第一部 3
兄の彼がしばらく会わないうちに弟は、海外の工科大学院を出て、世界的軍事企業の研究職に就いていた。弟が何を専門に研究をしていたのか、彼はついに一生理解することは出来なかったが、しかし理解できない面があるからと言って、兄弟としての絆が揺らぐことはなかった。自分が幼い小学生の頃に抱いていた、「人間も光合成をできるようにする」という夢を弟に思い出させられた彼は、就職活動に取り組んでから、さらにその後も文科省の仕事に追い込まれるようになってからは失いつつあった、小学生来の、性格上の純粋さを一気に取り戻した。長い眠りから目覚めたかのような感覚、もしくは生まれ変わったかのような感覚を得た。過去の自分を、まるで博物館の興味深い陳列物の一つを観察するかのように、冷静に見つめ直すことが出来た。これを機に、忘れつつもどこか頭の隅には常にこびりついていた、「小説家になる」という非現実的な夢は綺麗さっぱり捨て去ることにした。自分でも驚くほどに悔いは無かった。何年ぶりかの清々しい気分に浸りながら、腹の底にふつふつと湧き起こる情熱的な何かを感じてすらいた――そうだ、俺はこんなつまらない仕事をしたくて大人になったわけではない、幼い頃より俺は元々、人間を植物化したくて今まで努力を積み重ねてきたんじゃないか!――弟が言うには、もう既に人間にも光合成が出来るようにするための科学的な手法を発明している、とのことだった。彼はそれを聞いて、よく知りもしない遠くの人物に対して抱くような曖昧なものではない、身近な人間に対してこそ抱ける本物の尊敬の念が弟に向かって噴き出してくると同時に、今の今まで、己の生きる真の目的とは全く筋違いの生き方をしてきた自分が、どうしようもなく恥ずかしくなってしまった。彼は思わず呻いた。
「まったく、何で俺は文科省の官僚なんてものになっているんだ? お前と一緒に研究者の道に進んで、一緒に開発に取り組んでいれば、あと五年は早くその手法を生み出すことが出来ただろうに――」
彼が落ち込んだようにそう言うと、弟は笑いながら、「何言ってるんだい、兄さん」と返した。
「兄さんが言ったんじゃないか。ほら、まだ幼い小学生の頃――将来は弟の僕が理系の道に進んで、人間の光合成を可能にする科学的手法を発明する、兄さんの方は偉い官僚になって、僕が発明したその科学的手法を政府の立場で承認し、世の中へ広めるのを支援するんだって。二人で役割分担を決めたんじゃないか」
しかし兄の方には、そんな役決めをした憶えなど全くなかった。彼が文科省の官僚になったのは間違いなく、あの、いくつも練った物語が偶然絡まり合ってできた、誰もがそれを一目見た瞬間にどこか虚しい感覚を抱いてしまうような仰々しい空っぽの銅像が吐き出した、予想にもしなかった結果でしかないはずだった。しかし弟の、あの笑いながら発した言葉を聞いた今となっては、もしかしたらあれも、実は弟の仕組んだ結果なのかもしれなかった。弟が、兄の彼からは見えない後方からその細く長い腕を密かに伸ばし、就職活動中の彼が練った様々な物語を意のままにこね合わせて、あの銅像を作り上げたのかもしれなかった。
実際、彼も彼なりに、文科省においてはもう既にある程度の地位には就いていた。ここ数年では自らが主宰して、小もしくは中規模ではあるが委員会を組織することもあった。人間の光合成を可能にする科学技術について、自らの力で上司や部下や、名の知れた専門家を巻き込んで勉強会や委員会を開くことなどわけないことだった。雲一つない夏の、ある晴れた日の昼下がりのことだった。広い会議室には長机がコの字に並べられ、天井に埋め込まれている二基の空調は同調しながら重低音のハーモニーを唸らせ、無機質な冷気を頭上から重々しく送り込んでくる、空調は充分過ぎるほどに効いている、むしろ寒いほどだったが、しかし長机の席に座る男達は全員がジャケットを脱いで、白ワイシャツの姿で意固地になって冷気に耐えている。十一人の男たちのうち五人が腕を組みながら目の前の机に置かれた資料を睨んでいて、時折思い出したように何かをメモしている。あとの六人は間を挟みながら順番に早口で何かを喋り、その後は全員で、うんうん、と頷いている。彼はそれを、長机の末席に座りながら賢い犬のようにじっと見つめていた。弟も委員会に呼んでいたが、しかし弟は、「そういうのは苦手なんだ」と困ったように笑いながら、代役を寄越してきた。代役は、禿げてはいないが全体が真っ白な、柔らかそうな頭髪の、極端に痩せた体を灰色のスーツに包んでいる、研究者らしい顔中皺だらけの老人だった。老人は順番が回ってくると、マイクのスイッチを押して口元をそれに近づけ、やはり時折早口で何かを喋っていた。彼はそれらを見ながら、「あと三回ほどかな」と考えていた。三回とはつまり、弟が発明した例の、人間の光合成を可能にする臨床的な技術を、正式に政府の立場として承認するまでに、あと三回ほどこの集まりを行えば充分だろうな、ということだった。実際には既に、あと四回の委員会が開かれるという前提で予算もスケジュールも組まれていた、しかし話の大体はあと三回で終わって、残りの一回は総括の場として、余裕を持って終えることが出来るだろうと彼は考えていた。それらは現実においてどうしようもなく必要な手続きだったが、しかし全てはその通りに難なく過ぎていくはずだった。その日の委員会も二時間ほどで終わった。兄は弟に向かって電話越しに、「全ては順調だよ」と伝えた。
「あと三回ほどだと思うけどね」
「三回か――」
「ああ、あと五ヶ月ほどかな」
そうか、あと五ヶ月かと返す弟の声は、どことなく暗く沈んでいるようだった。
「これでも早い方さ!」と兄は元気づけるように言った。
「五か月なんてあっという間さ。お前が難しい数式や命に関わる危険な薬品を夢中で操っているうちに、こっちは全てを終えてみせるよ」
しかし弟は声を沈めたまま、「兄さんの力を信じていないわけじゃないよ」と言った。
「ただ五か月もあれば、分からず屋も何かとんちんかんなことを思い付いて、それを大声でわめき出してもおかしくはないからね。こればっかりは、兄さんにも僕にもどうしようもないからさ」
弟の見立ては正しかった。以前までの委員会ではずっと黙って腕を組みながら、資料を睨みつつ時折思い出したようにメモをとっていただけの太った男が、ふいに滑らかに、まるで神の手違いによってチーターの魂を吹き込まれてしまったナメクジのような素早さで突然動き出し、マイクのスイッチを押した。口元を近づけ、初めてその低い声を発した。
「今までの話し合いを聞いていて私の思ったことは、この人間の光合成を可能にする技術とやらは、もしかしたら、ある方面においては人間の尊厳を著しく傷つけるものではないのかね?」
その言葉で均衡が崩れた、話し合いは暗礁に乗り上げてしまった。以前までの議論においてはずっと沈黙のルールを守っていた他の委員らも、また同じように滑らかに動き出してしまった。一か月ぶりだったその回の話し合いが収集するには、今までで最長の四時間がかかってしまった。また一か月後に委員会が開かれたが、前回の問題とはまた別の問題が、例の太った委員によって提示された。それはもはや問題を考えるための問題とも言うべきもので、どうしようもないものだった。やはり均衡は崩された。次第に会議場には抑制を失った怒鳴り声が行き交うようになった。全体の雰囲気が険悪になり、漂う空気が煙臭くなる寸前でその回の委員会は終わった。時間にして五時間半ほどだった。その次の、二か月ぶりにいつもの面子が集まった委員会、彼が実質的な話し合いはこの回で終わると踏んでいた集まりだったが、しかしやはり、そこでも議論はまとまらなかった。「これはまずいぞ――」彼は焦りながら、同時に苛立ち始めた。本当にどうしようもない連中だった。唯一の希望と思われた、弟の代役として出席していた、あの科学者じみた白髪の痩せた老人は、いつの間にかただ寂しそうに黙って、身を小さくして座りながら議論の行く末をじっと見守るだけの存在になってしまっていた。もはや有象無象たちの話し合いの行方を正しい方向へ導こうとするのは不可能に思われた。
「今の状況を打開できる人間がいるとすれば、それはお前しかいないんだ」
兄としてのプライドを捨てて彼は弟に、「委員会に出席して、真っ当な意見であの馬鹿どもを導いてほしい」と頼み込んだ。しかし弟は悲しそうな顔を見せながら、「それは難しいよ」と返した。
「なぜなら、僕には全く理解できないからね。僕と兄さんの夢を否定する考えというものが――もし本当にそんな考えがあるとすれば、それはきっと、この世の大原則を無視するほどの、馬鹿げた考えだよ」
それでもなお必死な兄の頼みを受けて、弟は折れた。最後の委員会に出席することに了解してくれた。いよいよその時が来た、もう年も明け、窓の外では雪の積もった灰色の景色がしんしんと広がっていた。天井に埋め込まれた空調は冷房ではなく、暖房の役割を以ってその内の空気を吐き出していた。
「これは進化なんですよ!」
弟は諭すように語ってくれたが、しかし周りの人間は納得しなかった。まるで兄の彼の就職活動のときのように、そこでは有象無象らによって様々な物語が練られていた。四方八方から飛び交う男たちの怒号によってそれらは縫い合わせられ、互いに絡み合い、やはり結果としては歪な、空っぽの銅像めいたものが形作られようとしていた。一度委員会で頓挫した案件に関して将来再び予算を組むことは、さすがの彼にとっても現実的ではなかった、この最終回の委員会で決着しなければ夢は潰えたのも同然だった。彼は座りながら、怒りからではなく、焦りと恐怖によってその体が震え出したが、周りの人間は彼の弟も含めてそのことに気付いていなかった。この委員会において初めて議論の均衡を崩した、あの太った男が、まるで意中の女に催眠術をかけているかのような声を使って、マイク越しに語っていた。
「――そもそもの問題は我々が未だ、人間の何たるかを明確に定めることが出来ていないということにあると思うのだが。そこを定める以前に、人間としての自然な形に対してある種の決定的な、生物的な変容を人工的に施すというのは、道徳的な問題意識の放棄であると同時に――」
「もういい!」
彼は唐突に叫んだ。銃声のような音を響かせながら机を両手で叩き、立ち上がった。コの字に並ぶ男達は弟も含め全員が、不意に浜辺に打ち上げられてしまった大イカのような表情をしながら両目をぱちくりとし、驚いて彼を見上げた。
「兄さん――」
弟が恐る恐るというふうに聞いた。
「兄さん、どうしたんだい?」
「もういい」と兄は、ぶるぶると体を震わせたまま言い放った。例の銅像をはっきりと目の前にしながら、こう続けた。
「そこまで言うのなら、まず俺が、俺自身の子供を実験台として差し出してやる。それなら文句は無いだろう!」
彼は三年前に結婚していた、そしてこの委員会のとき、彼の妻は初めて出産する子供をその腹に身籠っていた。彼女と出会ったのは、彼が官僚になって魂を削られ始めてから二年ほどたった頃の、ある日曜日の昼間だった。休日だったが、彼はなぜかスーツを着て、陽の注ぐ明るい大通りを、度重なる不運に打ちのめされたような表情をしながら歩いていた。右手に大型書店が見えた。通りを様々な方向へ行き交う人々の何人かが、そこへ吸い込まれるようにして入っていくのを見た。入っていく人々の中に、背の高いわけではないか、しかし体全体がすらっとした、彼と同じ様にスーツを着た若い女がいた。彼もまた吸い込まれるようにしてその書店へ足を踏み込んだ。中は不自然に混みあっていた、誰か珍しい芸能人でも来ているせいで野次馬が集まっているかのような雰囲気だったが、当たらずとも遠からずだった。どうやら店の奥にスペースが作られていて、そこで二人の現役の小説家が公開対談をしているようだった。二人とも知る人ぞ知る、名のある小説家らしかったが、しかし彼はどちらも知らなかった。並べられたパイプ椅子の席は全て埋まっていた。彼は立ちながら、グレーの髪色をしたおそらく四十代ほどの男の小説家と、眼鏡をかけた禿げ頭の若い男の小説家がハンドマイクを持ちながら、つぶやくようにぼそぼそと話し合うのを見ているふりをした。実際は僅かに視線を動かしながら、さっき見たスーツの女がどこかにいないかと探していた。思い切って首をあからさまに動かしてみると遂に見つけた、スーツの彼女も立ち見をしていた。やはり背が高いわけではなかったが、身体は締まっていて、背筋は真っすぐに伸びていて姿勢が美しく、どうも実際よりも長身に見えた。真黒いスカートからすらりと伸びる、薄い色のストッキングに包まれた両のふくらはぎは、整然とした様子で左右対称に並んでいた。
彼はその日、結局最後まで小説家二人の対談を聞いたが、スーツの彼女には一言も声を掛けることもなくそのまま書店を出ていってしまった。翌週、彼は再び書店を訪れた。文科省の仕事に就いてから小説を書かなくなってしまったのと同じように、彼はまた小説を読むこともしなくなっていた。何か本を買おうと思って来たわけではなかった。ここに来たのは他でもない、自分でも馬鹿らしいと思ったが、もしかしたら再びあの美しいスーツの女を見かけることが出来るかもしれないという希望を、自らの胸の内から捨てきれなかったというのがその理由だった。大して期待はしていなかったが、しかし彼女はいた。日本の文芸書が並ぶ棚を見つめて、先週と同じようなスーツを着て、やはり美しい姿勢を保ったままそこにすっと立っていた。棚に並ぶ本を見つめる彼女の視線は真剣そのものだった。とても話しかけられる雰囲気などではなかったが、そもそも他の人の話し声など全く聞こえてこないような昼間の穏やかな書店の中で、男が見知らぬ女に話しかけるなど到底無謀なはずだったが、それでも彼はやってしまった。その声は彼にとって、実際以上に店内に広く響いたように感じられた。
「その本は、面白そうですか?」
彼女は真面目な表情のまま彼の方を振り向いた。もしかしたら女子大生かもしれないなどと考えていたが、しかし近くでその顔を見てみると、彼女もそこまで若いというわけではないことに気が付いた、おそらく自分と同年代ぐらいだろうな、と彼は思った。瞬き一つせず彼の方をじっと見つめて、口元の筋肉だけを最低限に作用させ、その表情を顔に固めたまま彼女は返した。
「自分で読んで、確かめてみればいいんじゃない?」
表情と同じ、真っ直ぐに彼へと突き刺さるような声だった。さっきに話しかけた彼の声は、他の誰もしゃべらない店内にぼやぼやと横に広がりながら波打っていった感じがあったが、対して彼女の声は空間を真っ直ぐに突っ切って、周囲には鮮やかな衝撃の余韻を残しながら、彼のいるところまで直接はっきりと響いているようだった。彼は一瞬にして負けを認めた。あっさりと心の内を白状することにした。「実は――」と口を開き、それから小さなため息を一つ挟み、言った。
「もうしばらく、本は読んでいないんです」
彼女は眉を僅かに釣り上げた。「意外ね」
「何が意外なんです?」
彼女の眉の動きを目にしたことを受けて、自分の胸から腹にかけての臓器がざわつくのを感じながら、彼は聞いた。彼の質問を聞いた彼女が笑い、彼の内臓はますますざわついた。「まだ分からないの?」と彼女が笑いながら言った。
「何で――何が可笑しいんだ」
私よ、彼女が言った。「小学校の卒業式以来ね――もうさすがに、あのおかしな勉強は止めたみたいね」
そう言われても、彼はしばらく彼女が何を言っているのか理解できなかった。「小学校の卒業式以来」、「おかしな勉強」という言葉について十秒間ほどじっくりと考えながら、頭の奥にある記憶を掘り起こしているうちに、なんとか雲を掴んだような感覚を得た。「もしかして、君か?」と疑わしげに口を開いた。そうよ、と彼女は笑ったまま言った。
「久しぶりね」
彼はまだ半信半疑だったが、どうやら彼女は、小学生の頃にしつこく彼に構っていたあのクラスメイトの少女、彼女の言う「おかしな勉強」、つまり人間に光合成を出来るようにするための研究を将来行うための基礎的な勉強を止めさせ、どうにかして彼をクラスの輪の中へ引きこもうとした、あのかつての少女らしかった。大人になった彼女の顔を見ても、彼はかつての少女の顔をまったく思い出せなかったために、昔の彼女の面影を見出すことも出来なかった。やはり彼は素直に信じ切ることが出来なかった。人間の顏というのは、子どもから大人になるまでに少なからず全体的にも部分的にも形が変わり得るはずだ、小学校の卒業以来、一度も顔を合わせていないのに、彼女はこちらの顔を一目見て、「ああ、あの彼だ」と分かったとでもいうのか?――しかし、現状を見る限りではそうとしか考えられなかった。整合性のある事実らしきものを割り切って受け入れる他なかった。ただそうだとしても――彼女の方がどう感じていたかは分からなかったが、やはり彼からしてみれば、たとえお互いの幼い頃の情報を共有していたとしても、彼女とはあの書店で初めて出会ったような気がしてならなかった。お互いの二十年以上前の過去のこととは無関係に、どうも彼は彼女のことを、「どういうわけかあの書店において目を引かれた女性」としてしか捉えられなかったのだ。
書店で出会ってから――再会してから二週間後には、彼は何とか彼女と二人きりで書店以外の場所で待ち合わせをして、予め目的も決めずに、一緒に外を歩けるようになるところまでこぎ着けた。初めて書店の外で待ち合わせをしたときには、彼も彼女も、もうさすがにスーツは着ていなかった。そのときの彼女の私服は、スーツのときの雰囲気とは打って変わって、僅かな空気の流れにもふわりと揺れるような、ゆったりとした白のトップスに、腰の辺りから柔らかく広がり、くるぶしの所まで長さのある、淡いピンクのロングスカートという出で立ちだった。スーツの時には腰にぴったりと張り付いて体の細いラインがはっきりと分かるようなスカートをはいていて、それが一層彼女の背筋をまっすぐに見せるようだったが、しかしゆったりとした私服になったところで彼女の姿勢の正しさは変わらないようだった。
彼女との交際の中で彼は、結婚を最終目標として据え、そこに至るまでの期間をしっかりと計算していた。驚くべきことだが、どうやら彼女の方でも同様の計算をしていたらしかった。ある休日の穏やかな昼間、温かい日の降り注ぐひと気のないカフェにおいて昼食を済ませた直後に、彼がふと、「俺たちの結婚には、おそらくあと六千五百二十三時間ほどの時が必要だと思うな」と言い出した。すると彼女は、啜っていたコーヒーのカップをテーブルの上に置いて静かに、「私の計算だと、それより千四百六十四時間ほど短いけど」と返したのだ。
細かな計算違いはともかく、これ以上ないほどに理想と近しい事象が起こっていることには違いなかった。彼は、意図せず自分が舞台裏から彼女の思考や行動をマリオネットのように糸で操ってしまっているのではないかとも思われて、言いようのない奇妙な感覚を覚えた。しかし、もしかしたらそれは全くの逆なのかもしれなかった。彼女の方が彼を思い通りに操っていたとしても、少しも不思議ではなかったのだ。もちろん、二体のマリオネットが互いに糸で繋がれているということも考えられた。書店における出会いから一年が経った頃には、所定の手続きを済ませ、彼と彼女は結婚していた。
彼があの委員会で、「俺の子供を実験台として差し出してやる」と宣言したその三日後、彼は大病院の産婦人科の、妻の横になっているベッドの脇にある小さな丸椅子に座っていた。彼女の腹は既にぼっこりと大きくなっていた。さすがに、「子供を実験台にすることにした」などとは言えなかった彼は、理由を明かさないまま、「病院を移ろう」と言った。上体を起こしながらそれを聞いた彼女は、初めて彼に書店で話しかけられたあの時と同じような、真面目な、他人に対するような表情をしながら真っ直ぐに彼を見つめた。「どうして?」と彼女は聞いた。その質問に直接答えることはせず、代わりに彼は、自分の提案する移り先の病院がどんなに素晴らしい所かを必死になって売り込んだ。しかし、彼女は途中で目を逸らし、窓の外を見つめだした。転院について反論するどころか、ろくに耳を傾けもしなかった。「ふぅん、そう」と返事を繰り返すだけだった。実は、仕事の同僚から特別な病院の紹介を受けたんだ、そっちの方がベッドも周りの環境も上等だし、何より命を救うための設備に関しては、この国で一番に優れているっていうんだ、ふぅん、そう。その病院では、子宮の中にいる、まだ生まれてもいない赤ん坊から、一度は棺桶に入ってしまった百二十歳の老婆に至るまで、誰も彼もが命の危機から救われてきたんだ、ふぅん、そう。その病院がある街では、未だに死人が出ていないほどだってさ、ふぅん、そう。
彼女の見つめ続ける窓の外では、全ての葉を失った、茶色い枝を広げた背の高い銀杏の木々が、向かい合う別の病棟へと続く中庭の道に沿って、僅かな雪に濡れながら立ち並んでいた。景色は水を含んだ雪のせいで白色というよりも灰色じみていた、中庭のベンチには、赤いコートを着込んだ老婆が座っていて、その周りにも厚着をした病院の患者らしき人々が集まっているのが遠くに見えた。右足に重そうな包帯を巻き、車いすに座る、緑色のセーターを着た中年女、茶色い厚手のコートの上からも体がひょろひょろと痩せているのが分かる眼鏡の少年、沈んだ目をした初老の男などが集まっていた。自分の怪我や病気の具合について、寒空の下、淡々と教え合っているように思われた。
病院は今の時代、どこも人手不足だけどね、その病院には医者が三千三百二十五人、看護師が四千人もいるんだってさ、ふぅん、そう。その病院にある医療機器、医療器具は最先端のものでね、素人の操作でも瀕死の人間の命を救えてしまうほどの技術らしいよ、ふぅん、そう。実際にデモンストレーションとして、まだ医者になりたいとも思っていなかった、小学校すらも卒業していなかった当時八歳の幼い少年がその病院の機器を使って、老人の直腸癌を治してしまったらしいよ、ふぅん、そう――永遠にそんな感じのやり取りが続くと思われた、それでもここで引き下がるわけにはいかなかった。本心からの言葉に違いないが、しかし傍から聞けば決してそうとは思えないような、ほとんど投げやりな口調で彼は言い放った。
「結局は、全て生まれてくる新しい命のためだよ」
その台詞は唯一、彼女の思考の元まで届いたようだった。ようやくゆっくりと彼の方を向いた。疑るような視線で彼の顏を覗き込んだ。彼は、怪しまれないためにも彼女の視線を真正面から受け止めなければならなかった。我が子に光合成のできる能力を与えることは我が子のためにもなるに違いない、という自らの胸の奥底の主張を支えにして、彼女の視線にじっと耐えた。たっぷり三分間ほど彼の顏を見つめた後、どうやら嘘はついていないらしいと判断したのか、しかしまだどこか不思議がっているような表情ではあったが、彼女はようやく彼の顏から目を逸らし、「まぁ、最高級の環境は魅力的だけど――」と言った。起こしていた上体をベッドに倒し、再び窓の外を見つめだした。大きいお腹に右手を添え、左手でゆっくりとさすりながら、彼女は言った。
「でも、ここの病院も悪くないし――もう転院は非現実的ね」
彼はそれを聞いてうなだれたが、どうにか頷きに見せかけた。彼女の同意は得られなかったが、今更引き下がるわけにはいかない、ここは勝負に出るしかないという他にどうしようもない事実に対して、思わず首筋の筋肉が弛緩し、うなだれるのを抑えきれなかったのだ。
その日、彼は夜から仕事場に戻った。あちこちの戸棚から資料をかき集め、雑然とした自分の机の上に積み上げた。地下階の薄暗い、埃っぽい資料室から持ち出した赤い表紙の分厚い書籍、誰も見ない棚の奥に見つけた、きつい黴の臭いを発する五十年ほど前の行政関係資料をとじた真黒いファイル、今は訳あって地方にいる上司の部屋の戸棚から無断で持ち出した冊子、誰かがその上にコーヒーをこぼしたに違いないシミのついている古い書類、回し読みされ尽くした極秘書類などを積み上げた。それから机にかじりつくようにして、命が危ぶまれるほどの凄まじい集中力を発揮し、わずか三時間で二十五ページにわたる緻密な指示書を作成した。作戦は三日後の深夜に実行された。蒸し暑い夜だった。病院の正面出入り口付近には明かりもなく、ほとんど真っ暗闇だったが、ある種の墓石じみた白い壁を持つ巨大な病棟だけは、幻のようにうっすらと浮かび上がっていた。正面出入口付近のロータリーには怪しげなグレーの大型バンが停車していた。その車内にぎゅうぎゅう詰めになって待機していた特殊部隊員たち、自動小銃一丁、拳銃一丁、バタフライナイフ一本、分厚い防弾チョッキに、暗闇の中のノミすら見逃さない暗視ゴーグルなど、完全重装備の部隊員総勢十三名は、日付変更と同時に一斉にバンを飛び降りた。隊員たちは皆吸い込まれるように、次々と病院内へ侵入した。全体でムカデを思わせるような隊列を組み、まさにそれらしい素早さで一階のロビーを音もなく駆け抜けた。ナースステーションにだけは明かりが点いていた、夜勤の看護師が三人ほどいたが、彼ら彼女らは事前に連絡を受けていた。何にも気付いていないふりをしながら、全員が真剣な表情で日誌のページを手繰っていた。隊列は階段を駆け上がっていき、長い廊下を駆け抜けていった、彼の妻のいる病室の扉の前で一旦止まった。暗闇の中で隊長風の無精ひげを生やした無表情の男が扉にそっと右耳を当て、目を瞑り、中の様子を確認した。目を開け、後ろにいる部下たちに合図を送ると、ゆっくりと、しかも信じられないほどにほんの僅かだけ扉を開けた。その狭い隙間に向かって隊員たちはするすると自らの体を滑り込ませていった。月明かりが窓から僅かに差し込むだけの暗い部屋の中、眠れる森の美女を取り囲む小人たちを思わせる形で、隊員たちは、ぽっこりとしたお腹をしずしずと上下させながらぐっすりと眠り込む彼の妻のベッドを取り囲んだ、どこからともなく粗末な担架を取り出すと、隊員の一人が彼の妻をさっと抱き上げ、その担架に載せた。二人の隊員で担架を持ち上げ、残りは護衛として厳重に周囲を囲いながら、彼らは病室を後にした。彼らの動きには一切の音がなかった、重さすら感じさせなかった。もし誰かがこの様子を見たとしたら、その担架には幽霊が載せられているのだと思ったに違いない。部隊はするすると滑るように階段を駆け下り、一階のロビーを突っ切った。看護師たちは未だ日誌のページを手繰るのに没頭していた。外に脱出した部隊は、ロータリーに停車していたバンに担架ごと吸い込まれるようにして収まった。ドアが閉まると、やはり音もなくバンは発車した。バンが発車したのは午前零時七分二十二秒のことだった。
翌朝、夜に寝付いたときのままの姿勢で目覚めた彼の妻は、朝日の光と共に見知らぬ天井が目に入って、すっかり驚いてしまった。慌てて辺りを見回した。合成樹脂系のてらてらと光る灰色の床、昨晩までの病室とは比べものにならないほどに広々とした空間、天井の四隅にくっついている、テントウムシじみた監視カメラ、外が明るいことしか分からない大きな曇りガラス、何よりも時間の経過を物語っているような黄ばんだカーテンなどを見た。覚えのない大部屋のど真ん中に置いてある唯一のベッドに、彼女はいた。身重の体で瞬間移動をしてしまったのか、それとも何かとんでもない事件に巻き込まれてしまったのかと考えて、危うくパニックを引き起こしそうになったが、あまりの慌てようで見逃していた、ベッドの脇にいる夫に気が付いた瞬間、彼女は全てを察した。夫はベッド脇の丸椅子に腰かけて、自らの手にした結果の大きさ、またはそれに対する妻のこれからの反応に怖気づいたかのような表情を浮かべながら、おずおずと妻の顔を覗き込んでいた。夫のしでかしたことを思うと妻はこれ以上ないほどに呆れたが、しかし同時に、その手際の良さについては舌を巻かずにはいられなかった、お腹や腰などのあちこちに手を当てて、自分の体に何一つ異常が無いことを確認すると、一つ深いため息をつき、「まったく気付かなかったわ――」と言った。
「雲の中に浮かんでいる夢を見ていたほどよ」
「あながち夢とも言い切れない、かもな」と彼は遠慮がちに言った。
「実際、雲に運ばれたようなものだから」
彼の妻が改めて入院した病院は、しかし決して彼の売り込んでいたような特別な病院には見えなかった。それどころか、看護師の対応に関しては前の病院の方が愛想がよかったほどだった。大部屋の病室の真ん中にぽつねんと一人きりに寝かされて、強いて前の病院よりも特別な感じのする点を挙げるとすれば、「最先端の英知を結晶化したような栄養剤」と称して、何やら鮮やかな緑色の、得体の知れないソースのような点滴を毎日右腕に打たれ続けたことぐらいだった。その緑色のソースが他でもない、彼の弟が発明した、「人間にも光合成を出来るようにする」ための薬だった。その薬には、成体の人間が摂取しても何ら効果を得ることは出来ないという技術的な課題が残っていたが、つまりはそれを母体に投与することで、生まれてくる子供にその効果が出ることが期待されていたわけだった。しかし病院から義姉のカルテを初めて受け取ったとき弟は、可能性としては充分に考えられたことだったが、しかし優秀な弟としては珍しく、事前に考慮すべきだった可能性を一つ見落としていた、弟は思わず声を上げて驚いた。
「おい、子供は双子だったのか!」
子を孕んでいる当人の彼女は、胎にいる子供たちに自分の負の感情が伝わってはいけないからと、何事にも常に不敵に構えるようにしていた、それは夫の前であっても例外ではなかった。しかしやはり本心としては、初めての出産が双子であるということを除いても、ここ数日はどうしようもなく捉えどころのない不安が胸の内を巣食うような毎日だった。得体の知れない緑色のソースのような点滴も不審に感じてはいたが、そもそも彼女は、時折自分の様子を白衣姿で見に来る義弟、常人の雰囲気からはあからさまに外れたそれを醸し出し、決して自分の心の内は明かさないような、何かを企むような笑顔を浮かべて病室に入ってくる義弟のことがどうしても気に入らなかった。
「あなたの弟は、別に医者ではないのでしょう?」と彼女は夫に聞いた。
「医者でないのなら、どうして彼は白衣を着て、毎日この病室の前をうろうろしたり、看護師に向かって偉そうに指示を出したりしているのよ」
強い口調で何を聞かれても彼は、「あいつは天才なんだ」とか、「あいつは実は、医学にも詳しいんだ」などと自信なさげに誤魔化すことしかできなかった。しかし彼女は、そんな夫の様子を見ていっそう不安になるわけでもなかった。むしろ、こんな時は男など頼りにならない、結局この子たちを産むのは私自身なのだからと、目の前のおろおろしているばかりの夫をすっかりと見限って、ほとばしる怒りに似たような力が、体の奥の方からふつふつと湧き上がってくるほどだった。妊娠後期らしく食欲も増したせいか、出されたものはもりもりと食べ、これが今の自分にとって最も重要な仕事だという信念をもって、夜はぐっすりと眠った。凄まじい逞しさで経過を過ごしていく妊婦に気を圧されながら、一方で彼と彼の弟は、相変わらず胸の内の不安を拭えてはいなかった。弟は、義姉のカルテを見る前までは自信満々ですらあったが、しかし子供が双子だと知ったときから、自分の仕事場に兄と一緒に籠っては、小声でぼそぼそと相談を重ねるようになっていた。弟によれば、そもそも「人間も光合成を出来るようにする」ためのあの薬は、生まれてくる子供が一人である場合を前提として作られたもので、生まれてくる子供が双子の場合は、それがどのような効果をもたらすのかは一切わからない、ということだった。
「単純に、点滴の量を二人分にすればいいんじゃないのか?」と兄は言った。
「そうすれば、双子の両方にあの薬の効果が表れるんじゃないのか?」
しかし弟は頭を横に振った。
「そう単純な話じゃないんだ。もちろん可能性としては、二人分の点滴で双子の両方に望んだ効果が表れることも充分あり得る――ただし、これは賭けだよ。場合によっては、緑色の肌をした、人外の化け物が生まれてくる可能性だってある」
わかった、と兄は震えながらもゆっくりと頷いた。委員会で、「自分の子供を実験台にする」と宣言したときや、書店で初めて将来の妻に声を掛けたときもそうだったが、彼にはこういう時に限って、どうしようもない蛮勇を発揮する癖があった。自らが選択した道はどこまでも突き進まなければならない、それが筋のはずだと考えるほどの生来の純粋さが、いつもここぞという一瞬で彼の口をほとんど衝動的に動かしていたのかもしれなかった。兄は身体を震わしたまま、顔も真っ青になっていたが、弟にはっきりと意思を伝えた。
「賭けに乗ろう――二人分の投薬をしてくれ」
それからさらに一ヶ月たった頃、彼の妻は双子を生んだ。結果として、やはり賭けは失敗だった。双子のうちの片方、兄の方は光合成などしない、通常の人間としての赤ん坊の男の子だったが、もう片方、弟の方は違った。彼女の産道から二人目の赤ん坊の頭のてっぺんがのぞいたとき、それを真正面から見ていた助産師は顔面を蒼白にして、目を見開いた。そして怯えた調子で叫んだ。
「人間じゃないわ、これは!」
顕わになった赤ん坊の頭は透明の粘液にてらてらと濡れ、緑色の肌をしていた。二人目の赤ん坊が産道から完全に捩じり出てくるのに、そこからさらに二時間と十六分ほどもかかった。人間というよりも、まるで小さな緑色のエイリアンのようだった。そのエイリアンを自分の産道からひり出すために彼女が悲痛な叫び声を上げると、まずはエイリアンの頭が、粘液に滑って「ぬるり」と顕わになった。それからゆっくりと回転しながら――周囲の助産師はこの世のものとは思えない恐怖に顔を引き攣らせていたが、そんなことはお構いなしに――緑色の爬虫類じみた赤ん坊が、ぬるりぬるりとその全身を顕わにしていった。全てが終わったとき、面々は呆然とそれを見つめていた。その場の全員が一人目の存在をしばらく忘れていた。緑色の赤ん坊は後頭部が異様に伸びていて、目も耳も鼻もなかった。口はあったが、その縁にはすでに細かい牙のような歯がびっしりと生えそろっていた。全身の皮膚は硬く蜥蜴のような質感で、母のものではない、ぬめぬめとした透明の粘液に体を包まれた生き物だった。自分の胎から出てきた小さなエイリアンの、てらてらと気味悪く光る緑色の肌を確認したとき、彼女は、二人の子を産道からひり出したときの肉体的な疲労によるものか、それとも信じ難い現状にそくしたもっと感情的な何かによるものか、小川のような涙の跡を真っ青な頬に残しながら、出産に立ち会っていた夫をひたと睨み、強い憎しみのこもった口調で言った。
「あの、緑色の点滴のせいね」
彼はただ打ちしおれるしかなかった。妻には何をどう弁解しても無駄だと諦めていた。彼の弟が苦々しい表情で説明したことは、この結果は、誰もがそれを見て直感した通り、例の薬の二人分の効果が双子の片割れに集中してしまったのがその原因だろうということだった。そのために片方、兄の方は全く通常の男の子だったが、もう片方、弟の方は薬を規定量以上に摂取してしまった、ある種の化け物になってしまったのだ、ということだった。せめてもの救いは、二人とも母の膣から出たときにはちゃんとそれぞれの声で精一杯に泣きわめいて、どうやら両方とも心臓を持ち、それらはまともに動いている、ちゃんと生きているらしいということだった。しかし、それも見せかけの救いだった。生まれて初めて外の空気を吸ってから三時間ほどが経った頃、エイリアンの方の赤ん坊が突然、きゅうん、と短く唸り、その心臓を止めた。なりたての父親は絶望した。病室は混乱に陥った。不気味な生き物ではあったが、しかし希少価値は高いであろうその緑色の赤ん坊エイリアンを蘇生するために、数々の医者と看護師が慌ただしく部屋を出入りし、聞き取り難い怒号と、銀色に輝く様々な医療器具が空中を飛び交った。そんな中、何もせずに椅子に座って、じっと考え込んでいた天才の弟がようやく立ち上がり、大声で叫んだ。
「慌てるな!」
さっきまで飛び交っていたのとは違う、何らかの真理を捉えたかのような声の響きに病室の時は一瞬止まった。弟は続けた。
「双子を上手く融合してやれば、それで救えるかもしれない」
弟の言う「融合」を誰もが適切に解釈できたわけではなかった、しかし手術は緊急に行われた。医者ではないはずの弟も手術服を来て、手術室に立ち入った。銀色の台の上には水色のシートがテーブルクロスのように掛けられ、その上に小さな生き物が二つ、肌色をした人間の赤ん坊と、緑色の蜥蜴のようなエイリアンが並べられた。その様子はどこか中学校教育における、生物の実験じみた雰囲気があったが、実際、手術は一時間も経たないうちに終了した。父親としての彼は、新たに迫りくる残酷な現実にその身を震わせながら、手術を乗り越え無事に「融合」を果たした子供たちと面会した。小さなベッドに透明なケースを被せられ、その中で眠る、さらに小さな赤ん坊は一人しか存在していなかった、それは明らかに通常の人間としての、兄の方の赤ん坊だった。
「もう片方は――緑色の方はどこだ?」と彼は聞いた。天才の弟は、ここ数時間の劇的な展開にくたびれながらも、にっこりと笑いながら言った。
「手術は成功したんだよ、融合は成功した――今、あの赤ん坊の体の中には、もう一人の赤ん坊が生きているんだ」
現実の手術を経ても、やはりその意味を理解できた者は一人もいなかった、もしかしたらそれを言い出した張本人である弟自身すらも、正確に全てを理解できているわけではないのではないかと思われるほどだった。しかし実際に、たった一人になった赤ん坊の小さな胸に聴診器を当てた、経験豊富な初老の内科医はそのとき、赤ん坊の心臓の音を聞くどころか、自身の心臓が動きを止めてしまうほどに驚いた。初老の医者の耳には確かに、二人分の可愛らしい赤ん坊の鼓動が、それぞれが互いに微妙にタイミングをずらしながら、現実にはあり得ないような絶妙なハーモニーを奏でているのがその一つの小さな胸から聞こえたのだ。「確かに、この中で生きているんだ!」初老の医者は叫んだ。
「この赤ん坊の身体の中には確かに、もう一人の赤ん坊が生きている!」
いずれにしろ父親としての彼は、自分の子供がこの世に生を受けたその瞬間に、妻からの信頼を完全に失ってしまった。これはもう取り返しがつかなかった。産婦人科から退院し、元々は双子だったはずの一人息子をその胸に抱きかかえながら、久々に我が家へ帰って来たときも妻は、一切安堵の表情を見せなかった。夫のことを無表情のまま視界に含むと、「仕事へ行ったら?」と冷たく言った。
「悪いけど、この子には一切触れさせないから」
彼は黙って従うしかなかった。それも嫌々従うというのではなく、過去の自分の愚かな決断に対する当然の報いとして、それを受け入れるしかないとすっかり諦めていた。彼は自分の仕事場である庁舎に、ほとんど住み着くようになってしまった。仕事が終わっても家には滅多に帰らなかった。たまに帰っても、妻とは事務的な会話を二、三言するだけで、息子のことは自分の視界に入れることすら申し訳なかった。実際妻は、三人で食卓に着き、互いに向き合わなければならないような状況であったとしても、出来るだけ赤ん坊の息子が父親のことを視界に入れないように工夫し、また夫に対しても、自分の息子を視界に入れることはよっぽどのことがない限り許さなかった。最も愛するものになるはずだった家族を実質失い、彼は一生の全てを、巨大な何かにおけるただの歯車として生きることとなった。しかし、少なくとも表面上はそう振舞うほどの分別をわきまえていても、やはり心の奥底では、自分の息子との関わりについてそうあっさりと諦めることは出来なかった。息子が物心つき始める年頃になると彼は、妻に隠れて、こっそりと息子にプレゼントを手渡すようになっていた。食事を終えた後、妻が台所で食器の後片付けをしている隙をついて息子を居間から連れ出し、電気も点けずに暗い廊下でそっと、「母さんには内緒だよ」と寂しげに言いながら、少し上等な紙を使ったスケッチブックや、大きめのポケットにならちょうど隠れるサイズの、児童向けの絵本などをプレゼントした。流行りのおもちゃのような、あまり目立つものをプレゼントするわけにはいかなかった。せいぜい母方の親戚が知らないうちにプレゼントしてくれたものといってごまかせる程度のもので、一番派手なものでも、三十三色の色鉛筆セットだった。それらは必ずしも息子の好みのものではなかったが、しかしそういった影の交流を通して彼の息子は、両親が思っている以上に、母親に隠れて密かにプレゼントをくれるこの男のことをちゃんと自分の父親として認識していた。しかし同時に、自分がそうと認識している素振りを見せない方が、家族の平穏が保たれるということもまた、未だ物心がつくかつかないかの年頃ながら、驚くほどの賢さで察してもいたのだ。息子は父親からプレゼントを受け取ると、ただ黙ってこくりと頷き、それをそのままよちよちと自分の部屋へと持ち帰った。そして部屋の隅の方にあるおもちゃ箱の一番底の方に、大事そうにそれをしまった。そういうわけで、プレゼントを受け取っても息子は大して喜ぶ様子も見せなかったが、しかしそれもまた自分に背負わされた罰の一つなのだろうと受け入れつつ、やはり彼はその度に気を落とさずにはいられなかった。それでも彼は息子にプレゼントを渡し続けた。それが唯一の、家族との交流だったと言っても過言ではなかった。それ以外の生きる時間としては、彼はやはり、巨大な何かにおけるただの歯車の一つとして、淡々と役割を果たしていくのみだった。しかし、そういう熱のない生き方の方がここでは出世が出来るようだった。ある木曜日の夕方のことだった、彼の下についている一番若い部下が突然、興奮した様子で声を上げた。
「ちょっと、ネットニュースを見てみてくださいよ!」
今までに、その部下がそこまで浮足立った様子を見せることはそうそうなかった。だからと言って驚くわけでもなかったが、彼は言われた通りにネットニュースを見てみた。一目見てすぐに、その部下が何を言いたいのかが分かった。「光合成ですよ」と部下は興奮した面持ちで言った。どうやら全国に点々と、「自分は光合成が出来る」と主張する人間が現れているようだった。以前の彼であればまず驚きと興奮に飛び上がって、その主張内容の事実確認を他の全てより優先したはずだった。しかしこのときの彼は、もはや影のような存在だった。今や一室の長にまで昇進していたが、しかし昇進すればするほど、なぜか彼は、あらゆる場において自分という存在が希薄になっていくような感じがした。仕事における自身の力を完全に見限って、彼はやたらと増えた自分の部下が提出した書類に、ひたすら自分専用の判を押すことだけを繰り返していた。「光合成をする人間が現れた」と言われても、あらゆる情熱を失ったこのときの彼にとっては、大した感動もなかった。ふと思ったのは、光合成をする人間の発生はやはり、自分の弟の研究が関係しているのだろうか、ということだった。エイリアンの赤ん坊が生まれた一件以来、弟とは、あの小学生から大人になって再会するまでの長い間と同じように、また気が付いたら数年の間ですっかり疎遠になってしまっていた。このときの彼は、弟がどこで何をしているのか一切知らなかった。もしかしたら自分の知らないどこかで、未だ人間の植物化に関する研究を続けていたのかもしれない、そして、このインターネット上での報せとはつまり、ついにその夢が叶ったということなのかもしれない、と考えた。いずれにしろ、「人間の体に植物の特性を与える」、「人間も光合成が出来るようにする」などの夢は既に、彼の身体からは完全に別離したものとなっていた。遠い他人の思い描いていた夢に等しい、と言ってもよかった。このときの彼にとって、過去の自分とはそういう存在だった。彼の息子は、いつの間にか五歳になっていた。あの怪しげな緑色の薬を二人分も摂取してしまった、エイリアンのような双子の弟をその体に取り込んでしまった息子だったが、しかし息子は、すくすくと通常の子供のように成長しているようだった。一年ほど前にひどい水疱瘡には罹ったが、その他に大きい病気には罹らなかった。あの緑色の肌をしたエイリアンと「融合」を果たしたのだから、もしかしたらと思っていたが、しかしやはり、息子は光合成をするようにはならなかった。このことを決定的な終止符として、幼い頃の夢はもう完全に過去のものとなってしまっていた。
しかしその二か月後、まったく皮肉なことだったが、そうとも言っていられないような事件が起こってしまった。全国に点々と存在していた光合成をする人間らは、あるとき一つの街に結集した。自らを「既存の法律の枠を超えた新人類たち」と名乗り、愚かにも国からの独立を主張しだしたのだ。局所的なものではあったが、血なまぐさい戦争が始まった。事務次官からの直々の辞令により、以前より人間の植物化についての知見があったものとして、あろうことか彼がその戦闘における全権を担う、文民としての司令塔に任命されてしまったのだ。せっかく五十年以上も続いていた国の平和を自分の代で崩されて、時の首相は怒り狂っていた。
「自ら真っ当な人類ではないと主張するのなら、そんな奴らなど滅ぼしたって構わん!」
かつての子供の頃には純粋な、無邪気な心で夢として思い描いていたその存在自体を、大人となってから自らの仕事として滅ぼす羽目になってしまった、やはり彼は歯車として、与えられた役割を全うするしかなかった。
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