第4話 ♪チェンバロが奏でるひまわりと麦わら帽子の詩

――暦を司る神さまを時神ときがみとしてあがめる人たちがいる。その使者として時を旅する者たちは暦人こよみびとやカレンダーガールと呼ばれている。その時間移動には太陽と月の光、そしてそれらを祀る場所に開く「時の扉」が使われる。いにしえより続く、限られた人たちだけが、その役目のために隠密行動で時を超える。そして彼らの原動力は、いつの時代も人の世のやさしさ――


   待ち合わせ

 明治美瑠めいじみるは同棲中の相手、山崎凪彦やまさきなぎひこの経営するフォトギャラリーカフェ「さきわひ」のホールに濃紺の帯と白地に朱色のアサガオ柄が美しい浴衣姿で現れた。この店は相模湾に面する相南市あいなみしにある相南桜台駅前の元町口側に位置する。珍しく髪をアップにして、約束している友人たちとはこの店で待ち合わせである。髪留めはなぜかドングリのデザイン。ドングリは彼女の幼少期からのラッキーアイテムだ。


 そしてその友人たちというのが一般の人たちには知られていない、ある特別な役目を持った仲間たちである。彼らは「暦人」と呼ばれる時空を越えて任務を果たす、時間の旅人であり、「時神」さまに選ばれた使者たちなのである。

 集合時間は午後五時半である。今の時間はというと、あと十分ほどで五時半になる。ただし今日は時神さまの役目ではない。お祭り見物を目的としたプライベートの集まりで、皆が一堂に会す日だ。


 フォトギャラリーを兼ねたこの店の壁には個展期間中のため写真がパネルサイズに引き伸ばされて展示してある。お得意さんたちの腕自慢の選りすぐりの作品が並んでいる。被写体はこの地元の祭だ。ただし今日のカフェは貸し切りのため、カフェ自体はお休み。知らないお客のためにお断り書きをドアの前にぶら下げてある。ドアは開け放しで置き看板やウエルカムボードは店内に入れてあるままだ。したがって鑑賞客もコーヒーを飲む人も今日はここにいない。


 そんな普段より一段暗い照明と外光が部分的に差し込む光のコントラストに包まれたモノトーンの店内、一番乗りの待ち合わせ人が小さく手を振ってやってきた。


「美瑠ちゃん、久しぶり」と声をかけてきたのは森永ちこ。彼女は美瑠の幼なじみ。……とはいっても小一で転校して、数年前に偶然同じ市内に住んでいるのが判明、交友を再開した間柄である。二人は町山田の氏神さまのお祭りのお直会なおらえ作りを担う者同士でもある。


「いや、先日の伊豆旅行以来だね。元気だった?」

「元気元気。あっ、髪留めドングリ。お似合い」と美瑠の昔からの好みを知っている彼女は笑いながら指をさした。藍色の浴衣を上品に着こなしての登場である。


 その姿に美瑠は「ちこちゃんは何着ても上品に見えちゃうからいいよね」と少々羨ましそうである。同い年にして新妻の彼女にすこし尊敬の眼差しといったところであろう。


「またまた。本当のこと言って」とジョークを入れるちこに、「そこ謙遜してよ」と団扇で軽く肩を叩く。

「ははは」と仲良しな二人は顔を見合わせて上機嫌である。


 するとその次につばの大きな洋風のストローハットにサマーニット、ハワイアンドレスで麻木芹夏あさぎせりかが入ってきた。いかにも海辺の町のマダムといった装いだ。彼女の住まいはやはり相南桜台駅の同じ元町口側にある。家が近いためちょくちょくオーナーの山崎には会いに来る。


「はーい。今晩は。山崎君とはおちゃんの娘はまだのようね」と手を振る。

 美瑠はそれに笑顔で返すと「ご無沙汰しています。こちらは私の古い友人の森永ちこちゃんです。暦人で相南桜台の公園口側に住んでいます」と紹介する。そしてちこにも「こちら元暦人の芹夏さん、晴海ちゃんのお母さんのモデル仲間で、いまはファッションコラムを書いているライターさん」と紹介する。


「あらあら。ふたりして浴衣着ていいわね。さすがに祭りの後のビールを考えてこの格好にしてきたわ」と笑う芹夏。


 その台詞に美瑠とちこは、マンガのように額の横に冷や汗印で『この人、今日は本気で飲む気だ』と心中思った。そして二人はこっそり顔を見合わせて引きつった笑いをした。


 そうしている間に、次に「お待たせしました」と元気良く入ってきたのは晴海。さっき芹夏が言っていた、彼女の古い友人であるはおちゃんのひとり娘である。横浜の女子大に通っている。鮮やかなブルーのサマードレスにミュールと言った若者ファッションだ。そして後ろを向いて、荷物をもちながら、ゆっくり歩いてくる恋人の不二夏夫に向かって「ほら、早く」と指図をしている。彼もまた大学生。


「はいはい」とやる気なさそうに夏夫は店に入ると、皆に「どうも」と言って軽く会釈をした。短パン、Tシャツにビーチサンダル、まさに海辺の町を象徴する若者の格好である。


「相変わらず晴海ちゃん、元気良いわね」と笑う美瑠。

 退屈しのぎというわけでもないが、美瑠は待ち時間に音楽でもと、オーディオ類のスイッチを入れた。スピーカーからはFENを受信した洋楽が流れ始めた。


「このオーディオってマスターの趣味なの?」とちこ。

「いいえ。聞いた話だとおじいさんのものらしいわよ」と美瑠。

「すごいよね。ボーズの空間モニター、JBLのビッグコーンウーハー、厨房にはヤマハの返し用モニター。アキュフェーズの真空管アンプに、山水のカセットデッキ、トリオのチューナーに、オンキヨーのVUメーター付き周波数表示イコライザー、ソニーのCDプレーヤーだよ。夢の組み合わせ」となぜかカメラ好きである夏夫がこの話に食いついた。


 驚いたように「詳しいのね」と晴海。


「先日、間宮先生のお宅にお邪魔していろいろ聞いてきたんだ。カメラだけじゃなくて、あの先生はオーディオも詳しいんだ」と言う。その言葉に「なーんだ。一夜漬けか」と笑う晴海に、夏夫は「ばれたか」と舌を出す。


 すると奥から「それだけ分かれば十分ですよ。夏夫君はミニコン世代なんだから」と、浴衣姿で山崎が奥の扉を開けて店に出てきた。そして「家庭用オーディオの職人だったんですよ。私の祖父は」と簡単にその機材の持ち主の正体を説明した。


「真空管アンプは音に柔らかみと温もりをもたらすと言われています。波形で言えば、エッジの部分を切り落としてメリハリをつけるデジタル再生とは異なり、故意に余韻が残る真空管の特性を活かして回路が設計されているそうです。だからアコースティック楽器の持つ柔らかなサウンドホールに残る余韻の再生には適しているんですね」と夏夫の言った話に理論も付け加えた。


「まあ、あんたの耳じゃ、十年聴いても区別つかないわよ」と夏夫に一蹴する芹夏の発言に、なぜか「キーッ」と握り拳を作っているのは恋人の晴海の方であった。どうも彼女とは馬が合わないらしい。


 その晴海を宥めるように「どうどう」と肩を軽く叩いた笑顔の夏夫がいる。

『本音じゃないから。もともと口が悪いだけで、気持ちはちゃんとしている人だから』と声にならない風の音、無声音で話す夏夫。晴海の方が年上なのだが、どうもこのカップルは年下の夏夫の方が落ち着いている。

「だって、だってね……」と涙目の晴海に気付いて、山崎も「芹夏さん、言い過ぎです」と軽くたしなめた。


 ふてくされた顔の芹夏は「お子ちゃまはすぐにふてくされるから」と角口でぷいっと横を向いてしまった。


 仕切り直すように「さて、皆さん、揃いましたね」と彼は笑顔を繕った。そのあと美瑠の浴衣姿を眺めて「美瑠さん、綺麗ですね」と嬉しそうだ。

 その言葉を逃さなかった晴海は彼の視線の奥で、彼に向かって指をさして「お・と・な」とからかう。『泣いたカラスがもう、なんとか』である。

 さすがに毎度のように何度もやられているため山崎は相手にしないで愛想笑いをすると「では出かけますか」と切り出した。


   お祭り

 相南市の元町地区から岩戸地区はこの季節になると五日間の夏祭りが行われる。そのうちでも、なか日の三日目が一番賑やかである。祭の本会場は駅の向こう側にある岩戸地区にある岩戸神明社である。ちこの家はその神明社の横にあるひまわり畑に面した一戸建てだ。以前住んでいた集合住宅を引き払い念願のマイホームを買ったのだ。


 神明社の裏山は岩戸山公園と言って桜の名所で、春になると美しい桜が咲き誇る。しかし負けず劣らず、横にあるひまわり畑も、この季節は鮮やかな黄色の大輪が並ぶ美しい景色だ。


 そして何よりも神社側にある商店街は、この期間たくさんの提灯と露店で明るく、賑やかで楽しい気分にさせてくれるのだ。焼きそば、唐揚げ、チョコバナナ、ドーナツ、ソーセージなど様々な美味しい香りとも出会える夢の商店街と化すのである。


 普段は神社までの道のりが長く感じる人の方が多いのだが、この時ばかりはそんなことをつゆも感じさせない。お囃子の音も軽やかに、陽気に楽しむ人たちが道に溢れている。


 申し遅れたが、そろそろご説明を申し上げたい。先ほど少しだけ触れたあれだ。この一行はちょっと訳ありの集団である。……とはいっても、別に危ない人たちではない。実はご神託を受けた時空移動の出来る者たちだ。


 夏夫の家の近所の日月社は満月の夜にタイムゲートが開く。神託を受けた際にそこからタイムスリップをして使命を果たすのが、彼ら「暦人」というわけだ。そしてその暦人に託宣を授けるのが「時神」さまと彼らが呼ぶ神社とご祭神である。無言で何らかのメッセージを彼らに与えてくる。「時神」は、当該の日月社の他にもいくつか存在する。


 また別のルートでは教会のステンドグラス光で移動する場合もある。それを導くのは暦人の中でも「カレンダーガール」と呼ばれる晴海のような女性である。一説には教会をタイムゲートとして使うことから、「暦人」とは区別して欧米風に「カレンダーガール」と愛称で呼び合うようになったとも言われているが定かでない。


 また神社に属する「暦人」と異なる点はもうひとつ、カレンダーガールは任期制で、母親になった時にその娘に引き継がれているようである。女の子のいない場合は、血族で慈悲、慈愛、人徳、行動力などに優れたと見なされる者に担当の教会のシスターが代替わりを認証する仕組みになっているようだ。「ようだ」と記しているのは、筆者もよく知らないからである。


 そんなわけで芹夏と晴海の母のふたりは元「カレンダーガール」、晴海は現役の「カレンダーガール」ということになる。

 一行は普段とは違う町の喧噪の様子に楽しい気分で歩いている。新宿と相南市を結ぶ私鉄の踏切を渡って、元町地区から岩戸地区へと跨ぐと、花菱と三つ巴の描かれた白地の提灯が交互に列をなして、より一層の祭見物を誘っているようにも見える。


町山田まちやまだ日月にちげつさまとはまた違う雰囲気のお祭りだね。これはこれで楽しいよね」と夏夫。町山田は夏夫の地元、話に出ている祭とは既出の日月神社の祭のことである。


「ここの神社は駅前にあるから人も多くなるんだろうね。まあ住民との一体感は少し薄らぐけど、皆を集めての賑やかなところは一見さんにも楽しさを与えてくれるわね」と晴海。彼女の言いたいのは都市型の集客数の多いお祭りと知り合い同士が和み、親睦を深める地域の祭の違いのことである。どちらのお祭りも見物客にとっては、双方ともそれ相応に楽しめるものである。


 急に小声になる夏夫は山崎の耳を手で覆ってささやきかけた。あたりを気遣いながらの声の出し方だ。


「ここのお宮さんも七色の御簾みすがでるの?」と訊く。


 彼の言っているのは暦人が使う時間を越えるためのタイムゲートのことである。暦人たちだけの秘密なので自ずと小声になる。


「あるよ。金色に近いけど。石段の横にある旧常夜灯の付近だ。有明月の朝、朝日がそこに差し込んで出来る。町山田の日月さまのように大きなゲートではないけど、使い勝手は良いよ」とやはり小声で答える。

「そっか」と夏夫。


「ただし黄道移動の問題で夏の間だけしか使えない。秋分の日ごろには時空穴は人が入るのは難しくなる」と加えた。

「へえ、いろいろなパターンがあるんだね。日月さまのひとパターンしか知らなかったから参考になるや」と山崎の見識の広さにいつもながら驚かされる夏夫。彼の知っているタイムゲートは満月の月明かりが池の水面に反射して出来るものだった。


 ふと気付くと一行は、お囃子の音が随分と近くに聞こえる場所に差し掛かっていた。正確にはお囃子の方が彼らに近づいてきていると言っても過言ではない。後ろからお囃子奏者を乗せた山車だしが近づいてきている。音がしだいに大きくなっているのでそれが分かった。横笛の甲高い音と和太鼓の連打が勇ましい。


 蛍光色のウインドブレーカーと赤い誘導灯を持った祭の実行委員の人たちが、通りを歩く人々を道の両側に振り分ける。山車の通る道幅を確保しているのだ。夏夫たちは右側へと寄りながら話を続けている。


 ところが、夜店の商品に気をとられていた美瑠だけは、誘導灯を持った人に左側へと指示されてしまう。仕方なく彼女だけが一行から離れて左の路肩へと逸れた。


「失敗。ソフトクリームに気になって、皆から離れちゃった……」


 彼女は角口で悔しそうである。

 山車のお囃子は威勢良く笛や太鼓を打ち鳴らし活気づいている。法被姿に、ねじりはちまきの人たちがあせだらけで演奏を続けている。その中には女性の奏者もいる。一台が過ぎるともう一台、山車の引き手も一生懸命だ。時折「よー」とか「そえいや」などのかけ声も混じる。進路を変えるときなどに大声で知らせ合う。


 全部で三台の山車を見送ると美瑠は反対側の路肩へと渡った。ところが時すでに遅く、彼女の仲間たちはどこにも見当たらなくなっていた。

「ああ、先行っちゃったんだ」と更に残念な顔の美瑠。


 ふと足元を見ると一人、老人が路肩でしゃがみ込んで辛そうである。周りを見ても係員が見当たらない。とりあえず声をかけるのは自分だけしかいないと悟った。


「おじいちゃん、大丈夫?」と美瑠。彼女はしゃがみこんで、その老人と目線を等しい高さに持って行く。


「いつもの痛みなんだけどね。まさかこんな往来で出るとは思わなくてね。ご覧の有様だよ。筋の痛みなんで、意識なくして道ばたで倒れるような病気ではないから堪えていればなんとかなる」と苦しそうな表情だ。額には滝のような汗が流れている。


「痛いのは腰? 足かな?」と美瑠。

 しかめっ面で堪えている表情を見ると本当に辛いことが分かる。

「おじいちゃん、誰か連れの人はいるの?」と再び訊ねる美瑠。

「いや。ここには知り合いはいないんだ」と言う老人。

「どうしよう」という美瑠に「大丈夫だから行って良いよ」と無理に穏やかそうな顔を作る老人。


「だめだよ。辛そうだもん」と返すと、「明日の朝になれば戻れるんだよ、自分の場所に」と言う。


 その台詞に美瑠は「ん!」と思考回路を働かせ始めた。「明日の朝になれば自分の場所に帰れる」という言葉から連想できること。彼女の脳裏に浮かんだ言葉は「暦人」である。その持って回ったような表現は、知り合いのいない、迎えに来る人もいないこの場所で、なぜ朝になったら帰れるという疑問が生じる。矛盾か出る。なんの障害もなく、老人一人で帰ることの出来る状況と言ったらタイムゲートのことだ。彼女はあたりに聞こえないように、そっと老人の横でささやいて、「有明の頃に出来る七色か金色の御簾を待っているの?」と問う。


 老人は驚いて「どうしてそのことを」と痛みでこわばっている顔を美瑠に向けていった。


 美瑠は優しく微笑むと「私暦人よ」と言う。


 すると老人は少しほっとしたようで「本当かい?」と和らいだ顔になった。そして「ありがたい。近い時代へのタイムスリップはなにかと厄介なんだ」と加えた。


 美瑠は暦人の役目を果たせていないと大変と感じて「用事はもう済んだの?」と訊く。


「ああ、届け物があってね。それを自宅の庭に置いてきたところなんだよ。それで明日の朝まで潜んでから、そのまま自分の時代に帰ろうと思っていたところでこれさ。面目ない」と言う。


「肩を貸すから、あの縁台に座りましょう。体勢を変えると痛みが出るかも知れない。楽な姿勢のままいられる場所を確保した方がいいわ」


 美瑠はそう言って、とりあえず肩を貸して近くの飲食屋台の縁台に座らせた。体勢を変えたときに痛みが酷くなることを知っていたからだ。なるべく楽に同じ体勢でいることを老人に促した。


 そして冷やし甘酒を二つ注文すると、「とりあえず、ここで座ってじっとして痛みが和らぐの待てばいいから。私注文したからしばらくはここにいられるわ」と言って、財布から小銭を出すと店員に渡した。


「ごめんよ.お嬢さん。巻き込んじゃって」と老人。


「いいのよ。私も別の時代に行ったときは、お世話になること多いから、気にしないで、お互いさまだし、おかげさまでしょう」と笑う。


「でも私の今日の仲間がいてくれれば、男性もいるから役に立つんだけど、早く戻ってこないかな」


「でも正体明かせないので、それは困る」という老人に、「皆暦人とカレンダーガールよ」と言う。


「そうなのか? それはすごい団体さんだな」と笑う。

「私の時代には、あまり集団で移動することがないので羨ましいな」

「おおざっぱで良いんだけど、どのあたりの時代から来たの、おじいちゃんは。参考までに教えて」と美瑠。

「実はそんなに遠くないんだよ。十数年前なんだ」という。

「あら、本当だ。暦人の活動範囲としては近いわね」と頷く。

 その時だった。彼女たちの座る屋台から見て通りの反対側を山崎たちが戻ってきた。

「あ、おじいちゃん。あれ私の仲間だから」と言って、山崎たちを呼びに行こうと席を立ち上がったとき老人は美瑠の腕を掴んで、それを止めた。


「彼はダメだ」

 振り返って「えっ?」という美瑠。

「あれは山崎凪彦だろう」と名前を言う老人。

 驚いたのは美瑠だ。


「知っているの? 凪彦さんのこと」と言う美瑠。

 目を細めて愛しい顔をする老人が言ったことは「孫なんじゃ」と頷いた。

「ええ。じゃあ、おじいちゃん、靡助なびすけさんですか?」と美瑠。

 老人は静かに頷いた。そして「お嬢さん、私を知っているようだね。あいつに聞いているのかな?」と笑った。


「もうこの時代に私がいないのは自分でも分かる。正確には今日一日、自分の家の周りを見てきて分かっていることだ」と言った。加えて「そして七分丈のズボンをはいた愛しげな女性と一緒に、お店を飾り付けしているのも午前中に見ていたんじゃよ。だから安心した。声をかけたり、話したりしたら、あいつの心に波風を立ててしまう。私が見て確認を出来ただけでも幸せなんだ。元気に暮らしているのを見て感無量だ」と老人は少し涙目になって言った。そして「ちゃんとあいつには分かるように痕跡だけは残してきたから。いまのあいつの生活を見た私の気持ちは伝わると思う」と付け加えた。


「おじいちゃん……」と美瑠。

 老人、いや靡助はその七分丈のズボンの女性が美瑠ということに気付いてない。同一人物として一致していないようだ。

「おじいちゃん。その一緒に暮らしている女性って、わたしなの」と笑う美瑠。


 靡助は驚いて、「朝見た女性はあんたなのかい? 浴衣を着ると女性は変わるなあ」と言う。そして美瑠は「おじいちゃんに会えるなんて嬉しい……」とこっちも涙目である。


「時間を飛び越えているから、お化けじゃないぞ。ちゃんと足もある」と笑う靡助。


 そして合点がいったように、「たいした届け物でもなかったのに、珍しく未来に体が運ばれたから何だろうと思ったけど、こういうことか。本当の神さまのご意志はあんたと会わせてくれたことのようじゃ。本来会えない人と会わせてくれる『桂花キンモクセイ・タブー』とは感謝だな。長年時神さまのご奉公してきて良かったよ」としわくちゃの目尻に水滴が輝いている。そしてご本殿の方に向かってひっそりと柏手を打って、桂花キンモクセイ・タブーのお礼をした。


「凪彦さんとなんで会わないの?」

「いない人間が知人に会ったら大変なことになるだろう。禁止こそされてはいないが、慎むべきだ。歴史の浅い場所へのタイムスリップはまだ知人がたくさんいるから要注意なんだ」と言って、「あんたも暦人なら分かると思うがリスクのある行為は慎まなくてはいけない。自分で責任がとれなくなってからでは遅い。ましてやここのお宮の総代を長く務めさせていただいていた関係で、顔も隠さないといけない。知人がまだたくさんいるから隠れている」と加えた。


 その言葉に「そうね。私利私欲で社会を混乱させるわけに行かないものね」と納得の美瑠。だからあの時は故意に祭の実行委員のいない場所で踞っていたと分かった。


「それにあんたからいろいろ聞ければそれで十分なんじゃよ。可愛い孫だからな。幼いうちからこっちに預けられて、一人でがんばってきたあいつの心はおだやかにしておいてあげたいんだよ」

「やさしい、おじいちゃんだって、凪彦さんいつも言っていたけど、本当ね」と美瑠。

「あいつの好きなことは小さいときから読書、写真、ものかき、音楽、自然散策と一人でも出来ることが多い。一人遊びになれたせいなのだろうな。人には迷惑をかけず、争いを好まずの静かな子だったなあ。親に押さえつけられて育ったせいか、あまり自分の主張をしない子になってしまった」と述べると、届いた甘酒を「いただきます」と言って口に含む。


 ひと呼吸すると「そしてコーヒー好きの私の道具を使ってカフェを始めたのも、使う人のいなくなった道具を捨てるには忍びないと思ったのだろう。オーディオ修理店は素人には無理だからな」とその後のあの家の状況を推測している。


「おじいちゃんの道具だったの? あのコーヒーメーカー」と美瑠。

「遠くからしか見ていないのでおそらくなのだが、幾つかは見た覚えがあるものだった」と靡助は答える。


「マスターってそういうこと教えてくれないから……」

「それは私が教えたからだ。趣味やどうでも良いことはぺらぺらしゃべっても良いが、人間関係や経歴、家、暦人等のことは慎むこと。たとえ相手が暦人だと名乗っても、見ず知らずの初めての顔には、素性が判明するまで言葉を慎むようにと言ってある」と言った。


 そして腰を撫でながら、「ん、やれやれ痛みが和らいできたようだ。お嬢さん……もう大丈夫だよ」と靡助は立ち上がろうとする。美瑠は靡助の肩を押さえてそれを止める。

「だめよ、おじいちゃん。もう少しゆっくりした方が良いわ。再発しないとも限らないでしょう。どうせどこかで潜んでいるのなら、ここにいても一緒だから。私と一緒の方が怪しまれないわ」と言う。

「あんた、心根の良いお嬢さんだね。暦人にはぴったりだ」と笑顔の靡助。彼には美瑠の心の豊かさがその雰囲気から伝わったようである。

「ありがとう。それにね、おじいちゃんのお話をもっと聞きたいの」と笑顔を返す美瑠。


 老人は優しい笑顔を彼女に向けると「そういえばお名前を聞いていなかったね」と座り直した。

「明治美瑠っていいます。東京都の町山田の日月町出身です」と言った。


 すると「ああ、日月町か。あそこの七色の御簾は見事な御簾だ。あれだけの時空穴が現れるところは、今はこのあたりではもう他にほとんど見当たらない」と小声で話す。そして「時空穴は自然環境と一緒で太陽光や月光のおかげて現れるから、都市が発展すると徐々に小さくなったり、現れなくなったりする。あの時空穴は環境保全のおかげで土地が守られた結果、昔のままの姿を残している時空穴の一つなんだ」と言った。そして「明治さんと言ったね」と続ける。


「はい」

「参道脇の万屋の明治屋さんは関係あるのかい?」と靡助。やはり暦人、時空穴のある神社周辺は知っているようだ。


「はい、私の実家です。今は兄が継いでいます」という。

「そうか。あそこのお嬢さんか…」と頷くように、かみしめるように言葉を発した。それは彼の心の中に安心感が生まれたようにも見えた。


「わたしなんかが、凪彦さんと一緒にいておじいちゃんは不満ではないですか?」と美瑠。その辺は一応相手方の身内と言うことで気になるところだ。しかも身内の少ない凪彦なので、美瑠にとっては初めて会う彼の身内なのだ。

「なーんも。私の答えはもうあの家に置いてきたよ。だからあとで彼から聞いたら良いさ。あいつならすぐに解読するだろうよ」とはぐらかした。


 そのぼんやりした内容に、美瑠がもう少し具体的な意味を靡助から訊き出そうとして口を開けたときだった。ちょうど夏夫が現れる。ようやく見つけたという顔だ。さすがに若い女性一人で見えなくなったので、心配をして探しに来てくれたというところだろう。


「いた!」

「夏夫君」と顔を上げる美瑠。

『もう、タイミング悪すぎ!』と内心苦虫を噛みつぶす。

「探したよ」と言う夏夫は、正面に座っている老人が気がかりで「誰?」と訊ねる。


「暦人でこの時代にいらした山崎靡助さん。持病の腰の痛みが出たみたいなの」と紹介する。靡助は軽く会釈をする。

「ええ! マスターのじいちゃん?」と言った夏夫を羽交い締めでたぐり寄せると、口を手で塞いで、押し殺すような声で「声が大きい!」と美瑠は言う。


「ごめんごめん」と夏夫。

「誰かな?」と靡助。

「町山田の日月社の世話役をしている不二家ふじけの夏夫と言います」と自己紹介である。

「秋助君のところじゃな」と笑う。

「秋助は僕の祖父です」と夏夫。


「彼は暦人の中でもすごい人物だからな。古文書を持ち帰って、歴史的な価値ある神社とその周辺の緑地を宅地開発から救った救世主だ。もっともこのことを知っているのは暦人だけだがな」と言う。


「ありがとうございます。じいちゃん喜びます」と笑顔の夏夫。


 ひとしきりすると、美瑠は「それでね、暦人の気遣いからマスターに会わないらしいんだけど、明け方まで一緒にいて何とか無事に元の時代に戻してあげたいの」と夏夫に伝える。


「OK。協力するよ。じゃあ、交互にお相手しながらマスターに気付かれないように身の処し方を考えよう」

「祭は九時過ぎには終わるから、そこのカラオケボックスを二部屋押さえて、隣の部屋にいてもらおうって思っているんだけど、どうかな?」と美瑠。

「名案」と夏夫。そして「早速、僕押さえてくる。そして一部屋にマスターたちを入れて、かわりばんこに僕らがお相手して明け方まで待機しようよ。どうせマスター寝ちゃうだろうし」と言う。


 凪彦は夜に弱い体質である。おそらく十二時、一時が限界である。徹夜なんてありえない。それを知っての計画だ。

「じゃあ、おじいちゃん連れて先に案内してくれる。わたしカフェに行って皆を連れてくる。私がまたいないと不自然なので、今度は私が行くわ」と美瑠。

「了解」

 美瑠は浴衣の襟をしゃんとすると、ハマグリ巾着からお札を出して夏夫に渡した。

「これで足りると思うんだけど」

「了解。では一足お先に移動しているね」と合図した。


   靡助の夜話

 カラオケで盛上がったあと、皆は眠ってしまった山崎にブランケットを掛けて、その部屋の明かりを落とす。そして一人ずつ静かに隣の部屋へと入っていった。山崎にしてはがんばった方で午前二時までもったのだ。


 結果的に靡助の存在は皆にばれて、山崎以外の全員が靡助と話すことになっていた。皆が顔を見合わせると人差し指を口元に「シー」っとする。

「結局、みんなおじいちゃんのところに来ちゃったね」と笑う美瑠。

「だってさあ、暦人の大先輩の話を公に直に聞ける機会なんてそうそうないもん」と夏夫。

「まさかマスターのこと、無理にたくさんお酒飲ませて眠らせたんじゃないでしょうね」と晴海。

「そんな阿漕あこぎなことをするのは。このメンバーの中では、はるちゃんか芹夏さんだけです」と夏夫。


 言った瞬間、左のほっぺを芹夏、右のほっぺを晴海が軽く摘まんで「ちょっと失礼じゃない?」と二人同時に言う。夏夫は「はひ、はんへいひへまふ(はい、反省してます)」と項垂れた。


「ねえ靡助じいちゃんは、暦人になったのはいつなの?」と言う夏夫。


 すると靡助は、「いや、我が家の場合は他人さまの場合と少し違うんだ」と笑う。


「通常は何かのきっかけで呼ばれたりするのだが、我が家の場合は代々暦人御師といって生まれたときから不思議な現象がついて回る。だから不思議を引きずったまま生活を続けていたというのが正しい。でも正確に自覚したのは中学の時。今で言う高校生ぐらいだな」と言う。


「その時のお話を聞かせて」と美瑠。

「それはいいが、シェヘラザードのように引き留めないでくれよ。わしは明け方には帰るぞ」と笑う。

「誰?」と夏夫。

 芹夏が「『アラビアンナイト』、日本名『千夜一夜物語』に出てくるお后の名前。物語を面白く話すことで、国王からの処刑宣告を免れた逸材ね。あとで自分で調べなさい。山崎君ならもっと細かく説明してくれると思うわよ」と言う。


「へえ、なんでマスターは写真だけじゃなくて、文学や歴史、自然なんかもよく知っているんだろう」と夏夫。


 すると靡助は「あいつは図書館と本屋が大好きだったからなあ。特に物語の類はよく読んでいたよ。あと歴史と図鑑だな。一人でいるときはいつもそんなものを寝そべりながら何度も何度も穴が開くんじゃないかと言うぐらい読んでいた」と言う。


「少年山崎か。可愛かったあ、あいつ」と芹夏。

「そっか、芹夏さんはマスターが中学生の時に知り合ったんだよね」と晴海。

「そうそう。まだ私がモデルの仕事していた頃よ」と遠くを見つめる芹夏。その次の瞬間、浸っている自分に気付き、「おっといけない。じいちゃんの話の続き」と笑う芹夏。

 靡助は回想するように穏やかな口調で話し始めた。


「最初は大正時代に飛んだときだった。昭和一桁年生まれの自分が見たこともない浅草の凌雲閣りょううんかくを見たときは驚いたぞ。そんときの仕事としては、当時最新だった鉛製活字組版による活版印刷で刷られた文芸雑誌を手に入れて、自分の時代に戻るというものだった。何冊かを自分の時代に持ち帰ったんだが、その中に挟まっていた図面が外国語で書かれたヴァージナルというタイプのチェンバロの設計図でな、……ああ、チェンバロはハープシコードとも言う鍵盤楽器だ。今思えばこっちが託宣の本命だったのかもしれないな。その図面だが、ガット弦の製造手法やジャックと呼ばれる共鳴装置の精密な描写まで記されていたんだ……」


   チェンバロ

 昭和二×年、戦後間もなく米軍GHQが進駐していた頃、役目を終えた靡助はタイムゲートを潜って、大正時代からようやく自分の時代に戻ってきた。


茅ヶ崎では烏帽子岩えぼしいわが米軍の射的目標として練習場にされていた時代、町山田では闇市が活性化していた時代である。この相南市の桜台地区はのんびりした田舎であり、田園風景が広がっていた。


 勿論中心地区は国鉄線、多摩急線、えのでんが乗り入れる観光商業地であり、古都鎌倉への玄関口としても栄えていた。もっともこの頃は、観光という気分ではない時代だったが……。


 靡助はとりあえず、岩戸神明社の石段に腰を下ろすと大正時代から持ち帰った文芸雑誌を開いていた。『アララギ』と記された短歌雑誌のひとつをパラパラとめくっていたその時だった。中に挟まっていた紙の束がバサリと落ちて神社の石段から下にふらりふわりと落ちていく。オブラートのような、トレーシングペーパーのような軽く薄い紙は風に遊ばれるようにゆっくりと落ちていった。


 朝の涼しさが終わり、そろそろ蝉の鳴き声が始まるような時刻である。ひまわりの花が一斉に顔を上げて元気に咲いている。


 落ちてきた紙を石段下で「おやっ」と思い、拾い上げる一人の紳士がいた。麦わら帽にスーツを着込んだ、戦後間もなくにしては綺麗な服装をした人物である。学帽にランニングシャツ姿のこの時代一般的だった格好の靡助は、一段とびに石段を降りて紙を拾い始める。


 その紳士は拾い上げた紙の一枚を見て驚いている。

「君、学生だね」と紳士。

 靡助は「はい」と返事をした。

「この図面はどこから手に入れたの?」と訊いてくる。


 靡助は一瞬にして『しまった』と悟った。暦人のことを口に出来ないため、どう言い訳をして良いのかが思い浮かばなかった。下手なことを口にすれば、パラドックスが起きて時間が揺れる。


「この文芸雑誌に挟まっていました」と正直に嘘のない答えをする。


 すると紳士は「ははあん。するってえと、古本屋の主人が抜き忘れたものか。よくある話だ」と笑いながら束ねた紙を綺麗に整えて、「はい」と靡助の持っていた雑誌の上に載せてくれた。古い時代の雑誌だったので紳士は勝手に古本と勘違いしたのだ。おかげで靡助は難を逃れることができた。


「格好良い帽子ですね」と靡助。

 紳士は自分の目線を麦わら帽子に当てると「そうかい?」とだけ言った。

「この辺ではあまり見かけない麦わらだから」と靡助。

「西洋風だからかな。ありがとう」と紳士。


 彼の目線は相変わらずその紙の束を見ている。そして「あのさ」というと、紳士は「もし良かったらその資料を私に譲ってはくれないかい」と言う。しかし、会って直ぐさま突然それはないか、と感じたようで、「いや失敬。それは私の研究に役立つ書類なもので、つい」と急く気持ちを押しとどめた。


「はて?」という顔の靡助に、紳士は「怪しい者じゃない。私は立川音楽学院という学校の臨時教師をしている浜谷兎良吉はまやとらきちと言う者だ」と名乗る。そして「ここでは証明する手立てがないので、今度その図面を持って学校まで来てくれるとありがたいのだが……。私だけではなくてその図面を見せたい人もいるんだ」と言う。彼は名刺を渡すと日時を取り付け、再び学校でその図面を持って会うことを約束した。


   音楽学校

 靡助は米軍の関係者が多く行き交う立川の町から教えられた乗り合いバスに揺られて、浜谷の勤めている学校の正門前にたどり着いていた。モノレールもない、茶色の電車が走る頃の立川である。砂埃をまいあげて、靡助を降ろしたバスは走り去っていった。


 バス停を降りると高い塀の向こうには威風堂々とした校舎群が並んでいて、音楽教育の殿堂といった趣が感じられた。煉瓦造りのもの、近代コンクリート造りのもの、音を追求した内部の構造が外壁にまで現れている建物だった。


 校門の前にはあの時の紳士、浜谷ともう一人同僚らしき男性も靡助を出迎えてくれた。


「山崎君、わざわざのご足労ありがとう」と浜谷。

 靡助は「どうも」と頭を下げる。


「こちらは若井大市わかいおおいち君と言って私の相棒なんだ。一緒に鍵盤楽器の研究を行っている」と紹介する。


「若井です。今日はどうもありがとう。食事でもしながら図面を見せて下さい」と言う。


 自然と校舎の間を並んで歩く三人。ゆっくりとお互いの身の上を紹介し合って、若井の言う食事の場所に向かっている。


 二人は学校の裏手にある落ち着いた中流程度の小さな割烹へと靡助を導いた。玉砂利に踏み石、鹿威しの竹音が響く喧噪を忘れるような空間だ。小さいとはいえ、外で起きている戦後のどさくさが嘘のような空間へと誘われた。しかも学生の靡助には初めての経験である。


「このご時世、たいしたものはないんだが、立川は米兵からの流れ品が多いため物資が集まりやすいんだ。お口に合うかどうかは、分からないがごちそうするよ。それと、小さいとは言え、ここは個別の空間を提供してもらえる場所だから、よそに洩れたりしないので図面を見せていただきたい」と浜谷。


 扉を開けると「先生、いらっしゃい。お待ちしておりました」と女将らしき人が玄関先で出迎えた。


「あら今日は学生さんをお連れなの?」という女将に、「いや、彼は客人でね、私たちの学生ではないんだ」と、もてなしの対象であることを告げる。


「ではお若いお客じん、ごゆっくり」と笑顔で女将は奥に下がった。


 仲居さんの先導でたどり着いた四畳半ほどの小さな部屋で皆は腰を下ろした。そして浜谷は「例のものを出してあげて」と仲居さんに言ってから「僕たちにはいつものやつを」と笑った。上品にふすまを閉めると愛嬌のある笑顔で仲居さんは下がっていった。


 靡助はなぜその書類が他言無用の必要があるのかや、価値そのものを理解していなかったため、彼らがそこまでして見たいという意味もくみ取れなかった。求められるまま、カバンからあの雑誌に挟まっていた書類の束を浜谷たちに差し出した。


「どうぞ」


 彼らはそれを受け取る。すると若井の顔がみるみる笑顔に変わっていく。

「間違いない。仕掛けとしては、ヴァージナル型に似た形の小型のチェンバロだよ」と浜谷に驚きを伝える。そして「よく焼けずに残っていたなあ。日本にこれだけの図面が残っていること自体大変なことだ。地方のどさ回りをしても見つからないと、もう諦めて、米兵にはティンパンアレイにでも行けと言われていたのに……」と興奮気味に続けた。

「それなんですか?」と靡助。


「ニューヨークにある楽譜屋街らしいんだ。神保町の古書街のように楽器店や譜面屋が集まっている場所だ」という。


「へえ」と言う言葉の裏で靡助は『アメリカ恐るべし、楽譜だけで町の経済が成り立つ地域があるのか』と国力の差も感じずにはいられなかった。そして「日本にだってそういう場所がこれから出来るかも知れないですよね」と加える。


 二人は顔を見合わせると「もちろん。アメリカに負けない専門品の商店街が出来てくると思うよ」と笑った。


「僕はあまり楽器のことをよく知らないのですが、この楽器はどんな重要なものなんですか?」と靡助はまず基本的なことを訊ねた。


 すると若井が目を光らせながら「十八世のはじめにクリストフォリーによってピアノが発明されるまでチェンバロは鍵盤楽器の代表的なもののひとつだった。そしてピアノの構造自体はこのチェンバロの仕組みから着想を得たものだと言う人もいる。それ以前のオルガンのように大がかりな装置を必要とせずに「てこ」の力学と弦楽器の利点を融合した画期的な楽器だった。ロマン派の登場以前はこのチェンバロのために書かれた曲もそこそこ存在している。バロック時代のバッハやビバルディ、ヘンデルなんかの曲でも使われる。軽くてはじけるようなハープの調べにも似た音色に愛着を持っている人も多い。イギリスではハープシコード、フランスではクラブサンとも呼ばれる。ただ調律の面で、非常にデリケートな楽器と言われている。なので、この楽器の奏者は自らが調整、調律者でなくてはいけないんだ。だから今、持ち主は日本にはほとんどいない」と言った。


 そして付け加えるように「現存するこの楽器の細部分解は持ち主の許可が下りないことが多い。だいいち、それ以前に、このどさくさで誰がどこでハープシコードを持っているのかすら分からないからな」と浜谷が言う。


「なるほど難しいことは分からないけど、貴重な楽器で日本の将来に役立つんですね」と靡助。


「ああ、その通り」と若井。


 そして浜谷は若井に、「ここを見てくれ。部品を作る際の材質まで書いてあるんだ。例えばこのプレクトラムはカラスの羽の軸だ。ジャックの可動部、タングを跳ねさせるバネ代わりが猪の毛ってあるだろう。あとガット弦もひつじの腸とある。こんなの実物を分解しても分からない。ところがどうだい、この設計図ならその材料の特性さえ掴んでいれば代用品を考えるヒントになる」と、その図面が彼らにとって重要な意味をなしていることがおぼろげながら靡助にも理解できた。


 そんな話をしていると仲居さんが靡助の前に卵料理を持ってくる。

「オムレットという卵料理とミートソースのスパゲティです。それとこちらはコーラという炭酸の入った砂糖水です」と言って並べる。

 靡助は見たこともない西洋の料理に驚いていた。灯火管制時代にはお目にかかれない料理である。


「さあ、冷めないうちに召し上がれ」と勧める浜谷。

 驚きながらも初めて食べるデミグラスソースやケチャップの味に驚く靡助。育ち盛りもありものすごい勢いで食べる。初めて飲むコーラも驚くほど美味しい。その食べっぷりに浜谷も若井も微笑んでいる。彼らにはお銚子と豆腐料理が届けられる。


「ブリッジやチューニングのピンはピアノのものを参考に、作り直せば良いだろう」

「ガットギターの弦って、いまは化学繊維だよな。代用できるかな。長さが足りるか気になるな」という浜谷に、「ジャズをやっている米軍兵に試作材料としてひとつふたつ頼むか?」と若井の応答。

「そうだな。それでダメなときは本物を調達するか……」


 この真剣な会話を聞いて、靡助はこの紳士たちは本気でチェンバロを自前で作ろうとしているんだと実感した。


『なんてステキな大人たちなんだ』と靡助は食事を頬張りながら感じていた。

 そして少し間をとってから「どうだろう、山崎君。譲ってくれとはもう言わないので、この図面しばらくの間貸してもらえないだろうか。あと複写、写真に撮らせてもらえないだろうか」と浜谷。


「実はね。バッハというバロック時代の音楽家がいるんだけど、チェンバロのために作った作品があってね。SP盤のレコードでは本当のチェンバロの音が表現されていないと演奏家が言うんでね。だったら本物で勝負だって話になったのさ。それがいつしか学校全体の目標になってしまって、どうしてもチェンバロを使ってバッハの音を再生したいというプロジェクトを考えているんだよ。ところが肝心のチェンバロはどこを探しても見当たらず、相南桜台の友人の家に寄った帰りに君と出会ったんだよ。しかも神社の境内で。こんなのご縁としか考えられない。そして自分で作れという指示かも知れないねえ」と加えて笑う。


「幸いにして町工場のような小さな楽器製造会社に知り合いがいるので、その人たちと一緒に作り上げてみたいと思っているんだ。なのでどうしてもこの設計図が必要なんだよ。お借りしたいんだ。西洋音楽を日本に再び普及させる文化貢献と思ってほしい……」


 特に問題も無く靡助自身は貸してあげるつもりなのだが、暦人としての自分は果たしてこれが吉と出るのか凶と出るのかが怖かった。見せたことで時代が揺れては元も子もない。


 ただ不思議にその温かいオムレットの味の中で感じたのは「OK」を出すべきだという自然な成り行きだった。もちろんオムレットで買収されたわけではなく、その食べ物を口に含んだときに感じた心地よい導きの声だった。


 ここで彼が「はい」と言えば、間違いなく日本の西洋音楽の復興や地位の向上に役立つのは必至なのだ。戦争中製造すら途絶えてしまい、贅沢品とされていたピアノやヴァイオリンの復活に向けた動きも急速だ。そんな中、靡助の見たこともないチェンバロという日本では一般にあまり知られていない楽器を、日本で作ることが出来るのは国益にも適う。心の中で良く吟味した上で靡助は「無期限でお貸しします。文化向上にお役立て下さい」と言った。


 その言葉に教師二人は「ありがとう」と目頭の熱い思いで礼を述べた。そして年下の靡助に向かって深々とお辞儀をした。この敬意に対して靡助も学ぶべきものが大きかった。年下であろうと、半人前であろうと世話になった親切心には全力で敬服する。理を持った尊敬すべき大人の姿である。


 それから一年経った夏に浜谷はふたたびやって来た。復元したチェンバロで行うコンサートのチケットを持ってきたのだ。手紙に「待ち合わせはあの神社の境内で」とあった。


 先についた靡助はあの日と同じように石段に座って浜谷の来るのを待つことにした。

 程なくして遠方から手を振る浜谷の姿があった。靡助は会釈をすると石段の隣に浜谷を誘った。


 二人は神社の石段に座り込み話を始めた。

「大変参考になった。ありがとう」と丁寧に礼を言った浜谷は書類を靡助に返す。そして「これがコンサートのチケットだ。どうしても直接君に手渡したくて、今日は待ち合わせさせてもらったんだ」ときらきらした目で加えた。

「お役に立てて光栄です」と笑顔を返す靡助。続けて「浜谷さんのおかげで僕も自分のやりたいことが見つかりました」と続けた。


「おやっ」という表情を一瞬見せた後、「仕事のことかな?」と浜谷が訊ねる。


「はい。これから伸びる産業であり、文化活動の一環として音楽を聴くための、再生させるための道具を作るラジオや蓄音機材製作の技術者になろうと思いました。これからはレコードも充実すると思うので」と言う。


 その提案に浜谷は「それはいい」と頷く。

「地方にいる人はなかなか本物の楽器の音に触れることが難しい。蓄音機が技術向上すれば理想の音楽教育の手助けになる」


 浜谷は心から喜んでいる風に見えた。今で言うなら『音楽教育バカ』とも言えよう。一心不乱に音楽と音楽教育、楽器普及に力を注ぐ理想的な教員像を見ることが出来た。音楽教育を自分のことのように考えている人だった。

「先日都内を歩いていたら工場の近くに技術者募集の張り紙があって、条件を満たしていたので早速応募してみたら、学生でも良いからすぐにでも来てくれと言うことだったので考えています」


「そうか。君が私の仕事に近い分野にいてくれると嬉しいね。折角知り合いになれたんだもん。わたしも何か協力したいからな」と浜谷。

「コンサートには来てくれよな。君の設計図で作った自慢の一品をお見せしたいから」という浜谷に「勿論です」と頷く。

「音楽に魅せられているんですね」と靡助。


   夜話の後

「それで一年ほどして楽器メーカーの協力を取りつけてチェンバロが完成したんだよ。その時はバッハの『チェンバロ協奏曲』という作品のコンサートに招待されてね、初めてあんな繊細な楽器があることを知ったんだ」と靡助は思い出話を終わらせた。


「いまでこそ電子楽器でハープシコードの音は簡単に出るけど、やっぱりあのいつチューニングがズレるか分からないデリケートな昔の楽器だからこそ奏でられる音ってあるのよねえ」と美瑠。


 カラオケボックスに入っているのに誰一人としてカラオケを歌わない不思議な団体客。しかも二部屋借りておきながら一部屋は一人が宿代わりに寝ているのだ。


 そろそろ表も朝の気配がし始めてきた時間だった。夜明けまではまだ少しあるが、空気が夜の空気から朝の空気へと変化する時間だ。


「あと少しで四時回るね。表に出ようか」と言う晴海。

「そうね」という美瑠はテーブルの上を見て驚いた。

「芹夏さん。飲んだわねえ」と美瑠はあきれ顔。

「芹夏さんって、うちのお母さん曰く、一番清純派で男性ファンが多かったって聞いているんだけど、跡形もないわね」と再び晴海。母親譲りの辛口コメントだ。


 晴海のその言葉に「あら今でも本人は清純派のつもりだけど」と不服そうである。しかも相手は一癖ありそうな有閑マダム。一筋縄ではいくまい。

「清純派は生ビール大ジョッキ駆けつけ三杯やりません!」と晴海。勝ち誇った顔である。


 すると芹夏はにやりと笑って、「じゃあ、晴海ちゃんは夏夫君と瞳閉じて、夜の海辺でキッスをして身を委ねちゃうから清純派なの?」と悪戯顔で訊ねる。


 これで芹夏の勝ちは決まりである。いつものごとく晴海は顔を赤くしてもじもじしながら、「それはその…ええ…いつう。そんなこと…そうかな」とただ、ごにょごにょ、もごもごと独り言である。恥ずかしくなって何も言い返せない。


「ああ、芹夏さんいじわるね。晴海ちゃん、恥ずかしがり屋なの知っていてそういう質問に持って行くんだから」と美瑠も困った顔である。

「私のこと、言うからよ」と勝利を感じた芹夏は目の前にあるビールを再びぐびっといく。


 戦闘不能に陥った晴海は夏夫の耳元で「だってね、だってね」となにかささやいている。

 ちこはこの光景が初めてのようで、美瑠に「なにが起こったの?」と訊ねる。


「いつものことなんだけど、晴海ちゃん、普段はめっぽう強いんだけど、こと自分の恋愛のおのろけ話になると骨なしのツンデレちゃんになって会話不能になるのよ。免疫がないみたいよ」と美瑠。


「へえ、面白い。私もやろうかな……」というちこに、美瑠は先手打って言葉を遮り「おやめなさい」と叱咤する。「はいはい。冗談ですよ」と笑うちこ。あらためて俯いて赤くなっている晴海に「かあわいい」と笑った。


 その横で「所詮子どもね」と芹夏は笑って残りのビールを一気に飲みほした。ちなみに芹夏の名誉のために言っておくが、彼女は年齢の割にはとてもスタイリッシュで、美しい女性である。このメンバーでいるときだけ気を許しているようなもので、普段は振る舞いまでしなやかな女性だ。


 皆は準備が整うと靡助を見送りにタイムゲートに向かった。隣の部屋では山崎がすやすやと何も知らずに眠っている時だった。


   参道

 カラオケ屋さんを後にして、表に出た一行は明け方の涼風に身を任せ、気持ちよさそうである。和歌に謳われた昔から有明の月の頃、つまり月齢の十六夜以降は、早朝に日の出前の月が拝める時がある。その月と太陽が出そろう時刻にタイムゲートの前に行く手筈だ。


「久々のオールだね」と夏夫。

 美瑠は「どういう意味?」と訊ねる。

「えっ?」と驚く夏夫は「美瑠ねーちゃん二十代だよね」と逆に訊ね返す。

 怪訝な顔で「もうすぐ三十近いけど、まっ、一応」と美瑠は頷く。

「オールナイトのオール」


 割と簡単な答えに美瑠はがっかり感で「なんだ」と呟く。

「今日はみんなありがとう。久しぶりに楽しい思いが出来たよ」と靡助が思い出すように言う。

「あら、私たちの方が楽しかったわ。おじいちゃん」と芹夏。

「未来の相南市も見ることが出来たしなあ。まあ、たった十五年先だが」と笑った。


 そして「でも駅に地下鉄や神奈川鉄道が延伸していたのだけはびっくりしたけどな」と付け足した。


「いったの?」と笑う美瑠。

「ああ、怖いもの見たさに」と笑顔で返す靡助。そして「大都会になっていて驚いた」と加えた。


「怖いのか?」と自問で呟く晴海。


 一行は商店街を抜けて、石鳥居の前までやってきた。右手には一面のひまわり畑である。うっすらとだが肉眼でも見える明るさになってきた。


 大石段とひまわり畑の間にスロープになった脇参道がある。その脇参道の中腹、踊り場にかつて常夜灯として街道を照らしていた石灯籠がある。その石灯籠の穴に朝日が差し込む時間はもうすぐだ。石灯籠の燭光の穴に差し込んだひとすじの光が、石段脇の石垣に透過して当たる。その時、月齢で十六夜以降と重なる時期だと、そこにタイムゲートが生まれるのである。


「昔は建物が少なかったので秋以降もタイムゲートは開いたのだが、今は秋の黄道の位置に建物が出来ていることで、夏のこの時間だけだ。二十六夜だけは月読さんの機嫌が良いのか、時空穴が特に大きくなる。それ以外の時期になると、帰りは町山田の日月さんにお世話になる機会が増えたなあ」と懐かしそうに話す靡助。そしてひと息つくと「次世代の良い暦人の皆さんに会えて嬉しかったし安心したよ。時神さまも心強いだろうな」と笑みを浮かべた。


 そして靡助は美瑠の手を握りしめると、「あいつをよろしく頼みます」と凜とした姿勢と口調で告げる。


「私の方こそ、こんな不出来な女ですが、精一杯がんばってみます」と真面目に返す美瑠。


 紫色の空がしだいに暖色系のグラデーションへと変化する。太陽が昇る前のその空には有明どきの白い月が光っている。そしてすぐに日の出だ。そのひと時だけがタイムゲート、金色の御簾が開く瞬間なのである。石垣に光の帯が当たった部分だけがしだいに金色に輝き始める。それが五色に変わる。陽炎のような空気の揺れを感じているので、壁が回っているようにも見える。


「お別れじゃな」と靡助。

「帰ったらちゃんと湿布貼ってね」と美瑠。

 柔らかな笑みを浮かべて無言で頷く靡助。

 ゲートがちょうど人のくぐれる大きさへと成長してきた。

「そろそろだな」と靡助はゲートの方に向き直った。

「お元気で」

 皆がその後ろ姿に向かって一斉に手を振る。夏夫と美瑠は深々とお辞儀をした。


 横向きのまま靡助は皆の方を一度振り返って笑顔を向けると、跨ぐように光の渦の中へと入っていった。いつもながら、呆気ないさよならの瞬間である。暦人はこうしてタイムゲートを往復している。


 太陽は石灯籠と水平だった時間を過ぎると、しだいに南中に向かって高度を増すため、光の帯は石段の下の方へとずれていく。更に時間が過ぎると、灯籠の穴の途中で光が通り抜けの出来ない角度になって、タイムゲートは消えてしまう。


 会えるはずのない人に会えたという思いは美瑠の中で大きな嬉しさになっていた。彼女が考えていたよりも、もっと心根の綺麗な人だった。温かい心の持ち主だった。自分も暦人として、こころの研鑽を積んでいかないといけないという思いにも駆られた。


「おじいちゃん、ありがとう」


 美瑠は思いの深さから自然に、無意識に声を出していた。

 そして皆が向きを変えて坂を降り始めているのに、美瑠だけがじっと無くなったタイムゲートの場所を見つめて佇んでいた。

「美瑠ねえちゃん、行くよ」と夏夫の声で我に返る。

「ああ、うん。今行く」


 そう言って、美瑠は名残惜しいまま、時神さまにぺこりとお辞儀をすると下駄の音をカンカンと鳴らして小走りに皆の元へと向かった。


   靡助のメッセージ

 靡助を見送った後、山崎を起こして一行は解散した。


 自宅のカフェで仮眠をとった美瑠が目覚めたのは午後一時を回った頃だった。浴衣姿のままで店のソファに横になっていた体を起こす。すると凪彦がカウンターでコーヒーを入れている最中だった。


「おはよう」と美瑠。目をこすりながら視点を合わせる。

 笑いながら「おはよう……。でも早くないですね。もう一時ですから」と凪彦。


「あら?」と美瑠。

 彼女の目にとまったのはカウンターの上にある麦わら帽子とペンダント、それに音叉おんさと何かのメモ紙である。麦わら帽子とペンダントには太刀と弓と琴のミニチュア模型が添えられていた。音叉とメモ書きにはがまの穂が添えられていた。


「これなに?」と山崎に問う。

「おそらく過去からじいさんがやってきたんだと思います」と、どんぴしゃの正解を返す。


 美瑠は内心『さすが凪彦さん!』と思った。


「庭のキンモクセイの木に引っかけてあったので取り込んできました。じいさんなりの気遣いの方法だと思います。メッセージはちゃんと読み取れました」と笑う。そして「さすがに身内に言葉を交わすわけにはいかなかったんでしょうね。暦人同士なので会っても問題は無いはずですが、『念には念を……』と考えたと思います。だからメッセージと贈り物だけです。これなら時間は絶対乱れません」と言う。


「へえ」と美瑠。

「美瑠さんの存在にも気付いて帰ったみたいですよ」と凪彦。

「これだけで分かるの?」

「太刀と弓と琴はスセリビメ命を嫡妻むかひめにする象徴でしょうね。愛する人を助けた時、持ち出したアイテムです。大国主が国を治めることを許された証とも言われています。だからこの帽子とペンダントはその相手である美瑠さんに渡せと言うことのようです。じいさんからの贈り物なので受け取ってあげて下さい」と凪彦。


 美瑠は内心『あっ』とその麦わら帽子を確認する。帽子の中には消えかかった炭の文字で、「浜谷」の文字が見てとれる。話の中の音楽教師からもらった思い出の品だ。


『おじいちゃん。私に置いていってくれたのね。だからあんな話をしてくれたんだ。大切な思い出の品をありがとう。大事にするね』と美瑠は優しい顔をしてくうを見つめた。そしてペンダントには「バッハチェンバロコンサート記念」の刻印と「昭和二×年」の文字がある。その時のコンサートの記念品である。そのペンダントを見つめていた彼女に「時空を狂わせない程度の贈り物だと思うので、受け取ってあげて下さい。我が家の次の世代の暦人へのリレーションシップのつもりなんでしょうね」と言う山崎。


「私なんかにもったいない……」と呟く美瑠。

「気持ちの良い人ですから」と山崎。

 その言葉に「はい」とだけ頷いた。


 美瑠は植物の穂を手に「こっちは?」と言うと「がまの穂です。有名ですよね」と笑う。


 美瑠は「因幡の白ウサギ?」と答える。すると「つまりは大国主命、その旦那様のほうです」と加えて、「まあ、私にと言うことでしょう」とコーヒーを美瑠の前に置きながら言う。


「じいさんらしいですね。文字を残してしまうと大変なのでイメージだけでメッセージを残していきました」と笑う。


「でもメモ書きがあるわよ」といってその紙を開く美瑠。

「プリンターで印字された活字、しかも数字の羅列です。筆跡はありません」と先回りして答える山崎。


『329.6 293.7 261.6 329.6 392.0 440.0 329.6 392.0 392.0 329.6 293.7 261.6 220.0 195.9 329.6 329.6 329.6 329.6 349.2 329.6 329.6 329.6 293.7 329.6 293.7 293.7 293.7 261.6』


「暗号?」と美瑠。

「まあ、そんなもんです」と返す。

 紙を見ながら「もう解読できてますか? 分かっていますか?」と山崎の顔を見上げる美瑠。

「はい。すぐに分かりました。祖父の考えることですから」と言う山崎に、「教えて下さいな」と嬉しそうに言う美瑠。

 山崎は椅子に座ると「良いですよ」と言って話し始めた。

 そして「音叉がヒントですね」と言う。


「一般的な音叉はギターなどのラの音を調弦するときに使います。ラは四四〇・〇Hzで数字的にキリが良いのでしょう。他の音の多くは小数点以下であるものが多い。反対から考えれば、それでラが調弦の基本音階なのかも知れませんね。もちろんピアノの調律師さんなどはオクターブのそれぞれの音の音叉を何本も持っている人もいます。まあ音叉自体はヒントなのでここでは深入りせずに置いておきましょう。つまりAの音ですから四四〇.・〇Hz、一秒間に四四〇回の振動数を意味します。メモに記された数字の羅列は振動数だと思います。音のHz数を数字に直したものが音階には存在しますので、その紙に記された数字を振動数とみなして、音階に直します。最初が三二九・六ですからEの音、つまりミです。それを順に音階に直してあげると、EDC EGAE GGEDC AGE EEE FEEED EDDDCとなりました。オーディオ職人のじいさんらしい暗号です」と解読して音階に直した用紙を見ながら山崎は美瑠に伝える。


「あとは美瑠さんの方がよく知っていますよね。だって楽器会社のデモンストレーターやっているんですから」と笑う。


 メモを見ながら「♪ミレド ミソラミ ソソミレド ラソミ……」と空で口ずさむ。すると「あっ、『レット・イット・ビー』だ」と言う。


「あたり。ポール・マッカートニーの作った名曲です」と落ち着いて答える山崎。


 そして「あなたとの関係は『あるがままの状態』で行けば良いということを示唆している。つまり了解したよというメッセージなんでしょうね。また今回のアイテムをわざわざ出雲系の神話からにしてあるのは、あの世代が持つ「縁結び」の一番のイメージが出雲大社だからでしょうね」と笑顔を向けた。


 そして美瑠はそのまま山崎に抱きついた。山崎も彼女をきつく抱きしめている。ふたりの心にようやく安堵の気持ちが生まれてきたようだ。つきあい始めてはいたが、どこかすっきりとしない、遠慮のような気持ちを持ち続けていたふたり。そのふたりのぼんやりした気持ちを消極的にさせていた原因、こころの壁がようやく取り去られたように感じたのだ。その抱擁は何分ぐらいだったのだろう。心が洗われていくような気持ちをふたりは互いに感じていた。


 オーディオからはちょうどヘップバーンの歌う名曲『ムーンリバー』が流れている。静かな店内、今の二人にふさわしい曲だ。新しい二人の生活を象徴するような愛の歌。


 ……っとその時、店の扉の鳴子が鳴って「おっじゃっまー!」といつものように晴海が入ってきた。ところが彼女は目の前の光景にびっくりする。

 店の奥できつく抱きしめ合うふたり。美瑠も凪彦も入ってきた晴海には気付いていない様子だ。普段はそんなイメージのないふたりなので、心に刻む何かがあったのだろう。それを察した晴海は、忍び足で踵を返す。ふたりに気付かれる前に表に出ると、静かにドアを閉めた。そして閉じた扉の前にどっかと座るとなぜか門番を始めた。


 後から来た夏夫が、扉の取っ手に手を掛けようとすると「ダメ」と言って制止する。

「なに?」と夏夫。

 晴海は耳元に手を当てて「ふたり抱きしめ合っていた」と言うと、夏夫は「OK」と言って扉の前で晴海とふたりで体育座りをする。門番は二人に増えた。意外に可愛いふたりである。


 汗をかきながら二人は辛抱強く座っている。ふたりに出来る普段の恩返しは汗をかいて待つことである。夏夫の右手には店に飾ろうと持ってきた小さなひまわりの花が二本握られている。


 ひまわりの花言葉は「あなた(きみ)だけを見つめる」と「崇敬・崇拝」である。まさに愛するふたりとそれを見守る時神の使いとしての靡助のイメージそのものである。


 夏夫の手にあるそのふたつの花たちも、今日のふたりを祝福にするように優しく笑っているように見えた。

                                                                      了







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