マニュアル

日乃本 出(ひのもと いずる)

マニュアル


 人類の植民星を探すという任務を帯びたエヌ氏は、星から星へと常に旅していた。

 宇宙というものは、人類の常識が通用しない無限のフロンティアである。それゆえ、このような過酷な任務につく人間というものは、厳しい訓練を積み、それでいていかなる状況にも決してあせったりすることのない冷静な精神が求められる。

 エヌ氏はその両方を兼ね備えた、いわばエキスパートであった。

 事実、宇宙船の修理のために荒れ果てた荒野のみが広がる星に不時着するはめになった時も、危険な食人植物の存在する星の調査を行わなければならなかった時も、エヌ氏はそれを持ち前の合理的かつ的確な判断の元、切り抜けてきたのだった。


「さて、次の星への航路はどうなっているかな……」


 操縦席のスイッチをいくつか押し、エヌ氏は目標とする星の航路の立体図を操縦桿の上へと映し出した。エヌ氏がその立体図に目線を移した時だった。

 すさまじい衝撃が船内を揺らして操縦席からエヌ氏を転げおとした。次いで爆発音のようなものがエヌ氏の耳に聞こえた。


「なにごとだ?!」


 エヌ氏は急いで操縦席に座りなおし、スイッチを操作して宇宙船内外のチェックを始めた。すると、すぐに異常のある箇所が発見された。


「なんということだ……」


 いかなる困難に立ち向かってきたエヌ氏も、さすがに青ざめた。なんと、宇宙船の推進装置が吹っ飛んでしまっているのだ。状況から考えておそらく、高速で飛来した隕石にでも衝突してしまったのだろう。これでは宇宙船は航行不能に陥ってしまい、そしてそれは広大なる宇宙での遭難を意味する。


「どうしたものか……」


 事態を打開するために、エヌ氏は操縦席の座席の下からある分厚い冊子を取り出した。

 その冊子の表紙には“想定外事象緊急対策マニュアル”と書かれてあった。この冊子はエヌ氏の所属する機関が作成した、緊急時における対策を網羅した冊子で、様々な事象についての対応策がびっしりと書き込まれているという代物だ。

 実をいえば、先ほど挙げたエヌ氏の星々での活躍の半分はこの冊子のおかげであった。もちろん、書かれてあることに対応できる能力がエヌ氏に備わっていたからこそ、星々での活躍ができたことはいうまでもないが、ともかくエヌ氏はこの冊子に何度も窮地を救われ、エヌ氏はこの冊子に絶大な信頼をおいていた。

 エヌ氏は冊子をめくり、今の状況を打開するための対応策が書かれているページを探した。ほどなくして、“宇宙空間を航行中に推進装置がなんらかの理由で破損した場合の対処法”というページを見つけた。


「なになに……まずは破損がどれほどのものであるかを把握することが重要です。操縦席のコンピューターで破損箇所を調べ、それでも不明瞭だった場合は船外活動にて実際にその目で見て確認しましょう。その後に、破損の度合いによって対処法を考えるのです」


 声に出して読みながら、エヌ氏はいつもながらではあるが、このマニュアルに書かれていることに感心した。


「なるほど。合理的かつ的確な判断だ」


 エヌ氏はマニュアルに従うべく、コンピューターで破損箇所を調べようとして苦笑した。ここの部分は飛ばしてもよいことに気づいたのだ。推進装置そのものが吹っ飛ばされていることは、すでにもう確認しているのだから。

 エヌ氏はマニュアルの中の“推進装置が完全にやられている場合は四ページ先を参照のこと”という指示に従いページをめくった。


「なになに……これはかなり深刻な問題です。ですが、ここで焦ってはいけません。ここで冷静な動きができるかどうかでこれからの運命が決まってまいります。まずは、補助推進装置が作動するかどうかを確認してみましょう。それが作動するかどうかで対処法を考えるのです」


 エヌ氏はうなずいた。


「なるほど。合理的かつ的確な判断だ」


 マニュアルを一旦よこに置いて、エヌ氏は操縦桿のそばにある補助推進装置のスイッチを押した。しかし、スイッチを押しても補助推進装置が作動することはなかった。エヌ氏は嫌な予感を抱きつつも、よこに置いたマニュアルを手にとって“補助推進装置が作動しなかった場合”の対処法を参照しはじめた。


「なになに……ここで重要なのは、補助推進装置がなぜ作動しないのかという原因です。補助推進装置そのものに問題があるのか、それとも燃料装置や電気系統に問題があるのか、それをはっきりさせなければなりません。操縦席のコンピューターを操作し、原因を究明しましょう」


 エヌ氏はうなずいた。


「なるほど。合理的かつ的確な判断だ」


 マニュアルをひざの上に置いて、エヌ氏は作業にとりかかった。

 どうやら、補助推進装置には問題がないらしいということがわかった。とすると、次に疑うべきは燃料装置だ。エヌ氏は燃料装置に問題がないかを調べ始めた。

 すると、燃料装置の中の燃料が全て流失していることがわかった。さきほどの衝撃の際に燃料貯蔵タンクに傷でもつくかして、外に流れだしてしまったのだろう。

 この事実にエヌ氏は絶望的な気分におちいった。補助推進装置がいくら正常に動作しようとも、それを動かす燃料がなければどうしようもないではないか。そしてそれはさきほどからエヌ氏の頭の中にちらついていた遭難という嫌な予感を事実として決定づけることにもなる。エヌ氏はすがるような思いでひざの上のマニュアルを手に取った。


「なになに……そうなると、自力での帰還は遺憾ながら不可能であると断定せざるをえません。しかし、ここで絶望してはいけません。自力での帰還が不可能ならば、助けを呼べばよいのです。まずは付近に他の宇宙船がいないかを調べてみましょう。その結果しだいで次の行動をきめるのです」


 エヌ氏はいくらか気分を和らげてうなずいた。


「なるほど。合理的かつ的確な判断だ」


 さっそくエヌ氏は付近に他の宇宙船の反応があるかどうかを調べ始めた。だが結果はおもわしくなかった。付近に宇宙船の反応はなかったし、操縦桿の上に出ている航路の立体図を見る限りでは、この近辺に宇宙船が通る可能性は限りなくゼロに近いことがわかったからだ。

 エヌ氏はまたも絶望しかけたが、なんとか気持ちを奮い立たせてマニュアルのページをめくった。


「なになに……とすると、地球の本部へと超長距離電波で救難信号を出すことが最良の選択でしょう。あなたの現在位置を宇宙船のコンピューターの航路記録装置から割り出し、それと救出を求める短文を超長距離電波に乗せて地球へと発信するのです。救助までに時間はかかるかもしれませんが、安全かつ確実にそれがおこなわれることでしょう」


 エヌ氏は先ほどまで感じていた絶望を打ち消し、変わりに希望に満ちる心やすらぐ気持ちでうなずいた。


「なるほど。合理的かつ的確な判断だ」


 エヌ氏は航路記録装置から現在位置を割り出し、その結果とSOSという短い言葉を地球に向けて発信しようとした。

 だが、またも問題が発生した。

 なんと、超長距離電波を発信するためのアンテナが折れてしまっていて使い物にならないことがわかったのだ。これでは地球に向けて救助を求めることはできない。

 まさに、万事休すとはこのことだ。だが、マニュアルにはまだ続きがある。おそらく、こんな状況でもこのマニュアルなら何か対応策を提示してくれるに違いない。今までもどんな絶望的状況になっても、このマニュアルは自分を助けてくれた。今度もきっとそうしてくれるに違いないのだ。エヌ氏は重々しい動作でマニュアルのページをめくった。


「なになに……それも無理だとなると、最後の手段しかありません。すなわち、冬眠状態となる薬を飲んで、いつか誰かが発見してくれることを願って長い眠りにつくのです。しかし、絶望してはいけません。これはあくまでも、死を迎えるための眠りではなく、いつか訪れる生還への輝かしい未来を迎えるための眠りなのですから」


 ここにいたって、エヌ氏は覚悟を決めてうなずいた。


「なるほど。合理的かつ的確な判断だ」


 マニュアルを操縦席におき、エヌ氏は自分の部屋へと向かった。机の上から薬箱をとり、それを持ってベッドの上へと座る。


「さて……一世一代の大バクチだな」


 自嘲気味に呟きながら薬箱をまさぐる。しかし、目当ての薬が見つからないので、仕方なくエヌ氏は薬箱をひっくり返してベッドの上に薬箱の中身をぶちまけた。

 一つ一つ薬をあらためていって、最後の一つをあらため終わった時、エヌ氏は真の絶望を味わった。

 冬眠状態となる薬がなくなっているのだ。エヌ氏は頭をかかえ、必死に記憶をたどった。そして以前に凶暴な原生生物から逃げ出すときに、相手に薬を飲ませて冬眠状態にさせて難を逃れたことを思い出した。

 慈悲のかけらもない過酷な現実を前に、エヌ氏はただただ呆然とした。そしておぼつかない足取りで操縦席へと向かい、おいてあったマニュアルを手に取った。

 すると、開いてあったページの隅に“もし冬眠状態となる薬がない場合は二ページ先を参照のこと”という記述があるのを見つけた。エヌ氏は急いでページをめくった。


「なになに……なるほど。とすれば残された道はただ一つだけです。すなわち、長い苦しみより一瞬の閃光。このまま全ての希望を絶たれたまま長い苦しみを味わいながら朽ちてゆくより、一瞬の閃光にてそれを終わらせるのが最善ではないでしょうか」


 エヌ氏はゆっくりとうなずいた。


「なるほど。合理的かつ的確な判断だ」


 エヌ氏はためらうことなく、宇宙船の自爆スイッチを押し、宇宙空間に大輪の華を咲かせた。

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