かならずしも道玄坂といわず、また白金といわず、つまり東京市街の一端、あるいはこうしゆう街道となり、あるいはうめみちとなり、あるいはなかはらみちとなり、あるいは世田が谷街道となりて、郊外の林地でんに突入する処の、市街ともつかず宿駅ともつかず、一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈しおる場処を描写することが、すこぶる自分の詩興をび起こすも妙ではないか。なぜかような場処がわれらの感を惹くだろうか。自分は一言にして答えることができる。すなわちこのような町外れの光景は何となく人をして社会というものの縮図でも見るような思いをなさしむるからであろう。言葉を換えていえば、田舎の人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹するような物語が二つ三つそこらの軒先に隠れていそうに思われるからであろう。さらにその特点をいえば、大都会の生活の名残りと田舎の生活の余波とがここで落ちあって、緩やかにを巻いているようにも思われる。

 見たまえ、そこに片眼の犬がうずくまっている。この犬の名の通っているかぎりがすなわちこの町外れの領分である。

 見たまえ、そこに小さな料理屋がある。泣くのとも笑うのともわからぬ声を振り立てて女の影法師が障子に映っている。外は夕闇がこめて、煙の臭いとも土の臭いともわかちがたき香りがよどんでいる。大八車が二台三台と続いて通る、その空車のわだちの響きがやかましく起こりては絶え、絶えては起こりしている。

 見たまえ、の前に二頭の駄馬が立っているその黒い影の横のほうで二、三人の男が何事をかひそひそと話しあっているのを。てつていの真赤になったのがかなしきの上に置かれ、火花が夕闇を破って往来の中ほどまで飛んだ。話していた人々がどっと何事をか笑った。月が家並の後ろの高いかしの梢まで昇ると、向こう片側の家根が白んできた。

 から黒い油煙が立っている、その間を村の者町の者十数人駆けめぐっている。いろいろの野菜がかなたこなたに積んで並べてある。これが小さな野菜市、小さなである。

 日が暮れるとすぐ寝てしまううちがあるかと思うとの二時ごろまで店の障子に火影を映している家がある。理髪所とこやの裏が百姓家で、牛のうなる声が往来まで聞こえる、酒屋の隣家となりが納豆売りのろうの住家で、毎朝早く納豆納豆としわがれごえで呼んで都のほうへ向かって出かける。夏の短夜が間もなく明けると、もう荷車が通りはじめる。ごろごろがたがた絶え間がない。九時十時となると、蟬が往来から見える高い梢で鳴きだす、だんだん暑くなる。すなぼこりが馬のひづめ、車の轍にあおられて虚空に舞い上がる。はえの群れが往来を横ぎって家から家、馬から馬へ飛んであるく。

 それでも十二時のがかすかに聞こえて、どことなく都の空のかなたで汽笛の響きがする。





 この文までは国民友三百六十五号に掲載し以下は三百六十七号に載せ第五までは秋より冬、第六は特に夏の武蔵野の一端を描きしなり。ともに明治三十一年一月の作。

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武蔵野 国木田独歩/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official

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