第3話 ♪アイビーと雛菊-暦法改正のアミュレット-

――暦を司る神さまを時神ときがみとしてあがめる人たちがいる。その使者として時を旅する者たちは暦人こよみびとやカレンダーガールと呼ばれている。その時間移動には太陽と月の光、そしてそれらを祀る場所に開く「時の扉」が使われる。いにしえより続く、限られた人たちだけが、その役目のために隠密行動で時を超える。そして彼らの原動力は、いつの時代も人の世のやさしさ――


   十月一日 午後三時

「じゃあ、六月十日は月の光がなくてもタイムトラベルが可能なんですね」

「そう、燭光しょっこうだけで行ける唯一の日ね。ただしこの日のタイムトラベルは、さっき言ったように天候に左右されない代わりにタイムゲートの場所が限られるので要注意ね」


 時空を旅することが出来るカレンダーガールである阿久葉織あぐはおりは、カレンダーガールの先輩格である中島すばるからタイムゲートについての基本事項を教わっている。彼女たちは三重県にある同じ教会のシスターから信頼を受けてカレンダーガールになった。ついでに言うと同じ大学の院生と学部生の先輩後輩でもある。


 彼女たちの通う大学は東京の広尾にある女子大である。時は一九八〇年代前半、日本経済高度成長期も最終局面に入ったあたりの頃である。バブル経済に入る少し手前の軽い経済停滞期の時代がこのころである。とはいっても高度成長期ゆえ、失われた二十年に比べれば軽いくしゃみ程度の経済停滞期だ。


「あとの詳しいことはノートにまとめておいてあげるから、暦人としてのタイムスリップの出来る日にちをしっかり確認しておいてね」とすばる。

「わかりました」


「それと何はともあれ、覚えておいて欲しいのは原宿に表参道って通りがあるの。その通りの青山側に同潤会アパートっていうツタの絡まった古い集合住宅があるのね。その脇道の路地を入った先に、ひらがな書きの『ひなぎく』っていうカフェがあるからそれだけは忘れないでいてね。『迷い人』になった時の緊急避難所になっているわ。中に入ると壁一面の鏡がある。そこで状況を話すとカレンダーガールも暦人も力になってくれるはず。これだけはシスターから一番にあなたに教えてあげて欲しいと頼まれたことだから、確かに伝えたわよ」と確認のすばる。


 ここでいう『迷い人』はタイムスリップをして、自分の時代に戻れなかった時空を彷徨う人間のことである。


 すばるの言葉に「はい『ひなぎく』ですね。表参道の同潤会アパート横の路地裏ですね」とメモする。するとすばるは「ここに地図と店名書いておいたわよ」と言ってメモ用紙を彼女にすっと渡す。


「ありがとうございます」と葉織。


 それを聞き終えるとすばるは笑顔で「今日の伝達事項はここまでね」と眼鏡を外した。


「すばるさんは修士の後、決まったんですか?」と日常の話題を振る葉織に「私、博士課程、他学に進学するの。真面目に研究したいから帝都大学の日本文学にいくの」

「ええ、帝都大学って、あの本郷の赤門のある帝大ですか」と葉織。

「そう。その帝都大で、林芙美子の研究をするつもりよ」

「現代作家ですね。すごい!」

「すごくはないわ。あなたがファッションのお仕事に興味があるように、私は現代作家に興味があっただけ。社会の分業の一部に過ぎないわ」と特に飾りもせずにすばるは答えた。


「さて今日のところは私は修論もあるので、あとはまた来週にしましょう。あなたもこの後お仕事なんでしょう?」と加える。


 仕事という言葉が照れくさい葉織は「仕事なんて、打ち合わせだけだし、ほんのバイトに毛が生えたようなものです」とかぶりを振った。

 カバンを肩にかけて帰りの支度をする葉織にすばるは「ああ、それと次は『パッション』の時期のタイムスリップは異空間ねじれがあるからちゃんと教えるわね。この次、私が忘れているようだったら『パッション』のことを私に言ってね」とも加える。

「パッション? ……情熱」という葉織に、「そっちじゃなくて『受難』の方よ」と正して、「じゃあまた」とすばるは大学に近い喫茶店での勉強会を終わりにして立ち去った。その後に葉織も続いた。


   十月一日午後四時半

 葉織が恋人である時名純一の母の店、もんじゃ焼きの「千乃音ちのん」にたどり着いたのが午後四時半だった。下町情緒の残る築地近くの運河沿いの裏路地にその店はある。店内は遅い昼食を食べる人でそこそこ埋まっている。

「あっ、お母さん。私持って行っても良いかな?」


 盛りつけが終わったもんじゃ焼きの具汁が入ったアルミの器をキッチンカウンターに見つけると、葉織は手際よく盆に載せ、鉄板のあるテーブルへと運ぶ。


 その様子を厨房の中から見ていた純一の母は「ちょっと、やめとくれよ。大事なお嬢さんの白魚のような指に、やけどの跡でも残ったらどうすんだい。あたしゃ責任とれないからさ」と慌てて出てくる。


 その横で近所の評判娘になりつつある葉織はまんざらでもなかった。


「よっ、はおちゃん。今日も可愛いね。はおちゃんに運んでもらうと倍美味しいよ」と常連のなじみ客の言葉。駆けつけた純一の母は横目で「よう源さん。いつも私が運ぶとおいしさ半減ですまないねえ」といつもの下町ジョークを浴びせる。


「おかみさん。勘弁してくれよ」と自分の頭を撫でて笑う常連客。


 高校三年の夏に純一と知り合った頃の高飛車だった葉織の姿はかなり消えていた。人との交流の中で思いやりや慈しみを身につけ、大学生になった年相応の品位も身につけ始めた年頃だった。


「純一はまだだよ。あと三十分もすれば帰ってくるよ」とおかみさん。そう言いながら瓶入りのオレンジジュースを栓抜きでスポンと開けると、グラスと一緒に空きテーブルに置いた。


「悪いね。こんなものしか出せないけど、これ飲んで待っててね」とそこに座るようにジェスチャーを送った。


 奥のテーブルの常連さんからは、

「あれ? はおちゃん、こっちには運んでくれないの?」と催促の声が飛んでくる。その方向に向かっておかみさんは「今日からわたしがはおちゃんになりました。わたしがはこびますねえ」と葉織の口調をまねして見せる。


 言われた奥の客はしかめっ面で葉織の顔を見る。くすくすと笑う葉織は青春ど真ん中である。

 そんな恋しい彼を待つ葉織の姿をのぞき込むように探し当てた二人の若い女性がいた。「チャオー」とこの当時の流行の挨拶で声をかけたのは越模映美こすもえいみ麻木芹夏あさぎせりかのモデル仲間だった。


「あれ? どうしたのよ」と葉織。

「この間、約束したの忘れた?」と芹夏。

「なんだっけ?」と本当に忘れている葉織。しおらしくなっても根本のおおざっぱな思考回路は変わらないようである。

「五時頃はいつも美味しいもんじゃ焼きのお店に居るっていっていたでしょう。それで今度行ってもいいかな、っていったらOKしたじゃないのよ」と映美。


「そっか」と全然覚えていない葉織。でもウエルカム状態なので特には問題もなさそうである。


 驚いたのは常連の客たちだ。綺麗に装ったモデルさんふたりが店先にやってきたからさあ大変。ひそひそ話が大声で始まった。どの子が可愛いとか、何を食べるんだとか、正直どうでも良い話のオンパレードである。


「じつは十月四日の撮影が三人一緒なのよ。青塚下あおつかしたのスタジオに午後二時でしょう。カメラマンさんは志熊さん。できたら三人一緒に行こうと思って、その打ち合わせ」と映美。


「いいわよ。いきましょう」と即決の葉織。いつもながらの男前な決断。さすがである。


「じゃあ、午後一時に池袋、西上線のメイン改札前ね」と映美。

「了解」と葉織と芹夏の声。


 即決の用事が済んだことで映美は、

「じゃあ、アタシは用事があるので、これで失礼するわ」と荷物を持つ。あわてて「待って、食べに来たんじゃないの?」と芹夏は引き留める。


「ごめん。これがアレなんで」と親指と小指を立て恋人の存在を示唆する映美。


 あきれ顔の葉織は「はいはい。あれこれ大変ね。またね」と笑って見送る。

 映美も「チャオ―」と言って手を振って出て行く。


 映美を見送った後、ひとしきりして「エビ玉」と葉織は芹夏に言う。

「へっ?」と意味の分からない顔の芹夏。

「ここで一番美味しいのはエビ玉がお薦めよ、っていってんのよ」と姉御肌の性格も健在でお薦めメニューを芹夏に押しつけた。そして彼女の「じゃあ、それ」と言う言葉を待ったあとで、厨房に向かって「エビ玉二丁」とオーダーをした。


 奥からは「あいよ」と小気味のよい声が二人の方に返ってきた。その声と同時にガラガラと店の扉を開けて純一が戻ってきた。

「ただいま!」

 奥で母親が「お帰り」と言った後、葉織が居ることを示唆して目配せを送った。


 それに気付いた純一は葉織たちの座るテーブルに向かって、「来てたんだ」と笑顔を向ける。そして芹夏にも「いらっしゃい」と挨拶をした。


「誰?」と愛想笑いの芹夏は葉織に訊ねる。

「私のダーリンにして、この店の息子さん」と言う。

「ええ、葉織のダーリンって、もんじゃ焼き屋の若大将だったんだ」と驚いた。

「まあ人生は往々にしてそんなものよ」と分かったような口を叩く葉織は、手のひらをかざして鉄板の熱さを確かめると、油をハケで塗り始めていた。


 葉織のその仕草を頬杖ついて眺めながら、「浮いた話がないのは私だけか……」とポツリ呟いた芹夏だった。


   十月三日 午後一時

 新宿にある百貨店主催のファッションイベントにゲストで呼ばれていた越模映美は、イベントの終了とともにステージを降りて控え室になっている応接室へと帰ってきた。


「お疲れ様です」とすれ違う人たちにそのたび笑顔でお辞儀をする通路。そんな作業を繰り返して控え室に戻ると、司会のマイク花草はなくさとマネージャー代わりの鈴木有人すずきあるとが出迎えた。


「お疲れ様」と鈴木。彼は本来は雑誌社の社員だが、製作過程の暇な時期には彼女の付き人をしている。その横でスパンコールの蝶ネクタイにラメのジャケットを着た派手なマイクが握手をしてきた。司会者というよりまるでマジシャンだ。


「良いコメントでしたよ。ありがとう」


 そう言った後、「あなたにプレゼントを、と思いまして、昨日手に入れてきました。お眼鏡にかなうかどうか分かりませんが、もし良かったらこのペンダントをアクセントの一つにどうですか」と言って白い小箱を渡した。


 渡された映美はそっと蓋を開けてみる。そこにはネックレスに銀のペンダントヘッドがひとつ。センスの良い時計をあしらった小さなオブジェだ。

「ありがとう。これマイクさんからですか?」と訊ねる映美。


 マイクは不自然に目をそらしながら「まあそんなところです」と意味ありげに笑った。そしてすぐに鈴木のほうを向くと「これくらいのプレゼントは大丈夫ですよね?」と確認をとる。


 鈴木も彼女がモデルである以上、プレゼントはつきものと心得ているので、「まあ、大丈夫だと思いますよ」と別段問題にはしない。


 素早く身支度を調えていた映美は、深々とお辞儀、再度の礼を述べ控え室を出て帰路についた。その後ろをやる気なさそうに鈴木も衣装ケースを持って出ていった。


   十月四日 午後一時

 池袋の西上線中央改札口にボストンバッグを床に置いてぼーっとしている芹夏は誰も来ないので少し不安になっていた。とっくに一時を過ぎているのだ。


『私、約束時間、間違えたかな?』


 彼女がそう思った瞬間に前から葉織が現れた。紙袋の束である。おそらく衣装が入っているのだろう。


「よかった」と芹夏。


 訳が分からず「何、その挨拶?」と不思議そうな葉織。

「だって約束時間になっても誰も来ないから、時間間違えたかと思ったわよ」


「ごめんごめん。私、荷物多くなっちゃって。ほら、あんたたち二人と違って、私は付き人いないからさ。衣装さんと別の分は全部自分で持ってきたの」と疲れた顔の葉織。


 それでも来てくれた葉織に安心してか、芹夏は「荷物半分持つよ」と嬉しそうだ。


「わるいからいいわよ。人気モデルを三流モデルが雑用に使ったとあっては、あとで世間体が悪い」と軽く断る。

「あら、友人がたくさん荷物持っている横で軽そうにしていたら、私の世間体が悪くなるんだけど」と笑う芹夏。


 葉織はその言葉に苦笑すると、

「あんたには敵わないわ。じゃあ軽そうなやつ一つだけ持っておくれ」と笑う。


 葉織を打ち負かしたことで、芹夏は嬉しそうである。

「うふふ。よいな、よいな♪」と両手の親指と小指を立てて踊る。


 その仕草を見て、

「あんた『はいからさんが通る』の見過ぎ!」と突っ込んだ。

 この一九八〇年前後は空前の少女マンガブーム、紅緒べにお、キャンディー、オスカル、ナッキーといった少女マンガのヒロインたちが、雑誌からテレビへとエントリーされて、次々とゴールデンタイムに動画化されていた時代だった。物語が高度で、知的好奇心を沸き立たせる中高生から大人向けの少女マンガが人気を博していたのだ。これらの作品は二十一世紀の今もなお愛され続けている。


 さてマンガを真似たこの行動、決して芹夏だけがしていたわけではない。ただ当時二十歳を過ぎてやっている芹夏は、今の言葉で言えば、すこしイタイかも知れないのだが……。


 それから十五分ほどしてからようやく映美がやってきた。手ぶらの彼女はおそらく別便で荷物を運んでもらっているのだろう。


「ごめん。出がけに乗せてもらった車が渋滞に巻き込まれて遅れちゃった」といきなり拝み倒す映美。


「あんたね。平日の池袋、車って、当たり前じゃない」という葉織に、上着の襟を翻して「はおちゃん、わたくしをゆるされて。なにか後で償いをしても良くてよ」とふざける。


「今度はあんたのお蝶夫人か。芹夏といい、マンガ少女の物まね大会もいい加減にしてほしいわ」と言いながら葉織は床の荷物を持ちあげると券売機の方へと先頭に立って歩き始めた。ちなみにお蝶夫人は『エースをねらえ!』のヒロイン岡ひろみのライバルである。このお話は、そんな昭和な時代が舞台である。


 発券機で切符を手にした後、改札上の電光掲示板の時刻の様子がおかしい。発車時刻を過ぎたはずの列車案内が依然として表示されているのだ。いや正確にはこの異変、駅全体が慌ただしく、人の波で溢れていた。


「なに、この状態」と葉織。


 駅員の詰め所、駅本屋えきほんや(※駅本屋 駅の事務室のこと)の窓には列車不通の張り紙がある。彼女たちはその張り紙を確かめると、復旧まで一時間と書いてあることを確認した。


「しょうが無い。あんたの償いでお茶しましょう」と葉織の提案。

「喜んでおごらせていただくわ」と映美。

「いつまでお蝶夫人やっているのよ」という葉織の横で、「ロハでコーヒーって、よいな、よいな♪」と芹夏。


 その仕草にしかめっ面の葉織は「ほら、トットと行くわよ。ぐずぐずしているとおいてくから。紅緒さん」と冷たい態度で先頭を歩き始める。ちなみにロハとは漢字の『只』の文字の形状をカタカナに置き換えたもので「タダ」、つまり「無料」を意味する俗語である。明治の頃から使われていたらしいが、何かの影響でこの時期再び使う人が増えていた。これ辞書にも載っているので時間のある人は確認してみてはいかがだろう。


 西口と東口を結ぶ通路の両端には電鉄系の百貨店が陣をなす。三人は仕方なく、デパートの屋上にあるオープンカフェっぽいフードコートでコーヒーを飲むことにした。


「コーヒーおごるって言って、紙コップのコーヒーおごるモデル初めて見たわ」と葉織。


 芹夏も予想外の転末に驚いている。


「一番売れっ子の映美ちゃんのおごりがこれなの? ファンに知れたら涙ものね」とからかう。


「しょうが無いじゃない。どこもいっぱいなんだから。みんな考えることは一緒ってことでしょう。私のせいじゃないわ」


 彼女の言い訳は正論である。電車の一時運転停止で、時間を持て余した人たちが立ち往生する中、その暇な時間をしのぐため、改札に近い場所の喫茶店から埋まっていくものである。


「まあ、座る場所があっただけ幸運と思いましょうね」と葉織。そして「あら映美、あんた良いネックレスしているわね。おニューなの?」と続けた。

 その言葉に、自慢げに手のひらですくい上げると、「へへへ、良いでしょう。先週新宿の百貨店でイベントのゲストに出たときに、司会の人にもらっちゃった」と笑う。


「ファンじゃなくて、こっち側の人にもらうところが映美ちゃんらしいね」と芹夏。


 ちょっと怪訝な顔で「あら、芹夏はファンからこういうのもらったことあるの?」と不服そうである。

 駆け出しに近い三人は固定のファンなどいるはずもなく、雑誌モデルというのが今ほどテレビなどの媒体に出るような時代ではない。タレント性を必要としない人の多い時代だった。仕事を通して、穏やかにファッション関係の紙媒体の勉強するのを許された良い時代だったようだ。


「花束ならもらうわよ。綺麗な季節の花。それくらいがいいわ。宝飾品だともらった後に意味を考えちゃいそう」と芹夏。そして「私は別に有名になりたいわけじゃないから編集部の人にたまにお呼びしてもらえればいいの。バイト感覚」と笑って加える。


「ちょっと、わたしが欲深みたいに聞こえるじゃない。そのお利口さん的な発言勘弁して」と返す映美。


「ちがうよ。映美ちゃんはいいのよ。目標が違うんだから。目指せ『ミスDJリクエストパレード』だもんね」と批判的な意思がないことを映美に告げる芹夏。


「なにそれ?」と話が通じていない葉織。

 話しについて来ていない葉織のために芹夏が説明する。

「この間、はおちゃんのダーリンのお店、行く途中で映美ちゃんの目標を聞いたのね。ラジオのお仕事やタレントさんみたいなこともしたいんだって」

「へぇー。映美って頑張り屋なんだ」と葉織。


 この頃からラジオのディスクジョッキーなどで女子大生の素人芸が可愛いともてはやされる番組が始まった。当時マスコミの仕事のチャンスをうかがっているファッションモデルやミスコン出身者は決して少なくなかったと近年のインタビュー番組でよく聞く。


「はおちゃんは?」と映美。


 突然将来のことを訊かれて困った葉織は「普通にお嫁さんかな」と彼女にしては意外な答えを出した。もちろんそれを聞いた二人は「えー」と怒号の声を出した。


「一番似合わない人から聞いた答えだわ」と映美。冷や汗をハンカチでぬぐう。彼女は続けて「芹夏が言うのならそんな感じだけど、はおちゃんが夢見る少女のような答えはなしでしょう」と言い切った。


 薄目を開けてあきれ顔で「おいおい、あたしゃどんな見られ方をしているだ」とぼやく葉織。

「自立した働く女性」と口を揃えて笑う映美と芹夏。


 その答えに少し首をかしげた後、「それは見方を誤っていると思う。私そういうりきんだ人生は好きじゃないわよ。雷鳥らいちょう先生の時代ならともかく、私はダーリンと二人でのんびり、若いときから悠々自適な生活を『よいとこせ』な海辺で過ごすのよ。おわかり?」と言ってコーヒーをすすった。

「へえ」と二人は意外な葉織の性格の一面に驚かされた。


   十月四日 午後二時過ぎ

 西上線の青塚下駅の階段を降りるとロータリーに出る。仕事場は目と鼻の先だ。都心に近い住宅地にあるスチール専用のスタジオ。名称はスタジオ86である。最近のトプコンモード社発行のファッション雑誌のほとんどはここで撮影されている。最新の洋風一般住宅の間取りの家一軒が、一部暗室などの改造はしてあるものの、そのままスタジオになっている。そのため昔ながらの倉庫のようなホールの中にあるセットではないナチュラルなアーバンライフ像を提供できるスタジオだ。この当時の若い女性が思い描く理想の戸建て住宅だった。太陽光がそのまま使えるため、こだわりのあるフォトグラファーもこぞってここを指定してくるのだ。後にこの類のスタジオはそこそこ都内に増えることになる。


「着いたね」と葉織。


 住宅街の角を曲がるとスタジオが見える。普通の分譲住宅の一つなので、周りの家と同じ造りだ。外から見る限りそこがスタジオには見えない。一見普通の民家だ。近づいてみるとなにやら皆がスタジオの前で立ち往生している。


「どうしたんですか?」と葉織はカメラマンの志熊に訊ねる。

「ああ、葉織ちゃん。ドアの立て付けが悪くて中には入れないらしい」と銀色のカメラバッグを椅子にして座っている志熊が答える。

「なんか今日ついてないわね。日が悪い?」と芹夏。

「ほかにもなんかあったの?」と志熊。

「西上線、信号機の故障だったらしくてしばらく止まってました。一時間のロスです」と映美が言う。

「あらあら、困ったもんだ」と返す志熊。

 すると「志熊先生、ご迷惑おかけして済みません」と雑誌社の編集長が缶の飲み物を持って現れた。

「まあ、アクシデントだからしょうが無いですね」と苦笑する志熊。そして差し出された缶ジュースを受け取り、「いただきます」と礼を言う。


 次に横にいた三人の方へときた編集長は「ごめんね。これ飲んで待ってて」と平謝りである。

「ジュース儲け」と芹夏。

「あんたそんなことで喜ぶんだ」と葉織。


「いやね。前向きに装っているだけよ。アクシデント続きじゃめげるでしょう」と、もっともなことを返してきた芹夏に、「意外。そんな複雑なこと考えるときあるんだ」と葉織。


 無言で苦虫を噛みつぶした表情の芹夏に、葉織は肩を叩いて、「いやね。冗談よ」と笑う。


「たまに、はおちゃん冗談に思えないときあるんだもん」と困った顔の芹夏。

 仕方なく芹夏は「待ってても退屈だからゲームウォッチでもする?」と提案。


「出た。芹夏の新しい物好き。やるやる」と言って映美は、芹夏がバッグから取り出した携帯ゲームの草分けだったゲームウォッチを受け取った。このメーカーが、紙のカードゲームから電子ゲームに移るきっかけになったヒット商品だ。

「一回交代だからね」と仕切る芹夏に、「了解」とすでに画面に釘付けの映美は返事した。


 その二人を母親のように見守る葉織は「マンガの次はゲームですか。あんたたち子どもか?」と突っ込んでいるが、二十世紀も終わる頃にはマンガもゲームも大人が楽しむアイテムとして販売され始めることを、この時彼女はまだ知らない。


 そんなやりとりを繰り返していると奥の方から「開きました!」と声がした。


 その声に缶ジュースの残りを一気飲みして、志熊は銀バッグを肩にかけるとけだるげな表情でいそいそとスタジオの中に入っていった。それに続くように三人も中に入っていった。


 すでに前日に届いていたアパレルメーカーの段ボールが玄関先に積まれている。


「あっ、これ映美のスポンサーさんのやつだわ」と芹夏。その声に彼女のスタイリストさんが「ありがとう。探していたの」と礼を言う。遅れた分だけ皆混乱している。


「ほら、急いで急いで」やら「ぐずぐずするなよ」のせかす声があちらこちらで飛び交っている。各自遅れを取り戻すのに必死だ。

 ライティングの調整をしていた人たちが突然叫んだ。

「ブレーカー飛ばしたか?」と言う。


 窓辺に陣取っていた三人は分からなかったが、室内の電気が消えたようだ。

 しばらくして奥から「飛んでません。通常の位置になっています」と応答がある。

「じゃあなんで電気つかないんだよ」と困った声。

 その時、映美は窓から隣の家のテレビが消えたのを見た。

「停電だわ。近所も消えている」と皆に伝える。

 その言葉に再び皆が慌て始めた。

「どういうことだよ。聞いてないぞ」とどよめくスタッフたち。


 窓際で日向ぼっっこをしていた三人の近くに志熊がやってくる。その左手にはスピードライトを付けた大きな一眼レフのカメラ、右手では三脚に備え付けた二眼レフの中判カメラを持っている。葉織は友人のカメラマニア、春彦が見たら目を輝かせそうなカメラだと思った。筐体にはローライと刻印されてある。


「ごめん。灯り回復するまで、庭の自然光で撮るね。用意してくれる?」と言って芝生の庭をカメラで指した。


 先に庭に向かう志熊の後を、レフ板を持ったアシスタントが追いかけていった。彼女たちも、おのおの段ボールや手提げ袋からスタイリストの人と一緒に指定の衣装を探し始めた。


   十月四日 午後十一時過ぎ

 とりあえず仕事もほぼ終わり、ケータリングの業者がダイニングに立食スタイルの夕食を並べ始めた。アクシデントで大幅に作業が遅れたお詫びにと雑誌社の編集長が用意したものである。


 志熊たちは暗室作業を続けている。現像が終わって、おおよそ使う写真が指定されるまでで、今日の作業は終わりである。あとは制作側の仕事になるので、社に戻ってその先は明日以降となる。


 葉織たちの元に編集長がやってくると、「今日は遅くなってごめんね。責任もってみんなを私たちが送るので、お家には連絡しておいてね。それと忙しくてなにも食べてないだろうから、摘まんで帰ってね」とテーブルの料理を勧めた。


「ありがとうございます」と三人。この三人はわがままも言わず、余計なこともスタッフにはあまりしゃべらないので、雑誌社の中では評判が良い。三人の中ではそれぞれ個性もあるのだが、ほかの猛者のようなモデルさんたちに比べるとわりと大人しめだ。


   十月五日 午前零時

 ダイニングテーブルの上にあるサンドウィッチやポテトフライをつまみながら談笑していた三人は今日の撮影がハードだったことで一致した。

「一時間で着替え三回は新記録だわ」と葉織。

「私も」と映美。

 その映美の言葉が終わったところで、柱にあった鳩時計が午前零時を教えてくれた。

 そしてそれと同時に今まで経験したことのない現象が葉織たちの身の上に起こった。


「あれ? 私お酒も飲んでいないのに、酔っ払ったかな?」と芹夏。

「なんで?」と葉織。

「周りの人みんな止まっていない?」と再び芹夏。

 その言葉に葉織と映美は辺りを見回す。


 食事を口に運ぶ人はそのままの状態で、走っている人は注に浮いたままの状態で止まっているのだ。まるでビデオ画像のポーズボタンを押したように。


「やっちゃった……」と葉織。取り立てて慌てもせずに落ち着いている。すっかりこの手の暦人生活には慣れてしまったようだ。そして芹夏と映美を見て「どっち? これやっちゃったのは」と問いかけた。


 身に覚えのない二人は同時にかぶりを振った。そして「そんなことより、はおちゃん、なんでこの状況に驚かないの?」と芹夏。

「だってメッセージでしょう。解決しないと、もとの時間には帰れないから。だから身に覚えある人を訊いたまでよ」と平然と答えた。


「編集長も、志熊さんもみんな止まっちゃっている。わたしたちどうしたら良いの?」と困り果てる映美。

「そんなことは私にとってはどうでも良いのよ。ここにいる私以外の二人も止まらないで動いていることに疑問があるの」と葉織はすでに状況判断に入っている。


「本当に身に覚えないんでしょうね」と葉織。

 その言葉に互いに顔を見て頷く映美と芹夏。

「なんで今日なのよ」と困った顔の葉織。

 三人は時間が止まってしまった理由も分からないままその場にうなだれていた。


 すると階段の二階からゆっくりと足音が聞こえてきた。その足音は一歩一歩踏みしめるようにゆっくりと降りてきている。

「しーっ! 誰かいる」と葉織。

「えっ?」

 この止まった時間の中に他に誰がいるというのか。葉織は疑問に思った。

 その足音はスリッパで階段の踏み板をギュッギュッときしませて降りてくる。葉織もさすがにこういう場合に第三者と出くわした経験は無かった。


「だれ?」と訊ねる葉織に、「あっ、時間止めちゃったご本人、このスタジオにいるの?」と男性の声がした。

 階段を降りきったところでギターケースを抱えながら降りてきたローティーンの男の子だ。

「急に止めちゃうんだもん、びっくりしたよ」と少年。

 彼女たちの前に現れた人の良さそうな、そして穏やかそうな顔つきの少年が続ける。

「誰、暦人に選ばれちゃった人は」という。

 葉織は驚いて「あなた暦人の存在知っているの?」と聞き直す。


 その言葉に「我が家は代々、暦人御師こよみびとおんしという暦人案内の家なんだ。自覚症状のない人に暦人のあり方を教える家系なんだ。今風に言うならインストラクターやアドバイザーかな」と少年が答える。そして「僕はまだ見習い中だけどね」と加えてから笑う。


「お姉さんたちは見慣れない暦人だけど、この辺の人?」と訊く少年。

「私はカレンダーガールの阿久葉織っていうの。広尾女子大の大学生。この二人はモデル仲間の芹夏と映美」と紹介をした葉織。


 すると少年は合点がいったように「カレンダーガールか。初めてお目にかかった。聞いたことはあったけど本当にいるんだね」とギターケースを床に置いた。そして「僕がこの建物にいたのが失敗だった。巻き込まれて時間の隙間に入っちゃった。僕のこともこの人たちみたいに止めてくれれば良かったのに」と淡々と話す。


「君は?」と葉織。


「僕は山崎凪彦やまさきなぎひこって言います。中学一年生。間宮先生のファンで、先生の事務所に遊びに行ったら、そこでここの志熊先生とお会いしたんだ。その時『遊びにおいで』って言われたんで、今日の撮影に同行して見学兼お手伝いに来た。そうしたら、お姉さんたちの異空間転落に引っ張られちゃったみたい。ポートレートなんて門外漢なもの見に来たばっかりに、ご覧の通り。今お姉さんたちと同じ時空の隙間で迷い人寸前です」と現況を兼ねた自己紹介をする。


「それは災難だったわね。でも私にとっては助け船だわ。素人同然の二人を連れてどうやってこの状況を抜け出たらよいのか分からないのよ。助けてくれる?」と葉織。


 葉織の説明に凪彦は、「お姉さん以外は、みな暦人の知識無い人なの?」と驚く。


「ええ」と三人が同時に頷く。


 その途端に凪彦はおでこを押さえて軽く俯いた。勿論万事休すのポーズだ。

「じゃあ時神さまの場所が分からないってことだよね」と凪彦。

「カレンダーガールは自分の方法以外は時空を乗り越える方法を知らない。突然に帰るというのも無理なの」


 彼女の言葉に「ごめん。お姉さん、ひとつ訂正を入れるね。年下の僕が言うのもなんだけど、角が立たないように聞いて下さい。この止まった時間は帰るのではなくて、動かすことが重要なはず。別の時代にスリップしているわけではないから。つまりこれは僕たちがなにをしても時空をゆがめることはないよ。止まっている人たちには僕たちの存在は瞬時的だけど消えているはずだから」と正す。


「そうなんだ」と葉織。

「それと、このパターンは時神さまからのメッセージであることが多い。もちろん僕の知る範囲でのこと。カレンダーガールの習慣世界のことは分からないから……」と言ってから凪彦は続ける。


「時計は午前零時で止まっているから、僕たちの時間はいまこの止まった人たちと同じ時間を選ぶのか、異空間を選ぶのかの選択を迫られている。その前兆をこの三人の誰かが神さまからいただいているはずだ」と言う。


「なにそれ?」と、さすがの年上の彼女たちも意味が分からず困り果てる。

「この数日、普段と違う何かを感じたことなかった。何でも良いよ。普段と違う何かにメッセージを託される場合が多いんだ」と凪彦。

「皆綺麗だけど、特に綺麗なそこのお姉さんは思い当たることない?」と凪彦が指したのは芹夏。


「ははは。ありがとう。私は池袋にある英教学院大の麻木芹夏。モデル歴は二年半。はおちゃんと同じトプコンモード社の専属契約。以後よろしくね」と軽い自己紹介の後で「私ひとりではないけど、この仕事、ここに来るまでの間、トラブルの連続で遅れたことくらいかしら。結局ずれ込んで、最終的に撮影終了まで五時間遅れになった」と人差し指であごを押さえながら女子力放出で笑う。


 その言葉に「たぶんそれメッセージだ。ここに早く来させたいと思えば、偶然が重なって時間より早く着くし、来てはいけないメッセージならトラブルを起こして阻止を試みているはず」と凪彦。


 その説明に芹夏は「なんか神さまの啓示みたい」と呟く。

 その意見に凪彦は「たぶんそれに近い。天の啓示の類のはず」と返す。

 そんな会話の中で、自己紹介の済んでいない映美の胸元で青白く光る物体を見つけた凪彦。軽く彼女に質問する。


「お姉さんは、そのペンダントなんで光っているのか知っている?」

 その言葉にとりあえず自己紹介をしてから答える映美。

「私は越模映美。世田谷美術大、セタビ生。これ光っているの、私も今初めて知った」


 凪彦は「よかったらちょっと見せてくれる。ここまで自己主張しているんだから、この件と何か関連がありそう」と言う。


 映美は髪を束ね首から顔を通してペンダントをとると凪彦に渡した。

「はい」

 凪彦はペンダントヘッドに刻まれた文字を見逃さなかった。

『The Gregorian Calendar 1582 Gregorous XIII』とある。

「グレゴリアン・カレンダーって、いま僕たちが使っている暦のことだよね」と凪彦。


 意外にも「そうよ」と答えたのは芹夏であった。

「あれ? 芹夏、詳しいの?」と葉織。

「ちっちっちっ、これでも西洋の歴史学んでいる、史学科なんだなあ」と指を立てて得意げに笑う。

「あんた勉強してんの? そうは見えないけど」といつもの葉織のトゲのある言葉。ただし彼女の場合悪気はない。そして芹夏もそれは承知の間柄である。

「グレゴリウス十三世は偉業を成し遂げて、日本とも関係のある教皇さまだった」と芹夏。


「じゃあ、とりあえず口を挟まずあんたの説明を先に聞くわ」と葉織。

「OK、知っていることだけ言うわね。すでに暦はグレゴリウス十三世が考えている前から現行の太陽暦にすることが最適だとは分かっていたの。でもユリウス暦を使い続けていた。閏年による時間のズレを、どの程度解消するかというのが、世界史的にも、どの国でも問題になっていた」

凪彦は「それで日本の場合はかつて閏月を設けていたよね。一年が十三か月ある時代があった」と頷く。


「うん。それでね。その教皇はついに英断するの一五八二年に。それが今の暦にほぼ等しいグレゴリアン・カレンダーなのよ」

 その言葉に映美も「ここにも一五八二って数字が刻まれているわ」とペンダントヘッドを見ながら頷く。そして「この原因って、ひょっとして私?」と少々怪訝な顔。認めたくないような風にもとれる。

「あんたなんか恨まれるようなことしたの?」と葉織。

「いや。私そんなに出しゃばりじゃないもん。はおちゃん知っているでしょう」と返す。


 葉織は頷くと、「そうよね。私たちはあまりコアに同業の人にライバル心なんて出さないもんね。恨まれる理由がないわ」と言った。

 その話を聞きながら凪彦は「これどこで買ったか覚えている?」と映美に訊ねる。

「貰い物なの。イベント会場の司会者が控え室でくれたのよ」とありのままを語る。


 ひと息ついてから凪彦は「恨みを買うような仕事の仕方をしていないってことは、身内の場合も考えた方が良いな」と仮説を立てる。


「どういうこと」と映美。

「身内や縁者が仕事仲間やお客に扮してコンタクトをとるなんて言うのは、昔からある常套手段。身の上を明かせない場合にアシストしたり、仕返ししたりするときに使うんだ。まあ詐欺師の手法に近い。その司会者に見覚えないの」と凪彦。


 黙って聞いていた葉織が「あんた、若いのに見所あるわ。私の知り合いにそっくり」と笑った。


 彼女のその言葉に「ありがとう。でもお姉さんも大して変わらないくらい若いけどね。その台詞、使うのはまだ早いと思うよ」とあきれ顔で笑う。そして「で、その知り合いって誰?」と訊く。


「あんたは知らないと思うけど、カメラバカの不二春彦ふじはるひこっていうの」と軽く説明を入れる葉織に、「知ってる、春彦さん。よく間宮先生のオフィスで会うよ」と狭い世間の縮図に大笑いである。


「間宮先生のところに行くんだ。あいつ」と葉織。

「ネイチャー関係の先生だけど、葉織さんは知っているんだ」と凪彦。

「私のオーディションでエントリー写真撮ってくれたのがあの先生。その時は人が足りなくて呼び出されて、場違いなところで困ったって言っていたわ」と嬉しそうに話す。


「OK。知り合いの知り合いなら少し気心が知れたような気がする。時間を動かすためにどうするか。もう少し考えましょう」と凪彦。

 二人の会話の後で映美は、「思い返しても身内とは思えないんだけど」と結論を出した。


 皆がそんな会話をしている間に、芹夏が二階にある自分の荷物を持ってきた。カバンの中から歴史事典を取り出したのだ。

「ちゃんと調べると、すごいことが分かったわ」と芹夏。

 葉織は「なに」と身を乗り出す。

「今日って十月五日よね」と確認をとる芹夏。

「まあ、日付が変わったのであれば」と葉織。

「ペンダントヘッドに刻まれた一五八二年という年の十月五日は存在しないのよ」と言う。

「なにそれ?」という葉織と映美の驚きとは対照的に、凪彦は「暦法改正の類だね」と落ち着いて話す。


 芹夏は「山崎君の言うとおり。暦の仕切り直しをするために十月五日から十四日までは存在しない日付になっている」と加える。

「なんで山崎君は分かるのよ?」と葉織。


 凪彦は笑うと、「日本でも太陰太陽暦から現在の太陽暦に変わる明治時代に、暦法改正をしているから、かなり存在しない日にちがあるよ。その時はいきなりひと月飛んで正月が来たって話だよ」と加える。そして「言ったろう。我が家は代々暦人御師という暦人案内の家なんだ。それくらいの予備知識は見習いの僕だって持っているよ」とも言う。


 女性陣はかなりの衝撃だったようだ。当たり前のように生まれたときからカレンダーは規則正しく翌日へと繋がってきたのに、ある一時代では暦を一新、変えるために突然次の日が全くかけ離れた日にちにすり替わるという事実が存在したのだから驚きである。経験したことのない現代人にとっては未曾有の体験である。


 ただし海外でサマータイムの切り替えを経験している葉織は、少しだけ時間変更とその手続きを想像することができた。僅かな時間だが存在しない時間が毎回発生するのだ。


 凪彦は「芹夏さんありがとう。これで意味は分かった。教訓やメッセージの類ではなさそうだね。時間事故のようなものだね。存在しない日付に僕たちは閉じ込められたんだ。塩漬けの魚みたいに」と笑う。


「笑い事?」と芹夏。

「どうすれば私たちは戻れるの?」と映美。


 凪彦は「ひとつはこの止まった時間の中にも動いている人や機関があるんだ。それを探して時間事故の対処法を尋ねてみる。そしてもうひとつはそのペンダントヘッドをくれたやつのところに行って意図を確かめるしかないね。そいつが時間事故の起こりうる日時を知っていて、そのペンダントを映美さんに渡している。つまりは何らかの意図で映美さんを時間の中で塩漬けにしようとしたんだから」と言う。


 凪彦が格好良く吐いた台詞の横で葉織は、「山崎君、さっきから塩漬け塩漬けって、悪いけど私ら干物じゃないから、もうすこし上手な例え方してよね」と困った顔である。


 そこに追い打ちをかけるような映美のひとこと。

「私、ギターケースを持って現れたから流しのギター弾きだと思ったわ」

 大笑いの芹夏の横で、凪彦は「例え下手の流し」ってどんなイメージだと少々困惑気味だった。


   十月五日 午前零時から五時間後

 荷物をまとめた一行は池袋界隈の山手通りを南下している。

「少年、ギターは置いてきて良かったの?」と芹夏。


「あれ小道具、僕のじゃないよ。明日香さんに頼まれた。間違えて他の荷物と一緒に上に運んじゃったみたいで下に降ろしてって言われたんだ。そしたら階段の途中で時間が止まった」と返す。


「誰? 明日香さんって」と映美。

「志熊先生の盟友らしくて、女流ポートレートの達人って紹介された。フルネームはたぶん井珠洲明日香いすずあすかさん」と凪彦。そして「あたりを見回して止まっている人たちの中を見回したけど、明日香さんだけいなかった。帰っちゃったのかな?」と加えた。


「まあ、結果見学がてら、ギターを運びに来たのが運のつきって感じ」と苦笑する。


「そっか。災難だったね」

「そうでもないよ。美人のお姉さんたちと知り合えたしね。なんなら今度弾いて聞かせようか?」と笑う凪彦。

「あんた物怖じしないのね」と葉織はその度胸を買ったようだ。

「してるけど、いたずらに騒がないだけ。そう見えないだけじゃないかな」と繕う凪彦。


 新宿を過ぎたあたりで、山手通りから少し離れた線路際の道へと入る。線路に沿って山手通りに併走する道だ。

「明治神宮の近くなら、誰かアドバイスをくれる人がいるかも知れないね」と凪彦。


「そういうものなの?」と葉織。全てが止まって音という音もしない不思議な東京の光景のなかで会話は続く。


 その言葉に少し自信なさそうに、「確信のある話ではないんだけど、東京で暦に関するお社って言うと、維新文化を与えて下さった明治天皇かな、っと思っただけ。とにかく思いつくことをやってみる。さっきの暦法改正も明治六年だったしね」と言う。


「ますます不二春彦ふじはるひこに似てる」と笑う葉織。

「春彦さんって、もっと引っ込み思案なイメージなんだけど」と笑う凪彦。


 その凪彦の言葉に、「冗談! あいつが引っ込み思案だっていうの?」と驚き顔。


「葉織さんの持つ、春彦さんに対するイメージがつかめない」

「だってあの理屈と行動力に惹かれて、私の親友なんかあいつの彼女になっちゃったんだから」と葉織。

 その言葉にはっとする凪彦。

「この間、間宮先生のところに連れてきていた彼女かな? 横浜の女子大に通う三重出身。少しはんなり具合のする可愛いお姉さん。名前なんて言ったかな?」


小宅初歩こだくはつほ」と葉織。

 その言葉に「そうそう。初歩さんだ」と合点のポーズ、ポンと拳の底を平手で叩く凪彦。そして「あの品の良さそうなお姉さんは葉織さんの地元の親友なんだ」と理解する。


「そう子どもの時からの幼なじみよ」と笑う。

「全然性格違うね」と凪彦が笑う。

「よく言われる」と葉織。


 凪彦は宙を見つめて「あの奥ゆかしさとおしとやかな性格風貌なら、男性は皆いいと思うなあ」と呟く。

 その横で葉織は吹き出しながら「ものは言い様ね。初歩も喜ぶと思うわ」と笑った。


 その笑いの意味も分からないまま、一行は原宿駅前の神宮橋交差点に差し掛かった。


「この通りの右側にある橋が表参道の始まりで、左に行って青山にある大山街道との交差点まで続いてます。その間が表参道。あっちに行く反対側はテレビに良く出ているタケノコ族のお兄さん、お姉さんたちが踊っている通りと代々木公園」と凪彦の説明。


 そしてその時、葉織はあることに気付いた。すばるの言葉だ。


―それと何はともあれ、覚えておいて欲しいのは原宿に表参道って通りがあるの。その通りの青山側に同潤会アパートっていうツタの絡まった古い集合住宅があるのね。その脇道の路地を入った先に、ひらがな書きの『ひなぎく』っていうカフェがあるからそれだけは忘れないでいてね。『迷い人』になった時の緊急避難所になっているわ。中に入ると壁一面の鏡がある。そこで状況を話すとカレンダーガールも暦人も力になってくれるはず。これだけはシスターから一番にあなたに教えてあげて欲しいと頼まれたことだから、確かに伝えたわよ―


 葉織の脳裏で『同潤会アパート』という音の響きが蘇る。

「同潤会アパート……」と声に漏らす葉織。


 その言葉に反応した凪彦は「ああ、青山寄りにある文化人が集っていたアパートだね。そこになにかあるの?」と反応した。


「ううん。その近くに『ひなぎく』って喫茶店があって、そこが『迷い人』の緊急雛所になっているって昨日聞いたのよ。カレンダーガールの先輩から」と葉織。


 遠くを見ながら彼女の言葉を聞いていた凪彦は「やっぱり神宮近くにあったんだね」と頷く。

「じゃあ、とりあえず行ってみようよ」と凪彦。


 二人の会話にようやく口を挟めた芹夏が「目的地があったのね。良かった」と漏らす。

「本当。芹夏と二人でこのままずっと歩き続けたら、どうなっちゃうのかなってひそひそ話していた。ちょっと心配だった」

 口にはしなかったが、静かに映美も不安を感じていたようだ。

「場所は?」と凪彦。


「ええ」と言う葉織は「確か……ここに」と財布のポケットを探して「あった」と小さな四つ折りのメモを凪彦に見せる。

「なるほど、ここからなら二十分くらいかな」と店名とおおよその場所を頭に入れた。そして一言、「葉織さん。これ書いた人左利きの女性だね。どうでも良いことだけど」と笑う。


「どうして分かる?」

「筆圧と文字の特徴が女性っぽい。そして左書きの文字は当然、鉛筆の炭がなぞられて黒ずんでいるからさ」と凪彦。


 そして彼はひと息つくと「『ひなぎく』か…」と言った。

「そう。店名ね」と葉織。

 葉織の返事に、「明治神宮だけに菊の花にご縁があるんだね。あてずっぽうだけど」と言う。そして「実は僕も聞いたことがあるんだ。有力な時神さまが無い地域には、その地域の有名なお宮さんの近くでその霊威をお借りして、暦人の移動を助ける場所が存在するっていう話。それが東京山の手ではこの近所だったんだね」と真面目な顔をする。


「でも私は話だけなので、実際に行ってみないと本当のところは分からないのよ」と葉織。


 その言葉に「もちろんそうなんだけど、暦人は御師も含め教えてくれる人が少ないので、できる限りお互いの情報交換は必要なんだ。その一つを教えてくれたことに深く感謝しているんだ」と嬉しそうだ。


「あんた、素直で良い子なのね。純粋な気持ちが伝わってくるわ。良い暦人になれるわよ。私の知っている暦人の人たちって、みんな愛に溢れた純粋な気持ちの持ち主たちばかりなの。たぶんそういう人たちしか暦人になれないんだわ」と合点のいった葉織。


 その言葉に少し顔を赤らめると凪彦は、「さあ急ごう、迷い人になる前に時間を動かそうよ」と誘った。それが照れ隠しのようにも見えたので葉織は心中『かわいいわね』と微笑んだ。


   十月五日 午前零時から八時間後

 同潤会アパート脇の小路を入ると網の目のような道が続く。立派な表参道という表通りとは対照的に、風情の残る路地裏だ。小川を塞いで作った道や公園が続く不思議な空間。もし通常の時間が流れていれば、エスニックフーズ、小さなギャラリーやイミテーションの装飾品を売る店が並んでいる若者文化の発信地だ。


 しばらく歩くと湯気の上がっている小さな店を見つけた。その姿はゴッホの名画『夜のカフェテラス』そのものだった。藍色の夜空に黄色い室内灯が印象的な店だ。その看板には『ひなぎく』とある。


「見て! 湯気が上がっているよ」と映美が指さす。


 その店の外観を見て芹夏も「動いているもの久しぶりに見た。安心する」と半べそである。

 葉織と凪彦は見合わせると無言で頷く。そして一言「入るわよ」と言う葉織に「了解」とだけ返した。


 板で出来た前開きの扉を引くと中には誰もいない。秋の夜長に無人のカフェ。詩や絵画の題材なら悪くないのだが、あいにくそんな悠長な気分ではない四人。


 ついさっきまで人がいて、お茶を沸かしていたという雰囲気がキッチンには漂っている。テーブル席には飲みかけで、まだ湯気の出ているコーヒーがソーサーに載っている。右利きの人がふたりと左利きの人がひとりの三客分だ。凪彦はその一人が左利きであることが気になった。


「身内の行為に、左利き……」と呟く凪彦はその先を声に出すのをやめて、『後の残り一人は誰だろう。とんだ茶番劇じゃないといいけど』と内心思った。


「でも店内に誰もいないってどういう解釈?」と言う凪彦。

「さあ」と三人。


 凪彦は店の天井部分をぼっと眺めている。今までの出来事を吟味しているのだ。その時、ふと彼の目についたのが天井から少し下の壁の梁の部分に小さな棚が作られていることだった。棚の上には想像上の動物を模した陶器の置物。しかも四方に一体ずつ違う動物が全部で四体置かれている。


「葉織さん。あれ見て」と凪彦。

「なによ。置物じゃないの。陶器で出来たよくあるやつ」と言う。


 凪彦は自分の前にあるものから右回りに順に言っていった。

玄武げんぶ青竜せいりゅう朱雀すざく白虎びゃっこ

「それがなにか問題でもあるの」と葉織。

 後ろの芹夏が「風水の四地相応しちそうおうね」と彼の考えていることを代弁してくれた。

「さすが歴史好きだね。そうなんだよ」

 芹夏を褒めると、

「芹夏さん、その内容知っていますか?」と訊ねる。

「北が玄武、南が朱雀、東が青竜、西が白虎でしょう。たしか平安京はそれで朱雀門なんて名称がついていたような……。でも確実じゃない忘れかかっている」と芹夏。

「正解です」と凪彦。


「でもその続きがあって、方位だけではなく、風致地勢を抱えての方位なんです」

 腕組みした葉織は「お聴かせ願いましょう。拝聴させていただくわ。その理論」と聞く気満々である。

「北の玄武は丘陵地帯、東の青竜は流水を意味する、南の朱雀は窪地、西の白虎は街道を意味するんだ。これが揃った場所は都市なら発達するし、家なら幸福招来となるのです」


「へえ。なるほど。それで」

「この店の間取り見て、玄武の置物の下にはステージ、舞台が軽く一段高い位置になっています。丘陵地帯に見てとれないかな? 東の青龍の下はキッチンのシンク、つまり流水。西側は窓に面していますが、外は道、往来です。街道を意味します。なのに南側の鏡の壁面には低い土地が存在しません。つまりどれかの向こう側に地下室のようなものが存在しているのではないかという可能性も考えられます」


 説明の終わった凪彦を見て映美は「少年、すごいよ。あんた」と笑う。葉織も「なら地下室を探せば良いのよ。イコール幸せを探すってことでしょう?」と言う。


 皆は床をドンドンと踏みつけて地下室を探す。テーブルを動かして通路が隠されていないかを確かめる。中でも葉織は大胆にも、朱雀の置物の下にある壁面の鏡を手で徐にドンと押した。力任せだ。


 すると、回転扉になっていた鏡が回って、下に降りる階段が皆の前に現れた。鏡に「壁ドン」、現代なら話題沸騰だが、この時代にそんな流行はない。

「あんたが言いたかったのはこれの存在ね」と葉織は平然と言う。


「こんな仕掛けになっていたのか。行動力あるね、葉織さんて」と感心する凪彦。


 葉織は不敵な笑みを浮かべて「まあね」とだけ返事すると、「いくわよ」といって地下に続く階段を真っ先に降りていった。


 その後ろに続きながら凪彦は、『もしかして僕に二階でギターを持たせたってことは、ステージの存在を示唆していたっていうことなのか……。あれはヒント……。高台、丘陵地帯と気付かせ、風水を導かせたことになる。ならば巻き込まれたというわけではなく、僕も最初からこのメンバーの一員だったってことだ。湯気の出ていたコーヒーカップの三人目の持ち主って、じゃあ……』と自分の存在の根本的な部分に踏み込んで考えていた。


   朱雀の地下室(十月五日午前零時の十時間後)

 暗闇に小さな電球だけが頼りの幅の狭い煉瓦製の階段を黙々と降りる四人。

「どうやら訂正です」と凪彦。

 後ろを歩く芹夏が「なに?」と訊き返す。


「僕は巻き込まれたのでなくて、最初から招待客だったようですよ。この茶番劇の」と笑う。


「茶番って、この時間停止状態?」

「はい。ターゲットは映美さんだけじゃなくて、葉織さんと僕も含まれています」と凪彦の推理に「私も?」と葉織。自分の口元を人差し指で指す。


「葉織さんを招待した人が一番わかりやすかった」と笑う凪彦。そして「映美さんの招待者だけがまだつかめませんが、僕の招待者はその扉の向こうの地下室にいると思います」と困った顔だ。


 そう言い終えると一行の前には鉄製の窓のない扉。無機質なデザインに取っ手がついているだけのものだ。


 少し葉織は戸惑っている。小さく震えているのが分かる。実際に向こう側に人がいるのというのは魑魅魍魎ちみもうりょうとした世界観よりも怖い場合もある。得体の知れない霊よりも、得体の知れない人間の方が危害を加える可能性があるだけ、よほど怖いと言うことだ。


「OK。僕が行きますよ。おおよそ扉の向こうの人物は予想できますので」と笑う凪彦。


 取っ手に手をかけると「失礼します」とあくまでも礼儀正しく中に入る凪彦。

 扉を開けるとそこは快適な室内。とても地下室とは思えないアメニティ空間が広がっていた。シンプルなデザインの木目調家具と暖炉、本棚には歴史書と伝統芸能の書籍などが並んでいる。オーディオやビデオ機器なども充実した部屋である。


 その中央の低いテーブルにはソファーがあり、三人の人影が見られた。

「おめでとう!」と後ろ向きの男性が大声で笑うと、残りの二人がクラッカーを鳴らした。

 そしてそのソファーの三人は立ち上がると彼らの方を向いた。一人は凪彦にギターを頼んだ明日香、その横には葉織にカレンダーガールの手法を教えているすばる、そして映美にペンダントヘッドを贈ったマイクである。

 目を細め軽蔑の眼差しで腕組みをする凪彦と葉織。

「明日香さん、なにがめでたいんですか? 人をこんな時間の隙間に突き落としておいて」と凪彦。

「それなら私だって言いたいわよ。すばるさん、論文で忙しいのではないのですか?」とそれに続く葉織。


 最後に映美は「マイクさん、私をだましましたね。許しませんよ!」と怒っている。


 そこに「感情論はあとでいい。とりあえずどこまでが茶番劇ですか。電車の件は、停電は」と凪彦はしっかりと確認をとる。

 すると明日香がマイクに「ほら、だから山崎君を入れるのは手強いって言ったじゃないですか。ほとんどクリアしたの彼ですよ」と叱咤している。

「そっか。芹夏ちゃんの知識だけじゃたどり着けない。歴史の話は解けなかったかな」とマイクもいう。


 内輪もめのような反省会を横目に、「聞こえませんか? 説明して下さい」と再び促す凪彦。


「これは暦人御師とカレンダーガールマスターの卒業試験です。暦人とバチェラー試験も兼ねています」とすばる。そしてひと息入れると説明を始めた。


「もちろん今回、この時空の歪みを作っているのは私たちではありませんから、本当に起こる実体験です。人工的にこんなものを作ることは不可能です。毎年十月四日とペンダントアミュレットを身につけていれば、この歪みの空間に入ることが出来るのです。それを利用して試験をしました。だから電車の件や停電は、時空の状況が悪くなり時間接続が出来なくなる予兆でしたから本物のメッセージです。私は今回、彼女に『ひなぎく』の存在以外は告げていません。どこで彼女が使えるようになるのかを試すためでした。そしてこの地下室へのヒントは山崎君に、時空のズレの現象の理屈は映美ちゃんの贈り物に、その解読の助け役を芹夏ちゃんにやってもらいました。皆さんは思ったよりも早くこの場所にたどり着いたため、コーヒーブレイクも早々に切り上げ地下室へと逃げ込みました」


 彼女の説明が終わると、明日香は逆に凪彦にどこまで推測がついていたのかを問うことにした。


「山崎君。逆に今後の参考にしたいので、あなたはどの辺まで推測ついて、今回の時空の歪みの原因究明解読に達したのか教えて」と。


 嫌そうな顔の凪彦は仕方なくけだるい口調で話し始めた。


「最初、僕が感じたのは、ペンダントヘッドが儀式的な『アミュレットアイテム』であること。おそらくあれを身につけた人は、存在しない暦法改正の日付の谷間に落ちるようになっている霊威のあるアイテムだと、一目見て見当がついたのです。きっとどこかの教会に保管してある古い本物のアミュレットだと分かりました。その日を指定して前のりで映美さんに渡したのは一目瞭然。嬉しいし高価そうだから彼女は次の撮影でも身につけてくる。そう踏んだんでしょうね」


 そう言い終えるとひと息ついて、「明日香さんの前にある美味しそうなコーヒー一口いただけますか?」と言って、彼女からカップに入ったコーヒーを受け取り一口含む。そして次の話を始めた。


「葉織さんの件は『ひなぎく』の場所を記したメモ用紙。渡した本人の筆跡から左利きであることは容易に推測できましたが、その記憶がこの場所で役に立つとは思いませんでした。上の喫茶店のホールに残っていた飲みかけのコーヒーカップの取っ手の向きが、左利きの位置のままソーサーに載せてありました。飲みかけなので反対に回すことはないという思いで考えると、関係者で左利きというのはかなり同一人物の確率が高いと感じました」


 また彼は言い終えるとコーヒーを一口含む。


「最後のマイクさんは映美さんのごく親しい人物であると推測しました。身内のような人。ただし繋がりを外部に漏らすことの出来ない間柄である場合です。職業上、親類縁者と明かせない場合や縁者同士の集まりの場で立場上カミングアウトできない場合に、第三者を装ってプレゼントを渡したのだと思ったからです。ところが途中でその線は消えたと感じました。なぜならあのペンダントヘッドをどこからか持ち出す、借りることが出来る立場の人ということで時空関係者でないと無理かもしれないと思ったためです。マイクさんはきっと本業は司会業ではないですね。残念ながらあなたのことだけは見抜けませんでした。データ不足です」


 彼の推論に仕掛け人側の三人は驚いていた。時空移動や暦人の基礎知識を持ち、それを使って予測したり、推理したり、行動することが出来ているからだ。


 マイクは微笑むと「OK。ありがとう」と言った。そして「じゃあ私の正体を明かさないといけませんね。マスターカレンダーと称する暦人です。特にカレンダーガールの手法や手助けを行っている人間です。つまり葉織さんやすばるさんを任命しているシスター摩理朱の上司にあたります」と正体を明かす。


「だからあんな大切なアミュレットを持ち出すことができるんですね」と凪彦。


 そこで葉織が今度は質問をする。

「ここまでたどり着いたからいいようなもの、もし途中でダメになったときはどうするつもりだったのですか?」とすばるに訊ねる。


 すると、「私たちの誰かが迎えに出て、ここに連れてくるつもりだった」と答えた。

「そうですか……」と脱力気味に返事をする葉織。そして「結局、私たちが受かった試験はどういう意味があるんですか?」と再び訊ねる。


 するとマイクが、「それは私の方からいいます。山崎凪彦君、暦人御師マスター昇格。私と同格の身分であるマスターの称号を授与します。阿久葉織さん、カレンダーガール・マスター昇格。麻木芹夏さん、カレンダーガール認定。越模映美さん、カレンダーガール認定となります」と報告された。


 その報告はきっと感動的なものだったのかも知れないのだが、葉織たちは「あまり嬉しくないのはなぜ?」と顔を見合わせた。そしてペンダントヘッドをマイクの元に返した。


「これお返しします。もうこりごり」


 彼女の言葉に困惑の顔のマイクは、「もしこのような時空の谷間に落ちてしまう人が出たら、その人たちに引っ張られて時空の隙間に一緒に連れて行かれたら、今日のように慌てずに優しくこの場所まで誘導してあげていただけますか?」と訊ねる。


「もちろん困っている人がいたら助けてあげるわよ。ねえ、はおちゃん」と映美は笑う。


 葉織も「もちろんよね」と芹夏を見る。

「ええ。優しさはお金では買えない最高の宝物ですから」とウインクをする芹夏。


 その言葉を聞いて面接側の三人は「人物的にも最高の子たちですね」と胸をなで下ろした。そして「じゃあ、時を刻む漏刻ろうこくに明治神宮の井戸のお水を入れましょう」と明日香が言う。


「漏刻ってなに?」と映美。


 芹夏が「水時計の一種よ。古代日本で時をはかるために壺に液体を入れて時を刻んだのよ。天智天皇の時代にはもうあったと言われているわ」と説明を入れた。


 そして明日香が部屋の片隅に設置してある壺に御神水を入れる。


「さあ、落ちてきたしずくを口に含んだら、あなた方の時間はリセットされます」


   二十一世紀のギャラリーカフェ「さきわひ」

「……っていうわけで、私は晴海ちゃんのお母さんとその時出会ったんです」と山崎が話を終えた。時は二十一世紀、場所は山崎が経営しているフォトギャラリー「さきわひ」である。

 そこで手伝いをしている山崎の年下の恋人、明治美瑠は「すごい試験があったのね」と興味津々である。


「あとで訊いたらおおよそ十年に一度しかやらない試験だったんです」と山崎。そして横を向いて微笑み、「ねっ」と合図を送る。

 彼の横には芹夏と映美が座っている。


「その時からよね。山崎君、暦人のマスターをもらって、ちょくちょく人助けを始めたのは」と芹夏。それに続き映美も、「それで私たちが冗談半分で山崎君をマスターって呼んだことがきっかけなの。だって中学生でマスターなんてすごいから、そう呼び始めたら他の人も山崎君のことマスターって呼び出したのよね」と懐かしそうに笑う。


 因みに現在、映美は国際的なファッションモデルになっているため独身のまま世界を飛び回っている。一方の芹夏はそのまま出版社の編集者と卒業後に結婚、カレンダーガール、暦人の務めも終えて、たまに山崎の店にコーヒーを飲みに来て思い出話に浸るのだ。仕事は主婦業の傍らファッションコラムなどを時々雑誌に載せている。したがって山崎とは文筆仲間でもある。今回は映美の一時帰国に合わせての集まりであった。


 一段落すると店の扉が開き、鳴子の音がする。

 芹夏と映美が振り返ると葉織とその娘の晴海、そして晴海の恋人の不二夏夫が入ってきた。


 映美たちは「久しぶり!」と嬉しそうに手を振る。

 山崎は「いらっしゃい」と笑顔で迎える。


 手を取り合う葉織たちを横目に、晴海と夏夫は山崎のいるキッチン近くのカウンター席を選んで座る。

 山崎は、モデル仲間と盛上がっている葉織よりも先に晴海と夏夫にグラス水を届ける。

 内緒話の晴海は山崎の耳元を手で覆うと、

「冗談じゃないわよ。あのおばさんたちにつきあったら何日でもここに居座るわよ」と眉をひそめる。

「大丈夫だよ。毎度のことだから」と笑う山崎。

「マスター、あのおばさまたちに頭上がらないの?」と夏夫。

「古い知人だからね」


 夏夫はそう言い終えた山崎から目線を外し、美瑠を見るとすっかりなじんでいるようにも思える。


「美瑠ねえちゃん、すっかりなじんでいるみたいだね」

「仕事そっちのけで話に聞き入っているよ」と笑う山崎。

「何を話していたの?」と晴海。

「昔話だよ。暦人が人助けをする役目だって言う再確認をするためのね」と湧かしたコーヒーをカップに注ぎながら笑う。するとホールに陣取っている葉織たちが、「ちょっと山崎君、なにおこちゃまの相手しているのよ。こっちに来て一緒に話しなさいよ」と手招きをする。

「はい。今行きます」と山崎。軽く晴海たちの方を見て苦笑いすると、

「じゃあ、お相手してくるね」と残してコーヒーを銀盆に載せてホールに向かった。


「あんた。まださえない写真と文章とかやっているの?」と葉織。

 頭を掻きながら「ええまあ」と冷や汗の山崎。

「そんなことだからいつも女の子に逃げられちゃうんじゃないの?」

「いい人で終わるタイプじゃない、山崎君って」

「時には強引さも必要なのよ。女心には」

「美瑠ちゃんに紐付けておきなさい」

 辛口コメントにたじろぐ山崎。もうしどろもどろだ。

「えらい言われようだけど、あれはあれで愛されているようにも見える」と夏夫。

 その光景を見た晴海は、

「わたし、あんな失礼なおばさんにならないんだから」と腹を立てている。


 その姿がすでに一九七七年のタイムスリップの時に見た彼女の母親、葉織そっくりなことに笑いを隠せない夏夫だった。


 この日は珍しくカウンターの隅に小さな鉢植えが置かれていた。そこには可憐な雛菊の花が優しさを振りまいているかのようにひっそりと咲いていた。雛菊は一部で「時知らず」の異名を持ち、「美人」の花言葉を持つ。まさに久しぶりに時を経て再会した、雑誌モデルさんたちを象徴する花のようにも思えるのだった。

                          了

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