第一部 4
当時大学生だったサイトウはある夏の日に、自分がもう二週間ほど水以外は何も口にしていないことに気が付いた。大学と、一人暮らしをしている下宿先の小さなアパートとの往復の中で、食事という作業はあまりに自然な形で抜け落ちてしまっていた。まさか自分はこの味気ない日常の中で、腹を減らすことすら忘れてしまったのか?――背筋の冷たくなるような恐怖がすっとその身をよぎった。しかし、だからといってそこで何かを食べてしまうわけにはいかなかった。まだ腹が減っていないのにもかかわらず、とりあえずここで何かを口にしてしまうこととはつまり、ただ恐怖に敗北したことを意味していた。恐怖に耐えながら自然に腹が減るのをじっと待った。本来であれば外へ出て体を動かしでもすればいいものを、彼は逆に内側に閉じこもってしまった。大学へ通うのをやめて一人アパートに引きこもり、部屋中のカーテンを全て閉め切って、昼の夜も明かりを消したままの真っ暗闇の中、敷きっぱなしの布団の上に体育座りをしてただひたすら、腹が減るのを一日中待った。やはり時々喉は乾いたが、不思議と一向に腹が減ることはなかった。縮こまる彼の全身はやがて恐怖よりも、失望が支配するようになっていった。まったく馬鹿な話だと自覚してはいたが、しかしもしかしたら、このまま俺は自分でも気が付かないうちに飢えて死んでしまうのではないかとすら思った。時折胸の奥からどうしようもない悲しみが込み上げてきて、さすがに声を上げて泣き出すことはしなかったが、ただそういうときは音も無く小川のような涙が両目から流れ出てきた。決して腹が減ることはなかったが、有難いことに眠くはなるようだった。眠っている間が唯一の幸福の時間だった。しかし何回か寝起きを繰り返すうちに、一度寝てしまったら、少なくとも生きているうちはまた目覚めなくてはいけないという、当然の事実に気が付いてしまった。やがて彼は、また明日が来ることに対する失意の中へと、ゆっくりと沈み込むようにして眠りに入るようになってしまった。それでも未だ自ら命を絶つことは出来なかった。時計もろくに見ずに、時刻を気にせずに寝たり起きたりを繰り返していたせいで本人は正確なことを知らなかったが、サイトウがアパートに引きこもるようになってからさらに三週間が経った、ある夏の日の真昼のことだった。サイトウの体の中を、何か決定的な揺さぶりが駆け巡った。全く意味も無く、呻くような声が自然と口から出た。その音を彼は自分の耳で聞いた。しかし、音は彼の思い込みだった。自分の喉から絞り出すようにして発せられたと思った声は、実は口外に出る前にかき消えてしまうほどの弱々しさだった。その重要性を今までに実感したことなどなかった、彼は生きる為の光を求めて部屋の暗がりの中を亡者のように這っていった。やがて玄関に辿り着き、死ぬ間際の崩れるような勢いで、彼はほとんど一か月ぶりにアパートの外へ出た。外は夏の真昼だった。粘液じみた、じっとりとした熱気が彼の体を包んでいった。真上からの太陽の光が彼のことをじりじりと音をたてて焼いているようだった。「どくん!」と彼の心臓が力強く動いた。今までにない感覚だった。ぼやけていた視界がはっきりとしてきた。部屋に籠っていたときの失望や諦め、悲しみがみるみると溶かされていった。何も口にはしていないはずが、しかし久々に食事を摂った後のように、自分の身体が内側からほんのりと熱くなっていくのを感じた。太い血管の中を流れる血が、養分と温度を得てぎゅんぎゅんと全身を駆け巡っていた。あまりの快感に目が眩んだほどだった。
「そうか、日の光か」
彼はその場に立ち尽くしながら、ゆっくりと理解していった。自分の言葉を噛みしめるように、彼は言った。
「まるで光合成だな。俺はものを食べることを必要としない、ただしその代わり、俺は日光浴を以って生きる為の力を得るのか」
事実を確認するために彼はしばらく外を歩いた。日に当たれば当たるほどやはり身体には力が溢れるようだった。胃にものを収めるわけではなかったから満腹になるという概念は無かった。やはり喉は乾いたが、途中飲料自販機で水を買い、それを飲みながら夏の明るい日の中を歩き続けた。際限なく力が溢れ、もう少しで走り出しそうにすらなったが、大学生にもなって一人街中を走り回る恥を晒すわけにはいかないとすんでのところで堪えた。一時間ほど歩いて彼はアパートへ戻った。その間に彼の中では仮説が確信に変わっていた。彼はツイッターのアカウントを持っていたはずだった、しかしこの引きこもっていた数週の間でそもそも自分の携帯を家のどこに置いていたかを忘れてしまった。自分の体の持つこの無限の可能性を今すぐ誰かに報せなければならないという義務感に囚われて、彼は固定電話を使って大学の友人に電話をした。何が起こったかはわからない、ともかく今の俺は、どうやら光合成が出来てしまうようなんだ、日の光に当たれば当たるだけ身体中に力がどんどんと際限なく溜まってくる、こんな素晴らしい身体能力を手に入れてしまったからには、自分は何か、世の中に対して特別な貢献をしなければならない、などということはないだろうか?――一方的にまくし立てる彼の言うことを黙って聞いた後、電話の向こうで彼の友人は静かに、「今からお前のアパートに迎えに行くよ」と言った、そしてそのまま電話を切ってしまった。その友人がどうしてわざわざこのアパートまで来ると言ったのか、そして「迎え」に来るというからには、友人はここからどこかへ一緒に行こうとしているということだが、果たしてそれはどこなのか、冷静に考えれば疑問を抱くべきことが多くあるはずが、しかし当の彼はそんなことを考える暇はなかった。すっかり興奮し切って、閉め切っていたカーテンと窓を開け放ち、殺人的な熱気が部屋に入り込むのも顧みず、自然の明かりを精一杯に取り込んだ狭い部屋の中を落ち着きもなくぐるぐると歩き回っていた。やがて友人がやって来た。ドアを開けて迎い入れようとすると、友人は「すぐに出発するぞ」と事務的な口調で言った。その雰囲気にかえって只ならぬものを感じた彼は言われるがまま、布団のところに駆け戻り、散らかったそこから財布だけを引っ張り出すと、くたびれたスニーカーに両足を突っ込んで急いで部屋を出た。外はいつの間にか夕暮れだった。友人の後をついて街を歩いた。日はほとんど沈みかけていて、空は暗く青みがかったオレンジ色に染まっていた。十分ほど歩いた所で友人は彼に聞いた。
「昼の間は、ちゃんといっぱいに日を浴びたんだろうな?」
ああ、と彼が答えると、友人はやはり事務的に、「それなら大丈夫だ」と言った。
「今夜は遅くなるからな」
駅に着き、二人は大学へ向かう方向の電車に乗った。車両には他に太ったスーツ姿の中年男がいるだけだった。太った男はやけに真剣な顔をしながら、肌色のカバーのかかった不自然に小さい文庫本を読んでいた。二人でこのまま大学へ向かうものと思っていたが、しかし友人は普段なら乗り換えるところで電車を降りなかった。日はすっかり落ちて、電車は街明かりのない真っ暗な闇の中を、僅かに弧を描くように突っ切って走っていった。やがて着いたある駅で二人は電車を降りた。駅舎は大きく立派なものだったが、しかし人は少なかった。駅を出てしばらく真っ暗な通りを歩いていると、やがて二人はある店へと辿り着いた。薄暗い、狭い酒場のようだった、入って右に朱色の、幅の狭いカウンターが奥まで続いているだけの、人一人がやっと通り抜けられるような細長い店だった。突き当りには扉があった。店員はなぜか不在だった。
「あの奥だよ」
友人はそう言うと、先を歩いて店を突っ切り、扉を開けた。その先はさらに地下へと続く、いっそう暗い階段だった。真黒い壁が目の前にあるのに等しかった。手すりなども無かったが、しかし友人は階段の一段一段の深さを正確に把握しているかのように、淡々とそこを降りていった。彼はその後ろをついて慎重に降りていった。二十段ほど下ったところで何やら、大人数が議論を戦わしているような雰囲気で騒いでいるのが耳に入ってきた。やがて降り付いた先は、人の大勢集まる薄暗いホールだった。たばこの臭いは一切しなかったが、部屋の天井辺りにはもっと不思議な香りを放つ霧のような煙が漂っていた。その煙の下では五十人か六十人かの男たちが全員、片手に琥珀色の液体の入ったグラスを持って立ち話をしていた、互いに何かを主張し合っているような、熱のこもった話し声が重なり合って、まるで男たちは、この薄暗い部屋から世界に対して革命を起こそうとしているかのような雰囲気だった。後になってから彼は知ったが、そのときに抱いた印象は決して的外れではなかった。しばらくホールの入り口辺りで立ち尽くしていると、ここまで一緒に来ていたはずの友人はどこかへ消えてしまっていた。大勢の、幅の広い年齢の男たちに紛れてしまえば、そこから友人を見つけ出すのは不可能に思えた。仕方がないから彼はしばらく議論を戦わす男たちの間を縫って、あてもなくうろうろとホールを歩いた。男たちの議論している内容は様々なようだった。一つに、男たちは自分たちのことを「新人類」と呼び、それ以外の人間たちのことを「旧人類」と呼んでいるようだった。そこを起点に様々な議論が発展しているようだった。圧倒的な性能を持つ我々「新人類」は、性能の劣る「旧人類」を支配するのに相応しい、とまでは言うつもりはない、しかし、一つ確かなことは、「旧人類」における法体系が、我々「新人類」において不要な義務を強いているうえに、我々にとって命の要ともいえる日光に関してあまりに無頓着なことは看過できるものではない、雨天が続いたときの命の保証、肉と野菜を消費しない我々「新人類」にとって、それを消費する「旧人類」にとっては課せられて当然である幾種かの税金については、それを払う義理などどこにもないはずだ、などという数々の主張を、彼は歩きながら聞いていた。途中、綺麗にカールする口髭を唇の上に生やした知らない男に、その場の全員が持っていた、琥珀色の液体の入ったグラスを手渡された。彼は黙ってそれを受け取った。一口舐めてみるとそれはやはり煙の味がした。しばらく歩いていると、一緒に来た友人を偶々見つけた、友人は、ここの大勢の男たちの中にすっかり馴染んでいるようだった。思えば、今までの付き合いの中でその友人の顔をまともに見たことなど無かったのかもしれなかったが、いずれにしろ彼は、友人がそのときほど楽しそうに会話に熱中しているのを見たことがなかった。友人が、男たちの間に立ち尽くしている彼に気が付いた。「サイトウ!」と声を掛けてきた。
「楽しんでるか、サイトウ」
彼は遠くから片手を挙げるだけで応じた。彼としては、この世には自分以外にも光合成の出来る人間が存在するということを知ってしまった、何もあの能力は自分だけの特別な能力というわけではないのだという事実を知ってしまった、それだけで十分だった。自分でも意外なほどに、彼はその事実に少なからず落胆していた。彼はやはり、彼らの行う議論にはそこまで関心は持てなかった。目的もなくホール内をぶらぶらしながら議論には加わらないでいようと考えていたが、しかし、歩きながら琥珀色の液体を一口舐めた隙をつかれて、こめかみまで毛むくじゃらの、髭面の気のよさそうな男に親しげに肩をとんとんと叩かれてしまった。
「どうだ、君だって新人類として、旧人類の、わざわざ食事を摂る習慣を哀れに思うことがあるだろう?」
彼はその夜、その肩を叩いてきた髭面の男のグループに巻き込まれ、結局夜明け近くまで彼らの議論に付き合うことになってしまった。途中で意見を求められることもあったが、彼は決まって、こう答えるに留まった。
「いずれにしろ、俺たちの能力は金では買えない、素晴らしい力だってことに尽きると思うよ」
夜明け近くに地上に戻ったときには、ぐったりとするような疲労感が全身に溜まっていた。それでもやがて遠くのビルの谷間からのぞいた朝日の光を浴びた瞬間に、それらはあっさりと消え去ってしまい、彼はその生まれて初めての感覚に驚いた。日を浴びて驚く彼の様子を見て、始めに肩を叩いてきた髭面の男は笑った。
「いい気分だろう。光合成の出来る新人類でなければ、こんな気分は味わえないのさ」
彼は、この夜に琥珀色の酒を少なくともグラス五杯分は飲んだはずだったが、その料金は一切支払わなかった。集まりに参加していた他の男たちも金を払っている様子はなかった。
三日後、彼は再び友人と共に地下のホールを訪れた。前回に訪れたときと様子は何も変わらず、天井辺りには霧のような煙が漂い、男たちはその下で互いに親しげに笑い話をしたり、正解のない議論に熱っぽくなったりしているようだった。この夜も何者かから自然なふうにグラスを渡された。グラスを片手に、やはり男たちの話の輪にはできるだけ関わらないように、彼は一人、意味もなく人混みの間を縫ってホール内をぶらぶらとしていたが、やがて入り口のところで別れた友人と出くわし、この夜はその友人のいた男たちのグループの喋り合いに、夜明け近くまで参加することとなった。まだ空気の涼しいうちの朝日を浴びながら地上に戻った彼はやはり、この夜もグラス何杯分かの琥珀色の液体を飲んだが、その料金の支払いを誰かから迫られることはなかった。あの刺激的な、煙の味のする琥珀色の酒を飲むのに掛かる金は実質、下宿先のアパートとの往復に掛かる分の、僅かな電車賃だけだった。大学には一応籍は置いてはいたが、ほとんど引きこもり同然の生活をしていて、自分でも情けなくはあったが、人恋しさが全く無いわけではなかった。かと言って積極的に見ず知らずの人間と笑い合ったり、議論をしたりしようとは思わなかったが、それでも彼は定期的に、あの地下のホールの集まりに参加するようになった。相変わらず周囲で繰り広げられる談笑や議論に耳を傾けながら、グラスの酒を時折口にして、ホール内を一人でゆっくりと歩き回った。突然親しげに話しかけられても邪険にはしなかった。自分も相手も心地良いように相槌を打ちながら、彼ら「新人類」がどういった思想を持っているのかを学んでいった。彼自身もまた間違いなく光合成をする人間、彼らの言う「新人類」の一人のはずだったが、彼にとっては未だに、「新人類」を自称する彼らの主義主張はどこか、遠い他人事のようだった。しかし、そうも言っていられないような変化が、彼の周りでも起きつつあったのだ。八月十三日の夜のことだった。この夜も彼は、例の地下のホールに向かおうとアパートの部屋を出た。夏の明るいうちの太陽の熱が暗くなってからも未だに地面からじりじりと立ち上っているような空気の中を歩いていると、突然目の前に、二人の屈強な男の影が立ちふさがった。
「サイトウ君だね?」
何かを答える間もなかった。彼はその二人の男によって国道沿いにある、ひと気のない深夜のファミリーレストランへ半ば無理やり引っ張られていった。明るい所へ来て初めて分かったが、二人の男はこの暑い中でも厚そうなジャケットを着こみ、ネクタイも締めたスーツ姿だった。テーブルについてドリンクバーを三人分注文し、自己紹介もせず男たちは彼に向かって、「君はあの地下の集まりに行くようになってどれぐらい経つ?」だの、「あの地下の集まりは一体何を企んでいる?」だの色々と詰問してきた。二人の男のうちの片方は、おそらく彼より四、五歳ほど年上なだけの若い男で、終始彼をきつく問い詰めるようにしゃべっていた。もう一人はちょうど彼の父親と同年代くらいの男で、こちらはなぜか妙に優しげで、まるで取り返しのつかない罪を犯してしまった息子に、それでも決して見捨てることはしないよ、とでも言うような、心強い、父親のものというよりは、どちらかというと芯のある母性すら感じさせる面持ちで、彼から諸々を聞き出そうとしていた。終わりとして、「こちら側には君を同志として受け入れる準備がある、その上で君には、あの地下の集まりに参加し続けてほしい、そして向こうの状況について何か不安に思うことがあれば、そのときは遠慮なく、我々に相談してきてほしい」と言い出した。
「つまりは、俺にスパイの真似事をしてほしいということですか」
彼は憤然とした態度を示して言った。
「そんな卑劣な役なんて、いくら金を積まれたって引き受けませんよ」
それ以降、彼の周囲は昼夜を問わず物々しくなってしまった。例の酒場へ向かうときにしろそうでないときにしろ、外を歩くときには絶えず後ろから、少なくとも誰か二人分の視線を感じるようになった。おそらく何の意味も無かったが、そういうときにはとりあえず、決まって駅の方へ走って向かうことにしていた。ある朝彼は、日がまだ低いところにあるような早い時間に目覚め、まだ眠たげに目をこすりながら、部屋にそろそろ一杯になるほど溜まっていたごみ袋をアパートのごみ捨て場まで捨てに行こうと思った。四つのごみ袋を抱え、玄関を出た。そのときにはまだ何の異変もなかった。外付けの階段を降り、ごみ捨て場にごみを捨て、そのまま部屋へ戻った、台所で手を洗っているときにふと何気なく窓の外を見てみると、ここらでは見掛けない、黒いスーツを着た不審な男二人組が、ついさっき彼がごみを捨てに行ったごみ捨て場をごそごそと漁っているのが目に入った。男二人は彼の捨てたごみ袋を特定すると、それを抱えて街のどこかへ消えていった。
その日以降も彼の捨てたごみは必ず、ゴミ収集車が回収に来る以前に何者かによって持ち去られていった。かと言って、自分の捨てるものに気を付けるようになるほど彼は繊細ではなかったが、それでも、疑念は日々溜まっていった。例の酒場の、地下のホールにも通い続けた。やはり彼は、そこに集まる男たちの議論に積極的に参加するようなことはしなかったが、しばらく黙って彼らの言うことを聞いていた、議論が白熱したあるタイミングで意見を求められたとき彼は、はっきりとこう言った。
「心情的にも、旧人類の味方をするのは難しいだろうな。あいつらは、スパイを仕掛けてくるような卑劣な連中だ」
ある夜、とうとう一つの事件が起こってしまった。男たちがいつものように地下のホールに集っていると、一人の男が息を切らしてそこに駆けこんできた。自分の携帯を掲げ、その画面を皆に見せながら男が叫んだ。
「とんでもないことを言った奴がいるぞ!」
そのとんでもないことを言ったのはこの国の、関東のとある裁判所に務める裁判長のようだった。どういう経緯があったのかは明かされなかったが、その裁判長は公の場で、目の前の相手を馬鹿にしたような笑みを浮かべながらこう発言したらしかった。
「自分たちは光合成が出来ると主張する人たちが、仮に本当にそのような能力を持っていたとして――実際にその人たちが新人類と自称するように――我々司法の立場の人間は、光合成をする彼ら彼女らを法律上においても真っ当な人間として扱うべきか否かについて、しっかりと議論しなければならないだろうね」
薄暗いホールの空気は熱い怒りに震えた。男たちは拳を突き上げ、その裁判長に対する口汚い文句を口々に叫んだ。その夜の男たちの議論としては、自分達を馬鹿にした裁判長に、一体いかなる制裁を加えようかという内容で持ちきりだった。そいつの恥ずかしい過去を探って、インターネット上に全てを公開してやろうかなどという、しょうもない、陰湿極まりない意見も出はしたが、しかしこのときは結局その程度の騒ぎだった。陰湿な形ではなくて、もっと大々的に自分たちが行動を起こすきっかけとしては、これ以上に衝撃のある事件が起きなければならないだろう――その場にいた全員がそう思いながら、「インターネット上に」などという陰湿な意見を冗談半分に言い合っていた。今か今かと何かを待ち望んでいるような者も何人かはいたが、しかし本当に――まるでその思いに運命が呼び寄せられたかのように――ある決定的な事件の報せが、それから三週間後の火曜日の夜に、男たちの地下のホールにもたらされた。先の裁判長の発言と何かの繋がりがあるのかは分からなかったが、内陸の地方に住む、自分は光合成が出来ると主張していた一人の男が、夜中に酒場から自宅へ帰る道の途中で強盗に財布を奪われ、そのうえ背中を小さな果物ナイフでずぶりと刺されて死んでしまった。地元の警察は二日後に犯人の男を捕らえたが、しかし、その犯人に殺された被害者というのが、自分は光合成が出来る新人類だと主張する変人だったらしいということが明らかになると、警官たちは笑いながら、「新人類さまは人間ではないから、殺しても殺人罪にはならんだろう」と言って、一時的にではあるが、犯人をあっさりと釈放してしまった。窓から手を振って見送る警官らに手を振り返しながら、犯人の男は陽気な笑顔で警察署を後にしたが、三日後に犯人は再び捕らえられた。しかしその時の逮捕理由というのがどうやら殺人とは全く関係のない、男の行きつけだった駅前の、レンタルビデオ店での窃盗現行犯として逮捕されたらしいというのが事件の顛末だった。薄暗いホールに集まる新人類の男たちはその報せを聞いて、今度こそという心持ちで怒りのこもった雄叫びを上げた。同胞を殺したにもかかわらずのうのうと窃盗の罪のみで裁かれようとしている犯人の男と、さらにその殺人による、同胞の理不尽な死を侮辱した警察、さらにはそういった現状を放置するこの国全体を決して許してはならないという怒りが、光合成をする男たちを激しく盛り上げた。薄暗いホール内は未だかつてないほどに祭りのような雰囲気で活気づいていた。突然、ホール内に悲痛な叫び声が響いた。何人かの男たちが携帯電話を握りしめて、まるでナイフで腹を抉られたかのような歪み切った表情を浮かべながら、家に置いてきた、同じく新人類である自分の恋人や、妻や家族たちと連絡がつかないと騒ぎ出した。それを受けて他の何人かの男たちも急ぎ一旦家へ帰るべく、慌ててホールから飛び出していった。ついには、誰が言い出したのかはわからないが、旧人類たちは今まさに、密かに我々新人類に対する無差別な捕獲、非人道的な人体実験を実行に移し始めたに違いない、などという話が囁かれ出した。あらゆる話がその真偽の不正確なままに、薄暗いホールの男たちを猛々しく盛り上げていった。
「いずれにしろ、我々が新人類としての運動を大々的に起こすきっかけとしてはもう十分過ぎるほどのものがある! インターネット上での陰鬱とした影の活動ではなく、今こそ地上に躍り出て、世の中に広く我々新人類の権利とそれのもたらす可能性について訴えかける、大義名分が出来たというものじゃないか!」
誰かが叫びだしてしまったら、もうそれは抑えようがなかった。さっそく国会議事堂、または裁判所前での、昼間からのデモ活動が計画された。この夜のホールに集まっている以外にも、まだまだ全国には光合成の出来る人間が散っているはずだ、そいつらにも声を掛けてこの都市を起点に本格的な政治運動を始めようと、代表者として選ばれた男盛りの何人かを中心に現実的な話し合いが開かれた。選ばれた優秀な男たちはまず、暴走しつつあった全体に「デモは必ず行う」と約束したうえで、その場に落ち着きを取り戻した。極めて健全な、建設的な話し合いが進み、デモの規模や期間、役割の交代制度などの具体的な細部まで決まりかけた、その中の自然な流れとして、代表者の一人がこう言った。
「我々の主張は至極まともなもののはずだから、現行の法に則った平和的なデモで、全てが解決できるはずだ――」
「しかしそれでは逆に、まるで思考が凝り固まっているようだな」
何となく、というふうにそう口にした男は、代表者ではなかった。それどころか、男はつい最近になってホールに顔を出すようになった、そこではまだまだ新入りと言ってもいいほどの若い大学生の青年だった。しかしその全身には、他の誰にも無いような、得体の知れない孤独のオーラを纏っているようだった。
「凝り固まっているとは、どういうことだい?」と代表者の一人が訝しげに言った。
「そのままの意味さ」
若い大学生も代表者たちに負けず劣らず、周囲を暗い海底に突き落とすような冷静さで言った。
「例えばだが、平和的なデモを開催するよりも、直接暴力で訴えた方が、格段にいいものが得られるに決まっているだろう?」
その時、はっはっは、と陽気な笑い声が、続いて一人の寂しい、しかし堂々とした大きな拍手が突然どこからか鳴り響いた。その場にいた誰もが驚いた、重いピストルを打ち鳴らすような拍手はしつこく続いて、一体どこの誰が拍手をしているのだろうと男たちは薄暗いホール内をきょろきょろと見渡した。やがて全員が一人の男の存在に気が付いた。そこに居たほとんどの人間がそのときまで気付けなかったが、ホールの壁際にはずっと以前から、深い紫色のビロード生地の張られた豪華なソファが五つ並んでいた。そこに座っていた男たちは、年齢も体型も服装も髪形も、足の大きさや耳や鼻の形も様々だったが、しかし全員がその瞳の奥に、決して澄んでいるとは言えない謎めいた光を漂わせ、時折互いに顔を合わせては早口に何かをしゃべり合っていた。その五人の内の一人の、灰色の生地に白のラインの入った高価なスーツに身を包んだ太った男が、ソファから立ち上がって笑いながら、ピストルのような拍手をホールに響かせていた。ようやく拍手をやめると、男は言った。
「その言葉を、我々はずっと待っていたんだよ」
ソファに座っていた他の四人はその言葉に小さく頷いた。太った男は、大学生の彼の近くまで、ホールを横切ってゆっくりと歩いて行った、そしてその手をがっしりと握った。
「我々は、金と武器ならいくらでも持っている」
太った男は、自分のスーツの内ポケットにある、鈍い光を放つ大きな拳銃をちらりと彼に見せつけながら言った。
「君に、思う存分に使ってほしい」
男の内ポケットに収まる拳銃の残像が、しっかりと両目に焼き付いてしまった、どうしようもなく、そこから自分の運命の残酷さを予感してしまった、若い大学生サイトウは、突然床に膝をつくと、太った男の足元に、「げぇ」と盛大に嘔吐した。新人類と自覚するかなり以前より食べ物は摂取していないはずだった。つまり彼が嘔吐したものは、そのホールで飲み続けていた例の琥珀色の液体を含む水分、そして彼が食べ物を摂取しなくなる前に食べていたものの残りかす、胃の壁面にこびりついていた、旧人類としての僅かな名残だった。その様子を見た太った男は、心底嬉しそうな顔をしながら、「素晴らしい!」と叫んだ。
「その嘔吐は、君が自らの役割から逃れられないということを正しく認識している証拠だ!――偶々私に目を付けられてしまったゆえの、残酷な役割をね」
胃の中のものを吐き出した後は、自分でも驚くほどの落ち着きを得ていた。彼は夜明けの、西の空がまだ深く青みがかっているうちにアパートへと帰った。自分の部屋に入るなり、まっさらなコピー用紙に、「俺たちの怒りを思い知れ」と丁寧な、大きな字で書くと、それを以前より溜めていたごみ袋のうちの一つに、くしゃくしゃっと丸めて入れた。それから外へ出て、すべてのごみ袋をしっかりアパート指定のごみ置き場へと捨てると、彼はそのまま行方をくらました。
キメラのいた系譜 @haccy708
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