。

 部屋の電気は消され、二人はだらしなく床でのびていた。亮太の寝床は赤ん坊に占拠され、涼子も疲れ切ってしまって自分のベッドへ行く気力もない。

 満身創痍に、疲労困憊。そんなとき、涼子は頭上にいる亮太に声をかけた。

「ねぇ……」

「……なに……」

「これ、見て」

 涼子が見せてきたスマートフォンの画面。そこには、人の顔かたちの不気味な植物の画像が出されていた。

「なにこれ」

「わかんないの? あの子たちよ」

「あの子って……」

「そうよ。やっぱり人間じゃないわあの子たち……。これ、マンドラゴラっていうらしいわ」

「マンドラゴラ……」

 別名マンドレイク。中世ヨーロッパにおいて、引き抜くと耳を劈くような悲鳴をあげ、抜いた者を死に至らしめるという伝説の植物。

 赤ん坊の姿形は、その古い化け物に酷似していた。

 しかし、

「それがどうしたんだよ……」

 亮太はため息を吐くようにして言った。

「あいつらがさ、その……なに? マンドラゴラかなんかだったとしてさ、俺たちが面倒見なきゃいけないのか変わらないんだろ?」

「え……うん、まぁ……そうだけど……」

「もう、あと少しだし……」

「うん……」

 二人は天井を見上げた。

 二週間後、VNTベビーサービスとの契約は終了する。借家だというのに、部屋は惨憺たる状態。授業にも講義にも満足に出席することはできず、お互いの成績は芳しくない。

 加えて、欠席するにもそれなりの理由をこしらえなくてはいけないため、勉強とは別に頭を使う。「育児しなくちゃならないんで……」なんて出来の悪い冗談にとられてしまうのがオチだ。学生に育休はないのである。

 しかし、それでもいま、二人の胸中には不思議な感情が芽生えていた。

「なんか……ミルク作るのうまくなっちゃった……」

 涼子が呟く。

「俺も、泣き止ますの得意になった」

「どうやってんの、あんた」

「鼻の穴にさ、ふぅーって息かけて……」

「なにやってんのよ」

「いや、泣き止むんだって! え? みたいな顔して」

「ほんとかなぁ」

「まぁ、お漏らししたときは無理だけど」

「お漏らししたらね、替えてあげるでしょオムツ。そんで、履かせる前に、うちわかなんかで、お股のところ扇いであげるの。そしたら泣き止むし、寝てもくれる。気持ちいいみたいね」

「へぇー。覚えとこ」

 慣れ、というものがそうさせたのか。二人はすっかり赤ん坊の親気分である。隣の寝室で赤ん坊がすやすやと寝ていることに、幸せを感じているのだ。

 深まる夜。微睡みのなかで、亮太が呟いた。

「俺さぁ……実家継ごうかな…………」

「なに……? 嫌だったんじゃないの?」

「嫌……だけど……でも、父ちゃんも母ちゃんもさ。こんな風にして俺のこと育ててくれてたって考えちゃうと、なんか悪いなぁって……」

「へぇー……。あんた、成長したね」

「そう?」

「うん。成長した気がする」

「そうか……。この前、指をさ。こう……ぎゅっと握られたわけ」

「うん」

「なんか心の中が暖かくなった気がしてさ……。俺そのとき思ったね。これが母性かぁって」

「あんたの場合は父性でしょ」

「ふせい?」

「……もういい。おやすみ」

 頭上で横になる涼子を見上げると、亮太もそっと目を閉じた。


 金曜日。亮太も高校二年生になり、涼子も大学二回生になった。

 外は快晴。禄御坂はこの時期になると、美しい桜並木通りとなり、その眩い光景は本井市が他の市町村に自慢できる少ない名所であった。

 しかし、亮太も涼子もそんな桜並木を見に行くような余裕はない。

「ほぎゃぁああぁぁぁぁぁあぁぁあぁぁぁぁぁぁあっっ!!」

 赤ん坊の凄絶な泣き声。最初の頃は、二人して飛ばされそうになっていたが、今は違う。

 あらゆる家財は床にぴたりと固定され、より耐久度が高い製品に替えられている。加えて、亮太も涼子も素晴らしい体幹を手に入れ、泣いている赤ん坊を抱えることさえできるようになっていた。

 しかも、タローとハナコという名前すら授けている。

「よーし、よしよし、どうしたタロー。泣くな泣くなぁ……大丈夫だぞぉ……」

「ねぇ、なんかハナコの方が暇そうに……あっ! ヤバい泣きそう!」

「えっ! ちょっ……姉ちゃん! 部屋にっ、ベッドの方に連れてって! ここじゃヤバい! 二人いっぺんに泣くのはヤバすぎる!」

「わかった! ねぇ、タローお漏らししてるよ!」

「お漏らし? あっ、ホントだ。ちょっとオムツ持ってきて!」

「ムリ! 自分でっ!」

 本日、契約終了日。

 だが、いつもと変わらない日々のひとつである。タローとハナコ中心の生活。瞬く間に時が過ぎる、愛しい日々のひとつである。

 すやすやと眠りに就くタローを膝に乗せて、涼子が窓から空を見上げている。もう、夕暮れがそこまで迫ってくる頃合いだ。

「6時だって。来るの」

 ハナコを背負った亮太が言った。片手にはスマートフォン。ついさっきまで、VNTベビーサービスの職員と話していた。

「そう……」

 涼子は、ただそれだけを呟く。誰の目に見ても寂しさを募らしているのは明らかだった。

「今日でお別れだな」

「そうね……」

「…………え? 泣くの?」

「ばか……。人のこと言えんの?」

「へへ……」

 鼻をすする亮太。

 やがて、訪れる約束の6時。時計の長針が、12をさした瞬間、インターホンがなる。

 ピーン、ポーン。

 亮太が扉を開けると、玄関にはあのときの紳士が二人いた。兄弟以上に似ているが、兄弟ではないという職員。何度見ても、見慣れぬ奇妙さがある。

「桃山亮太様。本日まで、誠にお世話になりました」

「ああ、いえ……」

「おやおや、すっかり眠ってしまって……。よほど桃山様のお背中が安心なのでしょうねぇ」

「そうっすかね……。あの、ちょっと聞いていいですか?」

「はい、なんでしょう?」

「タロ……こいつらって、このあとどうなるんですか?」

「そうですね……。また来月から、別の方にお預かりしていただくことになりますか……」

「じゃあ、やっぱり親はいないんですね」

「ま、まぁ……そういうことになりますかな……」

「孤児なんですね?」

「えっ……まぁ……」

「じゃあその……あの、このまま俺たちが……こいつらこと面倒見るって……ことできますか?」

「え?」

 ぽかんと口をあける職員。慌てて亮太が言う。

「そのっ、無理言ってるって分かってるんです! 俺らまだ学生だし、金もないし、経験も……。育児なんてはじめてで、めちゃくちゃ辛かったけど……。でも、俺、今はぜんぜんっ……そのっ、楽しいというか……そんで……」

「落ち着いて下さい。それは、契約の延長ということですか?」

「できるんですか?」

「ええ。もちろん」

 経験したことのない高ぶりを感じたとき、まず人は立ち止まる。そして、心の内にあるそれを噛みしめ、やがて全身をもってその感情を表出させる。

「やったぁああぁあっ!!」

 町中に響き渡らんばかりの歓呼の声。涼子もその声につられて、玄関まで出てきた。その頬には一筋の涙が伝っている。

「いっ、いつまでですか?」

「いつまでも。あなた様がお望みになられる限り」

 職員は続けた。

「ご存じの通りだとは思いますが、この子たちは人間ではありません。マンドレーク。人の形をした植物。この事業は、人間が彼らに対して愛情を持って育てることができるかを試す、実験的なものでした。——ありがとうございます。これでひとつ証明されました。今後ともどうぞよろしくお願いします」

 しかし、職員のことばなど聞こえていない。亮太と涼子は抱き合い、喜びを分かち合っていた。まるで正真正銘の父に、または母になったかのように。


「よかったですね」

 職員のひとりが、隣で歩くもう一人に言った。

「うむ。これでまた、マンドレークたちの希望の一歩が踏み出された」

「子となり、親となり……」

「やがては人類に代わる生命として……」

「地球を手にする日を夢見て……」

 二人は沈み行く夕日を見上げながら、静かに呟くと、亮太と涼子が住まうアパートを振り返った。

 シルクハットを取り、深々と一礼。

 その頭には一本の芽が生えていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る