枠の中
@funny1989
第1話
彼女とソファで寛いでいる。何をするでもなく寄り添いながらテレビを見ている。彼女の肩を抱く僕の左の薬指には指輪が光っている。
テレビはCMが終わり、番組が始まろうとしていた。
***
「この間入社してきた中途の女の子の話ってしたっけ?」
ソファに座り僕にもたれてテレビを見ながら優香が言った。テレビに映るニュースを見ながら僕は記憶を探る。
「ああ、あの、天然の」
優香が苦笑した。「部下にご配慮頂きありがとうございます」
「いや、そんなつもりじゃないけど」
と僕も笑った。1ヶ月も経っていないだろう。夕食を共にしている際に優香の部下になった中途入社の社員の女性が社内試験に落ちたという話を聞かされた。
それは僕もかつて新卒社員として入社して数ヶ月目に受けた試験で、社内や業界のルールに関する試験だった。
入社後の研修が身に付いているかを測る事が目的なので、難易度はそれ程高くはないが落ちてしまうと途端に人事評価に響くので、優香も含めて同期連中とはそれなりに勉強した覚えがある。
社会人経験の無い新卒でも落ちる方が珍しい試験なのだから、中途社員がそれを受けるのは尚更形式的な側面が強いはずで、実際優香も人事評価に響く事は念押しした上で結果についてはタカを括っていた。
ところがある日上司に呼び出されてみると、その中途社員が試験に落ちた事を知らされ、上司も苦笑いしながら、しっかりマネジメントするように優香に伝えたのだった。
僕は既に他社に転職して数年が過ぎているので、現在の優香の働きぶりを見る事はないものの、同期の中でもいち早くマネージャー職になる程優秀な優香からすれば、形式的な試験に落ちるというのは完全に想定外だったに違いない。落ち込んでいるような、納得のいかないような表情で僕にその話をしたのだった。
「で、その子がどうかしたの?」
「いや、それがその事がきっかけでこの間ご飯に行ったんだけど、歳も近くて仲良くなったのよ。で、その店が美味しかったって話なんだけど」
言いつつ優香はスマートフォンの写真フォルダを開いてスクロールしている。その時の食事の写真を見せてくれようとしているのだろう。
僕はテレビのニュースを見ながら優香がそれを探し当てるのを待った。ニュースは都内で起きた殺人事件についてアナウンサーが原稿を読み上げている。元恋人の女性が男性を刺したらしい。年に数回はこういったニュースを見ている気がする。
自分達は大丈夫だろうか。僕と優香の左手には婚約指輪が、優香が指定したブランドの物が輝いている。
渡し方と渡す場所まで指定されていたのが完璧主義の優香らしい。その話をすると友人達は少し引いていた。
「あった、これこれ」
「料理がメインじゃないじゃん」
僕はその画像に二人の人物、優香とその中途採用であろう女性社員が写っている写真が視界に入った瞬間に、料理ではなく二人のいわゆる自撮り写真である事を指摘している。
「まあ千恵ちゃんの紹介がてら」
優香が言う。
そこには中途採用された優香の部下が、千恵が、僕の元恋人がカメラに向かって笑顔を見せていた。
***
何故?
何故、千恵がここにいる? 思考が脳内を駆け巡り始める。
中途入社したからだ。僕が元々働いていた会社に。
僕の恋人が働く会社が中途採用の募集をして、それに受かった僕の元恋人の千恵が採用されて僕の恋人の優香の部下になった。それだけの事だ。
そんな偶然あり得るのか?
確かに大手企業だ、入社したいと思っている人は沢山いるだろう。入ってみるとそうでもないが、一般に、華やかなイメージもある業界だから若い人にとっては人気の職場かも知れない。だが何万人と働くあの会社の中で、ピンポイントで千恵が優香の部下になる事なんて事が偶然あり得るのだろうか。
というか優香はこの事に気づいているのだろうか。
二人で食事に行って、アルコールが入った時、恋愛はいつでも話題に困った時の特効薬だ。それ程興味がなくてもそれなりにスリリングで楽しめる。
そしたら気づくかも知れない。いや、そもそも千恵に今恋人はいるのか? 今恋人が居ればわざわざ元カレの話はしないだろう、ああ、いや待て、優香がするかも知れない。元同期でね、なんて、そしたら千恵は--。
「どうかした?」
食べたメニューや、次に二人で行くとしたらいつがいいか、そんな話をしていた優香は僕が黙っている事に違和感を覚えたのだろう。尋ねた。
優香の表情を見て僕は確信する。このリアクション、少なくとも優香は気づいていないに違いない。
そもそも問題はなんだ?何をそんなに焦る必要がある?
僕は少し冷静になる。
確かに凄い偶然ではあるが仮にバレたとしても何も困る事はないし、バレたとしても特にできる事はない。受け入れるしかないのだ。
そうだ、何かやましい事がある訳ではない。焦る理由が無いと僕は気を落ち着かせる。
「確かにいい店そう、千恵ちゃんとも仲良くなれた?」
「うん、歳も近いし、結構趣味も合うというか、仲良くはやれそう」
次は試験にさえ受かってくれたらと優香は笑う。
その無邪気な様子に、僕は動揺している自分が馬鹿馬鹿しくなる。優香は気付いていない、仮に気付いたとしても何も困る事はない。堂々としていればいいのだ。
「仲良くなれそうだったらよかった。採用してくれた上司に感謝だね」
一瞬の間。優香は大きな目をパチパチさせる。ああ、と頷く。
「言ってなかったっけ? 千恵ちゃん採用したの私だよ」
***
採用したのが優香?
僕はさっき僕に「どうかした?」と尋ねた優香の顔を思い出そうとする。思い出せない。いや、さっきは何も気づいていないと確信した。そういう顔だったはずだ。
優香はマネージャーだ。採用権を持っている。だから採用した、そう言っただけだ。
あなたの元カノだと気づいて採用したなんて言っていない。
本当にそうか? 疑念が僕の頭を過ぎる。
この状況はなんだ。中途入社した社員の話題を先に出したのは優香だし、写真を見せて来たのも優香の方だ。
あの写真は僕に見せる為に撮ったのか?
いやいやいや、考え過ぎだ。おかしくなっている。陰謀論者というのはこういう人間なのだろうか。柳が幽霊に見えているだけだ。
面接している時にどうやって千恵が僕の元恋人だと気付くというのだ。
もう今はテレビ画面の方を見ているせいで僕からは横顔しか見れない。
何を考えている?
そもそも気付ける訳が無い。僕は優香に千恵の話をした事なんてない。なんの前情報も無しで急に現れた女性が、なぜ僕の元恋人だと思うのか、気づけるのか。
「そういえば面接の時さ」
優香が口を開いた。
「リモート面接だったんだけど。千恵ちゃん背景切ってなかったから部屋丸見えだったんだよね、私いつも切ってるからああいう人もいるんだなあって思ったよ」
テレビから視線を外さずにする世間話。表情は相変わらず見えない。
リモート面接で部屋が丸見えだった? 意識は記憶を探り始めている。あの部屋に僕の私物は残っていないか? いや何も置いていないはずだ、記憶から千恵の部屋の風景を再現する。
千恵はいつもローテーブルに座椅子でリモートワークをしていた。その姿を思い出す。部屋が冷えるとうるさいのでルームウェアを誕生日にプレゼントした。それ程有名では無いが、僕が気に入っているブランドだ。
僕が今着ているルームウェアと同じブランドだ。
あれを千恵は今も着ているか。
「それいい服ですね」
「元カレにもらって捨てればいいんですけど、なんか勿体無いし。物に罪はないかなって」
そんな会話があったとしたら。
優香はさっきから僕にヒントを出しているのか。何もかも把握していて僕が答えに辿り着くように誘導しているのか。足元が崩れていくような感覚に陥る。自分の立っている場所が、まるで安定していなかったと気づいてしまったような。
いや、それこそ何の為に、だ。
優香が面接の時に千恵が僕の元カノだと気づいたとしよう。そこまではいい。だが、例え、だとしてもなぜ採用する? そんな事をして何になる?
「さっきのニュース」
「え?」
「さっき元恋人を刺したってニュースでやってたじゃん」
「ああ」
それはほんの数分前の事だったが、ずいぶん昔の事のように感じる。
「男の人が浮気してたんだって」
思わず、僕はしてないよ、と言いかけて止めた。とても言い訳がましく響く気がした。
「私なら刺したりしないな」
へえと言おうとして、殆ど声が出ない事に気づいた。
「浮気する前に全部バレるから馬鹿な事考えないでねって気付かせてあげるよ最初は」
それが目的なのか?
千恵が面接に現れた事は本当に偶然で、ただ途中で千恵が僕の元恋人だと気付いて、利用しただけなのか? 僕に対してメッセージを送る為に。
待てよと僕は思う。そもそも千恵と別れた時、別れそうになっている時優香はそれに気付いていたのだろうか。あの頃飲み会が開かれた、同期が設定した飲み会で部署異動してから久しぶりに優香と会って話した事が、付き合うきっかけになっていた気はする。
何時からだ、何処からだ。僕の薬指で婚約指輪が輝いている。優香が指定した指輪だ。優香の描いたシナリオ通りに贈った指輪だ。僕はそれに付き合ってあげているような気持ちでいた。自分の意志で、優香の描いたシナリオに参加しているのだと。
シナリオの枠の外に居るつもりで、その実枠の内側にいたのだろうか。
テレビを見ている彼女の横顔からは何も、読み取れなかった。
***
「面白いね、このドラマ」
「ね、はらはらしちまうよ」
テレビの中では男が狼狽えている。自分の選択が恋人によって操作されていたのでは無いかと想像を巡らせ、男が翻弄される様子を描いているのは、ありきたりな題材だが、それなりにスリリングで見応えがあった。
「これオチはどっちなんだろ。こんな偶然、ドラマって言ってもちょっと強引だし、やっぱり彼女の作戦なのかなあ」
隣で彼女が言う。確かにと僕は頷く。
「女は怖い」
「ま、これくらいしちゃうかもね」
彼女はそう答える。僕はその時の彼女の表情を見落としてしまう。
「そうなの?」
「うーん、だって本当に好きだったって事でしょ。誰にも渡したくないし何処にも行って欲しくないなら、まああり得なくはないかなあ」
そう言う彼女の表情は先程のドラマの中の男と同じように、僕からは横顔しか見えない。いつも通りの彼女だ。何もおかしな所はない。
ない、はずだ。
僕は首の辺りを手でさすった。首筋にヒヤリとした感触があり、それが指輪だと気づく。婚約指輪だ。
テレビの中の男と同じように僕の指には結婚指輪が輝いてる。
いや、これは二人で買いに行った指輪だ。ドラマの中の状況とは違う。しかも僕が店を選んだ。彼女の友人から教えてもらった店だ。
僕から聞かれたらその店を答えるように彼女が事前に言っておいたのだろうか?
馬鹿馬鹿しい妄想だと、僕はドラマの中の男のように、その思考を追い払おうとする。
ふと誰かが僕の人生を、覗いている気がした。
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