第三話 実際のユートピアはまあまあ地味ですが



「はーいお兄さん、これ飲んで」


 淡月は顔を上げた。いつの間に戻ったのか、杏花が栄養ドリンク剤を差し出している。

「……ありがとう」

「というか、顔がシケすぎてて、天人の風上にも置けないんですけど」

 あんたは一応美形枠なんだからさぁ、と、杏花は机の上に腰掛けながら言った。

「そういうの、ルッキズムって言うんですよ。先月、研修でやったでしょう」

「寝てた」

 杏花は机の上でひょいと脚を組む。淡月は小さくため息をついて、椅子の背もたれに保たれた。

「で、会議はどうでしたか?」

「どうもこうもない。結論は変わらず」

「……変わらず?」

 淡月は眉根を顰めた。杏花は「そう」と頷く。

「よくあること、だって」

「でも、よくあるって、このひと月で三人目ですよ? これまでは数年に一度、あるかないかだったじゃないですか」

「まあ、そうね。言われてみれば、そうね。まあ、上層部の方々みなさん的には、数年に一度も、ひと月に三度も、似たようなものだと言うか、違いがピンと来てないところはあるわね」

 杏花は真っ白な靴を揺らしながら独りごちる。そしてポケットからパックのリンゴジュースを取り出し飲み始めた。杏花のこうした所作は、彼女を十代の子供のように見せる。実際は淡月より遥かに先輩の天人なのだけど。

「まあ、気を落とさないでよ、お兄さん」

「気は落としてません」

 ドリンク剤の蓋を捻って、淡月は言った。

「果乃ちゃんのことは、淡月のせいじゃない」

「わかってます」

「あたしらの言葉が届かないこともあるんだって」

「だから……っ、!?」

 ドリンクを一口仰いだ瞬間、焼け爛れるような辛味を感じて、淡月は激しく咽せた。

「!?」

 すっかり、いつものエルダーフラワードリンクだと思い込んでいた。大慌てでラベルを見ると、地獄産黒縄こくじょうまむしイチゴドリンクと書いてある。

「ま、まむしイチゴ? これ、毒じゃ……」

「毒じゃあナイナイ、大丈夫。喝だよ喝、淡月君。いつまでも腑抜けてるんじゃないよ」

 わはははと笑いながら、杏花は足をぷらぷらとさせた。その笑顔は、どう見ても悪魔だ。元、天使の筈なのだが。

「……ど、どこで……こんなものを」

 再び咽せた。経験したことがない辛味だ。何かが喉の奥までべったり張り付いているように、口内の粘膜全てがピリピリしている。

「東町の食品店だよ。やっぱ栄養ドリンクは地獄産よ。天国産のお優しいエルダーフラワーなんか三徹に効くかっつーの。時代はパワーだ、パワー。七十二時間戦えますか? 淡月クン」

「その時代観は確実に昭和ぜんじだいのものです」

 いや、昭和よりひどいかもしれない。淡月はまむしイチゴドリンクの蓋を閉めて、深いため息を吐いた。

「大体、どうしてそんな場所に行ってるんですか?」

 杏花は目を丸くして首を傾げた。

「どうして、って、なんで? 煉獄の中だったらどこにいくにも我々は自由でしょ? 我々だけじゃなくて、亡者だって基本は自由だよ」

「東町は東門の門前です。僕たちは特別保護対象の亡者が担当なんですよ。危険な場所には、近づかないにこしたことはないでしょう」

「危険かなぁ。あたしは結構好きだよ。ゴチャゴチャはしてるけど路地裏に珍しい店いっぱいあるし……まあ、確かに西側に比べたら怪しげな雰囲気があることは否めないけど、それも魅力っていうか」

 淡月は小さく咳払いをした。

「現実問題、最近は粗野な冥人が増えています。……少し前までは獄卒だったような妖が、昨今の規制緩和で煉獄に出入りするようになったんですから」

 杏花は音を立ててリンゴジュースを吸い切ると、パックをゴミ箱にぽいと投げて言った。

「ま〜、仕方ないよ。地獄あちらさんも人材不足なんだし」

「それは治安悪化の理由になりません」

 淡月は机に肘を付いて言った。口の中はまだピリピリしている。

「あんたの地獄嫌いは知ってるけど、東門の管理は冥人がいないと務まらないんだから、あまり毛嫌いするもんじゃないよ。ね?」

 子供を諭すような口調だった。淡月はため息を吐いた。

「そう言う話じゃないです。ただ、僕はやっぱり……」

「やっぱり?」

 まむしイチゴのイラストをじっと見ながら、淡月は言った。

「今回の、果乃さんのことに、東町が……そして冥人が関わっていると思っています」

 杏花はうんにゃあとため息と共に妙な音を立てた。

 園田果乃そのだかのは淡月の担当亡者、だった。

 二十九歳、死因は病死。まだ若く、しかも幼い子を残して逝った彼女は、現世への未練がとても強かった。

 それは当然のことだ。どんな時代も、我が子との別離は亡者が抱く未練のトップをひた走る。だけど、悲しいことに、どうやっても亡者は現世に戻ることはできない。昔は、色々な穴から抜け出した例はあったが、今はもうどうやったってできないのである。

 だから、煉獄の炎がある。

 悲しみや苦しみを浄化して、穏やかな魂に戻れるように。そして、自我が残るこの数年の間、煉獄で静かに過ごせるようにするために、亡者は皆、煉獄の炎を浴びて入獄する。

 ところが、時折、その炎を浴びてもなお、悲しみが残ってしまう亡者がいる。悲しみと無念、怨嗟や哀切が大きすぎる場合。あるいは、煉獄の炎との相性もあるらしいが、とにかく、その大きな感情を燃やし尽くすことができずに、残ってしまうことがある。

 果乃は、そういう亡者だった。入獄して、美味しいものを食べ、美しい庭を散歩して、木漏れ日を浴びて、花の香に包まれ、圧倒的に青い天国の空を見上げても、なお果乃は、母を失った子の未来を嘆き、別離に悲しみ、ひたすら泣き続けた。

 でも、それもまた、良くあることだ。

 だから煉獄はその悲しみを和らげ癒すことができるように設計されている。十分に寝て、美味しい食事を摂り、太陽の光を浴びて、木々の葉擦れの音を聞き、花の香を孕む風を受ける。その日々を繰り返す。穏やかで、静かな時を過ごす。煉獄の炎の効果は、時間をかけて染み渡っていく。すぐには消すことができなかった大きな悲しみも、少しずつ薄れていく。魂が再び巡る前の時間に、せめて、魂が少しでも前を向けるように。煉獄とは、そういう場所だ。

 半年かけて、彼女は食事を美味しいと思えるようになってきた。庭を歩きながら、空を見上げるようになった。美しいものを見て、あの子に見せたいと、涙することはまだあったけど。

 悲しみの中ではなく、愛情の中で思い出せるようになってきた。淡月は果乃が我が子のことを語る時の表情をとてもよく覚えている。そして、果乃は言った。難しいって、わかっているけれど、できるならもう一度、次の生でも、私の元に来てほしいなぁ、と。

 どこに誰がどう転生するかは完全なる偶発的なもので、ただの一天人にどうすることもできない。だけど、果乃と一緒に祈ることくらい許されるだろう。だから淡月は、彼女に告げた。そうなりますように、と。そして、彼女が巡った後も、自分がずっと祈っています、と。

 だから。

 果乃が煉獄からの脱出を試みたと聞いた時は、耳を疑った。

 その日は蓮花の入獄二日目で、まだ亡者として不安定な彼女をよりにもよって中心地のデパートにに連れ出している最中に、その連絡を受けた。

 果乃はどこから手に入れたのか、冥人の制服と同じ全身黒の服を着て黒いベールの帽子を被り背筋を伸ばして堂々と、亡者が通っては行けない門を通り抜けようとした。

 常世の住人から見れば、亡者は一目でそれとわかる。あからさまに頭上の輪っかがついているわけではないが、輪郭が少しだけぼやけているのだ。だけど亡者はそんなこと知る由もない。

 果乃は門を潜る手前であっさりと確保された。

 潜らなくてよかった。東門は別名、三界門。一つの道は煉獄に、一つの道は地獄に、そしてもう一つの道は現世に繋がっている。魂が現世に戻れない以上、門をくぐってしまえば、進める道は地獄ひとつしかない。

 しかし、果乃は救済が足りなかったという判断のもと、再び煉獄の炎に晒されることになった。そんなに、燃やされたら、悲しみどころではなく、彼女の内側にある彼女を形成するすべてのもの。喜びも、楽しみも、自我も、すべて褪せてしまうというのに。

 淡月が現場に着いた時には、もう全てが終わった後だった。

 そしてほぼ抜け殻となり、あまりに軽くなった果乃の魂を抱えて、淡月は西門に戻ったのだ。

 果乃は今白百合館9号棟の三階で眠っている。おそらく、彼女の魂が巡る順番が来るまで目を覚ますことはないだろう。

「淡月が悔しいのはわかるけど、どのみち転生すれば全て消えるんだよ」

 杏花が慰めるように言った。

「悲しむ時間なんてないくらいさっさと次の命へと巡れるなら、本当はそれが一番いいんだよ。どんなに至れり尽くせりしたってさ、意識を保っていることが苦痛になる人はいるよ。煉獄は夢の国じゃないんだから、さ」

 そんなことは淡月だってわかってる。

 だが、彼女は愛する子の思い出を、何より大切に慈しんでいた。

「果乃さんが自分からそれを手放すわけがない。……だから」

「だから?」

「彼女を唆した誰かがいるんです」

 杏花は子供みたいに唇を尖らせた。

「何のために? 亡者が脱出して得する冥人なんていないでしょ? それに、なんか証拠があるわけでもあるまいし」

「証拠はあります。……これを見てください」

 淡月は机の上に畳んであった地図を、杏花の前に広げた。

「果乃さんを始め、ここひと月で脱出を試みた人は、全員東町に出入りしていたことがわかっています」

 地図には、三人のここ二週間のGPS経路がマッピングされている。杏花は明らかにゲッという顔をした。

「こんなの見てるの? チョット引くんだけど」

「当然、今回のことがあったからです。上の許可は取ってます」

 果乃以外の二人は淡月の担当ではないが、担当天人に頼んで取ってもらった。

「ほら全員、東町の……しかも、ほぼ同じ建物に立ち寄っている」

「あ、ちなみにここね、このまむしイチゴドリンク買った店」

 淡月が指差した場所の道の反対を指差して杏花が言った。

「ふざけないでください」

「ごめんて。で、この建物には何が入ってるの? 怪しいバーとかそういう感じなの?」

「ここは、フランス菓子を出すカフェです」

「えっ、カフェ? 冥人がやってるの?」

「いえ、調べたところ、フランス出身の天人と冥人のカップルが営んでいるカフェです」

「疑いハーフ&ハーフじゃん」

「客層は、7割が亡者ですが、休憩で立ち寄るのは、圧倒的に冥人が多いです」

「そりゃ、東門の近くなんだからそうなるでしょうよ」

「果乃さんたちは、ここで誰かに会った可能性はあります」

 杏花がスマホをいじりながら、うーん、と唸った。

「あ、っていうか、そのカフェ知ってるかも。最近テレビでよくやってる、ここじゃない?」

 杏花が掲げたスマホには、煉獄の飲食店紹介サイトが表示されていた。「カフェ・ソルシエール」と書いてある。

「……そこですね」

 地図を見ながら淡月は言った。

「なーんだ。多分、ここふっつーに超人気なだけだと思うよ。果乃ちゃん、甘いもの好きだったし、確か一緒にテレビ見てた時に、この神様のブランチで、このカフェの特集見たよ。大体、色んなところに出歩いてみると良いって言ってたのは、淡月じゃん」

「でも、東町に行くって聞いていたら止めていました」

 握った拳でつい机を叩くと、思いのほか大きな音が立った。

 杏花は「おおこわ」と、首をすくめた。

「冥人が関与してるかどうかはさておき、あんたはたまに出るその乱暴な所作を、いい加減直さないと、天国勤めの天人やつらにこれだから人間出身は〜って、また嫌味言われちゃうよ?」

 淡月は机に肘を付き、ため息を吐いた。

「……そんな遥か昔のこと」

「二百年なんて我々から見たらよちよち歩きの赤ちゃんよ」

 杏花は机からぴょんと飛び降りて、腕を組んで言った。

「とにかく、あんたはちょっと休みなさい。真面目に根詰めてもいいことないよ」

「いえ……これから医療棟に行かないと」

 そこにはもう一人の、今の淡月の重要な担当亡者、蓮花がいる。

 蓮花が倒れてから五日。熱はまだ高く、いまだに目を覚さない。

 杏花は厳しい顔をして首を振った。

「ダーメ。あんたは自分の部屋に戻って寝るの。蓮花ちゃんは私が見に行く」

「蓮花さんは私の担当です」

「わかっとるがな。でもあたしも果乃ちゃんの脱走事件のせいで蓮花ちゃんと仲良くなれたもん。友達として行くの。いいでしょ?」

「いいもなにも……」

 淡月に止める権限はない。それをわかっているのか、杏花は豪快に笑った。

「とにかく先輩に任せておきなさい」

「……でも」

 すると今度は、杏花はその大きな目を見開いて言った。

「寝ろ。いいか、寝ろ、元人間。お前の体は、我々より遥かに脆弱なことを忘れるな」

「……はい」

 ぐうの音も出ない。

「まむしイチゴは飲んどけよ」

「嫌です」

「効くのに」

「……こんなのよく飲めますね?」

「あたしが飲むわけないじゃん。龍ちゃんが愛飲してるよ」

 じゃあね、と言って、軽やかに杏花は出ていった。

 淡月は椅子にぐったりと背中を預けた。龍ちゃん……龍玉は経理部で働く杏花の幼馴染だ。そして天人と鬼のハーフである。そりゃあ、飲めるだろう。

 ドリンクの蓋をさらにきつく閉めてから、淡月は机に突っ伏した。

 蓮花はデパートに行った日の夜に、突然高熱を出して倒れた。

 特別保護対象の亡者は、入獄後も少なくとも一月は、刺激を避け、穏やかに過ごして体と心を慣らすことが推奨されている。それもできるだけ担当天人の観察下で過ごすのが好ましいとされる。

 それがいきなり繁華街に出向き、しかもそのど真ん中で一人にされたのだ。どう考えても、彼女の発熱は淡月の失態せいである。

(……寝よう)

 考えすぎもよくない。杏花が言うことは、大体いつてもそこそこ正しい。とりあえず今は寝てしっかり回復することだ。

 立ち上がってふと気づく。

 さっきよりも体が軽い。頭痛が消えたわけではないが、全身を包んでいた倦怠感はかなりマシになっていた。

「……まさかね」

 淡月はまむしイチゴドリンクを見やった。そのままデスク脇のゴミ箱に捨てようとして、しかし、ポケットに押し込んだ。


 ◯


 わっ、と大きな声がした。

 その声で、世界が突然ぱちんと弾けるように現れた。

 まるで、夢の中で階段を踏み外した時みたいに、全身がビクッと震えた。

「あ、」

 蓮花は、再び小さく息を吐いた。

 白く薄ぼやけた視界が、少しずつ像を結ぶ。

 目の前には女の子の顔があった。まんまるな目を、これでもかと見開いている。誰だっけ、と一瞬、呆けてから、名前を思い出した。

「あ、杏花さん?」

「あ〜、びっくりしたぁ」

 めっちゃ心臓バクバク言ってるぅ〜、と杏花は自分の胸を押さえて言った。

「……あの、?」

 蓮花の心臓も、バクバク言っている。

 汗をかいていた。多分、涙も零れていた。

 ひどく嫌な気分で、だけどそれは杏花のせいではなくて、内容を覚えていないけど、ひどい悪夢を見た時と同じ感覚だった。

 不安と、焦燥。取り返しのつかない、悲しみのような何かが、蓮花を押し潰そうとしている。しかし、ゆっくりと呼吸を繰り返すうちに、嫌な感覚がすうっと引いて行くのがわかった。

(大丈夫)

 ここには、誰もいない。蓮花のことを、責める人は誰も。

 そして、その代わりに、杏花がいた。杏花は「いきなり目を開けるからびっくりしちゃったよ〜」と、子供のようなことを言った。

「はあ」

 蓮花はベッドの上にゆっくりと起き上がった。

 どこだろう。ベッドの左側は大きなカーテンで仕切られていて、右側には大きな窓がある。外に大きな噴水の広場が見えた。腕に点滴が刺さっていることに気づいた。管の先を視線で追うと、頭上の点滴パックに繋がれている。

「気分はどう?」

「あまり、良くはないです」

 嫌な目覚めの余韻の中で、蓮花は言った。

 杏花は、そう? と蓮花の顔を覗き込んだ。

「顔色はだいぶ良くなってる。熱も下がったかな」

 杏花の小さくて温かい手のひらが無遠慮に蓮花の額やほっぺたをぺたぺたと触った。汗が着いてしまうと思ったが、杏花は気にする様子もなく「うん、うん」と頷いてる。

「大丈夫そう。ずっとアッチッチだったけど、もうすっかり普通」

 寝ている間も今みたいに触られていたのだろうか。

「……あの、私、どうして?」

 何でこんなところで寝ているのか、倒れる前に何をしていたのかも、思い出せない。杏花は、ごめんね、と申し訳なさそうに言った。

「ファッション街に行ったのは覚えてる?」

「はい、それは」

 デパートでウニクロの服を買ったこと。あの煌びやかなファッション通り。喫茶店のこと。黒いパーカーのこと。

 それと、あの――。

「でね」

 杏花が、蓮花のベッドの足元にぎしっと座った。

「部屋に戻る途中の廊下で、蓮花ちゃんいきなり倒れたんだよ。びっくりしちゃった」

「えっ、マジですか?」

 全く覚えていない。生前もいきなり倒れたことはない。健康体、では、あったのだ。少なくとも、体は。

「うん。まあ、入獄したての亡者には、たまにあることなんだよね」

 杏花は頭をぽりぽりとかいた。

「煉獄にいる時点で、死ぬような病気ってことはないんだけどさ。まあ死んでる人は死ねないからさ」

「はあ」

「だから心配はいらないんだけど、多分、ちょっと一度に刺激を浴びすぎたんだわ」

「刺激、ですか?」

「そう。繁華街に行ったのもそうだし、炎を浴びて間もない時に、あんな一気に色々教えるべきじゃなかったわ。あたしも反省してる」

「はぁ」

 そういうものなのだろうか。よくわからない。だけど、杏花がそういうなら、多分、そうなんだろう。

「夏月さーん、蓮花ちゃんが目を覚ましました」

 杏花がカーテンの外で誰かに声を掛けた。すると白い服を着た、男性なのか、女性なのか判別のつかない、だけどとても綺麗な顔をした、看護師らしき人が入ってきた。夏月と呼ばれたその人は、蓮花を見て、にこりと笑った。

「お加減はいかが?」

「えーと、普通です」

「それはよかった」

 夏月は蓮花の腕から手際良く点滴の針を抜き、ぺたりと絆創膏を貼った。そして笑顔で「おだいじに」と言って、カーテンの外に消えて行った。

「よしっ。じゃあ部屋、戻ろうか」

「え、もう……帰っていいんですか?」

 点滴を抜いただけで、熱を測りさえしなかったけど。

 杏花は、いいのいいの、と言った。

「ここでは、目を覚ましたら、もうそれで大丈夫なの。病院でもないしね、医務室……学校で言ったら、保健室みたいなものだよ」


 ○


 立ち上がっても足元が特にふらつくわけでもなく、めまいを覚えるわけでもない。せいぜい一晩寝ていたくらいかな、と思ったが、今日は蓮花が入獄してから7日目と告げられて驚いた。

「5日も寝てたってことですか?」

「うん。ほら、スマホのここ見て。数字が出てるでしょ。これが、蓮花ちゃんが煉獄に来てから過ごした日数。ずっとカウントアップしていくから、目安にしてね」

 杏花は、蓮花のスマホに表示されている時計の文字盤の右端を指差した。確かに分の横に、小さく7という数字が表示されている。動く気配がないので、秒の表記でないということはすぐにわかった。

「あ、もちろん、消したかったら消すこともできるからね。そういうの、気になっちゃうって人もいるし。その場合は担当天人……蓮花ちゃんの場合は、淡月に言ってね」

「はぁ」

 杏花は蓮花の部屋のテーブルに、ワゴンが運んできた二人分の夕食を並べながら言った。どうやら杏花もここで食べるようだった。

 真っ白な大きなどんぶりが二つ。どちらも真っ白な蓋が乗っている。それから卯の花の小鉢と、きゅうりと茄子の漬物の小皿がそれぞれ二つずつ。

「はい、どうぞ」

 冷たい麦茶を受け取りながら、蓮花は気になっていたことを聞いた。

「天人の方って、ひとり何人くらい亡者を担当しているんですか?」

「うーん、ケースバイケースだけど一般的には、天人ひとりで五十から、多くて二百名くらいかな。今ちょっと人手不足だし」

「そっか」

 想像していたよりずっと多い。蓮花は少しだけ胸が沈むのを感じた。自己嫌悪。そんなに忙しいのに、淡月や杏花に負担をかけている自分は、死んでも足手まといなのだと思い知らされる。

「ほらほら、食べようよ」

 杏花がそう言って、自分の分の蓋をかぱっと開いた。ふわっと湯気が立ち、出汁の匂いが広がった。食欲なんて全くなかったのに、急にお腹がきゅうと動いた。蓮花も自分の丼の蓋を持ち上げる。再び湯気が立つ。天井の光をきらきら反射する、大きなおあげが二枚乗ったきつねうどんだった。

「やっぱり病み上がりはうどんでしょ。いただきまーす」

 杏花がおあげにかぶり付き、もぐもぐと口を動かしながら言った。

 蓮花も小さく手を合わせ、それからうどんを一本啜った。

 おいしい。優しい味がじんわり沁みる。

 しばらく二人ともうどんに夢中になった。

「ちなみに、さっきの話だけどさ、あたしらは違うよ」

「え?」

 何の話だっけ、と、蓮花は一瞬呆けた。

 杏花は箸で宙に数を刻むようにしながら、言った。

「あたしが今担当しているのは十人かな。これでも、ちょっと増えたくらい。いつもは五、六人」

 蓮花は思わず箸を止めた。

「えっ、なんで、ですか?」

 十人と二百人では、あまりに違いすぎるのではないか。

 杏花は、なんでってぇ〜、と言った。

「あたしたちは特別保護対象の亡者の担当部門だもん」

(あ)

 そう言われて、蓮花はやっと思い出した。自分がどうしてここにいるのか。自分がどうして死んだのか。

 ここに来た日に、淡月ははっきりとそう言った。

 特別保護対象の亡者。

 それ以前に、あの、紙にはっきりと書いてあったではないか。

 思考がそれ以上動く前に、蓮花は一口でおあげを頬張った。じゅわっと汁が口の中に溢れ出した。

「淡月は、今蓮花ちゃん入れて、八……いや、七人かな」

 蓮花は、口を動かしながら頷いた。

「ほとんどは転生が近い人たちだから。その後は蓮花ちゃんの専属みたいになるから、好きにコキ使うと良いよ」

 蓮花はおあげを飲み込んだ。そして杏花を真っ直ぐ見て聞いた。

「……どうして?」

 今担当している亡者の多くが転生して、煉獄からいなくなっても、新しい亡者は、これからも来るだろう。一体どういう人が「特別保護対象」になるのかはわからない。だけど、蓮花のような形で、殺さ……死ぬ人だって、悲しいことだけど、この先、出ないということはないはずだ。

 杏花の返事までには、少し間があった。少し目を泳がせるように、上を見て、それから横を見て、にこっと笑った。

「まあ、色々とあるんだよ。担当とか、配置とかね。蓮花ちゃんは気にしなくて大丈夫。ほら、食べよ。おうどん、伸びちゃう」

 杏花はふーふーと、わざとらしくうどんを吹いた。ほのかに違和感を覚える。だけど何となくそれ以上は聞いては行けない気がして、蓮花も無言で残りのうどんを啜った。

 杏花はデザートの梅ゼリーを食べ終わると、これから数日はできるだけ遠出をせずに療養するようにね、と、天人のようなことを言って、帰っていった。


 ○


 それから数日の間、蓮花は言われた通りに、ほとんどの時間を部屋の中で過ごした。

 淡月はマメに顔を出した。大体が午前中で、2〜30分、二人で淡中庭を散歩するのが日課になった。

 蓮花の部屋の窓からも見える位置に、一本、薄いピンクの花を付けた木があった。

「これは、もしかして桜ですか?」

 蓮花が聞くと、そうです、と淡月は言った。

「それは天国産の桜の樹ですね。特別な力はありませんが、通年で咲いています」

「通年で咲いているのが、特別っぽいですが……」

「煉獄の花は大体そうです。緩く四季はありますが、花は通年で咲いています。桜はお好きですか?」

 蓮花は桜の木を見上げて、小さく首を傾げた。

「特に好きとか、嫌いとかはないんですけど」

 綺麗だなぁ、とは思いますけど、と、呟く。

「煉獄中央広場には桜並木があります。常に満開なので、綺麗ですよ。いつでも見れるので花見客はいませんけどね」

「へぇ」

 淡月とは、大体他愛もない話をしていた。煉獄のことを聞いたり、蓮花が読んでいる本について話をしたりした。

 淡月には、何となく、昔から知りあいのような親しみやすさがあり、従兄がいたらこんな感じだったんだろうか、などと考えた。最初に服のことで醜態を晒したからか、それとも毎日散歩しているからか、いつの間にか淡月といても妙な緊張を覚えることはなくなっていた。

 おやつの時間になると、よく杏花が顔を出した。そして、蓮花の部屋でおやつを食べて帰った。杏花は、淡月がしないような煉獄の裏話をよく聞かせてくれた。

 高天原産の天国クリームを添えたフルーツパウンドケーキを食べ終わり、ミルクティを飲みながら、杏花は自分が煉獄に配属される前は、かなり長い間、下っ端の天使をしていたという話をした。

「大変よぉ、天使は。基本裸だし」

「は、はだか!?」

「そうだよ〜。絵画で描かれてる天使は大体裸でしょ。あ、もちろん役職持ってるお偉方は別よ。下っ端っていうのは、つまり子供みたいな姿で、ラッパ吹いたりしてるやつよ」

 まあ、昔話よ。と、杏花はミルクティーを神妙な顔で飲みながら言った。

「天使と天人ってどう違うんですか?」

「今は名目上は変わりがないよ。みんなまとめて天人。天使っていう役職はまだあるんだけど、それはどっちかと言うと観光天使だね」

「観光天使……」

「そう。観光用。ザ・天使様みたいな服を着て、天国を案内する人」

「ははあ」

 何のために? とは聞かなかった。きっと、想像もつかない需要があるんだろう。

 杏花いわく現世の人々が抱いているあの世の姿というのは、数世紀前のものらしい。

「蓮花ちゃんはカトリックの学校行ってたんでしょ」

「はい。まあ」

「あんなの全部嘘……とはもちろん言わないんだけど、まあ、現実はもっと複雑だし、進化もしているし。でも、こっちの情報を、あっちに伝達する手段がないじゃない? 昔と違って、今は死んだら絶対に戻れないようになったからさぁ」

 杏花はさらっと、ドキッとすることを言う。蓮花は、事実は小説より奇なり……と、この場合に当てはまるのかわからない格言を思い浮かべた。

 淡月と杏花と会って話す以外は、誰とも顔を合わせなかった。

 そして、ほとんどの時間を、部屋で読書をして過ごした。

 スマホで申請するだけで煉獄中央図書館から好きな本(漫画を含む)を好きなだけ取り寄せることができた。

 念願だった京極夏彦の全作品を読み、ハリーポッターを再読し、長編すぎて断念していたライトノベルシリーズをいくつかゆっくりと読破した。それから、名前は気になってはいたけれど読めていなかった作家の本を思いつくままに読んだ。活字に飽きると、漫画を借りた。こちらも、完結済みのシリーズの中から、名作長編を選んで、次々に読破した。

 それにも飽きると昼寝をした。窓を開けると、気持ちの良い風がいつでも柔らかく吹いている。微かな緑の香を吸い込みながら、布団の上で時間を気にせずに目を閉じるのは、至福だった。

 三食とおやつは、勝手に運ばれてくる。そして、とても美味しい。

 お風呂もトイレも部屋に付いている。

 部屋の掃除は、どうやら毎朝淡月と散歩に出掛けている間に、済んでいるみたいだった。部屋はいつも埃ひとつなく、布団からはいつもお日さまの匂いがした。

 部屋の外に出るのは、白百合館の玄関ホールにある個人のポストに図書館の本の受け取りと返却に行く時と、屋上にある洗濯スペースに行く時くらいだった。

 蓮花は毎日ウニクロで買った服を着ていた。

 なんせあんな高熱を出したものだから入獄二日目で外出は早すぎた、と淡月も杏花も後悔していたけれど、蓮花はそうは思っていない。

 今もまだ、あの白ワンピースを毎日着ていないといけないとしたら、こんなに落ち着いた気持ちではいられなかったと思う。

 黒パーカーもジーンズも、蓮花の心を削らなかった。

 このパーカーに包まれていると、自分が完全に無の存在になったかのように感じて、心が落ち着いた。

(だから、別にもう、いいかもな)

 屋上の洗濯干しエリアに、Tシャツと下着、そして数日ぶりに洗ったパーカーを干しながら、蓮花はぼんやりと思った。

 煉獄の真っ青な空に、洗濯物がやさしくヒラヒラとはためいている。

 最初は、下着は風呂場で干していたけれど、誰も来ないことがわかってからは、こっちで干している。杏花曰く、ほとんどの亡者は支給の服を着て、洗濯交換サービスを利用しているらしい。

 この場所は、今や蓮花のお気に入りだった。

 広い屋上の片隅に真っ白な縦型洗濯機が一台だけぽつんと置いてある。その横に、物干し台と、ベンチひとつ置いてあるだけの場所。

 煉獄は常に晴れているし穏やかだけど風も吹いているから、洗濯物は一時間もあればすべて乾いてしまう。蓮花は本を読みながら、ここで日向ぼっこをするのが好きだった。

 そして、そこから見える庭園を見下ろしながら、蓮花は思った。

 もう最後まで、ここから出なくても良いんじゃないか。

 ずーっとこの白百合館の中にいて、読書をして散歩をして洗濯をして、転生までの時間を過ごせばいいんじゃないか。

 生前だって、蓮花は長い間家に引きこもっていたのだ。そして、なんとか頑張って外に出よう、なんて思ったから、あんな目にあったのだ。外に出て良いことなんて何もない。

 暇すぎて死ぬと言うことはないだろう。もう、死んでいるわけだし、蓮花が読みたい本を全て、あと二年で読み切れるとは思わない。本に飽きたら、見たいドラマや映画やアニメだって山ほどある。どうやら、最新のゲーム機のレンタルもあるらしい。

 ここで出てくる食事にも、十分満足している。

 毎日、淡月と散歩をしているから、完全に不健康なわけではない。杏花だって来てくれるし、寂しさを感じたことはない。

 淡月も、杏花も、もう少ししたら、色んなところに行ってみるといいと言ってくれる。煉獄には素敵な場所が本当にたくさんあって、必ず自分が気にいることが見つかるからと。

 だけど、蓮花には、絶対に行きたいと思う場所はひとつもなかった。冬子さんのように、働きたいとも思わなかった。むしろ今の生活が夢みたいだ。

 本と漫画がなんでも読み放題で、三食おやつと昼寝付き。

 楽園って、つまりはこういうことを言うんじゃないのかしらん。

 あれ以来、嫌な感じのある夢も見ていない。死因のこと、その事件のことを思い出すこともないし、胸がざわつくこともない。蓮花は、今まで生きてきた時間も含めて今が最も穏やかな気持ちだった。

「はぁ、平和だなぁ」

 小さな綿菓子のような雲をぽこぽこ浮かべた青空に向かって、思い切り伸びをして、蓮花は呟いた。


 お日様の匂いがする衣服を抱えて部屋に戻り、クロゼットに戻していると、Tシャツに付けたコーヒーのシミが取れきっていないことに気付いた。

「あー、やっぱダメか。染み抜き用の洗剤借りれるかな」

 薄いグレーだから、そんなに目立つわけではないし、今までの自分だったら気にしなかった。でも顔を合わせるのが、淡月と杏花だけだとしても、何となく汚いままの服を着ることには抵抗がある。

(そういえば、あと一枚洗い換え用に買った気がする)

 ふと、思い出してロゼットの奥に入れっぱなしになっていたウニクロの袋を取り出た。中を覗くと、黒いTシャツが未開封で一パック残っている。それを取り出すと、底にまだ何かあるのを見つけた。紙が一枚。蓮花はそれを手に取り、小さくあっと声を上げた。

 チラシだ。あの、喫茶店でもらったチラシ。

 アトリエ・ナナカマド。

 天人ファッションスタイリスト 朝顔。

 ファッションにお困りの人ならどなたでもどうぞ♪

 小さな写真でウィンクしている、あの人。

 あの日の様子が、パッと脳裏に浮かんだ。しかも、かなり鮮明に。

(どうしよう)

 蓮花はチラシを両手でぎゅっと持った。そして思い出した。

 これを受け取ったあの瞬間、自分は行ってみたいと思っていたのではなかったか。

 朝顔さんに、会ってみたいと思ったのではなかったか。

 あの鮮明な、ときめきの感覚。心臓が早鐘のように鳴っている。

(ちょっと、待って。ちょっと待って)

 会いに行って、どうする? 

 ファッションにお困りの人ならどなたでも、とは書いてある。

 でも今の自分はファッションに困っていると言えるだろうか。

 気恥ずかしいから、白い服は着たくない。

 自分がモブになれるから、黒い服を着ていたい。

 だけど、この世界(れんごく)では、黒い服を着ていると目立ってしまう。目立つのは、絶対に嫌だ。

 だから、引きこもります――。

(これは、困りごとって言わないのでは)

 単なる子供のワガママで、しかも、すでに結論も出ている。自己完結している。勝手に引きこもっていろと言う話である。

 『ファッションに困る』とは、こんなレベルの話じゃないだろう。お洒落をしたい時に、色々ともっと難しいことがわからなくなったり、着こなしの話だったり、スタイルや、あるいは流行の追い方とか、そういう話なんだろう。具体的には、わからないけど。

 蓮花はただ、浮きたくないだけ。自分の心が騒つかず、目立たず、人に注目されずに過ごしていたい、というだけだ。

 こんな後ろ向きな話、ファッションが好きな人に伝えたらきっと嫌がられる。

「うん、だよね」

 蓮花は声に出して呟いた。そうすることで、少し落ち着きを取り戻した。そして、チラシをぽいっとゴミ箱に捨てた。

(やっぱり、いいや)

 しかし、すぐに拾い上げた。

(ちょっと待って)

 本を読むのは楽しい。読書と昼寝だけの日々は気楽でいい。

 だけど。……だけど。

 スマホの時計の横には、25と数が記してある。

 煉獄に留まるのが平均二年だとして、あと、600日以上同じような日々を繰り返すのは、どうだろう。絶対に飽きない自信は、ない。

 いや、今のところは全然大丈夫。大丈夫なんだけど。

(……いつか、もしかしたら、うん)

 いざと言う時の為に、取っておいてもバチは当たらないはずだ。

 蓮花は少し部屋を見回してから、戸棚の中の煉獄ガイドブックを取り出した。この間に挟んでおこう。

 ついでにガイドブックをパラパラめくる。そういえば、初日に見たっきり、開いていなかった。

 煉獄の全景マップが載っていた。煉獄は横たわる空豆型の島みたいな形をしていた。蓮花がいる場所は左、つまり西側の門の周辺で、反対側に東門がある。下、南側にはどうやら大きな湖があるらしく、その周辺には浜辺や、レストラン街が描かれていた。北側には山脈が並んでいる。その向こう側がどうなっているのかは、わからない。

 蓮花は、ふと挟んだチラシをもう一度見た。

 このお店は、どの辺にあるんだろう。

 チラシに地図は載っておらず、住所っぽい、おそらくは通りの名前と、番地が書いてあるだけだった。このガイドブックに載っている大まかな地図からは、それがどこだか検討がつかない。

 少し迷ってから、スマホを取り出した。

 煉獄の地図アプリを取り出して、検索欄に通りの名前を入れてみた。

 深い意味はない。ただ場所を調べるだけだ。別に迷惑行為じゃないだろう。お店なんだし。

 通りの名前で、すぐにヒットした。地図の上に、オレンジ色のピンが立つ。それは今蓮花がいる場所の反対側。東町と呼ばれるエリアだった。


 ○


 入獄して42日目のことだった。

 夕方に、珍しく淡月と杏花が一緒にやってきて、天国での研修が急遽決まったので、明日は顔を見に来れないと言った。

 蓮花は「大丈夫です、ご心配なく」と、笑顔で返した。

 その翌朝、さんざん迷った挙句、結局はジーンズとTシャツ、そして黒パーカーという出立ちで、蓮花は白百合館から少し離れたバス停に立った。本当は玄関前のバス停からでも乗れるのだけど、万が一でも蓮花を知っている人(天人や管理人)に見られないように、という気持ちから少し距離を取った。

(大丈夫、別にやましいことをしているわけじゃない)

 自分に言い聞かせる。それでも何となく、気恥ずかしくて誰にも知られたくない。

 なんとなく、淡月や杏花には知られたくなかった。それでも「いつかこの生活に飽きる日」を待つでもなく、蓮花はアトリエ・ナナカマドに行ってみたいという気持ちが、日に日に膨らんでどうしようもなくなっていたのだ。

 ガイドブックとネット情報で入念に調べて、バスの乗り継ぎルートを決めた。東町へ行くには、バスを三回乗り継ぐ必要があった。まず、煉獄の中心広場に行くバスに乗り、そこのバスロータリーで、北煉獄行きのバスに乗り換える。それから「自然公園入り口」というバス停で、今度は東門行きのバスに乗り換えるのだ。

 待っていると、程なくしてバスが到着した。現世で乗っているのと同じような形、サイズのバスで、席は半分くらい埋まっていた。ほとんどの人は、支給された白い服を着ている。蓮花は一番後ろの、端っこの席に座って小さくなった。通り過ぎる時に、おばあさんがこちらをチラリと見た以外は、誰も蓮花に視線をやらなかった。蓮花は、できるだけずっと窓の外を見ていた。二日目に、タクシーから見た街並みを横目に、約三〇分ほど揺られた。

 そうして辿り着いた煉獄の中心広場は、想像していたよりずっと広くかった。中心には大きな泉があり、その向こうには薄紅色の雲のような、桜が並んでいるのが見えた。泉の噴水の水飛沫に、虹が二重に掛かっている。こんな美しい場所だからか、それとも交通の要だからなのかはわからないが、人はそれなりに多く、そしてその人たちもほとんどが白い服を着ていた。時折、私服っぽい服の人もいたが、煉獄の光に似合う、淡い色彩の服を着ていた。

 バスロータリーは広く、幾つもバス停があった。蓮花は、足早に次のバス停を探す。北煉獄行きのバス停は一番端っこで、丁度バスが一台止まっていたので、蓮花はそのまま乗り込んだ。乗客は蓮花を入れて三人で、そして誰も蓮花を見なかった。蓮花が着席すると、バスは走り出した。

 先に乗っていた二人は割とすぐに降りてしまい、蓮花はただ一人の客になった。同時にバスは町を抜け、街中から、何もない野原の真ん中を進んでいく。この先には、煉獄の北側の大きな自然公園と、その奥に山脈があることは知っていたが、それがどれくらい遠いのかはわからなかった。山はもう見えても良さそうなのに、ただ地平線までのどかな野原が続くだけだった。

 自然公園前というバス停は、その広大な野原の真ん中にぽつんとあった。横には小さなベンチが一つあるだけだ。一瞬、降りるべきか迷ったが「東門行きのバスにお乗り換えのお客様はこちらでお降りください」と運転手が言ったので、渋々降りた。

 バスはあっという間に行ってしまい、蓮花はだだっ広い野原の真ん中に取り残された。寒く感じるほどではないけれど、風は少しひやりとしていた。風は地平線の向こうから吹いてきて、蓮花をひと撫でし、そして再び地平線の向こうへと消えていくようだった。ベンチに腰掛けて、不安な気持ちで次のバスを待った。道のどちら側も、長く続く道が野原に消えていくだけで、人やバスの気配はない。

「『自然公園入口』って、どういう意味だろ?」

 バス停名を見上げながら、蓮花は独りごちた。

 そこから、まるで無限に感じられる十分を経て、軽いエンジン音を立てて東町行きのバスが到着した。てっきり誰もいないと思ったのに、ハイキング帰りのような服の人が、何人か乗っていた。少しホッとした気持ちでバスに乗り込む。

 バスはあっという間に野原を抜けて、再び町に戻った。ここまでで目にした街並みとは違い、小さな建物が多く、道は狭く入り組んでいるようだった。道が悪いのか、バスは何度もガタガタ揺れた。

 お目当てのバス停『東町3丁目』で降りた時には、白百合館を出てから一時間半が過ぎていた。

 入り組んだ狭い道が続いていた。道は石畳で、行ったことはないが、ヨーロッパっぽい町だなと思った。

 ファッション街ほどではないが、かなり人通りは多かった。蓮花は少し安堵した。この辺では白い服を着ているのは半分くらいで、私服の人もかなり服のタイプが多岐に渡っている上、黒い服を着ている人がかなり多くいると言うことだった。全身黒、しかも黒い帽子に、黒いベールまで掛かっている。そんな人と何人かすれ違い、もしかしたら、何かの制服なのかもしれないと思った。何はともあれ、ここであればさっきの中央広場に比べても、蓮花は目立たないだろう。

 地図アプリを見ると、どうやら目の前の細い坂道を登った先に目的地があるようだった。登った先は開けた三叉路になっていて、丁度角のところにオープンテラスのカフェがあった。

 地図のピンはその場所を指している。蓮花はもう一度、メモを確認する。一瞬場所を間違えたかと思ったが、どうやら目的地は、この建物の二階のようだ。

 入り口はどこだろうと、しばらくウロウロしていると、細い階段を見つけた。そして、その脇に小さな立て看板が置いてあった。

『←2階 アトリエ・ナナカマド ファッションのお悩み解決します』

 心臓がばくんと鳴った。ここだ。本当にここだ。

(やった……!)

 本当に辿り着いた。ここにあの人がいるのだ……!

 建物はかなり古そうだった。恐る恐る軋む階段を登った先には、細い廊下があった。扉が二つ並んでいる。手前の扉には何の印も出ていない。さらに薄暗い奥まで進むと、小さな黒板に白で「アトリエ・ナナカマド」と、カタカナで描いてあった。

 蓮花はその扉の前に立ち、ゆっくりと息を吸った。

 心臓は未だかつてなく高鳴っている。

 勢いだけでここまで来てしまったけど、この先どうしよう。

 本当に自分は、黒い服と白い服の、あのどうしようもない話をあの人にするつもりなんだろうか。そう考えると急に気持ちが萎んで、馬鹿馬鹿しさに押しつぶされそうになる。

(でも、せっかくここまで来たんだし)

 死ぬ気で行けば大丈夫。だってもう死んでるし! と、ノックをしようとして、ふと気づいた。

 ドアノブに「closed」の札が掛かっている。

「うそ……!?」

 小さく声をあげてしまった。閉まっていたこともショックだし、それ以上に、この事態を全く想像していなかった自分に驚いた。

(馬鹿じゃないの)

 コンビニじゃないんだから、そりゃ定休日はあるだろう。がっくりした気持ちでもう一度縋るようにチラシを開く。定休日の記載はなかったが、その代わり、メールアドレスと電話番号は書いてあった。

 簡単なことだ。あらかじめ問い合わせれば良かったのだ。電話もメールも苦手な自分に、そんなことができたかわからないけれど。

「はぁ」

 泣きたい気持ちだった。だが、休みは休みだ。ここで駄々をこねていたって、どうしようもならない。帰りの道中を思うと、さらに泣きそうになった。また、あの野原の真ん中で、一人ぼっちで乗り継ぎバスを待つのだろうか。心が折れる。そして、思った。多分、再びここにやってくる気力は、多分もうないだろう。

 だからもう、終わりなのだ。

(やっぱり……)

 やっぱり、こうなる。だけど、仕方ない。蓮花のどうしようもない悩みを、相談しようとしたのが間違いだったのだ。

 蓮花は肩を落として、階段へと体を向けた。

「にゃあ」

「ん?」

「にゃあ」

 顔を上げると、階段の手前に、毛並みのふさっとした真っ白な猫が、どっしりと座っている。猫はじっとこちらを見ている。

(いつの間に?)

 猫は「にゃあぁ」と今度は少し語尾を伸ばすように鳴いた。

 猫の動画を見るのは好きだけど、触れ合った経験はない。

「あの……横、通ってもいいでしょうか?」

 言葉が通じるはずがないのに、蓮花は小さく聞いた。

 猫は蓮花をじっと見たまま、動かない。その場にどっしりと腰を下ろしたまま、尻尾をゆっくりと左右に振っている。これは良いって意味? ダメってこと?

「ニャ」

 短く鳴くその声は可愛いが、その表情は、読めない。友好的なのか、怒っているのか、どっちなのか。可愛いは可愛いのだけど、少し怖い気持ちもある。

 その時だった。階下から、ふと女性の声がした。

「夕焼さぁん?」

 とん、とん、と、誰かがゆっくり階段を登ってくる。

「ちょっとぉ、夕焼さん。そんなところに大きなお尻をどっちり乗せてたら邪魔ですよ。ちょっと、どいてくれませんかねぇ」

 白猫は、その言葉の主を見るように、ひょいと振り返り、再び短く鳴いた。

「ほらほら、邪魔ですってば。荷物多いんですから、踏みますよ?……おや?」

 大きな荷物を両腕に抱えて、階段の上に現れた女性を見て、蓮花は思わず目を見開いた。萎えていた心音が一気に跳ね上がる。

「あら、こんにちは。もしかして、うちに御用でしょうか?」

 大きな荷物を抱えてにこっと笑顔を見せたのは、見間違えるわけもなく、あの人だった。蓮花があの日見た、あの黒い服の人。

 どうしても、会ってみたかった人。

 天人ファッションスタイリスト、朝顔だ。

 荷物を抱えているけれど、あの日と同じネックレスがきらりと光った。ふわりと広がる黒に花柄のスカートが、とても素敵だ。

「あっ、あっ……」

 口を開こうとして、言葉が詰まった。変な音しか出せなくて、蓮花の顔に一気に熱が上る。

「あの……」

 何から喋ったらいいのかわからない。何を言ったらいいのかわからない。そもそも自分はどうしてここまで来たんだっけ?

 狼狽える蓮花を気にするそぶりもなく、朝顔は「お待たせしちゃいました? ごめんなさいね」と、大荷物を抱えたまま、ドアに鍵を挿した。

「買い出しが盛り上がっちゃって、遅くなっちゃいました。どうぞ」

 ドアを開いて、朝顔はどうぞどうぞと言いながら中に入っていく。扉の横から、蓮花は恐る恐る中を伺いながら「……今日はお休みじゃないんですか?」と聞いた。自分でもびっくりするくらい、蚊みたいな声だった。

 部屋は、大きな窓があって明るかった。何より、真っ黄色の鮮やかな壁紙が目に飛び込んでくる。アンティーク調の木の家具が映えていた。まるで海外インテリア雑誌のようだった。

「お休みじゃないですよ。今日は予約もないし、時間たっぷりありますよ。ご新規様、ウェルカムです、ウェルカム〜!」

 朝顔は、両手に持っていた荷物をテーブルにどさりと下ろして、満面の笑みで蓮花を手招きした。ふと、足元に何かがふわっと触れた。蓮花が反応するよりも速く、さっきの白猫が部屋の中に入り、椅子の上にどっぷりと座った。

「あっ、もう、夕焼さんったら。お客さまがいるのに、そんなところに座らないでくださいよ、ほらほら」

 猫を追いやりながら、朝顔は開いた椅子をこちらに向けて、さあさあどうぞ、と笑った。

 それから、今だに扉の前で固まって動けない蓮花を見て、はっと気づいたように言った。

「もしかして……違う用件でした? お客さんじゃ、ない?」

「あっ、あっ……あの……っ」

 言葉が言葉にならない。蓮花は懸命に首を横に振った。朝顔は声を少し小さくして、聞いた。

「もしかして私、怖がらせちゃいました、か?」

「怖……!? あっ、いえ、っ、あ、いえっ……」

「やだもう〜、すみません。大丈夫、全然、怪しいものじゃないですよ。……でも怪しいですよね、こんな黄色い部屋だし、大きな白猫はいるし……」

 やだどうしよう、という顔で朝顔さんが口を覆ったので、蓮花は千切れるほどに首を横に振った。

「あっ、いえ違います……その、私、その……」

 ポケットから、いつのまにか握りしめていたあのチラシを取り出す。

「こちらを、見たんです。……それで、その、ファッションのことは、何にも……なんっ、にもわからないんですけど」

 蓮花はぎゅっと唇を噛んだ。何を言おうとしてるのか。だけど、ここまできたら、言うしかない。

「その……朝顔さんと、お話したくて」

 朝顔は、一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。

 そして、不思議そうな顔で、蓮花の手元を覗き込み、チラシを見て、あら、と言った。

「あら、あら、あら」

 その驚いた表情は、あっという間に、再び大輪の花のように、満面の笑顔に変わる。

「あら〜、嬉しいです。どうぞ、お入りくださいな、お嬢さん、お名前は?」

「あの……蓮花と、言います。木梨蓮花……あっ、亡者です」

 いらんことを言ったかな、と一瞬思ったが、朝顔は何も気にしていないようだった。蓮花さん、と口にして、素敵な名前です、と言った。

「蓮花さん、改めて、いらっしゃいませ。天人ファッションスタイリスト・朝顔の、ファッション相談へ、ようこそいらっしゃいました」


 にゃあ、と、白猫が、一際大きな声で鳴いた。


                          (つづく)

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