無翼のミュールと癒者

空月

第1話



「王族からも呼び声がかかると高名な、かの薬師がこんなに年若い方だとは……ああ、申し訳ありません。決して疑うようなつもりはないのです」


 先導していた領主が慌てたように謝罪するのに、リエラは苦笑して首を振る。


「ええ、わかっています。若輩者なのは本当ですし、わたしが過分に評価いただいているのは、調合の腕や知識より、この身に流れる血の特殊さからですから」

「それでは、癒しの血を持つ方だというのは本当の……?」

「はい。癒種は表には出たがらない者が多いので、物珍しがられているのですよ」


 リエラの言葉に、人の好さそうな領主は「そんなことは、」と否定を返した。


「それだけならば、王都から遠いこの地にまで噂が届くことも無かったでしょう。――ああ、こちらです。貴方に治療していただきたい者が、この扉の先におります。前領主の下にいた中でも、特に傷の酷かった者で……頑なに治療を拒否するのです。器官の損傷も多く、治すのが難しいこともあるのでしょうが……自分に手をかけるより、他の者を、と」


 領主の館の端、ひっそりとした雰囲気の離れの扉の前で立ち止まった領主は、そう説明した。王都からこちらに呼び寄せられる前にも同じような話は聞いていたので、リエラは「なるほど」とだけ口にする。

 扉の先にいる人物について、幾つか領主に質問をする。得られた答えに、自分一人で相対した方がよさそうだと判断したリエラは、領主にその旨了承を得て、扉に手をかけた。


 ゆっくりと開いた扉の音に反応したのだろう、室内にいた人物が振り返る。その動作は緩慢で、その体が弱っていることを如実に示していた。

 扉を閉めたリエラは、相手に|見えない(・・・・)とわかっていて、にこりと笑みを向けた。


「――こんにちは。初めまして。あなたの治療のために呼ばれた薬師、リエラです」


 リエラの視線の先で静かに佇むその人は、目を包帯で覆っていた。酷い傷を負って、視力を失っているということは事前に聞いていたのでリエラに驚きはない。

 目以外の損傷部位を動作から読み取ったことで、リエラは彼――全体的に線の細い雰囲気ではあるが、骨格から男性だろうと判断した――を一刻も早く傷を癒すべき対象だと認識する。


「初めまして、名はありませんので好きなようにお呼びください――そもそも、その必要があるほどの付き合いをするつもりはありませんが。……遠くからご足労頂いたところ恐縮ですが、私に治療は必要ありません。前領主に害された者は他にもおりますので、そちらの治療をお願いいたします」


 聞いていた通りの反応に、リエラは僅かに笑みを深めた。


「私はあなたの治療のために呼ばれたと言ったでしょう? あなたの言う『前領主に害された者』は、皆既に適切な治療を受け、回復に向かっているそうです。つまり、私が治療すべきはあなただけということですよ」

「……それではお帰りください。私は治療を受けるつもりはありません」

「わたしも仕事ですので、あなたの意思がどうあれど治療を行う心づもりで来たのですが、――あなたは何故、治療を拒否するのですか? 現領主さまは前領主によって害された者をできる限り救おうとしていらっしゃいます。その好意を無下にする理由は?」


 リエラの問いに、彼は始めから用意していたように答えを返す。


「私の受けた傷は、簡単に治せるようなものではありません。いくら腕の良い方でも治せないものも多々ありましょう。時間と金銭の無駄だと思うからです」

「それは治療をする私が決めることです。あなたの目に光を戻すことや、――失われた翼を取り戻すことさえできるのだと言えば、観念して治療を受ける気になりますか?」


 目の前の傷ついた彼は有翼種――その中でも特に美しい外見をし、見る者を魅了する宝石のような瞳、そして魔性を帯びた声を持つと言われるミュールという種だという。ただし、その翼は背から失われており、衣服を纏った状態ではその名残すら窺うことはできない。

 ミュールはその特徴から、地位ある者たちに愛玩用に飼われることが珍しくない種だ。前領主はミュールをことさらに収集し、そしてそれを傷つけることで満たされるという歪んだ欲の持ち主だった。


 リエラの言葉はさすがに予想外だったのだろう、彼は驚いたように息を呑み、――「あなたはただの薬師ではないのですか?」と訊ねてきた。


「私は『癒種』です。薬師ではありますが、『癒種である』ことを評価されて、私はここにいるのですよ」

「『癒種』……」


 『癒種』とはその名の通り、癒しの力を持つ種族である。その血は万病を治し、失われた器官さえも再生する。その血の効力故に、度々狩られる種族でもあった。


「……『癒種』の方が、そのことを公表して活動するのは危険が伴うのでは?」


 その声には、紛れもない心配の色があった。リエラは胸が温かくなるのを感じながら肯定する。


「ええ。けれど、名の広まった『癒種』を狩るのは、逆に難しくなるものです。今の時代は、すぐに誰が狩ったか判明する。そうして非難は避けられない。そうなると、手を出され難くなるのですよ」

「それでも、危険に変わりはないでしょうに……」

「お優しいのですね」

「いいえ。いいえ。……ただ、己の罪を少しでも雪ぎたい一心なのです。私の心根はもっと卑しい。私は、貴方に癒していただく資格などない――罪人なのです」

「罪人……?」


 リエラは眉を顰めた。彼は自嘲するように笑んだ。


「――お聞きくださいますか。愚かな私の懺悔を」


 平坦に過ぎる声に胸を騒がせながら、リエラは気づけば頷いていた。





 ――貴方もご存じのことでしょう、前領主はミュールを収集し、それらを傷つけることを愉しむ者でした。十数年前、私は彼に飼われるうちの一人となり、まず片翼をもぎとられました。子どものミュールの翼は柔らかいからもげるかどうか試してみたかったと領主は言いました。

 痛みと喪失に泣き叫ぶ私を、領主は満足げに眺め、それから目を抉りました。ミュールの瞳は見る者を魅了すると言います。私の瞳は特に美しいと言われていたので、前領主はそれをいつでも見られるように、奪い取って保管することにしたようでした。


 屋敷にはたくさんのミュールがいました。領主は気まぐれにそれらのミュールを痛めつけ、悲鳴を愉しみ、嗜虐心を満たしていました。

 ……私は中でも幼い部類だったので、他のミュールが幾度も庇ってくれました。そのおかげで、最初に落とされた片翼と、失った両目以外には大きな傷も無く過ごしていました。それでもいつ領主の目に留まるか、また恐ろしい目に遭うのではないかと日々怯えて過ごしていました。


 そんなある日、私は誤って許されていない庭に下りてしまいました。ミュールは屋敷の中では自由を許されていましたが、中庭以外には下りることを許されていませんでした。

 けれど見えない目と全貌の分からない屋敷が、私を外に繋がる庭へと誘いました。


 ――そこで、出会ったのです。


 その頃の私とそう変わらない年頃の子どものようでした。声からして、少女だったのでしょう。その少女もまた、誤って領主の屋敷に近づいてしまったようでした。……後から知ったのですが、その頃は領主の屋敷には近づかないことが、この街の暗黙の了解だったようです。


 子どもの背には高すぎる柵の向こうで、「怪我をしているの?」とその少女は言いました。私の目に巻かれた包帯を見てのことだったのでしょう。

 私は目が見えなくなってから初めて出会う同年代の子どもに少しだけ怯えながら、頷きました。


 「痛い?」と少女はまた訊きました。私は少し迷って、やはり頷きました。抉られたときほどの圧倒的な痛みではなくとも、瞳を失ったそこは耐えず痛みを訴えていたからです。

 少女は少し黙って、「バレたら怒られちゃうかもしれないけど……いいものをあげる」と言いました。私はそれは何なのだろうと疑問に思いながら少女の出方を待ちました。


 そして、唇に何か甘いものが触れました。少女の指先に、何かの液体がついていて、それが甘さをもたらしているようでした。その甘さを感じた瞬間、あんなにも自分を苛んでいた痛みが和らぎました。それは劇的で確実な変化でした。

 甘いその何かをもっと摂取しようと、私は少女の指先にしゃぶりつこうとしましたが、少女はさっと手を引いて言いました。「たくさん与えたらだめって言われてるの」と。


 私はとても物欲しそうな顔をしていたのでしょう。少女は困ったように「また明日、ね」と続けました。明日になればまたあの甘いもの、何故かわからないけれど痛みを軽減してくれるものがもらえるのだと、私は嬉しくなりました。……目先のことしか見えない、愚かな子どもだったのです。


 あくる日、またこっそりと立ち入りを許されない庭へと下りた私の前に、少女はまた現れました。

 「ちょっとだけだよ」と言ってまた私にあの甘いものを舐めさせ、私の痛みはさらに軽減しました。

 私にそれを舐めさせ終えた少女は、「あなたはここの領主様にひどいことをされているの?」と訊ねました。私はそれに頷き、ここで飼われているミュールはみんなそうだと伝えました。少女はしばらく何かを考えているふうでした。

 「また明日ね」と少女は言って、立ち去りました。私はぼんやりと、私は何を与えられているのだろうと考えましたが、答えは出ませんでした。


 翌日も、少女は庭先に現れました。また私に甘い何かを舐めさせ、「少しは痛くなくなった?」と訊きました。私は頷きました。私の痛みが和らいだのが少女が与えてくれる何かのおかげだということはさすがにわかっていたので、ありがとうと伝えると、少女は困ったふうな声で言いました。


「本当は、みんなにあげられればよかったんだけど……」


 私は少し悲しい気がしました。私だけが痛みを免れて、私を庇ってくれる他のミュールにはこの恩恵を分け与えられないということでしたから。

 私のそんな気持ちを察したのか、少女はしばらく黙り込んでいました。そして、柵越しに私の手をとって、掌に何かを数滴落として言いました。

 「ちょっとだけ。痛みを軽くするだけだけど……誰かにわけてあげて」と。

 私は喜びました。……それがどういう事態を引き起こすか、考えもせずに。


 少女と別れた私は、早速私を庇ってくれたミュールの元へ行きました。私と同じに両目を失っていたそのミュールは最初こそ訝しみましたが、私が強く勧めると、それを舐めとりました。途端、気配が変わりました。驚愕の気配でした。

 「これは、どこで?」とそのミュールは言いました。私はそれを伝えてよいものかわからずに口を噤みました。そのミュールは焦ったように「このことは誰にも言ったらいけない。もう他の者に分けてもいけない」と言いました。私は意味がわかりませんでした。


 この屋敷のミュールは誰もが終わらない痛みに苦しんでいるのです。少しでもそれを和らげるものがあるのなら、そして少女がそうしていいというのなら、分けてあげるべきだと思ったからです。

 それでもそのミュールは頑なに「もう誰にも分けてはいけない」と言いました。私は渋々頷きました。


 ……そこに、領主がやってきました。領主は私を探していたようでした。「子どものミュールの悲鳴が聞きたくなった」と下卑た声で言いました。

 私は恐怖に震え、けれど大人の腕力にかなうはずもなく、別室へと引きずられていきました。他のミュールが必死に庇おうとしてくれましたが、私に狙いを定めた領主の心を変えることはできませんでした。


 領主はまず私の服を脱がせました。他のミュールから聞いていましたが、領主は自分のつけた傷を眺めて悦に浸る癖がありました。長い鞭を持って私の服を脱がせた領主は、突如驚きの声をあげました。「傷が治っている」と領主は言いました。「翼をもぎとった痕が塞がっている」と。そういえばもうそこはほとんど痛みを感じなくなっていました。けれど、ろくな治療もされない中、自然と治るはずがないということは私にもわかりました。


 少女に与えられたものの効果だ、と私は直感しました。しかし、領主がそれを知る由もありません。何をしたのだと執拗に問い詰められました。……気分のいい話ではないので仔細は省きます。私はもう片方の翼も失いました。体中が血まみれになり、鞭の痕がないところはないような状態になった頃、私は痛みから、恐ろしい領主から逃げたいがために口にしてしまいました。――少女の存在を。少女が与える甘い何かのことを。


 途端、領主は私に興味を失ったかのように……いえ、もっと優先順位の高いものが降ってわいたように、足早に去っていきました。私はこれ以上の責め苦が負わされないことにほっとしていました。それから、「誰にも言うな」とあのミュールに言われたのにそれを守れなかった自分を情けなく思いました。


 その日からしばらく、領主がミュールを甚振ることはありませんでした。大半のミュールは訝しみながらもほっとしていましたが、一部の聡明なミュールは「外界で何かが起こっているのだ」と言いました。

 私は残りの翼をもぎとられ、長く鞭打ちされたことが原因で臥せっていました。だから外界で何が起こってるか、わかりませんでした。

 私は見舞いに来たあのミュールに、少女がくれる甘い何かのことを話してしまったと泣きながら伝えました。そのときは何のために泣いているかもわかりませんでしたが、自己憐憫だったのだと今はわかります。私はひどい目に遭わされて言いつけを守れなかった自分のふがいなさを憐れんでいたのです。


 そのミュールはしばらくの間無言でいました。それが私を責めているように感じて、私はますますひどく泣きました。そのミュールは結局、一つ溜息をついて、「祈りなさい」と言いました。何を、と私が問うと、「君を救おうとしてくれた少女が、無事であるように」と答えました。そこでやっと、私は私が為したことで、あの優しい少女を、身の無事を祈らなければならない状況に追いやったことに気付いたのです。


 「君が少女に与えられたというあれは、恐らく癒種の血だ」とそのミュールは言いました。私はそれまで癒種というものを知りませんでした。そのミュールは噛んで含めるように、癒種とは何か教えてくれました。そしてここの領主は、その癒種を長年追い求めていたことも。

 私たちのように飼って甚振るためではありません。――不老不死の妙薬として求めていたのです。


 癒種は血に癒しの力があると言います。ですが、その肉にも何か効能があるのだろうと――それはいつの世も人類が追い求めてしまう不老不死であるのだと――そういう言い伝えがあるのだとそのミュールは語りました。この国の王はそれを信じていて、癒種を探し求めている。ここの領主は癒種を捕らえて王に献上するつもりだろうと。

 外界では癒種狩りが始まっているだろう、とそのミュールは言いました。少女を追い求めて多くの人が領主によって動員されているようだと。


 私はいかに自分が恐ろしいことをしてしまったか自覚して、蒼白になりました。何か、何かできることはないかとそのミュールにしがみつきました。そのミュールはまた繰り返し言いました。「祈りなさい。少女が無事に逃げられるように。……私たちにできるのはそれだけだ」と。


 私は泣きじゃくりながら祈りました。翼をもがれ、両眼を抉られた時に信じることをやめた神に、祈りました。どうか、どうか、あの少女が無事でいられますよう。無事にこの街から逃げられますようにと。


 ……結局、少女は見つからなかったようでした。領主は怒りをぶつけるように、殊更にミュールたちを甚振りました。けれど領主は、殺すことだけはしないのでした。最低限の治療だけを受けさせられて、死ぬこともできずに暴力に怯える日々でした。


 流れが変わったのは、三年ほど前のことでしょうか。――クーデターが起こりました。時の王の横暴に耐えきれなくなった者たちが決起したのでした。時の王と懇意だったこの屋敷も制圧され、領主は捕らえられ、そうしてやっと、領主に飼われる日々は終わったのです。


 ……その後のことは語るまでもないでしょう。この街の領主は別の人物となって、街は生まれ変わりました。屋敷にいたミュールたちも保護され、適切な治療を受けました。





「――あなたを除いては」


 彼の語りを静かに聞いていたリエラは、最後の言葉にそう付け加えた。

 彼はふるりと首を横に振った。


「わかったでしょう。私は我が身可愛さに恩人を売った罪人なのです。貴方と同じ癒種の誰かを危険にさらした愚か者なのです。――あなたの治療を受ける価値などない。捨ておいてくださって構わないのです」


 彼は頑なだった。長年の罪悪感がそうさせているのだと察せられて、リエラはぐっと奥歯を噛みしめた。


「……では、わたしも。わたしの知る愚か者の話をしましょう。――助けたかった者を助けられなかった、愚かで幼い少女の話を」


 はっと彼が顔を上げた。リエラは努めて淡々と話し始めた。


「十数年、この街に住む母と父と子の三人の家族がいました。その家族は大変仲睦まじく、子どもはのびのびと育てられていました。……けれどひとつだけ、これだけは守らないといけないという決まりがありました。その決まりは普段には意識にものぼらないものでした。子どもはまだ幼かったので、決まりの意味がよくわかっていませんでした。


そんなある日、子どもは近づいてはいけないと言われていたお屋敷の近くに間違って迷い込んでしまいました。そしてそこで――とても傷ついたミュールを見つけました。傷と包帯だらけの姿を見た瞬間、放っておいてはいけない、という衝動のようなものが湧きあがりました。それは子どもの種族の本能のようなものでした。

子どもはミュールに声をかけました。そのミュールは少し恐々と、子どもに近づいてきました。美しい翼は片翼となり、その片翼にも傷がついていて、包帯の巻かれた目元は落ちくぼんでいました。目を抉られたのだと気づいたのは一瞬の後でした。そんな恐ろしいことができる者がいるのだと、それまでの子どもの人生の中では知ることもなかったからです。子どもは衝動に従って、指先に少し傷をつけました。そうしてそれを、そのミュールに舐めるようにと差し出しました。

……子どもは癒種でした。血に癒しの力を持つ種族でした。そんなことを知る由もないミュールはいぶかしむ様子でしたが、結局その血を舐めました。癒種の血は、傷が深ければ深いほど、弱っていれば弱っているほど甘く感じます。そのミュールにはことさら甘く、おいしく感じたのでしょう、にじみ出た血を舐めとってもなおそれ以上を求める素振りに、子どもは手を引きました。癒種の血は依存性があるから、不用意に多くを与えてはいけないと言い聞かせられていたからです。


翌日も、その翌日も、子どもはミュールの元を訪れ、血を与え続けました。屋敷の中には他にも傷ついたミュールがいると聞いて、どうにか全員を癒すことはできないだろうかと考えました。けれど、子どもの癒種の力はそれほど強くはありません。血を与えているミュールだって、痛みを軽減することが主で、失われた翼や瞳を再生することはできませんでした。そうするにはもっと多くの血が必要でしたが、それを依存させずに与える方法が思いつかなかったのです。けれど、痛みを和らげるだけなら他のミュールにも癒種の力を届けられるかもしれない、と子どもは思い立ちました。いつもより深く傷をつけて、流れ出た血を、そのミュールの掌に落としました。誰かにわけてあげて、というと、そのミュールは嬉しそうに笑いました。……それがどんなことを引き起こすか、子どもは気づけませんでした。


 翌日、またミュールの元へ行こうとした子どもに、母が言いました。「誰かを癒してはいない?」と。子どもは後ろめたさに口を噤みました。それが答えでした。「癒種狩りが始まった」と父が言いました。――それは何より、この家族が恐れていたものでした。すぐさま旅支度を整え、夜逃げさながらに街を出ました。まだ傷の治りきらないミュールのことが頭を過ぎりましたが、もうどうしようもないことでした。……そのミュールが、自分のせいでよりひどい目に遭っていることなんて知らずに、子どもは自分だけ街から逃げ出しました。……これが私の知る、愚かな少女の話です」


 語り終えると、彼は唇をわななかせて、何度も何度も唾を飲み込み、そうしてやっと口を開いた。


「……貴女は……あなた、は……」

「……ずっと気がかりだったんです。あなたが自ら領主様にわたしのことを話すとは思えなかったから――何か、ひどい目に遭わされたのではないかと。……予想が当たってほしくは、なかったんですが」

「……っ、それではますます貴方の治療を受けるわけにはいきません。私は……私は貴方を売ったのですから」

「わたしにはあなたを癒す理由があります。わたしのために傷ついたあなたを、そのままにするのはわたしの矜持が許しません。……冷静に、考えてください。街を出ていくことになっただけのわたしと、情報を得るためにひどく痛めつけられたあなたと。どちらが、どちらに関わったことで、ひどい目にあったのか」


 彼は弱ったように眉根を寄せた。


「ですが……」

「異論は聞きません。わたしはあなたを癒します。――今ならばもう、痛みを和らげるだけでも、傷を塞ぐだけでもなく、あなたを完全に癒せるのですから。……もちろん、血を舐めさせるなんて原始的な行為以外で」

「リエラ殿……」

「やっと名を呼んでくれましたね」


 リエラは微笑んだ。名を呼ぶというのは繫がりになる。それだけで癒しの効果は変わるのだ。


「私の血を混ぜた薬湯をお渡しします。一度では完全に治すとまではいきませんが、一週間もすれば瞳は回復するでしょう。翼の方は、再び生やすという形になるので、もう少しかかるかもしれませんが……」

「いいえ、いいえ。そんなことをしていただくわけにはまいりません」


 彼は強情だった。長年の凝り固まった罪悪感は簡単には払拭できないらしい。


「あなたの治療は全面的にわたしに任されています。縛り付けられて口に薬湯を流し込まれたくなければ、素直に治療を受けることをお勧めします」

「……そんな、横暴な……」

「聞き分けのない患者には相応の対処をすべき時もあるのです」


 開き直って言うと、ふっと彼が笑った。困ったようなものでも、自嘲するようなものでもない、ただ自然と浮かんだ笑み。


「少し強引なところは、変わっていないのですね」

「わたしは強引でしたか」

「少し。説明もなく指を舐めさせられたときはどうしようかと思いました」


 くすくすという笑い声まで聞こえて、私はほっと胸を撫でおろした。


「あれは……癒種だと明かしていいかわからなかったので、ああせざるを得ず……」

「それでも、もっとやりようがあったでしょうに」

「子どもだったんです」

「ええ、子どもでしたね。……私も、貴方も」


 ひとつ、息をついて、彼はリエラにまっすぐ向き合った。


「……まだ、罪悪感はこの胸にありますが。治療を、お願いできますか?」

「……! はい!」


 そうしてかつての後悔ばかりを残した少年少女は、新たな関係を結ぶ。

 治療するもの、されるもの、そして――友、という関係を。


 



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