3. アイランド
あちらこちらで半裸の男たちが
彼らが飛び道具を構えている様子はない。レイジはあえて焚火を消さずそのままにしておき、さらに周囲を観察した。
半裸の男たち以外にも、和装の男と女が1人ずついる。
長い黒髪で両目を隠した和装の女は、地に座り凄まじい速さで
それに合わせて男たちの合唱。
カカンカン ヒカカンカン カカンカン ヒカカンカン
カカンカン ヒカカンカン カカンカン ヒカカンカン
女の横に立つ和装の男は、腰に刀を差している。頬には3つの
「
三谷が大声で叫んだ。
「いかにも。私が熱井鯖人だ」
総白髪の異端数学者は、琵琶と合唱の音圧をものともしないほどの強い声を返してきた。
「「ごわす」とか言わねえんだ」とリュートが言った。
「うぬらがごとき弱者に対して礼儀は不要。今回は先に抜かせてやる。抜刀せい」
「誰が弱者だコラ!」
「リュート! 落ち着け!」
レイジはリュートの右肩をつかんだ。リュートはジャージのポケットから手を抜き、紅い花を髪に
うわずった声で三谷が叫んだ。
「交渉の余地はありませんか⁉ 御相談したいことがあるんです!」
熱井は、無いことも無い、と答えてから、
・薩摩武士1人 ⊕ 弥勒1体 =
毛筆の大きな文字で巻物に書かれていたのは、右辺の欠けた数式だった。
「
レイジが呟くと、三谷も声を上げた。
「
「それはさすがに知ってます」
「聞いてくださいレイジさん! われわれ
「だからそれが今なんなんですか!」
「すごいなって話です! 私はそこにキリスト教徒の世界戦略を支えた
「邪教の話はどうでもいい!」
「でしたら弥勒に戻りましょう! 見てくださいレイジさん! 「弥勒」と確かに書いてあります!」
それは確かにそうである。島の歴史もクソもないゴミ数学の式だが、交渉相手になるかもしれない相手が示した文字ではある。唐突に弥勒が出てきたので面食らったが、関係ないと片づけるのは間違っていた。
戦闘になるかならないかという瀬戸際の時間が、レイジは苦手である。言語機能は運動機能と、脳のリソースを奪い合う。交渉になるのなら、それは三谷に任せたほうがよさそうだ。
「うぬら僧兵にも、違いというものがあるようだな」
「基本的には皆、平和と和平を重んじる人間ですよ。御理解ください」
「やはり、密輸のことしか考えておらぬ
「それはおそらく、よその寺の
「何人かは武者修行に出した。後は知らん」
「はあ、さようで」
「で、弥勒は手に入るのか?」
「は?」
「うぬら、弥勒には詳しいのだろう? 既にこの世に来ている弥勒がいるはずだ。もう少し足を延ばしてこの島に来るよう
「いや……何をもって弥勒と呼ぶかについての見解にも、それはもう様々なものがございまして……」
「弥勒は弥勒だろう。どれでもよい。いや、強い弥勒ほど早く来ているものだと聞いた。今いる弥勒を連れてこい」
――最速弥勒最強説を知っているのか⁈
レイジたちの前にこの島を訪れた僧兵から訊き出したのだろうか。
遠い昔、自分独りで真理を悟った
その一つ。
ヨーロッパの騎士修道会がアジアから持ち去った経典の一つだ。略して『
――いや、「実際」というのはおかしい。
脳裏に流れた偽経の文字を、レイジは打ち消した。あやうく偽経作者の妄念に呑まれるところだった。
どうも熱井鯖人は、書かれた文字と現実との関係について、レイジたちとは大きく異なる考え方をしているように思われる。九州の僧兵たちに近いような気もするが、ここまで仕上がっている人間は見たことがない。
こんな相手との交渉が、うまくいくはずもない。
できる事といえば、大きな嘘を通して一旦
「……少々お時間をいただけますか?」
そんな言葉を返すしかなかった三谷を、レイジは責める気にもなれなかった。結局、話の通じる相手ではないのだ。そして、弥勒をここへ連れてくることも、もちろんできない。釈迦の死後800年であれ、56億7千万年であれ、あるいは弥勒の
しかし、それを熱井が理解することはないのだろう。彼は薩摩武士であり数学者である。彼には〈時間〉が無い。刹那の生死か永遠の関係しか無い。この世に生きるほぼ全ての人間は、つまるところよくわからない〈時間〉というものがあたかも有る「かのように」生きており、その裏返しで不変の文字を組み立て夢を仮構したりもするのだが、初めからそうする必要が無い者もいる。過ぎ去ったものと今あるものと未だ来たらざるものとを区別して生きる必要の無い者がいる。熱井鯖人は明らかにそちらの側の人間だ。むしろ、彼が弥勒という未来仏などに関心を持ったことの方が不思議なくらいである。
「もうよい。何も無かった」
熱井鯖人がそう言うと、半裸の男は巻物を閉じ、和装の女は琵琶の手を止めて立ち上がった。
薩摩琵琶の音がやんでも、合唱の声は続いている。
カカンカン ヒカカンカン カカンカン ヒカカンカン
カカンカン ヒカカンカン カカンカン ヒカカンカン
「いきますか? 逃げますか?」と三谷が訊ねてきた。
数の上では、絶対的に不利ともいえない。不慣れな地で逃走を試みるよりは、
「殺しましょう」
レイジは答えて、熱井鯖人と眼を合わせた。野太刀を抜いた熱井が、レイジの方へ突進してきた。そしてレイジの投げた棒手裏剣を、左腕の手甲で弾いた。空手の
琵琶の女もこちらへ来る。
遠巻きに周囲を囲む半裸の男たちは、まだ動かない。
「15メートル!」とレイジは叫んだ。
「破ァ! Yes! 破ァ!」
槍と曲刀を持った16人の寺生まれたちは展開し、半径15メートルの円周上に等間隔で並んだ。そのまま外側を警戒する構えだ。合唱を続ける男たちが突っ込んでくるようなら、寺生まれに足止めをさせる。
寺生まれが作った輪の内側で、レイジたちは熱井と女を迎え撃った。
「チェスト!」
熱井が大上段から振り降ろした野太刀を、レイジは両手で握った
棒手裏剣で横槍を入れてきたケラオに助けられ、レイジは熱井と距離を取った。ケラオには、こちらのフォローに専念してもらうことになりそうだ。琵琶の女は、リュートと三谷に挟まれた状態で互角の戦いを続けている。硬い桑の木のようなもので作られているのであろう薩摩琵琶は、攻防一体の危険な凶器と化している。両端の尖った巨大な
そのまま幾度かの攻防が繰り返された。2対4で勝てると見たか、熱井はまだ他の男たちを動かそうとしない。事実、レイジと熱井の接近戦は、回数を重ねるごとにレイジの不利があからさまになっていく。生半可な技術では
しかしレイジは既に、熱井鯖人の
レイジに対する攻撃と、ケラオの手裏剣に対する防御。それを繰り返すうちに、熱井の動きは鈍りつつあった。打ち込みの速度だけは、いっこうに衰える気配を見せないが、攻撃と防御の間に挟まる勁道の〈
――ここだ!
ここが勝負所だ。
レイジは、あえてこれまでよりも大きく距離を取った。高速で後ろに退がりながら、寺生まれに命令を下した。
「3! 7! B! F!」
「破ァ! Yes! 破ァ!」
ナンバーシステム。武器を地に投げ捨てた4人の寺生まれが円周を離れ、円の中心付近にいる熱井めがけて突進した。斬られることを全く恐れない寺生まれによる、多方面同時タックル。熱井鯖人は、レイジとケラオが同時に投げた棒手裏剣を弾いてから寺生まれの1人を斬ったが、あとの3人に組みつかれて膝をついた。
それでもまだ凄まじい粘りで立ち上がろうとする熱井に向けて、レイジは拳銃を両手で構えた。これが熱井の剣の限界だ。超大国の軍隊はおろか、日本の警察署にも勝てはしない。集団タックルからの
しかし、
「レイジ! 撃つな!」
リュートが大声でレイジを制し、レイジの指は止まった。
いつのまに、何をどう判断して、駆け込んできたのか。レイジと熱井の間、射線上に、紅い花を髪に挿した子供――アニーサが立っていた。アニーサはレイジの方を向き、両腕を横に伸ばしている。熱井をかばっているようにしか見えなかった。
周囲の合唱の声が止まっていた。琵琶の女は正座の形で大地に指をつけ、アニーサの方を向き頭を下げていた。
レイジは拳銃を
アニーサはレイジに背を向けて熱井のそばへ駆けより、何かよくわからないことを言った。
「
「ミルクユー……」三谷がつぶやいた。「……弥勒の世! 沖縄の言葉です! また弥勒の世が来れば、
そう解釈できないこともないのかもしれない。
アニーサは自分の髪から紅い花を抜き、熱井に向けて差し出した。
その花は、アルカディアハイビスカス。
ハイビスカスは沖縄では「
そしてアルカディアハイビスカスの花言葉は――「私を殴らないで」。
「どこへ行ったのかと思えば、くだらぬ物を」
次の命令を待つ寺生まれたちを振り払った熱井鯖人は、その花を受け取らず、アニーサに背を向けて立ち去った。最後に見えた両眼からは、あれほど明確だった殺意の印象がすっかりと抜け落ちていた。アニーサは、花をふたたび髪に挿し、和装の女の脇に置かれた琵琶と撥を拾った。
アニーサの奏でる四弦四柱の薩摩琵琶から、新たな曲が流れ出した。
軽く陽気で、どこか懐かしさを感じさせる旋律。
「秘曲『
何者かによってネットで配信されていたそれは、レイジの記憶にもある曲だった。
突如として大地が細かく震動を始め、はっきりとした地鳴りの音まで聴こえてきた。
遠巻きに周囲を取り囲む男たちが「ウーッ!」と声を上げ、いっせいに何かを投げてきた。亀の甲羅とバナナの皮だった。
山なりに飛んでくるそれらに、攻撃と呼べるほどの弾速は無い。
「これは……」と三谷がとまどうように言った。
「そろそろ帰れってことなんじゃねえの?」とリュートは言い、レイジの肩を叩いた。
レイジはうなずき、「撤収!」と叫んだ。
「破ァ! Yes! 破ァ!」
リュートは、「俺たちの勝ちだからな! わかってんよな!」と念を押してから、甲羅や皮の飛びかう場を背にして走りだした。
三谷はそれに続いて小走りで駆けながらまた振り向き、熱井の去っていった方角に向けて、「これで終わりじゃありませんからね! そちらの非が確定したら必ず殺しに来ますよ! その前に誠意! 何らかの誠意を見せてください!」と未練がましく言っている。
寺生まれの残存数は15。レイジたちの宗派では、寺生まれの殺害に対して報復措置をとることは無い。誰の
寺生まれを
そして今回の勝利は、レイジでもなく、リュートでもなく、寺生まれの勝利と言うべきものだった。信者たち、あるいは弟子たちの前で最強の神として戦おうとした熱井鯖人に、寺生まれが勝ったのだ。
ジャングルを抜け、浜辺のボートを見つけた時、空が急に明るくなった。
島の中央部にあるという活火山が、火を噴いていたのである。
その後に起こった事をどう解釈すればいいのか、レイジにはわからない。
偶然なのか、計算されたものなのか。もしかすると、
船旅を終えたレイジたちが寺に戻ってから3日後の早朝、寺の近くの砂浜に5つの
木で作られた直方体の中には、メッテヤ島で死んだ寺生まれの死体が納められていた。
内臓を抜かれ
(終)
無有恐怖(ムーウークーフ) トロピカル因習アイランド篇 トロピカル因習数学者 vs. 寺生まれ 水山天気 @mizuyamatenki
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