第6話 ♪菜の花畑とオルガンの音色
-暦を司る神さまを
プロローグ
「あら、これ」
フォトギャラリー喫茶「さきわひ」のカウンター内の厨房で、
バケツの横腹部分には『
茶ヶ崎市は、ここ
そこへちょうどカメラの入った銀バッグをぶら下げて、このカフェギャラリーの店主、
扉に下がった鳴子の甲高い金属音と一緒に、「ただいま」と山崎が店に入る。
それに気付いた美瑠は「お帰りなさい」とエプロンの裾で濡れた手を拭きながら出迎える。彼女はその山崎の同棲相手、普段は楽器メーカーのデモンストレーター、店舗演奏者として、依頼があると勤務しているが、趣味のお菓子作りの特技で、今は山崎の店を手伝っている。
山崎は手に持っていた三脚を受け取ってくれるものだと思って、右手を差し出すと、彼女は左手に持っていた紙袋のほうを受け取ろうとした。
「おいおい、そりゃないよ」としかめ面の山崎に、軽く笑みを浮かべると美瑠は「冗談よ」と三脚を受け取って壁に立てかけた。
「今日はどこで何を撮ってきたの?」という美瑠の問いかけに、山崎は「
「菜の花ね。もうそんな季節よね」と会話には気もそぞろな風で、気になる袋の中身を確かめている。
「まあ、スコッチケーキね。美味しそう」と言うと、すでに彼女の関心はケーキに移る。美瑠は歩きながら「スコッチケーキにはダージリンだわ」と言って厨房に向かった。要は「花より団子」の口である。そして紅茶の茶葉の入った缶を取り出すと、ケトルの載ったコンロに火をかけた。
「洋菓子の移動販売を公園の駐車場で見つけてね」とケーキの出所を教える山崎。
カウンターテーブル越しに美瑠は「そうなんだ」と納得すると、「もうプリント出力始めるの?」と山崎に訊ねる。
「できれば……」と小声に山崎は遠慮がちに言う。そして業務着のエプロンを着けた。
「了解。じゃあ、やりながらお茶にしましょう」と嬉しそうに美瑠はスコッチケーキをブレッド・ナイフで均等に切り始めた。ナイフを入れた塊の切り口からはスコッチウイスキーの甘い香りが広がる。
「やっぱりスコッチケーキはパウンド・ケーキの王さまだわ」と呟きながら、洋酒とシロップにつけ込まれ、そのしっとりとした感触の一枚一枚を皿へと移し替えていた。
彼女がお茶の用意をしている間に山崎はメディアに写してきた画像データをプリント・アウトし始めていた。店内奥にあるパソコンの前で画像とにらめっこである。
「どうしたの?」と美瑠。画面を凝視したまま固まっている山崎に傾げた首で声をかけた。
「一枚、メッセージかも知れない写真を見つけた」と山崎。
彼らの言うメッセージとは時神さまがヒントとしてお告げの代わりに差し出すもの。予測不能で、突然託宣があちらからやってくる。今のように、撮ってもいない写真だったり、本棚のない場所から本が落ちてきて偶然を装い伝達する記事が載ったページが開かれることもある。それを慎重に読み取るのも彼らの仕事(?)なのである。
その言葉に「あら」といって、美瑠は隣から画面をのぞき込む。
「これ一号線の
「こんな昔の写真はもう撮れない。デジタル時代の画像ではないから、たぶん……」と言いかけた山崎の言葉に続けて、「だからメッセージじゃないか、というのね」と美瑠が言葉をかぶせる。
「うん」
その相づちに、写真を見ている美瑠。ひと息置いてから「私もそう思うわ」とぽつり返した。
「でもこの景色だけじゃ解読は無理じゃないかな?」と山崎。
「しばらく待ってみれば。次のメッセージが来るかもね」と返す美瑠。
「そうだね」
手慣れた様子の二人は、たじろぐこともなく現実離れした現実を受け入れた。
「お茶でも飲んで待ちましょうよ。メッセージの類ならそう待たずとも、じきに次が示されるわ」と余裕の素振りで美瑠が加える。
「以前何かの本で読んだのだけれど、さえないイギリス料理と他のヨーロッパの人が言う中で、スコッチケーキだけはどの国の人も絶賛するっていう話よ」と着席して、カップに紅茶を注ぎながら話す。そして砂の落ちきった砂時計をティーセットのバスケットに戻す。
「でもフランスにもパウンドケーキはあるよね」
「ええ、カトル・カールのことね。小麦とバターと砂糖の基本はどの国も一緒。あとはベーキングパウダーや香り付けの調味料の違い程度で、ヨーロッパ各地にあるはずよ」
山崎は「よく知っているね。本当に鍵盤弾きなの?」と軽く笑った。
「あらやだ」と彼女も笑う。
そこに血相を変えて夏夫が飛び込んできた。二人には夏夫の姿が目の前に来てから、店のドアの鳴子が鳴ったような気がした。それくらい一瞬で現れたのだ。
「ほら、次のメッセージがもう来たわ」と美瑠が笑う。
血相を変えて入って来たこの夏夫は大学生の知人だ。多摩地域にある町山田に住んでいて、彼も祖父の代から暦人である。ただしなぜか父親は暦人ではない。
「マスター!」
山崎に問いかけたはいいのだが、次の言葉がでないようだ。
「どうしたの?」と落ち着いた美瑠は、ひと息つくために「お茶はいかが?」と紅茶を勧めた。
「童話のイカレ帽子屋じゃないんだから、平常心で紅茶勧めないでよ」と夏夫。
彼は持っていたカバンの中から一二〇ロールの現像済みのフィルムを取り出した。中判サイズのカメラで撮ったものだ。
「おっ、まだ六四五使っているんだ。いいねえ」と山崎。
「そうじゃなくて、このポジに写っているものを見てよ」と夏夫。
美瑠は素早く奥の棚からライトボックスとポジ用のルーペを取り出した。ライトボックスは後ろから光を当ててフィルムの見えをよくする道具である。
ボックスのライトをつけると山崎は「あれ……」と首を傾げた。まだルーペでの拡大像を見る以前のことだ。横で美瑠も同様の反応をして、互いに顔を見合わせている。
「なに?」とふたりのその様子を見ながら夏夫は不可思議な顔でやはり首を傾げた。
「私は同じ写真をデジタルで持っているよ」と山崎。
「へっ?」
夏夫は訳の分からない顔つきで返す。
「どこで撮ったの?」と山崎。
「桜木町。大江橋の横のちょっと先のあたりかな」
「えっ?」と今度は山崎のほうが不思議な顔である。
彼は、自分がさっき撮影してきたデジタル画像をカメラの背面モニターに映すと、夏夫に差し出した。
夏夫は受け取ると、「本当だ。全くおんなじ構図で、デジタルだ」と納得する。そして「マスターはどこで撮ったの?」と訊ねた。
「私の方はこの場所に近いんだ。南湖のあたりだ。もっと海岸寄りだけど」と言う。
「じゃあ、西浜の方だね」と夏夫。
ふたりの会話を端で聞いていた美瑠は、スコッチケーキを一切れ口に入れて、お茶をひと口含み終わると、ゆっくりとふたりに言った。
「メッセージよね」
その言葉にふたりは同時に振り向いて「うん」と頷いた。
その時皆は、僅かな時間の揺れ、兆しを感じた。
彼らの返事が早いか、美瑠の行動が早かったかは、一瞬の隙で分からなかったが、彼女はカウンターの下に常備してある昔のお金、聖徳太子の一万円札を三枚とっさに掴んで山崎に渡す。勿論どこの時代に飛ぶかは分からないので、不要なものになるかも知れないが、念のためである。
彼女が山崎にちょうどそれを渡した瞬間、三人は突然、急降下する遊園地の乗り物のような感覚に襲われた。
『来たか!』と山崎が思った時には、もう暦人の世界に誘われることになった。
一方こちらは、横浜市の郊外にあるマンション。部屋の住人、
昨晩三重県にある実家から戻ってきたばかりだった。遠距離の移動にいささか疲れた感じのする重い感覚を引きずって、インターフォンの呼び鈴に起こされてベッドから立ち上がった。
映像モニターのスイッチを入れると「はい」と応答する。
「こちら阿久晴海さんでよろしいですか?」という声に、「はいそうです」と寝ぼけ眼の目をこすりながら、ろれつの回らない返事をする。
「時空郵政です。ハンコお願いします」と配達人。
その言葉を耳にした途端晴海の頭はシャンとした。時空郵政は時間を飛び越えて郵便配達をしてくれる二十五世紀の逓信業務の一形態で、暦人たちだけにその存在が知られている未来の国の現業事業だ。
「はいっ!」というと、晴海は昨晩着替えをせずにそのままで眠ってしまったであろう余所行きの姿に、手ぐしで頭を簡単程度の体裁を整えて、パタパタとスリッパの音を立てて玄関先に行く。
ドアを開けると、「昭和四十某年からの時空郵便です」と茶色の大型封筒に入った郵便物を渡された。彼女は所定欄に印を押すと、配達員は「道中お気をつけて」と深々とお辞儀をして彼女を敬いながら去って行った。時空郵政の配達員も暦人であるため、彼女がこれから託宣を受けて、一仕事することを察知している。そのための鼓舞する言葉であった。
「ありがとう」と呟いた彼女は、一礼してドアを閉める。部屋の中央でその封筒の差出人を音読した。
「
その言葉とともに彼女は落ちる感覚に襲われた。
「待って! 私、靴履いてないわよ」と叫んだときには、もう彼女の身体は異次元空間の中だった。
「どこ?」と美瑠の声。
「桜木町の駅近くだ」と山崎。店のエプロン姿のまま、都会のど真ん中に運ばれて、困った顔である。
少し遅れて位置関係を理解した後、「正確には紅葉坂の交差点のようね」と美瑠が我に返る。
「信号機にみどりの斜線模様の鉄板が縁取ってある」
夏夫は博物館の展示品でもみるようにしみじみと眺めている。
「マスターならこの時代お手の物だよね」と夏夫。
その言葉にいつもなら「まあ何とかなるでしょう」と答えるはずの山崎が、ちょっと困惑気味に返す。
その理由は簡単。紅葉坂の交差点の中央を、ビューゲルを立てて、のんびりと路面電車が走っているのだ。
「ダメっぽいよ。市電が走っている時代だ。私が初めて桜木町に遊びに来たのは昭和四十八年だから、もう市電は廃止された後だったはず。つまり未知の時代だ。そしてその市電廃止と入れ替わりに磯子方面へは根岸線が延伸されている筈だ。下手をすれば記憶すら無い時代かも……」とエプロンを脱ぎながら言う。いずれにせよ、高度経済成長期の歪みのような赤さびが、街角のここかしこに見受けられる時代である。
「とりあえず、物価は私の記憶のある一番深い場所の昭和四十八年時点で覚えている限り、国電一区間は八十円ぐらだったかな。宿が安いとこなら一泊千五百円から二千円とみて良い。あとラーメン一杯二、三百円ってところか。今いるここは、それより以前の過去ようなので、もっと安いかもね」
そう言った後で山崎は我に返り、「って、そんなことよりも、早いとこ託宣の内容の読み取りに取りかからないと大変なことになる」と切り替えた。さすがに準備のないままのタイムスリップには不安要素が多分にある。
珍しく美瑠が「ここに運ばれたって事は、帰りは桜が丘神明宮から帰りなさいってことよね」と解釈をし始める。
「その可能性は大きい」と山崎。
「じゃあ神明さまに行ってみる?」と夏夫。
「いや、託宣の解読が先だ。あの写真二枚だけのメッセージでもう時空越えをしてしまったんだ。ヒントが少なすぎる。少し焦った方が良い。それに紅葉坂にはカレンダーガールもやってくる場所がある。もしかするとお客さんが増えるかも……」
山崎が語尾のトーンを落とした後で、声を重ねるように美瑠は「言い忘れたんだけど、もうひとつメッセージらしきものがあってね、キッチンカウンターの中に左富士丸さんからいただいた生シラスが置いてあったの。あれってヒントじゃないかな」と言う。
「左富士丸って、茶が崎の西浜にある船宿の?」
「ええ」
山崎はあごに手をやり思案のポーズで考え込んだ。
「写真はどちらも南湖の富士の景色。もう我々の時代では建物があって、見ることがほとんど出来ない風景だった。きっとこの時代の景色なんだろう。でも運ばれたのは横浜の紅葉坂下……」
その言葉に頷くように、夏夫も「手がかりがまだ少ないし、かけ離れたアイテムだ」と言う。
「残るは山手かな?」と山崎。教会の沢山ある山手なら、カレンダーガールがらみのご託宣を受け取れるかも知れないと踏んだ彼の読みである。
「じゃあ、さっそくこの紅葉山の電停から市電で……」と言いかけた夏夫。
その言葉に山崎は「いや、どの電車に乗っても良いというわけじゃないはずだ。この時代、桜木町からかなりの電車が分岐するように交通網がしかれていたと記憶している。当時は桜木町が横浜市内のほとんどの公共交通機関、交通網の中心地だったはず。ほんのすぐそこ、一区間だけなので桜木町の駅前に出るべきだ」と記憶を辿る。
「来たことない時代なのになんで知っているの?」と美瑠。
「以前祖父から聞いたことがある。初音町、浜松町、高島町、桜木町の電停にでれば、主要系統の交差点なので、目的地に通じる電車に乗れる確率が高かったって。乗り換える人が多い電停だったようだ。なかでも桜木町は当時の横浜の玄関駅で交通の中心地。町の交通はここに一手に集まるように出来ていた、って聞いている」
「さすが、おじいちゃん。思い出に知識を載せて覚えさせてあげるなんてやるわね」と美瑠。
その口調に「まるで知り合いのような言い方だね」と山崎の言葉。
ぎくっとした美瑠は、「ほら、いつも凪彦さんから聞いているからよ」と苦しい言い訳。冷や汗ものである。まさか自分たちだけが、山崎には内緒で、暦人として自分たちの時代にやってきた祖父、
「ふーん」とだけ言うと、彼は桜木町の駅に向って歩き始める。
そのやりとりをみていた夏夫は堪えるように笑い震えていた。彼もまた靡助が自分たちの時代に来たことを知っているからだ。
『まあ、正直に話したところでマスターは暦人だから時間は揺れないんだけどね』と心中独りごちた。暦人のルールで他の時代の人間であることを暦人以外の人には言わないことや、時間や歴史が変わってしまうような行動を控えることが決められている。逆に時間が揺れ始めたら元に戻す役目も請け負う。
桜木町の駅前の電停に設置された路線図を見る一行。
「第六系統の
「そうみたいだね」と山崎。
「とりあえず、横浜公園、元町方面に行ってみよう」と夏夫は先陣を切って、電車のステップに足をかけた。
三人は市電に乗ると、行く当てもはっきりしないまま元町を目指した。もうひとつのタイムゲートがあるのが山手の教会とふんだからだ。だが、最初の読みだった紅葉坂のカレンダーガール用のタイムゲートの存在を彼らはすっかり忘れている。
「運賃二十円だって。駄菓子を買う感覚だね」と夏夫。
「この料金で人を運んでくれていたんなら、大切な市民の足だったね。この当時の物価と比較しても安いよ。交通局
人のまばらな車内でひそひそと話をしていた目の前に、ストンとまた一人、暦人が異次元から落ちてきた。ちょうど桜木町の電停を出てすぐのことだった。
いきなり山崎と夏夫の間に現れた人影は見覚えのある顔だった。
「お待たせ」とあきらめ顔でやる気の無い挨拶をしたのは、さっき郵便物を受け取った晴海だった。
「いやあ、いらっしゃいカレンダーガールさん」と山崎も気の毒そうな顔、あるいはあきらめ顔で彼女を出迎えた。
「紅葉坂のゲートを使ったんだね」と続けると、不機嫌そうに晴海は「別に選んで使ったわけじゃないわ」と少々ふてくされている。
「山手まで行く手間が省けたね」と夏夫と美瑠は笑って顔を見合わせた。そして「晴海ちゃんも呼ばれちゃったんだね」と山崎が加えた。
その言葉に後押しされて、現れてすぐにもかかわらず、いきなり愚痴り始める。
「時空郵政さんが、私宛の郵便を届けに来て、それを受け取ったらすぐに、この荷物と一緒にこの電車の中よ」と半べそである。したがって彼女は靴を履いていない。スリッパ履きだ。
「寝間着じゃなくて良かったね」と夏夫。
「こんな不意打ち、初めてだわ」と晴海。
「さすがに使命を受けるときはレディーファーストというわけにはいかないのね。四の五の言わずにタイムスリップかあ。女性としては、身だしなみの時間ぐらい欲しいわね」と美瑠が笑った。
三人の会話中に足元を確認した山崎が晴海に告げる。
「この頃の電車、ワックス仕上げの木の床張りだから、スリッパの裏、真っ黒になるね」
その言葉に慌ててスリッパの裏を見返すと、すでにベージュ色の裏底は油まみれの真っ黒だった。
「このスリッパお気に入りだったのに……」
渋い顔の晴海に少し同情しながらも山崎は冷静だ。そして流れる町並みを窓越しに見ながら、晴海の準備を優先することにした。
「つぎの
山崎は降車ブザーを押した。ブレーキの振動が直に伝わるのを車内で感じながら、四人は、降車ドアの方へと移動する。
そして四人はステップを下りて降車。伊勢佐木町の商店街の通りに入った。もちろん、晴海は注意深く下を見ながら歩く。ペッタンペッタンと音を立てての歩行である。まるで陸路を歩くペンギンのようだ。
昭和五十年代以降、地下街、大手百貨店などが加わり、横浜の人の流れが、横浜駅周辺に一極集中して流れることが確実になる直前の伊勢佐木町。古くからの繁華街で、明治から戦後までは元町と伊勢佐木町は二大商店街だった。現在でも奇しくもトップの座は譲ったが、賑やかな繁華街であることに変わりは無い。
運良く、商店街の入口近くに靴屋があったので、美瑠の持ってきた所持金で事なきを得た。山崎は晴海と美瑠が買い物をしている間に、晴海に届いた時間郵便の中身を確認したかった。
「その郵便物、もしかすると手がかりじゃないかな?」と訊く山崎。
彼の言いたいことがすぐに分かった晴海は、「そうに決まっているわ」と笑う。そして「OK。靴の会計してくる間に、マスター確認してもいいですよ」と言って、その袋をポンと押しつけるように渡した。
「ありがとう」と山崎。
受け取ったときに、金属のようなかたい感触を袋越しに感じた。
夏夫ものぞき込むと「差出人は……。本牧西洋楽器商会、ワシン・スローパーさんとアガサ夫人になっている。住所は書いていない」と読み上げる。
「誰?」と美瑠。
二人は揃って「知らない」と首を横に振った。その返事を聞いてから美瑠は、晴海と一緒に店の奥にある会計場所に入っていった。
「とりあえずこの場所に行ってみるしかないか……」と山崎。
「うん。でもね、マスター。その前におなかすいたよ。何か食べよう」と夏夫。
山崎も自分のお腹に手を当てて「そうだね」と苦笑いをした。
『本牧一丁目』と書かれた電停を降りると丘陵地帯の視界の開けた大地を前に一行は、『本牧西洋楽器商会』を探すことにした。通りを少し抜けると金網のフェンスにぶつかる。
「こんなとこ本牧にあったっけ?」と夏夫。
「米軍住宅だ。私が中学の頃にはまだ返還されていなかった土地だ」と山崎。
「私も知っている。跡地がマイカルになったって何かで聞いたことがあるわ」と美瑠が言う。
「へえ」と納得する夏夫と晴海。
ふと、アメリカ風の飲食店の前にたむろするライダーたちが一行の視界に入った。コーラの看板と、グリルステーキと併記されたビールの看板が西海岸っぽい演出をしている。
「あの強面のアメリカかぶれのお兄さんたちに訊ねてみましょうよ」と晴海。
山崎と夏夫は内心『ええーっ!』と少々おびえ気味。
派手な色をした蛍光管電飾文字がガラス窓に映る。見ようによっては、喫茶店ともバーともとれるような飲食店。その店先の駐車場にたむろする若者たち。腕にはタトゥー、頭にバンダナ、ジージャンを袖無しで着こなし、そこから伸びる腕の太いことといったら、この一行とは比べようもない。こんな腕で押されたら火星まで吹っ飛びそうだ。
彼らのその手に握られているのは、アメリカ直輸入のこの時代には珍しい大きな缶コーラ。いわゆるアメリカンサイズと謳われていた商品だ。見れば、手首には薔薇の花のカメオが付いたブレスレッドをしていた。
そして彼らの跨がっているチョッパーハンドルの一〇〇〇CC以上はありそうな大型バイク。山崎とは別世界の人である。通常なら絶対に声をかけない縁もゆかりもない人たちだ。
物怖じをしない晴海は平気な顔で声をかけた。
「ねえ、おにいさんたち。本牧西洋楽器商会って知らない?」
中でもリーダー格らしき人物がレイバンのサングラスを光らせながら、晴海の顔を見る。当時のこの辺の店の名物でもあった四角いピザを頬張っていたその男が、問いかけに反応した。ピザの残りを口に放り込むと、「あーん」と気だるい表情を作って晴海を睨んだ。
「お前、俺たち怖くねえのか?」
そのすごみ方たるや尋常でない雰囲気だ。横で見ていたら固唾を飲んでしまう緊張感である。
ところがそこは物怖じしない晴海。
「なんで?」とそのすごみを一蹴した。
眉が斜めに動いた後「俺たちは世間の鼻つまみもんだぞ」とその男は荒ぶる口調で意気込む。
「別におにいさんたち臭くないわよ。鼻なんかつままなくても大丈夫よ。どっちかって言うとピザの良い香りならするわ」と平然と会話する。晴海の方が一枚上手である。
五、六メートル離れた場所で、おびえながら静観している山崎たちをよそに、威風堂々と晴海は渡り合っている。身長が小さい分、見上げながらも腕組みなどして偉そうな態度だ。
数秒の間があってから、そのリーダー格の男は、「ブッ」と吹き出すと、「お前根性すわってんな」と晴海の頭を撫でた。
「どこの中学校だ?」と訊ねる。
「失礼ね。大学生よ! 丘の上女子大」と言う。
「おっ、丘の上か。そりゃすまなかった。いいとこのお嬢ちゃんか」と打ち解けた口調で納得した。そして彼の表情はみるみると、強面から地元のよしみのように親しげに変わった。まるで祭の日の御輿担ぎの近所のおにいさんのようである。
「ワシンさんのところなら、この坂を下って本郷町方面に出た大通り沿いだ。すぐに分かるよ」とサングラスを外して笑顔を向けた。そして「バイオリンの修理にでも来たのか」と訊く。
「まあ、そんなところね。ありがとう。やっぱりいい人じゃない。鼻つまみじゃないと思うけど」と晴海も笑顔を返す。
彼は親指を立てると、「ありがとよ。また会おうな」と笑った。そして「本牧で困ったことがあったらここに来いよ。ハマのジョニーって覚えておけ」と加えた。
「ありがとう。あたしハルミ、元気でね」と小さく手を振った。
「ハルミ、ちゃんと計算ドリルの宿題しろよ」と笑うジョニー。
「だから大学生だって言っているでしょう!」
ジョニーにとって、晴海はからかいがいがあったようだ。一方晴海の方は子ども扱いに、彼女のレベルでマジギレしていた。いずれにせよ気に入られたようである。ただそんなことはよそに、基本的に彼女は相手が誰であれお構いなしにすぐ怒るのである。勿論ジョニーは、そんな彼女の性格などつゆ知らず、笑って「おう」とだけ分かった素振りで手を振った。
残った三人も遠巻きに少々ひきつった笑顔で深々とお辞儀をすると、言われた方向へと歩き始めた。そして急な石段をゆっくりと下りる。
「こういうところが晴海ちゃんのすごいところだ」と山崎は感心する。
「うん」と頷く夏夫。
「なにがすごいのよ。道訊いただけじゃない」と特別なことをしたという意識のない晴海が答える。
「いや、分からなければ良いんだ」と山崎。たしかに物怖じしない彼女の性格は向かうところ敵なしである。
「それよりも、あのお兄さんたちが知っているってことは、手広く商売している会社なのかしら?」と晴海。すでに彼女の関心は目的の会社に移っていた。
「確かに楽器とは縁なさそうだったもんな。あの人たち……」
大通りはすぐに分かった。ここは下町のような町並みと町工場が続く。海岸沿いの大昔のアジアで言うバンド地区のようなところだ。貨物船が接岸する埠頭と、コンテナだらけの広大な土地が、通りの反対側には広がっていた。
その通りの山側に小さな洋館を思わせる店が一軒。いかにも文化的な品の良い建物である。看板には『本牧西洋楽器商会』と書かれていた。
「ここだ」と一行は口を揃えて声を発した。
入口の横は商店建築にありがちなショーウインドウになっている。ガラス越しにヴァイオリンやビオラ、コントラバス、シロフォン、サックスなどが展示してある。まるで映画『グレンミラー物語』に登場する楽器を扱う質屋のショーケースだ。
一行は店の扉を押して中に入った。当然CDなど無い時代なので、店内にはオーディオ機器のテープからジャズが流れている。
「『朝日のようにさわやかに』だな」と山崎。
曲に合わせてハミングする山崎に、店の奥にいた人影が近づいてくる。
「さすがですね」と社交辞令程度に褒めると、「お待ちしていましたよ。きっとあなたたちならここが分かると思いました」と西洋人らしき風貌の店の者が山崎に話しかけてきた。流ちょうな日本語である。
一瞬ひるんだが、すぐに店主であるというのは察しが付いたので言葉を返す。
「私たちを呼んだのはあなたなのですか?」と言う山崎。
「いいえ。荷物を送ったのは私の妻です。そして依頼主は、とある教会のかたでまた別にいます。でも妻が総てを任されています」と店主。懐から名刺を一枚取り出すと「申し遅れました。私、本牧西洋楽器商会の店主でワシン・スローパーと言います」と自己紹介をした。
そして事務的な口調の中にも暖かみのある笑顔で、「折角ここまで見つけていただいて嬉しかったのですが、妻はいま
「奥さん?」と夏夫。
「はい。妻は晴海さんが、掃部山教会側のタイムゲートに来るのではないかと思って待っているのです。そして妻はアガサと言います。ぜひ急いでそちらに向かって下さい。お茶を出す間もなくのことで申し訳ありません」と付け足した。
つまりアガサ夫人は、荷物を受け取った晴海が通常のシナリオなら紅葉坂近くにある掃部山の教会の付近に着地すると踏んでいたのである。ところが今回の託宣は夏夫たちと連動したために、その付近を走っていた市電の車内に着地したというわけである。
一行がやれやれという顔で仕方なしの行き先変更を決心したときに、店の扉が開いて黒いスーツに赤い蝶ネクタイをしたガタイの良い紳士が入店してきた。
「こんちは、ワシンさん。リペア頼んだサックス仕上がっているかな?」と急いでいる様子だった。
「ああ出来ているよ。昨日仕上がったとこだ」
馴染みの客のようで、「ちょっと待っていておくれよ。今持ってくるよ」と笑顔で答える。そして預かり品を取り出すためにワシンは店から奥の部屋へと入っていった。
「良かった」と紳士。そして一行が店内にいることに気がつくと嬉しそうに「よう、ハルミ。まだいたのか」と声をかけてきた。
「えっ?」と我に返った晴海は彼の手首のブレスレッドに注目する。
「あんたジョニーなの?」と驚きでうわずった声で訊ねた。
「おうよ。夕方からは野毛のライブハウスでサックス吹きの仕事さ」と笑う。
「ちょっと、あんた格好良いじゃない」
「そんなことは子どもに言われなくたって分かっているよ。ちゃんと漢字ドリルやれよ」と相変わらずの対応である。
「だから大学生だって言ってるでしょう!」と再び彼女が切れたところで、ワシンがサックスの入ったハードケースを持って戻ってきた。
「マウスピースは付いてなかったけど、預かっていないよな?」
針金で巻き付けてある伝票をほどくと、ワシンはジョニーにサックスを手渡す。
「ああ、いつもカバンにひっかけているので基本的に楽器にはつけてない」
「じゃあOK。弁が緩んでいて少し空気が漏れ気味だったんで音が狂ったらしい。もう大丈夫だ」というワシン。
「ありがとう」と言ってワシンから伝票を受け取ると、ケースを右手に持ち替えるジョニー。
「時間が無いからもういくわ。あとで奥さんに代金払っておくから」とジョニーはケースを受け取って、素早く店を出た。
「ああ、頼んだよ」と笑うワシン。
「いつもありがとう」とジョニーらしからぬさわやかな挨拶をして彼は去って行った。
ジョニーの出て行った店で、ひとしきりして山崎も「じゃあ、我々も町中に戻ろう」と言った。
「なんか、結局、ふりだしに戻った感じがするのは私だけ?」と少々がっかり顔の美瑠がぼやく。紅葉坂を登り切った場所、掃部山にある歴史のありそうな教会の前で、いつものごとく託宣の読み取りの確認作業である。
「美瑠さんなんかまだ良いって、私なんてこの場所に着地だけならまだしも、スリッパの心配しながら電車の中に落とされたのよ」と言って、負けじとより大きくぼやく。そして「とんだ大はずれよ」とふてくされた。
皆の前にはパリのノートルダム聖堂を小ぶりにして、円窓で飾られた双塔部分が誇らしいフォルムの教会が凛々しく建っている。飲食店の看板に囲まれて、ここだけがやけに荘厳に見える。その建物の玄関アプローチの階段を前にして、どうしたら良いのかを思案中と言ったところだ。
そこに品のある装いの外国人の女性が、掃部山方面から歩いてきた。彼らの姿を見つけると彼女は嬉しそうに駆け寄ってきた。
「阿久晴海ちゃんでしょう?」と言いながら手を振る。
「アガサさんですか?」と晴海。
「はい。やっぱり来てくれた」
そう言って両手で頬を押さえる彼女。横顔は初老という年齢にもかかわらずチャーミングな姿に見えた。
「こちらの方々は?」というアガサの質問に、
「私の暦人仲間です」と返す晴海。
「まあ、お仲間が?」と驚き顔のアガサ夫人。
その横で夏夫は「正体ばらして平気なの?」と怪訝な顔を向ける。
あわてて晴海は、
「時空郵政をお使いになっているので、アガサさん夫妻も暦人と思って構わないんですよね」と確認を取る。
「はい。私、昔、カレンダー・ガールでした」
頷いて笑うアガサ夫人。
そして「もう随分昔のことで忘れかけていますけどね」と加えた。
「やっぱり」
合点のいった晴海は本題に入った。
「それで早速なんですけど、なぜ私をお呼びになったのか? そしてなぜ他の仲間の暦人も一緒にタイムスリップをしたのかを知りたいんです」
この二つの質問にアガサ夫人は丁寧に言葉を選んで、答える。
「暦人の人たちがなぜ皆で呼ばれたのかという問いかけには、私は時神さまではないので分かりませんが、晴海さんをなぜお呼び立てしたのかについてはお答えできます」
アガサ夫人はそう言うと、
彼女は一行に手招きをして、教会の中に入るように案内をした。アプローチから続く緋毛氈を踏みしめながら、映画館のロビーほどの広さのあるエントランスを抜けて礼拝室の横の廻廊を右手に入った。そこは『
その部屋を行き止まりまで進むと、アガサは、「これがなんだか分かる」と指をさして晴海に促す。
目の前には木材を使った大きな枠組みが工事現場の足場のように組まれており、足元には緑色の円柱型をしたコンプレッサーが二基設置されていた。
晴海が戸惑っていると、横にいた美瑠が「パイプオルガンの音響設備と送風機だわ」と答えた。
その言葉にアガサは優しく微笑むと、「そう。正解。パイプオルガンの心臓部です」と言った。そして「実は、このパイプオルガンはこの教会の建物と同じ時期に作られたもので、大正時代から受け継がれてきた大切なものなの」と説明を始めた。
「出来た当初は
そう言った後、彼女は配電盤の横にあるスイッチを入れる。するとコンプレッサーのうなる音がして送風が開始されたようだった。
そのまま彼女は脇の扉を開けると、隣の部屋に移動する。そこは礼拝室のオルガン奏者席、鍵盤のすぐ横だった。手鍵盤二段と足鍵盤の簡素な造りのパイプオルガンだが、それなりに趣のあるものだった。
「誰か弾いてみる? 特別に良いわよ」とアガサが言う。
この中で鍵盤を操れる者は一人しかいない。電子楽器メーカーのデモンストレーターを職業にしている美瑠である。
「美瑠さんは鍵盤奏者です。お仕事で楽器メーカーにいます」と晴海が言う。
美瑠自身は、近頃は鍵盤よりもケーキ作る方が多いのでちょっと気がひけたが、「折角の機会なので、ではちょっとだけ失礼してバッハなど」と言って、軽くお決まりの曲をさわりだけ弾き始めた。「暗譜が正確ではないんですけど、そこはご愛敬と言うことで」といいながら『トッカータとフーガのニ短調』がスローテンポな即興で聞こえてきた。「OK。じゃあ一緒に来て下さい。私の依頼をお伝えします」と述べた。
心地よい音色に吸い込まれそうになる。礼拝室の壁に共鳴する音に、誰もが芸術の有する美の表現を感じた。それは演奏者の技というよりも、楽曲の持つ魅力とオルガンの持つ独特の風合いに寄るところが大きいと美瑠は思った。
ところがしばらくすると鍵盤の何カ所かが壊れているのか、音が出てくれない。何分か弾いてみて美瑠は演奏をやめた。そしてそれを指摘した。
「すみません。これって白鍵二カ所と黒鍵一カ所の音がでていないような……」と美瑠。
その言葉に『分かってくれた』という顔のアガサ夫人。そして直ぐさま、眉をひそめて、「そうなの、先日の地震でどうやら配置がずれたのか、出にくくなってしまったの」と言う。
「風は間違いなく送られているんだけど、困ってね。そしたら相南元町のオーディオ技術者の山崎さんが先日二十一世紀からいらして、自分は忙しくてリペアマン探しをするのはダメだけどと言って、晴海さんの存在を教えてくれたのよ。晴海さんはカレンダーガールだし、そのお友達の暦人に楽器に詳しい暦人がいるはずだって」言うから、晴海さんのところに時空郵便を送らせていただいたってわけ。きっと山崎さんがおっしゃっていたのは美瑠さんの事なのね」
その話を聞いた山崎は、
「そのお話の山崎は私の祖父です」と始める。そして「ただ美瑠さんは弾く方なので、リペアは無理だと思います」と訂正を入れた。
そう答えながらも彼は心中「じいさん、物陰から私たちの時代を確認して、美瑠さんの存在を知っていたんだな」とひとり納得していた。
すると彼女は微笑んで、「知っているわ。最初からそのつもり。リペアを頼む人はもういるの。……というより、その人じゃないと分からないの。ただその人がどこにいるかが分からない。なので彼を探し出して、詳しく説明をして欲しいので鍵盤楽器に詳しい人が必要なのよ」と問題ないという顔をした。
「なるほど。教会のオルガンと言うこともあって、私が窓口になる。そして楽器の調子を弾いて確かめられる美瑠さん、タイムゲートや時代に詳しい暦人二人がお伴になったってことか。これで、なんでこの四人が必要だったのかの理由が分かりました」と晴海。
一挙に二つの疑問はクリアしたことになる。
一方、アガサ夫人は、「それはそうと、あなた靡助さんのお孫さんなのね。どことなくそういえば面影があるわ。似ている」とお話好きのご婦人、アガサは山崎をつかまえて笑う。そして「郵便物の中身はなんだった? 私は見ていないのよ。袋ごと時空郵政の窓口持っていっただけだから」と続けた。
山崎は持っていた袋を取り出すと、「これのことですか」と言う。そのまま中身を取り出すと金属の管が数本と象牙で出来ている釦のような取っ手が数個出てきた。一見すると見た目、何かの部品と言った感じだ。
「まあ、これパイプとストップの取っ手だわ。これどこで手に入れたのかしら」と驚いている。彼女にはこれが何なのかがすぐに分かったようである。山崎たちは、現物を見たところで、これが何なのすら見当も付かない。
「これは何に使うものなんですか?」と山崎。しげしげとそれらの部品を見ながら訊ねた。
「これはパイプオルガンのパイプと、音色を変えるときに使う切り替えスイッチのストップと呼ばれる部品よ」と教えてくれた。
「そこまで揃っているのなら、アガサさんやワシンさんが修理できないんですか?」と晴海。
「それは無理よ」とアガサは笑って、端から取り合わなかった。
「なんで? 楽器修理屋さんでしょう」と晴海。
「うちがやっているのは、金管楽器と弦楽器、あとはビブラフォンなんかの類まで。こんな高度な楽器はオルガンビルダーじゃないと無理なのよ。それでこのオルガンの修理に携わってきたリペアマンがいるんだけど、連絡が付かなくて困っているの」と思い出したように説明してくれた。
「今回のご奉仕、託宣は少しきついね。専門的すぎる」と夏夫。隣にいる美瑠にそっと呟いた。
美瑠も頷き「うん」とだけ返事した。だがその返事も生返事で、鍵盤を押しては耳を傾けて音の調子を見ている。
「お名前はなんというですか? そのリペアの方の」と山崎。
「
それを聞いた夏夫は、「『四季』とか作曲してそう」と言うと、美瑠は「それはビバルディでしょう」と訂正を入れる。いつものお約束の二人の掛け合いだ。
ふたりの掛け合いに優しく微笑むとアガサ夫人はまた続ける。
「それで結構なお年を召したオルガン職人なので、もう引退したいって言って、以前住んでいた場所を引き払って、郷里のご実家に引っ込んでしまったそうよ。私はご実家まで知っている間柄ではないので困っていたの」
「手がかりは?」と問う美瑠。
「ないの。ただね以前住んでいた借家はこの近くなのよ。地元の人が離宮跡って呼んでいる角を登ったあたりだったの」
「じゃあ、その近所に行って、片っ端から訊いて歩いてみたらどうかしら?」と晴海。
すると嬉しそうにアガサ夫人は「ありがとう。それを待っていたのよ。お願いできる?」と依頼する。そして「私たちのような老夫婦には、そういった歩いて回る作業は骨の折れることなのよ。一日の生業をこなすだけでも大変なのに、余暇でそんなことまでというわけにいかなくて。それでここの教会でお祈りしていたら牧師さまが、この部品の入った茶封筒を私に下さったのよ。知らないかただったのでびっくりしたわ。よその教会の牧師さまなんだけど、その日は用事があってここに来ていたらしいのよ。そして時空郵政で届けるアドバイスをしてくれたの」と言う。
山崎と美瑠は顔を見合わせる。そして心中『託宣の類だ』確認し合って頷く。
そのことは晴海も察知したようで、「大丈夫、私たちが探してみます」と夫人の手を両手に握りしめて元気づけた。
ふと何かを感じた山崎は夫人に質問をする。
「アガサさん。どうしてそんなにこのオルガンを大切に思うのですか?」
山崎はカレンダーガールの晴海だけでなく、暦人の面々までも動かす天の声の主の意図がそこにあると感じたためだ。
アガサ夫人は嫌な素振りもなく、優しい目で山崎たちに向かってその理由を教えてくれた。
「戦争が始まる前、日本とアメリカがとても仲の良い時代に、横浜はその架け橋でした。そう平和の象徴のような町でした。ボストンやシアトル行きの定期船は横浜から出ていたんですよ。町並みもまるでアメリカやヨーロッパにいるみたいだって。母は私にそう話してくれました。そんな土地柄、戦前のこと、私の母はこの町で日本の皆さんにとても親切にしていただいたんです。寂しくてホームシックになった時、この近所にあった伊勢山の離宮におつとめしていた人が、この教会のオルガンコンサートに誘って下さったそうです。そこに集う人たちや懐かしい音楽、そしてここで知り合った人々のホームパーティーに誘われたりと、母は癒やされて、とても感謝していました。その時にイギリス人のご婦人が弾いてくれた『自由の鐘』が忘れられないって、ずっと言っていたんです。それ以来帰国後も横浜の話を、子どもである幼少の私たち姉妹にいつも話してくれました。そしていつも我が家にはジョン・フィリップ・スーザのレコードが流れていたのよ」
「ジョン・フィリップ・スーザっていえば、『星条旗よ永遠なれ』で有名な作曲家よね。割と金管楽器系のアレンジが得意な技巧派で、マーチ王ってニックネームで知られているぐらい行進曲で有名。日本でも運動会などでおなじみね」と話の流れに美瑠が解説を入れる。
「さすが、美瑠ねえちゃん」と夏夫。
一方山崎は、夫人の使ったこの辺では聞き慣れない「離宮」という単語が気になったようで、「伊勢山に離宮があったんですか?」と訊き直す。
「ええ、さっきも申し上げたけど、オルガン職人の微葉さんは離宮のあったといわれている場所の角を奥に入ったところの借家にいらしたのよ。ただ離宮自体がどんなものであったのかは私は知らないわ」と念を押す。
「それじゃ私たち暦人もその雅な関係から呼ばれたということかしら?」と微笑む美瑠。
「外国との友好、絆に、貢献しなさいと言うメッセージだわな」と夏夫。
しかし山崎だけはまだそこでの結論を出さなかった。すると再び夫人は話を続けた。
「それからしばらくして、シアトルの町でトランペットを吹いていた主人と出会いました。主人は日本の居留地生まれで、一時アメリカの叔父の家に間借りしていた身で、また数年後に日本に戻ると言うことでした。母を亡くした直後の私にとって、最後のチャンスと思って、彼に同行したんです。一度母の見た景色をこの目で見てみたいと思って、そして思い出のオルガンに触れてみたいと思って……」と夫人は言い終えた。
そこまで聞けば皆まで言わずとも、アガサ夫人の気持ちは理解出来た。
最後のまとめを代弁する美瑠。
「それで、お母様の心を癒やしてくれた、このオルガンの音色を取り戻したい。そういうことなんですね」
美瑠の言葉に「はい」と頷く夫人。
「そして、祖国同様に日本と横浜を愛してくれた女性への恩返しに、暦人も彼女の意志を助けてあげて欲しいというのが時神さまの本音か……」と山崎。
山崎がそう言い終えると、オルガンの上部に挟まっていた古い紙束がパサリと床に落ちた。
『次のヒントが来た!』
アガサ夫人以外の一行、皆がそう思った。もうここまで託宣の意図が読み取れたのだ。最後の手がかりに近い。急いで拾い上げる美瑠。
その用紙を見て、美瑠は安堵した。そして柔らかな表情で「良い感じね」と微笑んだ。
そこには送風機を設置した際に使ったと思われる図面が描かれていた。欄外には昭和三十某年の文字が読み取れる。
「配管や送風のための見取り図だ。パイプの音色まで書いてある」と夏夫。
「まあ、何という幸運」と驚いて、胸元で十字を切る夫人。心中で感謝を述べたのだろう。
「何はともあれ、まずは人捜しから始めよう!」
晴海のその言葉に皆も「よし!」と続いた。
その言葉の後で、ひとり深々と頭を下げるアガサ夫人の姿があった。
「伊勢山、
すると笑って山崎は、
「想像力を働かせてごらん。あの紅葉坂の麓に架かる橋。我々の時代は下にあるのは道路だけど、あそこが川だったらどうだろう。桜木川という川で、その川に沿って急傾斜の運河を兼ねた河川の岸に切り立って、紅葉の生えそろう斜面の景色をさ。その手前には砂浜や埋め立て地だ。そこから見れば立派な山だ」と言う。
夏夫は『始まった』という顔で山崎に「歴史教養番組の見過ぎ」と返す。
「そうかな?」と不服な顔の山崎。
その横で美瑠は夫人から託された手書きの地図を片手に路地を探している。
「戸建ての集合住宅なんでしょう。何て言う借家なの?」と晴海。
「エステ荘」と美瑠。
それに夏夫が反応して「大きく出たな。名前が『エステ荘』って、冗談みたい。今度はリストかよ」と笑う。
「夏夫君、随分とクラッシック音楽に詳しくなったじゃない」と美瑠が返す。
「そりゃ、マスターんちのじいちゃんコレクションと美瑠ねーちゃんの説明を毎回聞いていれば、誰でもこれくらいは分かると思うけど。それでもさわり程度しか分かってないけどね」とあきれ顔の夏夫。
そんなふたりのやりとりを余所に、晴海だけは真剣な面持ちで番地の住所表示札を次々と見ていく。いつになく必死だ。
それに少し気後れしたのか、夏夫と美瑠もその後に続いて真剣な表情になった。
「あった!」と美瑠。
皆が駆けつけてみると、トタン塀に囲まれた
引き戸の格子ガラス戸の玄関先には子どもの乗り物や三輪車が雨ざらしで置いてある。また子供用の浴槽も泥が付いたまま逆さまに伏せてある。昭和の高度成長期にはよく見られた風景である。
その玄関先で四人が観察していると、後ろから声がした。
「何だい、あんたたちは」
皆が一斉に振り返ると頭にタオルを巻いて、帯で子どもを背中にくくった生活感のある女性がうさんくさそうにこちらを見つめている。
こういうときに真っ先に飛び出すのが晴海である。
「ごめんなさい。人を探しています。その人が住んでいるのがエステ荘だったもので」
「エステ荘はこの四棟だよ。でももうウチしか住んでいないよ」と子もりの女性。
怪しい者たちでないことが分かったようで子守の女性は、
「それで誰に用事なんだい」とつっけんどんだが、邪険にはしない口調で訊ねる。
一同顔を見合わせてから頷くと、「微葉さんというかたで……」と代表で晴海が言う。
その言葉を聞いて彼女は柔らかな笑みを浮かべた。
「ああ、オルガンのおじいちゃんね。あっちこっちがイタイって、暖かいところでのんびり暮らすって言って、引っ越しちゃったんだ」と彼女は気心知れた風だ。
「はい。その人でないと直せないオルガンがありまして、なんとか連絡を取りたいんですけど、手段はありますか?」と問う。
「そんなすごいおじいちゃんなんだ。ビール飲んでナイター見てるところしか知らないから、難しい仕事している風に見えなかった」と少々信じがたい顔をしながらもその女性は納得したようだ。
そしてその下町風の女性は、
「ちょっと待ってな。引っ越しが終わったって、新住所を知らせるのにもらったはがきがあったよ」と格子ガラス戸をガラガラと開けて家に入った。彼女は眠っている子どもを畳敷きの子ども用の昼寝布団の上にそっと降ろして寝かせると、更に奥の部屋へと入っていった。すやすやと眠るその赤子の穏やかな寝顔にみなは癒された。
その女性は、戸棚の引き出しから一枚のはがきを見つけたようで、それを持って玄関先まで戻ってきた。そのはがきは絵はがきだった。その図案を見て山崎たちは絶句した。
「南湖の左富士写真だ」と夏夫。
「全く一緒の構図だわ」と美瑠。
「……ってことは、最初からあの人の居場所を教えるメッセージが届いていたんだ。しかも二枚も」と夏夫が小声で返す。
「うん」と美瑠。
別行動から合流した晴海だけが、皆の会話に入れないため不思議顔である。
ただし山崎だけは、どのみち楽器に関する託宣メッセージを解読しないと、この南湖の絵はがきまでたどり着かなかったことを理解していたので、おおすじで間違った解釈はなかったと自負していた。ただそれを言葉に出すことはなかった。
そんな彼らの態度はお構いなしに、女性ははがきの住所を指して、「茶ヶ崎市の南湖だね。住所控えるかい。じいちゃん電話は持っていなかったから、今も無いと思うね。ウチが呼び出しやってあげていたから」と言う。
昭和三十年代後半から四十年代前半は、まだまだ呼び出し電話というのが一般的であり、自営業でもやってない限り借家住まいの人ならほとんどがそうであった。
「ありがとうございます。そこに行って直接交渉してみます」
そう言うと晴海は夏夫から筆記具を受け取って、住所を控えた。
「こっから湘南電車の駅に行くのなら、伊勢町一丁目の電停から西平沼橋で乗り換えて、保土ケ谷駅に出た方が便利だよ。三番系統から四番系統に乗り換えな」と女性は教えてくれた。
四人は深々とお辞儀をするとエステ荘を後にした。
田圃、河川、松林。それがこの頃の茶ヶ崎市の西部、海側の風景である。因みにこの地域では、どの町も昔から東海道(今で言う国道一号線)を境にして「海側」、「山側」と呼んでいた。ただし現在では東海道本線を境に「海側」、「山側」と呼ぶことの方が一般的になりつつある。
保養所が点在する東京などの避寒地として発達した茶ヶ崎は、もともと宿場町ではない。戦前からの別荘地としての雰囲気が残っており、道が狭く、垣根越しの庭を持つ家が多いのもこのあたりの特徴だ。垣根の曲がり角だらけで、日本の唱歌や童謡に出てきそうな風情の残る住宅地である。
人の腰ほどの竹を格子状に組み立てた竹垣が松林の中に見える。一見すると庵のような造りの家がその奥にある。縁側のある踏み石にはつっかけ履きのサンダルが置いてあり、その周りを囲むように、菜の花の黄色い花が、盛りとばかりに咲いている。
玄関先の格子戸には『微葉』の表札が掲げてある。最近かけた様子で木の色がまだ白く若い。
晴海はようやくたどり着いた目的の人物の家の前でインターホンを探していた。
「何しているの?」と山崎と美瑠。
「何ってインターホンを……」とまで晴海が言ったところで、
「そんなもの付いている家、一割もないわよ。きっと東京の一部の家だけよ。普通は門戸を入って、ノックか鈴をならす程度のもんよ」と平然と言いながら中に入る美瑠。
確かに二十一世紀から来た人間には、敷地内に入るのは少々気がひける。晴海の常識も分かるというものだ。
一行が玄関先ですったもんだしていると、近所の釣り竿を肩にかけた男性が通りかかって話しかけてきた。
「微葉さんところかい?」
その言葉に一同は「はい」と答えた。
「この時間はいないよ。鉄砲通りにある『左富士丸』って船宿を兼ねた網元の居酒屋があるから行ってみな。おそらく一杯ひっかけているよ」と教えてくれた。
時計を見ればもう午後四時を過ぎていた。夕方である。あらためて考えてみると、密度の濃い一日である。
「マスター、鉄砲通りってわかる?」と晴海。
「うん。新道一三四号線が出来るまでは海岸方面で海と併走するメインの通りだったところだ。漁師料理屋が多い道だ。おそらくここからなら、すぐそこだと思う」
そして美瑠は「あのバケツ、生シラスをくれた場所ね」と言う。
「そうみたいだね。でも知り合いではないので、あれもメッセージ類かもね」と言う。
鉄砲通りの道筋に、暖簾を出している網元の左富士丸に皆が着いた。
扉を開けると「へい、いらっしゃい!」と威勢の良い声が聞こえる。ねじりはちまきに白衣のご主人が笑顔でカウンターからこちらを見ている。
「あの……。こちらに微葉照美さんってこられていますか?」という晴海の質問に、奥の席で手酌で日本酒を飲んでいた白髪の老人が、顔を上げた。
「微葉はわたしだがなにか……」と徳利を静かに置く。
主人は陽気に、「あれ、旦那のこれですかい? ちょっと若すぎじゃない」と小指を立てて茶化す。
「違います。仕事のお願いがあってきたんです」と店主にきっぱり否定すると、晴海は理由を話し始めた。
「微葉さん。私たちは横浜の楽器屋さんのアガサ夫人の依頼でここに来ました。紅葉坂のパイプオルガンが故障しており、直せる人がいなくて困っています。お力をお貸し下さい」
話し続ける晴海の横で、山崎は小声で店の主人に「すみません。A定食四つ、ゆっくり作って下さい」と注文をした。さすがに用件だけの人間では客とは言えないため、山崎は店に気を遣ったのだ。
察した店主も「あいよ」と小声で返事して、厨房の火を入れる。
「本牧楽器商会のアガサ夫人ですか?」と微葉。
「はい」
「では紅葉坂上にある教会のことだね」と彼は心得ているようだ。
「先日の地震で……あーと何だっけ」と説明に躊躇した晴海は美瑠の方を懇願し、SOSを打診する。
そこで美瑠が変わって話を引き継ぐ。
「パイプオルガンの手鍵盤部の白鍵二カ所と黒鍵一カ所の音が出ません。場所はE♭とAとCの三カ所でした。音色は詳しくは分かりませんが、ノーマルに使っているオルガンの音色だったと思います」
「あんたは?」
「小さな楽器メーカーで鍵盤奏者をしているものです。と言っても電子楽器が主なんですけど」と言う。
「するってえと、ハモンド系のオルガンだね」と猪口を飲み干して微葉が言う。
美瑠は『そういえば、昔は電子オルガンをハモンドオルガンって言っていたって聞いたことがある』と記憶の確認をしている。そして確認が終わると「はい。その類です」と返した。
「よく住所も分からないでここまで来れたね」と言う微葉に、
「以前微葉さんが住んでいらした伊勢町のエステ荘のおばさんが、教えてくれました」と晴海が返す。
「ああ、猿田さんの奥さん、おウズさんだね。子育てしている主婦だ。ご主人が観光局で道案内をしているから彼女も得意なんだろう」と嬉しそうに笑う。
「はい。そこで左富士の絵はがきを見せていただき、お家に行くと、近所の人らしき、釣り竿を背負った男性がこの店にいると教えてくれました」
「それは、恵美須屋のご主人、喜久さんだな」と上機嫌になった。そして「借り物競走や双六のような人捜しをしてきたんだね。それはご苦労だった。意外に私も有名人になったもんだ」と加える。
「分かった。それでは明日、横浜に久しぶりに行ってみよう」と二つ返事で快諾してくれた。
山崎は送風装置取り付け時の設計図らしきものと晴海宛の部品入りの茶封筒を取り出すと、
「これ、部品とふいごの設計図のようなのですが、お役に立ちますか?」と差し出す。
微葉はその青焼きの設計図の束の方に目を通すと、
「これは助かる。分解せずに中の様子がわかるからなあ」と残りのお猪口から酒をすすった。そして「さあどうぞ。一杯いかがかな」と山崎に勧める。注ぎ終わると自分の猪口にも注ぐ。そして小声で「乾杯」と言って、杯を合わせることなく、軽い目線だけで乾杯のしぐさをした。
「良かった、いい人で」と美瑠も安堵した様子だった。
話が済んだその時に、ちょうど店主は「A定食四つ、お待ちどうさま」とテーブルに運んできた」
テーブルに料理を置いて主人が立ち去ろうとした時、山崎は主人に訊ねる。
「あの、ここって船宿なんですよね?」
ぽかんとした反応の後に、「そうだけど何か?」と訊き返す。
「実は船には乗らないんですけど、雑魚寝で良いので朝まで横にならせていただけませんか? 勿論お代は払いますので」と宿泊交渉である。
主人は笑って、「なんだい、帰るのが億劫になったのかい」と言った後で、
「いいよ。泊めてやるよ。仮眠程度しか出来ないけどいいかい?」と快諾してくれる。
「助かります」
「ご存じかも知れないが、宿とは言っても、通常は明け方の出航までの待機場みたいなもんだ。簡単な毛布とストーブ、おにぎり程度の朝食しかでないよ。しかも今日は船が出ない日だから、客を迎える準備がなにも出来ていない。それで良ければね」と加えた。
食事を取っていた一同が揃って、「十分です」と感謝の顔を揃えていた。
「わかった。二階の畳の部屋を自由に使いな。近所の三軒先が銭湯だから、もし必要なら十時までやっているはずだ」
そういうと主人は笑顔で調理場へと引っ込んだ。
「ちょっと、これおひたしだわ」と箸で摘まむと晴海は驚いている。
厨房の中から主人は、「菜の花は苦手かい。ちゃんと下拵えでえぐみは抜いてあるよ。しかもたたみいわしをほぐして混ぜてあるから、出汁もうまく溶け込んで旨味が一層出てると思うよ。季節のものだから試してみなよ」と勧めた。
慌てて晴海は、「そうじゃなくて、菜の花なんて食べたことないからびっくりしているの」と笑った。
「このあたりは東海道の近くまで、自然の菜の花が咲いている。手つかずの野っ原がまだ何カ所か残っているんだ。もう横浜あたりでは難しいけど、ここじゃ田舎なのでまだまだ自然の菜の花が手に入るんだよ」と得意げに笑った。
「じゃあ、微葉さんのお宅にあったあれも食べるの?」と晴海は微葉に尋ねる。
「ウチのはもう花が開いているのでやめた方が良い。花が開く前じゃないと料理には向かない」と言ってから、しみる顔で日本酒をきゅっと飲み干す。
「へえ、みんな地元産でまかなっているのね」と箸で掴んだ菜の花をしげしげと見つめながら、次の瞬間パクリと口に入れた。
「どうだい? 春が口の中にやってきただろう」と主人は得意気に言う。
「うん。良いわね。菜の花。美味しいわ」と晴海は満足げにおひたしを噛んでいた。
翌日、一行は再び紅葉坂の上にある教会にいた。伊勢町の電停を下りてすぐのところだ。「すまないが、美瑠さん。何でも良いから適当に弾いてくれるかい?」と言う微葉のリクエストに、「分かりました」と答える美瑠。
短い感覚で、弾いてはやめる。音色を変えるとまた同じフレーズを弾く。それを何度も繰り返すうちに、分かったことは音の出ていなかった鍵盤でも音色を変えると出るときがあるのだ。
二十回は弾いてはやめを繰り返しただろうか? 微葉は「ふう」とひと息つくと、その場に座り込んだ。そして美瑠に「実際に開けてみないと分からないけど、風の道は正常だと思う。おそらくスライダーの具合が悪いだけのようなので、そんなに難しい不具合ではなさそうだ。しかも預かったストップと連動しているスライダーの箇所が不具合起こしていた。まるでヒントのようだった」と言った。
「金属部分の劣化だったら、金型から作り直したりするし、音の調整があるので歌口の形状や広さなどまで完全に模倣して作らないといけないんだが、そこまでのリペアはいらないようだ」
彼の言葉に「なるほど」と頷ける人は誰一人いなかった。全員がぽかんと口を空けたまま話を聞いてから放心状態だ。
すると皆の後方、礼拝室の入口から「なるほど」と声がした。
振り返ると、そこにはアガサ夫人と一緒にジョニーがいる。しかも清楚な器量よしの美人が、この当時の定番である白いシャツに紺のスカートで横に並んでいた。年の頃は二十歳を過ぎたばかりくらいに見える。見た目は晴海と同じくらいだ。
「ジョニー!」
晴海がその言葉を発するのと同時に「丈二!」と微葉が声を発した。
「じょうじ?」
晴海たち一行は一斉に微葉の方を振り向き、不思議顔である。顔にクエスチョンマークでも書いてあるかのようだ。
微葉は晴海たちの方を振り向き、「ウチのせがれと知り合いかい?」と問う。
「せがれ?」と疑問文で復唱する一同。
バツ悪そうに頭を掻きながら、晴海に媚びを売ったような笑顔を向けるジョニー。
美瑠は「丈二が、ジョウニになって、英語読みでジョニーなの?」と優しく、ジョニーに微笑む。
「丈二君は、ボランティアで各地の学校の壊れたオルガンを直してくれているの。とくに送風の蛇腹の部分やペタルの部分を直すのが得意でね。そこに、普段からウチの楽器店に相談に来ていた拍子ちゃんが赴任先の小学校で、修理できないオルガンがあるということを言ってきたのよ。私たちにオルガンは無理よっていったら、たまたまサックスのメンテに来ていた丈二君が見てやるって言ってくれたのよ」と説明する。
不思議そうな顔をして、微葉はジョニーの方を振り向くと、
「お前、オルガンのリペアなんて出来るのか?」と首を傾げながら訊く。
「小さい頃から親父のやっているのを見ているのだから、簡単なものなら出来るよ。俺が見たのは戦前の山葉のリードオルガンだった。蛇腹の部分のひび割れで、空気が漏れていただけなので、自転車のパンク修理の用具を使うだけで、リペアできたんだ」とすまなそうに小声でジョニーは答えた。まるで小学生が言い訳するように角口をしている。
ジョニーはこの時、父親の微葉に怒られると思っていたたため、あまりこの件に触れたくなかったようである。ところが微葉は「そうか……」とだけ頷くと、彼には見えない角度でにんまりと笑っているのが、夏夫たちの位置からは確認できた。
美瑠は小声で「微葉さん、嬉しそう」と山崎にささやく。
山崎も「うん」と腕組みをしたままの姿勢で柔らかな表情をしている。
ひとしきり置いてから、微葉は「さてと」と切り出す。
一旦ノビをしてみせると、
「おい、そこのあんぽんたん。こんな器量も気立ても良いお嬢さんが、お前みたいなろくでなしとお付き合いしてくれるなんてそうそうねえこった。赤飯炊いて良いくらいラッキーなんだぞ。そこんとこ、ようく、肝に銘じて達者に暮らせ」と言って歩き始めた。
そして拍子の横で立ち止まると、「お嬢さん、嫌になったら、さっさと別れてもっと金持ちのいい男を探した方が良いですよ」と笑顔を向ける。
そしてどんな顔で答えて良いのか分からない彼女を横目に通り過ぎた。そして微葉は扉を開けてエントランスに出て行くとき、「原因も分かったので、スライダーに合いそうな木板を探してきます。午後には戻りますよ。アガサさん」と言って消えた。
「微葉さんって、普段は紳士なのに、息子さんには厳しいんですね」と言う美瑠にアガサ夫人が頷く。
「昔っからなの。そりが合わないのね。気にしているくせに、息子の前ではああやって粋がっているのよ」とやれやれという顔つきだ。
そこに夏夫が「昔っぽい」と笑った。
その言葉に夏夫以外の暦人たちはひやっとした。昔に来ているので、その言葉が危険だと感じたからだ。それに夏夫もすぐに気付いたようで、はっとして口をつぐんだ。
そして間髪入れず、夏夫の頭を、持っていた書類で「パコッ」と晴海が叩く。そして軽く足も踏んだ。ものすごい形相で俯きながら、小声でありながらも強調された口調で言い放つ。
「バカッ! 時間が揺れたらどうすんのよ」
夏夫は両手を合わせると、「ゴメンゴメン」と頭を垂れる。
その様子を気にかけたアガサ夫人は、
「どうしたの? 足でも踏んだのかしら?」と心配そうに訊ねてくるので、
「いいえ。いつもの不注意なので気にしないで下さい」と愛想笑いでごまかす晴海であった。
話題を変えるために、晴海はジョニーに話しかける。
「あんた、普段はお不動様みたいに凛々しくしているくせに、お父さんの前だとからきしなのね」
晴海の言葉にへそを曲げたのか、ジョニーは、「うるせえ」とだけ言って明後日の方角を向いて、口をつぐんだ。そして心中ひとりで『お不動様って……。俺ってそんなに怒髪憤怒な形相してるのか?』と思った。
夕方近くになって、微葉が数人の職人を引き連れて戻ってきた。数枚の板を抱えての登場である。おそらくスライダーと呼ばれる部品の取り付け作業に入るのだろう。
大きな木の板を引き出して床に置く。すると引き出し穴の空間の奥、僅かな隙間から何かが飛び出しているのが分かった。
微葉はのぞき込んでその紙の束に手を伸ばす。
「うん。なんだこれは?」
その紙の束に手が届くと、そっと引き寄せてみるが、意外に重い。動いてくれない。
「どうしたんですか。微葉さん」と声をかける晴海。
「何かねえ、手紙のようなものが束ねてあるんだけど、少し重くてね。部品じゃ無いと思うんだ。もうちょっとで取れそうなんだが……」と説明をしながらも、手を伸ばして、それを必死に引き寄せている。
次の瞬間、微葉は何かを持ったまま、横穴から手を出した。
「取れた」
彼が手に持っていたのは古い帳面で、経年の劣化により茶色く煤けていた。
微葉は「うん。部品じゃないね。なんかの拍子に紛れ込んだんだな」と言って、その帳面を美瑠に預けるとそのまま持ち場へと戻った。
表紙には不器用な日本語のカタカナで『オボへガキ』と書いてある。
「覚え書き?」と美瑠。
そしてその題名の下には、同じ不器用なカタカナで『アダムス』と書いてある。
「アダムスさんの覚え書き?」と今度は晴海が読む。
その横で神妙な面持ちのアガサ夫人が晴海の持っているメモ帳にそっと手を伸ばした。
「ママ……」と一言告げるアガサ夫人。
その一言で皆は全てを察し、固唾を飲んだ。そして沈黙の時間が始まる。
彼女はそっとそのメモ帳を開く。
「七月二日 キョウハ、ツユゾラモオワリ、ハレタノデ、sandwichヲbasketニイレテpublicgardenヘイク。サビシイ、クナイト、タクサンワラウシテクレル。トヨタロウサンハイイヒト。sandwichモオイシイトミンナタベテタ。ニホンゴスコシウマイネ、ミンナホメル。ヨカッタ。キュウリ、ニンジン、トームギ、potato、baconニCatchupトmustardガアウ。マタツクル。」
開いたページを見ながら皆は、その片言の日本語が織りなす、少ない単語での見事な物語に驚かされた。そしてアガサ夫人の顔を見ると、涙で目が潤んでいる。
「ママが生きてる。この文章のなかに、ママの青春が、時間が止まっている」
そう言って彼女は持っていたメモ帳を閉じると抱きしめた。
一同はようやく今回の時神さまの思いを感じることが出来た。
「実際の時間ではないけど、文字のなかに時間が刻まれているんだね」と山崎。
「なんか文学的だわ」と美瑠。
アガサ夫人は「publicgardenはどこ?」と皆に尋ねる。
山崎が、「今の山手公園です。テニスコートのある公園」と告げる。
「ああ、sandwich持って皆で行ったのね。みんなオイシイって食べたのね」
涙を拭うと再びアガサ夫人は帳面を開く。
「七月三日 homepartyオヨバレ。Margareトイッショ。Anglicanノシリアイモタクサンイタ。ニホンChurchノヒトモイタ。サクラノオミヤサマノヒトモイタ。ミンナシンセツ。カエリニチョウチンカシテクレル。キレイ。カミガヒカル。オルガンデ、ミナ、サンビカウタウ。トヨタロウサンウタエナイ。オシエル。オレイイッタ。ワタシモウレシイ。」
その後も何ページかに渡ってそのメモ書きを読み続けると、レシピとともにトヨタロウさんの文字が常に書いてあった。アガサ夫人は再び読むのをやめるとその場にしゃがみ込んで、蹲ってしまった。
「オー。ママ。神さまありがとう」
片手で鼻と口を押さえながら美しい涙を流すアガサ夫人に、皆はかける言葉も忘れてその場に立ちすくんでいた。
美瑠はアガサ夫人にそっとハンカチを差し出すと、皆の肩を押してその場を離れることにした。
教会のエントランスの小さな階段を下りて、歩道に出るとようやく山崎が声を発した。
「今回の使命はとても意義のあるものでしたね」
「晴海ちゃんの大活躍だと思う」と美瑠。
「わたしあんまり何もしていないような……」と心当たりのなさそうな晴海に夏夫が、
「そんなことないよ。楽器店の手がかりを持参してきたのはハルちゃんだもん」と続ける。
一人残ったアガサ夫人は礼拝席の長椅子に腰掛けると再び読み出す。
「七月×(滲んで見えない)日 カイガンドオリ、トヨタロウサンタチヲマツ……」
この日の記述はなぜかカタカナ日本語はここまでで、後は母国語で書かれていた。重要な出来事だったのだろう。忘れないように、細かく記したかったのだとアガサ夫人は推測した。
メアリー・アダムスは洋傘を片手に当時の海岸通りで豊太郎を待っていた。そこに玄関から西洋人らしきご婦人が出てきた。お伴の老女が横に付く。
彼女は同じ西洋人と言うことで気軽さを感じてメアリーに声をかける。
「あら、あなたも英国から?」と婦人。
その言葉に「いいえ。居留地に住んでいます。父親の仕事の関係でこちらに。もともとは西海岸の……」と答えると、
「ああ、そのアクセントはアメリカのヒトね」と婦人は微笑んだ。
そして「ちょうど良いわ。礼拝に行きたいの。国教会のある場所を知っている?」と訊ねる。
敬虔なクリスチャンなのだろう。日曜の礼拝にどこが良いのかを訊いてきた。
「アングリカン(英国国教会)ならブラフの丘の上にあります。元町にある階段を上った先です」と教える。
「そう、ありがとう。行ってみるわ」と上品な笑みを浮かべて婦人は、日傘を広げて歩き始めた。
メアリーが後ろ姿を見送っていると、おもむろに婦人は振り向いて、
「ねえ、あなたお名前は?」と訊いてきた。
「メアリー。メアリー・アダムスです」と答えるメアリー。
「礼拝の後、そうね……。夕方の四時に、この場所に来て。何かお礼をしたいの。それに今日はアメリカの方と一緒にいたいわ」
彼女はそう言って会釈をすると、再び前を向き直って歩き始めた。そしてなにやらお伴のものに話しかけている風にも見えた。
「綺麗なキングスの言葉だわ。きっと貴族のご婦人ね」と彼女は独りごちた。
小雨が降ったりやんだりの相変わらずの天気のなかで豊太郎と一緒に七夕飾りを片手に、再びグランドホテルの前にやってきたメアリーは、笹の小枝を手に彼女を待つ。待ち人がいることを豊太郎には告げてある。
「豊太郎さん。大丈夫。悪い人じゃないわ」と念を押すメアリーに、豊太郎は、
「一応の用心だ。メアリーに何かあったら困るからね。一緒にいる」とよこで作り終わったばかりの竹製の横笛を吹いた。
メアリーは「もう」とだけ笑ってそれ以上の言葉を発しなかった。
そこにちょうど貴婦人が先ほどの侍女を従えて到着した。すでにホテルの部屋にいたようで、玄関から出てきた。
「お待たせしました。来てくれて嬉しいわ」と貴婦人。
そして「私の名はアン。アン・シャルロット。英国の民生の仕事をしているの。夫は銀行家なので、不在がち。私はその間、孤児院や教会の子どもたちに料理を披露したり、音楽を聴かせたりしているわ。今回の旅はアメリカからの帰国で、太平洋航路を使って、インドにいる夫に合流するために、トランジットで横浜に一週間ほど泊まっているの。もう二日目でそろそろ飽きてきたの」と笑いかけた。
メアリーは「彼は豊太郎さん。私のお友達で、日本人。竹細工職人をしているの。英語も少しだけ分かるわ」と紹介をする。
「OK。豊太郎さん。では、オルガンの弾ける場所に連れて行って下さい」と単刀直入のリクエストがアンから飛んできた。
豊太郎は少し考えて、「そこは馬車で行くところ」と答えると、
「OK。用意させましょう」と笑顔で侍女に何か耳打ちした。
程なくして屋根なしの馬車がホテルの前に到着する。荷馬車を改良したもので、天蓋式幌を設置できるレールが付いているものだ。
四人が馬車を降りたのは、伊勢山の麓。紅葉山の入口あたりだ。当時流れていた運河、桜木川の岸辺である。
「この坂の上にオルガンがある」
豊太郎が掃部山の教会に連れて行くことがメアリーにはすぐ分かった。
しばらく歩いて、目の前に現れた教会を前に、アンは「アメリカンの教会ね」と頷く。
そして「ここにオルガンがあるのね」と言って、足を踏み入れた。
豊太郎は牧師さんに、
「牧師さま、イギリスのご婦人がオルガンを貸して欲しいそうです」と大声で、脇の窓に向かって伝える。
しばらくすると、優しそうな紳士が背広姿で玄関の脇から出てきた。丸眼鏡の奥にある目を見れば、穏やかな性格が誰からでも見てとれるようだ。
「やあ、いらっしゃい。オルガンですね。大変幸運なことです。たまたま今日は鞴の係のものが打ち合わせに来ているので、お願いしてみましょう」と言う。
牧師さんはアンに手を差し出すと、握手を求めて、
「この教会の牧師、ケントです」と告げる。
出された手を握り返して、
「アン・シャルロット。ロンドンから来ました」と笑顔を返す。
そして「こちらのお嬢さんにお世話になったので、何かお礼をしたくて、音楽でお礼をすることにしました。どうぞ少しの間、大切なオルガンを使わせて下さい」と加える。
「やあ、メアリーも一緒か。それは良いことをしましたね。どうぞお入り下さい」と彼は皆をなかへ誘った。そして一行が礼拝室の中に入るのを見届けると、
「では、私は用事があるのでこれで。数分でオルガンの音は出ます。終わりましたら、挨拶は無用です。そのままお帰り下さい」とだけ残してその場を去った。
アンはメアリーに笑顔を向けると、
「私は英国人ですが、アメリカの独立には大賛成の家に生まれました。独立戦争など無いままに独立することが大切だった」と言う。
そして「なぜか今日はそういう日です」とだけ言って、パイプオルガンに座った。
彼女が奏でたのは『自由の鐘』である。鍵盤風にアレンジがされている。上手にまとまっているアレンジだ。勿論メアリーも聴いたことはあるが、この時代のレコードと比べたら音質は雲泥の差だろう。生の楽器の方が直接心に響いてくる。
天井に、窓に、床に、その凛々しい音色は、柔らかな旋律を美しくも力強くも反響している。
「上手……」
メアリーは思わず聴き惚れた。
豊太郎も驚かされた。教会関係者でもない旅人の貴婦人がこんな技巧的な演奏を奏でるのだ。しかも西洋音楽が一般の人々にまで、まだ浸透していない時代の出来事だ。驚きもより
弾き終えた彼女は椅子から立つと、ドレスの片裾を軽くつまんで持ち上げるとお辞儀をした。
メアリーと豊太郎は賞賛の拍手を贈っている。その響きは礼拝堂の奥まで届くほどこだましていた。
メアリーは「今日のこの演奏、絶対に忘れません。あなたのような英国人にお会いできたことも最高の幸せです。インドで無事にご主人とお会いできることを心から願っています」と加えた。
豊太郎は手に持っていた竹の横笛をそのままアンに手渡した。
「これは何ですか」
「日本の横笛です」というと、メアリーが加えて、
「竹で作ったオカリナのような笛です」と助けを出した。
アンはしばらく見てから、
「ちょっと、吹いてみて」と再び、豊太郎に渡す。
豊太郎は竹笛にそっと口を当てると、唱歌の『うさぎ』を吹いた。短い曲なのですぐに終わるからだ。
「おー、すごい」とアン。そして、「これは何という曲ですか」と訊ねる。
この曲を知っていたメアリーは「これは『うさぎ』です。秋の満月を見て喜ぶウサギを歌っている曲です。日本では古くから月の中の模様が、餅をつくウサギに見えたことから月とウサギは関係あると考えられています」と説明する。
「あはは。私たちの国では月の黒い部分は女性の横顔っていうあれですね」と納得する。
メアリーも「そうです」と微笑んだ。そして「日本には月から来たお姫様が竹の中にいるという昔話もあります。そして七月七日は星祭り、七夕と言います。月や星、自然を大切にしてきた国の人々なんですよ」と加える。
「あなたは日本が大好きね」とアン。
その言葉に躊躇うことなく、「はい」と大きな声で答えたメアリーだった。
その部分の会話は豊太郎にも理解できたため、どことなく嬉しげな顔で、竹笛の口を手ぬぐいで念入りに拭くと、再びその笛をアンに渡した。
アンはその笛をじっと見つめている。異文化を少しだけ理解できたことが嬉しかったようで、「ありがとう。幸せ」と口に出して呟いた。
すると豊太郎は気を良くしたようで、もうひとつのプレゼントを懐から取り出して、アンに渡した。それはカラフルに色づけされた「彩色絵はがき」と呼ばれる横浜で外国人に人気のポストカードであった。
アンは受け取った絵はがきと笛をしげしげと見つめると、「ここに来るまでは同盟国だから治安の面でと言うことで経由地に選んだけど、この国にはそれ以上の何かがありました。私も日本が好きになりました」とふたりに笑顔を向けた。
メモ帳にあるその日のメアリーの日記は、ここまで記した物語の部分が既述のように母国語で書いてあった。だが、最後の数行は再びカタカナの日本語で記され、閉じている。
「Anneニオワカレシタアト、トヨタロウサントフタリノカエリミチ。コドモデキタラlibertyBellヲキカセル。ソシタライイコトダ。トヨタロウサンモイッタ」という締めくくりであった。
読み終えたアガサ夫人は再びそのメモ帳をキツく抱きしめた。
「いっぱい聴かせてもらったよ。ママ……。私が旦那様と横浜に来たこと間違ってなかった。楽器店始めたこと間違ってなかった。ママの青春横浜にあった」と呟きながら……。
野毛の商店街の奥深くに位置するライブハウス『ラーク』。そこに一人のサックス奏者がスポットライトを浴びている。古ぼけたアップライトピアノには、彼と息の合ったジャズピアニストが背中を丸めながら、鍵盤を撫でるように軽やかな音を奏でている。
その姿はさながらソニー・ロリンズとレイ・ブライアントといったところだろう。スポットライトを浴びて光る金管の美しさのすぐ前で、優しくその姿を見守っている拍子の姿が見える。
「次の曲はある優しい老夫婦に捧げるよ。曲はジョン・フィリップ・スーザの『libertyBell 自由の鐘』だ」と言って、カルテットで構成したジャズ風のアレンジで音がなり出した。
アガサ夫人、微葉、拍子。それぞれの思いで彼らのはこの曲に聴き入っている。切ない思い、躍動感、未来への跳躍、聴く人にとってそれぞれの思いがよぎる。オルガンとはまた違った雰囲気の味わいがステージから伝わる。
曲が終わるとステージ上のジョニーに、拍子が近づく。新聞紙に包まれた胸一杯の菜の花の花束を抱え、それをジョニーに手渡す。
「お前にはそれぐらいの花がちょうど良い。気取らずに、酒のつまみにもなる。実用的な花だ」と微葉が最前列客席で笑いかけている。
少し照れた仕草のジョニーは彼女の肩を抱くと花束を抱え、大きく客席にお辞儀をした。
それを見届けた暦人の一行は、静かに入口のドア付近から一礼をすると、ライブハウスを後にした。
野毛は横浜の歓楽街の一角を占める、眠らない町である。しらめいてきた空に負けじとネオンサインが輝いている明け方。
「今日は、日ノ出町側から神明さまに入りましょう」と山崎。
「了解」と一行。
まだ始発の走らない市電の線路を跨いで、伊勢町の方へと大通りの坂道を上り始める。
「あの二人、仲直りできるかな?」と美瑠。
「ジョニー親子?」と晴海。
「うん。意地っ張りな親子だから」
美瑠のその言葉を聞いて、
「珍しいですね。美瑠さんがおせっかいのような心配をするのは」と山崎が笑顔で返す。
「あら、口には出さなくても、いつも私は皆の幸せを願ってやまないのよ」と平然とした口調だ。
「今回はアガサ夫人も微葉さんも親子の絆の大切さや難しさを見せてくれましたね。血のつながりに加えて、生活を共にすることが幼少期の成長過程で、親子関係の共通認識見たいなものを育むんですかねえ」と山崎。そして「慕う愛情のアガサ夫人と反発しながらも緩やかに影響し合う微葉さん親子ステキですね」と続けた。
「凪彦さんはどうなの?」と美瑠。
不意の質問に「私?」と驚いた山崎だが、
「私は親と暮らしている時間はとても少なかったので参考にはならないかと……」と言いかけた。
その時、美瑠の眉が『しまった!』という動きをした。山崎は事情があって、祖父の家で幼少期の一時期と青春時代を過ごしている。その後はずっと一人暮らしだ。
静かに項垂れると、「ごめんなさい。思いやりに欠ける質問だわ」と素直に謝った。
すると、「もうおじさんですから、傷つきやしませんよ」と気にせぬ素振りで山崎が笑う。
「はは」と美瑠も『やっちゃった』感の残った笑顔で返す。気遣いや相手を思いやることの出来るカップルである。ここにもまたアガサ夫人と同じ優しい空気が満ちている。
話題を変えるべく晴海が、「しっかし、さあ」と切り出す。
「ジョニーって、どこかふてくされて、そっぽ向いた子どもみたいだったわ」
その言葉にピンときた夏夫。
「じゃあ、誰かさんと同じだ」と軽く突っかかる。ジョークで場を和ませる役目だ。
「なによ。私と同じって言いたいの?」と睨みながら返す晴海。
「なにも言ってないでしょう。すぐに言葉で噛みつくんだから」と困惑顔の夏夫。
「でも、良かったじゃない。オルガン修理っていう、お父さんと共通の話題が出来たみたいだし、上出来の恋人も見つかって。しかもサックスの腕もなかなかだったわね」
「ロリンズの癖がそのまま節や音にまねされていたのは、ぞくっときちゃいました」と珍しく興奮気味に山崎も言う。
一行が鳥居を潜ると、紫色の夜明けが東の空を染め始めている。桜の花も随分と咲き始めているようだ。境内にある「
暦人たちが使う『七色の御簾』、『金色の御簾』とも称されるタイムゲート。この桜ヶ丘神明宮にあるタイムゲートの場合、朝日のオレンジ色の光の中で日の出の時間だけ現れる。とりわけ桜の季節や、他の神社と同様有明の月が見える日にはゲートの大きさが広がる。
「ゲートが開き始めているわ」と美瑠。
その言葉に、一行は本殿に向かって一礼をした後、次々と光り輝くゲートに足を踏み入れた。
無重力空間をひたすら落ちる感覚はいつもと同じだ。
エピローグ
美瑠、夏夫、山崎がストンと着地すると、元居た場所、カフェギャラリー「さきわひ」である。
テーブルの上に置き去りだった夏夫の撮った筈のポジフィルムは、感光したように真っ白な画像へと変化しており、古い南湖の風景はそこには写っていなかった。
皆はそのフィルムを見て無言で顔を見合わせた。任務終了といったところだ。
勿論、フィルムがこの状態なのだから、山崎のデジタル画像など確認するまでもない。「今回は長かったなあ」と夏夫。「しらすのバケツに一緒に入っている菜の花、教えていただいた通りにおひたしにしましょうね」と美瑠は確認に動く。そして「この生しらすもすぐにゆでて釜揚げにしましょう」と腕まくりを始めた。
鍋に移しながら美瑠は続ける。
「これを持ってきたのは今現在の拍子さんね」
「何でそう思うの?」と夏夫。
「女の勘よ。あるいは暦人の勘ともいえるかも……」と言いながらコンロに火を入れる。
「拍子さんて暦人だったの?」と夏夫。
「そんなにおいがしたわ。同業者の香りって言うのかな?」と笑ってから、
「でもいずれにせよ。疲れたわね、今回は」と再度漏らす美瑠。
その言葉に同調するように山崎も、「ちょっと疲れが出てきた。もう無理できませんね」と肩を叩く仕草。
それを見た美瑠が山崎の肩をもんでやる。
「マスター。すごいじじくさい」という夏夫に、言い終わるのを待たず、
「ええ。じじいですから。お構いなく」と平然とはねのけた。
夏夫は内心『すねたな』と思ったが口には出さなかった。
山崎の肩をもみながら、美瑠は「晴海ちゃんだけ、こっちに来なかったけど大丈夫かしら?」と呟く。
「そういえば、今回はタイムゲートの出発じゃなかったから元の場所に帰ることになるんだね」と夏夫。
彼のその言葉を聞くやいなや三人は「あっ!」と大声を出した。
勿論彼らの心配した声は彼女のマンションの部屋までは届くはずもない。
だが土足、靴履きのままで自分の部屋のど真ん中に着地して嘆く晴海の姿は容易に想像がついた。
「ぎゃー! スリッパはダメにするし、カーペットは泥だらけ! なんなんだ」
半べその晴海、大役を果たした英雄であった傍らで、一方、やることなすことなぜか今回は一人負けであった。
了
時神と暦人1⃣ 湘南と多摩の時間物語(前編) 南瀬匡躬 @MINAMISEMasami
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