第4話

 帝国立嵐乃森龍屋敷上位学校。

 これは嵐龍館学園が創立した当時の名前だ。太平洋戦争の始まる少し前のどこかで建てられた、特殊な学校法人。莫大な資産家が作ったと言われるこの学園は、当時から全寮制で隔離されており、特殊な能力を持つ者や、その可能性を秘めたものを選抜し、隔離すると同時に、その力で学園所蔵の本を守護させている。

 古くは魔法、超能力を扱い、現代では、『現実干渉型特殊超常精神能力』という分野を確立し、これを『現代魔法』と定義。非常にマイノリティなその該当者たちが、通常の人間として今後の社会生活を送るための指導や、その特殊能力の抹消を行っている。

 長年に渡る研究で明らかになった、この特殊能力の発現時期である十二歳前後から対象者を回収し、卒業して社会人になるころには、『知られざる力』の隠し方や悟られない方法、もしくは能力の削除を完了させて送りだす、という特別な教育機関なわけである。

 それが、この学園に入学した者全員が教えられる、学園の意味と自分たちのあり方である。

 深夜一時。誰もいない図書館で学園の資料を読み返す少女が一人。

 妃院透湖である。

 美兎を寮に送っていった後、透湖は自室に帰らず図書館に戻ってきた。一階の一般開放フロアまでの鍵なら、透湖は所持を許可されていて、いつでも自由に入ることが出来る。ちなみに、透湖の他に図書館の鍵を持っているのは、京介と清住だけであり、この二人は全フロアの鍵を持っている。

 別に緊急の調べものがあるわけではない。ただ、今回の案件、あの超テキトーとんでも隊長の口からとはいえ、『笠原鬨森』の名が出てきたのだ。それだけで透湖はのんきに眠ってなどいられない。

 透湖は小さくため息を吐いた。うつむくと同時に、美しい銀色の髪がいくらか顔を隠すように流れ落ちる。その髪を耳に掛けるように掻き揚げて、彼女は眉をひそめた。

 笠原鬨森。

 透湖より年は二つ上で、もと嵐龍館学園の生徒にして特別戦闘司書官隊長だった男。

 一年前のある日、突然図書館持ち出し厳禁図書十冊を持ってそのまま行方をくらましている。

 夏八木京介、戸村清住両名の友人であり、先輩であり、幼馴染だった男。

 そして――。

「いくら司書官隊には特別待遇が許されているとはいえ、さすがに遅すぎるぞ」

 冷静な声に、透湖はびくりとした。

 振り返らなくても、声で分かる。戸村清住だ。

「戸村先輩。すみません、ちょっと落ち着かなくて」

「鬨森の話だろう。仕方ないさ。僕だって、彼が動き出したと聞けば、神経質にもなる。この学園と図書館、それに司書官隊にとって『笠原鬨森』と言う男は、それだけ特別な存在だからな」

「鬨森は――、兄はいったい、何をしようとしているのでしょうか」

「彼の狙いは、正直わからない。彼は京介とよく似ていてね。特に、あの人を食ったような、飄々としていて、掴みどころのない性格は似ていたから、二人といた時は大変だったよ。次から次へと問題は起こすし、天真爛漫、傍若無人、向かうところ敵なし、って感じでさ。でも、楽しかったんだよ、二人といると」

 遠くを見つめて、清住は笑った。

 透湖の実兄にして妃院家の長男、妃院鬨森は禁書持ち出しの罪で家から絶縁され、破門された。この地では由緒ある名家の嫡男が、犯罪者ではいけないと家が判断した結論だ。それ以来、鬨森は母方の性『笠原』で呼ばれるようになっていた。

 透湖も宙を見つめた。鬨森、京介、清住と透湖は、皆それぞれ名家の生まれだったこともあり、幼馴染だった。立場上、普通のそれより堅苦しい関係ではあったが、四人はよく遊んでいたものだ。透湖は性別も違い、一番年下ということもあり、しばしば置いてけぼりを喰らうこともあって、幼い時はよく愚図ったものだ。

「懐かしいですね。小さい時は皆でよく遊んでいたのに。小等部の高学年あたりから、私は殆ど三人とは遊ばなくなっていましたから。嵐龍館に進学してからは、ほぼ全くですね」

「妃院家の令嬢が、中学生になってまで異性の幼馴染とおてんばやるわけにもいかんだろう」

 清住はメガネの奥で優しく目を細める。

「慰めるワケじゃないが、鬨森は何か理由があって、あんなことをしたに違いない。僕は今でもそう思っている。きっと、京のやつもそうだろう。この特殊な『嵐乃森』の地で禁書関係は何事に於いても重罪だが、それでも、僕たちにとっては幼馴染の鬨森だ。恐ろしく優秀で、なのにこの地の風習に囚われない、優しくて頼りになる男。君にとっても、そうだろう?」

「ええ。私にとっても鬨森は今でも兄です。でも、同時に怖いのです。もし、これが私たちの希望的観測でしかなかったら。兄が本当に、ただの犯罪者だったら。その時私たちは、立ち直れるのでしょうか? しっかりと向き合い、戦えるのでしょうか?」

 透湖は、声を震わせながら言った。

「もしそうなら、止めるのもきっと僕たちの役目だ。友人として、幼馴染として。それに事実上、鬨森と渡り合えるのは、この学園でも司書官隊である僕たちだけだ」

 清住の言葉に透湖は小さく頷いた。

「さあ、戻ろう。もう夜も遅いからね」

「はい」

 透湖と清住は、図書館の明かりを消し、ドアに鍵をかける。通常のセキュリティと、超能力によるセキュリティ。

「それじゃあ、お休み」

「はい。お休みなさい」

 女子寮と男子寮は、どちらも六階建の一つの棟ではあるが、三階から二つに分かれている。右が男子、左が女子だ。因みに一階は大浴場、二階はリラクゼーション等の共同スペース、地下一階に食堂がある。

 透湖は五階の階段から二つ目。502号室だ。

 嵐龍館の寮は、中等部の頃は二人で一室、高等部になると一人一室が当てられる。それぞれの校舎に隣接しているので、中等部と高等部の直接的な交流は少ない。

 自室に戻ると、そのままシャワーを浴びることにする。一部屋に一つ、浴室洗面とトイレがついているこの寮は、かなり贅沢な造りと言えるが、もともと豪邸に住んでいた透湖にしてみれば、そこそこ狭くて不便を感じることもあった。

 鏡の前で、銀色の髪を梳く。

 透湖の髪は能力が目覚めた十二歳の時に本来の黒い髪から突然銀色に変化したものだ。

 この地域では魔法能力の発現は珍しいことでもないので、とりわけどうということもなかったが、自慢の黒髪が一気に脱色したような色になったことは、透湖にとってかなりのショックな事件だった。しかし今となっては、この輝くような銀色が少し気に入ってもいるが。

『魔法』――現代に観測される、魔術的な何か。

 ただそこに当然のように存在し、いずれは消えていく頂上の力。

 理屈も理論も、完全なブラックボックスで、魔法に関する全てが、起こった事象への対処法でしかないのが現状だ。

 科学は未だに、魔法や魔術の仕組みを解明できそうにはない。

 透湖は髪の毛を乾かし終えると、時刻は三時を過ぎていた。

 そのままベッドに横になると、やっと睡魔が襲ってきた。

 明日は日曜日。学校は休みなので、起床を気にする必要はない。

 透湖はそっと目を瞑り、意識を閉じた。

 それから、四時間後のことだ。

 妙な勘が、透湖を目覚めさせた。

 ハッと、起き上がり、時間を確認。午前七時十五分。カーテンからはうっすらと太陽の光が射し込み、穏やかな朝に見える。

 が、正体不明の嫌な感覚を拭いきれない。その原因は、昨日聞いた笠原鬨森のせいなんかではない。そんな心因的なものではない何かが、透湖には感じ取れているのだ。

 彼女はすぐに着替え、顔を洗う。身だしなみを整えると、

『ピリリリリリリリッ!』

 突如透湖の携帯電話が鳴り響いた。

『やあ、おはよう透湖ちゃん』

 爽やかすぎる誠実そうな声。聞き覚えがありすぎるその声の主は、誠実とは真逆の立ち位置にいるとんでも人間、夏八木京介である。

「おはようございます、隊長。寝起きに隊長の声など聞くものではありませんね。なんというか、想像以上に不愉快です」

 いつものように挨拶がてらの悪態をつく。

『不愉快になっているところ悪いけど、今君は置かれている状況をどの程度理解している?』

 スっと冷静なトーンで、京介が聞く。こんな声をするときは、いたって真剣な状態ということだ。

「どういうことですか?」

『君は今、どこにいる?』

「自室ですが」

『そうか、よかった』

 京介の声がひどく真面目なものに変わる。

『絶対に部屋から出ないように』

「どういうことですか?」

『今この学園で大規模な魔術まじゅつひずみが発生しているんだよ』

「大規模な魔術歪、ですか? それはどのような……」

『まあ、それは後だ。で、避難勧告が全校放送で流れたんだけど、聞いてないよね?』

「え、ええ。警報も勧告も聞こえませんでした。というより寝ていたもので……」

『いや。寝ていてもわかる音量で流れたハズだよ』

 そこまで聞いて、透湖はふと気付く。それは可能性の一つに過ぎないが、この隊長の口ぶりから察するに、おそらく間違いないだろう、と透湖は思う。

「もしかして……。私は今、どこにいるんですか?」

 三秒ほど、沈黙があった。

『察しがいいね。さすがは俺の弟子だ』

「いつから私はあなたの弟子になったんですか」

『もう生まれた時からさ!』

 京介の楽しそうな声が聞こえる。

 きっと、電話の向こうでは、ぐっと親指を立てて爽やかに笑っていることだろう。

『って、冗談はこの辺で置いておいて。透湖ちゃん、君は今、結界の中にいる。そしてその結界は中からは破れないようになっているはずだ。もちろん、外からも容易には破れない。目的も全貌も不明……隔離以外の特別な力が働いている様子はなく、ざっと調べたところ、まるで君を一定時間閉じ込める為に作ったような、ただ隔離するだけの結界のように見えるんだ』

 結界? その中に自分だけを閉じ込めた? 何の為に。

 透湖は一瞬で思考を巡らせるが、答えには行き着かない。

「隊長、私はどうすれば?」

『何もしないことだ』

「なにもしない?」

『そう。その部屋にいる以上は、安全なはずだ。そうでなければ、君は眠っていられなかったはずだよ。つまり、その部屋の中は、現状では安全といえる』

「でも、このままという可能性も、低いでしょう?」

『そうだね。そもそも、透湖ちゃんだけを隔離した理由が分からない。まあ、心当たりがなくもないが、確証はない』

 何か遠まわしで、ハギレの悪い言い方だ。

「隊長、私に黙っている事があるなら、教えてください。情報を共有して頂かないと困ります」

『本来ならそうしたいところなんだけど、今回は特殊なケースだ。まぁ、でも安心したまえ。俺が必ず、君のことを助けてみせるから』

「あの、それがなんだか貸しなになるようで、いやなのですが……」

『なぁに、俺と君の間で「貸し」なんてやだなぁ…ただの「恩」だよ』

 だから、それがいやだといってるのですが……。

 と言い掛けて、またこれも埒の明かない話なので、やめておく。

 ともかく――、

 現状、透湖に出来ることはなさそうである。

「わかりました。状況が判明次第、随時連絡頂けますか?」

『もちろん』

 電話の向こうの京介は、いつもとかわらない。緩い声で答えた。

 透湖は電話を切ると、ベッドに腰掛け、溜め息を漏らした。

 昨日のこと、そしてそこから広がる不安、そして、その不安が的中したように、今の状況。

 これが兄、鬨森の仕業だという確証はない。

 しかし、こうも連続して、簡単にこの学園内で事件を起こすことの出来る人間がどれほどいるだろうか。

 嵐龍館学園のセキュリティはかない高い。

 物理的にも魔術的にも非常に高レベルな防衛網が張られていて、それゆえの全寮制でありが内外問わず、入出の際にもかなり厳しい検査や申請が必要となる。

 ある種の完璧とも言える防御網を突破するとなると、挑戦する時点でかなりの『AMS』能力者か、少なくとも一般警察以上の戦闘訓練を受けている必要があると思われる。

 コンコン

 ドアがノックされる音。

 その音に、透湖はビクり、と小さく飛び上がる。

 本来なら、特別驚くことではない。しかし、この状況においては、最大限の警戒をする必要がある。

 干渉……襲撃であろうか。

 否――今さっき、あの隊長から『何もしないこと』、そしてここにいれば安全であるといわれたばかりだ。

 京介は確かにいい加減で救いがたい男ではあるが、こと魔法がらみこと、そして図書館関係のことに関しては見当はずれの予測をしたことがない。

 ならば、救助? だとしたら早く過ぎる。

透湖もそれなりに、司書官隊員として経験を積んできた。召喚ミスの魔物や、魔法の残りカスパワーダストとの戦闘も一度や二度ではない。この状況とこのノックのタイミングが、決して京介を含む味方からのものではないことは、本能的に理解していた。

「どなた……ですか?」

 緊急事態の為、日常生活では禁じられているレベルの魔力量を身に纏いながら、透湖は答える。

 ガチャ

 ドアノブが下に下げられ、やがてゆっくりと内側へと扉が開かれる。

 鍵をかけておいたはずなのに、開錠した様子がない、などと考えが、一瞬頭によぎりつつも、透湖は攻撃魔法がいつでも放てる準備をしながら、ドアが開かれるのを待った。

 もちろん、開いたと同時に相手から攻撃されることも考えて、すぐさま回避行動ができるよう、重心の移動準備も怠らない。

 しかし――

 現れた人物の顔を認識すると同時に、透湖は思わず固まってしまった。

 魔法も体重移動もおざなりとなり、ただその人物を見つめていた。

「……どうして、あなたが」

 黒いフード付きのロングニットに、オーバーシルエットのカットソー。細身のパンツと全身黒づくめの服を着た、長身で短髪の美少年。

 透湖と同じく銀色の髪で、瞳は深い赤色に光っている。

「……兄さん」

 現れたのは、逃亡中の透湖の兄、笠原鬨森だった。

「本物ですか? それとも……」

 透湖は我に返り、手をかざし直して攻撃魔法の準備をしながら、そう問いかける。

 警戒心と共に、臨戦態勢をとる透湖に対して、鬨森は一向に、まったく構える気配すらなかった。

「久しぶりだな。透湖。元気そうで良かった」

「本当に、兄さんなのですね。感じ取れる魔力量、魔力の質、気配……どれも、確かに兄さんのものです」

「ああ、そうだ。僕は本物だ」

「兄さん、どうしてあんなことをなさったのですか? 禁書を強奪して逃亡なんて、何のために……」

「悪いが、その辺の話をしてる時間はない。おそらくだが、お前とこうして静かに話していられる時間は、十分とないだろう。君の危機的状況を、は見過ごさないから……。もっとも、今の『危機的状況』という言葉は、相手が僕でなく、透湖に害をなす存在だった場合、という意味だよ」

「兄さん、戻ってきてください。このままでは、兄さんは歳を重ねて『魔法』を失ったとしても、罪人として追われ続けます。何か、理由があったのなら、私が聞きます。それに、戸村先輩だって、隊長だって、力になります」

「……僕たちが発現する、魔法……かつては世界中に当たり前のように存在していた魔力と魔法。それがどうして、今の形になったのか。今僕たちに発現する魔法とはなんなのか。僕たちのこの期間限定の出来損ないの超能力のようなものと、過去の数百年にわたって世界を支配した魔法とは、どれほど共通点があるのか。そして、お前たちはもちろん、この学園の司書官隊が守る禁書、魔導書とはなんなのか。僕も、お前たちも、何も聞かされていない。妙だと思わないか?」

「どういうことですか? 兄さんは、何を言おうとしてるのですか?」

「そうだな……そうだ。気づかないし、気づけないんだ。この全寮制の嵐龍館学園は、巨大な装置であり結界だからな。日常では考えもしない『魔法』なんてものが発現し、その変化に戸惑っている子供が、それを全面的に支援してくれる居心地も設備も最高な学校法人に、疑いなんて持てるわけがない。だから、騙される。冷静に考えれば、魔法についての曖昧な説明や、学園内で起こる魔術、魔力を原因とするトラブルへの言及。そして最大の秘密である禁書庫に封印されている世界有数の、危険な魔導書、禁書についての情報の開示。……どれも怪しすぎるほど怪しいのに、一般生徒はもちろん、特別な役職についてる生徒会や保安局、そして司書官隊員のお前たちですら、そこには疑問を抱かない。なぜだかわかるか?」

 つらつらと、隙間を詰めるように話す鬨森の言葉に、透湖はなんの反論も、相槌も打てぬまま、ただ聞いていることしかできない。

「暗示がかけられているからさ。この学園に入学した時、そして、この学園内の施設のあらゆるところに仕掛けられている装置。それは認識阻害や、思考停止の術式が組み込まれていてね。この学園にとって都合の悪いことをそもそも考えさせなくする魔法がかけられてる」

「そんな……認識をすり替えるなんて、魔法の中でも高難易度で、かつ個人差がもっとも出てしまう為、実用的ではないはずです。仮に、個人的なユニークスキルとしてそれを持っていたとしても、この規模で使い続けるなんて……」

 そこまで言って、透湖は次の疑問が浮かぶ。

「……でも、兄さんのいうことが本当だとして、どうして兄さんはそれに気づいたのですか?

「ユニークスキルだよ、透湖」

 鬨森はそう言ってほほ笑んだ。

 ユニークスキル。高い魔法特性、魔力量を持つ『魔法発現者』に宿る、通常魔法とは別の、もう一つの『力』の呼び名だ。

 この学園で学ぶ魔法は、一定の魔力量さえあれば、訓練で誰でも使えるものがほとんどである。『追撃する光の棘ホーミング・レイ』や『解呪ディスエンチャント』なども、その範疇であるが、それらとは別に個々の精神と魂に宿る特殊能力は多種多様で、系統も効果も条件も、一般魔法のルールから逸脱していることが多い。

「……それって……」

「いいかい、透湖。疑うんだ。学園の教師や中枢につながる人間には、勘づかれないように、静かに疑い、そして真実を見ろ。僕はそこにたどりついた。いずれ、お前のことも迎えにくる。だからそれまで、息を潜め、気づかないふりをしながら、これ以上この学園に染まることなく待っているんだ」

 透湖は少しだけ目を伏せて、何かを言い返そうとした息を飲んだ時、ひび割れるような音が、そこかしこから聞こえた。

「……おっと、時間切れだ」

 鬨森は言うと、トンッと、大きく一歩、後ろに飛びのいた。

 必然的に、部屋のドアを背にするような形になる。

 ピシピシとひび割れる音がさらに大きくなり、その直後、透湖の部屋の空間が割れた。

 景色がガラスになって割れ砕けるように、壊れて剥がれ落ちる。そしてそこから、一人の少年が姿を現す。

「いやぁ~待たせたね、透湖ちゃん」

 妙に整った顔に、軽薄なにやけ面を張り付けて登場したのは、いうまでもない、夏八木京介だった。

隊長チーフ!」

 思わず透湖が叫ぶ。

「おやおや、寂しかったかい? 透湖ちゃん。心細かった?」

「……相変わらずに出鱈目なやつだ。この結界、かなりの時間練りこんだ特殊なものなのに……まぁ、君のスキルの前にはあっけないものだね」

 鬨森が、京介を見つめながらそう言った。

「……はぁ……案の定か。家出息子が、結界張って秘密の帰還とは、なかなか特殊な趣味だな、鬨森」

「京介、君は相変わらず、大切なものの為には手段を択ばない男だね。透湖が襲われているとでも思ったかい?」

「完全隔離の結界だが、その隔離性に特化させたため、微妙に魔力漏れがあるんだ。規格外の魔力を結界内に感知したからね。万が一を考えて、飛んできたって訳さ。だが、まさか本当に鬨森……お前が来てるとは、思わなかったよ」

「……さて、最低限のことは伝えたし、僕はこの辺で失礼するよ」

 言いながら、後ろ手にドアを開けて廊下へと出ようとする鬨森。

「逃がすかっての!」

 京介が、ものすごい速度でその後を追って同じく廊下へと出る。時間圧縮形の魔法を使い、疑似的に加速したのだ。

 追いかけた先の廊下では、鬨森は逃亡するのではなく、京介を待ち構えていた。

 いつの間にか手にはハードカアバ―のアンティークな本が開かけれた状態で握られていた。

「少し、豪勢な目くらましといこう」

「お前……その本は盗んだ禁書の一冊か?」

「ああ、そうさ。国が管理するほどの強力な魔導書の一つだ。この学園ではロストマジックだなんだっていうことにして、現代では使えないとされてるようだけど、それは真っ赤な嘘だ。一定量の魔力を注げば、十分に使えるよ」

「何を呼び出すつもりだ、鬨森」

「それは出てからのお楽しみ。ちゃんと本気で消さないと、君も透湖も、吹き飛ぶよ?」

 鬨森はそう言って、何やら素早く呪文を唱える。

 詠唱が完了すると、鬨森が手にしていた魔導書から、夥しい量の邪悪な気配があふれ出す。

「〝ウロボロス〟」

 鬨森がそう呟くと、魔導書のページからあふれ出ていた魔力が、形を成していく。それはすぐに長い体躯の蛇へと姿を変え、一直線に京介目掛けて、放たれる。

「『無限の大蛇』か」

 にやりと、軽薄な笑いから不敵な笑みを張り付けなおして、京介は呟いた。

 いつも通りの通常の制服のブレザーとその左腕につけられている司書官隊の腕章が、ウロボロスの圧力に激しくなびいていた。

スキル解放リパレート退魔の神眼ザラスシュトラ』」

 ゆっくりと目を閉じてから、開眼する京介。

 その瞳は、青紫をベースに虹色に輝き、奇妙なオーラを纏っている。

「隊長……!」

 ドアから顔を出した透湖が、思わず京介を呼ぶ。

 すでに京介に向かって突撃を開始してるウロボロスが、大口をあけて襲い掛かる。

「なんて質量の魔力。上位の召喚獣……いえ、すでに幻獣や神獣の領域の魔物ではないですか! 隊長、逃げてくだい」

 その圧倒的な魔力に、透湖の体は委縮して動けず、なんとか言葉で逃げるよう促すことしかできない。

「大丈夫だよ、透湖ちゃん。君たちの隊長はね、ちょっと、すごいから」

京介が言うと、ウロボロスを見つめるその瞳が光を放ち、次第に力場を形成していく。

それは京介の僅か一メートルほど手前にフィールドのような半透明な光の壁を作り、ウロボロスはそこに激突する形となった。

 魔力によるシールドのようなもの。透湖はそれを見てそう思ったが、実際は違っていた。

 壁にぶつかったウロボロスは、実に静かに、音もなく分解されていった。糸がほつれるように、水にふやけたビスケットが散り散りに溶けてなくなるように、黒い魔力の塊だった大蛇は、突撃の勢いも相まって、吸い込まれるように消えていったのだった。

「……今のは……なんですか?」

 ようやく部屋から出てきた透湖が、京介の傍らに歩み寄りながらそう尋ねる。

「あらゆる呪い、魔術を無効にするといわれたザラスシュトラ……ゾロアスターの吉眼。それが君のユニークスキルだったね、京介。まったく、A級魔導書の召喚獣をも無効化するとは、本当に厄介な力だよ」

 答えたのは、鬨森だった。

「知っててやったんだろ? それとも俺の力が禁書、魔導書に対しても有効かどうかの検証か?」

「さぁ? ともあれ、今の強大な魔力干渉で機器系はもちろん、魔力感知も一時的にバカになってるだろう? これで、追手を気にせず確実にお暇できるって訳さ」

 鬨森は、穏やかに笑ってそう言った。

「ここからどうやって逃げるつもりですか? 私と隊長相手に、それが可能だとでも?」

 透湖は鬨森に対して、手をかざして構えながら告げる。

「できるさ。僕と君たちの距離は三メートル弱。どんな魔法も……例え透湖、お前のスキルを使っても、発動から二秒じゃこの距離を縮められない」

 鬨森は言うと、本を抱え込み、もう片方の手で拳を軽く握る。

「『悪意ある助言パラダイス・ロスト』」

 そう呟いて、何もない空間に小さく打ち付けた。

 すると、拳を打ち付けた宙が砕けた。先ほど京介が結界を破って透湖の部屋に現れた時と同じように、景色そのものが砕けて穴ができたのだ。

「じゃあね、京介、透湖。いずれ僕は、この学園を……いいや、この学園を生んだこの町とその全てを破壊する。全てを白日の下にさらし、真実を明らかにする。その時、真の正義はどちらにあるだろうね? 重罪人として追われている僕か、それを定義づけている学園とこの町か。清澄にもよろしく言っておいてくれ。また、みんなで会うことになるよ」

 鬨森はそういうと、砕けた穴のひずみの中へと消えていく。

「兄さん……! 」

 その後を追おうとする透湖を、京介が抱き寄せるように止めた。

「ダメだ。俺たちが近づけば、『歪』に巻き込まれて、何が起こるかわからない」

「京介さん……」

 透湖は無意識に、幼い頃に呼んでいた呼び方で京介を呼んでいた。

 そうしている間に、鬨森が開けた亀裂は自然と修復していき、元の女子寮の廊下の景色へと戻っていった。

 緊張感から解放されたせいか、透湖がその場に崩れるように倒れそうになるのを、京介はそのまま抱き留めた。

「大丈夫かい? あれだけ強大な召喚獣を目の当たりにすれば、腰を抜かすのも無理はない。あの手の神獣は、存在するだけで俺たちを蝕むものだ」

 透湖は、力が抜ける膝をなんとか持ちこたえながら、京介にしがみつくように縋り、彼の顔を見つめた。

「京す……いえ、隊長チーフなら、兄を、鬨森を止められたではないですか? 先ほどの逃亡も、あなたのスキルがあれば、阻止できたのでは?」

 透湖の言葉に、京介はじっと、彼女の瞳を見た。

 縋りつく透湖の目は、幼い頃のものと、何も変わってはいないように思えた。純粋で清く正しく、脆く美しい瞳。京介が、そして鬨森が、大事に思い、守ろうとした瞳であった。

 京介は少しだけ、視線を反らした。

「できたかもしれないし、できなかったかもしれない。鬨森のユニークスキルはね、因果律を捻じ曲げるんだ。世界を計り、運命を謀る。それが『悪意ある助言パラダイス・ロスト』の能力だ。俺も、詳細まで知ってるわけじゃない。その『因果律』というものの定義も、どこまでのものかわからない。だが、不可能を可能にする能力であることは間違いない。でなければ、あいつ一人で禁書庫の最高難易度のセキュリティを、施設を破壊することなく突破して盗むことなんてできるわけがないからね」

 京介の言葉を聞いて、透湖は「すみません」と、一言謝った。

「鬨森は君に何かを言っていたか?」

「……ええ。学園を疑えと。システムや制度、この学園の在り方、魔法やそのルールなど、あらゆるものを鵜呑みにするな、と。そう、言っていました」

「……なるほどね。準備は、大方整ったという合図だね、それは」

 京介は支えていた力を抜き、代わりにポン、と透湖の肩に手を置いた。

 すでに透湖は持ち直し、自立していた。ゆっくりと、京介の腕を離れる。

「これから、戦争が始まる」

「私たちと、鬨森兄さんとのですか?」

「……それも、俺たちが判断しなくてはいけないんだ」

「え? それはどういうことですか?」

「誰と、何のために、どう戦うのか。あるいは、戦わないか。そこから見極めなくてはいけないんだよ」

 京介の言葉に、透湖は息を飲んだ。

 状況は、自分が考えている以上に、深刻で複雑で、もっともっと、大きな規模で進んでいるのかもしれない。透湖はそう思った。

「……透湖ちゃん。君の純粋な意見として、鬨森は犯罪者かい?」

「……さぁ、どうでしょうか。でも兄さんは、何の理由もなく悪事を働く人間ではありません。そもそもが悪に手を染める人ではない。むしろ正しいことを、正しいという、そういう人間です。例えプロセスは間違っていても、結果的に正義をなす。そういう人だと、思っています」

「いい意見だ。俺も概ね一緒だよ。だからこそ、俺たちの頭で、俺たちの心で判断しなくてはいけない。対立すべきか、あるいは―――」

 何が、見えているのだろうか、と透湖は思った。

 夏八木京介には、おそらく兄、笠原鬨森と同じか、少なくとも似た次元のものが見えている。そしてそれは、自分がまだ辿り着けない領域の『視点』、価値観であると、透湖にはわかっていた。

「いいかい、透湖ちゃん。今日のことは、他言無用だ。鬨森との接触も、禁書の発動も、何もかもね。君は突如発生した魔力歪による結界内に閉じ込められ、僕が無理やり破って救出した。それだけだ。いいね?」

「……でもっ!」

「鬨森関連は、学園だけではなく、妃院家、夏八木家、戸村家とそれに関わる名家全てが過敏に反応する。俺たちへの尋問も、長時間されるだろう。そんなの、面倒くさいじゃないか?」

 途中まで真面目な口調で話していたのに、最後はいつも通りのいい加減な京介に戻っていた。

「……はぁ、隊長、それはあなたが、純粋に尋問を受けるのが面倒くさいだけでは??」

「何を言うんだい。透湖ちゃんだって、面倒だろ?」

 肩を竦めながらいう京介に、いつもなら「ちゃんと報告して、尋問を受けるべきです」というところだが、今日に限っては、透湖もそうは言わなかった。

「……確かに、休日が尋問でなくなるのは、不愉快極まりないですね」

「だろう?」

 京介は、そういって軽くウィンクをした。

「隊長、それ、滅茶苦茶古臭くて、ダサいですよ」

「そうかい? イケメンとウィンクはセットみたいなものだろう? 時代を問わずにさ」

 京介の軽口に、ため息で返す透湖。

「さて、それじゃあ、透湖ちゃん。何事もないついでに、何事もなくランチへと行こうではないか?」

「休日の昼間に、何が悲しくて隊長とランチをしなくてはいけないのか甚だ疑問ではありますが……」

 透湖は澄まし顔で流すように京介を見る。

「『トランザニア』のランチ・コースを奢って頂けるなら、考えないでもないですね」

 トラットリア『トランザニア』は、学園の敷地内にある三つの食事処の中でも、高価格帯で有名な高級店だ。

「……う~ん、まぁ、たまにはいいか」

 二人は、意気揚々と女子寮から出て、トランザニアへと向かうのだった――。

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禁図書館の司書官隊《ブックエンド》 灰汁須玉響 健午 @venevene

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