2024海の日によせて
ここは海だ。まぎれもなく海と呼ばれる場所だ。それ以外に形容する言葉が見つからない。
常に凪であっても、水平線の先に何があるのか知らなくても、永遠に満月の沈まない夜であっても、ここは間違いなく海だ。
ひとつ仕事が終わったので、欲しかったものを購入した。折り畳める椅子だ。手頃な値段のわりにしっかりした造りをしている。飲み物を置いておく場所がしっかり確保されている点が気に入った。今日はそれを砂浜に広げて、珈琲の入ったボトルをホルダーに差し込んで、朝からずっと座っている。
どこまでいっても漣。水平線は闇。天頂に縫い留められた円い月が、しらじらと水面に長い道を描く。
囁くような波音のほかは何も聞こえず、普段よりも脈がくっきりと感じられる。それをなんとなく数えるうちに眠たくなってきて、珈琲に手を伸ばした。蓋を捻るとまだ湯気が立つ。蒸し暑さとは無縁のこの海ではいつだって熱い珈琲が美味い。窓の補修も日報の記載も、溜まっている資料の受け入れ作業も放って、今日はなんだか海を見ていたい気分だった。
司書になるってことは、この海と一緒に生きるってことなんだよ。
先代がそう言ったのをふと思い出す。いつものように酒を呑んでいて、けれども今日のように行儀良く椅子に座ったりしなかった。砂のうえに足を投げ出し、靴を脱いで、まるで友人の家で時間を潰しているみたいに、いつまでもだらだらと、いつまでもそうしていたいと思っていたのに終わりはずっと早くやってきた。
この仕事を継いだことに後悔はない。辛い思いをすることはあっても、やらなければよかったとは思わない。
それでも、たった一人であることにときどき押し潰されそうになる。
あらゆる人々の、誇張ではなくこの世界に生きるあらゆる人々の生きた記録を守り続ける。そんな途方もない仕事を、たった一人で請け負うことが、ときどきたまらなく――
「さびしい」
口をついて出た感情が、言葉にしてしまったばかりにひどく重い。
啜った珈琲が、自分を誤魔化し切れなかったばかりに、やけに苦い。
寝不足気味でもないのに、目蓋がやけに熱い。
今日は海にいてよかった。
共感も慰めもくれない、ただ聞いていてくれるだけの、このおかしな海に。
足元に置いたランプが、ころん、と音を立てる。古めかしい真鍮の、良く磨いた硝子の火屋の、蝋燭でも灯芯でもない小さな三日月を詰めたランプが、いつまでも感傷に浸るなとでも言うように鳴る。うるさい、今日は休暇だ。祝日だ。休んだところで誰が叱るもんか。誰にも知られないということは、さぼったって誰にも叱られないということだ。ますます椅子に深く腰かけ、香ばしい熱い液体をもうひと口飲む。
白い砂にくっきりと司書の影が映る。
司書は何かへ挑むように、海の遠くを見つめている。
司書室にて 此瀬 朔真 @konosesakuma
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