流星追いかけて《中編》
時雨の入院する病院から歩いてしばらくの山、そこには展望台がある。
錆び付いた手すりに、同じく腐朽して一歩一歩登る度に肝を冷やす階段なんかのせいで利用者なんてほとんど居ない。しかし、それでも僕は毎日、欠かすことなく訪れている。
そして現在の僕も、訪れ——何をするでもなくただ星々を眺め、暇を潰していた。
気を、紛らわせていた。
「蝉時雨の頃を思えば随分と冷えてきたな——うん、丁度いい具合だ」
頬を撫でるそよ風を意識しながら、芝居口調で呟く。さっきも言ったが、展望台に人が来る事なんてそうそう無いから、独り言をするにはもってこいの場所なのだ——勿論一年通して来訪者が僕を除けばゼロなんて事は有り得ないので、たまに恥をかく羽目になるのだけれども。
「そういえば——時雨との初めましては恥めましてだったんだよな」
今より大体——二年前、小学校の終わりを何となく意識し始めた頃。
あの時の独り言の内容は——確か——そう、空の景色を絵画以上に絵画みたいだと言ったり——なんていう、陳腐な事であった。
思い出そうとすると、なんだか胸の辺りがソワソワする。
「これが——恋煩いって奴か」と、冗談交じりに呟いてみる。
ああ、でも——タイミングとしては、その台詞もあながち間違いではないのかもしれない。
だって、その独り言を呟いた時こそが——時雨との、出会いの時なのだから。
「『リアル以上にリアルな絵画はあるけれど、絵画以上に絵画なリアルってのもいいよなあ』ねえ? 確かに今日の夕暮れはルーブルに展示されていようと何ら違和感は無いが——ハハ、黄昏たようにそれを呟く君という存在も、中々リアル離れしていて良いんじゃないかい?」
彼女は言う——悪意の有無は定かじゃないが、とにかく、ポエマーの真似事をする僕の事を嘲笑いながら、横に腰掛ける。
この頃はまだ、時雨の髪色も灰色程度の物であった。その黒ずみは、現在の純白と比較すれば命あるからこその穢れと言うべきか……なんにせよ、彼女は今よりは生きていた。
今は——そう、浮世離れしていると、そんな感じである。
「……なんだっけな、この後の会話」
出だしばかりが印象付いていて、その後のやり取りというのが中々思い出せない。
リアル以上にリアルな絵画——について、日が暮れるまで長々とか語られたんだっけ?
「いや——違う、リアル以上のリアルを描いておきながら、描写自体はファンタジーにする事により、現実と非現実の境界を歪めてしまう絵について——だったか」
どっちにしたって、別に僕の興味の範囲ではない。
けれど——その時の僕は最後まで、睡魔に襲われる事無く聞き入っていた。
多分——魅入られていたのだろう。
彼女の話術が特段優れている訳でもなく、単に、ただ単に、彼女と会話しているという事自体が楽しくて、嬉しくて……
「……幸せだったなあ」
過去形。
昔話のように、語る。
いや——その頃の事は昔話で問題無い。
けれど、僕は今……亡心時雨自体を昔話——もう、終わった者として語ってしまっている。
生きているのに、まだ——死んでいないのに。
「……」
今日の時雨は、なんだか様子がおかしかった。
恐れ、怖がり、恐怖していた。
あの時雨が、どんな時も飄々として、どんな事態も柳のように受け流してしまう時雨という少女が——怯えていた。
何だ、一体彼女は何に対して怯えていた——「だなんて、考えるまでもないよな」
間違いなく死だ。
医者も誰も、彼女が必ず死に至るなんて事は伝えちゃいない——勿論、僕も教えたりなどしちゃいない。
それでも、時雨はきっと気が付いている。
《自分の事は自分が一番分かる》——みたいな、そういう事なのだろうか?
「……」
そういえば——時雨は言っていた。
うらやましい——と、言っていた。
誰がうらやましい?
考えるまでもなく僕をうらやんでいた。
まだまだ生きていられるからか?
いや——それは違う。
確証は無いが、それだけは無いと断言出来る。
それじゃあ、時雨は一体僕の何をうらやんでいたのだろう。
それについては分からない。
けれど、あんな悲しそうな声でうらやましいだなんて、それじゃあまるで——
僕が、時雨を苦しめているみたいじゃないか。
僕が、時雨にとっての苦痛であるかのようだ。
僕が、
時雨の、
苦悩そのもの——?
「ッ……」
頭の中でイバラが陸に上がった魚みたいにのたうち回る——そんな痛みを覚える。
頭蓋そのものが冷える。
脳が、思考を放棄しようとする。
怖い。
時雨が死に恐怖を覚えているように、
僕も、何かが——怖い。
何に怯えているのかは分からない。
風に揺らめく葉の擦れ合う音が、頭の中で嫌に響く。空を見上げ、気を紛らわせようとするが、空が、まるで僕を押し潰そうとするように迫ってくる——そんな錯覚……というか幻覚を、見てしまう。
うらやましい——
うらやましい——
うらやましい——と、
何度も、何度も、その言葉が鼓膜に張り付いたかのように聞こえてくる。
喉が震え、空気の抜けたような音が漏れ出す。
発狂——してしまいそうだった。
こんなの初めてだ。
何が怖いんだ。
何に怯えているんだ。
僕を蝕むのは——何だ、何なのだ。
ベンチから、跳ぶようにして立ち上がり、階段を駆け下りる。
足を——滑らす。
階段を転げ落ちる。
もはや痛覚なんて物は無かった。けれども、段差とぶつかる度に響く軋轢音が、形を持って脳を切り付けて——痛かった。微かな物音——雑草同士が触れ合う音、鳥のさえずり、虫虫の羽音が、まるで爆発音のように聞こえる。
本当の爆発音ならば、もう既に鼓膜が破れ、その時点で騒音に苦しむ事は無くなるだろう。しかし現在僕の脳を圧する音は——錯覚に、過ぎないのだ。
鼓膜は破れない。
音は、鳴り止まない。
両手で意味も無く耳を塞ぎ、仰向けになり……藻掻く。
この惨めな姿を、時雨が見たら何と言うだろう。
小馬鹿にしながら手を差し伸べるのだろうか?
いや……時雨の事だから、愉快そうに言ってから、僕の横に寝転がるのだろうか?
それとも——やはり、
《うらやましいよ》
と——一言、言われてしまうのだろうか。
「……あ」
迫る青の天井の上で、白の一直線が描かれる。
描いたのは飛行機である。
その線は、飛行機雲だ。
飛行機雲は、どこまでも——まるで、
「まるで——」
そう、
「流星……みたいだ」
流星。
流れ星。
その煌めきが失われない内に三度願いを叫べばその願いを叶えるという——奇跡の、光。
「は、は……そうだ、流星だ……」
思考なんて、もう無い。
言葉というのは人類の知能の象徴だと——時雨が、いつか語っていた。
けれど僕は、知能なんてのは無く、ただ、ただ——言葉を零していた。
「流星! 願いが叶うッ——奇跡だ!」
爆発音はもう消えた。
痛む足のままで立ち上がり、
痛む足のままで山を、駆け下りる。
枝に肌を裂かれようと、
小石につまづき斜面を転がろうと、
それでも気にせず下り続ける。
目的地は何処か——そんなの、考えてなどいない。しかし、それでも身体はそこへ向かう。
そこへ、
その場所へ、
その人の居る所へ、
「時雨!」
時雨の——元へ、来た。
「流星ッ——君? 今日の面会時間はもう終わっていたはずなのだけど……」
時雨は病室に駆け込んで来た僕の姿を見て、困惑しつつも、表面上では平然を保つ。
「面会時間なんてどうでもいい! 流星! 流れ星だ!」
「君が流星君なのは分かっているけど……」
「いや……名前じゃなくて現象! 空にピカっては光る方の流星だ!」
「冗談だ。君の言う流星が、君でない事くらい分かっているよ」
時雨は普段通り、ケラケラ——なんていう音が聞こえてきそうな笑みを浮かべて言う。
「それで——流星がどうかしたのかい?」
「流星と言えば願い事だろ! だからあの展望台に流星を探しに行こう! 探して、そして願いを叫べばきっと——」
きっと、
たぶん、
おそらく、
「私の病気が治る——って?」
「あ……」
それを言ったのは時雨だった。
声は、あの台詞を言った時と同じようにかぼそく、消え入るようである。
それを聞いて、僕はようやく落ち着く——腰を抜かして、真っ白い床に尻もちをつく。
「あれ、え……」
僕は何をしている。
何て事をしてしまっている。
流れ星に願った所で、時雨の病が治るはずもないのに、だというのに僕は……遺継流星は——
「……最低だ」
無責任過ぎる。
僕が何に怯えて、何を焦っていたのかはまだ分からない。
それでも、奇跡と呼ぶ事すら躊躇すべき不可能、それを語るだなんてあまりにも——残酷だ。
こんな事、してはならないなんて分かるよりも前に知っていて当然なのだ。
考えるまでもないはずなのだ。
なのに、
どうして、
僕は、
ぼくは——
「流星君」
時雨は静かな声で僕の名を呼ぶ。
そしてしばらく……憐れむような視線を向けてから、
「君を嫌いになった事はないよ」
と、諭すように言葉を投げ掛ける。
どうやら時雨は、僕が何かに怯えている事、そしてその恐怖を生んでいる根源が何であるかをすぐに理解してくれたらしい。
僕は——時雨に疎まれる事が怖かったんだ。
だから、彼女にとっての特別であろうとした——毎日見舞いに来るくらいなら問題無いだろう。
しかしだ。可能性を持たない希望を見せるだなんて行為をしておきながら、挙句、僕は時雨に自分を慰めさせた。
馬尾雑言を浴びるべきだった。
もう二度と会いたくないと、ハッキリ嫌いだと告げられ、関係を断ち切られるべきだった——はずなのにも関わらず、である。
立ち上がり、
また、沈黙のまま病室を後にしようとする。
時雨が何故か、少し焦った風に僕を引き留めようとしたのが気になった。けれど、僕は振り返らない。
まだ頭の中に時雨の、あの言葉が響いている。このままじゃ僕はまたあらぬ事を口走ってしまうだろう。
だから立ち去る。
だから——また、時雨を独りぼっちにした。
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