流星追いかけて《後編—上》



 目が覚める。

 快眠ではなかった——どころか睡眠の質としては最低で、悪夢が三本立てで脳内劇場で上映されていた。内容は覚えていない、思い出したくもない。

 身体が重たい。

 関節に何かが挟まっているように感じる。

 胸の真ん中辺りがザワつく——中で雲が浮かんでいるみたいだった。

「……水飲んでなかったし、熱中症かな」

 全身から水分という水分が消え失せ、乾涸びているらしく、

 大きな岩が脳の代わりに頭蓋の中に収められているように思えた。

 岩石の頭を、枯れ木のような首で持ち上げ、身を起こす。

 カーテンを開いてみると空は暗かった……まだ、起きるには早いようである。

「……もう目覚め切っちゃったしねえ」

 しかしもう眠れない。

 意識が完全に覚醒してしまったというのもあるが、何よりも悪夢が怖かった。

 内容は分からない。

 分からないからこそ怖い。

 正体不明の悪夢が——怖くて、もう、私は眠れない。

「ッ——」

 何故だろう。

 手足の先が痺れる——否、焼かれたように痛い。

 全身の筋肉が縮まって、体内の物々を押し潰しているように思える。

 手が、痛い。

 足が、痛い。

 胸が、痛い。

 頭が、痛い。

 視界が歪む。

 月光に照らされ、薄らと青みがかっているはずの病室が、まるで血に塗れているように視界に映る。

 ベッドから転げ落ちる。

 当然のように痛い。

 嗚呼——死ぬ。

 死ぬんだ——と、理解する。

 理解はして、納得はしない。

 怖かった。

 悪夢よりもずっと怖い。

 次に眠ったらもう——悪夢すら見れない。

 無だ。

 無なんだ。

 暗闇も空白すらも無い——きっと、無なんて言葉すら当てはまらない何かが訪れようとしている。

 このままじゃ、

 このままじゃあ——私は、

「私はッ……」

 必死に声を抑えて藻掻く。

 ふと、小さい頃……まだ、私が注射を怖がる程には生きていた頃の事——母が反対の腕を軽くつねって、注射の痛みを誤魔化してくれた。

 それを思い出し、右の二の腕を噛んでみる。

「痛ッ——」

 痛い。

 当たり前に痛かった。

 そりゃそうだ。

 人間は雑食だ。その歯で、思いっきり——我を失ったまま噛んだら痛いに決まっている。

 しかし、不幸中の幸いと言うべきか——その刺激は私の意識も現実の方へと引き戻してくれた。

「……」

 床に座り込んだまま、窓の先を——空を見上げる。

 雲は無かった。

 理由は分からないが、星々の数は普段の二倍くらいはあった——風に思える。

 星が輝く。

 星が煌めく。

「星が——流れる」

 気付けば私は立ち上がり、歩き出していた。



——



 目が覚めた——訳ではない。

 床に就いてからも眠気なんてのは湧いてこず、ただ自己嫌悪に苛まれている。

 一体——何故あんな事をしてしまったのだろう。

 理由は分かっている。それでも納得は出来ない。

 時雨に嫌われるのが嫌で、

 時雨の特別になりたくて、

 だから——あんな事を口走った。

「気持ちりーや……ホントにさ」

 誰かに語り掛けるような、誰にも語り掛けていないような口調だった。

 趣味なんかも殆ど無く、時雨の事ばかり考えて生きているので部屋が広く見える。

 部屋は広くて、空白だらけで——僕は、独りだった。

 独り、

 独りぼっち——

「……何不安がってんだよ」

 寝る時に独りぼっちでも何もおかしくはない。

 何も、おかしくなんか——ないんだ。

 それに僕は自分の都合だけで時雨を独りぼっちにしている。

 引き止められもしたのに……何も言葉を返さずに立ち去ったのだから、そんな僕が独りを恐れていいはずがないのだ。

 怖い。

 時雨は嫌ってなんかない、と言ってくれた。しかし、あれはただの優しさ……なんなら皮肉であり、本当は嫌っているのではないか——と、不安感に煽られる。

 マズイ……また恐怖に襲われている。

 このままじゃまた余計な事をしてしまいかねない。

「散歩に……行くか」

 夜風でも浴びれば少しは落ち着くだろう。

 なんていう平凡な発想でベッドを降りる。

 フローリングの心地良い冷たさを足の裏に感じながら、物音を立てぬようにゆっくりと玄関を目指す。

 靴棚の上に開かれたデジタル時計によれば現在の時刻は午前の二時になった頃——こんな時間に外出しようとしている事がバレたら厄介な事になる。

 適当なサンダルに足を突っ込み、そっと戸を開く。すると身が微かに震わす冷気が流れ込み——なんて事は無かった。

 もう夏は終わりというのに夜風は湿気を帯びていた——シンプルに蒸し暑い。夜風に吹かれて頭を冷やす、みたいな思い付きは失敗に終わったらしい。

「とはいえ——」だ。

 ここまで来てトンボ帰りというのも興醒めだし、何よりもう眠れそうにない。

「自販機にでも行って——うん、それで戻るか」

 無難な目的を設定して出発した。

 音は立てたくないし、地元の治安を信じて鍵は閉めない。

「……あ」

 それからしばらく、浮ついた足取りで進んでいた頃になって気が付く。

 財布が無い。

 自動販売機の所に行く事を決めたのは玄関に着いてから、つまり財布は部屋にある。

 何も買わないのに自動販売機にまで行くのは気が進まないし、財布を取りに部屋まで戻り……それからまた出発するというのもなんだか気乗りしない——

「はあ……帰って寝るか」

 憂鬱だけれども……まあ、補導されるよりはずっといいだろう。

 ため息を吐きながら家の方へ振り返る。

 振り返ったのだ。

 家へ戻る為の当然の動作——何もおかしくはない。僕はまだ、何もしていない。

 余計な事なんて何一つとしてしちゃいないというのに——だ。

「やあ……流星君、こんな時間に出歩くとは君——私という保護者が来なければ補導されてしまう所だよ」

 時雨が居た。

 電灯の微光のせいでその患者服はより一層、《白衣の霊》——を連想させる。

 生きているのか?

 まさか、僕が病院を出てからの数時間で死んでしまって……僕を祟りに来たのか?

 生きていないから、

 死んでしまっから、

 時雨は僕を——道連れにしようと——?

「私は生きてるよ——、ね」

 その声は掠れていた。

 《うらやましいよ》——と言った時の掠れとは違う。単に声を発するだけの体力がもう残っていないようだ。

「長距離を歩くのは久々だし、流石に疲れたよ……」

 電柱の根元にへたれこむ時雨。

 多分、本人としてはふざけた風に言ったつもりなのだろうが……あまりにも声が弱々しく、とても冗談とは思えない。

 というか冗談ぶってるだけで冗談じゃないのだろう。

 滝のような汗が肌を覆っており、その水の膜の下の肌——いつもなら屍と見紛う程の無色が紅潮していた。

 瀕死だった。

 死に瀕しているからこそ——それが生きていると、確信出来る。

「……なんで、こんな事を……」

 車椅子が無けりゃ散歩もまともに出来ないくせに……なんで、こんな——無謀な事を。

「そりゃあ君……流星を見に行く為に決まってるじゃないか」

 目を細めて言う。

 微笑もうとしたのだろうが……口角は上がっていなかった。もう、その程度の体力も残されていないのだろう。

「しかし展望台まで行くってなると流石に無謀、勇気なんて言葉じゃ誤魔化せないからねえ——」

 だから、

「僕に運ばせるって訳か」

「正解だよ。という訳で、ほら……おぶってよ」

「……ちゃんとした靴履いてくるから待ってろ」

 山を登るというのにサンダルでは心許ない。

 一旦時雨をその場に残して自宅に向かう。


 その場に——残して——置き去りに——して?


「……」

 特に物は言わず、時雨に背中を向けてしゃがんでみせる。

「あれ……履き替えるんじゃなかったのかい?」

「流石に独りじゃ——危ないだろ。時間も時間だしさ……玄関で待っててくれ」

「ふうん——じゃあ遠慮なく乗らせてもらうよ」

 という訳で時雨を背に乗せ(自力で乗るだけの力が無かったので半ば担ぐような体勢になってしまった)、歩き出す。

 時雨に何をしてやれるかなんて分からないし、

 そもそもとして何もするべきではないのだろう。

 けれど、一つだけ確かな事は——もう、彼女を独りぼっちにしてはならないという事だった。

 いや——結局の所は願望か。

 僕は時雨を独りぼっちにする——そんな僕が嫌だったんだ。

 だから一緒に居る。

 二人で——展望台の元へ行く。

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