高野聖、高野と言えば高野山で聖(ヒジリ)と言えばお坊さん。
その高野聖の宗朝さん(最初は実在の人物だと思っていたが実際には架空の人物らしい)が山で出くわした怪異譚を若い「私」に語り聞かせる。
ほとんどが饒舌な会話の調子で描かれた本作はまさに「地の文」の中に「語り」が嵌め込まれた構成となっている。
なんとこの二重構造、終盤には三重になる!
「親仁(オヤジ)」が女と少年(次郎さん)の出自をタネ明かしする部分がそれである。
実に実に面白いのは「物語の核心」にあたる部分をあえて宗朝の「語り」で描ききらず、さらにもう一重のベールを被せた点だ。
この怪異譚はあえて「ウソかマコトかわからない世界」へと読者を誘い込んで行く。
その胡乱さが怪談らしくて素敵だ。
なお、高山宏の「合理を衝(う)つ 泉鏡花『高野聖』」という論文は「参謀本部編纂の地図」に近代合理主義を読み、最後の男滝と女滝にあらゆる物をカテゴリー化・分節化せずにはいられない近代的世界への帰還を見る優れた論考であるから数ある「高野聖」論の中でも特にオススメ。
日本文学とは詩詞によって形成されたもの、と論じた丸谷才一の『日本文学史早わかり』。西洋の文学史の方法では、日本文学史はうまく読み解くことはできぬ、との見解からものされた卓抜した傑作評論。それを本作を再読し、思いおこされました。
詩詞と散文はちがう、という反論は当然ありますでしょう。そういう方は、まず謙虚に、虚心に向き合う(読む)べきではないでしょうか。丸谷才一の評論を。泉鏡花の作品を。さすればその作品が日本文学の脈々たる系譜を受け継いでいることを看取できるはずです。その在り方からしても。当時はすでにドストエフスキーやトルストイが翻訳されてあって、文学をする者の必読となっていたようですけれども、泉鏡花はあえて時流に背をむけられましたからね。
それでいて観念的な美文に流れず、写実的であったり視点の切り替えーー映画から導き出した手法であるようですーーだの語りのからくりだの諧謔だのがあったりもして、決して古臭くないし、けざやかに訴えてくるものがありますね。なにより、おもしろいですよね。徒花のようでいて、正当な白菊。
決して朽ちることのない、嬋娟たる佳品です。