流星追いかけて《後編—下》


 ——時雨と出会った展望台。

 僕はベンチではなく地べたに腰を下ろす。

 自分の行動に対する罰だとか言う訳じゃない。二人用のベンチに、時雨が仰向けになっているから座れない——というだけの事、である。

「星……見えないねえ」

 時雨は濁った硝子の目に映る空を見て、どうても良さそうにして言う。

 星は——無い。

 不自然な程に、掠れた光の一つとして浮いちゃいない。

 雲は無い。

 街明かりに掻き消されている訳でもない。

 シンプルに星の光が届いていない——

 空はただ、暗闇を纏うだけである。

「……医者だとかには伝えてきたのか? ここに来るって事」

「伝えていないさ。 私のような死にかけ——歩く事さえままならないというのに、こんな時間の外出が許されるはずないだろう?」

 そりゃあそうだ。

 そんな事は自明の理——分かりきっている事だ。

 それでも僕は沈黙に耐えられない……いや、少しでも多くの言葉を時雨と交わしたい。だから、常識を再確認する事になっても良いから——口を開く。

「まあ沢山お喋りしたい……という君の気持ちは分かるよ。けど……ねえ? ほら私、声がしおれちゃってるし」

「……悪い」

 また自分の為に時雨を困らせてしまった。

 困らせた——そんな生易しい表現で済む事か……?

 もしかすると僕は、反省したフリをしているだけであり、実際は何とも思っちゃいないのではないか? だから何度も、何度も繰り返す——余計な事を。

 いつまでも、

 までも——繰り返す。

「ハハ、君はすぐに世界の終わりみたいな顔をするね。そんな追い詰められる程の事はしてないと思うのだが……」

「してる、これ以上無い位に——している。毎日毎日、頼まれてもないのに押し掛けて……時雨の特別になりたいからって、嫌われたくない、好きになってもらいたい——なんて、自分本位な欲望に呑まれて……」

「私も同じだよ」

 時雨は暗闇から僕の方へ、視線を移す。

「私は君の——という訳じゃないが、誰かの特別になりたい。誰かの記憶に——自分を遺したいって……、だから君が私のお見舞いに来てくれる事は有難いと思っていたさ」

「……」

 ——気になるのはその言葉だけだった。

 誰でもいい。

 僕でなくていい。

 誰もが特別であり特別じゃない。

 僕は——特別にはなれない。

「十分……僕の心には刻まれてるよ」

「どうせ呪いにしか成れやしない。君の心に刻まれるのは私への未練だけさ。それじゃあ駄目だ、駄目なんだ——」

 蜻蛉カゲロウのような声色に命が灯る。

 怒りでもなく、

 哀情でもなく、

 分類分けのしようがない純粋な、大きな思いが声に宿る。

「折角人として生まれてきたというのに……私は誰も幸せに出来ちゃいない。母も父も、多額の医療費を掛けたところで私の病は治らない——不幸になっているじゃないか」

「——けど」

「けど、じゃない。さっきも言ったが君だって私のせいで不幸になっている——未来永劫、君が死ぬ時までその不幸は、呪いは遺り続ける」

 時雨は止まらない。

 止めどなく、自己嫌悪の言葉を垂れ流す。

 なんだか僕みたいだなと——勝手に自己投影をしてしまう。

「私は、ね……私は——」


 君がうらやましかったんだ。


 また——うらやましいよ——と、時雨は言う。

「君は私の友達だ——親友、だ。友達と話すと楽しくって……つまり、さ——幸福になれるんだ。君は……人の幸福となれている」

 それが——

 ——うらやましくて。

「嫌なんだ。自分が嫌、自分が嫌い、自分が……自分は——さっさと死んじゃうべきなんだって思っちゃって」

「時雨!」

「でも死ぬのは怖くて! いや……クジラみたいに死んで誰かの為になれるのなら全然いいさ! でも私は、人の為になれないどころか——むしろその逆で! 私は、私の死は人を不幸にする!」

 枯れているのに絞り出した所為だろう——その声は殆ど絶叫であった。

「蜻蛉だって次世代の命を遺すさ! あんな……あんな! 何の為に生きてるか分からないって散々言われてる虫さえもが未来の為に生きて、死ぬというのにッ——」

「……」

「あ——」

 時雨は僕の表情を改めて見て、一気に脱力する。

 口は呆けたように開かれ、

 瞼は眉が痙攣する程に見開かれ——その内の眼球は震えている。

 焦燥——なのだろう。

「なんだよ……その顔……」

 顔——表情?

 僕は今、どんな表情をしている?

「そう——だよねえ、君が惹かれたのは高尚な事言ってカッコつけてる時の私だからね……うん、そりゃあ……失望、するだろうね」

 ——言い返せない。

 そんな事は無い。

 僕は君が時雨ならそれだけでいいと——言えない。

 多分、僕は落胆している。

 そんな思いが表情にそのまま現れてしまったのだろう。

「だけれどこれが本来の私だ。普段の私は仮面だ……私という弱虫を隠す為の——仮面。真理を語っているようで車輪の再発明にすらなっちゃいない——ただの妄想をそれっぽく言ってるに過ぎない。だから——あんなのは、よくよく聞いてみればガバだらけのロジカルだよ」

 時雨はもう叫ばない。

 つらつらと……言葉毎に区切らず、音を繋げて語る。

「……時雨は」

 時雨は——なんて言おう。

 どうすればいい。

 僕は時雨に対して何をすればいい?

 そもそもとしてどこを目指せと言うのだろうか。

 この物語の終着点はなんだ。

 時雨はどうすれば——救われる?

 僕は何をすれば——時雨の、特別となれる?

 ——流星だ。

「どうして流星を見に来たんだ?」

「……それは、さ——」

 時雨は瞼を下ろしてから、

「もし一緒に流れ星を見れたら……ほら、君にとって私の死は最高の思い出にでもなるんじゃないかって」

 君を——私の死で幸福に出来るんじゃないか、と——言ってから、


 見たかったなあ——流れ星。


 呟く。

 願い事を、

 もう叶わない物として——諦めたように、呟いた。


 僕は——叫ぶ。


 立ち上がり、光を暗闇に隠す……悪意に満ちた空に向かい、怒りをぶつける。

「なんで……なんで流れ星の一つや二つを見せてくれないんだよ! 時雨はもう十分過ぎるくらいに苦しんだッ——見せてやってもいいだろ!」

 声が響く。

 もしかするとふもとの方まで聞こえているかもしれない。だけれど、そんな事はどうだっていい。

 時雨の視界に映る僕の姿は駄々を捏ねる子供そのもので、今度こそ嫌われているかもしれない。だけれどやっぱり——そんな事は、どうだっていい。

 僕の名誉なんて時雨の瀬戸際の願いと比べれば語るに足らない。

 僕はこれまで、時雨に何もしてやれなかった——時雨が僕に感謝したという言葉が事実であろうとその事に変わりはない。

 今だってそうだ。

 僕が何をしたって時雨は救われない——流れ星なんて、流れない。

 当たり前だ。

 当たり前なんだ——それでも、何もしない訳にはいかないだろう。

 だから叫ぶ。

 声が嗄れるまで——嗄れても尚——絶叫する。

 叫ぶ。

 それでも星は見えない。

 何度も叫ぶ。

 それでも星は流れない。

 頭痛に襲われ、視界を紫のベールが覆おうとも叫び続ける。

 それでも——流れ星は——


「流星——君」


 時雨は僕の服の裾を掴む。

「どうした……?」

 時雨の方を向き、掠れた声で問う。

「どうしたって君、流れ星——それも空が覆われて……一切の暗闇が見えない程の——だよ。凄いじゃないか流星君、君の願いのおかげじゃないか……」

 言葉を聞いて、慌てて空を見る。


 しかし——そこに星は無い。


 もう一度時雨の方を向く。

 その瞳には光も、色も無く——黒目は失われていた。

 嗚呼——そうか、そうなのか。

 時雨には見えているのだろう。

 それが現実の事ではないだけで、

 時雨の視界では流れ星が、それも無数の——星が、空を覆っているのだろう。

 一筋の、微かな光の道がある。

 それはどんどんと群がり、やがて大河となる。

 時雨が見ているのはそれだ。

 空を埋め尽くす流星——その下に居るのだ。

 ならば僕も——見ればいい。

 見ている事にすればいい。

 僕が一言、言ってやればいい。


「……最高の——思い出だよ」


 それ以外には思い付かなかった。

 時雨の存在が、僕にとっての幸福になれたのだと、そう示さなければならなかった。

 これで良いはずだ。

 こうすれば、こう言ってやれば、きっと時雨は救われる——はずだ。

 時雨は僕の方は見ず、空を——彼女だけの流れ星を眺めながら、

「なあ……流星君」

 また語り出す。

 しかし、その声はまだ震えていた。

「私はずっと思っていた。誰かの幸福になれないまま死ぬのは嫌だと、そう思っていた」

 地平線が微かに灯る。

「そして君は今、私との時間を最高の思い出であると——言ってくれた」

 空は薄らとではあるが、光を得る。

「なのに、だ。私はまだ死ぬのが怖い。怖くて——死にたくない」

 朝日が——昇る。

「死にたくないんだ。ああ——そうだ、誰かの幸福になるなんてのはどうでも良かった……私は死にたくなかったんだ」

 時雨は未だ流れ星を眺めている。

 もう——朝が訪れ、実際に流れ星が流れていようと、見えるはずないのに。

「死にたくない……生きたい。もっと沢山の友達を作って、ほら……帰りの買い食いして、テスト勉強してないとか言って——実は沢山勉強していてさ、休日にはショッピング……たまにライブとか、イベントに行って——」

 時雨は願う。

 流れ星に願い事を告げる。

 普通の願いだった。

 高望みなんてしちゃいない。

 平凡を願っている。

「なんで……こんな普通すら願わなくちゃいけないんだ……。死ぬ事で誰かを幸せにするなんて——そんなのおかしいじゃないか。死んだら何も無い。不幸だ。これ以上無い程の不幸だッ……」

 恨み節——美談になど出来やしない程に純粋な怒り。


 ——生きたいなあ


 それが最後の願い事だった。

 声はもう、聞こえない。

 僕は地上を照らす、命の太陽に背を向ける。

 時雨の瞼をそっと、優しく下ろさせる——

「……」

 時雨の言う通り、死は不幸以外の何でも無いのだろう。

 ……僕は、どうすれば良いのだろう。

 これから、何をすればいい。

 何を、

 何の為に——誰が為に——?

「——帰ろうか」

 時雨を背負って歩き出す。

 さっきよりもずっと、時雨の身体を重たくなっていた。

 これから僕はどうなるのだろう。

 病院から抜け出したのは時雨の意思だ。

 しかしそれを連れ回したのは僕で、こうして死体を背負ってる訳で——何のお咎めも無し、という訳にはいかないだろう。

 まあ——いいか。

 なるようになるだけだ。

「死は美談にはならない——か。少なくとも時雨は美化してほしいとは思っていないらしい」

 残酷だと思う。

 けれども死を美化する事の方が残酷なのだろう。

 ——でも、

「……嬉しいって……思えた」

 僕が必死に叫んで、その結果時雨が流れ星の——幻を見た事が、嬉しかった。

 時雨に流れ星を見せてやれた事が——嬉しくて——僕は多分、その事だけで生きていける。

 時雨の言う通り、未練は遺された。

 呪いだ。

 僕の心はいつまでも時雨に囚われるだろう。

 それでも——いい。

 時雨に出会わなかった人生より、

 時雨に貰った幸福を抱えた人生の方がずっと綺麗だ。

 時雨の死が不幸でも、

 時雨との出会いは幸福だ。

 紛れもなく——美化される事無く美談である。

「ありがとうって……ちゃんと言っとけば良かったな」

 僕は歩く。

 僕は生きる。

 時雨を背負って——生き続ける。

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流星追いかけて ハヤシカレー @hayashikare

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