第2話 「くろっちの耳は食パンの耳」


 誰かがぼくの耳を優しくさわっている。

 くすぐったいけど気持ちよくって、ぼくはとってもうれしくなるんだ。

 それが誰か、ぼくには分かるんだ。

 それはね、ぼくの大好きな、ちいちゃんだ。

 ぼくはちいちゃんのお兄ちゃんなんだ。

 ちいちゃんは、こないだのお誕生日で5歳になったんだ。

 だけどね、まだまだ小さいからぼくがそばにいないとだめなんだ。

 ご飯を食べる時も公園に散歩に行く時も、寝る時だって一緒だ。

 ちいちゃんが赤ちゃんだった時から、ぼくはずっと一緒にいるんだ。

 ちいちゃんは赤ちゃんの頃、よく泣いていた。

 今でも泣き虫だけど。これは内緒ね。

 ちいちゃんが泣くのを初めて見た時、ぼくはびっくりした。

 真っ赤な顔で大きな声で泣いたんだ。涙もいっぱい出てた。

 ぼくはびっくりしたけど、泣いてるちいちゃんのほっぺたを、ペロペロなめたんだ。

 そうしたら、ちいちゃんは泣きやんでぼくを見て、うれしそうに笑ったんだ。

 ママはぼくに言ったんだ。

 「今日からちいちゃんのお兄ちゃんになってあげてね」

 だからぼくはちいちゃんのお兄ちゃんなんだ。

 えへん。

 ちいちゃんはね、あたったかくってやわらかくって、いい匂いがする。

 その匂いはね、ぼくのことが大好きだって言ってる。

 ぼくにはわかる。


 ちいちゃんはぼくの耳をさわる時、いつも言うんだ。


「くろっちの耳はフカフカしてる。食パンみたい。

だからね、くろっちの耳は食パンの耳」

ニコニコして、楽しそうに言うんだ。

 どうしてぼくの耳が食パンの耳なのか、分からないけど。

 ぼくの耳は食べられないのにね。

 でもちいちゃんがそう言うなら、ぼくの耳は食パンの耳だ。

 耳が食パンって、おかしいかな。

 ぼくの耳は毛がフサフサしてて、さわるととってもやわらかくって気持ちがいいって、みんな言ってくれるよ。

 それに三角形で、ピンと立っていて、かっこいいんだ。

 えっ。耳に毛が生えてて三角形って、どういうことかって。

 だってぼくはくろっちだから。

 黒柴のくろっち。

 黒柴っていうのはね、黒い色の柴犬のことなんだ。

 茶色の柴犬もいるけど、黒い色の柴犬の方がママはかっこいいって言ってくれるんだ。

 そう言われるとぼくはうれしくて、シッポをパタパタ振るんだ。

名前はね、黒い色の柴犬からつけたのよ、ってちいちゃんのママが教えてくれた。

 ね。すてきな名前でしょ。

 僕はとっても気に入ってるんだ。


 こないだの日曜日に、ママがちいちゃんにおつかいを頼んだんだ。

 パン屋さんで明日の朝ごはんの食パンを買って来てねって。

 でも、ちいちゃんはイヤイヤして泣きそうになった。

 ひとりでおつかいに行ったことがないから、怖いんだ。ぼくには分かった。

 いつも、ママとぼくと一緒だからね。

 イヤイヤするちいちゃんを見て、ママはぼくにウィンクした。

 ぼくはママの気持ちが分かった。

 だから元気よく、ちいちゃんにワンっと言ったんだ。

 ぼくが一緒だよ、って。

 ママは

 「くろっちと一緒なら大丈夫よ。

ほら、くろっちが一緒に行こうって言ってるよ」

とちいちゃんに言った。

 ぼくをじっと見たちいちゃんは

 「くろっちと一緒なら、行く」

顔をゴシゴシこすりながら言った。

 きっと涙をふいたんだ。

 えらいぞ、ちいちゃん。

 ママはちいちゃんのお気に入りのパンダの財布にお金を入れると

 「落とさないようにね」

と言って、ちいちゃんのズボンのポケットに財布を入れた。

 ぼくには首輪の上から赤いバンダナを巻いてくれた。

 「くろっちは、赤が似合うわね」

ってママがほめてくれた。

 ぼくはうれしくって、ワンって言った。

 「いってきまぁす」

 ちいちゃんは元気よく手を振って、ぼくはシッポを振って出発した。

 パン屋さんはいつも散歩する公園の近くだ。ちいちゃんもぼくも、ママと一緒に行くからよく知ってるんだ。

 公園の中を通ると近道だ。

 ぼくのリードを持ちながら、ちいちゃんはどんどん歩く。

 ぼくもちいちゃんの横を歩きながら時々、ちいちゃんの顔を見上げる。

 泣いてないか、確認しないとね。

 それに車が来ないか、危ないものはないか、よく見て鼻をクンクンさせて気を付けないといけない。

 だって、ちいちゃんを守らなくっちゃ。ぼくはお兄ちゃんだからね。

 「食パン、食パン、おつかいだ」

 ちいちゃんは、歌を歌うように言いながら、楽しそうに歩いていた。

 そしたら、急に立ち止まった。

 ポケットに手を入れて、ゴソゴソしてる。

 どうしたのかな。

 ぼくが顔を見ると、ちいちゃんは泣きそうな顔になった。


「くろっち、どうしよう、パンダの財布、落としちゃった。お金もなくなっちゃった。食パン、買えないよ、、」

 ちいちゃんの目から涙がポロポロ落ちてきた。

 ぼくはびっくりした。

 ちいちゃんが泣いている。

 ちいちゃんを泣かせてはいけない。

 ちいちゃんが悲しいとぼくはとても悲しい。

 ぼくはどうすればいいんだろう。

 ぼくが何とかしなくっちゃ。

 ぼくがパンダの財布を見つけなければ。

 泣いているちいちゃんをリードで引っ張りながら、僕は必死で道路をクンクンにおいをかいだ。

 通ってきた道も公園の中も探した。

 ママに危ないから、だめって言われてるけど、公園の外にも出て探した。

 でもパンダの財布は、どこにも落ちてなかった。

 引っ張っているちいちゃんが、どんどん重くなっていった。

 どれくらい探したんだろう。

 歩き回るうちに知らない通りを歩いていることに気がついた。

 ここ、どこだろう。

 知らない場所で知らない匂いだ。

 すごく心配になって、ぼくもちいちゃんみたいに泣きたくなった。

 ちいちゃんは、とうとう座りこんでシクシク泣き出してしまった。

 ぼくは、どうしたらいいのか分からなかった。

 だけど、ちいちゃんのそばを離れちゃいけないってことは、分かってた。

 だから、ぼくはちいちゃんにピタッとくっついて、涙でぐしゃぐしゃのちいちゃんのほっぺたをペロペロなめた。

 ぼくがそばにいるよって。泣かないでって。

 その時、よく知っているにおいに気がついた。

 それはパン屋さんの匂いだ。甘くって優しい、いいにおいだ。

 パン屋さん、見つけたっ。

 ぼくは大きくワンっと言って、ちいちゃんに教えた。

 「どうしたの、くろっち」

 ちいちゃんは、えっ、えっとしゃくりあげながら言った。

 ぼくは力を出して、リードを引っ張った。

 座り込んでいるちいちゃんを立ち上がらせて、においのする方へ引っ張って行った。


 それは見たことのないパン屋さんだった。

 大きな窓ガラスがあって屋根とドアが赤い色だ。

 ぼくのバンダナと同じ赤い色だ。かっこいい。ぼくはうれしくなった。

 鼻をクンクンする。

 間違いない。ここからいいにおいがする。

 いつものパン屋さんとは違うけど、パン屋さんのにおいだ。

 ちいちゃんとぼくは、窓ガラスからお店の中をのぞきこんだ。

 大きなテーブルと棚に、パンがたくさん並んでいるのが見えた。

 「わぁ、パン屋さんだあ」

 ちいちゃんは目をまん丸にして言った。

 すると赤いドアから、白い服に白い長い帽子をかぶったおじいさんが出てきた。

 このおじいさんがパン屋さんだって、ぼくには分かった。

 ぼくとちいちゃんを見て、

 「いらっしゃい」

と言って、赤いドアを開けてくれた。

 ぼくとちいちゃんは、びっくりして動けなかった。

 「どうしたの。パンを買いに来たんじゃないの」

とパン屋のおじいさんはちいちゃんに優しく聞いた。

 ちいちゃんは下を向いて、じっと黙っていた。

 ぼくはハラハラしてちいちゃんの手をペロペロなめた。

 がんばれ、泣いちゃダメだよって、ちいちゃんを応援した。

 するとちいちゃんは下を向いたまま、

「ママにおつかい頼まれたのに、お財布、落としちゃったの。食パン買って来てねって言われたのに」

泣きそうになりながら小さい声で言った。

 じっと聞いていたパン屋のおじいさんは

 「心配しなくて大丈夫。

好きなパンを持っておかえり。

お金はママと来た時でいいからね」

 パン屋のおじいさんは、ちいちゃんをお店の中に入れた。

 そしてぼくに、

「君もお入り」と言った。

 ぼくはびっくりした。

 いつもママと行くパン屋さんは、お店の外で待っていないといけないんだ。犬はお店に入れないからね。

 でも、このパン屋さんはお店に入っていいんだ。

 ぼくはとってもうれしくなって、シッポを盛大に振った。

 だって初めてパン屋さんに入るんだよ。

 なんてすてきなんだろう。

 本当はぴょんぴょん跳ねたい気分だったけど、ちいちゃんが見ているから我慢した。お兄ちゃんはお行儀よくしなくっちゃ。

 お店の真ん中の大きなテーブルには、たくさんのパンが並べてあった。

 ちいちゃんの大好きな亀の形をしたメロンパン、丸くて大きなクリームパン、ママの大好きな三日月の形のクロワッサン、たまごのサンドイッチ、チョコレートがたっぷりつまったチョココロネ、穴のあいたドーナツ、長ーいフランスパン。かわいい形のマフィンやアップルパイ、チーズやトマトがのってるパン、つやつやの果物がのってるパンもあった。

 見たこともにおったこともないパンがいっぱいだった。

 どれも焼きたてのいいにおいがした。

 僕の鼻はクンクンするのに大忙しだ。

 「わぁ、美味しそう」

 ちいちゃんは鼻がパンにくっつきそうなくらいにテーブルに近づいて、目をキラキラさせて見ていた。

 すっかり泣きやんだちいちゃんを見て、ぼくはホッとした。

 食パンが並んでいる棚もあった。

ま四角、丸い四角。レーズンが入っている食パン、渦巻き模様の食パンもある。

 こんなにいろんな食パンがあるなんて、ぼくは知らなかった。

 何だかワクワクした。

 あっ。僕の大好きな食パンの耳だ。

食パンの棚の一番端っこに袋に入って、たくさん並んでいる食パンの耳を見つけた。

 夢みたいだ。

 食パンの耳を見ていると、急におなかがへってきた。

 朝ごはんはちゃんと食べてきたんだけど。

 ママとちいちゃんが食パンを食べる時、僕に食パンの耳をくれるんだ。

「パンの耳をおすそわけ」

 ママはそう言って、焼き立てのトーストの耳を僕にくれるんだ。

 いいにおいがして、おいしくて最高だよ。

 ママはトーストっていう食パンを焼いたのが好きなんだ。ちいちゃんは焼かずにそのまま食べるのが好き。

 焼いてカリッとした耳もやわらかい耳も、いいにおいがして、僕はどっちも美味しいと思う。

 食パンの白いところも好きだけど、やっぱり食パンの耳が僕の大好物だ。

 噛みごたえもあるだな。

 食パンの耳がぼくの大好物だから、ちいちゃんはぼくの耳を食パンの耳って言うのかな。    

 どっちの耳もやわらかいしね。

 でもちいちゃんとママが食べるものは、たくさん食べちゃだめって言われる。人間が食べるものは犬にはよくないんだ。

 なんでかな。

 そんなことを考えてると、朝ごはんに食べた食パンの耳を思い出して、僕はとってもうれしくなってワンっと言った。

 そして棚の前でシッポをパタパタ振った。

 パン屋のおじいさんは

 「おや。このワンちゃんは食パンが好きみたいだね」

とニコニコしなから言った。

 「くろっちは食パンの耳が好きなの」

ちいちゃんがと言うと

 パン屋のおじいさんはハッハッと、大きな声で笑った。

 「なんて利口なワンちゃんだ。食パンのことをよく知っている。

お嬢ちゃん、食パンはね、耳が一番、美味しいんだよ」

 そう言うとパン屋のおじいさんは 

 「これはワンちゃんに食べてもらおう」

と言って食パンの耳の入った袋をたくさん取ってくれた。

 すっかり泣きやんだちいちゃんに、パン屋のおじいさんは

 「おなかがへってるだろう。パンを食べていきなさい」

と言って、ちいちゃんにあったかいココアとメロンパンをテーブルに出してくれた。

 ぼくには水と食パンの耳だ。

 ぼくとちいちゃんが夢中になって食べているのを見て、パン屋のおじいさんはワッハハと笑って、

 「ゆっくり食べなさい」

と言った。

 食パンの耳は、フカフカしてやわらかくって、今まで食べた食パンの耳の中で一番、美味しかった。

 食べ終わったぼくとちいちゃんは、おなかがいっぱいになって、とっても眠くなった。


 「さあ、暗くなる前に帰りなさい」

パン屋のおじいさんの声で目が覚めた。

気がつかないうちに、ぼくもちいちゃんも、ウトウト寝てしまったみたいだ。

 おじいさんは、おつかいで頼まれた食パンとチョココルネにクリームパン、クロワッサンを袋にいっぱい入れてくれた。

 もちろん、僕の食パンの耳も入れてくれていたよ。

 パン屋のおじいさんは

 「ドアを出たら、まっすぐ歩くんだよ。そうすれは、おうちに帰れるからね。気をつけるんだよ」

と言った。

 ちいちゃんは、

 「さよなら、ありがとう」

って言った。

ぼくは、ワンっと言った。

 ちいちゃんは手を、僕はシッポを振った。

 僕たちがお店の外に出ると、赤いドアは静かに閉まった。

 少し歩いてから振り返ると、パンのにおいはしたけど、パン屋さんはもうどこにも見えなかった。

 ぼくとちいちゃんは立ち止まって、パン屋さんがあった方をじっと見た。

 でもパン屋さんは見えなかった。

 どうしてかな。

 しばらく歩いているうちに、いつもの公園の中にいることに気がついた。

 ぼくとちいちゃんは、ちょっとびっくりしたけど、ホッとしてふたりで笑った。

 そしてふたりでうちまで走った。


 うちが見えた。

 ママが立っているのが見えた。

ぼくたちは帰ってきたんだ。

 「ただいまあ」

ちいちゃんが大きな声で言うと

「おかえり」ってママが言った。

そして、ちいちゃんとぼくをギュってしてくれた。

 「おつかい、ありがとうね。がんばったね」

 ママが言ったとたんに、ちいちゃんのほっぺに涙がポロッと落ちたのが見えた。

 泣き虫ちいちゃんだけど、今日はいいよね。


 袋に入ったたくさんのパンを見て、ママはビックリした。

 「ママの大好きなクロワッサンもあるよ」

とちいちゃんはクロワッサンを袋から出した。

 いいにおいが部屋中に広がった。

 ママは一口食べると、

「とっても美味しい」

って目をまん丸にして言った。

 ちいちゃんは手をパチパチして喜んだ。

 やったね、ちいちゃん。

 ぼくもうれしくて、クルクル回った。


それから、ちいちゃんは財布を落としたことやパン屋さんを見つけたこと、パン屋のおじいさんのこと、美味しいパンを食べたことを一生懸命ママに話した。

 ママは目を大きくしたり、まぁ大変って言いながら、ちいちゃんの話を聞いていた。

 ちいちゃんがニコニコしながら

 「ママも今度、一緒に行こうね」

と言うと

 「そうね。ママもパン屋のおじいさんに会いたいわ。お礼を言わなくっちゃね。連れていってね」

 ママはうれしそうに笑いながら言った。

 ぼくはちいちゃんとママが笑っているのを見て、とってもうれしかった。

 だから二人の周りをシッポを振りながら、クルクル回った。

 ぼくはちいちゃんとママが笑っていると、とってもうれしいんだ。

 本当にうれしいんだ。


 その夜は、ちいちゃんも僕も、すぐに寝てしまった。

 時々、誰かが僕の耳を優しくさわっているのが、寝ていたけれど分かった。

 ちいちゃんかな。

 でもくろっちの耳は食パンの耳、って言ってないから、ちいちゃんじゃないな。

 誰かな。

 そうしたら、

 「くろっち、ありがとう」

って優しい声が聞こえた。

 「ちいちゃんを守ってくれて。ありがとう」

 あぁ、ママだ。

 もう、ママったら。

 ちいちゃんを守るのは当たり前さ。

だってぼくはちいちゃんのお兄ちゃんだからね。って言ったんだ。

 でも眠くてちゃんと言えたか、分からなかったけど。


 ちいちゃんが笑ってる。

 ママも笑ってる。

 ぼくも笑ってる。

 これは夢かな。

 夢でもうれしい。

だって大好きなちいちゃんとママが笑ってるから。


 あれから、あのパン屋さんに行きたくて、公園に散歩に行くと探すんだけど、どうしても見つからないんだ。

 ちいちゃんもぼくも、とっても不思議な気持ちになる。

 でも、いつかきっとパン屋さんに行けるとぼくは思うんだ。

 ちいちゃんと一緒にね。

 あっ、今度はママも一緒にね。



    終わり 






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ぼくはくろっち @koukou1

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る