忘れえぬ人々
国木田独歩/カクヨム近代文学館
多摩川の二子の
だしぬけに障子をあけて一人の男がのっそり入ッてきた。長火鉢に寄っかかッて
「一晩厄介になりたい」
主人は客の
「六番でお手が鳴るよ」
「どちらさまでございます」
主人は火鉢に寄っかかったままで問うた。客は肩を
「僕か、僕は東京」
「それでどちらへお越しでございますナ」
「八王子へ行くのだ」
と答えて客はそこに腰を掛け脚絆の
「
「いや僕は東京だが、今日東京から来たのじゃアない、今日は
「早くお湯を持ってこないか。ヘエずいぶん今日はお寒かったでしょう、八王子のほうはまだまだ寒うございます」
という
客が足を洗ッてしまッて、まだ
「七番へご案内申しな!」
と怒鳴ッた。それぎりで客へは何の
「六番さんのお
膝の猫がびっくりして飛び下りた。
「ばか! 貴様にいったのじゃないわ」
猫は
「お婆さん、吉蔵が眠そうにしているじゃないか、早く
主人の声のほうが眠そうである、厨房のほうで、
「吉蔵はここで本を
お婆さんの声らしかった。
「そうかな。吉蔵もうお寝よ、朝早く起きてお
「今すぐ入れてやりますよ」
勝手の方で
「自分が眠いのだよ」
五十を五つ六つ越えたらしい小さな老母が
店の障子が風に吹かれてがたがたすると思うとパラパラと雨を吹きつける音がかすかにした。
「もう店の戸を引き寄せておきな」と
「また降ってきやあがった」
と
春先とはいえ、寒い寒い
七番の座敷では十二時過ぎてもまだ
「この模様では
と一人が相手の顔を見ていった。これは六番の客である。
「なに、べつに用事はないのだから明日一日くらいここで暮らしてもいいんです」
二人とも顔を赤くして鼻の先を光らしている。そばの
七番の客の名刺には
大津とはすなわち日が暮れて着いた洋服の男である。
「もう寝ようかねエ。ずいぶん
美術論から文学論から宗教論まで二人はかなり勝手に
「まだいいさ。どうせ
画家の秋山はにこにこしながらいった。
「しかし
と大津は投げだしてあった時計を見て、
「おやもう十一時過ぎだ」
「どうせ徹夜でさあ」
秋山はいっこう平気である。盃を見つめて、
「しかし君が眠けりゃあ寝てもいい」
「眠くはちっともない、君が疲れているだろうと思ってさ。僕は今日
「なに僕だってなんともないさ、君が寝るならこれを借りていって読んでみようと思うだけです」
秋山は半紙十枚ばかりの原稿らしいものを取り上げた。その表紙には「忘れえぬ人々」と書いてある。
「それはほんとにだめですよ。つまり君のほうでいうと鉛筆で書いたスケッチと
といっても大津は秋山の手からその原稿を取ろうとはしなかった。秋山は一枚二枚開けてみてところどころ読んでみて、
「スケッチにはスケッチだけのおもしろ味があるからすこし拝見したいねエ」
「まアちょっと借してみたまえ」
と大津は秋山の手から原稿を取って、ところどころあけてみていたが、二人はしばらく無言であった。
「こんな晩は君の領分だねエ」
秋山の声は大津の耳に
「君がこれを読むよりか、僕がこの題で話したほうがよさそうだ。どうです、君は聴きますか。この原稿はほんの
夢から
「
と秋山が大津の眼を見ると、大津の眼はすこし涙にうるんでいて、異様な光を放っていた。
「僕はなるべく詳しく話すよ、おもしろくないと思ったら、遠慮なく注意してくれたまえ。その代わり僕も遠慮なく話すよ。なんだか僕のほうで聞いてもらいたいような心持ちになってきたから妙じゃあないか」
秋山は火鉢に炭をついで、鉄瓶の中へ冷めた
「忘れえぬ人はかならずしも忘れて
大津はちょっと秋山の前にその原稿を差しいだした。
「ね。それで僕はまずこの句の説明をしようと思う。そうすればおのずからこの文の題意が解るだろうから。しかし君にはたいがいわかっていると思うけれど」
「そんなことをいわないで、ずんずん
秋山は煙草を
「親とか子とかまたは
秋山はだまってうなずいた。
「僕が十九の歳の春の
「ただそのときは健康が思わしくないからあまり浮き浮きしないでもの思いに沈んでいたに違いない。絶えず甲板の上に
「その次は今から五年ばかり以前、正月
「僕は朝早く弟とともに
「僕らは一度噴火口の縁まで登って、しばらくは
「その時は日がもうよほど傾いて
「ところでもっとも僕らの感を
「いっそのこと山上の小屋に一泊して噴火の夜の光景を見ようかという説も二人の間に出たが、先が急がれるのでいよいよ山を下ることにきめて宮地を指して下りた。下りは登りよりかずっと
「村に出た時はもう日が暮れて夕闇ほのぐらいころであった。村の夕暮れのにぎわいは格別で、壮年
「一村離れて林や畑の間をしばらく行くと日はとっぷり暮れて二人の影がはっきりと地上に
「しばらくすると
「人影が見えたと思うと『宮地ゃよいところじゃ阿蘇山ふもと』という
「僕は
「その次は四国の
「僕はまったくの旅客でこの土地には縁もゆかりもない身だから、知る顔もなければ見覚えの
「するとすぐ僕の耳に入ったのは
「しかし僕はじっとこの琵琶僧を眺めて、その琵琶の音に耳を傾けた。この道幅の狭い
ここまで話してきて大津は静かにその原稿を下に置いてしばらく考えこんでいた。
「それから」
「もうよそう、あまり更けるから。まだいくらもある。北海道
「ようするに僕は絶えず人生の問題に苦しんでいながらまた自己将来の
「そこで僕は
僕はその時ほど心の平穏を感ずることはない、その時ほど自由を感ずることはない、その時ほど
「僕はどうにかしてこの題目で僕の思う存分に書いてみたいと思うている。僕は天下かならず同感の士あることと信ずる」
その後二年
大津はゆえあって東北のある地方に住まっていた。溝口の
「秋山」ではなかった。
(明治三十一年四月作)
忘れえぬ人々 国木田独歩/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official
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