宵の中

東雲そわ

第1話

 見えない何かを見つめていた。

 目ヤニが絶えず、視力も衰えているはずの老犬が、闇の向こうを窺っている。

 吠えることはしなかった。唸り声もあげなかった。尻尾も振らず、鼻も鳴らさず、ただ微動だにせず、夜の一点を見据えていた。

 時刻は深夜零時を回っている。人の姿は見当たらない。時折走り去る車のヘッドライトに強烈に照らされても、リードの先で佇む老犬は動く素振りを見せなかった。

「テン、帰るよ」

 名前を呼び、リードを強く引っ張っても、足を踏ん張り動こうとしない。

 何かが闇の中にいるのだろうか。私が目を凝らしても、点在する街灯が灯りを垂らしているだけで、他には何も浮かんでこなかった。

 リードを畳みながらテンの元へ歩み寄る。頭を撫でると、尻尾が揺れた。思い出したように舌を突き出し、荒く息を吐き出したテンの視線は、それでもまだぶれることなく何かを、その目に映していた。

 やはり私には何も見えない。何かがいる気配も感じない。犬の嗅覚や聴覚が捉えている何かを、私は知ることができずにいる。そのもどかしさは、不安や恐怖を通り越して、苛立ちへと変わっていった。

 首輪を掴み、喉を締め付ける様に引っ張ると、ようやくテンがこちらを向いた。

「帰るよ」

 私の苛立った声に、テンが怯えたように向きを変えた。ごめんね、と頭を撫でてから、いつもよりリードを短く保ち、私は帰路を歩き始めた。足取りの覚束ないテンが、少し遅れてついてくる。

 テンは腰が悪かった。立ち上がれば私とそう変わらない体長を誇る大型犬だ。長年、重い体を支え続けた腰はすっかり弱り、小さな段差にも躓くようになってからは、長い距離の散歩は控えるようになっていた。今日の散歩も家から百メートルも離れていない。二つ目の信号が折り返し地点。帰り道の途中に歩道を外れて、荒れた休田に踏み入りトイレをさせる。もちろん糞は持ち帰る。今日はいつもより少量だった。

 家に着き、檻の前でリードを外すと、いそいそと檻の中へ駆け込み、水を飲み始める。

 日付が変わっても夜はまだ蒸し暑かった。

 今夜もよく眠ってくれることを願い、私もいそいそと部屋に戻った。



 夏。テンの夜鳴きは始まった。

 ある日。深夜零時を回った頃、大きな声で吠え始めた。それはその日だけに限らず、連日休むことなく続いた。

 体が大きく、吠える声も大きいテンが、夜中に吠えることは家の人間の眠りを妨げるだけに留まらず、近所迷惑にもなった。盛りの季節が来る度に、近所の人から暗に苦情を言われており、夏の熱帯夜にそれが再来したとなれば、その非難の感情は発情期の比ではない。それらの苦情を気に留めない厚顔な父を、母はいつも苦虫を嚙み潰したような顔で睨んでいた。

 始めは空腹を疑った。日中の気温が三十五度を超える猛暑日が続き、テンは明らかに食欲を失っていた。暑さから水を大量に飲んでいるせいもあるのかもしれなかった。涼しくなった夜に食欲を取り戻して、お腹が減ったと鳴いている──そう考えた父は、次の日から、夜寝る前にドッグフードを与えるようになった。夜中にお腹が空いたらいつでも食べられるよう、大量に。

 しかし、テンの夜鳴きは収まらなかった。ドッグフードは朝になってもそのほとんどが残ったままで、近くのゴルフ場に巣食うカラスの群れが毎朝飛来する事態を招いた。

 次は暑さを疑った。熱帯夜が続き、犬も眠れなくなっているのかもしれない。そう思った父は、屋外にあるテンの小屋を改造し、日除けを作り、風通しを良くした。日中の熱がいつまでも籠らないように、夜風が少しでも通る様に、大量の汗をかきながら慣れない大工仕事に勤しんだ。電池で動く扇風機も取り付けた。

 それでもテンは鳴き止まなかった。

 最後に疑われたのは老齢による痴呆症。体内時計が狂い、昼夜が逆転している可能性が疑われた。日中はあまり寝かせないように頻繁に声を掛け、夜は寝る前に散歩に連れていくことを家族で決めた。

 夜の散歩は私の担当になった。テンが一番懐いている父は、夜は仕事で疲れて早く寝てしまう。母もそれは同じだった。ひきこもりで夜行性な私以外には、夜の散歩を務められる者が我が家にはいなかった。ただそれだけの理由だった。


 日付が変わる少し前。部屋の掃き出し窓から外に出る。長靴を履いて、家の裏をぐるっと回り、檻の前までやってくると、鉄格子の隙間から真っ黒い鼻先を突き出したテンがくんくんと甘えた声で鳴いていた。

「準備するから待ってね」

 声を掛け、蛍光テープを巻き付けたリードと、トイレ用の袋とスコップを用意する。真夜中の散歩のため、懐中電灯も欠かせない。車や人の通りは少ないとはいえ、念のため長靴にも光を反射する蛍光テープが巻きつけてある。

 檻の扉を開けると、テンが待ちきれないとばかりに頭を突き出してくる。顔にかかるテンの息は父のそれより何倍も臭いため、咄嗟に顔を逸らし息を止める。手探りで首輪の金具にリードをつなぐと、テンが私を押しのけるように外に飛び出した。

「テン、ゆっくり」

 静止の声も無視してテンは力強く突き進んだ。足腰は弱っているはずなのに、前脚の力だけで私をぐいぐいと引っ張っていく。

 家の敷地から道路に出たところで立ち止まらせ、落ち着かせるために頭をぐりぐりと撫で回す。これから始まる夜の散歩に、尻尾が千切れんばかりに揺れていた。

 緩んだリードを畳むように短く持ち、アスファルトの歩道を歩き始める。


 家が県道沿いに面しているとは言っても、そこは田舎の町だ。夜中になれば車の通りも激減する。日中でも歩く人のほとんどいない歩道には、アスファルトの隙間から生えた雑草が私の膝のあたりまで背丈を伸ばしている。テンはその雑草に戯れるのが好きだった。道すがら、生える草を見つけてはいちいち頭を突っ込み、鼻息を荒くしている

 電柱の前で立ち止まる。マーキングだ。テンは腰が弱っているのでおしっこは四足立ちのまま行う。そのせいで自分の足におしっこがかかってしまうことがあるけれど、テンは気にすることなく、最近はおしっこをしたまま歩くのも得意になってしまった。

 電柱からしばらく続くおしっこの跡を踏みつけながら、先を進む。

 二つ目の信号が見えてくる。

 今日もまたテンは足を止め、何かを見つめ始めた。

 近所でホームレスをよく見かける──母が話していたのを思い出した。潰れたコンビニに住み着いている、という母の憶測も、あながち間違ってはいないのかもしれない。

 そのコンビニは三つ目の信号の先にあった。建物は今もそのまま残っている。 

「怖いから帰ろう」

 テンの頭を急かすようにぺしぺしと叩く。石頭のテンには何も響いていないのか、視線はまだ闇の向こうを見つめていた。

 私は昨日と同じように首輪を引っ張った。それを嫌うテンが大人しく私に従い、帰路を歩き始める。

 番犬として飼われているテンは、見知らぬ人がいれば必ず吠える。ときには噛みついてしまうこともあり、隣家の住人とトラブルになったこともある。父が担当する日中の散歩も、人とすれ違うことがほとんどない裏道で行われている。仮にもし、あの暗闇の先に誰かがいるのなら、テンは間違いなく吠えている。吠えないということは、人はいないということになる。

 タヌキやイタチなど、野生動物の可能性も考えられた。県道沿いにはいくつもの雑木林がある。周囲には田んぼや畑が広がっており、夜行性の動物が餌を求めて活発に動いている。テンはそれに反応しているのかもしれなかった。目には見えなくても獣の匂いというのは、鼻につくのかもしれない。

 そんなことを考えているうちに家に着いた。

 テンを檻に入れてから、しばらくその様子を眺めていた。がぶがぶと水を飲み、檻の内周をぐるぐるした後、最後に檻の隙間から鼻を突き出し私の匂いを嗅ぎ、檻の中にある犬小屋へと入っていた。座るときにぶふぅと鼻を鳴らすのは、人間の仕草とよく似ていた。



 深夜の散歩をするようになってから、テンの夜鳴きはパタリと止んだ。父の寝不足は解消され、母が近所の目を気にして不機嫌になることもなくなった。私もほどよい疲労感から寝付きがよくなっていた。

 テンが本当に痴呆症なのかはわからなかった。家族の人間には尻尾を振るし、見知らぬ来客があれば檻の中から吠えつけている。檻の中をぐるぐるしていることが多いけれど、子犬の頃からよく見た光景なので、それが徘徊なのかはわからなかった。日中に寝ていることも少なくなり、昼夜逆転も解消されたように思われた。

 お盆を迎える頃には、夏も本来の気温に戻り始めていた。日中は三十度を超えるものの、朝夕は涼しさを感じるようになっていた。

 深夜の散歩は続いている。テンはあれからも何度か、私には見えない何かを見つめていることがあった。

 近所ではホームレスの噂が広がっていた。何かを引きずりながら道を歩いていた。うっそうと木々が茂る林の奥に入っていくところを目撃した。夜、コンビニの跡地で姿を消した。それらの噂話はどれも母から聞かされたもので、私はその存在に実感を持てないまま、深夜の散歩を続けていた。



 お盆を過ぎると、朝夕の涼しさは一層増した。深夜ともなれば、肌寒さを覚えるほどに外の空気は冷え、その日の私は長袖長ズボンという恰好で深夜の散歩に繰り出していた。風が強く、秋を思わせるほどに肌寒かったのだ。

 一方のテンは、暑さから解放されたことを喜ぶように、いつにも増して元気だった。私を引っ張る力にも容赦がない。

 二つ目の信号で、またテンが何かを見つめていた。

 懐中電灯で見つめる先を照らしてみても、何も浮かび上がらない。ちょうど通り過ぎた車がハイビームで辺りを隙間なく照らしたけれど、やはりそこには何もいなかった。

 何もいない空間。ただそこにあるだけの闇。その向こうには、小さく光る三つ目の信号が見えていた。

 その日、テンの見つめる闇の中に、私は足を踏み出していた。

 隣を歩くテンの足取りは軽かった。普段歩かない道だというのに、ずいぶんと落ち着いてた。道端に生える雑草には目もくれない。電柱に下手糞なマーキングもしなかった。

 テンが見つめていた闇を抜け、街灯を辿るように道を進んでいく。

 三つ目の信号。道路を渡った向こう側にコンビニの跡地が見えていた。

 信号のボタンを押してから、テンにお座りを命じる。ぶふうと鼻を鳴らしてテンがお尻を地面につけるのとほぼ同時に、信号が青に変わってしまい、慌ててリードを引っ張ると酷く迷惑そうな顔をされた。

 テンを先導するように、車のいない車道を小走りで渡った。横断歩道を渡り終えた後に、一台のトラックがごんごんごんごんと音を立てて信号で止まったけれど、私は振り返らずに足を進めた。信号を赤に変えた私の背中に鋭い視線を感じた気がするけれど、振り向くことはしなかった。

 コンビニの駐車場に車は一台も止まっていなかった。日中ならときおり停まっている車を見かけることがあるけれど、そもそもこの時間に道路を走る車がほとんどない。信号で止まっていたトラックが私を罵る様にごんごんごんと音を立てて走り去っていく。

 そのコンビニは閉店してから半年以上が経っていた。懐中電灯で照らすと、ガラスは全面内側から目張りがされ、中が見えないようになっている。入口付近に貼られたテナント募集の張り紙は四隅の一つが剥がれかけていた。

 テンの様子に変化はなかった。いつもより長い距離を歩いたせいか少し息が上がっているけれど、何かに反応するような素振りはない。テンが見つめていた闇は既に私達の後方にある。二つ目の信号と、三つ目の信号の間。もしかしたらそのさらに奥の闇を見つめていたのかもしれないけれど、テンの視線の延長線上にはこのコンビニの跡地が存在した。

 初めて訪れた場所に本能が疼いたのか、テンは尻尾をふらふらと揺らしながら地面に鼻をこすり付けるような姿勢でよたよたと歩き始める。懐中電灯を片手に、私もその後を辿っていく。しばらく建物の周囲をうろうろしていたその足が止まったのは、建物の裏手にある侵入防止の柵の手前だった。

 人間ならよじ登れる高さだったが、犬では到底無理だった。テンはどうしてもその先に進みたいのか、柵の隙間に鼻を突き入れぶふぅと大きく鼻を鳴らした。

「ダメ。ここは入れないよ」

 テンのリードを引っ張り、回れ右をさせる。大した抵抗もなく諦めたテンが私についてくる。

 その柵の向こう側は光が届かない完全な闇だった。真夜中の一角。光で照らしてはいけない場所に思えて、手にした懐中電灯のスイッチを入れることはできなかった。



 月のない夜が好きだった。今夜のように、月も、星も、飛行機の灯りも、私を照らすものが一切ない真夜中が好きだった。街灯の灯りも届かない閉じたコンビニの店先で、車輪止めのコンクリートに座り込んだ私を、テンが目ヤニたっぷりの白んだ瞳で見つめていた。 



 夏が終わる頃にはテンは歩けなくなっていた。

 父は歩けなくなったテンのために不器用な日曜大工で犬用の車いすを何度も手作りしていたけれど、どれも構造に欠陥があるのか、体重のあるテンが乗るたびに乾いた音を立てて動かなくなった。

 コンビニの跡地にはまた別のコンビニが入ることになった。オープニングスタッフ募集のチラシをわざわざ私の目の届くところに置いたのは母に違いなかった。父が読むのは新聞のお悔み欄だけで、それに挟まれているチラシの類を読むことはない。

 ホームレスの噂はあの日以来聞こえてこない。

 大型犬用の車椅子がいくらで手に入るのかネットで調べた私は、その数字とチラシに書かれている深夜帯の時給を見比べた後、荒れ果てた部屋のどこかにあるはずの新品の履歴書を探し始めた。

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宵の中 東雲そわ @sowa3sisu

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