瞳のなかの熾火

青川志帆

瞳のなかの熾火



 いつからか、「どうやら女を不幸にする家系に生まれたらしい」ということに気づいた。


 父は会社員だったはずなのに、伊吹いぶきが三つのときに上司を殴って会社を辞めて、高校生のときの「悪い先輩」に誘われるがままに、ヤクザになった。


 父はヤクザになったことによって気が大きくなり、母を殴るようになった。


 息子の伊吹も何度か殴られたが、母や祖母がかばってくれたおかげで、そこまでひどい目には遭わなかった。


「お母さん。どうして、お父さんと離婚せえへんの?」


 小学生にあがったばかりのとき、疲れ切った顔で洗濯物をたたむ、夜勤明けの母に尋ねたことがある。


 離婚という言葉は、クラスメイトから教わった。そのクラスメイトだった女子は、両親が離婚したばかりだということを、誰彼構わず話しまわっていたのだ。


 どうして、彼女がそんなことをしたのかは伊吹にはわからなかったが、なんらかの衝動に駆られたのだろう。


「伊吹には、わからへんよ」


 はねつけるように言って、母は対話を拒んだ。


 


 母は看護師で、収入の安定しない父に代わって家計を支えるために忙しく働いていた。父は、滅多に帰ってこなかった。


 自然と、伊吹の世話は祖母がするようになっていた。


 祖母は父の母で、いつも伊吹に優しかった。


 いつの頃からだろう。伊吹に、語り聞かせるようになったのは。


「あんたのおじいさんはな、オランダ人やったんや。せやから、あんたの髪は薄茶色。目は、赤茶色。天然の色やで。ほんと、きれいやな」


 祖母は伊吹によく膝枕をして、髪を撫でてくれた。


「じいちゃんは、どこにおるん?」


「……オランダや。帰ってしもた。日本に戻ってきて、あたしをオランダに連れてってくれる、言うたのにな……」


 祖母は、仕事でオランダから来た祖父と恋をした。一時滞在だったのに、あろうことか祖父は祖母をはらませ、そのままオランダに帰ってしまった――という、なんともひどい話だった。


 だが、祖母は思い出話で祖父をなじることはなかった。


「ばあちゃんがオランダに行ってみたら、よかったんちゃう?」


「アホ。昔は、海外旅行はびっくりするほど高かったんや。息子を産んで、育てて生活するだけで手一杯やったわ。それに、わかるのは名前だけ。住所でも聞いといたら、よかった。アホは、あたしもやな……」


 怒る言葉はないのに、祖母の黒い目の奥には、たしかに怒りがあった。ひそかに、祖母は怒っていたのだ。ずっと。


 その怒りは、静かに燃える火のようだと、伊吹は思った。




 怒りは、うつるのだろうか。


 中学生になった伊吹は、反抗期に入ったからか、いつもどこかイライラしていた。


 中学校の教師は厳しく、天然の髪色だというのに、再三染めろと言ってくる。


 同級生は伊吹の父親がヤクザであることを知って、遠巻きにしたり、逆にへつらったりする。


 全てが腹立たしく思えた。


「お前、調子乗っとうみたいやな」


 三年生に呼び出されたのは、五月のことだった。


 別に調子に乗っているわけでもないが、いきなり人気の無い校舎裏で殴る蹴るの暴行を受けたとき、伊吹は怯えたりはしなかった。


 ただ、「これでモヤモヤした思いを発散できる」と思い、へらへら笑う三年生三人組に、殴りかかった。


 祖父の血のせいか、伊吹は体格がよかった。そのおかげか、不意打ちだったからか、三対一にもかかわらず、伊吹は喧嘩に勝利した。


 逃げる三人を追うことはせず、まっすぐ家に帰った。


 家に入ると、迎えに出てきた祖母が金切り声をあげた。


「伊吹、病院行かな。そんなにボロボロで、どうしたん」


「……病院は、ええ。喧嘩ふっかけられたから、相手しただけや」


「伊吹! あかん。あかん……義満よしみつみたいに、ならんといてや」


 父親の名前を出して、祖母がわめく。


 伊吹は祖母を無視して、洗面所に向かって顔を洗おうとした。


「……うわあ」


 鏡のなかには、ひどい面相の男がいた。


 まぶたや頬は腫れていて、口の端や鼻からは血が流れている。


 とにかく顔を洗った。傷に水が染みて、痛かった。


 救急箱にあった傷テープや湿布で応急処置をして、病院には行かなかった。




 夜、眠っていると、祖母が母に話している声が耳に入ってきた。


「伊吹、喧嘩した言うてた。どうするん、義満みたいになったら」


「お義母さん。伊吹は、優しい子です。ヤクザにはなりませんよ」


「義満やって、昔は優しい子やった! あんたも、知っとうやろ。義満も、ヤクザになるまでは優しい男やったやないか……」


「…………わかりました。伊吹に、注意します」


 ふたりの会話を聞きながら、寝返りを打つ。


 起き上がって、居間に出ていって「親父みたいにはならへんから」とでも言えば、ふたりは安心するのだろうか。


 そう考えたが、起き上がるのも億劫だった。


 傷のせいだろうか。少し、熱が出ている気がした。


 


 翌朝、祖母に心配されながらも伊吹は学校に行った。


 少し腫れは収まったとはいえ、明らかに傷ついた顔面を目にしてクラスメイトは伊吹を遠巻きにした。


「伊吹。お前、大丈夫か?」


 友人の俊介しゅんすけが話しかけてきた。


「おう。大丈夫や」


「何があったん? その顔」


「三年に呼び出されて、喧嘩ふっかけられた。それで、相手した」


「うわあ。災難やったな。勝ったん?」


「一応」


「…………せやったら、また喧嘩売られるかもしれんな。気いつけや」


 気をつけろと言われても、どう気をつければいいのだろう。


 むすっとしている内に、ホームルームが始まって担任教諭が入ってきた。


 再三、伊吹の髪を注意している彼は、伊吹を見て「それ見たことか」と言わんばかりの嘲笑を浮かべていた。


 学校から帰って母と顔を合わせたが、母は何も言わなかった。


 


 いつからか、葛原かずはら伊吹は札付きの悪だ、という噂が流れ始めた。


 父親がヤクザであるせいもあり、伊吹は恐れられるようになり、他校生からも喧嘩を売られるようになった。


 目立つ容姿をしているせいもあるのだろう。


 大きいようで小さい、この港町で。伊吹の悪い評判は、あっという間に広がっていった。


 誰に習ったわけでもないのに、運動神経のよい伊吹は回数をこなす内に喧嘩のやりかたを身につけていった。


 一度、相手を骨折させてしまったことがあったが、それ以外はひどい怪我を負わすことなく喧嘩に勝つようにした。


 逃げる、という選択肢は浮かんでこなかった。


 ちょうどよかったのだ。鬱屈とした感情と、行き場のない、出所のわからない怒りを発散するのには。




 中学三年生になった伊吹は、考え事をしながら帰宅した。


 今日、進路調査票が配られた。


 どの高校にしよう。成績はそこまで悪くない。しかしトップクラスというわけでもないし、進学校は肌に合わないだろう。


 私立に行くつもりはなかった。自分の家が裕福でないことは、知っている。


「おかえり、伊吹」


 祖母が台所を掃除しながら、声をかけた。


「……ただいま。起きとって、ええんか?」


 最近、祖母は昼夜問わず寝ていることが多かった。


 病気なわけではなく、単に調子が悪いだけだと言って笑っていたが、伊吹はひそかに案じていた。病院にも行っていたから、心配する必要はないと、わかっていても。


「今日は、調子ええみたいや。……なんか、伊吹の顔ちゃんと見るの久しぶりやなあ。ごはんも、あたしは部屋で食べてたし」


「……せやな」


 祖母はまぶしげに目を細めて、伊吹に近づいて見上げてきた。


「ああ……。伊吹、あんたはおじいさんにそっくりやわ。あんたのお父さんより、ずっと」


 ロドルフ、と祖母の唇から祖父の名前が零れ出た。


 また、祖母の目に火のようなものが見える。


「……ばあちゃん。親父にも、そういう目をして、思い出話したんやな」


「そういう、目? 何を言うとん?」


「いや、何でもない」


 伊吹は首を振って、自室へと早足で向かった。


 扉を閉めて、息をついて床に座り込む。


 祖母は、祖父に怒りを見せない。だが、ひそかに激しく憤っている。


 それが、伊吹には伝わってきた。


 父もそうして、育てられたのだろう。きっと父も、行き場のない怒りに苦しめられたのではないだろうか。


 だから、堂々と暴力を振るえるところに行ってしまったのではないか。


「……元凶は、ばあちゃんやったか」


 嫌な言い方だとわかっていても、呟かずにはいられなかった。




 伊吹は、できるだけ自由な校風の公立高校を選んで、受験した。


 滑り止めの私立は、受けなかった。


 勉強はしっかりしていたし、自分の成績では余裕をもって合格できるレベルの高校を選んだからだ。


 無事に合格し、伊吹はひそかに決めた。


 喧嘩は、ふっかけられない限り、やらない。ふっかけられても、どうしても逃げられない、というとき以外は逃げる。


 暴力から遠ざかるのだと決めて、伊吹は高校生活を始めた。


 しかし残念ながらそこまで大きくない町だからか、同じ中学出身の者がいたからか、伊吹の噂はすぐにめぐった。


「親父がヤクザって、ほんま?」


 無邪気に、そう聞いてくる者も絶えなかった。


 一度ついた評価は、そうそう拭えないものだと知り――伊吹は思い悩んだ。


 


 五月のことだった。伊吹を恐れず友達になってくれた田上たがみと、教室で弁当を食べていると、彼がふいに尋ねてきた。


「伊吹って、ハーフなん?」


「いや……なんていうんやったかな。四分の一……――クォーター?」


「おお、やっぱりそうなんや。いやあ、最初はその髪染めてるんかと思っとったんやけど、全然根元が黒くならんから……天然なんやなあ、って思って。おとんとおかんの、どっちがハーフなん?」


 この高校は派手すぎる色でなければ染髪が許されているので、染めている生徒も少なくない。伊吹もそういったひとりと思われたのだろう。


「親父。親父は、俺ほど髪が茶色くないな。ちょっと茶色いけど。じいちゃんが、オランダ人なんや」


「へー。クォーターのが、劣性遺伝の特徴が出ることがある、ってほんまなんやなあ」


 田上は感心したように、伊吹の髪をしげしげと眺めていた。


「じゃあ、オランダに里帰りとかするん?」


「まさか。行ったこともない。実はな、俺のばあちゃんはじいちゃんに捨てられたんや」


 淡々と祖母の境遇を語ると、田上は目を見開いて、弁当を食べる手を止めていた。


「そら、ひどい話やなあ。捜さへんかったんか」


「捜す? 無理や。ばあちゃんは、女手ひとつで親父を育てて、手一杯やったやろうし。大体、名前しかわからん相手、どうやって捜すんや」


「……インターネットなら、見つかるかもしれへん」


 田上は、思いついたように呟いた。


「ネットで? どうやって」


「掲示板とか、SNSで。じいさんの名前と、日本に来てた年代を書き込んだら、見つかるかもしれへん。もちろん、見つからへん可能性もあるけどな。やってみようや」


 田上に誘われ、伊吹は自分でも知らないうちに頷いていた。


 


 前から、思っていたのだ。


 祖母の怒りは、本人にぶつけられることがないままねじくれ、秘められたせいで、あのような消えない火になってしまったのではないかと。


 怒りの火は静かに祖母から父に伝わり、伊吹にも伝わった。


 だから、祖母はきちんと祖父に怒るべきなのだと――。


 


 放課後、田上の家に行って、ふたりでノートパソコンの画面を覗き込んだ。


 田上は、あらゆる手段で捜そうとした。


 SNSのアカウントを新規に作り、『祖父を捜している。○○年に仕事で日本に来ていたオランダのロドルフ・デ・フィッセルという名前の人物を知らないか』とツイッターで、インスタグラムで、フェイスブックで、呼びかけた。


 人捜しのハッシュタグを付け、ふたりで顔をつきあわせて電子辞書を引きながら、英語で文面を考えた。


 オランダの人捜しの英語掲示板を見つけ、そこにも投稿した。




 反応があったのは、三日後――。掲示板に、書き込みがあった。


『私の近所に住んでいるおじいさんが、同じ名前で、ずいぶん前に日本で仕事をしていたと聞いた。日本語も上手で、臨時で日本語講師をしていたこともあったらしい』


 その情報に、伊吹も田上も色めき立ち、『もっと情報がほしいので、是非メールで情報交換してほしい。フリーメールでも全然構わない』


 と、掲示板に書き込み、取得したばかりのフリーメールアドレスを記載した。


 スパムメールが来ることもあるだろうと思い、スマホには連携しなかったので、田上のパソコンを起動させないと返事が見られない。


 次の日、田上の家に行ってメールを確認したがメールは来ていなかった。


 落胆しながらも、翌々日に田上の家でパソコンを起動し、ブラウザでメールを開く。


「届いとう!」


 田上が叫び、伊吹はパソコンの画面を凝視した。


 ふたりは電子辞書を片手に、メールの文章を読み解く。


『ハイ。私はアンネマリー。掲示板のmarieよ。大学生で、近所のロドルフさんとはよく顔を合わせるわ。そちらの情報もちょうだい』


「伊吹、お前が返信書け」


「わ、わかった」


 伊吹は震える手で、簡単な英文をつづった。


『返信ありがとう。アンネマリー。俺は伊吹。ロドルフの孫だ。祖父は貿易会社の仕事をしていたと聞いた。場所は神戸。あと、祖母の――ロドルフが日本で関係を持った女性の名前は、葛原むつみ。よかったら、たしかめてほしい。写真の画像を添付している。面影があるだろうか?』


 伊吹はスマホで、家のアルバムからそっと持ち出してきた、祖父と祖母が写った古ぼけた写真を撮影し、それを田上の普段から使っているパソコンメールに転送した。その画像を一旦パソコンに保存してから返信メールに添付し、送付する。


 これをやるだけで、一時間も過ぎていた。


「ああ、疲れた……。伊吹、お疲れ」


「おう。ありがとな、田上」


「ええよ。それより、これで見つかるとええなあ」


 田上のどこまでも親切な言葉に、涙が出そうだった。


 


 翌日、また田上の家に行った。


 アンネマリーからの返信が、もう届いていた。


『当たりだった。写真の画像をロドルフさんに見せたら、びっくりしていたわ。身ごもっているとは、知らなかったらしいわ。日本に戻ってくるつもりが、会社の人事の都合で戻れなくなって、そのまま自然消滅したと思ったみたい』


 怒りで、拳が震えた。


 祖父にとっては、いっときの恋で、自然消滅したと勝手に思っていたというのか。


 祖母は子をはらみ、苦労にまみれてずっと待っていたというのに。


『ロドルフさんは、とても反省しているわ。顔を合わせて謝りたいって。テレビ電話――スカイプ、できる? スカイプのIDはこれ。都合のよい日時を教えて』


「……田上。悪いけど、パソコン貸してくれへんか」


「ええけど……Wi-Fiがあったら、スマホでもスカイプできるはずやで」


「ばあちゃんは、もう目がようないから。大きい画面のが、ええと思って」


「わかった。日時が決まったら、持っていき」


 田上は気前よく、パソコンを貸す約束をしてくれた。


 


 土曜日の夜、スカイプをすることに決まった。


 伊吹は田上の家にノートパソコンを取りにいき、家に帰ってすぐWi-Fiを設定した。


 祖母の部屋に行くと、彼女は億劫そうに起き上がった。


「伊吹……。ほんまに、あのひとに会えるんか」


 事前に話していたのに、祖母は懐疑的だった。


「せや」


 伊吹はノートパソコンを小さな机に置き、祖母はベッドに座って伊吹が操作するのを見守る。


 約束の時刻になって、スカイプをかける。


 数秒のラグのあと、映像がつながった。


 年老いた老人と、精悍な青年、それと赤毛の女性が写っていた。


 老人がロドルフ、女性がアンネマリーとして――。


 残るひとりは誰なのだろう、と伊吹がいぶかしんだところで、青年が口を開いた。


『はじめまして。僕はダミアンといいます。ロドルフさんは、日本語をかなり忘れているというので、通訳として招かれました。日本語を専攻していて、日本に留学していたこともあります』


 ダミアンの日本語は、少し訛りがあるものの、流ちょうだった。


「そうですか。俺は、葛原伊吹。そして、このひとが、俺の祖母――むつみです」


 伊吹が祖母を振り向くと、祖母は目を潤ませていた。


『ムツミ。すまなかった』


 ロドルフが、日本語で謝ってきた。


『わたしは、君が……子供を持ったことを知らなかった。本当に、すまなかった』


「…………」


 うつむく祖母の肩に、伊吹は手を置く。


「怒ったれ、ばあちゃん」


 ハッとしたように、祖母は顔を上げて伊吹を見つめる。


「ずっと、怒っとったんやろ。ちゃんと、怒らな。こうして、じいちゃんがおるんやし」


 きちんと怒って、ぶつけないと――いつまでも、あの火は祖母の目の奥に留まったまま。消えることはないだろう。


「せやな……伊吹。……ロドルフ。あんたは、ひどいひとや。あたしは、ずっと待っとったのに。どうして、戻ってきてくれんかったんや」


 祖母が早口でまくしたてると、ロドルフは戸惑ったようだった。ダミアンが、素早くオランダ語に訳す。


『すまない』


「ほんまは悪いなんて、思っとらんのやろ」


 ロドルフがまた謝ると、祖母は泣いて、しゃくりあげた。


『君の怒りはどうしたら収まる? どうすればいい? ……と、ロドルフさんが聞いています』


 ダミアンに問われ、伊吹は祖母の横顔を見た。


「ばあちゃん、どうしたいんや」


「……怒りが収まることは、あらへん。どうしてもらっても、あたしの怒りは収まらへん!」


 祖母がわめくと、ダミアンがまた訳した。


『ロドルフさんは、こう言っています。よかったら、オランダに来ないかと。もちろん旅費も滞在費も出すと』


「え? でも、ロドルフさんにも家族おるんやろ」


 伊吹の質問に、ダミアンが首を横に振った。


『ロドルフさんの奥さんはずいぶん前に、天国に行きました。子供もいなくて、ひとり暮らしです。だから、喜んでおられますよ。子供だけでなく孫もいたなんて、と。息子さんや伊吹くんも一緒に、どうですかと』


「ばあちゃん、どうする?」


「行く。伊吹、一緒に行ってくれるか?」


「ええよ」


 そうして、ふたりはオランダ行きを決意した。


 


 田上にパソコンを返す際に、何があったかを全て説明した。


 彼は自分のことのように喜んでくれたが、「お土産、期待しとうよ」と付け加えるのを忘れなかった。


 


 そして夏休み。


 オランダに行くことを母には説明して了解を取ったが、父には言わなかった。そもそもあのあと、父は一度も帰ってこなかったのだ。


 伊吹は祖母と共に、オランダの首都――アムステルダム行きの飛行機に乗った。伊丹空港から発って、成田で乗り換える。


 祖母はずっと体調が思わしくなかったのに、オランダ行きが決まったあと、ぐんぐん元気を取り戻していっているようだった。


(ばあちゃんは、ずっとじいちゃんのことを愛しとったんやな)


 だから、あれほど激しく長い怒りになったのだ。


 成田を発ち、アムステルダムを目指す飛行機のなかで、伊吹はアイマスクをして眠る祖母の横顔を見る。


 飛行機のなかは、乗客が眠りやすいようにか、薄暗くなっている。


 伊吹もアイマスクをして、目を閉じる。


 アムステルダムは、どんな町なのだろう。初めての外国で、わくわくしているのは事実だ。


 しかし、なによりも――祖母と祖父が再会する光景を見られるのが、とても待ち遠しかった。


 祖母の時間は戻らない。長年の怒りが氷解するかは、わからない。


 だが、きっと何か新しいものが始まり、古いものが終わるのではないだろうか。そう、伊吹は期待していた。


 


(了)

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