3. アイランド

 電灯あかりで周囲を照らすまでもなかった。


 あちらこちらで半裸の男たちが松明たいまつのようなものを突き上げた。集落の跡地を囲むその数は、およそ30。みな、2メートルを超すほどの長身だ。さっき調べた2体の骸骨は、まだ手足の伸びきっていない子供のものだったのかもしれない。


 彼らが飛び道具を構えている様子はない。レイジはあえて焚火を消さずそのままにしておき、さらに周囲を観察した。


 半裸の男たち以外にも、和装の男と女が1人ずついる。


 長い黒髪で両目を隠した和装の女は、地に座り凄まじい速さで薩摩琵琶さつまびわを弾いている。高速で繰り返されるその曲はどうやら『蓬莱山ほうらいさん』であるようだが、あまりにも速すぎる。扇形の巨大なばちが琵琶の胴に叩きつけられるその音には、獰猛きわまりない響きがあった。スラッシュ蓬莱山、あるいはブルータル蓬莱山とでも呼ぶべき激しさだ。


 それに合わせて男たちの合唱。



   カカンカン ヒカカンカン カカンカン ヒカカンカン


   カカンカン ヒカカンカン カカンカン ヒカカンカン



 女の横に立つ和装の男は、腰に刀を差している。頬には3つの黒子ほくろがあった。


熱井鯖人あついさばと氏とお見受けします!」


 三谷が大声で叫んだ。


「いかにも。私が熱井鯖人だ」


 総白髪の異端数学者は、琵琶と合唱の音圧をものともしないほどの強い声を返してきた。


「「ごわす」とか言わねえんだ」とリュートが言った。


「うぬらがごとき弱者に対して礼儀は不要。今回は先に抜かせてやる。抜刀せい」


「誰が弱者だコラ!」


「リュート! 落ち着け!」


 レイジはリュートの右肩をつかんだ。リュートはジャージのポケットから手を抜き、紅い花を髪にした子供――アニーサの背中をその手で叩いた。アニーサは琵琶のの方角へ駆けていき、灯火の輪の向こうの暗がりにその姿を消した。


 うわずった声で三谷が叫んだ。


「交渉の余地はありませんか⁉ 御相談したいことがあるんです!」


 熱井は、無いことも無い、と答えてから、かたわらにはべる半裸の男に眼をやった。その男は手に持っていた巻物をゆっくりとひろげた。


 ・薩摩武士1人 ⊕ 弥勒1体 =


 毛筆の大きな文字で巻物に書かれていたのは、右辺の欠けた数式だった。


弥勒みろく……?」


 レイジが呟くと、三谷も声を上げた。


弥勒菩薩みろくぼさつですよ! 遠い未来に一切の――」


「それはさすがに知ってます」


 未来仏みらいぶつ、弥勒菩薩。釈迦しゃかが死んだ後――56億7千万年後に人間界へと下生げしょうして全ての者に真理を伝えるという存在のことだが、とりあえず今は関係ないだろうとしか思えなかった。


「聞いてくださいレイジさん! われわれ鎹怨宗がちえんしゅうの調査によれば、この島には中国北魏ほくぎの時代に由来する弥勒信仰が伝わっていた形跡があるんですよ!」


「だからそれが今なんなんですか!」


「すごいなって話です! 私はそこにキリスト教徒の世界戦略を支えた救世主メシア信仰のさらに古層の岩盤を――」


「邪教の話はどうでもいい!」


「でしたら弥勒に戻りましょう! 見てくださいレイジさん! 「弥勒」と確かに書いてあります!」


 それは確かにそうである。島の歴史もクソもないゴミ数学の式だが、交渉相手になるかもしれない相手が示した文字ではある。唐突に弥勒が出てきたので面食らったが、関係ないと片づけるのは間違っていた。


 戦闘になるかならないかという瀬戸際の時間が、レイジは苦手である。言語機能は運動機能と、脳のリソースを奪い合う。交渉になるのなら、それは三谷に任せたほうがよさそうだ。ハチは熊と話をしない。レイジは口を閉じ、視線を熱井鯖人に向けたまま、始まるかもしれない戦闘に備えた。リュートとケラオも同様の境地に入ったようだ。寺生まれたちの配置は、集合状態でもなく、外周を固める形でもなく、中途半端で気に入らないが、さすがに今はまだ命令を出さないほうがよいだろう。


「うぬら僧兵にも、違いというものがあるようだな」


「基本的には皆、平和と和平を重んじる人間ですよ。御理解ください」


「やはり、密輸のことしか考えておらぬ惰弱だじゃくな商人ばかりなのか? この強者の島に、くだらぬ物ばかり持ち込み、蔵のようなものまで建ておる」


「それはおそらく、よその寺の僧兵ボーズでしょうが、縁続きといえば縁続き。御勘弁ねがいます。しかし、熱井様。熱井様も何か、武士のようなものを島の外に送ってはおられませんか?」


「何人かは武者修行に出した。後は知らん」


「はあ、さようで」


「で、弥勒は手に入るのか?」


「は?」


「うぬら、弥勒には詳しいのだろう? 既にこの世に来ている弥勒がいるはずだ。もう少し足を延ばしてこの島に来るようはからえ。答えを出そうではないか」


「いや……何をもって弥勒と呼ぶかについての見解にも、それはもう様々なものがございまして……」


「弥勒は弥勒だろう。どれでもよい。いや、強い弥勒ほど早く来ているものだと聞いた。今いる弥勒を連れてこい」


 ――最速弥勒最強説を知っているのか⁈


 レイジたちの前にこの島を訪れた僧兵から訊き出したのだろうか。


 遠い昔、自分独りで真理を悟った釈迦仏しゃかぶつは、最初の説法の場で「この世の一切は苦である」と説き、臨終の場で「私はもう二度と生まれ変わることはない」と宣言した。後に残された人間たちの一部は、〈次の仏〉を必要とし、様々な説を生み出した。


 その一つ。


 裏敦煌文書うらとんこうもんじょ典籍番号2879――『速疾立験摩醯首羅天説弥勒証明経そくしつりゅうげんまけいしゅらてんせつみろくしょうみょうきょう』。


 ヨーロッパの騎士修道会がアジアから持ち去った経典の一つだ。略して『証明経しょうみょうきょう』と呼ばれることもあるその経典は、弥勒最速降臨主義者たちが捏造した数々の偽経ぎきょうの最終到達点とされている。そこでは最速弥勒最強説が明確に語られ、釈迦の兄である弥勒――釈迦牟尼仏しゃかむにぶつの最期を看取みとった弥勒仏みろくぶつこそが最強の弥勒であると明言されている。実際その弥勒仏は、単身で魔王連合軍を壊滅させ、最強の魔王に負けを認めさせている。


 ――いや、「実際」というのはおかしい。


 脳裏に流れた偽経の文字を、レイジは打ち消した。あやうく偽経作者の妄念に呑まれるところだった。


 どうも熱井鯖人は、書かれた文字と現実との関係について、レイジたちとは大きく異なる考え方をしているように思われる。九州の僧兵たちに近いような気もするが、ここまで仕上がっている人間は見たことがない。


 こんな相手との交渉が、うまくいくはずもない。


 できる事といえば、大きな嘘を通して一旦解散ワカレとするか、あるいは、


「……少々お時間をいただけますか?」


 そんな言葉を返すしかなかった三谷を、レイジは責める気にもなれなかった。結局、話の通じる相手ではないのだ。そして、弥勒をここへ連れてくることも、もちろんできない。釈迦の死後800年であれ、56億7千万年であれ、あるいは弥勒の兜率天とそつてんであれ、書物にどう書かれていようとそれらはみな、この世の現実から切り離された時空についての記述であり、何者もそこから来ることは無いし、行くことも無い。


 しかし、それを熱井が理解することはないのだろう。彼は薩摩武士であり数学者である。彼には〈時間〉が無い。刹那の生死か永遠の関係しか無い。この世に生きるほぼ全ての人間は、つまるところよくわからない〈時間〉というものがあたかも有る「かのように」生きており、その裏返しで不変の文字を組み立て夢を仮構したりもするのだが、初めからそうする必要が無い者もいる。過ぎ去ったものと今あるものと未だ来たらざるものとを区別して生きる必要の無い者がいる。熱井鯖人は明らかにそちらの側の人間だ。むしろ、彼が弥勒という未来仏などに関心を持ったことの方が不思議なくらいである。


「もうよい。何も無かった」


 熱井鯖人がそう言うと、半裸の男は巻物を閉じ、和装の女は琵琶の手を止めて立ち上がった。


 薩摩琵琶の音がやんでも、合唱の声は続いている。



   カカンカン ヒカカンカン カカンカン ヒカカンカン


   カカンカン ヒカカンカン カカンカン ヒカカンカン



「いきますか? 逃げますか?」と三谷が訊ねてきた。


 数の上では、絶対的に不利ともいえない。不慣れな地で逃走を試みるよりは、


「殺しましょう」


 レイジは答えて、熱井鯖人と眼を合わせた。野太刀を抜いた熱井が、レイジの方へ突進してきた。そしてレイジの投げた棒手裏剣を、左腕の手甲で弾いた。空手の手捌てさばき。


 琵琶の女もこちらへ来る。


 遠巻きに周囲を囲む半裸の男たちは、まだ動かない。


「15メートル!」とレイジは叫んだ。


「破ァ! Yes! 破ァ!」


 槍と曲刀を持った16人の寺生まれたちは展開し、半径15メートルの円周上に等間隔で並んだ。そのまま外側を警戒する構えだ。合唱を続ける男たちが突っ込んでくるようなら、寺生まれに足止めをさせる。


 寺生まれが作った輪の内側で、レイジたちは熱井と女を迎え撃った。


「チェスト!」


 熱井が大上段から振り降ろした野太刀を、レイジは両手で握った錫杖しゃくじょうで受けとめた。凄まじい打ち込み。野太刀は折れず、錫杖も斬れない。斬撃に続いて地面すれすれの軌道で足首を狙う爪先蹴りを、レイジは靴底で受けた。衝撃が腰で止まらず、首の後ろまで痺れた。心意拳しんいけんの〈刮地風かっちふう〉のように厄介な蹴りだ。


 棒手裏剣で横槍を入れてきたケラオに助けられ、レイジは熱井と距離を取った。ケラオには、こちらのフォローに専念してもらうことになりそうだ。琵琶の女は、リュートと三谷に挟まれた状態で互角の戦いを続けている。硬い桑の木のようなもので作られているのであろう薩摩琵琶は、攻防一体の危険な凶器と化している。両端の尖った巨大なばちも、人間の皮と血管を引き裂くには充分なものだろう。


 そのまま幾度かの攻防が繰り返された。2対4で勝てると見たか、熱井はまだ他の男たちを動かそうとしない。事実、レイジと熱井の接近戦は、回数を重ねるごとにレイジの不利があからさまになっていく。生半可な技術ではさばくことのできない薩摩の一撃を受け止めるごとに勁力けいりょくで押し負け、腕にも足腰にも、力が入らなくなってきた。レイジが斬り倒されれば、両軍の力関係の天秤は一気に傾いてしまうだろう。


 しかしレイジは既に、熱井鯖人の設計不良スキを見つけていた。熱井の体内には、少なくとも2種類の勁道けいどう――勁力の流れる路線が同居している。片方は明らかに琉球空手りゅうきゅうからての勁道。飛び道具から身を守るために用いられている。もう一方の攻撃用の勁道が、おそらく薩摩の剣術。その勁道は心意拳のものと似ていた。空手の勁道と心意拳の勁道は、相性がそれほど良くない。それぞれの勁理を高次のレベルで統合するためには、伝統に通じた師父の下で修行を積む必要がある。自見我慢じけんがまんの外道剣士に扱いこなせるような体系システムではない。


 レイジに対する攻撃と、ケラオの手裏剣に対する防御。それを繰り返すうちに、熱井の動きは鈍りつつあった。打ち込みの速度だけは、いっこうに衰える気配を見せないが、攻撃と防御の間に挟まる勁道の〈再配線つなぎかえ〉は、明らかに鈍重なものになっていた。


 ――ここだ!


 ここが勝負所だ。


 レイジは、あえてこれまでよりも大きく距離を取った。高速で後ろに退がりながら、寺生まれに命令を下した。


「3! 7! B! F!」


「破ァ! Yes! 破ァ!」


 ナンバーシステム。武器を地に投げ捨てた4人の寺生まれが円周を離れ、円の中心付近にいる熱井めがけて突進した。斬られることを全く恐れない寺生まれによる、多方面同時タックル。熱井鯖人は、レイジとケラオが同時に投げた棒手裏剣を弾いてから寺生まれの1人を斬ったが、あとの3人に組みつかれて膝をついた。


 それでもまだ凄まじい粘りで立ち上がろうとする熱井に向けて、レイジは拳銃を両手で構えた。これが熱井の剣の限界だ。超大国の軍隊はおろか、日本の警察署にも勝てはしない。集団タックルからの頭部射撃ヘッドショットで終了だ。もはや薩摩武士の時代ではない。


 しかし、


「レイジ! 撃つな!」


 リュートが大声でレイジを制し、レイジの指は止まった。


 いつのまに、何をどう判断して、駆け込んできたのか。レイジと熱井の間、射線上に、紅い花を髪に挿した子供――アニーサが立っていた。アニーサはレイジの方を向き、両腕を横に伸ばしている。熱井をかばっているようにしか見えなかった。


 周囲の合唱の声が止まっていた。琵琶の女は正座の形で大地に指をつけ、アニーサの方を向き頭を下げていた。


 レイジは拳銃をふところに収めなおした。射撃は苦手だ。殺すつもりではなかった相手が死ぬこともある。


 アニーサはレイジに背を向けて熱井のそばへ駆けより、何かよくわからないことを言った。


親父っ殿おやっどん、また、ミルクユー、来る、また、アンマー、帰る、ごわす」


「ミルクユー……」三谷がつぶやいた。「……弥勒の世! 沖縄の言葉です! また弥勒の世が来れば、アンマーははおやが帰ってくると言っています!」


 そう解釈できないこともないのかもしれない。


 アニーサは自分の髪から紅い花を抜き、熱井に向けて差し出した。


 その花は、アルカディアハイビスカス。


 ハイビスカスは沖縄では「後生花ぐそうばな」とも呼ばれ、薩摩藩主が徳川家康に献上したそれは「仏桑華ぶっそうげ」と呼ばれた。洋の東西を問わず、熱帯を象徴する花として愛玩あいがんされ、無数の人工品種が産み出された。アルカディアハイビスカスもその品種の一つだ。多くの近縁種とは違い、夕刻に咲き明け方にはしおれる花である。


 そしてアルカディアハイビスカスの花言葉は――「私を殴らないで」。


「どこへ行ったのかと思えば、くだらぬ物を」


 次の命令を待つ寺生まれたちを振り払った熱井鯖人は、その花を受け取らず、アニーサに背を向けて立ち去った。最後に見えた両眼からは、あれほど明確だった殺意の印象がすっかりと抜け落ちていた。アニーサは、花をふたたび髪に挿し、和装の女の脇に置かれた琵琶と撥を拾った。


 アニーサの奏でる四弦四柱の薩摩琵琶から、新たな曲が流れ出した。


 軽く陽気で、どこか懐かしさを感じさせる旋律。


「秘曲『無原罪の大地母神スーパーマリア』――!」と三谷が言った。


 何者かによってネットで配信されていたそれは、レイジの記憶にもある曲だった。


 突如として大地が細かく震動を始め、はっきりとした地鳴りの音まで聴こえてきた。


 遠巻きに周囲を取り囲む男たちが「ウーッ!」と声を上げ、いっせいに何かを投げてきた。亀の甲羅とバナナの皮だった。


 山なりに飛んでくるそれらに、攻撃と呼べるほどの弾速は無い。


「これは……」と三谷がとまどうように言った。


「そろそろ帰れってことなんじゃねえの?」とリュートは言い、レイジの肩を叩いた。


 レイジはうなずき、「撤収!」と叫んだ。


「破ァ! Yes! 破ァ!」


 リュートは、「俺たちの勝ちだからな! わかってんよな!」と念を押してから、甲羅や皮の飛びかう場を背にして走りだした。


 三谷はそれに続いて小走りで駆けながらまた振り向き、熱井の去っていった方角に向けて、「これで終わりじゃありませんからね! そちらの非が確定したら必ず殺しに来ますよ! その前に誠意! 何らかの誠意を見せてください!」と未練がましく言っている。


 寺生まれの残存数は15。レイジたちの宗派では、寺生まれの殺害に対して報復措置をとることは無い。誰の師父おやでもなく誰の弟子でもない寺生まれの命は、寺同士の争いがエスカレートすることを防ぐための緩衝地帯のような命である。


 寺生まれを師兄弟きょうだいのように扱ってはならない。レイジたちもまた、寺生まれとは役目の異なる部品として働くように訓練されていた。


 そして今回の勝利は、レイジでもなく、リュートでもなく、寺生まれの勝利と言うべきものだった。信者たち、あるいは弟子たちの前で最強の神として戦おうとした熱井鯖人に、寺生まれが勝ったのだ。


 ジャングルを抜け、浜辺のボートを見つけた時、空が急に明るくなった。


 島の中央部にあるという活火山が、火を噴いていたのである。





 その後に起こった事をどう解釈すればいいのか、レイジにはわからない。


 偶然なのか、計算されたものなのか。もしかすると、びの印であるのか。


 船旅を終えたレイジたちが寺に戻ってから3日後の早朝、寺の近くの砂浜に5つのひつぎが流れ着いていたのだ。


 木で作られた直方体の中には、メッテヤ島で死んだ寺生まれの死体が納められていた。


 内臓を抜かれい合わされた死体の胴部には、大量の覚醒剤が詰められており、末端価格は56億7千万円だった。



 (終)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

無有恐怖(ムーウークーフ) トロピカル因習アイランド篇 トロピカル因習数学者 vs. 寺生まれ 水山天気 @mizuyamatenki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る