歪な想い

日乃本 出(ひのもと いずる)

歪な想い




「ただいま」


 アパートのドアを開け玄関に入ると、開口一番に僕は壁一面に散りばめられた、彼女の写真に向けて言った。写真の彼女の視線は、玄関の僕に向けられるように調整して貼ってある。

 写真の彼女の表情は、その八割ほどが無表情やそれに近しいもので占められている。残りの二割は、携帯を必死でいじっている時の集中したような表情だ。

 そんな彼女たちに向かって、僕は僕の考えうる限りの最大の微笑みを向けるのだ。写真の彼女たちは微笑みを返してはくれないけれど、そんなことは僕にとって大した問題なんかじゃない。なにせ、僕の頭の中の彼女はいつも僕に向かって微笑みかけ続けてくれているのだから。


 僕は今日の出来事を写真の彼女たちに語りかけながら靴を脱ぎ、それを丁寧に揃えた。ふと、以前の僕の玄関の光景を思い浮かべる。

 何もない殺風景な白い壁と、乱雑に脱ぎ散らかされた靴達。その靴達も、泥に塗れたり、酔っ払いの吐いた汚物を踏むなどして、薄汚れたまま往々にして放置されていたものだった。


 だけど、今は違う。


 靴はきっちりと揃えられ、塗れた泥や汚物は綺麗に拭きあげられ、新品のような輝きを保っている。

 それも全て、彼女のおかげだ。いや、これは正しい言い方ではないだろう。正確には“彼女のため”なのだ。壁一面に存在する、美しい彼女。無機質でまるで病院の壁のようだった壁を、その聖母マリアのような処女性に満ち溢れた純潔さで満たしてくれた、彼女。

 彼女は穢れとは無縁の存在なのだ。

 そんな彼女の視界の中に、あのような陰鬱で薄汚れた空間をいれるわけにはいかない。


 僕は軽く微笑を浮かべ、居間へと歩き出した。玄関から居間へと至る廊下の壁も、彼女の写真で埋め尽くされている。もちろん、目線はちょうど僕の目線に合わせるのを忘れない。

 彼女から見つめられているという充足感が、僕の心に満ちていく。


 なんと素晴らしいことだろう。


 なんと愛おしいことだろう。


 だから僕も負けないように彼女を見つめてあげるのだ。僕だけの――僕のためにだけ存在する彼女を。

 少しの間見つめあい、僕はいつもより多少早く、彼女から視線を外し、居間へと歩みだした。名残惜しいが、今日はこの行為にそこまで時間をかけてはいられない。もっと崇高で、もっと僕に充足感を与えてくれる行為があるのだから。


 居間へと僕は足を踏み入れる。僕のアパートはワンルームなので、居間は寝室も兼用しており、調度品はベッドとパソコン机だけだが、壁は隙間のない程に彼女の写真で埋め尽くされている。もちろん、天井にも彼女の写真は敷き詰められている。

 壁の彼女はパソコン机に視線を合わせ、天井の彼女はベッドの枕に視線を合わせてある。そう、彼女はいつも僕を見てくれているのだ。だから、僕も彼女を見ていなければならない。いつも。ずっと。永遠に。

 パソコン机の椅子に腰掛け、パソコンのスイッチを入れる。パソコンが起動するまで、僕は彼女との出会いを思い浮かべることにした。そうすることで、これからの崇高な行為にも一段と想いを込めることができるのだ。


 それは僕が上京して一年がちょうど過ぎた頃だった。

 勤めていた会社の猛烈なノルマと追い込みに心身ともに疲れ果て、歩きながら眠ることすらあった、あの地獄のような日々。

 その日、僕は一つの決意を持って駅のホームに立っていた。


 それは、“地獄からの脱出”。


 首吊り、飛び降り、入水、様々な方法を模索した結果、僕は電車への飛び込みを選択したのだった。その理由は実に単純かつ逃避的なもので、“最も楽に死ねそうだ”というものだ。

 だが、それも当時の僕からすれば至極当然の選択だったと今でも思っている。なぜなら、ただでさえ地獄のような日々だというのに、そこからの逃避の瞬間くらいは苦しまずに逝きたいと願ったとしてもなんら不思議なことではないのではなかろうか。


 ――もう少しでその時が来る。


 ホームに電車の到来を告げるベルが鳴り響き、待ちに待った脱出の時が近づいているのだと、喜びの笑みを漏らしかけていた、その時だった。


「あの――」


 突然背後から声が聞こえた。最初は僕に声をかけているのだとは思わず無視をしていたが、もう一度声をかけられたので振り向くと――彼女がそこにいた。


「○○教会の者ですが、よろしければ貴方様のためにお祈りをやらせていただいてもよろしいでしょうか?」


 優しい声。澄んだ瞳。慈愛に満ちた微笑。その一つ一つが彼女の純粋さと美しさを際立たせていた。

 僕は、ただ、じっと彼女を見続けることしかできなかった。そんな僕に、彼女は軽く会釈をし、両手を組んで、その澄んだ瞳を閉じ、一心に僕に祈りをささげ始めたのだった。

 東京という場所に満ち満ちた醜悪な人々とは一線を画したその姿は、まるで神が僕にのみ仕わしてくれた天使のようだった。

 その間に電車はホームへと入り、その腹内に溜め込んだ悪魔達を吐き出す作業を始めていた。吐き出し終わると、僕と彼女の周りにいた悪魔達を電車は飲み込んでゆき、悪魔達を地獄へと運ぶためにホームから出て行った。


 電車が過ぎ去り、周囲に悪魔達が消えうせたころに彼女は祈りを終え、「ありがとうございました」と幾度も頭を下げ、その場から去っていった。

 僕は無意識のうちに、彼女の後を追っていた。いつのまにか、僕の頭の中から死の翳が去っていた。その代わりに、彼女のことだけが僕の頭の中を支配するようになっていた。

 彼女に見咎められぬよう注意し、一日中彼女の後を追い続けた。そして彼女の住居と、彼女の所属している教会のことを突き止めると、僕は部屋へと戻り、早速準備を始めることにしたのだった。


 彼女を――僕だけのモノにするための準備を――。


 そのためには時間の確保が必要だった。その日のうちに僕は辞表を書き上げ、上司に叩きつけて会社を辞めて時間を確保した。

 今にして思えば、なぜこんな簡単なことをせずに、死などという安易で最も卑劣な選択肢を選ぼうとしたのか気恥ずかしささえ感じるが、やはりそこは精神の不安定さというのが大きく作用していたのだろう。目的もなく逃避して生き続けるというヴィジョンが浮かばなかったのかもしれない。

 だが、今は違う。今の僕と、逃避しようとしていた僕とでは、目的という点で大きな違いがあるのだ。彼女という、崇高かつ甘美なる目的が――。 


 自らの目的の崇高さに打ち震えだすと同時にパソコンの起動が完了し、デスクトップ画面がディスプレイに映し出された。言うまでもなく、デスクトップの壁紙も彼女の写真だ。

 首にかけていた一眼レフを机に置き、USB配線を一眼レフに接続する。問題なくパソコンがデバイスを認識した音が響き、ディスプレイに僕の今日一日の成果ともいうべき一眼レフ内のデータが映し出される。


 食事をしている彼女。談笑をしている彼女。奉仕活動をしている彼女。そして――僕以外の人間に祈りを捧げている彼女。


 祈りを捧げている彼女の写真のみを削除し、残りの全てをプリンタに出力し、印刷を開始する。

 プリンタから彼女の姿が続々と出力されていく。また新しい彼女の姿が世に写し出されていく。

 この瞬間だ――この瞬間こそ、僕がまるで神になったかのような圧倒的な充足感で満たされる瞬間だ。

 その興奮が冷めやまぬうちに、写真の選定を始めなければならない。なぜなら新しい彼女を、僕の部屋という僕が神として君臨する世界に受肉させてあげなければならないからだ。受肉は僕が彼女の写真を貼り付けることによって完了する。そうして、また新たな彼女によって世界が満たされていくのだ。


 悩ましい選定を終え、一息をつく。

 その時、壁掛け時計が夜九時を知らせる音を鳴らしだした。

 カレンダーに目をやる。今日は火曜日だ。ということは、もうすぐ彼女が帰ってくる――。

 僕は急いで携帯を手に取り、メモリから彼女の家の番号を呼び出し、コールを始めた。

 数度の呼び出し音の後「はい、○○です」という彼女の優しい声が、携帯を通じて僕の脳内へと響き渡る。


「もしもし……?」


 彼女の声が不安そうな声へと変わっていく。

 ああ――ああ――なんて素晴らしいんだ。

 今、彼女の心は僕への想いできっと満たされ始めているのだ。それがたとえ恐怖だったとしても、それは僕への想いには違いないのだ。


「どなたですか? お願いです、もうやめてください……お願いです……」


 僕への想いが頂点に達したのだろう。彼女は神に懺悔をするかのように、涙声になりながら必死に僕に許しを乞いた。そんな彼女の感極まった声で僕の彼女への想いはより一層の高みへと駆け上がっていくのだ。


「また、明日――」


 それだけを彼女に告げ、通話を終える。携帯をベッドへと放り投げ、やや乱雑に机の引き出しを勢いよく開けた。

 彼女のために揃えた様々な道具を机の上へと並べていく。


 サバイバルナイフ。スタンガン。クロロフォルム。ロープ――。


 一体、どれが最も美しく彼女を永遠に自分のモノにすることができるだろう。もう何度も考えたが、こればかりは中々結論が出るものではない。

 まあ、まだ時間はあるのだ。焦る必要など、どこにも無い。それに、まだこの素晴らしい時をしばらくは味わっていたい。

 道具を引き出しの中に直し、ベッドへと体を投げ出す。

 そして、僕の体を破裂させてしまいそうなほどに滾る情欲を、僕は脳内で彼女を永遠に僕のモノにした瞬間を妄想しながら、一人で処理を始めるのだった。







 彼との繋がりが絶たれた受話器を置き、私は部屋のベッドへと腰掛けた。

 大丈夫。彼は私の演技には気づいていない。そう自分に言い聞かせ、受話器を当てていた耳元へ手を当てる。

 耳元にはまだ彼の温もりが残っているような気がする。彼の興奮した息遣いが耳から離れない。

 今日も、彼はずっと私を見続けてくれていた。そして、何度も私の姿をカメラのファインダーから覗き込んでいた。


 きっと、彼の部屋は私の写真で埋め尽くされているのだろう。


 そう思うと、胸が高鳴り、そして体が熱く火照ってくるのがよくわかる。そんな体を抑えながら、私はベッドの上に横たわった。

 彼は知らない――彼が私を見続けてくれるずっと前から、私が彼をずっと見続けていたことを。

 東京という悪魔達の住処の瘴気に冒され、その精神を少しずつ崩壊させていた彼を見つけたのは、偶然という名の奇跡だったに違いない。

 だってその瞬間に私は確信できたのだから。彼こそ、私と共に在るべき人なのだと。彼こそ私と共に旅立つべき人なのだと。


 それから私はひたすら彼を見続けた。雨の日も。風の日も。彼に見咎められないよう、細心の注意を払いながら、彼を見続けていた。

 彼がホームの先に立とうとした時、彼が神の御許へと旅立とうとしているのが、私には直感的に理解できた。

 だからこそ、私は声をかけたのだ。彼こそ、私と共に神の御許へ旅立ってくれる人なのだと、私は信じていたのだから。


 私の直感が正しかったことは、その後の彼の行動で証明されることになった。私を神の御許へと送ってくれるために、様々な道具を取り揃えていることも、彼の部屋に仕掛けてある盗聴器から知った。

 枕元に添えつけてあるスピーカーの横のスイッチを押す。スピーカーから彼の艶やかな声が溢れ出す。

 今日もきっと私のことを考えながら自分を慰めているのだろう。

 この声だけでも十分に私を乱れさせてくれるのだけれど、これだけではまだ足りない。これ以上の淫靡な感覚を味わうためには道具が必要なのだ。私の想いを遙かな高みへと達せさせてくれる道具が。


 ベッドから体を起こし、勉強机の引き出しから小さなパイナップルのような形をしたものを取り出す。

 手榴弾などという下劣な名前でも呼ばれることがあるのだけれど、私にはこれは神の御許へ送ってくれる片道切符と呼ぶようにしている。

 彼が私への想いに耐え切れなくなり、私の元へその想いをぶつけに来た時に、この片道切符で私は彼と神の御許へと旅立つのだ。


 ああ――ああ――なんと素晴らしいことでしょう。痛みや苦しみなどなく、瞬時に私達は神の御許へと旅立てるなんて……想像するだけで、私の全身に言葉に出来ないほどの激しい情欲がほとばしる。


 片道切符のピンを外さないように注意しながら、それをベッドから見える位置へと優しく置く。

 彼の声と、片道切符――この二つが揃った時、私は世の誰もが味わったことのないような、激流のように激しく全身を駆け巡る甘美な想いに満たされるのだ。

 ベッドに体を沈め、生まれたままの姿となって、激流に身を任せる。


 ああ――ああ――彼はいつ来てくれるのだろう。彼はいつ私と旅立ってくれるのだろう。

 早く――早く――その瞬間がくればいいのに。

 早く――早く――旅立てる時がくればいいのに。


 そう遠くない彼との邂逅を心から渇望しながら、私は今日もまた、旅立ちへの希望と彼への想いに激しく乱れるのだった。

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