第5話 ♪女神フローラの住む薔薇のアトリエ

――暦を司る神さまを時神ときがみとしてあがめる人たちがいる。その使者として時を旅する者たちは暦人こよみびとやカレンダーガールと呼ばれている。その時間移動には太陽と月の光、そしてそれらを祀る場所に開く「時の扉」が使われる。いにしえより続く、限られた人たちだけが、その役目のために隠密行動で時を超える。そして彼らの原動力は、いつの時代も人の世のやさしさ――


   町山田まちやまだ日月町にちげつちょう

 地中舞ちなかまいは丘の上女子大に通う大学生。東京都多摩地区にある町山田市の日月町の新興住宅地に住んでいる。

 ほぼ毎朝お向かいの不二春彦が農業試験場に出勤する時間にちょうど玄関の扉を開ける。彼は農家造りの家の主人である。実際の農業従事者は彼の父である。


 春彦が車でスタートする時に、フロントガラス越しで会釈をしてからバス停に向かうことが多い。規則正しい生活を送る人間同士が持ってなせる業だ。


 その春彦は、お向かいさんであると同時に、舞にとって一学年下の後輩である不二夏夫の父親だ。夏夫とは小学校、中学校が一緒で、登下校の班や子供会が一緒だったため馴染みが深い。……とは言っても舞もお年頃、後輩とは言え、さすがに面と向かって異性と話す機会も少なくなってきた。


 いつものように舞が町山田駅行きのバスを待っていると、女性に手を引かれて夏夫がやってきた。


「ほら、しっかりしなさいよ。今日はアルバイトでしょう」と指示をしているのは、その彼女らしき女性である。舞は彼女の顔を見た覚えがあった。


 夏夫は舞の姿をバス停で見つけると、嬉しそうに「舞ねえちゃん」と手を振る。舞は持っていたクリアファイルで半分顔を隠しながら恥ずかしそうに、小さく腰の横で手を振った。


「だれ?」と怪訝そうな彼女の声に夏夫は、「近所に住む小中学校でお世話になった地中舞さん」と紹介する。

「へえ、お育ち良さそうな女性ね」と、晴海はいつものごとく、小さなヤキモチ癖が出始めていた。ところが今日は少し勝手が違って、相手の顔をよく見てみると、「あれ? 昨日学食で席譲ってくれた人ですよね」と表情を変えて訊ねる。


 すでに分かっていた舞は「はい。授業も同じものをとっていますよね」と笑う。


「知り合いだったんだ」と晴海は急に親近感が湧いたようだ。そして内心短気から来るヤキモチ焼きの本性を出さないで良かったとほっとしている。


 夏夫は「すでに知り合い?」と双方の顔を交互に見ながら驚いている。そして「じゃあ、紹介いらないか」といいながらも、「舞ねえちゃん、この人僕の彼女の阿久晴海あぐはるみさんていいます」と紹介する。


 すると穏やかそうな表情で舞は「よろしく」と笑った。少し斜めに会釈するその姿は品のある所作に感じる。


 舞の言葉が終わると同時にバスが停車してドアが開く。夏夫と晴海は「行ってらっしゃい」と手を振って舞を見送った。


 バスを見送って二人はやれやれと緊張がほぐれる。その次の瞬間、晴海は、「夏夫、あんたも乗るんじゃなかったけ? あのバスに」と言う。その言葉で我に返り夏夫はバスを追いかける。

「待ってくれー!」

 勿論そんな叫びはバスには届かない。彼はバイトに遅刻するハメになった。


   相南あいなみ・桜台

「うん。知っているわよ。舞ちゃんでしょう。小五の時に横浜の山手から転校してきたのよね」と朗らかな顔の美瑠。町山田から電車で二〇分ほどの町、相南市の相南桜台駅前にあるフォトギャラリーのカフェ店内でのこと。


 バイト先で散々説教を食らった夏夫は、仕事帰りに山崎に慰めてもらおうと彼の店に寄ったのだが、あいにくの留守だった。店を任されている美瑠との世間話である。


「あの子、屈託のない笑顔で、おとなしくて、柔らかくて、品のある良い子よね。舞ちゃんの悪口言う人見たことないわね」と美瑠の最高のお墨付きの人物のようだ。


 その言葉に「やっぱりそうだよね」と言う夏夫。

「普通のドラマや物語の登場人物なら、そういう人って裏ではズルかったりするんだけど、彼女はこころのコアの部分まで真っ白の良い子ね」と加えた。

「そんな人いるんだねえ」と笑う晴海。その横で夏夫は「見習ったら?」とジョークを飛ばす。勿論、晴海はそういう時にすることは一つ。夏夫のほっぺを軽くつねって、笑顔で「なんですか?」と訊き返す。


「なんれもありまふぇん(なんでもありません)」といつもの調子で夏夫が謝る。

 その光景を流し目で見て、カウンターに頬杖ついていた美瑠は、

「あんたら、よくあきないわね」とさじを投げた感の言葉であしらった。


 夏夫はほっぺを押さえながら、カウンターテーブルに広げたお気に入りの一眼レフの掃除を始めた。


   横浜・元町

「あら」と声をかけてきたのは舞である。学期末の試験を終えて、気が楽になったため、のんびりと「元町ぶらり」に出かけようとしていた晴海の足を止めた。


「あっ。こんにちは」と晴海。

「夏夫君の…ええっと」と名前の出てこない様子の舞に、「晴海です。阿久晴海」と名のる。


「そうそう。晴海さん」と笑顔の舞。「英文学なのね」と加える。持っていた英文学史の教科書を見て分かったようだ。


 晴海も同じく、スケッチブックから「ビジュアルデザインですか」と彼女の専攻がデザインであることを知る。舞は以前から晴海のことが気になっていたようで、「唐突でごめんなさい。もし良ければなんですけど…」と切り出した。


「次、テスト終わって、私、空いてるの。お時間無いですか?」という舞に、「私も。それで元町ぶらぶらに出かけようと思っていたの」と返す晴海。

「あら良かった。じゃあ、内山パン買って、山下公園でだべりましょうよ」と舞の誘いに応じる晴海だった。そして「季節柄、進級の悩みかな?」と晴海は独りごちた。


 老舗パン屋の一つ、内山パンは元町通りの一本裏路地、元町通りに併走して走る通りにある。元町・中華街駅アメリカ山公園・元町出口側の駅前だ。そこから山下公園は目と鼻の先。二人は赤と黒のイラストの入ったパン屋の袋を抱えて公園へとやってきた。


 二月も後半になると、元町付近は、他の内陸の地域に比べれば少しだけ暖かい。お昼時ならなおさらだ。日によっては暖をとらなくてもひなたぼっこを楽しめる程度の温度である。


 ベンチの一つを見つけると二人は座って話を始めた。

「たまに元町中央公園の教会前でお月さま見ているでしょう?」と切り出したのは舞だ。


 予想外の話題で、勿論身に覚えのある話。しかもカレンダーガールとしての仕事である。いきなりのカウンター・パンチのような発言に晴海は言い訳を探そうと必死だった。


「隠さなくていいわ。私もあのゲートをたまに使うの。帰省の折に」と切り出した舞。

「えっ?」という反応と同時に、「そう同業者よ。カレンダーガールなの」と舞は静かに笑った。


「ただ私は代役のカレンダーガール。半人前でもあるし、だからこの時代の仕事が終わったら、未来に帰っちゃうんだ」とメロンパンをほおばる。

「この時代の人じゃないの?」と晴海。


「二十五世紀から来たの。このような立場の人間を「時置人ときおきびと」って言うみたい。小学生の時に転校という形でこちらの小学校に入ったの。暦人のルールが適応されやすい場所ってことで日月町に」と言う。そして「本当の父母は未来にいるんだけど、シスター摩理朱まりあの妹さん夫婦の娘と言うことで、この時代には置いていただいているの。実際には一人暮らしのようなものだけど」


 そう舞の話を聞き終わると、晴海は『魔法使いサリー?』と心中呟いた。少しだけテレビマンガとイメージがダブったようだ。加えて『箒に乗ってやってきたのかな?』と、どうでも良いことを考えていた。


「…それで、私になにか頼み事なんじゃないの?」と笑う晴海。そして「お金以外は無理よ」と加えた。


 その台詞に彼女はくすくすと笑うと「晴海さんって面白いのね。普通の人と逆だわ」という。


「だって考えるの苦手だし、努力するの苦手だし、疲れるの嫌いだし…」とひと通り並べる。だが言い終えた後で、自分の言葉を熟考すると、彼女は『ひょっとして私って、イタイかも』と自分のことを客観的に判断できたようだ。そしてあっという間に落ち込んで、「夏夫に捨てられないようにしなきゃ」と独りごちた。


 そんな彼女の一人芝居、自問自答に気にすることもなく、舞は続けて「お願いって言うのは知恵を貸して欲しいの。出来る範囲でいいから」と言う。

「具体的に言って」と我に返って応える晴海。そして「私、考えるの苦手だから、直球で言われる方が楽なんだ」と加えた。


 一息つくと、舞は「古代ローマの『祭暦さいれき』って知っている?」と訊く。


 その質問に晴海は「ええーっ、いきなり歴史のお話なの? 私、歴史苦手。古代、中世、過去、現在、未来しかわかんない」と頭をかきむしる仕草をする。


「実は最近、幾つかのメッセージらしきものが頻繁に届くの。それが分からず、繋がらなくて、私一人ではどうにもならないの。時置人としての約束の期限と関係のある託宣なら、私の滞在期間中にメッセージの解読が出来ないまま、もとの時代に帰ることになる。もし託宣を見逃してたら、って思うと……」と落ち込んで、塞ぎがちな目をした。


「ペナルティがあるの?」

「この時代に取り残される。きっと私が思うに、半ば迷い人同然になるわ」

 困った顔の舞は目を伏せた。かなり深刻な状況なのは、その面持ちからも読み取れた。


「要はご託宣、メッセージの解読を手伝えば良いのね」と明るく振る舞う晴海。そして「その期限はいつ?」と問う。


「早ければ早いほうが良いわ」


 真剣な面持ちの舞に、

「なんだ、そんなことか」と晴海は目を輝かせて元気づける。困った人や悲しみ深い人間を見殺しには出来ない性分だ。


「わかるの?」と舞。

「全然わかんないけど、近いうちに、わかる人がいっぱい居るところへ連れて行ってあげるわ」と自信ありげに晴海は笑う。

「そんな。むやみやたらに他言して、時間の流れが揺れたら困るわ」と不安な面持ちの舞。


 すると含みのある明るい笑いで、

「それは大丈夫。全員暦人だから」と晴海はウインクした。


   相南・桜台(フォトギャラリー「さきわひ」)

 扉を開けるとフォトギャラリー喫茶「さきわひ」には、総勢四人が待っていて、晴海と舞で計六人が会合を開くことになった。


 大荷物を抱えた舞。画材を運ぶような大きなトートバッグに、この何ヶ月かで彼女に提示されたメッセージの品が入っていた。

 皆はそれらのアイテムを広げられるように、店内のテーブルを一カ所にまとめて広い作業台を作り、彼女たちを待っていた。


「紹介するわね。私と同じ大学のデザインを専攻している地中舞さん」と皆に言う晴海。それと同時に軽い会釈をした。そして頭を上げたとき、舞はその面子の中に知り合いがふたり混じっていることに気付いた。


「あれ? 明治美瑠さん。それに夏夫君も?」

 舞は内心『秘密がばれないか。大丈夫なのか』という顔をした。

 その顔色を悟った美瑠は、彼女の不安を払拭するがごとく話し始めた。


「久しぶりね。私は相南の神明さまを時神さまとしている暦人なの。そしてこっちも私の幼なじみで、舞ちゃんちのほぼ横にある集合住宅に昔すんでいた森永ちこちゃん。やっぱりここの時神さまにつかえているの。そしてこっちは私のダーリン。山崎凪彦さん。暦人御師を務めています」と紹介をした。


「ええっ! 美瑠さん、暦人だったの? じゃあ、もっと早くに訊きに行けば良かった」と驚きを隠せない。そして待ちくたびれたのか夏夫は自分から紹介した。


「僕、不二夏夫。町山田の日月さまにお仕えする暦人。じいちゃんも暦人の家なんだ」


 舞は向き直ると、「夏夫君もなの?」と更に驚きを隠せない舞。そして自分がなぜ時置人として町山田市の日月町内に移動したかを、少しだけ理解できたような気がした。


「あの町内、人口比で言ったらすごい暦人の比率になりそう」と笑う舞。

「そういえばそうね。他に彩香さんだっているしねえ」と今更ながら納得する美瑠。


「でも心強い助っ人を得た気分です。有難う」と舞はお辞儀した。

 夏夫は「よし!」と言って景気づけに「パン!」と手を叩くと、

「ではメッセージ、ご託宣の解読、早速始めよう」と促した。


 つられて舞も、

「あ、そうね。今アイテムを出します」と大きなバッグを自分の下で開いた。

 彼女はまず分厚い本を取り出す。とても重くて大きな本だ。学術書の類で、活字ぎっしりのめまいがしそうな細かい字で書かれている本だった。そこには『祭暦(Fasti)』と書かれていた。


「一番はじめのアイテムはこれで、お正月頃に私の家の前に無造作に置いてありました。さすがにこんな高価な本を悪ふざけやいたずらでは使わないと思って、メッセージとして取っておきました」


 舞の説明に山崎が、

「うん。『祭暦』って、いかにも暦人にぴったりそうな本だね」と笑う。

 その言葉に舞は、山崎はおおよそこの本の意義は理解してくれたと察したが他の者にもわかるように説明を入れる。


「ローマの宗教行事と歴史現象、暦のルールなんかが書かれた本です。目を通したんですが、基礎知識の無い私にはさっぱりでした」


 つぎはちこだ。


「こちらで言う『延喜式』、『風土記』、記紀神話を合わせたようなものだったと記憶しているけど…。かなり大ざっぱに言えばね。そして著者が失脚したため全巻完成していない未完本。ギリシアの『アイティア』が底本だって言う人もいるみたい」


 ちこは眼鏡を外して、その本の表紙をまじまじと眺めながら言った。

「はい。そうでした。すごい知識」と驚く舞。

 美瑠は、「ちこちゃんは、キュレーターなのよ」と加える。

「それは心強いです」と舞。


 彼女は再びバッグの中に手を伸ばす。

「次はこれなんです」と言いながら、さっきの本よりも小型で古そうな雑誌を一冊取り出した。そこには『明星』と書かれていた。


「これって短歌の本よね」と美瑠。

 その言葉を補うように、山崎が続ける。

「与謝野鉄幹さんの主催で始まった文芸雑誌だったような……」

「芸能界雑誌の方なら知っているのに」と夏夫。


 彼の言葉に「余計なこと言うな!」と言って、「パコン」と彼の背中を折り込みチラシを丸めて軽く叩く晴海。

 彼のジョークを余所に会話を進める舞。


「そうなんです」と言ってから、

「これ二冊とも真面目な本ではあるのですが、接点がありません。どうにも困っています」と鬱ぎ込んだ表情をする。


「それで、次もまた本でした。私の部屋の机の上に大胆に置いてあったんです。鍵のかかった部屋に誰かが入るわけもなく、しかも欧文のタイトルのところに付箋が貼ってありました」と言って取り出す。それは『日本植物誌』と書かれたカラー図鑑だった。

「今回の時神さまは読書家ですか?」と夏夫は不思議顔である。

「シーボルトの『日本植物誌』かあ。花の写真撮りに行きたい」と山崎。

「全部読めと言うわけじゃなさそう。アイテムは三つね」と言う美瑠。


 するとかぶりを振って、「先週また私の家の玄関に差し込まれていたのが、この紋章がプリントされた紙なんです」と舞は返した。


 それはカラスらしき黒い鳥が王冠の上で羽を広げているものと、その下に金色の布に青い玉ひとつ、赤いたま五つのデザインが施されたものだった。

「どこか、ヨーロッパとかの紋章に見えるけど…」と言った美瑠の横で、ちこが言う。


「それはわかるわ。有名だもの」

「わかるんですか?」と前のめりな舞の声に、皆がちこにすがるような眼差しを向ける。


 ちこは特段構える風でもなく、「メディチ家の紋章よ」とさらりと述べた。

 そして、「メディチ家と言えば、イタリアのフィレンツェ市の門閥貴族もんばつきぞく。もともとは医学薬学で財をなし、その後金融や取引、ガラス細工などでその地位を不動のものにする。その後一族から教皇やフランス王妃などを出して、名実ともにヨーロッパの名門となった。とりわけルネサンス期のヨーロッパの芸術庇護者として、名だたる芸術家を支え続けたことでも有名ね。その傑作の数々は今でもフィレンツェから離れることなくウフィーツィ美術館に所蔵されているの。ルーブルやオルセーと並ぶヨーロッパ屈指の名品揃いの美術館になっているわ。おそらく、この紋章は私でなくとも、美術や歴史の本を読み慣れている人にとっては、見慣れた図案だわ」とも加える。


 美瑠は、「まとめてみると、ローマの祭事縁起本、短歌の本の『明星』、シーボルトの『日本植物誌』、そして最後がイタリアの名家であるメディチ家の紋章ね。ちょっと今までにはない、ややこしいメッセージが並んでるわね。私たちに送られてくる託宣よりも、ちょっと高尚で、毛色が違う感じ」とまとめあげた。


 思案のポーズで無言を貫いていた山崎が、

「最初と最後のメッセージはイタリアのものですね。そこがなにか引っかかる」とやはりまとめてみる。どちらかと言えば、彼の中では所感を述べたという感じなのだろう。


 そして気付いたように、「ああ、門外漢の意見ですから、よしなにお計らいを」と謙虚に言い訳もつけた。こういう時の山崎は自信が無い時の意見の出し方だ。


 その表情を見た美瑠は、微笑むと『今回、凪彦さんはサポート役に回りそうね』と心中独りごちた。


   東京・飯田橋

「事情はわかるけどさ、西風せいふうくん。なんとか身分証明書を持ってきてくれないかな」


 ところは変わって、東京都千代田区と新宿区の境、飯田橋駅から目白通りを歩いて、少し奥まった場所にある花屋の店先で小言を言われる青年がいた。


「親とうまくいってなくて、帰れないんですよ」

「私は良いんだけど、定期的にアルバイトに来ていると、日給日払いのバイトという会計処理も良くないって言われちゃってさあ」と人の良さそうな白髪の老人が困り顔である。


 そこに現れたのは、越後誠也えちごせいやであった。

「やあ、西風君。元気にしているかい」

 右手を挙げて気さくな挨拶をした。

「ああ、越後さん。ちょっと困ったことになって」と西風はグッドタイミングと感じて越後をすがるような眼差しで見つめた。

「ああ、越後さん。こんにちは」と白髪の老人、店主の佐久間が挨拶をする。どうやら彼らは顔なじみのようだ。

「どうかしましたか」と越後。

「いや。越後さんのご紹介だったので、西風君を雇ったのですけど…。いや、よく働いてくれるんですが、どうも会計処理で、日払いを同一人物に払い続けていたので、正式に雇用契約結んでくれと事務方から言われてしまいましてね。どうにも困っていたところですよ」と胸の内を吐露した。


 状況を察した越後は、「すみません」と詫びを入れてから、

「状況が状況なので、私もどうして良いのかわからないのですが、では一旦雇用契約を私が引き受けるという形ではどうでしょう。そして私の方から彼に支払いをするという、出向、嘱託扱いにしては?」と提案をする。

「保証人を立てて、会社派遣のかたちにするというのですね」と佐久間。

「はい。それならサービス料・報酬扱いで、会計関係の方も多少ご納得いただけませんかね」と柔らかい口調で確かめる。


 佐久間は、「越後さんとこからの出向扱いなら大丈夫でしょう。なんせ『アート・クリムト』のオーナーですからねえ」と安心した面持ちに変わる。


 越後は神保町と飯田橋にオフィスと店舗を構える複製絵画製作工房のオーナー社長である。著作権の伴わない古い絵画を実物と同じ技法や似た材質のカンバスや絵具で作成してオフィスや家庭用に販売している会社の経営者だ。


 手広く商売している花屋の主人である佐久間とは、静物画の複製のための花や画廊に置く生け花などを注文する事も多く、どうやらそのつてで西風を雇ってもらったようである。


「ちょっと西風君をお借りして良いですか」と越後。

「ああ、今日はちょうど上がってもらう時間だったので大丈夫ですよ」と言ってから、西風の方を向き直って、

「良かったな。仕事続けられて」と佐久間は上機嫌だ。

 支度を終えた西風は、佐久間に挨拶をすると、下宮比町のお堀端を越後と並んで歩く。

「歩きながら話そう」

 たばこに火ををつけようとしていた越後であったが、「歩行禁煙」の看板を目にしたため、取り出したたばこを箱に戻して、箱ごと胸ポケットにしまった。


「君がこの時代に残ってから二ヶ月だ。ずっと何人もの迷い人の手助けをしてきた私の経験では、ここが分かれ道になる。諦めてこの時代の人になるか、なんとか自分の時代に帰るために暦人仲間をこの時代で探すかの選択だ。残念ながら私は暦人に知り合いがいない。いや、仮にいても紹介できない。それがルールなんだ。君がこの広い二十一世紀の社会で探し出さなくてはいけない。かつて私が世話してきた人たちも皆自力でそうしてきた。生活の面倒は何とかしてみられるし、幸い君は模写の才能もあるので、最悪、居残り組になっても私のそばで何とかしてあげられる。しかし出来れば自分の時代に帰れるように努力することをお薦めする。その方が時間の揺れも起きなくなるためだ。それぞれの迷い人は自分の時代に帰るのが自然の摂理だからね」


 越後の説明に、神妙な面持ちの西風は頷く。


「何の因果か、暦人でもない私の元に、いつも時神さまは迷い人の面々を届けてくる。しかも元の時代に戻してやる方法や力を持ってない私にだ。ただ君の場合は特別だ。託宣の仕事を終えて、帰れるはずのメッセージを知っていながら、チャンスを見送り、人助けのために、みすみす迷い人になった。立派なことだが、自分が迷い人になっては、ミイラ取りがミイラだ。そうだろう」と皮肉な笑いをする越後。


「はい。倒れた人を見殺しに出来なかったのは事実です」とだけ西風が俯く。


 鉄道のガードを潜って、三崎町側に出たふたりは、越後のオフィスへとたどり着いた。

 看板には大きなルネサンス時代の絵画がいくつも描かれている。アートを商品として扱う会社であることが一目瞭然だ。


 ビルに入ると、名ばかりの社長室にあるソファーへと彼を勧めた。

 越後はジャケットを壁際にかけて、さっきのたばこを取り出して火をつける。灰皿をソファーの前のガラステーブルに置いて自分も座った。


「私は暦人がどんな活動をしていて、どのようにタイムゲートを扱っているのかを知らない。居残り組もその手の話はまずいと知っているから勿論口にしない。当然私も聞きたくない。まだ財産も命も欲しいからね」と再び皮肉めいた笑顔をする。


「ところが、シスター摩理朱ときたら、理由は聞かず面倒を見てあげて欲しいと言って、いつも迷い人になった暦人たちを連れてくる」


 白い煙を大きく吹き出している越後の横で西風は、「すみません」と詫びた。


 あわてて越後は、「いや、愚痴じゃないんだ。それに君を責めているわけでもないんだ。人助けとわかっているのだから。ただね、因果な商売だなと思っているだけだ」と言葉小さくすまなそうに付け加えた。


「もう一度訊くんだが、君は知り合いの暦人や普段使っているタイムゲートを知らないんだね」と何度も訊いたことを繰り返した。


「はい。初めての託宣で、この時代に運ばれて、身寄りも無いままに取り残されました。どうして良いかわからないまま飯田橋の駅横の教会に佇んでいると、見覚えのない人が僕に声をかけてきたんです。この時代の人間でないものが、ここで何をしているんだといった内容で……」


 彼が言葉に詰まると、思い出したように越後は窓際にあったコーヒーメーカーからカップに二杯分のコーヒーを注ぎ、西風と自分の前に置いた。

「飲みなさい」

「いただきます」

 西風は一口カップからコーヒーを含むと再び続けた。


「帰り方がわかりませんというと、彼女はすかさず迷い人ねと、寂しそうに僕を見つめたのです」

「彼女は帰り方を教えてはくれなかったのか」と越後。


西風はため息交じりで、「一度往復しないと暦人とは見なさないそうです。僕はまだ暦人として扱われないため、帰りのゲートを自由に使うことはタブー。使命を果たしたものが初めて暦人になるのが道理なようで。僕はまだ片道なので、誰か他の暦人に付いてゲートを潜るか、帰り方を自力で探すしかないのです。教えたりしたらその彼女も大変なことになるはずです」と返す。

「世知辛いなあ」とだけ言うと、越後はたばこを灰皿の横でもみ消した。


   相南・桜台(「さきわひ」2)

 それから三時間、午後四時を回った頃。一同の思考能力は衰退しきっていた。

 やり場のない鬱積した雰囲気を感じ取ったのは美瑠だった。こういうときの美瑠の気配りは天下一品である。


「そういえば、山手の公園でローズティーを売っていたので買ってみたの。新しいクッキーと一緒に飲みましょう」と美瑠が切り出す。

 数時間前に焼いたクッキーをオーブンから取り出すとまだほんのり温かい。

「プレーンクッキーには、香りも良くて、見た目も美しいローズティーが合うのよ」と美瑠はお茶の準備を始める。瓶の中の乾燥した褐色や黄色の薔薇の花びらがテーブル席からも見えた。蓋を開けると薔薇の香りが厨房の中に広がる。


『ローズ……。薔薇……』


 ちこはいつぞや、美瑠がキーワードから託宣を引き出す連想方法を思い返していた。あの時はチョコレートだった。それを真似て、何かをつかみかけている。おぼろげながら、何かが浮かんできたようだ。


「あのお。山崎さん……」といきなり皆に言うのを遠慮したのか、躊躇して、自信の持てない一私論いちしろんと言うことで、まずは山崎に訊ねた。


「どうしました」と、ちこの方を向く山崎。


 美瑠は厨房から持ってきたカップや砂時計の入った紅茶セットのバスケットをテーブルに並べている。


「わたし……。気付いちゃったんですけど、これって意味するものは『プリマヴェーラ』ではないかと。でもそれをどう結びつけて良いのか。絵画とわかっても何をすれば……」と遠慮がちな小声でちこが言う。


 山崎は目を大きく見開いて、「どんなことでも、当たってみるのが大事です。教えて下さい」と乞う。


「まず最初に思いついたのは、『明星』です。これって金星のことで、一番明るい星だから明星なんですよね。ローマでは金星はヴィーナスを意味します。ご存じかと思いますが、愛と美の女神なんです」

 山崎は「はい」とだけ頷く。


「次に『日本植物誌』なんですけど。訳し方にもよるのでしょうが、西洋では一般には植物相を著した本という意味で、フローラの言葉を冠して書名にするんです。日本語にするときは書物と言うことを重要視するので「誌」の文字を使いますが、西洋では植物相という学問領域を表す言葉とも同義語です。――ということは、フローラ、つまり春や花の女神フローラです。これらはともに『プリマヴェーラ』の中心に描かれた女神たちなんです」


 切々と小声で説明していたはずのちこの周りに、いつの間にか残りの四人も興味津々で集まっていた。美瑠に至っては、テーブルに頬杖付いて、「うんうん」と身を乗り出し、真正面で相槌を繰り返している。


 周囲の状況が変わったが、途中でやめるわけにもいかないので、ちこはそのまま山崎に向かって話を続けた。


「先ほど言ったウィフィーツィ美術館に、この絵画も所蔵されています。メディチ家の末裔の人が全てをこの美術館に寄付したからです。そして一番最初の『祭暦』なんですが、詳細は後で確かめますが、現在のこの絵の解釈方法の有力説の元になっているのが『祭暦』の筈です。エレーナ・カプレティという学者の説だったと思います。ルネサンス時代の絵画は寓話解釈と言って、いろいろな決まり事で物語を内在させる描き方をしているんです。大義でメタファーの一種と言われています」


 山崎は「それでその解釈もわかりますか?」と問う。


「はい。結構有名なので、キュレーターの多くが知っていると思います」と言う。そして「パソコンお借りしますね」と言って、『プリマヴェーラ』を探し出すちこ。


 しばらくして、サーチエンジンでヒットした中から適当なサイトを見つけると、絵画をモニターに映し出した。

 第一声、夏夫が「これ見たことあるよ。安くて美味しいイタリア料理メインのファミレス・チェーンで。本物じゃないけど」と言う。


「ええ、いろいろなところで使われているから知っている人も多いと思うわ」とちこが返す。


「……で、その解釈法ですが、一番右のみどりの色をした神さま、これがゼフィロスといいます。春の西風を意味するもので、春の息吹の妖精クロリスを目覚めさせます。要は種子が春の温もりで発芽して、芽生えることを意味します。その発芽でクロリスは花の女神フローラへと変身します。このとなりの花のドレスの女神がそうです。神話の中のお話では、クロリスが西風のお嫁さんになってから女神に変わるという物語の展開です。花が咲き誇り、春が訪れ、美しい女神たちも次々と活動し始めるという物語がここにあるのです」


 説明を終えたちこに、

「なんか美術館の説明聞いているみたい」と笑う一同。


「まあ、本職なので」と、ちこは恥ずかしげに言った。そして彼女は、山崎の方を向き直ると、不安げな眼差しで、「どうでしょう」と言う。


 あごを押さえるポーズをしていた山崎は、眉間のしわをほぐすと、すぐに笑顔になって、「細部のことはわからないけど、合っているような気がする。間違っていなければ次のメッセージがすぐにでも飛んでくるはずだ。そうなれば詳細な確認は不要です」と言った。


「すごい! ちこちゃん。どうして?」と訊ねる美瑠に、

「美瑠ちゃんのローズティーのおかげよ」と笑う。

「なんで?」と素っ頓狂な顔の美瑠。

「絵画『プリマヴェーラ』に描かれているフローラはね。薔薇の花をあちらこちらに振りまいて、春の準備をしている姿なの」とちこ。

「じゃあ、私、フローラで、ちこちゃんはヴィーナスね」と笑う美瑠。

 その会話を聞いていた夏夫が、

「美瑠ねーちゃん。あんまり調子に乗らないで下さい。フローラとヴィーナスに失礼です」と押さえに入った。

「どういう意味?」と美瑠とちこの声が重なり、この話の決着に至った。怒らせるとやっかいなお姉様方と夏夫は自覚している。

「何でも無いです」と硬直した夏夫を余所に、

「すごい人たち」と舞は見事な推理推察に驚かされていた。


 その様子を見た晴海は舞の肩を軽く叩くと、「来て良かったでしょう?」とだけ笑顔で言った。

 勿論、舞の返事は「ありがとう」の一言だった。


「じゃあ、お茶にしましょう」と美瑠の声かけで休憩になった。

 テーブルの中央に出されたクッキーに手をつけたちこは、そのクッキーを口に入れてから言葉を発した。

「美瑠ちゃん、また腕を上げたわね」

「わかる?」と美瑠。

「バニラエッセンスとミルクに何か仕掛けを感じるわ」とちこ。


「あたり!」と満足そうに美瑠が力こぶポーズで答える。

 一転して平然と繰り広げられるおふざけの会話と、さっきの託宣解読とのギャップにも舞は驚いた。


「あの、幾つかお訊きしても良いですか?」と舞。

 手を休めた美瑠は、椅子に座り直すと、「どうぞ」と答える。

「美瑠さんって、以前地元で音楽教室の先生をしていたような噂を聞いたんですけど、違いましたっけ?」


 舞の質問に美瑠は、「すごい古い情報ね」と枕詞のような台詞を吐いてから、

「はい。音楽教室の先生やっていました。今は、同じ楽器メーカーで、デモンストレーションの鍵盤奏者やっています。楽器店とかで生演奏するあれね」と答えた。


「ただね。その仕事はお客さんのいる時期だけなので、通常はダーリンのお店でケーキ作ってます」と笑いながら付け足す。

「へえ」と納得する舞に、晴海が、

「メッセージや託宣が、音楽に関係する時は美瑠さんの知恵が役に立つの。美術はちこさん。文学や歴史の時はマスター。自然界の時はマスターと夏夫の活躍かな?」と説明する。


 そこですかさず「ここぞって言うときの度胸と押しの強さは晴海ちゃんよね」と美瑠の言葉。それには皆が「うんうん」と賛同している。

 少し不服そうに、「それって褒められてます?」と訊き直す晴海。

「もちろん! 晴海ちゃんの一見無鉄砲に見える行動も窮地の皆をどれだけ救ってきたか」と快い口調で山崎は続いた。


「じゃあOK」とご機嫌の晴海に、

「急なのに、私をここまで連れてきてくれたじゃない」と舞もそれに加わって賛辞を述べた。

 照れ隠しを装う晴海をよそに、穏やかなまとめの話に入ったときだった。

「あら」と舞が不思議そうな顔をした。

「どうしたの」と美瑠。


 晴海も一緒に舞の方を向き直る。


「必要なアイテムを全部出したのに、まだカバンの中にもうひとつ残っているんです。昨日の晩はなかったと思う」と舞は不思議そうに、カバンの中に手を入れる。


 美瑠と山崎は顔を見合わせて頷いた。

 そして「舞ちゃん、ちこちゃん。どうやらメッセージ解読は正解だったようね」と美瑠は真面目に呟いた。舞はちこにお辞儀をする。


「じゃあ、次の託宣ってこと」と晴海。


 彼女が手にしたのはゴッホが描いた絵、『夜のカフェテラス』であった。ご丁寧に額装までしてある。ただし原寸サイズである86センチ・66センチの大きさではない。ほぼA3サイズに収まる大きさだ。


「ああ、『夜のカフェテラス』ね」と晴海は呟いた。そしてしばらくしてこの意味にピンときた晴海は、山崎の顔を見ながら、「マスター!」と身を乗り出した。


 山崎の方も晴海の言いたいことが分かったようで、

「マイクさんのところだね」と頷いた。


 原宿、表参道の同潤会アパート跡の横の小路を入った迷路の終点のような場所にあるカフェ「ひなぎく」のことである。ここは晴海の母である葉織の時代から暦人が集まる避難場所だ。ある意味、この「さきわひ」も同じ役目を持つのだが、あちらのレベルはここの比ではないくらい、複雑な問題を抱えて困っている暦人を対象にしているのだ。そしてそこの相談役、暦人御師がマイクという人物である。


 夜の「ひなぎく」の風景がこのゴッホの名画に似た風景であることから、度々メッセージとして使われている。


「ただね。慌てないで、まず額装をはずして中のカンバスを出してみて。全てに隠れメッセージの類がないかを丹念に調べてから出かけるよ。読み落としがあると、大変なことになる」


 山崎の忠告を舞と晴海は素直に受け入れた。

「これ新しいね」と山崎。そして「額の裏にある掛け紐が化学繊維の紐だし、裏板が釘止めされていない。スライド式の留め具だ。最近の仕掛けになっている」と額を裏返して確認している。


「特に目立ったメッセージはないみたい」とちこ。

 するとサインに気付いた晴海が、

「随分大きなサインをするねえ。カンバスのサイズからするとバランスが悪いわ」と笑った。


「ああ、複製品ですって主張させるためだと思う。良心的なアトリエだね。贋作ではないですよ、って言う自己主張のようなものさ」と山崎が答える。そしてちこの顔を見て、「だよね?」と確認を取る。

「ええ。その通り」と笑顔のちこ。

 そして彼女はその絵のサインを見て「Seihu KANDA」と読んだ。

 それを聞いた舞は「えっ!」と驚き顔である。

「知り合い?」とちこ。

「たぶん。同姓同名かもしれないけど、でも……」と口をつぐんだ。

「それ以上は言えないのね」と美瑠。そして、「それなら、時を揺らさないためにも、用心に越したことはないので、口にしない方が良いわ」と頷く。


   表参道での再会

 西風は華やかな表参道を歩いている。流行を纏った、見目麗しき人々が行き交う神宮前を、青山方面に向かって表参道の歩道を歩いている。勿論、表参道は文字通り、明治神宮の表参道であり、大きなお社にふさわしい街路樹の綺麗な参道である。


 越後のオフィスで会話をしていたとき、生花店経営者の佐久間の伝え忘れがあったと、そこに電話が入ったのだ。集金の日程を今日にしていたことをすっかり忘れた佐久間が、別の用事を入れてしまったので、代わりに集金をお願いしたいという旨であった。


 場所は表参道。販売先は喫茶「ひなぎく」。販売商品はひなぎくの鉢植え八つ。代金は六千四百円とのことであった。日暮れ時のサラリーマンやOLが帰宅の途に就く時刻、駅とは逆の方向に歩く彼の手には、現地の住所と電話番号が書かれた紙が握りしめられている。


 街角に立つ街区案内図を時折確かめながら、たどり着いた先に彼は驚かされた。そこには自分が越後に頼まれて描いたゴッホの絵と、うりふたつの風景が存在していた。


「ここアルルじゃないよな」

 思わず呟いた彼の言葉の通り、誰もがそう言いたくなるほど、そっくりなのだ。


 彼は閉店間近であろう時刻の店の扉を押して中に入った。

「いらっしゃい。あと一〇分で閉店だが言いかね?」とパイプを加えた芸術家のような店主がカウンターの中から問いかけてきた。

「いえ、客じゃなくて、飯田橋のフローラ佐久間から来ました」と返す。


 すると主人はすぐに分かったようで、「ああ、佐久間さんの集金だね」と納得した。

 主人がお金を取りに、奥の部屋へと姿を消すと、彼の背後から懐かしい声がする。

「西風さん?」

 彼はこの時代に知り合いなどいないので驚いた。

「えっ?」

 向き直ると、そこには舞の顔があった。謎を解いた暦人一行は絵画の確認を終えて、表参道に来ていた。

「舞ちゃん?」と西風は呆然と立ち尽くした。次に「どうしてここにいるの?」と訊ねた。

 舞は席を立って、「それはこっちの台詞だよ」と近づく。そして、「この年末に帰省したときは、化粧品会社の広告部門に勤務が決まったって行っていたじゃない」と訊ねる。

「ああ、その通り。」

「あれ? 西風さん、たしか美大生よね」と舞。


「えっ、あ、その後、研修中の就職した会社で化粧品の研究をするために、内地留学研修というのがあって、農業試験場の研修生をやっているんだ。今はその調査で必要なこともあって美肌研究をやっている。特に、自然物質、特に植物相を中心とした物質からの栽培と抽出が主な仕事。美大出身の僕にも出来るというわけだ。文献を読み込んで、リファレンスを遡っていたら、ハマナスの研究に行き当たったんだ。思ってもみなかった。和漢の分野で美肌の有効成分を持つ天然のハマナスの実が、すでに二十五世紀には存在していなかったなんて」


 西風は近況を舞に伝える。


「……と言うことは、私が最後に会って西風さん、すぐこの時代に来たのね。会えてよかった」と彼女はようやく合点がいった。彼の仕事の話を途中で勝手に遮っての把握作業だった。


 続けて舞は、「それでなぜここにいるの?」という疑問をぶつけた。

 すると彼はあきれ顔で、「だからそれを話しているのに、君が遮ったんじゃないか」と少々不満な顔である。


「OK。ごめんなさい。つい嬉しくって……。では続けて下さい」と舞。

「ハマナスはもともと野バラの一種で、涼しい海辺の場所を好む性質を持っている。この二十一世紀には、南限が関東地方と言われている。我々の時代には北海道の国立公園の中でないとピュアなハマナスの株を見つけることは難しい。平均気温の上昇に加えて、もともと繁殖力が強くて、雑草のようなノイバラやテリハノイバラと自然交配が進んでしまい、純粋なハマナスの株を国立公園以外で見つけるのは不可能とも言われている」


「ふーん」と舞は首をかしげる。

「ところが国立公園って言うのは、むやみやたらに私企業へは植物の採集を許可してくれない。しかも大量に実や株を必要とする生産業ならなおさらだ。それで困った僕と仕事の相棒は町山田の日月さまを拝んで、お願いした数時間後に、神社の横のコンビニで蹴躓けつまずいたらこの時代に吹っ飛ばされたんだ」と説明した。そう、漸く、彼の長い放浪の時間旅に出たきっかけが話されることになった。


   町山田市日月町のタイムスリップ

「いてえ」とコンビニの駐車場で、西風が振り返ると一緒にいたはずの相棒がいない。

 しかも辺りがセピア色に見えている。空気が悪いのだ。春近くになると、花粉と水蒸気でこの時代の空気は霞を作っている。二十五世紀は自動車の排ガスもなく、二酸化炭素の抑制効果が浸透しているため、この時代に来た人間はまずその事に気付く。


「おえ。空気がまずい。どこだ、ここは」と西風。

 そして自分が転んだ拍子になにかを握りしめていることに気付く。開いてみると「暦人。困ってます」と白いケント紙にマジックインキで大きく書かれている。

「なんだこれ? ヒッチハイクじゃあるまいし」と紙を広げたままため息である。


 背後からのぞき込む視線を感じた西風は、慌てて紙をくしゃくしゃに丸めて後ろを向いた。そして丸めた紙を両手で背中に隠した。

 そこには白髪の老人が笑顔で立っている。

「どうした。時間に迷ったか?」と相変わらず笑っている。

「薄気味わりいなあ」と小声で呟くと、その老人は、

「そんなことはない。あんたを心配しているだけだ。新米の暦人さん」と言う。


 西風は「これ<こよみびと>って読むのか」といったんは納得したが、

「何をのぞき見しているんですか、あなたは」と返した。

 何も話していないのに老人は全てを察しているように、

「今は、二十一世紀。ここは町山田市の日月町だ。どこのタイムゲート通ってきた。神社か、教会か、あるいはそれ以外か?」と続けた。

 西風はとりあえず、これだけ分かっているので、おそらく事の真相を理解している人間と思い素直に答えてみた。

「二十五世紀の町山田の日月神社の横で、突然移動になりました」



 老人は少し考え込んで、「託宣の類だな。なにか用事を済まさないと元に時代には帰れないぞ」と言う。

「何かって?」という西風に、

「それはそのうちメッセージとしてあんたの身の回りに出てくるよ。とりあえず、その紙をわしに読ませたのも、メッセージかと思うよ。ちょっと付いてきなさい」

 そう言って老人は、手に中華まんの袋をぶら下げながら、すたすたと前を歩き始めた。為す術もないので、西風は老人に付いていくことにした。


 老人の家は意外に近く、参道を挟んだすぐ横だった。古くからの農家の造りで、農機具を入れておく納屋と穀物を貯蔵する蔵があった。

「ミルクキャラメルまん食べるか?」と老人は西風に問いかけたが、

「いえ結構です」と断る。

 老人はさほど気にする風でもなく、この手の人間の相手をするのが慣れているように、

「そうか、長い一日が始まるのだから、腹ごしらえは必要だぞ」とまた笑う。


 老人は玄関先まで来ると、

「ここで待っていなさい」と言って自分は玄関に入る。引き戸の上には住人の名札があり、『不二秋助・冬美・春彦・初歩・夏夫』と書いてあった。

『そういえば、この家二十五世紀の日月町にもあるな』と心中思った西風。その瞬間に再び玄関の扉が開いて、あの老人が出てきた。

「とりあえず、この時代のお金、五万円入っている。持って行きなさい。それからメッセージが解読できなくて長引くときは、東京の水道橋界隈にある『アート・クリムト』という画材屋さんへ行きなさい。力になってくれるはずだ」と言う。


 意味は分からないが、タイムスリップした自分の境遇では、一人でも多くの賛同者がいた方が良い。そう思った西風は、自然に「ありがとうございます」と声を出していた。


「まずは合格だな。暦人は実直、正直、優しさを持っていなければいけない。かたくなな態度や他人を尊重しない態度、だましたり馬鹿にするなどはもってのほかだからな」と言って、彼の手に老人はそのお金の入っている封筒を握らせた。


「あの暦人、っていったいなんですか?」と言う西風に、

「時神さまの遣いとして、時間を旅するボランティアみたいなものだよ」と教える。そして「最初の切り口だけは一緒に考えてあげよう。何をお願いしたんだい?」と優しく微笑んだ。

「はい、純粋な株、自然に生息する純粋なハマナスの種子を手に入れたいという思いを願いました」


「あんたの時代は、ハマナスは絶滅しているのか?」という老人の質問に、

「いえ、国立公園にはあります。ただ一般の場所にはもう純粋なものはなく、野バラ類と雑交配したものが主流です。しかも北海道以外では生息も大変なほどに、生息地域が狭まっています」と返す。


「なるほど」とため息の老人は、やれやれという顔をしてから、

「そうなる前にハマナスを復活させようということだな。あれは薬にもなる植物だからな。国立公園のものは民間利用は不可能だし」と言った。そして「株で持って行ければ、その方が良い。株なら根付けしやすいはず。バラ科の植物は割と強いからな。枝だけ切り分けて野バラで接ぎ木という手もある」と言う。


「はい」と言う西風の返事の後で、老人は、「今からなら東北の海岸に出るより、東京駅から新幹線で新潟に出た方が早い。わしの知り合いの園芸家に連絡しておくから、そこで詳しいことを聞きなさい。住所と連絡先もその封筒に入れてあげよう」と加えた。

「ありがとうございます。神田西風といいます」と笑顔の西風に、老人は、

「あんたの時代に、もし暦人が来たときは同じように力になるんだぞ」とお辞儀の西風に手を振って別れた。


 彼は駅に向かう道中、あの親切な老人に教わったことを念頭に置いて、この時代にいる間は素直に従って過ごそうと決心した。そして聞くもの見るものが珍しいまま、彼は新幹線に乗った。


   飯田橋界隈

 西風が最終の新幹線で東京駅に戻ってきたのは十一時頃だった。

「とりあえず、株を幾つかもらえた。しかも鉢植えごとだ」と嬉しさのあまりにんまりとする西風だが、これからが厄介ごとである。宿も考えなくてはいけない。どうすることも出来ず、老人の言った言葉を思い出した。


「ここからなら、水道橋は近い」


 列車を乗り継いで、一〇分ほどで彼は水道橋にいた。メモに書かれた『アート・クリムト』に連絡してみる。駅の公衆電話にコインをいれてナンバーを押す。


「はい、アート・クリムト」と苛立つのを抑えているような声で男性が電話に出る。

「あの」と言った瞬間、「神田か」と言う声が返ってきた。


 彼の名字は神田である。思わず「はい神田です」といつもの調子で返してしまう。


「よし、十分で着くな。すぐに来てくれ」と言って、男性はそのまま電話を切ってしまった。


 電話を切った後で西風は、相手が名字と地名を間違えていることに気付いた。


『まずい。もう一度かけ直すべきだろうか? いやあの様子だと苛立っている。誰に対してなのかは知らないが、おそらく再びかけたら、こっぴどくしかられる可能性が大きい』

 そう思った西風はそのまま歩き始めた。


 目的地の『アート・クリムト』はすぐに見つかった。看板にはクリムトだというのに、ルネサンス期の画家の作品を模写したものが並べてある。

「ダ・ヴィンチ、ラ・ファエロ、ボッティチェリか」と上を見て、目で追った。

 すると玄関先にさっきの電話の声の主らしき人物が出てきた。


「おお、待っていたよ。急ぎなんだ頼むよ。明日までに仕上げないと先方にさ、言い訳できなくて」と憔悴しきった顔である。かきむしったようにさがだつ髪の毛、よれよれの背広、充血した目に彼は一瞬ひるんだ。


「あの、僕は……」と言ったところで、彼はぐいっと西風の手を引いて、オフィスへと入っていく。西風は引かれたまま行動を共にする。聞く耳をも持たない勢いだ。


 通された部屋は、アトリエである。無造作に木枠の大きな棚には、パレットや絵具、カンバスがある。またテンペラの素材、アクリル製の絵具も揃っていた。


 彼は髪の毛を振り乱して、赤い目で凝視しながら、西風の両肩に手を置いて、

「いいか、良く聞いてくれ。昨日の電話でも言ったが、明日が締め切りだ。何とか数時間なら伸ばせる。『夜のカフェテラス』だ。ゴッホ。描いて欲しいサイズに縮尺を合わせたカラーコピーがそこにある。その横には拡大可能な実物の映像が映せるパソコンもある。頼む。小品とは言え、手法材料まで、なるべく本物に似せてくれ。変えて良いのは縮尺だけだ。サインは君のもので良い。合法的な商品ということを強調した造りで良い」と力を入れる。


 なんだか分からないが西風は、どうやら誰かと間違えられているようだ。しかし夜露をしのげる場所があるのは有り難い。渡りに船だ。なんせ自分は美大卒。しかも油彩画専攻。印象派、特にゴッホの作品が大好きなのだ。


『何とかなる』

 そう踏んだ彼は、「わかりました」と言って、ハマナスの苗の入ったトートを床に置くと、早速絵の具を物色し始めた。

 男は安堵したような顔になると、

「有難う。夜食は何が良い。欲しい飲み物はあるか。たばこはいるか。必要なものは何でも言ってくれ、頼んだぞ」と言う。

 矢継ぎ早の質問に目が回りそうになった西風だが、

「お任せします」とだけ、背中越しで返答した。


 夜通しの作業だったが、どうにか形になった作品が、午前八時には出来上がっていた。

 髪の乱れたあの男が入ってきたのは、ちょうどその頃であった。

「おはよう。進んでいるか」と西風の近くに寄ってきた。そして予想以上の出来映えに、仰天したらしく彼の両肩を面と向かって押さえたままで言う。

「素晴らしい出来映えだ。思っていた以上の出来だよ。これなら誰も文句言えない。うるさい客だったんだ。有難う加賀君」


 無言のまま西風は『加賀さんっていう人と間違えているのか』と思った。


「依頼主は、横浜に店を構える画商でね。学生に見せるのが趣味なんだ。この作品もきっとそうなるだろうね」


 ここでようやく『今がチャンス』と感じた西風は、ことの真相を正直に打ち明けることにした。


「実は僕は加賀さんではありません。神田西風といいます。つい、言いそびれちゃって、ごめんなさい。そしてあんまりお困りだったので、美大卒なのもあって、今回は成り行き上お手伝いをしました」


 その言葉を受けて、男は分かっているような含み笑いを浮かべた。


「うん。知っている。加賀なんて人物は最初からいない。わざと神田という地名を出したのも、勘違いを演出できるためだ。混乱を装って君をここに呼ぶためだったから」と肩の荷が下りた感じの様子だ。それはまるで楽屋に戻った俳優が放つ、台詞ではない自分の言葉を吐いた風にとれた。


「えっ?」

「実は秋助さん、君が日月さまで出会った老人にね、連絡をもらってね。初めてのご託宣で困っているから、シスター摩理朱と一緒になんとかサポートしてくれと頼まれた。秋助さんの言うとおり、君は正直者だね」


 そう言うと彼は、「まあ、おなかすいたろう。この辺のものでもつまんで少し休んでくれ。それからタイムゲートに向かうといい。私はこのまま出張だ」とテーブルの上にある菓子類を促しながら、部屋を出て行った。テーブルに『越後誠也』という名刺を残して。そしてその名刺の裏には「タイムゲート 明後日、深夜0時、飯田橋教会のステンドグラスの反射月光」と書かれていた。


 西風がその場所に着いたときはすでに、光の輪は最大限の面積に達していた。サクラの木々の葉をスクリーンのようにして、月からの光をステンドグラスが反射して、七色の光の輪が揺れている。


 ふと、歩道の奥側、足下を見ると踞っている四、五十代の女性がいる。道行く人もまばらで、誰も彼女に気付かない。建物の影、奥まった少々暗闇と言うこともあったろう。


「どうしましたか?」と西風。

「すみません。持病の胃痛です。少し横になれば直ります。医者からもらっているお薬がバッグのポケットにあります」と女性。

「わかりました」

 彼は彼女を近くのベンチにもたれさせると、横の自動販売機でペットボトルの水を買った。キャップをはずし、指示通りバッグのポケットから粉薬を出すと、ゆっくりと彼女に飲ませる。


 こわばった表情の彼女も、数分すると穏やかな表情に変わり始めた。額の周りにはぐっしょりと汗をかいていたが、どうやら窮地は脱したようであった。

「ありがとうございました」


 女性は薄目を開けながら何度もそう繰り返した。

 彼は、彼女の肩を起こして、支えながら目の前の駅まで同行する。

「今度は駅員さんに言ってください。その方が安心ですから」

 彼のその言葉に、彼女は再び「ありがとうございました」と繰り返し、「お名前を……」と言いかけた。彼はその言葉を遮って「大丈夫ですよ」と笑顔で立ち去った。暦人はむやみに名乗ることは出来ないと学んだからである。

 再びタイムゲートのある場所に戻った西風は、愕然としてうなだれた。あんなにきれいだった光の輪は跡形もなく消えていたからだ。


   再びの表参道「ひなぎく」

「なるほど、それが事のいきさつなのね。結構苦労したわね」

 そう言うと舞は愛しい目で西風を見つめる。意中の相手に心から気を配るためだ。


「マイクさん、何か手立てあるの?」

 そういった晴海にマイクは、かぶりを振る。

「ないと言うことはないが、今はわからない」とパイプの煙を吐き出しながら、くうを見つめた。マイクとしても、突然訊かれても困る、というものだ。

 するとそれを見ていた、ちこが「ちゃんと対処法は出来ていると思う」と晴海に自信ありげに放つ。

「そうなの?」

「……っていうより、もう答え出ている。解決してるわよ、この件は」と加えた。

「メッセージは西風と結婚するクローリス、すなわちフローラ、それって、舞ちゃんのことじゃないかな?」

「西風くんの絵があり、『プリマベーラ』の物語、クローリス、フローラ植物誌なんでしょう。二人で帰っておいでってことよ。おまけに縁結びも兼ねているかもね」


 ちこの推理、大活躍でほぼ解釈は出来ているようだった。

 すると、扉を開けて入ってきた一人の女性がいた。グッドタイミングだ。

「はい、その通りです」と言うと、「マイクさん、お久しぶり、カフェオレを下さいな」とウインクする彼女。

 その顔を見て、西風は驚きを隠せなかった。

「あのときの……」

 その言葉に、女性は優しく微笑むと、「あの時はありがとう。あなたの優しさを見ることが出来ました」と言った。

 西風が飯田橋で助けた女性だ。

 またこの店の中で、もう一人驚いている人物がいる。舞である。

「シスター摩理朱」


 か細い声でその名前を呼んだ。

「久しぶりね。舞。良い子にしていたかしら? 主はなんでもお見通しよ」と懐かしそうに笑う。


 そしてこの中に山崎の姿を見つけたシスターは、

「お久しぶり。山崎さんもいらしたのね。お会いできてうれしいわ」と笑顔を向けた。


 山崎はなにか訳ありの今回の事件と踏んで、含みのあるまなざしでシスターに尋ねる。

「シスター。どうやら今回の一件はあなたの手中にありそうですね。中学の頃にこの場所で、これと似た経験をしてます。出来れば、ご自身からお話しいただけると、私たちも助かります……」


 シスターはいつになく茶目っ気たっぷりの表情で、「ばれたか」と小声を発すると、カフェオレを一口含んだ後に話し始めた。


「ごめんなさい。今回は、時間を変えない程度に、舞の願いを叶えてあげたかったのよ」

 そう言うと、舞を見てからまた話を続けた。

「舞の初恋の相手が西風君と知って、ちょうど同じ時期に、この時代に来ていることが分かったの。秋助さんからの連絡でね。それで舞の荷物に、こっそりと暗示の品をひとつ増やしてみたの。西風君の身の上はほとんど知っていたから、私が紹介するのではなく、解釈で自力で西風君のところにたどり着いてくれれば、時間を揺らすことなく巡り会える。どう、ちょっと素敵じゃない?」


 その彼女の言葉を受けて、「じゃあ、あれはご託宣じゃなくて、シスターの企てた暗示だったんですか?」と山崎は困った表情を見せた。

「おほほ、ごめんなさい。最後のやつはね。あとは卒業試験よ。託宣っぽく、良く出来てたでしょう?」と茶目っ気たっぷりの表情だ。


 悪びれた表情もなく、笑うシスターに一同はどっと疲れを感じた。

「じゃあ、病人の振りをして、西風君にタイムゲートをくぐらせなかったのも意図的に舞ちゃんと会わせるためだったんだ」


 晴海は合点の行く顔で言う。


「それだけじゃないわ。バラを探しにきた彼を暗示するための『プリマヴェーラ』、ゼフィロスを暗示する西風と西風君を重ねての暗示、さらには追加の大ヒントの西風君の署名の入った『夜のカフェテラス』、完成間に合ってよかったわ。こんなヒント、暦人なら『当ててね』って言っているようなものよ。二人の卒業試験にはもってこいの課題ね」

 得意げなシスター。


「西風君はこれで舞とつながったので、公に暦人として未来に戻れるし、舞はカレンダーガールとして合格。単独活動の許可を得たんだからおめでたいことよ」

 再びカフェオレを含んでから、シスターは続ける。


「花屋さんで、滞在中ハマナスの株は大切に保管してもらえたし、舞は西風君の描いた絵を手に入れられたし、よい仲間と知り合うことも出来た。良いことずくめね」


 その一人勝ちを装うシスター摩理朱の言葉に、晴海節が炸裂するのは必至だった。ここにいる山崎をはじめ、いつものメンバーは、この晴海の大噴火を、もう遅いくらいだと思っていた。


「ちょっとおばさんさあ」

 含みかけたカフェオレを軽く吹いて、「おばっ」とシスターは驚く。

「あたしらも、暇じゃないわけ。悩める子羊の舞を助けるために、売り上げの少ないギャラリーカフェを臨時休業してここまでやってきてる人もいる訳よ」


 自分のことを言われているのが分かった山崎は、

「売り上げの少ないって……」とぼやく。

 その姿を「よしよし」と美瑠が慰める。

「そもそも……」と続きを言いかけたところで、シスターは眉をひそめながら、

「あー。その口調、生意気な言い回し、あなたどこかで覚えがあると思ったら、葉織の娘でしょう」と合点のいった表情に変わる。

「噂には聞いているわ。芹夏からかな? 葉織の娘がカレンダーガールをやっているって。葉織もそうだったけど、よく品行方正のカレンダーガールになれたわね。心が美しいとはみじんも感じられないのに」

 思わぬ反撃に晴海は驚いたが、そこは百戦錬磨の生まれついての弁士である。

「その言葉、そっくりおばさんに返すわ。よくシスターになれたわね。私知っているシスターはみんなもっと人格者だわ」

「おばさんって、やめなさい!」

 シスターは晴海を指さしながらマイクに向かって、

「ちょっと、聞いた。この子、私をおばさんって言ったわよ。葉織そっくりね。無礼なところも」と必死である。


 マイクはグラスを磨きながら、困惑を隠しきれず、苦笑いである。

 そんなドタバタの中で、西風は舞の手を握って、

「二十五世紀に戻ったら結婚しよう」と見つめた。

 舞も笑顔で照れながら「はい」と返す。きっと暦人として、皆の幸せを守ってくれる二人になれると感じながら、マイクは『おめでとう』と心中静かに呟いていた。


 こんな ロマンティックな場面がありながらも、彼らの背後では、相変わらず晴海とシスターの口論が続いている。

 託宣のない時でも彼らは暦人なのである。そんな事実が今回のお話だった。    


「何にせよ。カレンダーガール、単独行動、一人前になったお祝いね」

 美瑠はそう言うと、

「マイクさん、今日はシスターのおごりで貸し切りね」とカウンターに向かって乾杯のポーズをとった。

「わかった。貸し切りね」

 マイクはゆっくりと移動して、イーゼルや看板を店内に入れ始めた。

「ちょっと、なんで私のおごりなの?」とシスターはマイクにつっかかる。

 マイクはへらへらしながら 、

「おごりの伝票はここに置いておきますね」とシスターのテーブルの前に差し出した。


 山崎は、マイクのこんなおちゃらけた態度を初めて見たので驚いている。

 そしてマイクは西風と舞に向かって、

「カレンダーガールと暦人、ご婚約、おめでとう!」と乾き物のナッツ類を大皿で振る舞った。そしてピザ、サラダ、グラタンと料理は続く。

「ありがとうございます。でも僕は二十五世紀に帰ってから初めて暦人になれるみたいですけど」と西風。

「そうだったね。じゃあ、あと少しだ。がんばれ。暦人になって何か困ったことがあったら、この店、ひなぎくか相南桜台のさきわひに駆け込むことだけは覚えておけよ」と優しく微笑んだ。ここにまた時間を超えて活躍する若者が二人生まれることになった。

 山崎は同じように、かつてこの店の地下で卒業試験をされた時、晴海の母、葉織との出会いを思い出していた。


 こんないい話をしている後ろでは、文句を言い合いながら、シスターと晴海が支払伝票のなすり合いも始めていた。

 口で勝てないと感じたシスター摩理朱は、伝票を持つと支払いの覚悟を決めて、レジ前に進む。

「だいたい葉織はこの子にどういう教育をしてきたのよ。まったく……」

 小声で漏れたその本音に、横にいた夏夫は、おもわず「僕もそう思います」と相づちを打って、笑っていた。

                                了




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